出雲王朝史1、元出雲-原出雲王朝史考 出雲王朝史考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 出雲王朝神話は記紀神話と出雲風土記により構成される。記紀神話では出雲の神々は隠滅劣性に語られるのに比して出雲風土記では出雲の神たちの生き生きとした姿が見られる。出雲王朝史を確認すると次のようになる。
「八雲立つ出雲」の原出雲譚
ヤツカミズオミヅの命の国引き譚による元出雲譚
スサノウ来航譚
スサノウのヤマタノオロチ征伐譚
スサノウ王権による新出雲譚
大国主のイナバノ白兎譚
大国主の迫害譚
大国主のスサノウ王権継承譚
大国主の出雲王朝創始譚
国譲り譚
国譲り後の出雲譚
杵築神社譚

 等々から成る。以下、これを検証する。


 出雲王朝をスサノオ引退後の子等が活動し大国主が国譲りするまでを古出雲、それ以後を新出雲とする二分法があるようである。れんだいこ独眼流史観によれば、まだ物足りない。出雲王朝は、1・「八雲立つ出雲」の原出雲譚、2・ヤツカミズオミヅの命の国引き譚による元出雲譚、3・スサノウ出雲の出現による元出雲とスサノウ出雲の鼎立(スサノウ来航譚、スサノウのヤマタノオロチ征伐譚、スサノウ王権による新出雲譚)、4・大国主による大国出雲(大国主のイナバノ白兎譚、大国主の迫害譚、大国主のスサノウ王権継承譚、大国主の出雲王朝創始譚)、5・国譲り譚、6・国譲り後の出雲譚、7・杵築神社譚と云う風に7段階の発展を経ているように思われる。この見立ては今後の出雲王朝研究の際に大いに役立つであろう。留意すべきは、これらは皆「古代出雲」と一括されていることである。れんだいこ史観によれば正しくない。古代出雲は上記の流れの変遷史として受け取らねばならない。漠然と古代出雲とすべきではない、上記7期区分のどの時点の古代出雲かを確認しながら論ぜねばならないと云うことである。

 ここでは出雲王朝元始まりの原出雲、続くヤツカミズオミヅの命による国引きより生まれた元出雲時代の様子を確認する。


 2008.4.10日 2013.2.21日再編集 れんだいこ拝


【出雲地方の自然環境】
 出雲の国の自然は、北から半島、湖沼、平野、山地と見事に配置されている。これらが互いに照応しながら出雲国の独自な風土を作り出したものと思われる。出雲の語義を「むくむくと雲の湧き立つ」意味と受け取れば、まさにそのように出現したのがこの地であった。出雲の神奈備山(神聖な山)は火のラインの三瓶山―仏経山―朝日山、水のラインの大山―茶臼山―大船山。他に高尾山。

 大和王朝前の時代において、出雲は古代日本の歴史と文化の重要な地であった。古代、海洋こそが流通の道であった。出雲の神話(出雲国風土記の国引き神話など)や文化(出雲系信仰と習俗など、出雲は宗教王国)を出雲という一地方のローカルな歴史と文化としてみるのは後世の見方であり、当時においては、環日本海文化圏というグローバルな視点から見ると、出雲が日本海沿岸の国や地方と強く深く交流をもっていた先進の文化を持つ国(古代出雲王国)であったことを窺い知ることができる。島根半島は、入海、内海や潟港が対馬海流に乗せて遥か彼方から交流をもたらす格好の良港となっており、逸早く外来文化が流入し土着文化と融合したと推定できる。その出雲は東東の丹波、東央の意宇、西の杵築の三地域に分かれ、良港、平野、山地、良質な砂鉄の産出に恵まれ競い合うように文化圏を形成したと推定できる。

 出雲は独自な歴史と文化を持ち続けた地であり、神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、巨木文化を伝える出雲大社、四隅突出型墳丘墓、管玉・勾玉などの玉作り文化等が名残りを伝えている。

 元々出雲の方が大和朝廷に先行して王朝を創っていたと思われる。その出雲が大和朝廷の創建過程で緊張関係が生まれ、出雲王朝が徹底的に侵略される憂き目に遭った、と推理できる。国譲り譚、倭建命の出雲建征討譚、出雲振根と飯入根の説話譚等がこれを伝えている。

