【国津神と天津神考、高天原は何処考】

 (最新見直し2015.08.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、日本神話上の国津神と天津神の解析をしておく。参考文献 「日本神話の御殿」、「真説「国津神と天津神」考」その他

 2008.4.9日、2010.10.05日再編集 れんだいこ拝


【高天原考】
 高天原は、たかまがはら、たかまのはらと読まれる。神道教義上は、天照大神を中心に八百万神(やおよろづのかみ)の集議によって治まる世界を云う。神道では、この高天原に理想的な世界を見出し、安国(やすくに)と意義づけている。この高天原の規範を「神習」(かんならう)、「随神」(かんながら)と云う。その政体を「天つ宮」とも「朝廷」(ちょうてい)とも云う。その裁きを「天つ宮事」と云う。大祓の詞の「天つ宮事もちて」として登場している。

 れんだいこのカンテラ時評№1107 投稿者:れんだいこ
 投稿日:2013年 2月19日

 国津神と天津神考、高天原は何処考その1

 2013.2月頃、れんだいこブログに日本古代史関係の推論を数典記した。題名で確認すると「2013.2.11建国記念日に思う」、「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続」、「れんだいこの日ユ同祖論否定論その1」、「れんだいこの日ユ同祖論否定論その2」がそれである。同時並行して西欧宗教史関係の「キリスト教の親ネオシオニズム性考」、「ヨハネの黙示録考その1、れんだいこの読後感」、「ヨハネの黙示録考その2、総合解説」をものしている。

 これがどう絡むのか説明は難しいが恐らく、れんだいこの心象に於いて「古代史の秘密」を正しく解こうとする情動が密接に絡んでいるだろうと思っている。この観点から、今まで言及してこなかったもう一つの秘密について推理しておく。

 その前に一言。「★阿修羅♪空耳の丘61」の「れんだいこの日ユ同祖論否定論その1」のコメント07に、「日猶同祖論を否定するのはキチガイ」論なるものが開陳されている。それによると、れんだいこは「狂信的な反猶太」であり、「要注意人物」であり、「おそらく在日朝鮮人の工作員に違いない」とのことである。時代が大きく変わったことが分かる。何しろ「日猶同祖論を否定するのはキチガイ」ですぞ。日本はいつからこれほどの「親猶太」社会になったのだろう。浦島太郎の気分にさせられてしまう。

 もとへ。記紀神話を読めば、日本神話に登場する神々は天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)に系譜的に分かれている。天津神は高天原から天降ったとされる神の総称である。それに対して国津神は天津神が来日してくる以前の日本列島各地に生息していた土着の神々の総称である。日本神話は、この識別の上で天津神系を正統とする観点から天地創造譚、神々誕生譚、国譲り譚、神武東征の国取り譚、歴代天皇譚を記している。

 問題は、その読み解きに於いて論者の理解が錯綜していることにある。その原因は、天津神系神話の中に国津神系神話が混入され混然一体化されている為と考えられる。その最大の難関が天照大神、スサノオの命、二ギハヤヒの尊の正体である。れんだいこには、天津神系で捉えたり国津神系で捉えたり複相しているように見受けられる。当然、臣下の諸豪族も複相することになる。

 これでは歴史が解けない。にも拘わらず百人百様の理解の混然化したままに日本神話が語り継がれている。ここに日本神話が決して史書足りえず神話譚として受け止めざるを得ない所以がある。とは言いながら、記紀は随所で日本古代史を克明に記しているので貴重な史書とせざるを得ない。しかし、どこまでが本当の史書で、どこが偽書なのか、あるいはどういう筆法で婉曲表現しているのかが定かでない。これを「日本神話ジレンマ」と命名することにする。

