第3部 「邪馬台国」比定諸説論争史(3)論争史

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).4.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「邪馬台国比定諸説論争史(3)論争史/戦後編」を検証しておくことにする。「邪馬台国論争とは」その他を参照する。

 2007.8.20日再編集、2009.4.12日再編集 れんだいこ拝


【戦後昭和期】

【戦後ルネサンス期の活況】
 戦後になると、皇国史観が否定されたことによって、マルクス主義系歴史学が一斉に開花した。他にも考古資料や外国の文献を用いての日本古代史の研究に自在が生まれ脚光をあびることとなった。戦前までの邪馬台国研究がどちらかと言えば、邪馬台国はどこか、卑弥呼は誰かという問題を中心に研究されてきたのに対し、戦後は様々な方法論による邪馬台国論が発表された。民族学、考古学、博物学、社会学等の自由な研究方法の進展と相まって、歴史学も又自由を取り戻したと言える。

【片山正夫の畿内大和説「倭人伝中の方向里程等の考察」】
 1945(昭和25)年、片山正夫が、「倭人伝中の方向里程等の考察」(日本歴史第70号)を発表し、畿内大和説を採った。
 概要「わが国産業、ことに稲作について考えれば、山陰道がまず発達し、脊梁(せきりょう)山脈を越えて大和に及んだと思われる。大和は脊梁山脈の外、すなわち山外と解釈でき、また、筑後の山門は方向と里程とが不当であることなどから、邪馬台国は大和としたい」。

【津田左右吉が「日本上代史の研究」刊行】
 1947(昭和22)年、自ら「皇室崇敬者」と言う津田が、『日本上代史の研究』を刊行。本書において、「私案に過ぎない」と断わりつつも、皇室はツクシではなくヤマトに起こり、長い年月をかけて国内を服属させたのであり、そのために「皇室が武力を用ゐて地方的豪族に臨まれるようなことは無く、国内に於いて戦闘の行はれたよう形迹は無かつた」との説を開陳している。

【榎一雄の「放射説」の登場】
 こうした中にあって、邪馬台国論争史において、衝撃を与えたものとして、榎一雄の「放射説」が注目される。この説には先行して、豊田伊三美が「邪馬台国論を読みて」において、「私はこれを以って、すべて伊都から後のは郡使が伊都で聞いた方向里程国名を挙げたもので、伊都を起点とした里程であると解するのであります」とする説があったものの、同氏の畿内説の立場及び論証面において簡略であった為に注目されること少なかった。

 1947(昭和22).11月、榎一雄は、「魏志倭人伝の里程記事について」(「学芸」第33号)を発表し、九州説の立場から邪馬台国への行程を伊都国を要として放射線状に読むことを論証的に提言し、賛否両論に分かれたものの斬新な視点を提供するところとなった。榎氏の「伊都国起点放射説」とは、これまで魏志倭人伝に表われた方位方角と距離の読み方の連続式(この説を直進説又は続進説という)が疑われることなかったのに対し、伊都国までと伊都国以降の国々との記述の仕方に相違があることに着目し、伊都国を起点として以下奴国、不弥国へと進む放射説を云う。これを「放射線式読法」と云う。

 事実、伊都国以前は方角、距離、国名と順にしるされているのに対し、伊都国以降は方角、国名、距離と記載が為されており、距離と国名の順序が替わっていることに気づかされる。なお、伊都国以前の記事には「又」の接続詞が用いられているが、それ以後には見られないとして、奴国以後の国々は伊都国を起点として読み進められるべきだと主張した。

 榎説を採用することによって、これまで距離の点で不利であった九州説が活気づくこととなった。古田武彦氏は、「『邪馬台国』は無かった」で次のように評している。
 「確かに、方法論上の観点からすれば、榎説の意義は更に大きい。なぜなら、従来の邪馬台国研究者は、近畿説と九州説とを問わず、自説に都合のいいように、ほしいままに『原文改訂』を行ってきた。榎はこれを採らず、『南→東』、『陸行一月→一日』いずれの改定も行わずに、原文を理解しようとした。ここに榎説が研究史上に占むべき画期的な位置が存在した。このため、戦後の邪馬台国研究は、この榎の業績を無視しては語れないこととなったのである」。
(私論.私見)
 榎説は、これまで誰からも問題にされていなかった記述上の不自然さを採り上げ、放射説を打ち出したところに意義が認められる。

【「放射説」を廻る諸説の登場】
 榎説は、牧健二により補強された。つまり、魏志倭人伝では明確に「至」と「到」の使いわけが為されており、「到」は狗邪韓国と伊都国にのみ使用されている。このことは放射説の正しいことを証明していると主張した。

 高橋善太郎は、倭人伝中の「至」と「到」の意味を探求し、「末盧国起点放射説」を提出した。なお、中国の歴史書で直線行程の記述の場合には、又.次.乃などの接続詞の使用、もしくはその他の方法によって、直線行程を明示しており、これがない場合は直線行程ではないことを証左しているとした。高橋は、末盧国は郡使の直線コースの最後であり、陸上諸国へはすべて末盧国から出発したものであるとしている。この説は、張明澄氏中国人の見た邪馬台国論争等中国の学者に支持する者が多い。

 田中卓は、榎の伊都国中心の放射線説と高橋氏の末盧国中心の放射線説を折衷し、末盧国を含む伊都国という意味で、「伊都国末盧国起点放射説」を提唱した。

 ところで、こうして放射式の読み方は次第に撹拌されて行き、不弥国以前は旅程が里数で表わされているのに、不弥国以降は日数で記されているところから、「不弥国起点放射説」も現われることになった。邪馬台国や投馬国など日程で記されている記事は、帯方郡からの日程を示しているのではないかと考える「帯方郡起点放射説」も出てくるところとなった。

 堅田直は、その著書「邪馬台国はどこか」において、畿内説の立場からこれを主張し、坂田隆は、その著書卑弥呼と倭姫命において、九州説の立場からこれを主張するところとなった。


【江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」の登場】
 1948(昭和23)年、江上波夫氏(後の東京大学名誉教授)が、東京・お茶の水駅近くの喫茶店に江上と岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の学究仲間3氏が集った座談会で「騎馬民族征服王朝説」を披露し、この説が「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」という特集記事で発表され一世を風靡した。この奇説は「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服」を指摘すると云う炯眼な面もあるが、崇神天皇を神武、応神と並ぶ三大渡来系天皇に比しているところに問題がある。
 江上博士の「騎馬民族征服説」は歴史学上の「社会進化説」に対抗する学説であり、多くの研究者達から批判の矢面に立たされた。中でも痛烈に「騎馬民族征服説」を批判したのは小林行雄、佐原真(国立民族学博物館の館長)であった。佐原真・氏は「騎馬民族は来なかった」(NHKブックス、1993年)を出版している。

【白鳥庫吉の九州説/「卑弥呼問題の解決」】
 1948(昭和23)年、白鳥庫吉が「卑弥呼問題の解決」(オリエンタリカ1、2号)を著し、筑後国山門郡説を補強した。畿内大和説の内藤説、山田孝雄の「狗奴国考」、三宅米吉の「邪馬台国について」などを批判し、富岡謙蔵、高橋健自、梅原末治の考古学的所論に対しても、概要「後漢から三国時代のものと推察される考古学的遺跡に基づく考古学者の畿内大和説は、なお仮定の上に成立はている議論である」とした。里程につき、概要「帯方郡より女王国に至る万二千余里から帯方郡より不弥国に至る里数1万7百余里を減じた残りの1千3百余里は、おそらく魏略の編者なり帯方郡の役人なりが机上において作成したもの」とみなした。諸国の戸数の分析によって、「三を基礎として五、七という奇数をもってする推算法を採り、五万、七万という数字を作り出すことは、奇数を特に好む支那人としては極めてあり得べき事情」と考察している。

【津田左右吉の九州説/「邪馬台国の位置について」】
 1948(昭和23)年、津田左右吉が、「邪馬台国の位置について」(オリエンタリカ1号)を発表し、邪馬台国の行程記事に対し、帯方郡からの使節がその行程の遠さを甚だしく誇張して報告しようとして、造作が加えられた点があるとしている。さらに、邪馬台国が奴国や不弥国の南方にあったことは疑いないと思うので、地名から考えると筑後国の山門郡とするのが穏当であるとした。

【鈴木優の畿内大和説/「倭人伝の史料的研究」】
 1948(昭和23)年、鈴木優が、「倭人伝の史料的研究」(東亜論叢第6輯)を発表し、畿内大和説を採った。

【三品彰英の畿内大和説/「邪馬台の位置-その研究史的考察」】
 1948(昭和23)年、三品彰英の畿内大和説「邪馬台の位置-その研究史的考察」(学芸37)を発表し、畿内大和説を採った。
 概要「志田、榎説の魏志の読み方や解釈は不自然である。地図上の日本列島を南の方に整列せしめ、しかも不正確な形に歪めて90度回転させてみて、倭人伝を読んでいけば、邪馬台国は近畿地方の辺りに求められる云々」。

【樋口隆康、岡崎敬の畿内大和説/「邪馬台国問題-考古学上よりみたる上代日本の状勢」】
 1949(昭和24)年、樋口隆康、岡崎敬の畿内大和説「邪馬台国問題-考古学上よりみたる上代日本の状勢」(民族学研究第13巻第3号)を発表し、畿内大和説を採った。

【藤間生大の九州説/「埋もれた金印」】
 1950(昭和25)年、藤間生大氏は、「埋もれた金印」(岩波新書)により九州説を主張し、筑後国山門郡辺りに比定した。藤間は同書で、当時の東アジアの情勢とも関連させて、邪馬台国における王権構造、身分階級制度、社会生産力、共同体国家構造等の問題に触れ、 邪馬台国研究をより深く掘り下げた。藤間の説は、邪馬台国は王達による卑弥呼の共立で成立した国家であり、はっきりした国家間の隷属関係などはまだなかったというものであった。邪馬台国の比定については、「政治的社会の発育度からみて、当然北九州だろう」とした。この説に、上田正昭や井上光貞、北山茂雄、直木孝次郎らが加わり活発な論戦が行われた。

【和辻哲郎「新稿日本古代文化」】
 1951(昭和26)年、和辻哲郎は、「新稿日本古代文化」(岩波書店)を著わし、「銅鐸文化圏」、「銅剣・銅矛文化圏」による地勢図識別を打ち出し、大和朝廷は邪馬台国勢力が東遷して打ち立てたものとする「邪馬台国東遷説」を提唱した。

【続戦後ルネサンス期の活況】
 この時期、邪馬台国問題は多角的に研究の光があたったと言ってよい。 榎一雄、牧健二、橋本増吉、原島礼二、武田幸男といった研究者達による魏志倭人伝の研究も新たな解釈や方法論を生み出し、世界史特に東洋史の中に日本古代を置いて考える方向も、戦前と比べると著しく自由になった。日本民族は大陸の騎馬民族の末裔であるとか、天皇家は韓国王朝の流れを汲むとか、戦前の皇国史観から見ると銃殺ものと思えるような説も自由に発表され世に出た。

【京都府の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から32面の三角縁神獣鏡発見】
 1952(昭和27)年、京都府の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から32面の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が発見された。縁が三角形で、神像や神獣の図が彫られたこの銅鏡は、同一の鋳型(いがた)から作られたものが関東から九州まで広く分布していることで知られるが、中には魏の年号が彫られたものも存在する。
 京都大学系古学者/小林行雄は、魏志倭人伝が記す卑弥呼が魏から下賜された「銅鏡百枚」は、年号が彫られた三角縁神獣鏡を指しており、邪馬台国は権威ある魏の鏡を複製し、地方の首長たちに分与することで、彼らを従わせたのではないか、という説を立て、32面の銅鏡が出土(しゅつど)した京都府の椿井大塚山古墳は分与の一例であり、邪馬台国=大和国とした。