【「八雲立つ出雲」の原出雲王朝譚】
 出雲王朝の始発は丹波から始まるように思われる。現在の京都府亀岡市千歳町出雲に「出雲大神宮」があり、「元出雲説話」を伝えている。これによると、元出雲は丹波ということになる。れんだいこ観点によれば、これが「原出雲」と云うことになる。丹波国風土記には、概要「奈良朝の初めの元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり」、「当宮に古来より元出雲の信仰があります」との記述がある。説話によると、出雲大神宮は単に元出雲の神宮ではなく、大八洲国祖(おおやしまくにおや)の神社であると云う。(「ウィキペディァ出雲大神宮」_、「出雲大神宮」、「出雲大神宮」参照)
 出雲神話は「国寄せ」神話譚から始まる。この時の「国寄せ」が出雲式国家結合方程式となり、次第に周辺を統合して行くことになる。その果てに「八雲立つ出雲」(八カ国による豪族国家の連合王朝)が創出された。いずれの豪族国家も「若く小さい」ものであったとも記されている。この八カ国は不詳なので判明次第に書きつけることにする。ここまでの時代の出雲を仮に「原出雲」と命名する。
(私論.私見) 「八雲立つ出雲」考
 見逃されがちであるが、原出雲の「八雲立つ出雲」(八カ国による豪族国家の連合王朝)時代の「国寄せ」の理論と実践がよほど秀逸であったことにより、この出雲式結合方式が受容され、次第に地域を包含して行った。これを仮に「国寄せ」と命名する。「国寄せ」結合方式の編み出しは、日本語の発明と並ぶ人類史的至宝となっている。かく位置づけねばならないと思う。

 その出雲はやがて「国譲り」戦争に巻き込まれ、外来勢力に王権奪取されることになるが、出雲式結合方式による連語国家は滅ぼされるのではなく、永続的抵抗の果てに外来勢力の下に組み込まれる形での手打ちとなり、それが両者による大和朝廷の創出へと至り、実質的に出雲王朝は大和朝廷の一翼を担いながら日本建国史を歩んで行くことになる。その壮大な歴史の始まりが「八雲立つ出雲」である。ちなみにこの時期が西暦紀元前660年頃になるとすれば辻褄が合い古代史が整合する。即ち「紀元前660年」は神武天皇即位ではなく、「八雲立つ出雲」創出年とすれば良い。

【ヤツカミズオミヅの命の国引き譚による元出雲譚】

 出雲神話は「国寄せ」に続いて「国引き」神話譚から始まる。それによると、古代出雲王朝は、「原出雲」の丹波から(現在の出雲東部の)意宇の郡(おうのこうり)(現在の島根県松江市、安来市周辺)に転じている。ここを踏まえなければ出雲王朝盛衰史が見えてこない。この時代の出雲を仮に「元出雲」と命名する。

 してみれば、「原出雲」は丹波から始まり、出雲東部の意宇の郡(おうのこうり)へと勢力を伸ばし「元出雲」へと発展する。その後、出雲西部にスサノウ王朝が生まれ、その両方を治める大国主の命王朝へと至ることで出雲王朝が完結する。こういう流れになるのではなかろうかと思われる。

 考古学的な歴史経過を見れば、出雲は意宇(いう・おう)川流域(意宇平野)では弥生前期後半から地域としてのまとまりをつくっていた(現在の出雲東部という意味で)東出雲から始まる。出雲史を俯瞰してみれば東央出雲になる。ここでは以下「東央出雲」と記す。

 出雲に共通して山陰地方で独自に発達してきた四隅突出型古墳がある。飯梨川流域では仲仙寺古墳群や宮川4号墳、西側の斐伊川流域では西谷古墳群などが見られる。弥生期の四隅突出古墳のある仲仙寺から2kmほど北方にある荒島の地に、4-6世紀の築造と考えられる大規模の方墳や前方後方墳などの造山古墳群がある。現在「古代出雲王陵の丘」と称されるが、まさに意宇の王陵であり、墳丘頂からは中海や島根半島の全貌、意宇の国を眺め渡すことができる。