 れんだいこはこれまで、記紀神話に記述されている天津神系と国津神系の抗争を前提として、「善玉天津神、悪玉国津神論」で説き分ける皇国史観の非を指摘してきた。むしろ出雲王朝、邪馬台国を国津神系に見てとり、国津神系是論とでも云うべき観点から古代史の秘密を解き明かしてきた。これは何もれんだいこの初見ではなく、これまでも幾多の論者が主張してきている。但し、その論者のいずれもが「歴史の縦の糸」を紐解けず、道中で理論破産させているように見受けられる。れんだいこの立論に功績が認められるとすれば、首尾一貫した国津神系皇統譜を見極めようとしているところにあると自己解析している。

 「天津神国津神考」の必要は、そうした「日本神話ジレンマ」を読み解くことだけに意義があるのではない。もう一つ、天津神系よりする記紀神話に依拠して日本古代史を読み取るのではなく、天津神渡来以前の国津神系の統治していた日本古代社会を読み取る為にも必要となっている。この社会を解析せねばならない理由として、「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続」に記したが、かの時代、これを仮に縄文的古神道の時代と規定すると、この時代は今日的に見ても世界に通用する汎神論的共生思想を持つ等、精神性が気高い。且つそのことに規定されてと思われるが、今日的秤りでは評価されないものの秤り方を変えれば、思われている以上に高度高級な神人和楽文明社会、技術社会を形成していた形跡が認められる。この社会を検証し称賛し、今に活かさねばならないと考えている。

 なお且つ天津神渡来によって国津神系が駆逐滅亡されたのではなく、激しい攻防戦の末、或る時点より両者が「和をもって尊し」とする手打ち式和睦路線に道を開き、婚姻等も含め両者融合の日本史を切り開き、あるいはそれぞれがそれぞれの生活圏を維持しながら棲み分けしてきた形跡が認められる。それは、世界史に認められるような勝者が敗者を絶滅させない叡智に導かれている。この伝統がはるけき今日まで継承されているのではなかろうかと推理している。もっと云えば、日本の政治権力史は天津神系が掌握して来たものの、その裏面史は常に国津神系が支えてきたと思っている。

 そういうこともあって、天津神渡来以前の日本国体の姿と能力を探るべきだし、決して祖略に扱うべきではないと思っている。これを思えば、皇国史観は子供段階の暴論イデオロギーでしかなかった。戦後、そのような皇国史観を捨てたからと云って何も解決していない。津田史学の限界がここに認められる。我々はもっと日本古代史に光を当て、大人の日本国体論を獲得すべきではなかろうかと思う。

 2010.10.5日、2013.2.19日 再編集 れんだいこ拝

 jinsei/


【国津神と天津神考、高天原は何処考その1】
 2013.2月頃、れんだいこブログに日本古代史関係の推論を数典記した。題名で確認すると「2013.2.11建国記念日に思う」、「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続」、「れんだいこの日ユ同祖論否定論その1」、「れんだいこの日ユ同祖論否定論その2」がそれである。同時並行して西欧宗教史関係のキリスト教の親ネオシオニズム性考」、「ヨハネの黙示録考その1、れんだいこの読後感」、「ヨハネの黙示録考その2、総合解説をものしている。これがどう絡むのか説明は難しいが恐らく、れんだいこの心象に於いて「古代史の秘密」を正しく解こうとする情動が密接に絡んでいるだろうと思っている。この観点から、今まで言及してこなかったもう一つの秘密について推理しておく。

 
その前に一言。「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ61」の「れんだいこの日ユ同祖論否定論その1」のコメント07に、概要「日猶同祖論を否定するのはキチガイ」論なるものが開陳されている。それによると、れんだいこは「狂信的な反猶太」であり、「要注意人物」であり、「おそらく在日朝鮮人の工作員に違いない」とのことである。時代が大きく変わったことが分かる。何しろ「日猶同祖論を否定するのはキチガイ」ですぞ。日本はいつから「日猶同祖論を肯定」する「親猶太」社会になったのだろう。浦島太郎の気分にさせられてしまう。

