熊野大社(出雲)考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 佐太神社につき、「出雲神楽考」で若干の考察をしているが、「日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》」が詳しい。これをミックスさせてみる。

 2010.04.17日 れんだいこ拝


【熊野大社(出雲)の社格、由緒考】
 熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451。TEL0852ー54-0087)は出雲国意宇(いう)郡の名神大社で、出雲大社と共に出雲の国一之宮。熊野大社が本来の出雲国の一宮であったと推定できる。出雲国風土記には熊野大社と杵築大社(現出雲大社)の二社のみが大社であり、熊野大社が筆頭だった。 出雲国造神賀詞でも、「出雲の国の青垣山の内に、下津石根に宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて坐す伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命、国作り坐しし大穴持命、二柱の神」と先に熊野大神の名が出る。

 熊野大神/櫛御気野(クシミケヌ)命を御祭神を主祭神として祀る。出雲国風土記には伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命とあり、素戔嗚(スサノオ)命と同神とする説もある。「日本火出初之社」とも呼ばれており、十月には鑽火祭が行なわれる。創建は出雲大社より古い。

 熊野大社絡みの国造家の出雲臣一族が出雲大社創建時に杵築に移住、分家し千家家、北島家となったと云う。出雲国造の末裔である出雲大社宮司家では、世継の神器として熊野大社から燧臼、燧杵を拝受することになっている。燧臼、燧杵は火を起こすための道具であり、熊野大社の鑽火殿に収納されている。

 原出雲、元出雲に遡る。スサノウ出雲の御世になって、八岐の大蛇退治後に新たな伝説が加わっている。素戔嗚尊がこの地で結納の品として御櫛を櫛名田比売命に渡されている。これに因み札守所に八雲塗の櫛が頒布されている。「八雲立つ・・」の和歌はその時に詠まれたとの説もあり、そこから「八雲」の地名が付いたともいわれている。「熊」とは、「隈々しい(奥まっていて暗く、その意味で神々しい)」という意味で、「隈々しい場所」から名付けられている。延喜式には、熊野の名を持つ神社が五箇所あり、古代には各地にあった。現在は県道が通っているが「日本初之宮・須我神社」と向かい合っている。

 日本書紀(720)に出雲國造をして厳神の宮を作らしむとの記載あり。出雲國風土記(733)、令義解(834)、日本三代実録(901)、延喜式(927)に熊野大神、熊野大社の記載あり。延喜式神名帳(927)に熊野坐神社と見え、日本火出初神社(ひのもとひでぞめのやしろ)とも称され、古来杵築大社(出雲大社)と並びて出雲の國の大社と遇された。意宇六社の一つ。
 出雲国の一之宮でもある熊野大社は、古代には出雲国造の中心とされる地域に鎮座し、日本書記で崇神天皇の御代に「出雲の神宝」を献上したとされ、垂仁天皇の御代に「出雲大神宮が修繕された」とあるのは注釈の解説の拠れば、熊野大社の地方を指すことが有力で、今の出雲大社のある地域には後の時代に移行して行ったとされている。紀伊国の熊野本宮大社の元宮という説もある。
 上古朝廷の御尊崇極めて篤く、仁壽元年(851)特に従三位を、貞観9年(867)正二位の神階を奉らせ給い、且つ殖産興業・招福縁結・厄除の大神として衆庶の信仰が深い。中世には熊野信仰の影響を受けて「上の宮(熊野三社)」と「下の宮(伊勢宮)」に分かれた(上の宮は明治の神社合祀で下の宮に統合された)。1871(明治4)年、近代社格制度のもとで神社名を熊野神社として國幣中社に昇格した。大正5年、國幣大社に進列された。特に出雲大社宮司の襲職は当社から燧臼燧杵の神器を拝戴する事によって初まるのが古来からの慣で今も奉仕されている。1977年に上古の名前を回復する形で現在の熊野大社と改称した。

