纏向(まきむく)遺跡考

 更新日/2016.02.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 纒向遺跡からは、外来の土器が15%以上見つかり、日本各地から多くの人や物が纒向にやってきたことがわかった。こうした例は他では見られない。搬入土器の約半数は、東海系土器、次に、北陸系・山陰系・河内系・吉備系、関東系・近江系・西部瀬戸内系・播磨系・紀伊系となっている。邪馬台国九州説派は、纒向遺跡を概ね4世紀とするが、大和説派は3世紀と主張している。理化学的年代測定、土器編年など様々な見地から、箸墓古墳を邪馬台国の時代のものだと考えている。邪馬台国が畿内なら、卑弥呼の墓は箸墓古墳と推定される。九州説派は、年輪年代法もC14測定法認めない。

 「ウィキペディア纒向遺跡」その他参照。

 2010.3.23日 れんだいこ拝



 「邪馬台国の場所」より拝借する。

 2009年、纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)が脚光を浴びつつある。纒向遺跡は、奈良県桜井市の北部に位置し、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる田(からすだ)川と纒向川に挟まれた扇状地につくられた弥生時代末期〜古墳時代前期の大集落遺跡群を指す。その面積は、JR桜井線(万葉まほろば線)巻向駅を中心に、その規模は東西約2km・南北約1.5kmに及ぶ約90万坪になる。

 纏向遺跡は第十代崇神天皇の時代に開発が進み、第十一代垂仁天皇の時代に遺跡現在の規模になった。纏向遺跡の開発は、吉備王国からの人と物資の流入で支えられたと推定されている。

 記紀では、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在した伝えられ、さらに雄略の長谷(泊瀬)朝倉宮、欽明の師木(磯城)島大宮(金刺宮)なども存在した。万葉集にも纒向の地名がみられる歌が数多く詠まれている。日本書紀によれば、第11代垂仁天皇は在位1年目(西暦255年)に纏向に宮殿を建て、これを珠城宮(たまきのみや)とした(冬十月更都於纏向是謂珠城宮也)。また垂仁天皇はその纏向の珠城宮で崩御した(九十九年秋七月戊午朔天皇崩於纏向宮)。古事記によれば、第12代景行天皇は在位2年目(西暦305年)に纏向の宮殿・日代宮(ひしろのみや)で治世をした(大帶日子淤斯呂和氣天皇坐纒向之日代宮治天下也)。現在発掘される纏向遺跡の正体は、これらの天皇によって造営された宮殿の跡であると推定される。いずれも卑彌呼の死去の西暦248年頃より後に造営されている。


 纒向遺跡には20数基の古墳が存在する。2世紀末~3世紀初めに出現しており、邪馬台国の有力候補地とみなされている。古墳のほか巨大な運河跡や祭祀場、遠隔地からもたらされた土器が多数見つかっていることなどから、「最古の都市」とする研究者もいる。主な古墳は次の通りである。

纒向矢塚古墳
纒向石塚古墳
纒向勝山古墳
東田大塚古墳
ホケノ山古墳
茅原大墓(ちはらおおはか)古墳
桜井茶臼山古墳
箸墓古墳

 これらを総称して「纒向古墳群」と命名されている。学説上、初期ヤマト政権の発祥地と考えられているが、ヤマト政権前王朝の古墳ならぬ墳墓とみなすべき余地がある。

 邪馬台国畿内説の最有力候補地として比定されるのには次のような理由がある。

 「纒向古墳群」は、弥生時代末期から古墳時代前期にかけ造られており、邪馬台国の時期と重なる。墓古墳以外の纒向古墳群は、前方後円の形をしているものの、前方部が短く未発達なため特に「纒向型前方後円墳」と呼ばれる。定型化した前方後円墳が造られる前の墳丘形式とされ、築造時期はいずれも3世紀に遡るものと考えられている。このため、纒向古墳群は我が国最古の古墳群とされる。
 纒向遺跡全体は、当時としては最大級の都市集落跡である。興味深いことは、纒向遺跡にはムラを構成する住居址や倉庫址が発見されておらず、遺跡を囲む環濠がない。これは明らかに平和的都市国家を表象しており、高天原王朝系のそれとは違う。
 纒向遺跡から出土する土器が、3世紀を通じて搬入された土器としての量、範囲ともに他に例がなく広域である。出土土器全体844個のうちの123個(15%)は駿河、尾張、近江、北陸、山陰、吉備などで生産された土器と推定されており、当時の王朝の支配圏の広域性を物語っている。またそれまで大和になかった特異な煮炊具も十数個出土しており、他地域との交流が推定される。これら外来の土器は南九州から南関東にいたる日本列島各地のものであり、中でも東海地方の土器が最も多く、朝鮮半島の韓式土器も出土している。
 祭祀用と思われる土坑がみつかり、弧文円板や鳥形木製品など祭祀用具が多く出土した。また木製農具(スキ・クワ)が大量に出土している。吉備地方に起源を持つ「弧紋」という紋様を施した木製品や、鶏形の埴輪や木製品なども祭祀に関係するものと思われる。また、「口市」と墨害された7世紀の土器が出土した。これは日本書紀に「倭迹迹日百襲姫を大市に葬る」とある「大市」であろうと思われる。
 当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纒向地域にあったと考えられる。
 大和朝廷の実質的な創始者とも云われる崇神天皇陵(行燈山古墳)や景行天皇陵(渋谷向山古墳)等もあり、この地域が大和朝廷の発祥の地と考えられる。
 古墳時代前期(3世紀初頭~4世紀)になって急激に発展し、凡そ150年後の4世紀中頃には大集落が消滅している。
 纒向遺跡は、桜井市の北部、北は天理市と境を接し烏田川と巻向川に挟まれた東西2km、南北1.5kmに及ぶ広大な遺跡の総称である。箸墓古墳ばかりが注目されているが、邪馬台国の候補地として考える場合には、この遺跡の全体像を思い浮かべなければならない。遺跡の西側にかたまってある石塚、矢塚、勝山の古墳群から、昭和46年に、幅5m、深さ1m、長さは南北200mにわたった運河とおぼしき大溝が発見された。溝には板を敷き、護岸工事をする高度な技術も施されている。発掘された溝は一部であるが、溝を延長していくと一方は初瀬 川に、もう一方は箸墓に伸びていると言う。幅5m、総延長2600mの大溝が遺跡内を人字形に通じていて、ヒノキの矢板列で丁寧な護岸工事がなされ、集水施設もつくられていた。大溝や下水施設といったインフラを備え、整然と区画された都市らしい機能をもった遺跡が、弥生時代末期に突如出現するのは、この遺跡における謎とされている。

【纒向矢塚古墳】(纒向石塚古墳
 (桜井市史より)
 纒向矢塚古墳は、西面する全長約96m、高さ約5mの古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘の築造企画が纒向石塚、纒向勝山、東田大塚、ホケノ山などの古墳と同じ企画を持つ纒向型前方後円墳の一つと考えられている。昭和47年に周濠の一部が調査され、幅17~23m、深さ60cmの濠を持つことが確認された。また、この時の出土土器より、纒向矢塚古墳は箸墓古墳より先行する可能性も高くなっている。

【纒向石塚古墳】(纒向石塚古墳
 畿内で最初に現れる古墳が築造推定西暦220年ごろの「纏向石塚古墳」。最初の前方後円墳である。墳丘部の全長約96メートル。吉備の「楯築(たてつき)墳丘墓」が纏向の前方後円墳の原型となったのではないかと推定されている。纏向石塚古墳には、吉備の楯築墳丘墓と共通する水銀朱を用いた清めが施されていたようである。纒向遺跡からは「弧文(こもん)」と呼ばれる文様をもつ石板、土器片、木製品などが出土している。弧文は祭祀のための模様で、吉備王国固有のあったと考えられている。平成三十年(2018年)に橿原考古学研究所は、纏向石塚古墳の後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片(54点)は吉備地方の土でできていると公表した。初期の葦原中國は、祭祀の方法も古墳の造り方も、あたかも吉備王国そのものであるかのようである。
 橿原考古学研究 所や桜井市教育委員会等々の発表によれば、出土物の木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには築造されていたことが判明している。前方後円墳発祥の地とされている。

 纒向石塚古墳の周濠で平成元年に木製品が出土。ヒノキの伐採推定年代は200年前後だった。墳丘の盛り土に含まれる土器の様式から3世紀初めの築造とする見方もある。中国の史書「魏志倭人伝」によると、女王・卑弥呼の擁立は2世紀末。没年は248年ごろで、勝山古墳の築造が3世紀前半とすれば、卑弥呼の擁立から間もない時期に、2つの前方後円墳が相次いで誕生したことになる。ホケノ山古墳(桜井市箸中)の調査で3世紀中ごろにさかのぼった前方後円墳の年代は、今回の成果でさらに半世紀近く押し上げられる可能性が出てきた。

 纒向小学校西側に接するこの古墳は現状で円墳と思われるが、周濠部の発掘調査によれば径60 m以上の胴張方形、前方後円墳の可能性もある。埋葬施設は墳丘中心部の調査がされておらず不明である。築造時期については,周濠部から出土した土器より纒向Ⅲ式期が考えられ、石塚古墳より もその築造は新しいと思われる。

【纒向勝山古墳】(纒向勝山古墳
 2001.5.30日、奈良文化財研究所と県立橿原考古学研究所が、奈良県桜井市東田の勝山古墳周濠(しゅうごう)の墳丘上にあった建物の一部として見つかった板状の木材の伐採時期が、年輪年代法による測定結果、残存する最も外側の年輪が199年、削られた年輪を考慮しても伐採年代は210年までとみられ、「紀元199年プラス12年以内」であることが分かったと発表した。これにより、3世紀後半とされてきた同古墳の築造年が3世紀前半にさかのぼり、邪馬台国を都とした倭国女王・卑弥呼の時代に完全に重なることになった。