 
もとへ。記紀神話を読めば、日本神話に登場する神々は天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)に系譜的に分かれている。天津神は高天原から天降ったとされる神の総称である。それに対して国津神は天津神が来日してくる以前の日本列島各地に生息していた土着の神々の総称である。日本神話は、この識別の上で天津神系を正統とする観点から天地創造譚、神々誕生譚、国譲り譚、神武東征の国取り譚、歴代天皇譚を記している。

 問題は、その読み解きに於いて論者の理解が錯綜していることにある。その原因は、天津神系神話の中に国津神系神話が混入され混然一体化されている為と考えられる。その最大の難関が天照大神、スサノオの命、二ギハヤヒの尊の正体である。れんだいこには、天津神系で捉えたり国津神系で捉えたり複相しているように見受けられる。当然、臣下の諸豪族も複相することになる。これでは歴史が解けない。にも拘わらず百人百様の理解の混然化したままに日本神話が語り継がれている。ここに日本神話が決して史書足りえず神話譚として受け止めざるを得ない所以がある。とは言いながら、記紀は随所で日本古代史を克明に記しているので貴重な史書とせざるを得ない。しかし、どこまでが本当の史書で、どこが偽書なのか、あるいはどういう筆法で婉曲表現しているのかが定かでない。これを「日本神話ジレンマ」と命名することにする。

 れんだいこはこれまで、記紀神話に記述されている天津神系と国津神系の抗争を前提として、「善玉天津神、悪玉国津神論」で説き分ける皇国史観の非を指摘してきた。むしろ出雲王朝、邪馬台国を国津神系に見てとり、国津神系是論とも云うべき観点から古代史の秘密を解き明かしてきた。これは何もれんだいこの初見ではなく、これまでも幾多の論者が主張してきている。但し、その論者のいずれもが「歴史の縦の糸」を紐解けず、道中で理論破産させているように見受けられる。れんだいこの立論に功績が認められるとすれば、首尾一貫した国津神系皇統譜を見極めようとしているところにあるように自己解析している。

 「天津神国津神考」の必要は、そうした「日本神話ジレンマ」を読み解くことだけに意義があるのではない。もう一つ、天津神系よりする記紀神話に依拠して日本古代史を読み取るのではなく、天津神渡来以前の国津神系の統治していた日本古代社会を読み取る為にも必要となっている。この社会を解析せねばならない理由として、「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続」に記したが、かの時代、これを仮に縄文的古神道の時代と規定すると、この時代は今日的に見ても世界に通用する汎神論的共生思想を持つ等、精神性が気高い。且つそのことに規定されてと思われるが、今日的秤りでは評価されないものの秤り方を変えれば、思われている以上に高度高級な神人和楽文明社会、技術社会を形成していた形跡が認められる。この社会を検証し称賛し、今に活かさねばならないと考えている。

 なお且つ天津神渡来によって国津神系が駆逐滅亡されたのではなく、激しい攻防戦の末、或る時点より両者が「和をもって尊し」とする手打ち式和睦路線に道を開き、婚姻政策等も含め両者融合の日本史を切り開き、あるいはそれぞれがそれぞれの生活圏を維持しながら棲み分けしてきた形跡が認められる。それは、世界史に認められるような勝者が敗者を絶滅させない叡智に導かれている。この伝統がはるけき今日まで継承されているのではなかろうかと推理している。もっと云えば、日本の政治権力史は天津神系が掌握して来たものの、その裏面史は常に国津神系が支えてきたと思っている。そういうこともあって、天津神渡来以前の日本国体の姿と能力を探るべきだし、決して祖略に扱うべきではないとっている。これを思えば、皇国史観は子供段階の暴論イデオロギーでしかなかったと思う。戦後、そのような皇国史観を捨てたからと云って何も解決していない。津田史学の限界がここに認められると思っている。我々はもっと日本古代史に光を当て、大人の日本国体論を獲得すべきではなかろうかと思う。

 2010.10.5日、2013.2.19日 再編集 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1108 投稿者:れんだいこ  
投稿日:2013年 2月19日