 「東央出雲」は、中海と宍道湖の間の意宇川流域から中海南岸一帯を支配地にしていた。その守り神である意宇(おう)の神は、意宇平野の豊穣な農業生産をもたらす意宇川上流に鎮座する熊野大社だった。意宇の王は、南の山脈の自然的要塞、入海を繋ぐ水門、北、東につながる日本海ルートなど、軍事的にも交易的にも有利で、水産、農産の恵み大きい意宇平野を本拠に出雲全体を治めていた。出雲の王として、政治的体制の整備とともに、本来の地主神の熊野神は農業神に転化され、新たな政(まつりごと)の神としては神魂(かもす)神が求められた。出雲四大神は熊野、杵築、佐太、能義であるが、杵築以外は皆な「東央出雲」に位置する。


【出雲の国引き神話譚】

 「元出雲王朝」の時代、八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅの命、意美豆努命とも称される)が活躍し、「国引き」による連合国家が形成されている。これを語るのが「国引き譚」である。出雲國風土記冒頭で国引き神話が語られている。しかしながら記紀には記されていない。記紀が出雲王朝を殲滅解体した反出雲であったことによると思われる。

 れんだいこ独眼流史観によれば、「原出雲」は「国引き」により次の発展段階に向かう。これを仮に「元出雲」と命名する。それによると次のようにして「元出雲」が形成された。

 ヤツカミズオミヅの命は或る時、次のように詔(みことのり)した。

 「八雲立つ出雲の国は、幅の狭い布のように若く小さくつくられた。出雲の国を縫い合わせて大きくしよう」。

 「八雲立つ出雲」は順調に「国寄せ」し続け、或る時、ヤツカミズオミヅの命が、「出雲の国を縫い合わせて大きくしよう」と宣言する。ヤツカミズオミヅの命は、大縄で対岸の岬を引き寄せる「国引き」をして元出雲の国造りを始めた。かく理解すべきではなかろうか。「国引き」は極めて雄大にして宏壮な構想であった。
 「国寄せ」の様子を出雲風土記が次のように記している。
 「意宇(おう)と号(なず)ける所以(ゆえ)は、国引き坐(ま)せるヤツカミズオミツヌの命詔(の)り給わく、『八雲立つ出雲の国は、狭布(さふ)の稚国(わかくに)なるかも。 初国(はつくに)小さく作らせり。 故(かれ)、作り縫(ぬ)はな』と詔(の)りたまひて、『たく衾(ぶすま)、志羅紀(新羅、しらぎ)の三崎を、国の余りありやと見れば、国の余り有リ』と詔(みことの)りたまひて、童女の胸すき取らして、大魚(おふ)のきだ衝(つ)き別(わ)けて、はたすすき穂振り別けて、三身(みつみ)の網うち掛けて、霜黒葛(しもつづら)繰(く)るや繰るやに、河船のもそろもそろに、国来々々(くにこくにこ)と引き来て縫える国は、去豆(こづ)の打ち絶えよりしての、八穂米杵築(やほねきずき)の御埼なり。 かくて、堅め立てしかば、石見の国と出雲の国との堺なる、名は佐姫(さひめ)山、これなり。 亦、持ち引ける綱は、薗(その)の長浜、これなり。

 亦、『北門の佐伎(さき)の国を、国の余りありやと見れば、国の余りあり』と詔りたまひて、童女の胸すき取らして、大魚(おふ)をのまだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の網うち掛けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来国来と引き来て縫へる国は、多久の折絶より、狭田(さた)の国、これなり。

 亦、『北門の良波の国を、国の余りありやと見れば、国の余りあり』と詔りたまひて、童女の胸すき取らして、大魚のまだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の網うち掛けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々と引き来て縫へる国は、宇波の折絶より、闇見みの国、これなり。

  亦、『高志の都都(つつ)の三埼を、国の余りあり』と詔りたまひて、童女の胸すき取らして、大魚のまだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の網うち掛けて、霜黒葛くるやくるや。…
 今は国引き訖(お)へつと詔り給いて、意宇の杜に御杖衝き立てて、意恵(おえ)と詔り給いき。故、意宇(おう)と云う」。
 しらぎ=志羅紀、新羅。やほにきづき=八穂爾支豆支。さ姫山=佐比売山。