 これをもう少し詳しく見ると、次のような話になる。橿考研が2001.1~3月の発掘調査で、廃棄されたとみられる約200点の木材を同古墳の周濠跡で見つけた。古墳上での葬送儀礼の施設に使われた建築部材と推定できる。橿考研は奈良文化財研究所埋蔵文化財センターに年輪年代の測定を依頼。サンプルはいずれもヒノキ材で、5点の年輪年代が特定できた。板状の1点(一辺26センチ、厚さ2.5センチ)は樹皮直下の「辺材部」が残っており、最外年輪は199年だった。近畿のヒノキ(樹齢200~300年以上)の辺材部は平均約3センチ。測定した板材の辺材部は約2.9センチで、4センチあったと仮定しても、210年までに収まるという。木の年輪は中心の髄から心材、辺材の順に形成される。心材部だけの4点は最外年輪が103~131年で、辺材部の年輪を推定すると、5点とも同時期に伐採された可能性が強い。

 年輪から伐採年を調べる年輪年代法でヒノキ材5点を調べた結果、うち外辺部が残っていた板材1点の伐採年を「199年プラス12年以内」と断定した。木材に再利用の跡はない。古墳祭祀に用いた木材は伐採後間もなく使用、廃棄されたと考えるのが常識的、紫外線による劣化が切断面にない――ことなどから、橿考研は「古墳の築造時期は、伐採年に近い3世紀前半」とした。纒向古墳群のホケノ山古墳(3世紀前半)、纒向石塚古墳より勝山古墳が古い可能性が大きいことになり、確認できる範囲で最古の前方後円墳となった。

 年輪年代法は、奈良文化財研究所埋蔵文化財センターの光谷拓実・古環境研究室長が20年以上かけて研究を積み重ねてきた。ヒノキは紀元前912年まで測定できる。纒向石塚古墳で出土した木製品の年輪年代を測定したのは12年前。伐採年代を200年前後と割り出した。「同じ測定結果が出たことで、日本の考古学が待ち望んでいた時代に確実なくさびを打ち込むことができた。実年代を当てはめるステージが完成したのでは」と話している。

 勝山古墳の周濠からは、木材に伴って土器片も出土。土器の型式から年代を推定する「土器編年」では、同古墳の築造を3世紀後半とする見方が強かったが、これを覆すことになる。今回の分析結果は土器編年と実年代の関係の再検討にもつながることになった。土器編年との整合性が問われることになった。

 これをどう推理すべきかが問われることになった。邪馬台国研究史上、畿内説学説は、同古墳を含む纒向古墳群を築造した勢力をヤマト政権の源流とみなそうとしており、勝山古墳出土木材の卑弥呼時代との一致は邪馬台国大和説を支える第一級の資料と位置づけることになる。

 河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長は、「3世紀のごく初めに古墳が存在することが決定的になり、成果を高く評価したい。ホケノ山古墳は出土した鏡などから3世紀中ごろまでの古墳と考えられ、このころ纏向遺跡に古墳が点々としていたことがいろいろな方法で確かめられた。2世紀代の古墳も予測でき、古墳の発生とかかわる国家の起源も古くなり、大和政権の成立は約1世紀さかのぼることになると思う。3世紀の卑弥呼が活躍した時代と、立派な古墳の発生が重複している。邪馬台国大和説を補強する材料が出てきたと考えている」。

 東潮・徳島大教授は、纏向遺跡を「邪馬台国」の中枢で倭国の首都も置かれた場所と推定。その上で、最初の本格的な方後円墳とされる箸墓古墳について、「(2世紀末に)倭国王として共立された女王卑弥呼が、3世紀中ごろに葬られた墓だ」と考える。さらに、箸墓に先行する勝山やホケノ山について、「箸墓は吉備など周辺地域の影響が強いのに対し、勝山やホケノ山は在地的な要素が強い。邪馬台国の王族が葬られた墓と考えられる」とする。

 他方、邪馬台国九州説の高島忠平佐賀女子短大教授は、「年輪年代の測定結果と遺跡を短絡的に結びつけるのはいかがなものか大和の地域的な王権がどう成立するかを考える材料にはなるが、巨大な古墳があるから、邪馬台国があったと考えるのは飛躍」としている。 

 安本教授は、次のように述べている。
 「1.勝山古墳の築造年代は、3世紀前半にはさかのぼれない。年輪年代法によるデータは信頼がおけるものの、木材の伐採年代と古墳の築造年代を同一時期とする主張は、根拠に乏しい。一般的に、これら二つの年代には大きな差がある。一般的な状況に反して、勝山古墳の事例では伐採と古墳築造が同時期であると、特別の判定するためには、多くの人が納得できる明確な根拠を提示する必要がある。 2.さらに、同時に出土したという布留0式土器の年代は、多くの研究者が3世紀後半以降の土器としている。古墳の築造年代を判定するときには、199年ごろに伐採されたという木片と、3世紀後半以降の土器の両方を考慮しなければならない。古い遺物と、新しい遺物とが、同じ遺跡から出土したならば、その遺跡の築造年代は、新しい遺物によってきまる。すなわち、勝山古墳の築造年代は、新しい遺物である布留0式土器の年代によって決めるべきである。以上のことを総合すると、勝山古墳の築造年代は、3世紀前半にさかのぼることはできないとの結論になる」。

【東田大塚古墳】
 東田大塚古墳は、邪馬台国の有力候補地となっている古墳時代の大集落跡「纒向(まきむく) 遺跡」内にある。北側には、墳丘の盛り土に混入していた土器片から3世紀の第一・四半期(20 1-225年)の終わりごろの築造とされた纒向石塚古墳や、勝山古墳、矢塚古墳があり、東側には東田大塚古墳と同じく周濠内で3世紀後半~同末の土器片が出土したホケノ山古墳がある。さらに、これら全長90~100mの前方後円墳とは隔絶した全長約280mの規模をもち、4世紀以 降の大規模前方後円墳のモデルと考えられている箸墓(はしはか)古墳(3世紀末ごろ)も含み、 同遺跡内の「纒向古墳群」を形成している。

【ホケノ山古墳】
  ホケノ山古墳(全長約80メートル)は最古の前方後円墳として注目を集めている。3世紀末以前の築造とされていて最初期の古墳と判別されている。卑弥呼の時代に呼応する。この古墳から画文帯神獣鏡が一面出土している。

【茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)】
  茅原大墓古墳は三輪山西麓の大字茅原に位置し、帆立貝式(ほたてがいしき)前方後円墳の代表的な事例として1982(昭和57)年に国史跡に指定されている。墳丘は全長約85m、直径約70m、高さ約9mに復元され、大きな後円部に対し、前方部が極端に短く低い形態であるのが特徴となっている。また墳丘の西側にある細長い池は、周濠(しゅうごう)の痕跡であると考えられている。平成21年度に実施した第3次調査で、後円部頂と2段目の平坦面で円筒埴輪(えんとうはにわ)列が確認された。円筒埴輪は上部が失われていたが、底部径が40 cm以上の大きなものが含まれていた。このほか後円部と前方部の接続部分では葺石(ふきいし)が見つかっている。出土遺物としては円筒埴輪のほか蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)などの破片があり、これらから築造時期は古墳時代中期初頭頃(4世紀末~5世紀初頭頃)、被葬者は当時の三輪山麓における有力首長であったと考えられる。

 桜井市から天理市にかけての奈良盆地東南部では、3世紀代から相次いで全長200m以上の大型前方後円墳が築造されました。しかし4世紀後半頃の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(天理市)を最後としてそうした古墳は築造されなくなり、桜井周辺の勢力がこの時期に衰退していったと推定される。茅原大墓古墳はその衰退期に築造されたと考えられる。(「茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)第3次調査」参照)

【桜井茶臼山古墳】
 2010.1.7日、県立橿原考古学研究所が、初期ヤマト政権の大王墓とされる桜井市外山の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀初め)で、国内最多となる81枚以上の銅鏡が副葬されていたと発表した。鏡の形式も最多となる13種類以上で、半数近くが直径20センチ以上の大型鏡で、国内最大級の内行花文鏡(直径約38センチ)、「卑弥呼の鏡」説もある中国・魏の年号入りの「三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡」もあった。13種類以上の後漢から三国時代の中国産や国産の鏡を確認。半数近くが直径20センチ以上の大型鏡で、国内最大級の内行花文鏡(直径約38センチ)もあった。黒塚古墳(天理市)などに比べ、三角縁神獣鏡以外の鏡が多かった。「邪馬台国論争」にも影響を与える古代鏡研究の貴重な資料になりそうだ。このほか、ガラス製管玉や石製品なども見つかった。

 昨年実施した60年ぶりの再調査で、石室内の土中から銅鏡片計331点が出土。最大縦11.1センチ、横6.3センチで、多くは1~2センチの細かな破片だった。完形品や本来の位置を保った遺物はなかった。過去に見つかった53点を含む破片計384点を調べたところ、81枚以上の鏡があったことが判明。国内最多だった平原遺跡1号墳(福岡県)の40面を大きく上回ることが分かった。

 また、「是」の字が残る破片(縦1.7センチ、横1.4センチ)を3次元計測した結果、「正始元(240)年、陳是作鏡…」との銘文が入った蟹沢古墳(群馬県)の三角縁神獣鏡と一致。正始元年は邪馬台国の女王・卑弥呼の使者が帰国した年とされ、魏から贈られた「銅鏡100枚」の一つとする説も出ている。県内での出土は初めてで、今後、専門家の論議を呼びそうだ。同研究所の菅谷文則所長は「日本国家初期の『最高の王』の力を示す成果。今までの理論を超えた鏡の組み合わせで、今後は広い視野を持つことが必要だ」としている。このほか、ガラス製管玉や石製品なども見つかった。