 国津神と天津神考、高天原は何処考その2

 ごく最近の史学の動きとして、邪馬台国が天津系渡来以前の国津系の最期の王朝であった可能性が見えてきつつある。「実在し滅ぼされた王朝」であった可能性が強い。これによると、邪馬台国は出雲―河内―大三輪系譜を中核とする日本列島津々浦々の在地権力を糾合した部族連合国家であった。出雲の地の「神在り月神話」は、かの時代の史実の今に残る伝承ではなかろうか。

 しかしながら、この歴史は二度の国譲り(一度目は出雲王朝の国譲り、二度目は邪馬台国の国譲り)を経て史上から抹殺されている。今日では僅か二千余文字の魏志倭人伝、その他諸々の遺跡でしか窺い知ることができない。いわば「勝てば官軍、負ければ賊軍」の例え通りに、敗軍側の歴史が抹殺されたと思えば良い。それを何とか痕跡をとどめる為に苦労して書き上げたのが記紀であり、その記紀記述が官軍寄りに過ぎるとして訂正的に書き上げられ秘密裏に保存されたのが古史古伝であったと思えば良かろう。但し、古史古伝間の記述がこれ又バラバラに過ぎている。

 従来の邪馬台国論争は、邪馬台国をプレ大和王朝と位置づけ、且つ皇統譜的に大和王朝に陸続的に理解した上で所在地論争に耽ってきた。その延長線上で、一部の研究者間では既に「邪馬台国論争は終った」とさえ云われている。しかし、れんだいこ説に従うと、邪馬台国研究の第一ラウンドが終ったのであり、これから本格的な研究に向かう機運にある。終った説論者の「終った」は、己の虚妄の研究史が終ったと捉えるべきである。そう捉えずに終った説を唱え抜く者は、自らの研究スタイルが終ったことへの裏言の繰り言を述べているに過ぎない。

 今や、「実在し滅ぼされた王朝」として出雲王朝―邪馬台国を位置づけ、その所在地を比定せねばならない。そういう意味で、邪馬台国論は相変わらず古代史のロマンであり続けている。同時に、邪馬台国的部族連合国家政体の脆弱さとシタタカさを同時的に理解せねばならない。邪馬台国考、「国津神と天津神考」にはそういう意義がある。

 以上は、2010.10.5日段階の認識である。2012.8.4日以来のれんだいこの認識はもう一段グレードアップしている。即ち、大和王朝建国過程に於ける渡来族による土着族征伐史を「天津族対国津族」と云う呼称で表記すること自体に疑問を覚えるようになった。日本上古代史を「天津族対国津族」の闘いとして描く記紀の筆法に疑問を持つことになった。これは古史古伝とりわけ「ホツマ伝え」研究の効果である。記紀神話では、天津族を天照大神を拝戴する高天原王朝として登場させているが、ホツマ伝え等から読みとる限り、天照大神は元々国津族の最高神にして皇統譜の祖である。

 天照大神は男神の場合もあれば女神の場合もある。いずれにせよ時の最高のシャーマンであり時代の導き主である。天津族は、国津族の最高神である天照大神、その支配の圏域である高天原を横取りし、国津族が絶対的に従う天照大神、高天原を自らの皇統譜に拝戴することにより、国津族に帰順を強いて行った形跡が認められる。してみれば、天津族の天照大神拝戴は剽窃であるとする観点が欲しくなった。これにつき「高天原王朝神話考」で解析している。

 してみれば、天照大神拝戴を暗喩する天津(天孫)族と云う呼称も又剽窃であると云うことになる。然らば、どう表記するのが正しいのであろうか。解は見いだせないが、仮に直訳的に「外航渡来族」と命名しておくことにする。してみれば、従来「天津(天孫)族」と記した下りはなべて「外航渡来族」と書き換える必要があることになる。れんだいこの従来の記述を、この観点から書き直さねばならないが、気の遠くなる話しではある。それはともかく、かく認識した上で、「外航渡来族」が如何に国津族を平定しあるいは懐柔しあるいは和睦しつつ大和王朝を建国して行ったかを解明するのが日本古代史の必須の扉と云うことになろう。「外航渡来族」の権威を高める為に逸話されている高天原王朝譚はなべてこの観点から精査される必要があろう。これを仮に「天照大神ジレンマ」と名付けておく。

