2010.04.17日 れんだいこ拝
佐太神社考 |
更新日/2016.10.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
出雲大社考の絡みで佐太大社を確認しておく必要がある。佐太神社につき、「出雲神楽考」で若干の考察をしているが、「日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》」、「佐太神社の御座替神事」、「佐太神社(さだ)」が詳しい。これをミックスさせつつ、れんだいこ史観で確認してみる。出雲王朝の概要と内部構造を解き明かすのはこれからの仕事である。これを為す時、出雲大社、佐太神社、熊野大社の関係をどう読み解くのかが肝腎になる。
2010.04.17日 れんだいこ拝 |
【佐太神社の社格、由緒考】 | ||
ホームページ「佐太神社」のトップには次のように記されている(2011.7.12日現在)。
その「御由緒 」には次のように記されている。
佐太神社(サタノカミノヤシロ)の元々は、神名火山(神奈備山)の朝日山(342m)の麓に鎮座している由緒ある古社で、古来より出雲大社に次ぐ出雲国の二の宮と崇められてきた。出雲国風土記における中核神であり、元出雲、原出雲時代に於ける地位が非常に高かったことを示唆していると思われる。現在の所在地は島根県松江市(八束郡)鹿島町佐陀宮内73。 秋鹿郡佐田大社之記は垂仁54年の創建伝承を記している。1684(天和4)年の「秋鹿郡佐田大社之記」に「神記いわゆる比婆山者蓋この處哉乎。然る後垂仁天皇五十四年乙酉四月、始合祭伊弉諾尊為二座」とある。別の「御由緒記」に「その後養老元年、太政官符の命によりて再建し、その制貞享四年の造営迄継続せり」とあり、717(養老元)年に創建されたとしている。これが創立縁起となっている。 出雲国風土記の「秋鹿郡の神名火山の条」に「郡家東北九里四十歩、高二百三十丈、周十四里、いわゆる佐太大神の社は即ち彼の山の下也」とある。ここでいう「彼の山」とは神名火山(神奈備山)の朝日山のことであり、その麓に鎮座していたと考えられる。この地は出雲でも相当早い時期に集落化された所で、縄文早期の佐太講武貝塚や弥生期の古浦砂丘遺跡がある。1974(昭和49)年、朝日山の山容を仰ぎ見る地である鹿島町太宇佐陀本郷宇志谷奥の山中から銅剣六口と銅鐸二口とが重層して同時に出土している。出雲の銅鐸で出土が明確なものの一つである。この時代より佐太神社が重要な役割を負っていたと思われる。 佐太神社を朝日山の麓に位置するとの記述は現在の位置からすると不自然であり、何らかの理由で現在地に移転したと考えられる。現在の佐太神社鎮座地は風土記にいう「狭田国」の東端に位するいわゆる東出雲の地であり、律令制時代には秋鹿郡の神戸里に属していたと思われる。風土記によれば神戸とは「出雲也、説名如意字郡」とあり、原出雲の中心地と云うことになる。荘園時代、この一帯は「佐陀荘」と呼ばれる安楽壽院領となった。近世には、江角、古浦、武代、本郷、庄村などの諸村が成立し、この神社鎮座地の一帯が「宮内村」ということになった。明治22年、本郷、武代、宮内の三村が合して佐太村となり、宮内は「佐陀宮内」と改称してその一大字となった。 延喜の制では小社の列でしかないが、神階は高く、859(三代実録貞観元)年7月11日の條に「出雲国従五位下佐陀神・旡位湯坐志去日女命、並授正五位下」とあり、9年4月8日の條には正五位上に、13年11月10日の條には従四位下に陞叙された由が見えている。この時点において従四位下以上というのは、出雲国における限り熊野、杵築両大神の正二位を措いて他になかった。その後、首位の熊野大社が逐次衰微し、次位の杵築大社は墾田を開発し、ついには12郷7浦というほどの厖大な社領を形成するようになる。1165(永萬元)年の 「神祇官諸社年貢注文」の出雲国の條に「大社、佐陀社」とあり、このころ既に佐太神社が杵築大社に次ぐ実質的ニノ宮の地位に達していたと考えられる。鎌倉中期の1256(康元元)年の社領注進状(出雲大社所蔵)によれば、「九番二百八十丁、三頭佐陀庄、佐陀神主」、「当国第一の大社たりし杵築大社に次ぐ」と記されている。その後の変遷は具体的には知り難いが、社伝によると概ね戦国末まではかなりの所領を擁していた。1706(宝永3)年の佐陀大社勘文によれば、島根郡と秋鹿郡に700石の社領と224人の神人を有していた。亨保2年、松江藩の儒臣である黒沢長尚が撰した雲陽誌には、概要「神領七千石、神職は二百二十四人を数え、毎年祭礼が賑やかであったが、豊臣秀吉の太閤検地によってによって神領が大幅に減じられ、神職もわずか七十五人になった」と記されている。