 小林の説は考古学から邪馬台国を読み解く画期的な試みだったが、反論も出た。まず三角縁神獣鏡がかつての魏(中国)からは一枚も出土しておらず、魏が下賜したという裏づけがとれないこと。また大和で銅鏡が出土しているのは3世紀末から4世紀にかけての古墳で、邪馬台国が隆盛を誇った3世紀からずれがあり、邪馬台国=大和国の証明にはならないというものだった。とはいえ、その後も遺跡物の発掘は続き、近年では考古学的発見を魏志倭人伝の記述と重ね合わせる研究も進んでいる。特に奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡からは卑弥呼の宮殿跡とも考えられる大型の建物跡群が発見され、また同遺跡中の箸墓(はしはか)古墳が、卑弥呼が没した年代に近いものであることが炭素年代測定により判明。これにより最近は邪馬台国=大和国がやや優勢ともいわている。

【和歌森太郎、畿内大和説/「私観邪馬台国」】
 1952(昭和27)年、和歌森太郎は、「私観邪馬台国」(社会経済史学18-3)で次のように述べている。
 「陳寿は倭国を南北へ長く伸びた形で理解していた。彼にとって日本列島は、南北に長い列島だったのである」。
 「東行とあるが、伊都国から不弥国(宇美)へは南になる。従って、『南』とあっても、中には『東』のものを指しているものがあるかも知れない。『水行十日陸行く1月』を要するような邪馬台国は九州に求め得ぬので、東方のヤマトが倭人在南方説に引きずられて、『南』とされた」。

【浜田敦「魏志倭人伝などに所見の国語語彙に関する二三の問題」】
 1952(昭和27)年、浜田敦は、「魏志倭人伝などに所見の国語語彙に関する二三の問題」(人文研究第3巻第8号)で、「ト」の甲乙類考察をしている。邪馬台国の所在地に就いては特には比定していない。次のように述べている。
 概要「特殊仮名遣いに関するものは、『ト』の音節であるが、もし畿内の『大和』とすれば、上代の文献に『夜麻登』、『夜摩苔』、『也麻等』などと記されているように乙類と認めるべきである。これに対して、もし、筑後国『山門』郡とすれば、甲類の『ト』に属すべきものである。魏志などの『台』は、『夜摩苔』などと同じく乙類所属の仮名たるべきものである」。

【小林行雄が畿内大和説/「邪馬台国の所在論について」】
 1952(昭和27)年、小林行雄が畿内大和説の立場から「邪馬台国の所在論について」(ヒストリア第4号)を発表した。文献だけでなく、出土物から考古学的に邪馬台国にアプローチしたのが、戦後に研究成果を発表した京都大学の小林行雄(こばやしゆきお)。魏志倭人伝が記す卑弥呼が魏から下賜された銅鏡百枚は年号が彫られた三角縁神獣鏡を指しており、邪馬台国は権威ある魏の鏡を複製し、地方の首長たちに分与することで彼らを従わせたのではないかとの仮説を立て、32面の銅鏡が出土(しゅつど)した京都府の椿井大塚山古墳は分与の一例であるとして邪馬台国=大和国とした。

 これに対し、三角縁神獣鏡がかつての魏(中国)からは一枚も出土しておらず、魏が下賜したという裏づけがとれないこと。また大和で銅鏡が出土しているのは3世紀末から4世紀にかけての古墳で、邪馬台国が隆盛を誇った3世紀からずれがあり、邪馬台国=大和国の証明にはならないとの反論が出された。

 1955(昭和30)年、「古墳の発生の歴史的意義」(史林第38巻第1号)を発表した。
 概要「3世紀前半の筑後国山門郡地方に、国産銅利器を用いて、鬼道を行うような文化の中心が存在したという事実は証明し難い。同はん鏡の研究を踏まえれば、邪馬台国当時に於ける山城南部に、後の大塚山古墳によって象徴されるような優勢な国があったことが判明する云々」。

【牧健二、九州説/「魏志の倭の女王国の政治地理」】
 1953(昭和28)年、牧健二が、「魏志の倭の女王国の政治地理」(史学雑誌第62編第9号)を発表した。魏志原文の読法を榎説によって考証し、邪馬台国は現在の福岡県糸島郡にあった伊都国の南方に当り、海路なら十日、陸路なら1ヶ月を要する地点にあったと考え、筑後国山門郡に比定した。なお、女王国の領域を明らかにするため、斯馬国以下21カ国の地を比定した。
 この年、山口静夫が「邪馬台国について」(西日本史学第15号)を発表し、牧説とほぼ同じ論拠で、福岡県山門郡に比定する以外にないとしている。  

【大塚山古墳から三角縁神獣鏡が30数枚出土の衝撃】
 1953(昭和28)年、国内で最も重要な古墳の一つである京都府山城町の椿井(つばい)大塚山古墳(前方後円墳)から「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡が30数枚出土し、発掘調査報告書(樋口隆康・当時京都大学考古学研究室講師、後に京都大名誉教授執筆)が同町から発刊された。後に、梅原末治教授(1983年死去)が手を入れ、梅原末治著「椿井大塚山古墳 附元稲荷古墳」(京都府 文化財調査報告第24冊)として発刊された。しかし、梅原教授と確執があった当時の小林行雄講師(のち教授、89年死去) が「私の管理する文部省研究費が調査に使われたのに、それで得られた測量図が無断で使用された」と府教委に抗議。 以来、一級資料にもかかわらず、引用はタブーとなった。1998(平成10)年、 「幻の報告書」として34年ぶりに発刊される。

【米倉二郎、畿内大和説/「魏志倭人伝に見ゆる斯馬国以下の比定」】
 1953(昭和28)年、米倉二郎「魏志倭人伝に見ゆる斯馬国以下の比定」(史学研究52)を発表し、畿内大和説を立論した。

【肥後和男、畿内大和説/「大和としての邪馬台国」】
 1954(昭和29)年、肥後和男氏が、「大和としての邪馬台国」、「崇神天皇と卑弥乎」(弘文堂アテネ新書)を著し、大正時代の笠井新也の見解を紹介して自らの邪馬台国畿内説を補強している。それによれば、笠井は卑弥呼をモモソヒメに、弟王を崇神天皇にあてた。その根拠は、1、崇神天皇の崩年干支が戊寅年で卑弥呼没年に近い。2、モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や「日也人作、夜也神作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」を能くしたという卑弥呼の姿によく似ている。3、モモソヒメは崇神天皇の叔母にあたるが、外国人(陳寿)から見れば甥と弟ほどの誤りは許されるであろうというものであった。

 この説に対しては懐疑的な意見も多いが、考古学者のなかには最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳であることから箸墓は卑弥呼の墓であっても不自然はないとの白石太一郎らの見解がある。ちなみに箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、魏志倭人伝の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」の記述に一致している。

 1954(昭和29)年、和田清が、「東洋史上より観たる古代日本」(ハーバード・燕京・同志社東方文化講座委員会)を著し、筑後国山門郡説をとっている。
 1954(昭和29)年、坂本太郎が、「魏志倭人伝雑考」(古代史談話会編「邪馬台国」、朝倉出版)。倭人伝の官名と我が国の古文献に見える九州地方の地名、人名を考証し、内藤の畿内説論法と同じ方法によって九州説を主張できるとした。ヤマトの名称と文字について、地名としてのヤマトは自生であるが、それに倭の字を当てたことは後世の知識人の行為であるとし、九州の倭人国の倭の字を採用した者であろうと交渉している。
 1955(昭和30)年、大森志郎が、「魏志倭人伝の研究」(宝文館)で畿内大和説を立論している。次のように述べている。
 「倭人伝の伝えている日本の姿は、出雲、筑紫が対立している日本ではなく、邪馬台国が大きく統制している一つの民族国家である。鉄器、古墳の考証を加えて、大和朝廷樹立以前の日本とは到底考えられない。また、倭人伝の文字を上代特殊仮名遣いと比較し、邪馬台国は『台』が乙類の『ト』、畿内やヤマトに当てられる『騰』、『登』、『苔』はいずれも乙類の『ト』、山門の『ト』は甲類の『ト』である」。
 1955(昭和30)年、田中卓が、「邪馬台国の所在と上代特殊仮名遣」(「国語・国文」24-5)。記紀の文字を考証して、邪馬台国の「台」(ト)の乙類音を直ちに記紀の仮名遣いに結びつけて解釈しようとする方法論に疑問を提示し、これを畿内説の論拠とする大森志郎説を批判して、九州説を唱えている。
 1955(昭和30)年、植村清二が、「邪馬台国・狗奴国・投馬国」(史学雑誌第64編第12号)。久留米市御井(みい)に比定した。
 1955(昭和30)年、宮井義雄が、畿内大和説の立場から「邪馬台国の位置」(桐朋学報5)を発表した。

【室賀信夫氏の「混一彊理歴代国都之図」例証による方位解釈】
 邪馬台国の方位の記述を廻っての古地図による考察も衝撃をもたらすこととなった。

 1956(昭和31)年、地理学者の室賀信夫が、著書「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像-地図学史的考察」(神道学会の神道学10)において、日本を記した古地図においては、日本の地形を北九州を北として日本列島が九州を北として、大和・東北地方を南とし、北から南へ列なる格好に転倒された形で記載されており、魏志倭人伝の方位もこれに従っているのではないかとの説が発表されることとなった。明の建文4年(1402)に朝鮮で作られた「混一彊理歴代国都之図」(以下、「混一図」と表記する。龍谷大学図書館所蔵)がその証左であり、 「中国の東南海上に南に転倒した形態をとって描かれた日本こそ、魏晋の時代の中国人の日本についての地理的観念を、そのまま可視的に表現したものである」と主張するところとなった。

 この地図の原拠となったのは「兎貢地域図」(魏.晋に仕えた地理学者裴秀の作)であり、裴秀は倭人伝の撰者・陳寿と同時代であるので、こうした地理観が当時の一般認識ではなかったか、つまり陳寿も又これに従っており、従って「南は東に読み換えるべきである」という説となった。この説は「倭人伝」の「正に会稽東冶の東にあるべし」の記述と適合することとなり、従来方位の点で難のあった大和説が勢いづけられることとなった。

 山尾幸久もこの説を補強し、陳寿が倭人伝を編纂する時参考にした地図は、裴秀の「兎貢地域図」、又はそれを縮小した「地形方丈記」ではないかと想定する説を唱えた。しかし、弘中芳男は、その著書「古地図と邪馬台国-地理像論を考える一」の中で、「混-彊理歴代国都之図」の成立ちを追及し、この地図が、15世紀の初頭に、朝鮮の権近が、西を上方にして描かれている日本の行基図を不用意に挿入してしまった爲に日本列島が転倒した形に描かれることになったという由来を解析する等反論されてもいる。


 1956(昭和31)年、和田清が、「東洋史上より観たる古代日本」(ハーバード・燕京・同志社東方文化講座委員会)を著し、筑後国山門郡説をとっている。

 1957(昭和32)年、湯浅泰雄が、「倭人伝論争の批判」(倫理学年報第6集)を著し、畿内大和説を展開した。

 1957(昭和32)年、大森重樹が、「心理学的に見た魏志倭人伝」(大阪学芸大学紀要第5号)を著し、畿内大和説を展開した。
 概要「戸数より推考して、九州説は成立しない。邪馬台国は、畿内文化地帯に当てるのがもっとも合理的である」。