 この観点を得たことにより、記紀神話が高天原を比定し得なかった理由が解けた気がする。元々高天原は国津族系の聖地であり、その聖地を横取りしたものだから詳しく説くと皇統譜の辻褄が合わなくなり、敢えて筆法的に幻の高天原とせざるを得なかったのではなかろうか。歴史には、こういうジレンマがままある。歴史はかように改竄されテキスト化され盲信に至る。「天照大神ジレンマ」はその見本のような話しではなかろうか。こう読むことで、日本神話の特に上古代の意図的故意のややこしさの原因が分かって来た気がしている。この辺りの読み解きとなると、これ又気の遠くなる話しである。

 2010.10.5日、2013.2.19日再編集 れんだいこ拝

 jinsei/


【国津神と天津神考、高天原は何処考その2】
 ごく最近の史学の動きとして、邪馬台国が天津系渡来以前の国津系の最期の王朝であった可能性が見えてきつつある。「実在し滅ぼされた王朝」であった可能性が強い。これによると、邪馬台国は出雲―河内―大三輪系譜を中核とする日本列島津々浦々の在地権力を糾合した部族連合国家であった。出雲の地の「神在り月神話」は、かの時代の史実の今に残る伝承ではなかろうか。しかしながら、この歴史は二度の国譲り(一度目は出雲王朝の国譲り、二度目は邪馬台国の国譲り)を経て史上から抹殺されている。今日では僅か二千余文字の魏志倭人伝、その他諸々の遺跡でしか窺い知ることができない。いわば「勝てば官軍、負ければ賊軍」の例え通りに、敗軍側の歴史が抹殺されたと思えば良い。それを何とか痕跡をとどめる為に苦労して書き上げたのが記紀であり、その記紀記述が官軍寄りに過ぎるとして訂正的書き上げられ秘密裏に保存されたのが古史古伝であったと思えば良かろう。

 従来の邪馬台国論争は、邪馬台国をプレ大和王朝と位置づけ、且つ政権的に大和王朝に陸続的に理解した上で所在地論争に耽ってきた。その延長線上で、一部の研究者間では既に「邪馬台国論争は終った」とさえ云われている。しかし、れんだいこ説に従うと、邪馬台国研究の第一ラウンドが終ったのであり、これから本格的な研究に向かう機運にあると云うことになる。終った説論者の「終った」は、己の虚妄の研究史が終ったと捉えるべきである。そう捉えずに終った説を唱え抜く者は、自らの研究スタイルが終ったことへの裏言の繰り言を述べているに過ぎない。今や、「実在し滅ぼされた王朝」として出雲王朝―邪馬台国を位置づけ、その所在地を比定せねばならない。そういう意味で、邪馬台国論は相変わらず古代史のロマンであり続けている。同時に、邪馬台国的部族連合国家政体の脆弱さとシタタカさを同時的に理解せねばならない。邪馬台国考、「国津神と天津神考」にはそういう意義がある。