【箸墓古墳】

【箸墓古墳の考古学的資料】
 箸墓古墳の被葬者につき、宮内庁は第10代・祟神天皇の時代に三輪山の神に仕えた巫女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト、以下百襲姫)としている。弟は吉備地方を平定して桃太郎のモデルとなった吉備津彦(キビツヒコ)である。墓の体積は30万立方メートルで建設に動員されたのは延べ135万人。一人の巫女の為にこれだけの人間が動くのは卑弥呼以外にありえない。日本書紀はこの墓について「昼は人が造り、夜は神が造った」と特記しており、「人々は近隣の山の石を手から手に渡して運び、山から墓に至るまで、人々は絶えることなく続いた」と築造の情景まで記している。墳丘の斜面から古墳の外装用に敷き詰められた葺石(ふきいし)が見つかっており、これを人々がリレー式で運んだ様子が伺える。また「壬申の乱」では、天武天皇が箸墓のそばで戦ったとされており、この墓が古くから特別視されていたのが分かる。
 箸墓古墳は、これこそ卑弥呼の墓といわれる古墳であり、古代に神の山とあがめられた三輪山の西麓(ふもと)の奈良県桜井市大字箸中に築造されている。箸中古墳群の中で一番規模が大きく、東西2キロ、南北1.5キロの巨大遺跡にして全長282m、後円部径157m、高さ22m、 前方部幅125m、高さ13m、前方部4段、後円部5段の前方後円墳となっている。最大でも110mだったそれ以前の墳丘墓と比べて規模が大きく、古墳の多い奈良でもトップ3に入る大きさで、一帯は国内で最も古い古墳群を寄せている。この地域に強大な政治権力が誕生していたことを物語っていると考えられる。

 築造時期を廻って、かっては3世紀末頃から4世紀前半とされ、卑弥呼の時代に合わないとされていたが、最近では卑弥呼が死んだ西暦248年の直後にまでさかのぼっても問題ないとする研究成果も出始めている。これにより古墳の地の三輪が邪馬台国の最有力候補地とされつつある。

 2008.8.15日、桜井市教委や奈良県立橿原考古学研究所は10年以上前から墳丘の周辺を丹念に発掘。その結果、箸墓古墳南側から外濠(そとぼり)の内側の堤と大規模な周濠(しゅうごう)が初めて確認されたと発表した。墳丘の南端から約20メートルの地点で幅約6メートル、高さ約1.5メートルの堤が見つかり、さらに南側に約50メートルにわたって深さ1.2~1.6メートルの掘り込みを確認。これが外濠とみられ、外濠の縁は盛り土が約1メートル積み上げられていた。同様の遺構は平成7年に別の場所で確認されているが、今回は、前回の遺構と、ほぼ対称の位置で見つかった。このため、幅10メートルあまりの内濠と幅50メートル以上の外濠がめぐっていたことが確実となった。市教委の橋本輝彦主任は、「60メートル以上という周濠の幅は、実に古墳1つが入るほどの大きさ。周濠によって、被葬者と外部との隔絶性をより明確にしたのだろう」と推測する。

 これまで周濠の明確な痕跡は認められておらず、学界でもその存在を疑問視する声が根強かったが、墳丘を取り巻く壮大な周濠が築造当初から整備されていた可能性が高まり、大土木工事を可能にした被葬者の威光を浮かび上がらせた。同古墳の墳丘は宮内庁の陵墓に指定されており、学術目的の発掘調査ができないため、被葬者の納められた石室の構造などは、厚いベールに包まれている。

 卑弥呼の死は248年ごろとされるため、箸墓古墳の築造時期こそがカギを握る。しかし、築造年代の根拠となる土器をめぐっては、研究者によって数十年の開きがあり、論争の決着には至っていない。3世紀中ごろの築造説を採る白石太一郎・奈良大教授(考古学)は、「箸墓古墳を造るには10年以上かかり、卑弥呼の墓の時期に合致する」と卑弥呼説を提唱。「周濠などの調査は構造を明らかにする上で極めて重要。国なども本格的に乗り出すべきだ」と強調する。

 一方、築造は260~280年とみる寺澤薫・橿原考古学研究所総務企画部長は、「被葬者は卑弥呼の後の臺与か、その後の男王では」と推測。卑弥呼の時代はライバルの狗奴(くな)国があり、決して万全な体制ではなかったとして、「男王の時代に王権の力が全国に及び、巨大な箸墓古墳を築くことができたのだろう」と指摘する。

 同様に、卑弥呼説に否定的な石野博信・兵庫県立考古博物館長も「被葬者は臺与とみていいだろう」と言及。「3世紀後半には全国の土器の動きが活発になり、交流や戦争などさまざまなことがあった。臺与は、魏志倭人伝にあまり記述がないが、業績は大きかったはず」と推測する。

 2009.9.29日、国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)が、箸墓古墳が築造された時期は240~260年という研究をまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろ(248年)とされる卑弥呼の死亡時期と重なる。歴博は、全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定した結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240~260年に絞り込んだ。

 2009.11.10日、市教委が、邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘調査で、3世紀前半の地層から巨大な建物群(2棟)が発掘されたと発表した。中国の歴史書・魏志倭人伝には「卑弥呼の宮室(宮殿)は楼観や城柵(じょうさく)を厳かに設け」と記されており、このたび発掘された建物群は卑弥呼が活躍した時代(2世紀末~3世紀前半)とほぼ一致しており卑弥呼の居館の可能性が浮上している。大型建物跡は、東西2間(1間3・1メートル)、南北4間(1間4・8メートル)分を確認。建築様式などから西側にさらに2間分延びていた可能性がある。建物の規模は東西12・4メートル、南北19・2メートルで床面積は238平方メートル。邪馬台国九州説の有力候補地・吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)の大型建物跡(156平方メートル)を大幅に上回ることが分かった。柱穴に残された痕跡から柱は直径約30センチで、柱の間には床を支えるため直径15センチ程度の束柱(つかばしら)を立てるなど堅固な構造だったとみられている。大型建物跡の西側では、棟持(むなもち)柱をもつ建物跡(東西5・3メートル、南北8メートル)も確認されている。さらに西側で2棟の建物跡が見つかっており、計4棟が方位を合わせて東西に並んでいたことが判明した。このうち大型建物跡など3棟は、さくで囲まれていたという。これらの建物群跡の外側は東西約150メートル、南北約100メートルにわたり、周囲より1メートル以上高台になっている。市教委は高台の範囲を宮殿の外郭、さくで囲まれた部分を内郭と想定している。

 市教委の橋本輝彦主査は次のように話した。
 「建物の中心軸をそろえた極めて計画的な構造。方形で区画した飛鳥時代(7世紀)以降の宮殿構造につながる可能性もあり、国内最古の都市の中枢部が分かる重要な成果だ」。
 石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)の話は次の通り。
 「建物の大きさだけでなく、建物群の中心軸が東西一直線に並んでいる点がすごい。これほど計画性のある建物群の遺構が見つかったのは古墳時代を通じて初めてだ。外郭もあり、復元されたら壮観だろう。祭祀(さいし)空間なのか政治空間なのかは現段階では分からないが、卑弥呼の館の可能性はある」。

 遺跡名は、旧磯城郡纏向村の村名でありその村名は垂仁天皇纏向珠城(たまき)宮、景行天皇纏向日代(ひしろ)宮の纏向に由来する。地形は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが纏向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。2000年代現在把握されている纒向遺跡の範囲は北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km2になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2キロメートル・南北約1.5キロメートルに及びその形は楕円形であり、面積は3000m2にまで達する。

 纒向遺跡の始まりは、縄文時代後・晩期からと推定される。粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片が土偶や深鉢などがこの遺跡のあちこちから出土していて、縄文時代の集落が営まれていたと考えられている。この遺跡からは弥生時代の集落が発見されておらず、環濠も検出されていない。つまり纒向遺跡の弥生時代のことはほとんど分かっていない。銅鐸の破片や土抗が2基発見されているのみである。この遺跡より南に少し離れた地より弥生中期・後期の多量の土器片が発見されており、方形周濠墓や竪穴住居なども出土している。さらに南西の地から多くの遺物が出土している。

 纒向遺跡は古墳時代の始まりを告げる遺跡であり、今日、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は少数である。遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。農業用の大型水路や無数の土抗の中に三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられていた。石塚古墳周濠から吉備系の祭祀遺物弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークが過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。

 飛鳥〜奈良時代に入るとこの地域に市が発達し、大市と呼ばれた。箸墓古墳が宮内庁比定では大市墓というのはこのためである。奈良・平安時代では井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。「大市」と墨守された土器も検出されている。 

 纒向遺跡は唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で多賀城跡よりも大規模である。都市計画のなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。矢板で護岸した幅5メートル、深さ1メートル、総延長200メートル以上にわたる巨大水路の発見。底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3メートル・深さ約1.5メートルの一方が突出する不整形な円の土抗が約150基発見された。掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡(古墳時代前期前半の2×3間で床面積約23平方メートルの建物、家屋倒壊遺構と黒漆塗りの弧文を持つ木製品、1×1間の小家屋と2×2間の総柱建物と弧文黒漆塗木製品、纏向玉城宮跡の石碑、宮殿居館の存在が疑われる。その他に掘立建物17棟検出)。竪穴式住居、弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝、導水施設跡(宮殿の排水施設か)、遺跡内に点在する古墳(纏向古墳群)、祭祀遺跡(穴師ドヨド地区の景行天皇纏向日代宮の伝承地から碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉、4世紀後半の土器など出土)。現在は確認できない埋没古墳が多数ある可能性あり。

 主な遺物として、朱色に塗った鶏形木製品、吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組合わせて文様を施した弧文円板(こもねんばん)と呼ばれる木の埴輪。絹製の巾着袋、瓦質土器(1996年に土器片の発見。胎土成分組成の分析により、2001年に国内で類例のない事が確認され、朝鮮半島内の技術で作られたものと判明した)、ミニチュアの舟、木製鏃、搬入土器、石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品。 日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも東海地方の物が多い。
 外部リンク

【箸墓古墳の文献学的資料】

 記紀によれば、第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵と書かれており、現在は宮内庁が陵墓参考地として管理している。宮内庁の管理下では「大市墓」と呼ばれているが、一般的には「箸墓古墳」という名称の方が有名である。崇神天皇十年の条に、概要「倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、この墓を箸墓 (はしのみはか)とよんだ。この墓は、昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの人が 大坂山から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだ」と記されている。