 要するに、出雲国を作り上げるのに、神様が、「国こ、国こ」の掛け声と共に国引きをするのに次の四カ所から国を引っ張ってきたという。
新羅の三埼  「しらぎのみさき」と読み、新羅・慶州近辺、即ち朝鮮半島東岸部・南半(韓国の日本海岸側)、又は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の東岸部と比定されている。この国引きの為に用いた綱は薗(その)の長浜、杭は石見と出雲の堺の佐姫山(三瓶山、さんべさん)。長さ8キロにも及ぶ白砂の浜辺が国引きの「綱」、その向こうに見える石見国の三瓶山は綱を掛ける「杭」となった。
北門の佐伎の国  「きたどのさきのくに」と読み、出雲大社の真北、日本海岸鷺(さぎ)浦、又は島前と島後の二つに分かれる隠岐島の佐伎(さき)と比定されている。北朝鮮のムスタン岬との説もある。
北門の良波の国  「きたどのよなみのくに」と読み、松江の真北、日本海岸の野波や隠岐島のうちの一つの波良(はら)に比定されている。又はロシアのウラジオストックとの説もある。
高志の都々の三埼  「こしのつつのみさき」と読み、越前・越中・越後の越(こし)の都都(つう)の三崎(みさき)(新潟県上越市直江津付近の岬)、又は能登半島の珠洲埼と比定されている。この為に用いた綱は、ヨミの島。杭は、火神岳(大山だいせん)であった。

 つまり、石見の佐姫山(三瓶山、さんべさん)と伯耆の火神岳(大山、だいせん)を杭とし、西は薗の長浜と東は夜見ケ浜(米子から境港に長くつき出た砂嘴の半島)を引き綱として、これに掛けて新羅の海の彼方から国を引いてきて縫い合わせたという。

 ヤツカミズオミヅの命は、国引きを終えると、「今はもう、国を引き終えた」と述べ、意宇の社(やしろ)に御杖を突き立てて、「おゑ」と声を発した。これにより、この地を「意宇」というようになった。これが「意宇」の地名故事である。出雲風土記は、ヤツカミズオミヅの命が島根と名称したと記している。

 「国引き神話」は記紀には見えず出雲国風土記にだけ伝えられる。意宇を中心にする当時の出雲全体の国づくりの様子を語り継いでいる。意宇の国の神奈備山である茶臼山、王陵である山代二子塚、岡田山古墳、国府政庁跡、何よりも神魂神社のある、今は「八雲立つ風土記の丘」と呼ばれる地域一帯は、意宇の王から出雲の王へと発展していく時の本拠となった場所であったということになる。
(私論.私見)
 「出雲の国引き神話譚」は、古代出雲の始発的国家形成を語っていると受け止めるべきではなかろうか。仮にこれを元出雲と命名するとして、国引きの四方は、もはや原出雲から脱して元出雲形成に於ける国土の領域と連合政権ぶりを暗喩しているのではなかろうか。「出雲の国引き神話譚」によれば、「元出雲王朝」は、朝鮮の新羅・慶州近辺、隠岐島、出雲西域から東域、越前・越中・越後の越三国まで及ぶかなり広域な日本海王朝であったことになる。スサノウ渡来前の元出雲史として踏まえておく必要があると思われる。

 2008.4.6日 れんだいこ拝

【八束水臣津野(ヤツカミズオミヅノ)命の要石(かなめいし)考】
 「出雲建国の国引き神話とかんなび山」を参照する。

 出雲市国富町の旅伏山(たぶしさん)の麓に要石がある。要石大神として八束水臣津野(ヤツカミズオミヅノ)命が祀られている。現地の案内板には次のように記されている。
「地の動揺せざらん為にここに石をさし立ち給へる。即ちこの要石なり。故に村名を国留と書きしを、後に国富と書けり。この地地震の患なし」。

 要石は六個ある。建御雷(たけみかづち)の命を祀る鹿島神宮、経津主(ふつぬし)の命を祀る香取神宮の要石が著名であるが、いずれも国譲りの際に出雲国に進駐してきたとされる神であるので、ここの要石の例を真似ている可能性がある。