 以上は、2010.10.5日段階の認識である。2012.8.4日以来のれんだいこの認識はもう一段グレードアップしている。即ち、大和王朝建国過程に於ける渡来族による土着族征伐史を「天津族対国津族」と云う呼称で表記すること自体に疑問を覚えるようになった。日本上古代史を「天津族対国津族」の闘いとして描く記紀の筆法に疑問を持つことになった。これは古史古伝研究とりわけ「ホツマ伝え」研究の効果である。記紀神話では、天津族を天照大神を拝戴する高天原王朝として登場させているが、ホツマ伝え等から読みとる限り、天照大神は元々国津族の最高神にして皇統譜の祖である。天照大神は男神の場合もあれば女神の場合もある。いずれにせよ時の最高のシャーマンであり時代の導き主である。天津族は、国津族の最高神である天照大神、その支配の圏域である高天原を横取りし、国津族が絶対的に従う天照大神、高天原を自らの皇統譜に拝戴することにより、国津族に帰順を強いて行った形跡が認められる。してみれば、天津族の天照大神拝戴は剽窃であるとする観点が欲しくなった。これにつき「
高天原王朝神話考」で解析している。

 してみれば、天照大神拝戴を暗喩する天津(天孫)族と云う呼称も又剽窃であると云うことになる。然らば、どう表記するのが正しいのであろうか。解は見いだせないが、仮に直訳的に「外航渡来族」と命名しておくことにする。してみれば、従来「天津(天孫)族」と記した下りはなべて「外航渡来族」と書き換える必要があることになる。れんだいこの従来の記述を、この観点から書き直さねばならないが、気の遠くなる話しではある。それはともかく、かく認識した上で、「外航渡来族」が如何に国津族を平定しあるいは懐柔しあるいは和睦しつつ大和王朝を建国して行ったかを解明するのが日本古代史の必須の扉と云うことになろう。「外航渡来族」の権威を高める為に逸話されている高天原王朝譚はなべてこの観点から精査される必要があろう。これを仮に「天照大神ジレンマ」と名付けておく。

 この観点を得たことにより、記紀神話が高天原を比定し得なかった理由が解けた気がする。元々高天原は国津族系の聖地であり、その聖地を横取りしたものだから詳しく説くと皇統譜の辻褄が合わなくなり、敢えて筆法的に幻の高天原とせざるを得なかったのではなかろうか。歴史には、こういうジレンマがままある。歴史はかように改竄されテキスト化され盲信に至る。「天照大神ジレンマ」はその見本のような話しではなかろうか。こう読むことで、日本神話の特に上古代の意図的故意のややこしさの原因が分かって来た気がしている。この辺りの読み解きとなると、これ又気の遠くなる話しである。

 2010.10.5日、2013.2.19日 再編集 れんだいこ拝


【大元神】
天之御中主神 (あまのみなかのかみ) 造化三神の一柱。宇宙の根源神、高天原の最高司令官
高御産巣日神 (たかむすびのかみ) 造化三神の一柱。天神地祗の祖神、生命の本源神
神産巣日神 (かんむすびのかみ) 造化三神の一柱。生命力の本源神、出雲の神々の祖神
国之常立神 (くにのとこたちのかみ) 神世七代。国土形成の根源神、国土の守護神
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) 神世七代。人類の根源神、結婚の神
伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 神世七代。創造神、万物を生み出す女神

天御柱神 (あめのみはしらのかみ) 伊弉冉尊から生まれた神。風の神
国御柱神 (くにのみはしらのかみ)
罔象女神 (みずはのめのかみ) 伊弉冉尊から生まれた神。水の神、井戸神
稚産霊神 (わくむすびのかみ) 伊弉冉尊から生まれた神。五穀の神、養蚕の神
金神大明神 (かなやまだいみょうじん) 伊弉冉尊から生まれた三神の総称。鉱山の神、金属の神、鋳物の神
蛭子神 (ひるこのかみ) 伊弉諾尊と伊弉冉尊の実子。海の神、福の神、商業神
石土毘古神 (いわづちびこのかみ) 伊弉諾尊と伊弉冉尊の実子。土石の神、家宅の守護神
保食神 (うけもちのかみ) 伊弉諾尊と伊弉冉尊の実子。五穀の神、養蚕の起源神
大山積神 (おおやまづみのかみ) 伊弉諾尊と伊弉冉尊の実子。山の神、海の神、酒造の祖神
迦具土神 (かぐづちのかみ) 伊弉諾尊と伊弉冉尊の実子。火の神、鍛冶の神
高霎神 (たかおかみのかみ) 迦具土神から生まれた神。水の神、雨の神
暗霎神 (くらおかみのかみ)
武御雷神 (たけみかづちのかみ) 迦具土神から生まれた神。刀剣神、武神、軍神、雷神
泣沢女神 (なきさわめのかみ) 伊弉諾尊の涙から生まれた神。井泉神