 倭迹迹日百襲姫は御諸山(三輪山)の神である大物主神の妻とする神婚伝承が次のように伝えられている。「 崇神天皇の祖父孝元天皇の妹、倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻となった、だがこの神は夜にばかり通ってきて姿を見せなかったので、姫は、『まだお姿を見たことがありません、どうか夜の明けるまで居て美しいお姿を見せて下さい』と願った。神は、『明朝 お前の櫛箱の中に入っていよう』と答えた。姫は朝のくるのを待って櫛箱をあけると中に美しい小蛇がいたので驚いて泣きだすと、神は人の姿に戻り『よくも私に恥ずかしい思いをさせてくれた』といって三輪山に帰ってしまった、姫はたいへん後悔 し、そのはずみに箸で陰処(ほと)を突いて死んでしまった。姫は大市に葬られ、人々はその墓を箸の墓と呼んだ」。

 「最新邪馬台国論争・21世紀のレポート 」は次のように記している。

 倭迹迹日百襲姫は、父の第七代考霊の時代に始まり、第十代宗神の時代まで生き、活躍した女傑である。纏向に最初に都した第十代宗神天皇の時代には、倭迹迹日襲姫が、崇神が神浅芽原 ( カンアサシハラ ) に八十万の神々を召集した時、第七代考霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫が突然、神がかりとなって、武道安彦の命の謀反や、吾田姫の呪言について、崇神天皇に注意を促した。たぐい稀なる霊力の持ち主との記述の記録があり、崇神天皇が、北陸、東海、西海、丹波の四方面に向けて、四道将軍を派遣した時、あるいは、疫病の流行に際しても、倭迹迹日襲姫が関与したとするなら、卑弥呼の最有力候補が、箸墓の王倭迹迹日百姫であるとするのもやむをえぬことである。

 倭迹迹日襲姫が四台の天皇に関わりがあることも、巨大なる箸墓が建造されたことに、理由がありそうである。第七代考霊天皇は父、都は、黒田盧戸宮 ( くろだのいおとのみや ) は現在の田原本町黒田。第八代孝元天皇は兄、都は、軽境原宮 ( かるのさかいはらのみや ) 現在の奈良県橿原市大軽。第九代開花天皇は 孝元天皇の子)、都は、春日率川宮 ( かすがいざかわのみや ) 、現在の奈良市本子守町の率川神社附近。第十代宗神天皇は開花天皇の子、纏向の地、磯城端離宮 ( しきのみずかみのみや )。こうしてみると、倭迹迹襲姫が、いかに長寿で、歴代の天皇のバックホーンであったことは明らかである。

 倭姫の時代は、崇仁、景行の時代で、纏向に最初に都した第十代宗神天皇の時代には、倭迹迹日百襲姫が、崇神が神浅芽原(カンアサシハラ)に八十万の神々を召集した時、第七代考霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫が突然、神がかりとなって、武埴安彦命の謀反や、吾田姫の呪言について崇神天皇に注意を促した。たぐい稀なる霊力の持ち主との記紀の記録、それに箸墓のの主とされることから、卑弥呼の最有力候補が倭迹迹日百姫であることに変わりはない。

【箸墓古墳の卑弥呼の墓との一致性考】
 「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩。旬葬者奴婢百餘人」の記述に照らして、卑弥呼の墓と箸墓の後円部の大きさが近い。「歩」を約1.4mとすれば、百歩は約140m。卑弥呼の墓は「直径約140mの塚」ということになるが、箸墓の主体部である後円部の直径156mは110歩となり、卑弥呼の 墓の塚の直径百余歩と一致する。このことから、古くから箸墓を卑弥呼の埋葬塚ではないかとする考えがあった。肥後和男の「邪馬台国は大和である」(秋田書店)は、「倭迹迹日百襲姫命を邪馬台国の女王・卑弥呼である」とする説を唱えている。橿原考古学研究所附属博物館の館長河上邦彦氏は、概要「卑弥呼の墓は円墳と考えられるが、箸墓も元々は円墳の可能性がある。後円部と前方部は 微妙に築造の様式が違うので、前方部は後から継ぎ足した可能性もある」と述べている。

【笠井新也の「箸墓=卑弥呼の墓」説】
 「箸墓=卑弥呼の墓」説を、最初に一番論理的に唱えたのは笠井新也である。この後の論説は笠井説を補強し、肉付けしてきたに過ぎない。徳島県の脇町中学校の教師であった笠井新也は、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫であり、箸墓は卑弥呼の墓である、弟王を崇神天皇とする趣旨の論文を、大正時代から昭和にかけて、あいついで発表した。後に徳島大学の教授となった笠井の論点は次のようなものであった。

1.箸墓は、「日本書紀」に記されている倭迹迹日百襲姫の墓であり、倭迹迹日百襲姫は祟神天皇の時代の人である。モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や「日也人作、夜也神作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」を能くしたという卑弥呼の姿によく似ている。
2.「古事記」の祟神天皇没年干支(戊寅の年)をもとにすれば、祟神天皇の没年は258年と考えられ、卑弥呼が没したのは、248年頃と推定できるので、祟神天皇の時代は、ほぼ卑弥呼の時代である。
3.従って、卑弥呼と倭迹迹日百襲姫は同時代人となり、この二人が同一人物で、倭迹迹日百襲姫の箸墓を卑弥  呼の墓と考えれば、魏志倭人伝の「径百歩の塚」に合致する。

これに対し、今日では九州説の一番のオピニオン・リーダーの観がある産能大学の安本美典氏は、「祟神天皇の時代は、卑弥呼の時代とは重ならない。」「祟神天皇の活躍した時代は、340年~355年ごろであり、卑弥呼の時代とは、100年あまりへだたりがある。」と説く。また「文献上からも、倭迹迹日百襲姫と卑弥呼を同一人物とすることについては、疑問が多い。」という。

 紀元前1世紀から紀元後2世紀にかけての弥生時代中期には、北九州を中心に銅剣・銅矛が広く分布し、ひとつの文化圏をつくり、一方、近畿を中心に銅鐸が分布して、やはりひとつの文化圏を作っていた。両者の文化が融合した形跡は見られないから、このふたつは交流をもたない異民族国家であったと推測できる。

 もし畿内説論者の言う邪馬台国が纒向にあって、ここから大和朝廷が全国に支配権を浸透させていったとすれば、なぜ自分たちの用いていた、銅鐸による呪術的性格を帯びた文化のことを後世に伝えていないのか。古事記・日本書紀には銅鐸はおろか、それを用いていた民族のこともまったく登場しないのである。記紀に登場するのは銅剣・銅矛・勾玉・銅鏡であって、これは戦闘的性格を帯びていた北九州文化圏のものであり、今でも皇室が保有する「三種の神器」は、剣・鏡・玉である。やがて古墳時代に入ると、そのままこの文化は近畿圏にも伝わり古墳からも多く出土するようになるが、北九州から夥しく出土する甕棺墓に起源がある事は明白である。

 もし邪馬台国が近畿にあった場合、のちの大和朝廷と深い関係にあるのは明白で、「邪馬台国=大和朝廷の前身」と考えていいはずだ。だとすれば、大和朝廷のつくる記録のなかに、邪馬台国の記述や伝承が残っていても良さそうなものだ。これは「邪馬台国東遷説」についても同じである。「邪馬台国=大和朝廷」ならば、記紀に何かの伝承を残すはずではないか。「古事記」「日本書紀」は何も語っていない。万世一系を強調し、架空の天皇までつくって歴史を水増しし、粉飾を計っている大和朝廷が、偉大なる自分たちの祖である卑弥呼の偉業を残さないとは、どうしても考えられない。

 平成12年3月、巻向遺跡の「ホケノ山古墳」が、我が国最古の前方後円墳として発見され、3世紀中ば、即ち卑弥呼時代の古墳である事が判明したと、各新聞は一斉に報道した。「ホケノ山古墳」が(あるいは箸墓古墳でもいいが)、もし卑弥呼の墓に比定できるとしたら、卑弥呼の墓は前方後円墳という事になり、仁徳天皇陵や応神天皇陵などへ続く、4~5世紀の近畿を中心とした「大古墳時代」へと、その勢力は拡大して行っているはずである。邪馬台国は発展し、子々孫々が強大な大和朝廷を形成していったはずではないか。

 しかし、邪馬台国の中国への朝貢は、卑弥呼の次の女王「壱与」をもって消えてしまう。紀元266年、壱与が数回朝貢船を送ったのを最後に、邪馬台国は歴史からかき消えてしまうのである。これは、邪馬台国になんらかの異変があった事を示唆している。つまり、前方後円墳と邪馬台国は関係ないのである。それはとりもなおさず、大和朝廷と邪馬台国が関係ないという事である。このふたつは別系統の王朝なのだ。

【れんだいこの箸墓(はしはか)古墳論】

 2009年、箸墓(はしはか)古墳を廻るニュースが報道を賑わした。箸墓古墳は「纒向(まきむく)古墳群」のヌシ的な古墳である。その古墳が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかとの関心から脚光を浴びつつある。いずれにせよ、「纒向古墳群」の科学的考証が進むにつれ、日本古代上の闇の部分が明らかにされつつあることは疑いない。ごく最近発表された箸墓古墳調査は、その歩を大きく進めた。まず、このことを確認しておきたい。以下、れんだいこ史観による日本古代史上の大胆な新分析を発表する。既に発表されているのかもしれない。そうだとすれば、その見解を支持する。

 「纒向古墳群問題」の隠された真のテーマは、「纒向古墳群の解明」によって、新たな邪馬台国論を浮上させることにある。爾来、邪馬台国論は、いずれもが大和王朝に接続する式での、九州説、畿内説、その他説の三スクミの中で論争されて来た。「纒向古墳群の解明」は、その虚構を撃ちつつあるのではなかろうか。目下、畿内説論者は、「纒向古墳群の解明」が畿内説邪馬台国論を補強するものとして期待を膨らませている。それに反して、九州説邪馬台国論者はしかめ面を増しつつある。そういう拮抗関係にある。