堀尾吉晴の時代になって200石まで回復したという。 江戸時代に入ると、松平氏の治世下で、佐陀、杵築(出雲)の両神社の祠官は藩の寺社奉行の下で、出雲国の神社を二分して支配した。佐太神社は出雲十郡中の島根郡、秋鹿郡、楯縫の三郡と意宇郡の西半分の神社をその勢力下に収めていた。当時、杵築大社とともに出雲国内の神社を管轄し、1697(元禄10)年からはこれを幕府公認の制度として施行するようになっていた。これを「触下制度」と云い、周辺の諸社・神主を支配した。この三郡半においては、神社行政に関する限りすべて佐太神社を経て藩の寺社奉行所に結びつくという方式であって、出雲の残り六郡半に関しては出雲国造家が管轄したので、ここに出雲十郡は神社行政上、杵築大社と神社に二区分されることになった。但し、この触下組織に属さず単独で藩に結びつくという特例社も若干あった。これを「一社一令社」といい、佐陀触下区域では美保大明神、大野高宮、杵築触下区域では日御崎大明神、平浜八幡宮、須佐大宮、横田八幡宮がこれであった。 |
【佐太神社の神主、社人考】 |
神職は、国幣小社時代には宮司・禰宜・主典2の計4名、現在では宮司・兼禰宜1の計2名をもって職員としている。但し、近世以来の社人の裔は今も多く伶人として奉仕し、佐陀神能の保持者会を結成している。宮司の朝山氏は大伴氏の裔で、遠く天智の朝、播磨の賊を退治して勝部の姓を賜ったといい、836(承和3)年、出雲介として下向したのを出雲における鼻祖とする。武家時代に入ると土豪と化して神門郡朝山郷に築城して以来、朝山氏と称するに至った。杵築大社の1248(宝治2)年の「遷宮儀式注進状」に見える「在国司朝山右衛門尉勝部昌網」はその系累である。朝山氏が佐太神社の神主となったのは初代政持のときであり出雲介及び佐陀社祭主職を兼帯した。23代貞網が尼子義久に属して陣歿し、その昆弟の賢正院が還俗して24代慶網となって以来、佐太神社神主職を継承してきており、当主芳昭氏は初代出雲介政持以来38代となっている。
社人は、1512(永正9)年の「当社祝子人数事」と題する写文書(宮川上宮家旧蔵)によると大きく東座と西座とに分かち、東座には正神主ほか祝23人・神子6人、西座には権神主ほか祝15人・神子7人・不明3人、合計56人の職氏名をあげている。この「祝」をここでは上官・中宮・社人の三階級に分けていたが、このうち上官は世襲、社人もおほむね世襲、中宮は社人の中から功労によってその都度とり立てるものであった。1706(宝永3)年の「佐陀大社勘文」に「往時は二百二十四人、社領削減以来は七十有五人」と記されている。近世末に至るもなお正神主以下二十余人の神主・社人を擁した。 神主 正神主(朝山氏)・権神主(宇藤氏)・別火(磯崎氏)、以上を佐陀三神主といった。 上官 旧殿祝(福田氏)・高田祝(木村氏)・注連祝(幡垣氏)・幣主祝(宮川氏)・土器祝(朝山氏) 中官 常時三、四家 社入 別当祝・新五両會祝・若宮祝・社務祝・御盛祝・加賀祝・土器祝・矢神祝・龍蛇取・宮役人・山守・宮大工 一般諸小社を管轄する杵築大社、佐太神社の組織機構として、それぞれ各地に幣頭と称する中間機関を設け一般諸小社を管掌させた。幣頭には概ね郷の総社級の社家をもってあて、佐陀触下では次の四幣頭をおいた。むろん世襲であった。「近世出雲における神職制度」は次のように記している。 古曾志村吉岡氏 秋鹿郡東部・島根郡西部二十四社家 片江浦 石川氏 島根郡東部十社家 玉造村 遠藤氏 意字郡西部十二社家 平田村 河瀬氏 楯縫郡西部十八社家 小境村 常松氏 楯縫郡東部・秋鹿郡西部十社家 |
【佐太神社の名称考】 |
733(天平5)年の出雲国風土記の秋鹿郡条の「社」の項に「佐太御子社」と記載されている。「山野」の項に「神名火山。郡家(こおりのみやけ)の東北九里四十歩。高さ二百三十丈、周り一十四里。所謂佐太大神の社は、即ち彼の山下之」とあり、出雲国内四大神の佐太大神を祀る神社として「佐太大神」と表記されている。927(延長5)年の延喜式神名帳には「出雲二ノ宮」の「佐陀神社」と記載されている。中世に入ると「佐陀大明神」、「佐陀大社」、「佐陀三社大明神」などと呼ばれるようになった。
明治に入り現在の「佐太神社」に改称した。「佐陀大神社」とも称せられる由緒ある古社である。あるいは出雲国風土記の「佐太御子社(佐太御子神)」と延喜式神名帳の「佐神社」は別社であった可能性もある。 九條家本には「佐陀大社」、武田家本には「佐陀大神社」、吉田家本には「佐陀神社」と記してサタノと傍訓している。中・近世の文書・記録・地誌類等には「佐陀社、佐田社、佐陀大明神、佐田大社」などと記し、明治の特選神名牒では「佐陀神社」 となっている。その後、「陀」の字が阿彌陀の陀に通じるところからこれを避け、風土記の文字に還って「佐太神社」と記すに至ったという。訓みはサタ、サダにの二通りある。 |