 1957(昭和32)年、大森重樹が、「心理学的に見た魏志倭人伝」(大阪学芸大学紀要第5号)を著し、畿内大和説を展開した。
 概要「戸数より推考して、九州説は成立しない。邪馬台国は、畿内文化地帯に当てるのがもっとも合理的である」。

【上田正昭、「日本古代国家成立史の研究」】
 1959(昭和34)年、上田正昭が、「日本古代国家成立史の研究」(青木書店)を著し、 邪馬台国の王は既に3世紀中葉には北九州を含む統属国の上に立ち、基本的には共同体のアジア的形態を基礎とする初期専制君主の権力であるとした。

【原田大六、畿内大和説/「邪馬台国論争」】
 1961(昭和36)年、在野の考古学者にして福岡県糸島郡に住み地元の前原古墳を発掘し考古学に大きな足跡を残した原田大六が「邪馬台国論争」(三一書房)を著し、邪馬台国大和説を展開した。

【小林行雄、畿内大和説/「古墳時代の研究」】
 1961(昭和36)年、小林行雄が、「古墳時代の研究」(青木書店)を著し、邪馬台国大和説を展開した。古墳から発見された銅鏡を総合的に研究し、伝世鏡論や同ハン鏡(同じ鋳型から作られた同一文様鏡)論から説き起こし三角縁神獣鏡舶載品説を展開した。この説は多くの研究者に受け継がれる。

 次のように評されている。
 「京都大の小林行雄先生が、古墳から出土する銅鏡に摩耗しているものがあることから、弥生期から畿内には銅鏡があり、伝えられてきていた。各地の古墳から出土する三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)こそ卑弥呼(ひみこ)が魏帝(ぎてい)から贈られた銅鏡百枚である。その分布の中心は畿内にあると主張する」、とある。

【森浩一「日本の古代文化―古墳文化の成立と発展の諸問題」】
 1961(昭和36)年、森浩一が、「日本の古代文化―古墳文化の成立と発展の諸問題」(学生社)を刊行し、三角縁神獣鏡が中国で全く出土していない事実を基礎に国産鏡説を最初に唱えた。

【天理市の初期の東大寺山古墳から卑弥呼時代の「中平□年」銘文の鉄刀発見される】
 1961(昭和36)年、天理大学付属天理参考館が奈良県天理市の初期の前方後円墳である東大寺山古墳の発掘調査に乗り出し、粘土郭から鉄剣数本が出土した。その中の1本に金象嵌の銘文のある鉄刀が見つかった。銘文は「中平□年 五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 下*不祥」と解読された。中平は後漢の年号で西暦184~190年である。金象嵌がある鉄剣の出土は中国でもきわめて稀で、製作は特殊な場合(遠征将軍や遠地太守の任命など)に限られるという。金象嵌がある鉄剣が和珥氏の地元である奈良県天理市の東大寺山古墳から出土したことは畿内豪族の漢王朝との交流を物語る。なお、倭国の乱が光和年中とすると、卑弥呼が共立の直後に漢に遣使して中平紀年銘の秘宝剣を授けられた可能性が出てくる故に邪馬台国大和説の有力な証拠となる。

【直木孝次郎、畿内大和説/「国家の発生」】
 1962(昭和37)年、直木孝次郎が「国家の発生」(岩波書店)を著わし 畿内大和説を立論した。評価されるべきは、邪馬台国と大和政権との質的な違いを指摘し、両者を別系統の政権であるとしたことである。上田説、直木説は内藤説の系譜に列なり、いわゆる京都学派と呼ばれる。次のように述べている。
 「邪馬台国を畿内大和とするには、『南』を『東』に読みかえねばならないが、後魏書、勿吉伝において東南とすべきところを東北とした例がある。『水行十日陸行1月』の問題も、『水行十日と陸行1月』とすれば適当な日程であろう云々」。

【松本清張の九州説/「陸行水行」】
 1963年、推理小説の大御所にして大ベストセラー作家の松本清張氏が、在野の古代史家として「陸行水行」を発表する。

【井上光貞の九州説/「日本国家の起源」】
 1965(昭和40)年、井上光貞が「日本国家の起源」を著し、「神話から歴史へ」の項で九州説を主張した。次のように述べている。
 「邪馬台国はかなりの領域を治めてはいてもずば抜けた勢力を持つ専制国家ではない。卑弥呼は多くの小国の支持なしには王位にはつけなかった。それゆえ、邪馬台国の時代は、古代専制国家成立以前の英雄時代であった」。

【福岡県前原の平原遺跡から超特大鏡5面と後漢式鏡をふくむ40面(当時39面)の鏡が出土する】
 1965(昭和40)年、福岡県前原の平原遺跡が発掘され、直径46.5センチの超特大鏡5面と後漢式鏡をふくむ40面(当時39面)の鏡が出土した。邪馬台国の王墓問題に関わる一級の弥生王墓と考古学的資料が確認され衝撃を与えた。発掘当時、調査者の原田大六は平原遺跡を「平原弥生古墳」と命名し、その被葬者をオオヒルメ(天照大神)とし、2世紀前半ころ(A.D100~150)の時期を想定した。

 1966年、原田大六が「実在した神話」(学生社)を著し小林説を批判し、弥生時代から古墳時代への王墓の変遷のなかで、九州の平原遺跡で成立した鏡・刀剣・玉(三種の神器)の副葬をはじめ、王墓の内・外部構造や占地などが近畿地方の古墳に継承されていったとする仮説を打ち出し、「平原弥生古墳の被葬者の子孫たちが、近畿地方に移って古墳文化をさらに発展させていった」とする観点を披歴している。しかし、平原遺跡を廻る考古学界での評価は定まらず、「平原遺跡の特大鏡は、大形倣製鏡が増加する古墳時代前期後半の産物」(『古代の日本』3角川書店)とするのが通説となっている。前期前方後円墳の出現契機を「畿内型古墳の伝播」(前掲書)とする理解が通説化しており、それに対応する卑弥呼の鏡論も、京都・椿井大塚山古墳の被葬者が各地の古墳被葬者に配布したとする説(小林行雄「三角縁神獣鏡の分有論」)が考古学界を風靡している。しかし、異論も根強い。

 原田は、著書の「むすび」で、平原遺跡に葬られた人物について、「高祖山の西麓に鎮座する高祖神社が古くは高磯比咩(たかそひめ)社といい、怡土郡の惣社とされていたということは、わたしの、最後まで残してきた謎であった」と述べ、高祖神社の祭神の中座がヒコホホデミノミコト、左座に玉依姫が位置することに注目し次のように述べている(ヒコホホデミノミコトは玉依姫の子供で、神武天皇の別名)。
 「玉依姫は、平原弥生古墳に葬られた人物であり、生前・死後ともに天照大御神とあがめられた一大女王であった。怡土郡の惣社に玉依姫が祭られたのは、伊都国が大和政権を樹立する以前の、国都であったからである。大和朝廷が伊勢神宮に天照大御神を祭って皇祖神とあがめたのと同等の意義をになっていた。だが、神武東征によって、日本列島を征服した大和朝廷にとって、皇祖神は二つは必要でなかった。天に二日(にじつ)はないのである。伊都国の神は歴史とともに、いつしか大和朝廷の意識から遠ざかり、『古事記』や『日本書紀』が書きとめられるころには、もはや大和朝廷の本籍は、どこであるのか、その詳細はわからなくなってしまっていた」。

【松本清張の九州説/「古代史疑」】
 こうしたなかにあって、歴史学者だけでなく小説家による著書も出版され話題を提供するところとなった。古くは横光利一氏(1798-1947年)が、大正12年に「日輪」を発表、彼の出世作となった。

 1966(昭和41)年、推理作家として著名の松本清張氏が中央公論「古代史疑」、「邪馬台国を探る」の連載を開始した(1966.6月号―1967.3月号)。1968.3月、中央公論社から刊行された。著名な推理派小説家によるアプロ-チという点で評判を呼んだ。連載当時から、井上光貞や上田正昭ら著名な研究者が内容に反応を示すなど話題を呼ぶ著作の一つとなった。松本氏は以降、「邪馬台国の謎を探る」 (平凡社、1972年)、「遊古疑考」(1973年)、「邪馬台国 - 清張通史」(講談社、1976年)、「吉野ケ里と邪馬台国」(日本放送出版協会、1993年)と邪馬台国論に言及している。

 「倭人伝に出てくる距離や日数は、陰陽五行説から造作された虚妄の数字にすぎず、拘束されること自体に意味がない」、「北極星を頼りに渡航した中国の使者が邪馬台国の位置を誤るのは不自然」なる指摘が光る。


【手塚治虫が「火の鳥」(黎明編)で、ヒミコとヤマタイ国に言及している】
 1967年、著名な漫画家/手塚治虫が、「火の鳥」(黎明編)を初出させ、ヒミコとヤマタイ国二言及している。「火の鳥」は、その後書き継ぎ続けられ時空を超える膨大な長編となった。イザナギ、イザナミ、ヒミコ、ニニギが同時代に出現する荒唐無稽な話になっているが、江上波夫の騎馬民族説を踏襲して、大陸からやってきたニニギによって、旧王朝の女王ヒミコのヤマタイ国が滅ばされるストーリーとなっている。

【宮崎康平の九州説/「まぼろしの邪馬台国」が「海岸線の復元思考」を打ち出す】
 1967(昭和42)年、盲目の詩人宮崎康平による「まぼろしの邪馬台国」(講談社)も著われ、邪馬台国ブームを盛り上げることとなった。古代史、特に邪馬台国問題はそのロマン性と郷土身びいきとが重なって、多くのいわゆる古代史家や郷土史家達を生ん だ。長崎県島原半島に住む、島原鉄道の重役宮崎康平が出版した「まぼろしの邪馬台国」は、著者個人が盲目であるという話題性もあっ て大ベストセラーとなった。それ以後はまるで邪馬台国祭りとでも言うような出版ブームが続いた。

 宮崎康平による「海岸線の復元思考」は一石を投じた労作であった。地質学の研究成果を取り入れて、現在の海岸線と邪馬台国時代のそれを区別することの肝要さを説き、仮に弥生海岸と名付けられたそれは、現在の地図でいう等高線の五~十メ-トル辺りの範囲はかっては海域であり次第に陸化していったものであることを強調している。その著書「幻の邪馬台国」の該当部を抜粋すると次のように述べている。
 「現在の加布里付近から今津湾までは完全な海峡で、大きく云って、博多湾と唐津湾はつながっていたのである。この海峡のことを地質学では糸島水道とよぶのだそうだ。----九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門的な地質学の立場から作成された、弥生期の博多湾一帯の地図があるので、これによって記入された弥生線と現在の町の関係を比較してみると、当時の様子がよくわかる。おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えてもいいだろう云々」。