 しかしながら、れんだいこの見るところ、両者とも我田引水して一喜一憂するには及ばない。「纒向古墳群の解明」は、かって纒向に大和王朝とは違う別個の王権が存在していたことを示しつつある。即ち、大和王朝に接続しない式の邪馬台国大和説を浮上させつつあると認めるべきなのではなかろうか。これによって、「纒向古墳群の邪馬台国」は大和王朝側に滅ぼされたのであり、為に「纒向古墳群の邪馬台国」は表向きの痕跡を消されたのであり、これによりこの時代の解明は容易なことでは進まないようにされている。「纒向古墳群の邪馬台国」は、この時代を復元するものであり、即ち「纒向古墳群」は滅ぼされる前の邪馬台国として位置付られるべきである。かく構えることによって光芒を放ちつつあるのではなかろうか。

 こう窺うことにより、次の推理が説得力を持つのではなかろうか。「日本古代史の新視角として聞き流してほしい」に触発されたので、このことを記しておく。

 「かって、倭国は部族連合国家として生息していた。その様は、中国の各史書の記す通りである。邪馬台国は、この時代の最後の精華となる諸国連合国家であった。邪馬台国の比定は難しい。何とならば、邪馬台国の痕跡が一切消されているからである。唯一の手掛かりとして、魏志倭人伝の記述が遺されている。しかしながら、どういう事情によってかは定かではないが、記載された通りの方位と里程距離を辿ると邪馬台国に辿り着けない仕掛けになっている。なぜこのように筆法されたのかは分らない。

 そこで、記述が正しくないとして無理矢理に方位を替え、里程距離を訂正する解釈が生まれた。それにしても、邪馬台国のみならず邪馬台国に至る直前の投馬国からして飛躍しており推定できない。直前の投馬国が推定できないからして投馬国の先の邪馬台国はまちまちにならざるをえない。九州説、畿内説、その他説然りで、これにより、投馬国、邪馬台国比定地が百家百言といっても良いほど様々な投馬国、邪馬台国の比定地が登場することになる。

 いずれにしても、邪馬台国の後に大和王朝時代が始まるのは確かだ。ところが、日本は無論、中国、韓国の史書にも、邪馬台国そのものの東遷、その結果としての大和朝廷創建とする記録はない。日本古代史書正史とみなすべき地位を得ている古事記、日本書紀があれども(以下、「記紀」と記す)、且つ記紀双方の記述が互いに訂正していると見られる箇所が相当数有るにも拘わらず、邪馬台国に関する記述は共にない。これは、非常に不自然なことである。

 れんだいこは、大和朝廷が邪馬台国の流れを汲んでいない故、否むしろ邪馬台国を撲滅解体した側に位置する故とみなしている。例えそうであるにしても、西欧系世界史の如くにその征服史を堂々と記載すれば良かろうと思うが、それを不名誉なる恥とした弁えなのか、それとも別の理由によってか邪馬台国を不問にするという措置に出た。しかしながら、屈折した形で邪馬台国の存在を語らしめており、これにより、日本古代史の読み取りが極めて困難なものとなっている。史書があるだけマシとの判断もできるが、非常に複雑な日本古代史になっていることは疑いない。よって凡庸な頭脳では迷路に入ることはできても抜け出すことができない。

 もとへ。大和王朝時代の初期、全国各地に古墳が造営される。この時代を古墳時代とするならば、この時代のイメージは凡そ邪馬台国のもつそれとは程遠い。記紀神話に従う限り、大和王朝派は新天地を求めて海を渡ってきた。どこから来たかは定かではない。高天原とあるばかりで、その比定はない。その高天原系渡来人が天孫降臨により日向の高千穂の峯辺りに降ったとある。その彼らが周辺諸国を次第に従え、海を越えた向こうにあるという出雲王朝に闘いを挑む。これによれば、出雲王朝が日本史上最古の在地土着系王権国家であったことになる。この出雲王朝と邪馬台国の繋がりが不明であるが、大和王朝と邪馬台国の疎遠さに比すればよほど近いと推定し得よう。但し、この解明は全く進んでいない。

 かくて、高天原王朝対出雲王朝の闘いと云う古代史上最大の政変が始まる。これは記紀神話の記すところであり、この神話を否定するようでは古代史の解明は進まない。戦前の皇国史観の犯罪は、出雲王朝を下賤、高天原王朝を高貴とする史観に塗り込めていたところに認められる。このような史観では、日本古代史はさっぱり要領を得ないことになろう。それはともかく「ドラマティックな国譲り」を経て、神武東征譚に至る。この辺りは各地の神楽が伝えるところである。記紀記述のそれよりも、神楽演劇の方が史実に近い伝承をしている可能性が強い。

 もとへ。高天原王朝はやがて畿内に攻めのぼり、艱難辛苦の末に大和の地を掌中にし、大和王朝を創始し古墳時代を造る。これを系譜的に見れば、高天原王朝による倭国乗っ取りと云えよう。この時期が、微妙に邪馬台国時代と重なっていることが興味深い。仮に、邪馬台国勢力を当時のヤラレタ側に比定するならば妙に辻褄が合う。

 かくて畿内を統一した大和王朝は、縄文-初期弥生時代を牛耳っていた旧政権たる邪馬台国連合系の諸国の王国狩りに出向き、屈服させ、皇族有力者を殺し、抵抗勢力を根こそぎねじ伏せ、和を請えば許して従軍させ、逆らえば刺し殺して首を刎ね、力づくで倭国連合諸国を支配 した。ヤマトタケルの征服譚は、この視点から見れば理解し易い。ヤラレタ側は土地に封じ込められ、あるいは東へ東への移動を余儀なくされた。倭の五王の一人が中国に送った『我が祖先は闘いに明け暮れ、日夜山野を駆けめぐり、寧所(ねいしょ)にいとまあらず』 という状況はこの時代のでき事を書き残したもののように思える。

 彼らは、稲と鉄器を持ってやって来た。まず、北九州を征服し、神武東征譚に表象される如くに次第に東漸し、遂には大和の地を掌握した。それまでの銅鐸を用いていた民族は屈服させられ、銅鐸は急ぎ山腹に隠された。三十の国が集まって一人の女性をたて、それで国中を平和裏に治めていた邪馬台国連合国家は遂に滅ぼされた。こうして大和朝廷が創建された。

 但し、大和朝廷は、国譲り譚で明らかな如く、征服過程で懐柔策として諸国王系譜のうち有能なる者の登用を約束していた。こうしなければ邪馬台国征服が首尾よく進展しなかったからであると考えられる。これにより、大和王朝は、高天原王朝系、出雲王朝系その他を問わず官吏に用い、律令国家に向けての歩みを始めることになる。大和朝廷のその後は、高天原系、出雲系、邪馬台国系の内攻的な闘いへと向かうことになった。出雲系、邪馬台国系の能力に応じて、一時代を画していた出雲王朝、邪馬台国の記憶は大和朝廷下にも温存され辛うじて痕跡を留めることになった。『これが私がたどり着いた邪馬台国の姿であるが、さてその理論武装はどうしようか』」。

Re::れんだいこのカンテラ時評626 れんだいこ 2009/11/21
 【箸墓(はしはか)古墳を廻る新たな邪馬台国論考】

 2009年、箸墓(はしはか)古墳を廻るニュースが報道を賑わした。これについて、れんだいこコメントを発表しておく。箸墓古墳は「纒向(まきむく)古墳群」のヌシ的な古墳である。その古墳が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかとの関心から脚光を浴びている。いずれにせよ、「纒向古墳群」の科学的考証が進むにつれ、日本古代上の闇の部分が明らかにされつつあることは疑いない。ごく最近発表された箸墓古墳調査は、その歩を大きく進めた。まず、このことを確認しておきたい。以下、れんだいこ史観による日本古代史上の大胆な邪馬台国論争の時代を画する新分析を発表する。既に発表されているのかもしれない。そうだとすれば、その見解を支持する。

 「纒向古墳群問題」の隠された真のテーマは、「纒向古墳群の解明」によって、新たな邪馬台国論を浮上させることにある。爾来、邪馬台国論は、いずれもが大和王朝に接続する式での、九州説、畿内説、その他説の三スクミの中で論争されて来た。「纒向古墳群の解明」は、その虚構を撃ちつつあるのではなかろうか。目下、畿内説論者は、「纒向古墳群の解明」が畿内説邪馬台国論を補強するものとして期待を膨らませている。それに反して、九州説邪馬台国論者はしかめ面を増しつつある。そういう拮抗関係にある。

 しかしながら、れんだいこの見るところ、両者とも一喜一憂するには及ばない。「纒向古墳群の解明」は、かって纒向に大和王朝とは違う別系の王権が存在していたことを示しつつあると窺うべきではなかろうか。即ち、大和王朝に接続しない式の邪馬台国大和説を浮上させつつあると認めるべきなのではなかろうか。同じ邪馬台国大和説でも、大和王朝へと陸続する説と断絶しているとする説では面貌が大きく変わる。

 後者の説を採るならば、「纒向古墳群の邪馬台国」は大和王朝側に滅ぼされたのであり、為に「纒向古墳群の邪馬台国」は表向きの痕跡を消されたのもむべなるかなであり、これによりこの時代の解明は容易なことでは進まないようにされていることになろう。「纒向古墳群の解明」は、消された王朝とその時代を復元するものであり、即ち「纒向古墳群」は滅ぼされる前の邪馬台国として位置付られるべきものである。かく構えることによって却って光芒を放ちつつあるのではなかろうか。

 こう窺うことにより、次の推理が説得力を持つのではなかろうか。日本古代史の新視角として聞き流してほしい。論旨は異なるが「邪馬台国近畿説を往く -纒向遺跡-、歴史倶楽部第76回例会 2003.9.28(日)奈良県桜井市巻向に触発されたので謝しておく。

 「かって倭国は、その豊富な天然資源の賜物によってか平和的分棲の部族連合国家として独特の王朝楽土を形成していた。ここでは一々採り上げないが、その様は中国の各史書の記す通りである。邪馬台国は、この時代の最後の精華となる諸国連合国家であり、迫り来る高天原王朝迎撃を使命としていた。案外と高度な宗教的国家であったと思われる。この時代の政治、精神、文化が今日にも深く伝統化されていることを知るべきだと思う。