 国引きの主宰神の八束水臣津野命の事跡履歴は次の通り。
 仏経山山頂より北方を眺め国引きを決意した。仏経山山頂の巨岩には綱が掛けられている。注連縄又は国引きの綱のように見える。
 国引きを行い、引いてきた国を「狭布(さぬ)の稚(わか)国」に縫い合わせ出雲国を形作った。その時の綱が「薗の長浜(松山)」と「夜見(よみ)の島」である。
 国引きが終り「おゑ」といって杖を立てた。これが意宇の杜である。この杖は意宇のタブ(タブノキ)といわれる。
 「八雲立つ」といって出雲と名付けた。
 島根(郡)と名付けた。
 国引き後、富神社に鎮座した。
 国引き後、島根半島に要石を打って歩いた。
 旅伏山の麓に要石があり、祭神として祀られている。
 新羅の国に渡海するとき、速都武自和気(しやつむじわけ)の命に順風を祈った。
 韓国から帰り旅伏山で休んだ。
 旅伏山の周辺には、韓国へ航海した時の帆が石になった帆筵(ほむしろ)石(旅伏山)、船が石になった岩船石(出雲市唐川町)、帆が石になった帆柱石(出雲市別所町)がある。また、足留の地とされる足駄石が美談神社(出雲市美談町)の石段途中にある。これらに要石を加え、出雲五石(神石)という)。
 長浜神社(出雲市西園町)、国村神社(出雲市多伎町)、富神社(出雲市斐川町)、諏訪神社(出雲市別所町)の主祭神である。
 長浜神社
 長浜神社の上代社名は出雲社、出雲神社。中近世は妙見大明神、妙見大社などと称し、明治以降は長浜神社。鎮座地は島根県出雲市西園町4258。出雲大社からそう遠くない小さな山の頂上に位置している。御祭神の主祭神は八束水臣津野(やつかみづおみつぬ)の命、配祀は神布帝耳命(ふてみみのみこと)、唹美豆奴命(おみづぬのみこと)。創立年代は710(和銅3)年以前。長浜神社の主祭神である八束水臣津野命は国引き神話の主人公の神様。遠く新羅国(朝鮮半島)、石川県北陸地方から『国来 国来』と余った島を引き寄せ、島根半島をお造りに成られた国土創世の神様。国を引き寄せ、人を引き寄せ、幸を引き寄せる出雲の祖神とも呼ばれる神様である。
 旅伏山上の都牟自(つむじ)神社(出雲市国富町)、島根郡の久良弥(くらみ)神社(松江市新庄町)において速都牟自別命とともに祭られている。
 子の赤衾伊(あかぶすまい)努意保須美比古佐和気(ぬおほすみひこさわけ)の命やその妻の天之甕津比賣(あめのみかつひめの)命は島根半島の各所で祭られている。

 要約すると、八束水臣津野命の属性は、国土造成の神、水の神、航海の神であり、その事跡は出雲郡、意宇郡、島根半島(楯縫郡、秋鹿郡、島根郡)及びその外郭にあり、国引き神話に関わる地域に分布している。意宇の杜は八束水臣津野命が国引きを終え、「おゑ」といって杖を突き刺した跡が意宇の杜である。比定地の客の杜(松江市竹矢町)は茶臼山近くの田園の中に位置し大山が見通せる。近くには出雲国庁がある。客の杜ではタブノキが御神木とされ、その周りに桜や雑木が生えている。祈祷の場である。国庁跡に隣接している六所神社の祭神は、伊邪那岐の命、伊邪那美の命、天照皇大神、月夜見の命、須佐之男の命、大己貴の命と記紀の登場神が並ぶ。近隣の神魂(かもす)神社や真名井(まない)神社を含めて記紀に則っている。

【元出雲王朝考】
 国引きにより合衆国化した元出雲は、スサノウ渡来以前と以降により大きく変質する。スサノウ渡来以降の変化は次章「出雲王朝史2、スサノウ出雲王朝史考」で確認するので、以前の出雲の様子を確認しておく。その経済は、狩猟ー採集中心の縄文文化であった。 ヤツカミズオミヅの命による国引きにより元出雲が創始され出雲が大国化した。特徴的なことは、この時点でも首長連合国家であったことにある。これにより、この時期の出雲を仮に「元出雲」と命名する。してみれば、出雲王朝は原出雲から元出雲へ発展することにより、八十神(やそがみ)と云われる在来の族長達の連合国家となった。神話上、この時代の出雲が、記紀神話で「根の堅国」、「母の国」等々と表現されているように思われる。