 残念ながら、こうした労作にも関わらず、学会としては旧態依然の比定論争が繰り広げられていることは惜しまれる。 

【水野祐の並存説/「九州邪馬台国と原大和国の併存論」の登場】
 1967(昭和42)年、水野祐が「日本古代の国家形成」を著し、概要「九州説を唱える学者は、邪馬台国は九州にあるという研究に熱中して、その頃の大和地方はどうであったか、又大和国家ないし大和朝廷といわれる大和の国家と、女王国や、狗奴国などの九州の国家との関係はどうであったかという研究をおろそかにしている」と指摘した上で、「銅剣同鉾文化圏と同鐸文化権の対立を、九州国家と大和国家との対立時代にあてはめてもいっこうに不都合はない。すなわち、九州において倭奴国→女王国→狗奴国というように政治勢力の更迭が行われているあいだに、本州島にはまたそれに相応する別な政治勢力の台頭があって、少なくとも二世期に到るまでに、大和国家の前身ともいうべき国家の成立が認められるのである」と主張した。「邪馬台国と原大和国の併存論」が登場したことになる。

 こうして、水野は、「邪馬台国と原大和国の併存論」の最初の提唱者となった。この説は、1981年、中国の王金林が継承することになる。王金林は、「邪馬台国は北部九州にあったが、これと同時に畿内にも同じような発達した国家前大和国が併存した」との説を発表した。つまり、邪馬台国が存在すると同時に、日本列島にはまたその発展の程度が似た一、二の地域国家が存在したと主張した。この併存説は、邪馬台国を九州に比定しているところに特徴がある。この論の妥当性はともかくも、「同時期二王朝併存論」を打ち出した点に値打ちが認められる。

【安本美典の九州説/邪馬台国研究】
 1967(昭和42).10月、産業能率大学の安本美典文学博士が「邪馬台国の道」を著し、1977(52).6月、「新考」、1998(平成10).6月、「最新」と改訂していく。

 安本は、「数理文献学」という独自の数理統計的手法を用いてアプローチする手法を開拓した。早くからコンピュータを日本古代史の分野に持ち込み、地名の残存度や天皇の在位期間の割り出し、古代日本の日食と天照大神の岩戸こもりとの関係などを解明しようと試み、卑弥呼の死の前後2回にわたり皆既日食があった事を推論し、これが天照大神の岩戸こもりの伝承となって残っているのではないかと述 べている。その論旨方法は多くの賛同者を得ている。その結果、奈良地方と福岡県甘木朝倉地方の地名の酷似に注目し、高天原を甘木朝倉地方一帯(邪馬台国甘木朝倉説)、卑弥呼を天照大神とする説を打ち出した。且つ、邪馬台国東遷説の立場に立つ。

【新妻利久の畿内大和説/「やまと邪馬台国」】
 1967(昭和42)年、新妻利久が、「やまと邪馬台国」(新月社)。不弥国(豊前)を出発し、投馬国(日向)へ航路南下し、豊後水道から方向を少し東南に取って、四国を回って紀伊に上陸し、大和に至る通路があり、倭人伝はこの航路を記している、と考証している。

【田辺昭三の畿内大和説/「謎の女王卑弥呼-邪馬台国とその時代」】
 1968(昭和43)年、田辺昭三が、畿内大和説の立場から「謎の女王卑弥呼-邪馬台国とその時代」(徳間書店)を刊行した。
 概要「1、2世紀のころ、畿内に成立した政治勢力は、3世紀に入って、日本の政治的中心地としてさらに成長していった。倭の国々の中心であった邪馬台国の所在も、この地をおいて他にはない」。

【古田武彦の九州説/「邪馬一国説」】
 1969(昭和44)年、高校教諭(元昭和薬科大学教授)であった古田武彦が「史学雑誌」に「邪馬一国説」を発表、研究者に衝撃を与えた。「一」の古字は「壹」、「台」の古字は「臺」であり、似ているが厳格に使い分けられているとした。それまで通説は、例えば、内藤湖南氏の「卑弥呼考」では、「邪馬壱は邪馬台の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり」と、「台」説をとるのが良いとされ、すんなりと受け入れられて来ていた。

 ところが、古田は、魏志倭人伝の原文が存在せず、 今日残っているのは全て後世の写本であることを踏まえ、どの写本が原文に忠実であるかを検証していった。その結果、南宋時代の紹熙本、紹興本、それ以降の汲古閣本、英殿本、北宋本等いろいろな版本があるが、現在残っている色々な写本のどれを見ても「邪馬壹国」と書かれており、且つ南宋時代の紹興年間に刊行された「紹興本」後に刊行された同じく南宋時代の「紹煕本」がより正確最良本であると見定めた上で、双方が共に「邪馬一国」と表記してあるとして、つまり魏志倭人伝の系譜に連なる諸本はすべて「壱」と記載されていることに着目した。

 これより、魏志倭人伝の原文の版本が「邪馬一国」としている以上これに従うべきであり、5世紀半ばの「後漢書」(著者はんよう)、7世紀の「梁書」、「北史」、「隋書」等の諸書が「邪馬台国」と表記しているのは誤りであると結論した。幾分ややこしいが、三国志の成立は3世紀後半であり、その底本が残って12世紀に「紹煕本」へと繋がっている。3世紀本の記述を5世紀、7世紀本で訂正するのは、概要「新しい時期の書物で古い時期の書物の記述を訂正したことになり、これを良しとするのは史学の常道に反する」と批判した。これを補強して、5世紀に「三国志」に注をつけた裴松之本が存在するが、裴松之は邪馬一国については何の注も加えていないのが、その証左であるとした。

 これを証明するとして次のように論証した。
 概要「三国志全体の中に『壹(一)』と『臺(台)』の字の使用例を抜き出したところ、『壹』の字は86箇所、『臺』の字は56箇所ある。『壹』と『臺』とは一見書体が似ているが、字義が違うので、『壹』の略字として『臺』が使用されることは有り得ない。実際に、『臺』が『壹』にされたり『壹』を『臺』と誤記されたものも一つもない。つまり、『壹』と『臺』は峻別されて使い分けられており、誤用も混用も無いことが分かる云々」。
 概要「倭人伝における「臺(台)」の意味は、元々「盛り土、高地」を意味していたがこれが転じて「天子の宮殿及び天子直属の中央政庁」を示している。いわば、「臺」は至高を意味する貴文字であり、従って、そうした至高文字が東夷の一国に冠されることはありえない。これに対して、「壱(一)」の意味は、「天子に対し、二心無く、相見(まみ)える」意の表現として使われている。その反対が「二(弐)」の意味で、「同盟からの離脱と他への二股的加入」意の表現として使われている。従って、悪徳的「二(弐)」の反対語としての徳目的「一(壱)」の意図的使用、つまり意図的に「邪馬一国」、「一与」として使用されていることをを窺うべきだとする。この観点から「魏王朝に対する、二心無き朝貢」としての往来と盛大な貢物の意味が理解し得るところとなる。

 つまり、概要「『台』と『壱』の旧字は一見似ているが厳密に使い分けられている。その意味するところが違う故に転写間違いというのは考えられにくい。従って、字形の似ていることによるうっかり転写間違いは有り得ない。従って、魏志倭人伝原文に邪馬『壹』国とあればその通りに読むべきで、邪馬『臺』国の書き誤りとして読むべきたということにはならない。邪馬壹国は字句通り邪馬壹国と読むべきだ」。

 古田はこうして、「邪馬台国」と了解する現行の三国志、魏志倭人伝の校訂は間違っており、「邪馬一国」とするのが正しいという見解を表わすこととなった。氏の説によれば、卑弥呼女王の都とする国は、「ヤマタイ國」ではなく「ヤマイ國」と読むことになる。この説はそれ以前にも阪本種夫、橋本郁夫により指摘されていたが、古田氏の様な考証を伴っておらず注目を受けることが少なかった。

 この古田見解を支持する成本氏は、「邪馬台国研究の歴史」の中で、次のように述べている。
 「古田氏がこの認識に達したとき邪馬台国論争の時代は終わり、邪馬一国の時代が始まった」。

【古田説を廻る論争】
 古田の「邪馬壱説」が学会に与えた波紋は大きく、従来「ヤマタイ」又は「ヤマト」の読み方に従って「大和、山門」等の音訳地名比定をしてきた基盤が崩れ去ることから、畿内説.九州説いずれを唱える者にも一大事となった。古田説には、和歌森太郎や佐伯有清、森秀人、小田洋、原田大六らが賛同見解を述べた。古田は、邪馬台国の位置そのものは博多湾周辺を比定している。邪馬台国か邪馬壱国かその古形を廻っての論争が始まり、反駁も多く未だに決着を見ない。

 古田説の方法は、中国の文字の用法を厳密に調べ上げてゆくという、今まで誰も試みなかったものであった為、多くの賛同者を得た。尾崎雄二郎氏の様に、古田説に組しないものの、「まことにあるかどうか、それを明らかにするのが研究者の仕事ではないのか」と、古田氏の主張の意義を評価する点については賛同も多い。むしろ、本来の「邪馬台-壱論争」の範囲を超えて、古田の果敢に応駁し一歩も退かない姿勢を貫く姿に属人的に古田を支持するものも多く、ある意味で在野の研究者対学界との対立図式ともなっている感がある。

 私説は、古田説を支持しないが、新井白石.本居宣長氏の研究以来邪馬台国論争は尽くされた感があるにも関わらず、榎の放射説同様云われてみれば明白初歩的なことに対し、これまで研究が為されていなかった不思議さを論点にしたことにつき、これを高く評価するものである。いわゆる在野史家が学界の盲点を衝き、より実証的な考証をしたことの功績が認められるべきであろう。

 但し、「邪馬壱国説」そのものについては、古田説にも拘わらず古田節の典拠する魏志倭人伝の最古写本(版本)の年代が12世紀のものであることを考えると、5世紀に成立した後漢書倭伝の「邪馬臺国」、7世紀に成立した梁書倭伝の「祁馬臺国」記述を否定することには難があるとみなすべきではなかろうか。「後漢書、梁書が成立した頃の魏志倭人伝は残っていないが、当時の魏志には邪馬台国と書いてあったのではないか。隋書には『邪麻堆、すなわち魏志に云う邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)』とあるので『タイ』と読むのが自然である」との反論が為されており、もっともな逆指摘と思う。

 問題は、議論されているのかどうか分からないが、れんだいこが目を通すところ、紹熙本、紹興本、汲古閣本、英殿本、北宋本等が「邪馬一国」と記すも、魏志倭人伝末尾の「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」に続く「因詣臺」の、「壹」と「臺」の明確な使い分けにこそ注目すべきだろう。これをどう解するべきかこそ議論せねばならないのではなかろうか。

 思うに、これをもって「邪馬一国説」を唱えるよりも、「臺」の持つ字義的な高貴さを理由として、朝貢して来る側の倭国の女王国の都に「臺」の字を宛がうのは不遜不当と気づき、漢朝尊大主義の立場から南宋時代の写本者が敢えて意図的故意に「邪馬台国」とあるのを「邪馬一国」へと書き直したとも考えられるのではなかろうか。

 結果的に古田の「邪馬一国説」を否定することになるが、邪馬台国論争史上、「一」と「台」の違いを注目せしめた意義は不朽であると思う。いつか議論されねばならなかった箇所であり、これを採り上げ本格的に精査した古田史学の意義は大きいと評したい。

 2009.11.26日 れんだいこ拝
Re::れんだいこのカンテラ時評628 れんだいこ 2009/11/26
 【邪馬台国論争史上の「一、台論争」考】

 れんだいこは、先の「箸墓(はしはか)古墳を廻る新たな邪馬台国論考」で拍車がかかったか、久しぶりに邪馬台国論に色気づいてきた。このテーマは、れんだいこが学生運動に関わり始める前の関心事であり、今は散逸したがそれなりにノートしていたなつかしい思い出が詰まっている。こたび、気になっていた「一、台論争」につき、れんだいこ論を発表し、世の関心者の批評を請いたいと思う。れんだいこ結論は末尾に記す。