 その邪馬台国の比定は難しい。何とならば、邪馬台国の痕跡が一切消されているからである。唯一の手掛かりとして、魏志倭人伝の記述が遺されている。しかしながら、どういう事情によってかは定かではないが、記載された通りの方位と里程距離を辿ると邪馬台国に辿り着けない仕掛けになっている。なぜこのように筆法されたのか、その理由は今も分らない。

 そこで、後世の史家は、自説に不都合なくだりは記述が正しくないとして無理矢理に方位を替え、あるいは里程距離を訂正する解釈を生みだしこじつけた。それにしても、邪馬台国のみならず邪馬台国に至る直前の投馬国から途端に推定できない。直前の投馬国が推定できないからして投馬国の先に予定されている邪馬台国がまちまちにならざるをえない。九州説、畿内説、その他説然りで、これにより、投馬国、邪馬台国比定地が百家百言といっても良いほど様々な比定地を登場させることになった。

 いずれにしても、邪馬台国の後に大和王朝時代が始まるのは確かだ。ところが、日本は無論、中国、韓国の史書にも、魏志倭人伝記載後の邪馬台国のその後の動向が記されていない。奇妙なほどにプッツリ途絶えている。日本古代史書正史とみなすべき地位を得ている古事記、日本書紀があれども(以下、「記紀」と記す)、且つ記紀双方の記述が互いに訂正していると見られる箇所が相当数有るにも拘わらず、邪馬台国に関する記述は共にない。記紀以前の書と云われるいわゆる古史古伝にも記述がない。これは非常に不自然なことである。

 これをどう窺うべきか。一つは、魏志倭人伝を架空のユートピア論とみなせば足りる。もう一つは、れんだいこはこれに従うが、大和朝廷が邪馬台国の流れを汲んでいない故、否むしろ邪馬台国を撲滅解体した側に位置する故、痕跡を消すのに忙しく、意図的に抹殺したとみなしている。しかし、例えそうであるにしても、西欧系世界史の如くにその征服史を堂々と記載すれば良かろうと思うが、それを不名誉なる恥とした弁えなのか、それとも別の理由によってか邪馬台国を不問にするという措置に出た。辛うじて屈折した形で邪馬台国の存在を語らしめており、いわゆる暗諭方法を採用している。これにより、日本古代史の読み取りが極めて困難なものとなっている。史書があるだけマシとの判断もできるが、非常に複雑な日本古代史になっていることは疑いない。よって凡庸な頭脳では迷路に入ることはできても抜け出すことができない。

 もとへ。大和王朝時代の初期、全国各地に古墳が造営される。この時代を古墳時代とするならば、この時代のイメージは凡そ邪馬台国のもつそれとは程遠い。記紀神話に従う限り、大和王朝派は新天地を求めて海を渡ってきた。どこから来たかは定かではない。高天原とあるばかりで、その比定はない。その高天原系渡来人が天孫降臨により日向の高千穂の峯辺りに降ったとある。その彼らが周辺諸国を次第に従え、海を越えた向こうにあるという豊芦原瑞穂の国の算奪を決意する。その手始めと地均しに出雲王朝に闘いを挑む。これによれば、出雲王朝が日本史上最古の在地土着系連合王権国家であったことになる。この出雲王朝と邪馬台国の繋がりが不明であるが、大和王朝と邪馬台国の疎遠さに比すればよほど近いと推定し得よう。但し、この解明は進んでいない。

 かくて、高天原王朝対出雲王朝の闘いと云う古代史上最大の政変が始まる。これは記紀神話の記すところである。この神話を否定するようでは古代史の解明は進まない。この辺りは各地の神楽が伝えるところである。記紀記述のそれよりも、神楽演劇の方が史実に近い伝承をしている可能性が強い。戦前の皇国史観の犯罪は、出雲王朝を下賤、高天原王朝を高貴とする史観に塗り込めていたところに認められる。このような史観では、日本古代史はさっぱり要領を得ないことになろう。それはともかく「ドラマティックな国譲り」を経て、神武東征譚に至る。

 高天原王朝はやがて畿内に攻めのぼり、二ギハヤヒと長脛彦率いる河内王権派との激闘に入り、艱難辛苦の末に紀州の熊野経由で大和の地を掌中にし、大和王朝を創始し古墳時代を造る。これを系譜的に見れば、高天原王朝による倭国乗っ取り完遂と云えよう。この時期が、微妙に邪馬台国時代と重なっていることが興味深い。仮に、邪馬台国勢力を当時のヤラレタ側に比定するならば妙に辻褄が合う。

 かくて畿内を統一した大和王朝は、縄文-初期弥生時代を牛耳っていた旧政権たる邪馬台国連合系の依然としてまつろわぬ諸国の豪族狩りに出向き、屈服させ、有力者を殺し、抵抗勢力を根こそぎねじ伏せ、和を請えば許して従軍させ、逆らえば刺し殺して首を刎ね、力づくで倭国を支配した。ヤマトタケルの征服譚は、この視点から見れば理解し易い。ヤラレタ側は土地に封じ込められ鬼化させられる。あるいは東へ東への移動を余儀なくされた。アイヌ蝦夷系の北上逃亡史はこれに歩調を合わしているように見える。倭の五王の一人が中国に送った『我が祖先は闘いに明け暮れ、日夜山野を駆けめぐり、寧所(ねいしょ)にいとまあらず』という状況はこの時代のでき事を書き残したもののように思える。

 彼らは、稲と鉄器を持ってやって来た。この二つが先進的文明的な利器となり大いに力を発揮した。まず、北九州を征服し、神武東征譚に表象される如くに次第に東漸し、遂には大和の地を掌握した。それまでの銅鐸を用いていた民族は屈服させられ、銅鐸は急ぎ山腹に隠された。三十諸国が集まって一人の女性をたて、それで国中を平和裏に治めていた邪馬台国連合国家は遂に滅ぼされた。こうして大和朝廷が創建された。かく推定できるのではあるまいか。

 但し、大和朝廷は、国譲り譚で明らかな如く、征服過程で懐柔策を用いざるを得なかった。政治権力は譲らせるが宗教的権威とその限りでの活動は認めるというものであった。それほどに征服される側の国家及び社会秩序形成能力が高かったということでもあろう。これにより、西欧史に見られるような完全絶滅ジェノサイド策は採られていない。懐柔策のもう一つとして、在地土着系豪族のうち有能なる者の登用を約束していた。こうしなければ邪馬台国征服が首尾よく進展しなかったからであると考えられる。

 これにより、大和王朝は、高天原王朝系、出雲王朝系その他を問わず官吏に用い、律令国家に向けての歩みを始めることになる。新国家は大陸文化の咀嚼に向かい、和魂漢才を発揮し始める。その摂取の仕方に於いて古尊派、革新派が競い始める。且つ新たな日本政治、社会、文化を発酵させ始める。大和朝廷内の権力は、高天原系、出雲系、邪馬台国系の内攻的な闘いへと向かい暗闘し続けることになった。

 大和王朝前の時代を画していた出雲王朝、邪馬台国の記憶は、出雲系、邪馬台国系官吏の能力に応じて温存され、辛うじて痕跡を留めることになった。ざっと荒削りであるが、これが日本古代史の流れであり伝統であり今も息づいているのではあるまいか。『これが私がたどり着いた邪馬台国の姿であるが、さてその理論武装はどうしようか』」。

 2009.11.21日 れんだいこ拝

 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「箸墓は卑弥呼の墓か」を転載しておく。
 卑弥呼の墓が古墳 ?

 弥生の年代修正の影響は、邪馬台国論争で畿内説が極めて有力になったというだけに止まりませんでした。弥生時代に対する近畿地方の年代変更が行われた結果、思いがけない事態が発生しました。古墳時代の始まりと、卑弥呼の死亡時期が接近し、卑弥呼の墓が古墳である可能性が強まってきたのです。卑弥呼の墓が古墳! まったく、びっくりするような話になってきました。

 卑弥呼が死亡したのは、『魏志倭人伝』などの文献によって、3世紀中ごろの247年か、248年とわかっています。それに対して、古墳時代の始まりは、これまで3世紀末(大体280年ごろ)とするのが、考古学者の一般的な見方でした。つまり、邪馬台国も卑弥呼も、これまでは古墳時代とはあまり関係ない、と思われていたのです。 ところが、池上曽根遺跡で年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的に見直す動きが進み、今では、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっています。卑弥呼の死亡時期とピタリと重なってきます。邪馬台国の時代と、古墳時代が時間的につながってきたのです。卑弥呼が死んで葬られた墓は、じつは日本で最初に造られた巨大な前方後円墳ではないか、という見方が現実となってきます。

 もっと具体的にいえば、考古学者の間では、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓(箸中山古墳)(写真左上)をもって、卑弥呼の墓とする見方が、にわかに注目され始めました。すでに箸墓を卑弥呼の墓の最有力候補とする暗黙の合意が、研究者の間に成立しつつあるといっても、過言ではないと私には思えます。

 邪馬台国論争はここにきて、九州か畿内かという次元を越え、思わぬ展開を見せ始めたのです。

 纏向遺跡の古墳群

 日本で最初に巨大な前方後円墳群が出現するのは、大和盆地東南部の三輪山山麓です。それらは日本で最初の統一政権、大和朝廷の有力者の墓として築かれたものですが、山の辺の道に沿って行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓などが1~2キロの間隔で並んでいます。これらの古墳群のなかでも最古の前方後円墳とされる箸墓のある纏向遺跡には、さらに古い古墳群があります。石塚や矢塚など弥生の墳丘墓と呼ばれるものですが、これらの墳墓群もすでに前方後円形をしています。「ホタテ貝型」と呼ばれる墳墓です。また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります。これはすでに前方後円墳の形をしています。つまり、纏向遺跡では、いくつかの大きな弥生の墳丘墓が築造されたあと、箸墓という最初の巨大な墓が出現します。

 この纏向遺跡の数キロ西には、弥生時代の「近畿の首都」ともいうべき唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡があります。おもしろいことに、纏向遺跡は、ちょうど唐古・鍵遺跡と入れ代わるように出現します。紀元180年ごろに突如として姿を現し、大いに栄えたあと、紀元340年ごろ、急速に衰退するとされています。卑弥呼が女王になったのが紀元180年ごろですから、まさに、邪馬台国から初期大和朝廷の時代に重なります。しかも、邪馬台国から大和朝廷へのちょうど境目に箸墓は位置するわけです。