天照大神 (あまてらすおおみかみ) 三貴神の一柱。太陽神、高天原の主神、日本の総氏神
素戔嗚尊 (すさのおのみこと) 三貴神の一柱。荒ぶる神の祖、農業神、疫神
月読神 (つきよみのかみ) 三貴神の一柱。農耕神、海の神、占いの神
宗像三女神 (みなかたさんじょしん) 天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれた神海の神。航海の神
住吉三神 (すみよしさんしん) 伊弉諾尊の禊で生まれた神。和歌の神、海の神、航海の神、軍神

【国津神】
 八百万の神々を国津神と天津神に分類して見る。国津神は次の通り。 大綿津見神、大山津見神、菊理媛神、足名椎神、手名椎神、櫛名田比売命、五十猛命、大年神、宇迦之御魂神、大国主神、少名毘古那神、事代主神、大山咋神、建御名方神、八坂刀売神、猿田毘古神、木花之佐久夜毘売、塩椎神、豊玉毘売命、玉依毘売命、建内宿禰、弟橘比売命等々。
菊理姫神
くくりひめのかみ
黄泉平坂に現れる神。白山の神。農耕神。
大渦津日神
おおまがつひのかみ
伊弉諾尊が禊ぎをしたときに生まれた神。厄災の神、祓除神。
稲田姫神
いなだひめのかみ
素戔嗚尊の妻。稲田の神
神大市姫神
かみおおいちひめのかみ
素戔嗚尊の妻。市場の神。五穀神
一五猛神
いそたけるのかみ
素戔嗚尊と稲田姫神の子木種の神、木材の祖神
大屋都姫神
おおやつひめのかみ
素戔嗚尊と稲田姫神の子。木種の神、木製品の神
大年神
おおとしのかみ
素戔嗚尊と神大市姫神の子農業神、穀物神
宇迦之御魂神
うかのみたまのかみ
素戔嗚尊と神大市姫神の子。穀霊神、農耕神、商工業神
大国主神
おおくにぬしのかみ
国津神の元締め国造りの神。農業神、商業神、医療神。
金毘羅神
こんぴらのかみ
大国主神の和魂。海の神、航海の神
少彦名神
すくなひこなのかみ
大国主と共に国造りをする神国土経営の神。医薬神、酒神、温泉神
八十神
やそがみ
大国主神の兄達。裏切りの神、詐欺の神
事代主神
ことしろぬしのかみ
大国主神の子信託神、商業の神、海の神
武御名方神
たけみなかたのかみ
大国主神の子。軍神、狩猟神、農耕神
阿遅鋤高日子根神
あじすたまひこねのかみ
大国主神の子。雷神、農業神
猿田彦神
さるだひこのかみ
天孫降臨時、邇邇芸神の案内役導きの神、伊勢の地主神
木花咲耶姫神
このはなさくやのひめ
邇邇芸神の妻となる山の神、火の神、酒造の神
御年神
おとしのかみ
大歳神の子農業神、穀物神
大山咋神
おおやまくいのかみ
大歳神の子山の神、天台密教の護法神
天石門別神
あめのいわとわけのかみ
天太玉神の子山の神、石の神、門の神
熱田大神
あつたのおおかみ
三種の神器の一つ、草薙剣の神霊。剣神、戦神
矢乃波波木神
やのははきのかみ
大歳神の子。箒神、産神、屋敷神
奥津日子神
おきつひこのかみ
大歳神の子達。竈の神、火の神
奥津比売神
おきつひめのかみ
大歳神の子達竈の神、火の神