 1969年、当時一介の高校教諭であった古田武彦氏が「史学雑誌」に「邪馬一国説」を発表、研究者に衝撃を与えた。古田氏の論証は次の通り。

1、魏志倭人伝の原文が存在せず、 今日残っているのは全て後世の写本である。南宋時代の紹熙本、紹興本、それ以降の汲古閣本、英殿本(北宋本)等いろいろな版本がある。こうなると、どの写本が原文に忠実であるかを検証せねばならない。その結果、南宋時代の紹興年間に刊行された「紹興本」の後に刊行された同じく南宋時代の「紹煕本」がより正確最良本であるように思われる。ところで、「紹煕本」は無論のこと、写本のどれを見ても「邪馬一国」と書かれている。

2、「一」の古字は「壹」、「台」の古字は「臺」であり、似ているが厳格に使い分けられている。意訳概要「三国志全体の中に『壹(一)』と『臺(台)』の字の使用例を抜き出したところ、『壹』の字は86箇所、『臺』の字は56箇所ある。『壹』と『臺』とは一見書体が似ているが、字義が違うので、『壹』の略字として『臺』が使用されることは有り得ない。実際に、『臺』が『壹』にされたり『壹』を『臺』と誤記されたものも一つもない。つまり、『壹』と『臺』は峻別されて使い分けられており、うっかり転写間違い、誤用、混用もない」。  

3・概要「倭人伝における「臺(台)」の意味は、元々『盛り土、高地』を意味していたがこれが転じて『天子の宮殿及び天子直属の中央政庁』を示している。いわば、『臺』は至高を意味する貴文字であり、従って、そうした至高文字が東夷の一国に冠されることはありえない。これに対して、『壱(一)』の意味は、『天子に対し、二心無く、相見(まみ)える』意の表現として使われている。その反対が『二(弐)』の意味で、『同盟からの離脱と他への二股的加入』意の表現として使われている。従って、悪徳的『二(弐)』の反対語としての徳目的『一(壱)』の意図的使用、つまり意図的に『邪馬一国』、『一与』として使用されていることを窺うべきである。この観点から『魏王朝に対する、二心無き朝貢』としての往来と盛大な貢物の意味が理解し得るところとなる」。

4・魏志倭人伝の写本に「邪馬一国」と書かれている以上とあれば字句通りに読むべきである。従来式の「邪馬台国」呼称は間違いで、文献に従う限り正しくは「邪馬一国」とすべきである。5世紀半ばの「後漢書」(著者はんよう)、7世紀の「梁書」、「北史」、「隋書」等の諸書が「台」と表記しているのは誤りである。三国志の成立は3世紀後半であり、その底本が残って12世紀に「紹煕本」へと繋がっている。3世紀本の記述を5世紀本、7世紀本で訂正するのは、概要「新しい時期の書物で古い時期の書物の記述を訂正したことになり、これを良しとするのは史学の常道に反する」。5世紀に「三国志」に注をつけた裴松之本が存在するが、裴松之は邪馬一国については何の注も加えていないのが、その証左である。

5、「邪馬一国」とするならば、「邪馬台」即ち「ヤマト」の音訳による大和を宛がう形での所在地比定には根拠がない云々。

 こうして、「邪馬台国」と了解する現行の魏志倭人伝の校訂は間違っており、「邪馬一国」とするのが正しいとする「邪馬一国説」が登場することになった。氏の説によれば、卑弥呼女王の都とする国は、「ヤマタイ國」ではなく「ヤマイ國」と読むことになる。この説はそれ以前にも阪本種夫、橋本郁夫により指摘されていたが、古田氏の様な考証を伴っておらず注目を受けることが少なかった。

 それまで通説は、例えば、内藤湖南氏の「卑弥呼考」では、「邪馬壱は邪馬台の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり」と、「台」説をとるのが良いとされ、すんなりと受け入れられて来ていた。従来「ヤマタイ」又は「ヤマト」の読み方に従って「大和、山門」等の音訳地名比定をしてきていた。この「常識通説」が、古田論証により覆され、大騒動になった。畿内説、九州説いずれを唱える者にも一大事となった。古田説には、和歌森太郎や佐伯有清、森秀人、小田洋、原田大六らが賛同見解を述べた。或る人曰く「古田氏がこの認識に達したとき邪馬台国論争の時代は終わり、邪馬一国の時代が始まった」。

 さて、その後どうなったか。邪馬台国か邪馬壱国かその古形を廻っての論争が始まり、反駁も多く未だに決着を見ない。

 古田説の方法は、中国の文字の用法を厳密に調べ上げてゆくという、今まで誰も試みなかったものであった為、多くの賛同者を得た。尾崎雄二郎氏の様に、古田説に組しないものの、「まことにあるかどうか、それを明らかにするのが研究者の仕事ではないのか」と、古田氏の主張の意義を評価する点については賛同も多い。むしろ、本来の「邪馬台-壱論争」の範囲を超えて、古田の果敢に応駁し一歩も退かない姿勢を貫く姿に属人的に古田を支持するものも多く、ある意味で在野の研究者対学界との対立図式ともなった感がある。

 以下、私説を申し上げる。れんだいこは、古田説を支持しないが、新井白石.本居宣長の研究以来邪馬台国論争は尽くされた感があるにも関わらず、榎の放射説同様云われてみれば明白初歩的なことに対し、これまで研究が為されていなかった盲点を論点にしたことにつき、これを高く評価するものである。且ついわゆる在野史家が学界以上に実証的な考証をしたことの功績が認められるべきであろう。

 但し、「邪馬壱国説」そのものについては疑問を投じたい。古田説にも拘わらず古田説の典拠する魏志倭人伝の最古写本(版本)の年代が12世紀のものであることを考えると、5世紀に成立した後漢書倭伝の「邪馬臺国」、7世紀に成立した梁書倭伝の「祁馬臺国」記述を否定することには難があるとみなすべきではなかろうか。原本が遺されていないので、こういう議論が生まれることになるが、察するに原本には「台」と書かれていたのではなかろうか。「隋書には『邪麻堆、すなわち魏志に云う邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)」とあるので『タイ』と読むのが自然である」との反論が為されており、もっともな逆指摘と思う。

 問題は次のことにある。既に議論されているのかどうか分からないが、れんだいこが目を通すところ、紹熙本、紹興本、汲古閣本、英殿本、北宋本等が「邪馬一国」と記すも、魏志倭人伝末尾の同じ一文にある「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」に続く「因詣臺」の「壹」と「臺」の明確な使い分けにこそ注目すべきだろう。これをどう解するべきかこそ議論せねばならないのではなかろうか。

 思うに、「邪馬一国」と記されているから字句通りに読むべきとするよりも、古田氏自ら解説する如く「臺」の持つ「至高の貴文字」性を理由として、朝貢して来る側の辺鄙な倭国の女王国の都に「臺」の字を宛がうのは不遜不当と気づき、漢朝尊大主義の立場から南宋時代の写本者が敢えて意図的故意に「邪馬台国」とあるのを「邪馬一国」へと書き直し、この作法が伝承されたとも考えられるのではなかろうか。

 このことは逆に、辺鄙な倭国の女王国の都に「臺」の字を宛がった魏志倭人伝原本筆者・陳寿の倭国観に興味が湧く。それは、ここでは問わない。

 れんだいこ説は結果的に古田氏の「邪馬一国説」を否定することになるが、邪馬台国論争史上、「一」と「台」の違いを注目せしめた古田史学の意義は不朽であると思っている。いつか議論されねばならなかった箇所であり、これを採り上げ本格的に精査した古田史学の意義は大きいと評したい。古田史学には、かく「通説の盲点」を衝く炯眼性がある思う。邪馬台国の位置を博多湾周辺に比定しているのは平凡としても、後に「日流外三郡誌(ツガルソトサソグンシ)」に着目するに至ったのもいわば必然であったように思われる。

 なぜ、古田史学に注目し始めたのか。それは、れんだいこの新邪馬台国論考の着眼に関係するからである。今や古代史学は大和王朝以前の、大和王朝勢力に潰された原日本王朝の解明に向かうべきであり、古田氏がその先駆的作業に手をつけていたと再評価するからである。この視点からの考証は未だ手つかずの状態にあり、邪馬台国論は出尽くしたのではなく、緒に就いたばかりという認識が欲しい為である。

 誰か、評してみよ。

 2009.11.26日 れんだいこ拝

【原田大六が「新方位論」を打ち出す】
 1969年、原田大六が「邪馬台国論争」(三一書房)を刊行した。方位論に新見解を打ち出し、次のように述べている。
 「太陽の出る場所は、わかりきったことだが夏至と冬至の間では約60度違う。もし冬の最中に帯方郡使がやってきて、太陽の出る方向を東としたら、実際の東は東北になる。南は東南になる。夏至近くにやってきたら、東は東南になり、南は南西になる。冬至と夏至では概略の方向は90度の相違にもなるのである。狗邪韓国から不弥国までの相違が、実際と約45度内外南よりに誤差が生じているのは、帯方郡使がやってききたのが夏であって、それに随行して記録をとったものが、方位を太陽の出る方向にしたので、そこに45度の差が出たのではないかということが考えられる」。

 邪馬台国研究手法における考古学者の文献軽視を次のように批判している。
 「考古学者は物を取扱うために、事件を書いている文献に対して、あまりにも軽率である。…(中略)…古代史は発掘だけですべてがわかるなどと考えていては大間違いである。文献も、上代語も、ありとあらゆる力をそこに結集しなければ、難題のなかの大難題である邪馬台国は、いつまでたっても明らかにならないのである。もちろん、文献も上代語も充分な検証を必要とするし、考古学的資料との噛み合わせがまた重要である」。

【その後の諸研究】
 鈴木武樹は、唐代の「翰苑」という本に書かれているように「邪馬嘉国」が正しいという「ヤマカ國説」を唱えた。更に、女王卑弥呼の読みにおいても「ヒミコ」、「ヒメコ」、「ヒメゴ」等々の諸説が為されることになった。
 冨久隆は、魏志邪馬台の位置に関する考察で、邪馬台国に至る水行は川を航行することだと主張した。
 山尾幸久は、「日本古代王権の成立過程」において、放射説によって伊都国から「水行十日陸行一月」で大和へ行き着けるという大和説を唱えた。
 立石巌は、「邪馬台国新考」において、九州から黒潮を用いた航路で邪馬台国「熊野畿内説」を唱えた。
 熊坂利雄は「北陸説」を唱えた。
  原田大六氏は在野の考古学者であったが、福岡県糸島郡に住み地元の前原古墳を発掘し考古学に大きな足跡を残した。「邪馬台国論争」を 著し、邪馬台国大和説を展開している。
 他にも、重松明久の「邪馬台国の研究」や、山尾幸久、古田正隆、川野京輔、山田一雄といった 面々が自説を発表したが特に目新しい解釈は生まれていない。
 1970(昭和45).4月、三品影英が、従来の邪馬台国研究を総括した大著「邪馬台国研究総覧」を出版。従来の学説を網羅している。 
 1970(昭和45)、大山峻峰が、「周旋五千里邪馬台国を探る」(三一書房)刊行。奈良県桜井地方に比定している。
 1971(昭和46).11月、古田武彦が「『邪馬台国』はなかった」(朝日新聞社)を刊行する。
 1971(昭和46).年、石母田正が「日本の古代国家」(岩波書店)を刊行し、卑弥呼は国内に対する原始的な巫女の顔と、中国の動向に対する国際情勢を読む開明的君主の二つの顔を持っていたとした。それ故、魏が帯方郡を押さえたことに対応する形で、邪馬台国の三十国に対する支配が確立したと述べた。  
 1971(昭和46).年、青木慶一が、「邪馬台国の美姫」(毎日新聞社)を刊行し、瀬戸内海を航行し、備前国玉野市玉、あるいは備中国倉敷市玉島からさらに東方へ航海して、沿岸の幾つかの泊地で夜泊し、やがて山城川(木津川)を遡って倭国を目指したと立論した。
 1972(昭和47)年、佐伯有清の「研究史邪馬台国」の刊行が邪馬台国研究を推進させる大きな力となった。その他、笠井新也は日本海航路による邪馬台国畿内説、志田不動麿は瀬戸内航路による畿内説を世に問うた。