 不思議な箸墓伝説

 卑弥呼の墓と目される箸墓は、初期大和朝廷の創始者、崇神天皇の古墳(写真右)よりも前に造られています。『日本書紀』によると、箸墓は倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。また「昼は人が造り、夜は神が造った」という不思議な伝説を伝えています。伝説のとおり、箸墓のそばに近づいてみると、見上げるような高さと、巨大さを実感します。平地から直接、土を盛り上げて急勾配に造られているためです。崇神天皇陵や、景行天皇陵など、大和朝廷の初期の天皇陵も大きさでは箸墓と変わりませんが、これらは自然の地形を利用して造られているため、箸墓ほどの巨大さは感じません。築造の手間という点では、箸墓の方がずっと人手がかかっているように思えます。

 ヤマトトトヒモモソヒメ・・・・以下、百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、と『日本書紀』には描かれています。何か予言の能力のようなものを持っていたようですが、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます。そこから箸墓という名がついたようです。この女性が、『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼のシャーマン的な姿と重なるのは事実です。「昼は人が造り、夜は神が造った」と伝説がいうとおり、箸墓も、百襲姫も、十分な存在感と神秘性をもっています。

 径百歩の塚

 ところで、箸墓を卑弥呼の墓とする考え方は、じつはもっと以前からありました。百襲姫と卑弥呼のシャーマン的な性格が共通するということのほかに、箸墓の後円部の大きさが、『魏志倭人伝』にある卑弥呼の墓の大きさとよく符合するという指摘です。『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき造られた墓の大きさについて、「径百余歩」と記されています。百余歩とは、当時の中国の魏の尺度である1歩=145センチを基準にすると、150メートル前後になります。箸墓の後円部の大きさ約160mとよく合うわけです。日本中の弥生の墳丘墓を探してみても、これほど大きな墓はありません。しかし、これまでは箸墓の築造時期と、卑弥呼の死亡時期が合わないということで、この考え方はあまり取り上げられてきませんでした。箸墓=卑弥呼の墓説が、本当に多くの研究者に現実のものとなってきたのは、やはり、年輪年代法によって近畿地方の弥生の年代観が決定的に変わった数年前からです。

 大市は大巫女か

 箸墓の名称は、宮内庁によると「倭迹迹日百襲姫命の大市墓」となっています。この箸墓のある纏向遺跡こそ、今では邪馬台国の候補地としてきわめて有力になっているわけですが、このあたりの発掘で、ちょっと気になる出土品が出ています。 纏向遺跡の河跡から出土した7世紀の土器には、「大市」と推定できる墨の文字(墨書)が書かれていました。『日本書紀』には、百襲姫が葬られた場所を「大市」とする記述があり、これとも符合し、まさにこの土地の名を記しているようです。古代には、このあたりは「纏向」と呼ばれ、磯城郡大市郷でした。「大市」にしろ、「纏向」にしろ、相当古い地名に違いありません。

 この「大市」という名については、「大きな市」という意味がすぐに浮かびます。交易の盛んな町というイメージで、纏向遺跡の都市的な性格を反映しているとされています。倭人伝には、「国々市あり、有無を交易し」とあり、邪馬台国ではいろいろな物品の交易が盛んに行われていたことを記しています。地名の由来としては、もちろんそれで十分筋が通っているわけですが、この「市」という呼び名について、民俗学の大家、柳田国男がじつに興味深い考えを示しています。「山の人生」の中で、彼は次のように述べています。

 「イチは現代に至るまで神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女(みこ)などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母の子とともにあるときは、その子の名を小市(こいち)または市太郎とも伝えていた」

 柳田国男はもちろん百襲姫の「大市墓」について書いているのではありませんが、彼の考えによれば、大市は「大巫女」または「母巫女」であるということです。さらに、母子ともに巫女だった場合は、子供の方を「小市」と呼んだという。すると、「大市」と「小市」とは、「大市」の卑弥呼にたいして、卑弥呼の養女で、後継者の台与が「小市」だったのではないか、とも推測できるわけです。シャーマン的な卑弥呼の姿と、百襲姫は、やはりここでも重なってくるわけです。

 箸墓が発掘されれば・・・・

 日本書紀が編纂されたのは、8世紀のことで、卑弥呼あるいは百襲姫の死からは、何百年も後のことです。大市に葬るとある「大市」とは、いったいいつ頃できた地名なのか明らかでありませんが、もともと百襲姫の存在、そして箸墓の存在をもって、大市という地名が生まれたではないか、とも考えられます。この地名はひょっとしたら、邪馬台国時代までさかのぼるものなのかもしれません。  では、卑弥呼の墓としてこれほど有力になった箸墓を発掘すれば、本当に卑弥呼の遺骸が現れるのでしょうか。もし発掘が可能であれば、卑弥呼が現れてくるのかもしれませんが、現在のところ、箸墓は宮内庁の陵墓参考地となっているため、残念ながら発掘はおろか、自由な立ち入りも許されていない状況です。そして、仮に箸墓が発掘されても、これまでの例からいって、遺骸が残されている可能性は少ないかもしれません。これは日本の気候が関係していると思いますが、これまでの古墳などの発掘では、遺骸が残されているケースは、あまりないからです。しかし、卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる「親魏倭王」の金印や中国魏代の絹織物、そして3世紀前半に位置づけられる大量の魏鏡などの文物が出土すれば、卑弥呼の墓は箸墓で決まりということになる、と思います。

 ところで、卑弥呼に百襲姫を重ねたとき、どうしても気になることがひとつあります。邪馬台国と大和朝廷は、いったいどういう関係になるのでしょうか・・・・。どうも初代崇神天皇と、百襲姫の間には何か不穏な空気が感じられるのです。(2004年3月)

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 参考になりそうな記述を取り込んでおくことにする。
 庄内新式の古墳から三角縁神獣鏡がある程度出ている。 青龍三年の銘の方格規矩鏡もでている。庄内新式よりも前の庄内併行期の古墳からは今のところ三角縁神獣鏡や年号鏡が出ていない。即ち、庄内新式が始まった時代が三角縁神獣鏡の初期の時代に対応していることになる。もっとも初期型とされる三角縁神獣鏡は景初三年、正始元年の年号をもつので、このことから考えると庄内新式の始まる時代が240年から墓に副葬されるまでの期間を考えた時代ということで250年前後になる。庄内新式の時代は、250年から280年ぐらいまでと考えられる。卑弥呼の死は247年ないし248年と推定されている。丁度、庄内新式の時代に対応していることになる。箸墓は庄内新式古墳である。後円部の直径は150メートル程度で、魏志倭人伝記載の「径百余歩」から計算される150メートル程度と完全に一致する。年代と径の大方一致で、箸墓以上によくマッチするものはない。
 古学的に分かるのは、3世紀前半からますます発展する大和の政権というものが見える。この時代に、大和以外で、これほどの規模になるものはない。九州で平原墓を除いて王墓が発見できていない。3世紀前半から後半にかけて中国と交流を示すものは、 大和を中心とした古墳勢力の遺跡(古墳など)からしか発見できていなない。よって、邪馬台国連合というものが、古墳勢力と密接な関係があると考えるしかなく、古墳勢力は、その後の大和政権にかなりダイレクトに繋がると推定される。

 1996年の年輪年代による大幅な年代観の補正に伴い、九州の3世紀代の遺跡から、中国との交流を示すものが皆無といって良い状況になり、一方、庄内併行期が3世紀前半(従来は3世紀末から4世紀といわれていた)となったことで、古墳時代の始まりが3世紀中葉から後半になり、およそ100年から150年時代が繰り上がったことで、大和説がますます根拠をもつようになった。 一方の九州説は、従来の3世紀の遺跡とされていたものは、その多くが2世紀初頭までの遺跡になってしまった。つまり、九州では、 弥生時代後期を最後に中国との交流の痕跡が消えてしまう。庄内併行期の墓である伊都国王墓とされる平原墓でも、入っているものは後漢中期の鏡である。

 今回の年代測定の精密化により、箸墓がぴったりと卑弥呼の墓と同時期であることが判明した。卑弥呼の墓であるかどうかは別としても、 あの時代に既にあのようなものが作られていたこと、および、 卑弥呼と同時代から大和政権の時代への墓の連続性が確認されたことが、大きい。卑弥呼が仮に別のところにいたとしても、それとおそらく拮抗する大きな勢力が 同じ時代に既に大和付近に存在していたことは、これで誰もが認めざるを得ないわけで、もしそれが邪馬台国ではないと、いったいなにであろうかということになる。

 素人考えですが、近畿にあった邪馬台国を、九州からやってきた皇室の先祖が乗っ取って出来たのが大和朝廷であり、そこらへんの事情が曖昧ながらも記紀の記述に反映していると考えられる。

 纏向の5つの纏向式のうち、葺石があるのはホケノ山だけ。石で墳丘を保護するというのは早くから山陰で発達してる。 後の古墳につながるのは、葺石という点では九州じゃなくて山陰。ちなみに、その他では、竪穴式石室は吉備・瀬戸内に、前方後円形の墳丘は瀬戸内に、それぞれ起源が求められる。ちょっと遅れるけど、埴輪の起源は吉備の特殊器台。これらは九州文化じゃない。こういうものを全部いっしょくたにして畿内で成立したのが、前方後円墳。また、出土土器の量からすると、東海がかかわっていることも間違いないと思ふ。初期の巨大古墳として有名な箸墓古墳は、畿内の特徴である前方後円墳に、吉備の特徴である特殊器台(埴輪の原型)を並べており、 邪馬台国(畿内)と投馬国(吉備)の協調を示すものとする見方もある。

 箸墓古墳が出来た頃に大和地方に新しい征服者がやってきたと仮定すると、この頃、銅鐸が廃棄されたことと符合する。宗教上の祭器を打ち壊すにつき、強力な異民族の浸入があった可能性が強い。