 特徴的なことは、この時代マデの原出雲、元出雲はいわゆる東出雲(より詳しくは東東が原出雲、東央が元出雲)であり、サ姫山(三瓶山、さんべさん)と火神岳(大山、だいせん)間の裾野に開けた一大政治経済文化圏ではなかったかと考えられる。ここまでの出雲を仮に「古代古出雲王朝」と命名したい。

【熊野大神、佐太大神、野城大神考】
 起源1世紀半ば頃の「元出雲」は、各地の首長がそれぞれの神々を祀っていたように推定される。「元出雲」の時代の出雲は、熊野大神、佐太大神、野城大神と云われる三柱の大神を核としてそれぞれ独立的に統治されていたと推定される。それぞれが、日本古来の信仰の原点である1・精霊信仰、2・祖霊信仰、3・首長霊信仰に基づく祭政一致政治を執り行っており、原―元出雲時代の共同体の土着系護り神にして名君的指導者であったと推定できる。
 熊野大社の最高神はクシミケヌ(櫛御気野命、奇御食主命)で「熊野大社(出雲)考」に記す。佐太神社の最高神は佐太大神で「佐太神社考」に記す。ここでは「野城大神」を確認する。
 野城大神(のぎのおおかみ)とは、安来市能義町の能義(のぎ)神社の祭神。733年に撰上された出雲風土記の野城の驛の条に「野城の大神の坐ししに依り、故、野城と云う」、意宇郡野城駅の条に「野城の駅。郡家の正東廿里八十歩なり。野城大神坐す。故れ、野城と云ふ」と記されているだけで詳細がつかめない。967年に制定された「延喜式」の神明帳には「野城神社」(のぎのかみやしろ)と記載されている古社である。

 同社の由緒には、「当社のご祭神は天照大神の第二子、天穂日命(あめのほひのみこと)であります」、「出雲の國人達は四大大神、つまり出雲大神、熊野大神、佐太大神とならんで能義大神とその神名を称え尊崇されてまいりました」と記されており、国譲り前の由緒と国譲り後のそれが二重記載となっている。天照大神の第二子にして、「国譲り」後に高天原から遣わされた最初の神で、後の出雲国造の祖神となる天穂日命を祭神とするのは「国譲り」後の応法的変化と考えられる。元々は意宇郡東部の有力な地主神として信仰されてきた能義大神そのものを祀る神社であったと推定したい。なお、野城大神は記紀に全く登場しない。このことは、原―元出雲時代の土着神であり政治的な立ち働きが殆どなかったか、何ランの事情で隠蔽されていることを意味していると思われる。
 フェイスブック「荒川豊‎ /神社と歴史の広場」情報参照。

 【野白(のしら)神社】(野白神社

 島根県松江市乃白町。御祭神:猿田彦命・天鈿女命

 出雲国風土記の「野代(ぬしろ)社」で、元は東方の舳田(ともた)山(現在の田和山町・松江市立病院附近)に鎮座していたが、尼子毛利の戦で焼失し慶長十六年(1611)に現社地に遷座された。明治までは「友田大明神」、「舳田大明神」とも称されていた。ここの地域は乃木(のぎ)地区とよばれているが、元々は野城(のき)だったようで、境内社に本殿と同等の「金屋子神社」があることから、約20km東方の野城大神を祀る安来市能義(のき)地区と繋がりがあった地区ではないかなと思われる。奥出雲地方から西の玄関として宍道湖まで運ぶ街道だった?ことも立地条件から推察できる。阿波忌部の神「天日鷲命」を祀る「穀木(かじき)神社」があり、出雲と阿波の繋がりがあったことを推定させる。現社地から南隣の忌部町は出雲国風土記意宇郡条に記載の忌部神戸に属している。2km先に「忌部(いんべ)神社」がある。
(私論.私見)
 「熊野大神、佐太大神、野城大神」を祀る熊野大社、佐太神社、能義神社それぞれが、その後の歴史的経緯で祭神を変えたり複雑にしている為に、今日となっては原出雲、元出雲時代の「熊野大神、佐太大神、野城大神」の復元が難しい。窺うべきは、当時の信仰の在り方、祭神の祀られ方、それぞれの国の動向であろう。これは推理するしか方法がない。問題は、どう推理するかである。見立てが間違えば全てが水泡に帰す。見立てが正しければ目からうろこが落ちるように次から次へと歴史が見えてこよう。