【纏向遺跡の発掘調査が始まる】
 1971(昭和46)年頃、三輪山(みわやま)の麓(ふもと)から大和川にかけて、東西2km、南北1.5kmに広がっている奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘調査が行われ、以降、数十次の発掘が続いていくことになる。

 弥生時代後期から古墳時代初期の、まさに邪馬台国があった時代と合致する土器が多く出土している。畿内以外の各地の特徴を持つ土器が異常なほど多い。2009(平成21)年の調査で3世紀前半の大型の建物跡が発見された。3棟が東西に主軸をそろえて一直線に並んでおり、最も大きな建物の北辺より、南方に箸墓古墳を望むことができる。計画的な建物配置から巨大な祭殿跡と考えられ、さらにその寸法は魏で用いられていた「吉祥尺」に則っていた。そして箸墓古墳の存在。卑弥呼は西暦247~8年頃に没したと考えられるが、その時期を同じくして、従来の弥生墳丘墓(ふんきゅうぼ)とは全くスケールの異なる箸墓古墳が造られている。全長約280m、弥生墳丘墓は最大のもので全長約80m。箸墓古墳は前方後円墳の最古級のものである。なお箸墓古墳の被葬者は、宮内庁は倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと、第7代孝霊天皇皇女)としているが、卑弥呼の墓と考える研究者も少なくなく、倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼とする説も存在する。

【高木彬光 (あきみつ)が「帆船航路による神湊到着説」を打ち出す】
 1973年、高木彬光が「邪馬台国の秘密」(光文社カッパ・ノベルス)を著し、「帆船航路による神湊到着説」を打ち出した。この説も注目される。高木も又、自然地理学的な事実の認識の重要性を指摘し、魏の使節が訪れた時期の考察と使節が乗ったと思われる船とその航路の推測に情熱を傾け、次のように述べている。
 概要「対馬海峡、壱岐水道を経て北九州の海岸線の何処かに辿り着こうとする場合、現在の汽船であれば、望むなら直線コ-スをとることはできるが、当時の使節を載せた船は漕ぎ船又は帆船又はその併用型と想像され、この場合は順風に恵まれ、ごく近距離を航海する場合は別にして、普通は直線コ-スをとれない。特に決まった両地点の間を航海するというような時には、距離の伸びが当然のことになってくる。風向きの都合に左右される訳である。注意せねばならぬことは、今日においても朝鮮から北九州を経る水域は、航行が容易ではなく、経験的な知識を集積して、もっとも航海条件のいい順路を選ぶことが肝心となる程に風と海峡の流れの測定が大事な水域であるということである。赤道から日本に向かって北東に流れる海流は、九州本土にぶつかって黒潮と対馬海流に分かれる。古代の人々の航海感覚からすれば、かなりな激流を踏破する感じであったと推測される。現在でも風速が秒速15メートルの風となって来ると忽ち遭難の危険にさらされる。風速が秒速8メ-トルを越すと帆船の航行は危険にさらされる。史上元冦の二度の失敗が玄界灘の大暴風雨襲来に曝された歴史的事実を思い起こすとよい。魏の使節を載せた船は、適宜な季節の好き日をみはらかって「吹送流」(西または西南の風が吹くと風が海流の表面を後押しするような流れの現象となる)の助けを借りてやって来たに違いない。そうすると、使節の到着地点は自ずと定まる」。

 高木氏はかく述べて、末盧国を北九州北岸の「神湊」に比定することとなる。


【富岡謙蔵が「古鏡の研究」を刊行】
 1974(昭和49)年、富岡謙蔵が「古鏡の研究」(臨川書店時)を刊行し、三角縁神獣鏡を魏の鏡と考え、魏志倭人伝の中の「銅鏡百枚」に符合させた。

【村山義男、九州説/「邪馬台国と金印」】
 1974(昭和49)年、村山義男が、「邪馬台国と金印」(新人物往来社)を刊行し、筑後国山門郡は邪馬台国発祥の地であるが、3世紀中葉の卑弥呼の時代には久留米市御井町付近に遷(うつ)ったとし、首都を甘木市付近と比定した。

【大杉博・氏の「四国山上説」の登場】
 1977年頃より、大杉博・氏が「四国山上説」を打ち出した。1977年、「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」を自費出版した。1979年、「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。その後も自費出版で自説の発表を続け、1992年、「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)を発表して、その成果を世に問うた。

 大杉は邪馬台国を阿波国内にとどまらず、四国の中央山地全体に広がる国だったとする。ただし卑弥呼の都城や陵墓、出雲国(狗奴国)などの位置については、古代阿波研究会の結論と共通しており、その意味では阿波説の一変種とみることができる。 これについては、「四国説考」で更に検証する。

 れんだいこは大杉氏の「四国山上説」に注目している。次のように批評されている。
 「いったん原典を離れてしまえば、邪馬台国がどこかという謎を解くのに、得手勝手な推論の横行が避けられない。まず自分の好きなところに邪馬台国を比定しておき、都合のいいデータだけを取上げ、都合の悪いデータには目をつぶってしまう風潮が跋扈することとなる。こうして幻の邪馬台国は、いたるところに姿を現わすことになる。客観性を欠く主観的な態度、独断的な論法の跋扈する様は、邪馬台国論争に限っては学問的態度は不要であるやに見える程である。中には、比定を廻って特許論争まで起こしてしまう有様となった。又在野の史学者の指摘について黙殺されることも忍びない。或る説を唱えた者が権威があるや無しやの評価に関わらず、指摘された説に対する真摯な討論というものが許容されないものであろうか。特に、このところにわかに浮上して来た感のある大杉氏の「四国説」についても同様に思うのである」。

【村山健治、九州説/「誰も書かなかった邪馬台国」】
 1978(昭和53)年、村山健治が、「誰も書かなかった邪馬台国」(佼成出版社)を著し、筑後国山門郡付近の広い地域を邪馬台国に比定した。

【安本美典の九州説/「『邪馬壱国』はなかった」】
 1980(昭和55)年、安本美典が、古田武彦の「邪馬台国はなかった」に続いて「『邪馬壱国』はなかった」を刊行する。古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」を意識して批判を加え、ここに九州説同士の激しい論戦が始まった。

【中国の王金林が「九州邪馬台国と原大和国の併存論」打ち出す】
 1981(昭和56)年、王金林は、邪馬台国は北部九州にあったが、これと同時に畿内にも同じような発達した国家前大和国が併存したとの説を発表した。つまり、邪馬台国が存在すると同時に、日本列島にはまたその発展の程度が似た一、二の地域国家が存在したと主張した。この併存説はこれからの研究の主流になる可能性がある。

【鳥越憲三郎の畿内大和説/「邪馬台国は奈良県大和郡郡山市の矢田である」】
 1982(昭和57)年、鳥越憲三郎が、畿内大和説の立場から「邪馬台国は奈良県大和郡郡山市の矢田である」を発表する(「季刊邪馬台国13号」)。

【白崎昭一郎の畿内大和説/「邪馬台国は桜井市の付近である」】
 1982(昭和57)年、白崎昭一郎が、畿内大和説の立場から「邪馬台国は桜井市の付近である」を発表する(「季刊邪馬台国13号」)。

【松本清張「邪馬台国 清張通史(1)」】
 1986年、松本清張「邪馬台国 清張通史(1)」(講談社文庫)。

【久米雅雄が「二王朝並立論」を提唱】
 1986年、久米雅雄が「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」を著し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする「二王朝並立論」を提唱した。2004年、「親魏倭王印とその歴史的背景」(雄山閣)を刊行している。

【吉野ヶ里遺跡の発掘調査始まる】
 1986(昭和61)年、佐賀県神埼郡吉野ヶ里(よしのがり)町と神埼市にまたがる吉野ヶ里遺跡の発掘調査で、大規模な環濠(かんごう)集落(周囲に堀をめぐらせた集落)が確認された。外濠が約2.5kmにも及び古代史研究のエポックとされる。吉野ヶ里遺跡は、魏志倭人伝の記す卑弥呼の「都するところ」の描写と符合しており、同書の「居所、宮室、楼観、周囲を囲む厳重な城柵」があったとされる特徴を吉野ヶ里遺跡ですべてが確認でき、遺跡自体も3世紀の邪馬台国時代のものである。吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の中心地の有力候補の一つといえる。

【その後の邪馬台国研究】
 1992年、古田武彦「邪馬台国はなかった」(朝日文庫)。

 1992年、中国の考古学者である王仲殊が「三角縁神獣鏡」(新潮社)を著わし、三角縁神獣鏡を東渡した呉の工匠により日本で制作されたものであると発表し、衝撃を与えた。

 1995年、山形明郷氏の「邪馬台國論争終結宣言」(星雲社、1995.5月初版)。

 1996年、邦光史郎「海の邪馬台国」(祥伝社ノンポシェット)、黒岩重吾「古代史への旅」、「古代史浪漫紀行」(講談社文庫)。

 1996.11月、黒岩重吾(くろいわじゅうご)「鬼道の女王 卑弥呼」(文芸春秋)。

【「東日流外三郡誌実書偽書騒動事件」】
 1975年から1977年にかけて、和田喜八郎が「市浦村史資料編」として「日流外三郡誌(ツガルソトサソグンシ)」を紹介した。昭和薬科大学教授となっていた古田武彦氏が、「古代、津軽の地に大和政権に対抗する東北王朝があった」として和田氏公開の「東日流外三郡誌」の実書説を説き始めた。これに対して、古田氏の論敵である安本美典氏が偽書説を展開し、二人はその後も雑誌の討論、NHKTV討論等でバトルを続けた。その後、古田は東北王朝の存在証明に向うも、 稚拙な偽作問題に関わって歴史家としての信用を失墜してしまう。この間、古田氏の主宰していた「市民の古代研究会」は解散し、雑誌は終刊となる。

 安本氏が編集長をしている「季刊邪馬台国」52号(梓書院)の一大特集「虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』」の冒頭、谷川健一氏の一文は次のように述べている。
 「これだげ証拠をつきつけられると、これを偽書でないと反論することはまず不可能である』『文章も文法も目茶苦茶で、拙劣、醜悪の限りをつくしている。偽書とLては五流の偽書、つまり最低の偽書である」。

 1995.4月、安本美典氏が「虚妄の九州王朝 独断と歪曲の『古田武彦説』を撃つ 」(梓書院)を著し、「東日流外三郡誌」を偽書と断定し、実書説を展開する古田氏を手酷く難詰した。「はしがき」で次のように述べている。興味深い所論なので転載しておく(文意を変えない形で編集替えした)。
 「今日、ほとんど詐欺事件といってよい『東日流外三郡誌』にまつわる数々のインチキとペテンとが明らかにされている。(拙著『虚妄の東北王朝ー歴史を贋造する人たちー』[毎日新聞社刊]、安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』[廣済堂出版刊]、および『季刊邪馬台国』51、52、53、54、55号の特集記事参照。)