 七万戸を有する邪馬台国の領域は畿内広域が考えられ、纏向はその都に目されている。纏向の発掘は未だ一部しかされていないが、今のところは決定づけるものは 見つかっていない。なお、飛鳥以前の都については、木簡とか文字資料が出ないので、考古的には 断定できない。 ちなみに日本書紀には、垂仁天皇が纏向珠城宮に、景行天皇が纏向日代宮に 都をつくったと記されている。

 戦後活躍した九州在住の在野考古学者で平原遺跡の発掘で有名な原田大六氏は、古墳時代をムリに遅らせる動きに反対し、箸墓古墳=卑弥呼の墓説を支持していた。

 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2000oct/13/06.html
 Kyoto Shimbun 2000.10.13 News
 豪華な弥生の「頭飾り」  峰山の赤坂今井墳丘墓で出土

 第3次調査で見つかった頭飾りや耳飾り。頭の位置には埋葬の際に使われた赤い朱が残る(京都府中郡峰山町・赤坂今井墳丘墓)

 弥生時代の墳丘墓では国内最大級とされる赤坂今井墳丘墓(京都府中郡峰山町赤坂) で第三次発掘調査を行っていた峰山町教委と府埋蔵文化財調査研究センターは十二日、 ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計二百十一個を使った豪華な「頭飾り」と 「耳飾り」が見つかった、と発表した。墳丘墓の上にある六基の埋葬施設のうち 二番目に大きい第四主体部から出土した。府埋文センターによると、このような 玉類を使った頭飾りの出土は国内や中国・朝鮮半島でも例がないといい、「独自の 文化を持った巨大勢力が、弥生時代から丹後に存在していたことを裏付けている」と 話している。

 今回の調査で第四主体部から、長さ四・四メートルの丸木舟型をした木棺と見られる 埋葬跡を発見。その底から、ガラス製の勾玉(まがたま)と、碧玉やガラス製の管玉 (くだたま)が大量に出土した。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた 人物の頭を取り巻くように並んでいることから、頭を飾る宝冠のようなものらしいという。

 出土した頭飾りの復元模型。管玉の先端は胸まで届く

 また、両耳にあたる部分には、管玉をすだれのように組み合わせ、先端に小さな 勾玉を下げた「耳飾り」も確認された。頭飾りに付けられている勾玉は長さ一・五~ 四センチ、管玉は長さ二センチで、一部は青い輝きを残していた。

 棺の中からは鉄剣とヤリガンナも各一点出土。府埋文センターは「きらびやかな 頭飾りに加え、武器類が少ないことから、第四主体部には、女性が葬られていた 可能性が高い」と分析。女性は「第一主体部に埋葬されているとみられる王の配偶者 ではないか」としている。

 赤坂今井墳丘墓は昨年秋、道路工事計画に伴う発掘調査で見つかり、弥生時代後期末 (三世紀前半)に造られたことがわかった。弥生時代では国内最大級で、「丹後王国に つながる王の墓ではないか」として注目された。

 今回の調査で、墳丘墓は東西三五メートル、南北三七・五メートル、高さ四メートル で、昨年の調査よりさらに東西に二・五メートル大きいことがわかった。また、第一 主体部からは、葬送儀礼の施設跡とみられる柱穴の跡も確認された。  現地説明会は十五日午後二時から行われる。
 
 古事記で大きく扱われている出雲も、次々と独自性を示す出土品が得られています。弥生時代には、山陰発祥の四隅突出型墳丘墓が、全盛期には北陸まで広がり、 古墳時代前期には、日本各地が前方後円墳体制に取り込まれていく中でも、 出雲は四隅突出型墳丘墓から派生した形状の方墳が主流だったように、異端。 古墳時代後期に、ずっと前に廃れた東海発祥の前方後方墳が多数作られたり、 仏教文化の広まりで、他の地域が縄文時代晩期からの勾玉など伝統的な祭祀品を 作らなくなっても、出雲だけは作り続けるようにユニーク。出雲をどう解釈すべきか?

 ホケノ山古墳、卑弥呼の時代に築造 掲載日2000年03月28日(共同通信=佐賀新聞)

 最初期の前方後円墳として注目されていた奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長約八十㍍)が三世紀中ごろに造られたとみられ、埋葬施設が確認された最古の前方後円墳と分かった。卑弥呼の時代に前方後円墳が奈良盆地東南部で発生したことを示す重要な発見。大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会(委員長・樋口隆康県立橿原考古学研究所長)が二十七日、発表した。(4、31面に関連記事)

 同古墳は邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡の一角にあり、棺を保護する木槨(もっかく)の周囲を石で囲った埋葬施設「石囲い木槨」や、中国製とみられる画文帯神獣鏡などが見つかった。卑弥呼が魏から与えられた「銅鏡百枚」のうちの一枚だった可能性もあり、邪馬台国畿内説を補強する有力な材料になりそうだ。

墳丘の規模は当時最大。後円部の埋葬施設は南北向きに築かれ、長さ約七㍍、幅約二・七㍍。河原石積みの壁の内側を針葉樹の木材を並べた木槨で囲っていた可能性が高い。前方後円墳で木槨が見つかったのは初めて。天井は木材を並べた上に石を積んでいたらしい。 内部にはコウヤマキ製の木棺が置かれていたとみられ、推定で長さ五㍍、幅一㍍のくりぬき式。頭をどちらに向けて葬られていたかは不明。 時期が近い木槨墓は朝鮮半島のほか、国内では弥生時代終末期の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市)などの例がある。石積みの構造は黒田古墳(京都府園部町)など近畿や瀬戸内東部の弥生終末期―古墳時代初期の墳墓の竪穴式石室に似ている。 前方部は隣の箸墓(はしはか)古墳と同様三味線のばち形に開くと推定され、発生期の特徴を示す。 棺内には直径約十九㌢の画文帯神獣鏡一枚や鉄剣五本などがあり、大量の水銀朱もまかれていた。鏡は棺の南寄りで発見。文様の鋳あがりが非常に良く、後漢末―三国時代の中国製とみられるという。 埋葬施設内には墳丘上から落ち込んだとみられる祭祀(さいし)専用の二重口縁壷(つぼ)=三世紀中ごろ=が約二十個見つかった。埋葬施設上を縁取るように方形に並べられ、後の埴輪(はにわ)の配列との共通性がうかがえる。

〈銅鏡100枚の一つ〉
樋口隆康・県立橿原考古学研究所長(大和古墳群学術調査委員長)の話 画文帯神獣鏡のうち今回出土した同向式と呼ばれる形式は約五十面が残っている。文様から、後漢末から三国時代の中国での製作とみられ、同じタイプの鏡が畿内に集中して出土していることからも、卑弥呼が魏から二四○年にもらった「銅鏡百枚」の一つと考えて少しもおかしくない。邪馬台国畿内説の有力な証拠だ。
 「日本書紀」の伝承では、箸墓古墳の被葬者は、崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫とされている。いっぽう、崇神天皇陵古墳については、四世 紀中ごろの築造と見るのが、考古学者の多数意見である。とすれば、箸墓古 墳の築造年代も、四世紀中ごろとし、崇神天皇陵古墳とほぼ同時代としたほ うが、文献的事実ともあう。

 私は、ホケノ山古墳を、西暦300年ごろに築造されたもの、箸墓古墳 を、西暦350年ごろ以降に築造されたものとみる。 西暦247か248年になくなった卑弥呼と結びつかない。 画文帯神獣鏡がでたことなどは、古墳の築造年代をきめる上で、なんの 参考にもならない。 画文帯神獣鏡は、全国で、およそ150面出土しているが、ほとんどは、四 世紀代の古墳から出土している。 なかには、埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳のように、五世紀 末の、雄略天皇時代のものとみられる古墳からも出土している。そして、「神獣鏡」は、長江下流域の中国南方系の鏡である。中国北方 の魏と交際のあった邪馬台国の鏡として、ふさわしくない。平原古墳の 39面の鏡などは、すべて、中国北方系の鏡である。

 卑弥呼が、魏からもらった鏡はすでに中国の代表的考古学者、王仲殊氏、徐苹芳氏などが強くのべているように、方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、き 鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などであり、三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡ははいらない、とみるべきである。

 三角縁神獣鏡も、画紋帯神獣鏡も、卑弥呼が魏からもらった鏡とすると、総数で我が国から600面以上すでに出土していることになる。卑弥呼がもら った100面の鏡としては、数が多すぎる。画紋帯神獣鏡も、三角縁神獣鏡とおなじく同型鏡が、数多く出土している。 今、出土しているものは、ほとんどが、我が国でつくられたものであろう。 いわゆる踏み返し鏡といわれるコピー鏡であろう。 ホケノ山古墳の示す事実そのものは、「魏志倭人伝」の記述に合ってい ない。 事実を無視して、大々的なPRに走ってはならない。
 土器型式から、最古級の前方後円墳とされる纏向石塚古墳は、年輪年代によると200年頃で、これを画期とすれば、卑弥呼の時代は古墳時代に最初期となる。 また、古墳からは、魏や呉の紀年鏡も幾つか見つかっており、上限を与える。 安本氏は、この年代では九州説に都合が悪いので、根拠のないデタラメな年代観で 強引に突っ走ろうとしているだけなので、相手にされていない。

 ●揺れる弥生の年代観 年輪年代法の最新情報 朝日新聞・奈良版(10/8)より抜粋
 http://mytown.asahi.com/nara/news01.asp?c=5&kiji=102

 弥生時代と古墳時代の過渡期の土器とされる庄内式土器が出土した纒向石塚(桜井市)の場合、用途不明の板の年輪年代が推定で一九五年ごろだった。 庄内式土器の通説である三世紀中ごろより、約五十年古い。

 古墳時代前期の二口かみあれた遺跡(石川県志雄町)は、建物跡の柱の年輪年代が 推定二五〇年ごろ。古墳時代前期の通説である四世紀初めより、やはり約五十年古い。

 奈文研の金子裕之・研究指導部長は「土器様式で年代を考えてきた私たち考古学 研究者にはつらい結果だが、土器は基本的に相対年代しかわからない。実年代を 推定する根拠にしていた中国の青銅製品などに代わって、年輪年代による実年代から 年代観を再検討すべきだろう」と話している。

 





(私論.私見)