 出雲国風土記の意宇郡の寺・社の項に「熊野の大社」とあり、山野の項で、「熊野山。郡家の正南一十八里。檜・檀有り。所謂熊野大神の社、坐す」とある。熊野山は現在の天狗山で、熊野大社の旧鎮座地としている。(荻原千鶴「出雲国風土記」)。もとは、意宇川の上流にあり、熊野大神は稲魂の神であった。本殿左の伊邪那美神社は伊弉冉命(イザナミのミコト)を祀り、千木は女千木(めちぎ)である。本殿右の稲田神社は真髪觸奇稻田姫命(クシイナダヒメのミコト)を祀る。

 「出雲の神の源流を訪ねる①熊野大社」が次のように記している。
 「意宇川の上流に鎮座する熊野大神は、出雲大社とともに今も出雲国一の宮だが、古代では意宇の国の地主神で、水神であり農業神であった。その意味で、大和への従属後に付けられた「櫛御気野命」においても、「櫛(クシ)」は「奇」、「御気(ミケ)」は「御食」という意の食物神で、命の源を守る神として通じるものがある。」。

【熊野大社(出雲)の祭神考】
 本殿に祀られる御祭神は、神祖熊野大神櫛御気野命。左手に伊邪那美神社、右手に稲田神社としている。本殿の様式は大社造。建造物は本殿、鑽火殿、舞殿、稲田神社(祭神は櫛名田比売命、足名椎命、手名椎命他六社合祀)、伊邪那美神社 ( 祭神は伊邪那美命他十九社合祀。元々は上の宮の社殿)、荒神社、稲荷神社。神紋は一重亀甲に「大」の文字。

 櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」の「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。これは出雲国造神賀詞に出てくる神名を採用したものであり、出雲国風土記には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなひのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。「熊野大神櫛御気野命」とは、熊野に坐します尊い神の櫛御気野命という意。

 この御神名は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別神名であるとしている。本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、先代旧事本紀、神代本紀には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から櫛御気野命が素戔嗚尊と同一視されるようになったと考えられる。明治に入り、本来の形に復するとして祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」として素戔嗚尊の名を廃したが、後の神社明細帳では「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」となり元に戻っている。

 伊邪那伎日真名子」(いざなぎのひまなこ)はイザナギノミコト、イザナミノミコトの可愛がられる御子の意。加夫呂伎熊野大神(かぶろぎのくまのおおかみ)の「加夫呂伎」とは神聖なる祖なる神様を云う。

【熊野大社(出雲)の神事考】
  「出雲の神の源流を訪ねる①熊野大社」が次のように記している。
 「スサノオ大神は、檜の臼・卯木の杵で火を切り出す法を教えられたので、熊野大社を「日本火出初社」とも言われる。火を起こすという文化の原初をつかさどる神で、出雲の神の祭礼はほとんど出雲大社に移ったが、火を起こす鑽火(さんか)祭の燧(ひきり)臼・杵の神器は鑽火殿に奉安され、10月15日の祭り当日、出雲大社宮司が神器を受け取りに来る。境内の左隅にそれがあり、萱葺きの屋根に四方の壁は檜の皮で覆われ、竹でできた縁がめぐらされた社は神秘的でもある。鑽火殿が今もここにあるということは、出雲の原初が熊野大社あることを暗に認めているということではないか」。
 主な神事は亀太夫神事。鑚火殿(さんかでん)では出雲大社へ火鑚臼(ひきりうす)・火鑚杵(ひきりぎね)を発遺する神事を行う。これを「火鑚(ひきり)りの神事」と云う。この神事は出雲大社で行われず、熊野大社の火を貰うことになっている。出雲国造の世継ぎの式は、「火維式(ひつぎしき)」または「神火神水の式」と呼ばれ、火鑚臼と火鑚杵でおこした火と、天の真名井から汲んだ聖水で神餞を造り、これを新国造が食べると、不死不滅になると信じられた。明治維新までは神魂神社で行い、熊野大社からは火鑚具を持っていくだけであった。明治以降は、千家国造家はここで行い、北島国造家は神魂神社で行っている。土俵の向こうに参集所があり、参詣の人々で賑わう。相撲は神事である。同様な行事として、古伝新嘗祭があり、古くは意宇郡熊野社に出雲国造みずからが参向して火鑚りの神事を行ったが、中古以降は神魂神社で行い、明治以降は出雲大社で行うことになった。熊野大神クシミケヌから国造の先祖アメノホヒが火鑚具を授かり、これで杵築大社のオオナモチを祭ったという。