 偽の古文書、『東日流外三郡誌』を、本物だと信じこんで、その内容に感激し、『真実の東北王朝』なる本を書いた人がいた。昭和薬科大学教授の、古田武彦氏である。この程度の、三流、五流の偽書が、偽書とわからぬようでは、学者失格というほかはない。「偽書」をもとにして書いた本を、『真実の東北王朝』と名づける。「真実」が泣く。そして、これだけ証拠がつみかさねられた今でも、古田武彦氏は、『東日流外三郡誌』が本物であると主張してやまない。「偽」の歴史を、「真実」であると主張するなら、それは、歴史の贋造である。

 日本が、第二次世界大戦でまけたあと、ブラジルで、「日本は戦争に勝ったのだ」と主張してやまない日系の人々がいた。いわゆるブラジルの「勝ち組」とよばれた人々である。「勝ち組」の人々は、「日本は、戦争にまけたのだ」という人々に、執拗な攻撃を加えてやまなかった。今日、古田氏らの主張は、その妄想性において、ブラジルの「勝ち組」とほとんど変らないものとなっている。学問的には、もう決着がついているといってよい。しかし、「東日流外三郡誌事件」以後でも、古田氏が講演会をひらけば、ときに、百人、二百人の人が集まるという。

 これまで、古田氏を支持してきた人々のなかにも、「古田ばなれ」をした人たちもすくなくない。しかし、外部の情報を遮断し、ひたすら、古田氏の述べることのみを信ずる人々によってささえられている「古田武彦と古代史を研究する会」「『多元的古代』研究会」「古田史学の会」などは、活動をつづけている。『東日流外三郡誌』口偽書説に対する批判攻撃がおこなわれつづけている。古田教という宗教的ドグマにもとづく、狂信者の集団というほかはない。

 古田武彦氏のような誤った結論、結実をもたらしたのは、古田武彦氏の「学問の方法」という「もとの木」そのものが良くなかったからである。私たちは、『東日流外三郡誌』事件以前にも、たびたび、古田氏が、事実に関するあまりにも明白な誤りを、あまりにも強引にくりかえしおし通そうとすることが多いことを指摘してきた。古田武彦説の本質は、「事実」や、「真実」ではなく、コピーライター顔まけの「名文」による「センセーショナリズム」である。マス・コミは、「センセーショナリズム」に弱いという体質をもっている。センセーショナルであれば、本は、売れるからである。

 マス・コミが、信念的発言やセンセーショナリズムに弱いことは、戦時中の報道をみれば、よくわかる。マス・コミ報道に対しては、よほど用心しないと、とんでもないところにひっぱりこまれてしまう。「この道は、いつか来た道」という歌詞がある。自信ある態度、高圧的言辞、まくしたてる弁舌、くりかえされるシュプレヒコール。かつて、私たちは、このようなプロパガンダの方法にであったことはなかったか。むかし、こんな人がいた。その人はポーランドにみずから侵入しながら、ドイツ住民に対するポーランドの残虐行為を発表しつづけた。はじめから破る予定であったとしか思えない独ソ協定を結んだ。その行動は、たえず矛盾していても、語ることばは、迫真力をもっていた。小ヒットラーは、いつの時代でも、どの世界にもいる。警鐘は、ならしつづけられなければならない。「科学」というものは、その歴史上、古田武彦氏のような、ものすごいドグマと、戦いつづけてきたのである。

 私がこの本を書いたのは、つぎのような意図にもとづく。
  1. 古代史の研究にたずさわる以上、古代史についての科学的な研究とは、どのようなものであるかを、ねばり強く説く必要があると思われること。つまり、科学的な研究を顕現させ、普及させるよう努力することは、研究にたずさわるものの義務と思えること。

  2. 地道な雑誌などに発表された三木太郎、奥野正男、白崎昭一郎、その他諸氏の、すぐれた研究を、一般の読者にもわかりやすい形で、まとめて紹介する必要があるように思われること。

  3. 論争を通じて、古代史についての、多くの事実が、あきらかになるように思われること。科学というものは、多くの先人たちの、粒々たる、そして時には、結果的にむなしい努力の末に、しだいに顕現してきたものである。
 私のこの本は、あらぬ非難を、他へ投げかけるためにあらわしたものではない。誤った知識は、世にひろめられるべきではない。私は、この本を、心をつくして、古代史研究における「科学」の顕現をめざして書いた。意のあるところを、おくみとりいただければ幸いである 」。
(私論.私見)
 この「古田-安本バトル」について思う。「安本氏の言は良し。されど古田氏の感性は更に良し」。「古代東北王朝説」に至った古田氏の学問的帰結の方が、より学究的なのではなかろうか。和田氏の公開した「東日流外三郡誌」の直接本が偽書であろうがなかろうが「古代東北王朝説」そのものの価値は高い。安本氏が為すべきは、「古代東北王朝説そのものの否定」であろう。だがしかし、「古代東北王朝説」を否定し得るだろうか。れんだいこはむしろ逆に「古代東北王朝説」をもっと精査して行くべきだと思う。ということは、「古田氏の炯眼」をこそ思う。

 1999.9.14日、和田は、肝心の「東日流外三郡誌」の「原本」の発表を拒んだまま死去。死後、和田家はくまなく調査されたが原本は発見できなかった。古田は、和田の死去に際して「古田史学会報」(1999.10.11日、No34)において「和田喜八郎氏に捧ぐ」を掲載している。次のように述べている(文意を変えない形で編集替えした)。
 「和田喜八郎氏に捧ぐ 古田武彦  --一九九九、九月二十八日、午前四時、永眠---

 和田喜八郎氏の訃報に接した。言葉もない。その日がいつか来ることを、お互いに知っていた。否、お互いに、いつも言い合っていた。『お互い、そんなに永くはないからな」。朝の挨拶、夕の挨拶のように、何かあると書いた。電話で話していた。しかし、今は言葉もない。貴方と(もう、こう呼ばせてほしい)はじめて会ったのは、石塔山だった。貴方はいつものくせで、あぐらを組み、斜めにわたしを見上げるようにしながら、言った。『絶対に---裏切るなよ』と。

 あれから十余年、今日まで、わたしは一回も貴方を裏切らなかった。お互いにきびしい言葉は投げたが、背を向けなかった。世間の一人々々が、たとえみんな、貴方を疑ったとしても、わたしは貴方を信じた。信じ通した。貴方が知って、の通りだ。

 無論、貴方には欠点も多かった。貴方御自身、御承知の通り。酒は浴びるわ、突然消えるわ、大言壮語で煙(けむ)に巻くわ、早くから『うその八ちゃん』の異名をもらっていたことを、永年の、貴方の知友から聞いた。

 わたしには、分る。分りすぎるほど分る。その異名のいわれが。いつもながらの、貴方の、あのやり方、あの放言だから、そう言われても、何の不思議もない。わたしはそう思った。疑えない。けれども、ちがった。貴方はわたしに対して、ちがった。それも、ギリギリの一つ。和田家文書そのものに関して、一切『うそ』を突いたことがない。決してあの『うその八ちゃん』ではなかった。お互いに、見、お互いに聞き、お互いに言 ってきた、この十余年の経験から、わたしにはそれが断言できることを誇りに思う。

 お互いに、欠点の多い身だ。他人(ひと)様にも迷惑はかけ通しだった。生きている限り、これからも、そうだろう。だからこそ、貴方とわたし、二人の中の一本の線、人間の真実のつながりを、わたしはみずからの人生を終えたあとも、『限りなき宝』と言い切ることができるだろう。深い幸せだ。

 二

 貴方は中傷に囲まれていた。誹謗は日常茶飯事だった。貴方の身のまわりから、あることないこと書き集め、『証拠資料』のように各所に送りつける輩(やから)もいた。わたしにも送られてきた。それはとても、口にすることもおぞましいほどの中傷だった。わたしもさすがに、その内容を貴方に告げることができなかった。

 やがて、貴方から、その『証拠書類』のことを聞かれ、それを見せた。貴方は怒り狂った。関係者を召集した。もちろん、それは虚言だった。泣いて、あやまられた、と貴方は言った。もちろん、わたしははじめから、そんなこと信じなかった。貴方と貴方の御家族を見ていれば、それが分った。

 けれども、ある人々には、それで十分だった。その『証拠資料』を各所に発送して、貴方の身の囲りの人々や古代史の会の人々を『分裂』にもちこめれば、それで足りた。『証拠資料』の真否など、はじめから問題ではなかった。そういう人々だった。そのような中傷や誹謗につつまれてすごした、貴方と貴方の家族、そのことを思うと、わたしの心はふるえた。いつもふるえつづけていた。その心がわたしの内奥から、わたしの情熱をかきたててくれた。屈せぬ心を育ててくれた。貴方とわたしの絆(きずな)を深く、深く、さらに深くへと深めてくれた。わたしたちは、あの中傷者たち、誹謗者たちに対して、その点では感謝すべきかもしれぬ。

 三

 しかし、許せないもの。それは、貴方のお子さんやお孫さんたちへの中傷の連鎖、誹謗の包囲網だった。それによって、どれだけ鋭く、どれだけ深く、若い魂が、女性の心が傷つけられたか。働きざかりの男がどれだけ、天を仰いで嘆かねばならなかったか。それを思うと、暗然とする。天地が真っ暗となってしまう。『なぜ』。『なぜ、そんなことができるのか』。人間という動物の中の、どす黒い獣性とみにくさに、暗然とする。

 しかし、負けてはいけない。決してくじけてはならない。そう思って、わたしは書きつづけた。裁判のための文書も、一字一字を紙の底深く、彫りつけた。それはわたし自身にとっても、わたしが人間であることの証(あか)しとなった。

 四

 貴方の深く愛する母上様が亡くなられてから、貴方の環境は、大きく変った。今までは、善きにつけ、悪しきにつけ、明快だった。ことに処して、迷いがなかった。決断しつづけてきた。それが貴方の築き上げた、カリスマだった。

 それが変った。晦渋となった。わたしのストレートな問いに、なかなかストレートに答えなくなった。否、それは、おそらく貴方ひとりのせいではないであろう。和田家一族の長としての苦悩。わたしには、そう思えた。いたましかった。

 だからこそ、この一年。それについてはいまだ語るときではないかもしれないが、或るときは、明快。或るときは晦渋。或る人にはAの答、或る人には、Bの答。人を迷わせはじめた。今までの貴方に、ない姿だった。見る人が見れば、『やはり、うその八ちゃん』と見えたことであろう。昔からの姿の復活、と観じた人もあろう。しかし、わたしはちがった。その貴方の声の中に『深い悲しみ』と『深い迷い』を感じた。『これでは、酒量がふえているだろうな』。そう思った。その危惧は、不幸にも当たっていた。『八ちゃん』なら、こんな悩みはなかった。

 五

 もう、止めよう。貴方にまた『出て行け』などと怒鳴られるからな。もっとも、今、この世から出て行くとしたら、また貴方とバッタリ会う。それも、いいか。

 もっとも、いそぐことはない。どうせ、二人は会うのだ。会って、深い、深い握手をするのだ。それまで、貴方の『頼み』を片づけなくちゃ、な。もちろん、あれだ。末吉さん、長作さんの苦心の結晶、あの写本群とじっくり取り組もう。何しろ『毎日日曜』の有難い身だからな。後世の研究者のために、少しでも確実な、少しでも役に立つ、道をつけておくのだ。