 ちなみに、出雲王朝研究史家の間でも、「熊野大神、佐太大神、野城大神時代の元出雲」を正しく理解せず、スサノウと同視している傾向が見られる。これでは出雲王朝史の動態が分からない。

 2011.7.16日 れんだいこ拝

【元出雲とスサノウ出雲の鼎立と抗争考】
 その元出雲にスサノウが渡来し、対抗するかの如く西域にスサノウ王権を創り上げ、大国主の命がそれを後継し、出雲王朝を創出する。そして国譲りへと至るように思われる。

【小泉八雲の出雲王朝観考】
 1890(明治23)年、世界の文豪にして日本古代史に魅せられたラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn、1850.6.27ー1904.9.26)(英国人を父、ギリシャ人を母とし、ギリシャで生まれた)が日本に魅せられ来日する。島根県松江尋常中学校と松江師範学校の英語教師に命じられ、8.30日に松江到着。同年9.14日、出雲大社に参拝。1891年、松江藩の士族小泉湊の娘・小泉節子と結婚する。1896年、東京帝国大学文科の英文学講師に就任。帰化し、スサノウの命の詠んだ「八雲立つ出雲八重垣」にちなんで「小泉八雲」と名乗る。1903年、東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)。1904.3月、早稲田大学の講師を勤め、9.26日に狭心症により東京の自宅で亡くなった(享年54歳)。

 神話の地・出雲に住み着いて伝統的な日本文化を研究した小泉八雲は、出雲王朝に対して次のように述べている。
 概要「神国と云うのは日本の尊称である。出雲はわけても最も神聖な神々の故郷の国であり、民族の揺りかごの地(揺籃の地」)である」。

 「日本印象記」の中で次のように述べている。
 「神道の真髄は書籍にも儀式にも法律にも存しない。ただ、国民的心情の中に活きて永存して居るばかりである。そこに国民のあらゆる全部の魂、偉大なる霊力が潜在して震えつつある。この魂が遺伝し、内在し、無意識的、本能的に働いているのが、神道である。神道を解するには、この神秘な魂を知らなくてはならぬ」。

 「杵築」というエッセーの中で、出雲大社の最高祀官の出雲国造と対面した感想を感動的に次のように述べている。
 「古代ギリシャのエレウシスの秘儀を司る最高官(人の生死の秘密を知り、その再生の秘儀に携わる神官)を思わせる」。
 「杵築を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・悠久な古代信仰の脈拍にふれることになる」
(私論.私見)
 小泉八雲の出雲王朝観は、出雲大社系の出雲神道を念頭に置いているが、さらに以前の原―元出雲王朝までをも視野に入れての感慨と思えば良い。実に的確な出雲王朝観であるように思われる。

 2011.7.16日 れんだいこ拝

【古事記・日本書紀による出雲王朝史の改竄】
 古事記・日本書紀は大和朝廷内の来航族派の正義を訴求するべく日本古代史を改竄編集したものである。これを担ったのは藤原不比等だとされている。旧出雲国は「出雲、因幡、伯耆国、美作」。これらの地域ではスサノオや大国主の命が治めていた。とりわけ伯耆国には387社中、素戔嗚199社、大国主89社が祀られている。国譲りの交渉に2番目に派遣された天稚彦命は大国主の命の娘「下照姫命」と結婚して、伯耆国の倉吉駅の近くの大平山近辺に8年間暮らしていた。天稚彦命と下照姫命の祭られている神社は希れであるが倭文神社(しとりじんじゃ)(旧舎人村/湯梨浜町宮内754)に祀られている。




(私論.私見)