【天津神】
 天津神は次の通り。
神様の名前 系譜 神格
思兼神
おもいかねのかみ
高天原の神 知恵の神、文神
天鈿女神
あめのうずめのかみ
高天原の神 芸能の神(演劇・俳優の神、舞楽の神)
天手力男神
あめのたぢからおのかみ
高天原の神 力の神
天太玉神
あめのふとだまのかみ
高天原の神 占いの神、神事・祭具の神
石凝姥神
いしこりどめのかみ
高天原の神 金属加工の神、鍛冶の神
天羽雷命
あめのはづちのみこと
高天原の神 織物の神、機織りの祖神
天児屋根神
あめのこやねのかみ
高天原の神 言霊の神、祝詞の祖神
天忍穂耳神
あめのおしほみみのかみ
天照大神の子 稲穂の神、農業神
天穂日神
あめのほひのかみ
天照大神の子 稲穂の神、農業神
天津彦根神
あまつひこねのかみ
天照大神の子 日の神、海の神、風の神
生島神・足島神
いくしまのかみ・たるしまのかみ
大八島の霊 国土の神、島の神

邇邇芸神
ににぎのかみ
天孫降臨の主人公 農業神、稲穂の神
天目一箇神
あめのまひとつのかみ
天津彦根神の子。天孫降臨メンバーの一人 山の神、火の神、金工の神、鍛冶の神
栲幡千々姫神
たくはたちぢひめのかみ
邇邇芸神、天火明神の母 織物の神

山幸彦
やまさちひこ
邇邇芸神と木花咲耶姫神の子 穀霊神、稲穂の神
豊玉姫神
とよたまひめのかみ
山幸彦の妻 水の神、聖母神、福の神
天火明神
あめのほあかりのかみ
邇邇芸神の兄 太陽神、農業神
天香具山神
あめのかぐやまのかみ
天火明神の子 農業神、倉庫の神
鵜葺草葺不合神
うがやふきあえずのかみ
山幸彦と豊玉姫神の子。神武天皇の父 農業神
玉依姫神
たまよりひめのかみ
鵜葺草葺不合神の妻。豊玉姫神の妹 水の神、聖母神
天之御影神
あまのみかげのかみ
天照大神の孫 鍛冶の神、刀工の神
大宮能売神
おおみやのめのかみ
天照大神の侍女 市の神、食物神






(私論.私見)


小生の今週のブログ 「学人の寺社探訪」は「高天原・天孫降臨ー6 伯耆国 蒜山説-3 倭文神社です。
今回から「高天原・天孫降臨・蒜山説」に関わる、小生が探訪した神社をご紹介します。
(詳細は写真をクリック・またはブログをお読みください。)
倭文神社 鳥取県 湯梨浜町大字宮内754, ·
倭文は「しとり」と読み、古来存在していたしづおりという織物のことを指します。
創立年代は不詳ですが、社伝によれば倭文部の祖神建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、他の五柱の神は大国主命の御子神か関係の深い神々です。
下照姫命は大国主命の娘として生まれました。農業や医療の技術に長けており、大国主命と力を合わせて出雲の国づくりに励みました。そんなおり、天照大神は天稚彦という神を遣わし出雲の国譲りを要求しました。ところが天稚彦は下照姫命と恋に落ち、復命することはありませんでした。しかし下照姫命と天稚彦との幸せな日々は続かず、天稚彦は天照大神から遣わされたキジを射殺したことが原因で、天照大神により射殺されてしまいました。下照姫命は夫の死、国譲りによる出雲との別離などを乗り越え、一匹の海亀によりここ伯耆国宇野の海岸に導かれました。そのまま現社地に住を定め、当地で死去するまで安産の指導、農業開発、医療普及等に努めたとされています。
氏子である宮内に住む人々は下照姫命の従者の祖先だとされており、さらに周辺にある亀石、宮戸弁天、出雲山といった場所は縁の深い地である、とされております。