 『寛政原本』だって。もう、いい。『照顧脚下』、今、わたしにできることを、専心やること、それに尽きている。貴方の御遺族方もみんな『人間の心』を心の奥深くもっておられる、すばらしい方々だ。やがて人類の最高の遺産の一つとして、それは輝く姿を現すことだろう。わたしの人生が、それに間に合うかな。わたしの守護霊よ、喜八郎さん。四六時中、見守っていてくれ。頼む。一九九九、九月三〇日、記」。

 2006年、古田は新たな証拠として東日流三郡誌の「寛政原本」を発見したとして公表した。しかし公開されたその文書は、以前発表された「和田喜八郎の祖父である末吉による写本」と筆跡が一致していたとされる。

 2007年、これまで存在すら知られていなかった「東日流内三郡誌(つがるうちさんぐんし)」の原本が発見された。「内三郡誌」は、「外三郡誌」に比べてさらに重要な内容が記されており、より大きなインパクトを秘めている。「寛政原本」、「内三郡誌」の鑑定は今後の課題となっている。

【広畠輝治氏の吉備説登場】
 2002年、在野の歴史研究家・広畠輝治が「邪馬台国 岡山・吉備説から見る古代日本の成立」(神無書房、2002.4.15日初版)を刊行した。続いて2009年、「邪馬台国・吉備説 神話編」(神無書房、2009.1月初版)を刊行した。「邪馬台国吉備説」の立場から精力的な邪馬台国研究に着手している。

【奈良・纒向遺跡から卑弥呼の居館に模せられる3世紀前半の建物跡が出土】
 2009.11.10日、桜井市教委が、邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、魏志倭人伝に記されている「卑弥呼の宮室(宮殿)は楼観や城柵(じょうさく)を厳かに設け」を髣髴とさせる大型建物跡など2棟が見つかり、建物年代が卑弥呼が活躍した2世紀末~3世紀前半とほぼ一致していると発表した。卑弥呼の居館の可能性があり、邪馬台国畿内説をさらに有力にする一級資料になった。大型建物跡は、東西2間(1間3・1m)、南北4間(1間4・8m)。西側は6世紀後半の水路で壊されているが西側にさらに2間分延びていたと推測される。建物の規模は東西12・4m、南北19・2mで床面積は238㎡となり、邪馬台国九州説の有力候補地・吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)の大型建物跡(156㎡)を大幅に上回る。柱穴に残された痕跡から、柱は直径約30cmで、柱の間には床を支えるため直径15cm程度の束柱(つかばしら)を立てるなど堅固な構造になっている。大型建物跡を復元した黒田龍二・神戸大准教授(日本建築史)によると、高床式の入り母屋造りで高さ約10mと推定。直径50cm以上の太い柱を用いた弥生時代の大型建物と異なり、比較的細い柱でも造ることができる最先端の技術があったことが窺えるという。大型建物跡の西側では、棟持(むなもち)柱をもつ建物跡(東西5・3m、南北8m)も確認。さらに西側で2棟の建物跡が見つかっており、計4棟が方位を合わせて東西に並んでいたことが判明した。このうち大型建物跡など3棟は、柵で囲まれていたという。これらの建物群跡の外側は東西約150m、南北約100mにわたり、周囲より1mル以上高台になっていることから、高台の範囲を宮殿の外郭、柵で囲まれた部分を内郭と推定。今回の調査区域は内郭の西半分にあたるという。市教委の橋本輝彦主査は「建物の中心軸をそろえた極めて計画的な構造。方形で区画した飛鳥時代(7世紀)以降の宮殿構造につながる可能性もあり、国内最古の都市の中枢部が分かる重要な成果だ」と話した。石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)の話「建物の大きさだけでなく、建物群の中心軸が東西一直線に並んでいる点がすごい。これほど計画性のある建物群の遺構が見つかったのは古墳時代を通じて初めてだ。外郭もあり、復元されたら壮観だろう。祭祀(さいし)空間なのか政治空間なのかは現段階では分からないが、卑弥呼の館の可能性はある」。

【れんだいこの邪馬台国論(出雲―アイヌ蝦夷連合による三輪王朝説)の登場】
 2009年、在野の歴史研究家・れんだいこが、「邪馬台国=出雲―アイヌ蝦夷連合王朝説」に基づく「邪馬台国/大和の三輪周辺説」を打ち出した。これによれば、邪馬台国と大和王朝は異系の関係であり、大和王朝権力の御用史書である記紀を通じては邪馬台国論は解明されない、隠された裏史実から掘り起こすしかないということになる。この観点こそ、従来の邪馬台国研究の限界から出藍するものであり、ここに邪馬台国研究の新たなページが開かれたことになる。「邪馬台国/大和の三輪周辺説」の内容については「れんだいこの新邪馬台国論」に記す。

【桜井市外山の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳から国内最多銅鏡81枚発見される】
 2010.1.7日、県立橿原考古学研究所が、初期ヤマト政権の大王墓とされる、桜井市外山の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀初め)で、国内最多となる81枚以上の銅鏡が副葬されていたことが分かったと発表した。鏡の形式も最多となる13種類以上で、「卑弥呼の鏡」説もある中国・魏の年号入りの「三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡」もあった。邪馬台国論争にも影響を与える古代鏡研究の貴重な資料になりそうだ。

 昨年実施した60年ぶりの再調査で、石室内の土中から銅鏡片計331点が出土。最大縦11.1cm、横6.3cmで、多くは1-2cmの細かな破片だった。完形品や本来の位置を保った遺物はなかった。過去に見つかった53点を含む破片計384点を調べたところ、81枚以上の鏡があったことが判明。国内最多だった平原遺跡1号墳(福岡県)の40面を大きく上回ることが分かった。13種類以上の後漢から三国時代の中国産や国産の鏡を確認。半数近くが直径20cm以上の大型鏡で、国内最大級の内行花文鏡(直径約38cm)もあった。黒塚古墳(天理市)などに比べ、三角縁神獣鏡以外の鏡が多かった。また、「是」の字が残る破片(縦1.7cm、横1.4cm)を3次元計測した結果、「正始元(240)年、陳是作鏡…」との銘文が入った蟹沢古墳(群馬県)の三角縁神獣鏡と一致。正始元年は邪馬台国の女王・卑弥呼の使者が帰国した年とされ、魏から贈られた「銅鏡100枚」の一つとする説も。県内での出土は初めてで、今後、専門家の論議を呼びそうだ。同研究所の菅谷文則所長は、「日本国家初期の『最高の王』の力を示す成果。今までの理論を超えた鏡の組み合わせで、今後は広い視野を持つことが必要だ」としている。このほかガラス製管玉や石製品なども見つかった。

 2013(平成25).10.17日、纏向遺跡が、「史跡名勝天然記念物」に指定された。

 以上を整理すると、「九州説」、「大和説」は以下の如く図示できる。「邪馬台国比定諸説」でも確認する。
九州説 新井白石  一六五七 江戸前中期 儒学者・大和説から九州説に変化。
本居宣長 一七三〇 江戸中期 著名な国学者・古事記伝で有名
菅 政友 一八二四 明治 史家・石上神宮大宮司
久米邦武 一八三九 文博・岩倉使節団員として米欧回覧実記を執筆・史家・東大教授
星野 恒  一八三九 文博・史学漢学・東大教授・史学会会長
那珂通世 一八五一 文博・東洋史学・一高教授
白鳥庫吉 一八六五 文博・東洋史学・東大教授・東洋文庫主宰・昭和天皇へご進講
津田左右吉 一八七三 文博・白鳥の弟子・古代史学・早大教授・文化勲章受章
橋本増吉 一八八〇 文博・史学・慶應大教授・東洋大学長
太田 亮 一八八四 法博・立命館大学教授・神道学者・神宮皇學館出身
坂本太郎 一九〇一 文博・東大教授・歴史学・史料編纂所長・文化勲章受章
榎 一雄 一九一三 文博・東大教授・史学・東洋文庫理事長
斉藤國治 一九一三 理博・東京天文台教授・古代の日蝕研究など古天文学を開拓
井上光貞 一九一六 文博・東大教授・歴史学・国立歴史民族博物館初代館長
谷川健一 一九二一 日本地名研究所長・史家
田中 卓 一九二三 文博・歴史学・皇學館大學学長
古田武彦 一九二六 昭和薬科大学教授・邪馬台国研究家
森 浩一 一九二八 考古学・同志社大学教授
安本美典 一九三四 文博・日本語語源や邪馬台国研究・産能大学教授
 著名人としては、婦人生活社を創立した原田常治、推理作家の松本清張、会社社長で盲目の作詩作曲家でもあった宮崎康平、歴史作家の邦光史郎、歌手の三波春夫、作家の井沢元彦などが「九州説」で知られている。なかでも宮崎康平は、昭和四十二年に出版した『まぼろしの邪馬台国』で《邪馬台国》ブームを起こした。小説となると、黒岩重吾の『鬼道の女王卑弥呼』。
大和説 舎人親王 六七六 『日本書紀』編者
伴 信友 一七七二 本居宣長の死後の弟子
三宅米吉 一八六〇 文博・東京文理大学長・帝室博物館長・考古学会会長
内藤湖南 一八六六 文博・萬朝報主筆・京大教授・歴史学
高橋健自 一八七一 文博・考古学者・三宅の弟子
笠井新也 一八八四 四国徳島の考古学者・史家・中学校教頭だが鳥居龍藏に師事
和辻哲郎 一八八九 文博・京大東大教授・歴史学哲学・文化勲章受章・はじめは九州説
肥後和男 一八九九 文博・史家・東京教育大教授
三品彰英 一九〇二 文博・史家・大谷大・同志社大教授・大阪市立博物館長
志田不動麿 一九〇二 東洋史学者・國學院大教授
末松保和 一九〇四 文博・朝鮮史・学習院大教授
室賀信夫 一九〇七 文博・地図史・東海大教授
樋口清之 一九〇九 文博・考古学・國學院短大学長・日本博物館学会会長・初め九州説
小林行雄 一九一一 文博・考古学者・京大教授
和歌森太郎 一九一五 文博・東京文理大教授・歴史家・都留文科大学長
原田大六 一九一七 旧制中卒・発掘に業績
直木孝次郎 一九一九 文博・日本古代史・岡山大学教授
樋口隆康 一九一九 考古学・京都大学教授・橿原考古学研究所長・非断定
金関 恕 一九二七 文博・考古学・天理大教授・大阪府立弥生文化博物館館長
田辺昭三  一九三三 京都市埋蔵文化財研究所・考古学者・日本学士院賞
石野博信 一九三三 考古学・徳島文理大教授・二上山博物館長・橿原考古学研究所副所長
山尾幸久 一九三五 立命館大学教授・七支刀研究
白石太一郎 一九三八 考古学・国立歴史民族博物館教授
都出比呂志 一九四二 考古学・大阪大学教授
 著名人としては、俳優としてTVでよく見かける苅谷俊介、好著『卑弥呼の謎年輪の証言』を書いたジャーナリストの倉橋秀夫、異色の在野研究者で芥川賞作家の高城修三などがいるが、数では少数派である。考古学者の多くが「大和説」をとっている。大正十一年の高橋健自の論文は、古墳の考古学的研究から「大和説」をとった最初のものといわれている。さいきんでは金関恕や白石太一郎が、慎重な表現ながら、かなり明確に「大和説」を述べている。ただし考古学者のばあい、議論そのものには参入しないのがふつうである。





(私論.私見)