【意宇六社考】
 意宇六社は次の通り。
熊野大社 (島根県松江市八雲町熊野2451)
眞名井神社 (島根県松江市山代町字伊弉諾84)
揖夜神社 (島根県松江市東出雲町揖屋字宮山2229)
六所神社 (島根県松江市大草町)
八重垣神社 (島根県松江市佐草町字八雲床227)
神魂神社 (島根県松江市大庭町)

【杵築大社、熊野大社、神魂神社の関係】
 (松前健「出雲神話」)
出雲国造の奉仕する神は、杵築のオオナムチと熊野のクシミケヌとの二柱であり二重性を持っている。令義解では、天神(あまつかみ)として、伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造の斎く神(熊野大神)など、地神(くにつかみ)として、大神(おおみわ)、大倭(おおやまと)、葛木の鴨、出雲大汝神(おおなむち)などをあげる。
熊野大神を国造家が奉じた時期は何時か。風土記でも国造神賀詞でもカブロノミコトとなっている。国造神賀詞で「イザナギノ日の愛児カブロギ熊野大神」と呼び、イザナギの子でアマテラスの弟に当たるスサノオと同一視している。これは後世の出雲側の無理な筋書きに過ぎなかったようで、朝廷側もこれを認めたとは思われない。
熊野大神を奉じていた出雲臣が、なぜ西部出雲の杵築の大神オオナモチを祀るようになったか。これは、東武意宇の一族が西部オオナモチの祭祀権を掌握した歴史的事実を背景とする。
アメノホヒを祖神とする出雲臣一族が、熊野大神を祀り、どうしてアメノホヒを祀らなかったのか。これは、延喜式の天穂日命神社や風土記でアメノホヒと同一神とされる野城大神の祭所は、出雲東部の飯梨川下流で、この地から出雲臣族はおこり、意宇平野に移動し、その地に古くから鎮座していた熊野大神の祭祀権を独占したのかも知れない。

【出雲国の熊野大社と紀伊国の熊野大社の関係】
 紀伊国の熊野三山も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。

【熊野大社考、熊野大社と猿田彦命の関係】
 熊野大社と猿田彦命の関係が推定されており、神武東征譚の際に登場する猿田彦命が熊野大社の主であり、これを奉戴する意宇方面の勢力が大和・吉備の勢力と組んで西出雲の杵築大社(現出雲大社)に拠る大国主の命に国譲りを迫り、国譲り後は西出雲をも配下におさめたと見る歴史家もいる。記紀神話に登場する猿田彦命(猿田彦大神)の猿田を「サタ、サダ」と解して佐太大神と看做す説もあり、この辺りの解析を要する。

 熊野大社で気づくことは、佐太大社と佐太大神の関係のような熊野大神がいないことである。代わりに猿田彦命が関わっている。これをどう解するべきだろう。れんだいこは、佐太大神が元であり、その皇統を継承していたのが猿田彦命ではなかろうかと窺う。当然、猿田彦のサルタは佐太に通じていると読む。猿田彦のサルに注目し猿と読むのは単なる漢字のごろ遊びではなかろうか。古代出雲信仰に於ける猿神の線も考えられようが、主たる読みとり線は佐太大神との繫がりであろう。


 余算であるが、知識と云うものは、増すことによって却って混乱する場合もある。方法として、まず或る推論により仮説を立て、その後の検証按配によって仮説が行き詰まれば、どんどん変えて行くのが望ましい。猿田彦命解析なぞはその典型である。

 2011.7.14日 れんだいこ拝






(私論.私見)