【佐太神社の社殿、祭神、社領考】 |
朝日山を背に出雲大社にひけをとらないほど広い境内と社殿を構えた神社で、建造物として本殿が大社造の三殿に分かれており、正殿、北殿、南殿が並立しためずらしい造りとなっている。佐陀三社とも呼ばれる。現在、国指定重要文化財にもなっている。他に拝殿、神楽殿、宇多紀神社(式内社)、日田神社(式内社)、御井神社(式内社論社)、垂水神社(式内社)からなる。
祭神として、中央の社の正殿:に佐太御子大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。右の北殿に:天照大神及び瓊々杵尊の二柱。左の南殿に:素盞嗚尊及び秘説四柱の計五柱、併せて12柱を祀っている。きわめて複雑である。本来は、佐太大神のみが祀られていたと考えられている。祭神名がその後幾変転し、且つ一社が三殿に分かれることになった経緯は分からない。岸崎左久次氏のの「出雲風土記紗」には、社を三社とした上で、一社は熊野大神と大穴持命、一社は佐田大神、一社は瓊々杵尊・伊弉冉尊・天照大神の三神であると説明している。1439(永享11)年3月18日の四郎三郎他11名の「起請文」(東福寺文書)に「特者当州杵築太明神・佐陀三社太明神」の語が見える、少なくとも南北朝期にはすでにこの三殿並立の形ができていたことになる。 1578(天正6)年の「佐陀大明神御本体ヲ智事」云々と題する幣主祝宮川清秀の手控には、「ここは当国の鬼門故に三つの社を建て並べ、八百萬の神々を勧請するが、主神は皇孫瓊々杵尊であり、かつ伊弉諾・伊弉再の二神を併せ祀る」と述べている。江戸時代の初めに成ったと思われる神能 「大社(おおやしろ)」を見ると、そのクセの段に、「三つの社を建て並べ、伊弉諾・伊弉冉は中の社と思召、左の社には天照大神・月の神、右の社には水蛭子・素盞嗚これなり」とあって、ここに三殿の祭神がより具体的に説かれ、しかし主神は諾再二尊ということになってくる。寛文年間(1661~73)の「佐陀大明神縁起」には「中正殿者伊弉諾・伊弉冉二尊勧請社也。北之社者穂仁似々貴尊也。亦天照大神・天赤女勧請社也。南之社者月神・蛭子・索盞嗚尊也」とある。1684(天和4)年孟春の「秋鹿郡佐田大社之記」には「正殿、速玉之男・事解男、北殿、天照大神・皇孫命、南殿、五男外ニ一座伝授」とある。ここに速玉之男命、事解男命、五男神が出てくる。1717(享保2)年の雲陽誌には、正殿は「伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉男命・秘説、都て五座の神をまつる」、北殿は「天照大神・月弓尊、都て二座の神をまつる」、南殿は「素盞嗚尊・秘説四座の神をまつる」とあり、これが概ね幕末まで一貫する。 佐太神社の神紋は、奥殿、北殿、中殿それぞれ異なった紋を使用している。正殿が「十五本骨檜扇」の地紙。北殿は「輪違い」。南殿は「二重亀甲」となっている。中殿の「十五本骨檜扇」は、佐太神社神宝の「御檜扇」を象ったものと思われる。 |
【佐太大神考】 |
正殿の主祭神である佐太御子大神は出雲国風土記に登場する佐太大神と考えられる。出雲國風土記によると、佐太大神は、熊野大神、野城大神、大穴持命(天の下所造らしし大神)とともに出雲の四大大神とされる。神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。古くから導きの神、道開きの神、福の神、長寿の神、交通・海上守護の神、地鎮の神として信仰されてきた。神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある。狭田説に従えば、佐太大神とは「狭田国(サダノクニ)」の祖神にして出雲の土着の神と云うことになる。「サダ」とは島根半島を指すと考えられている。 記紀神話に登場する猿田彦命(猿田彦大神)の猿田を「サタ、サダ」と解して佐太大神と看做す説もある。明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の古史伝の説に従って祭神を古事記に出てくる猿田彦命(サルタヒコ)と顕示するように指示された。が、神社側は神主以下、祖法を楯に拒み、祭神の問題について藩当局との間に確執を生じた。明治3年6月、「佐太御子神」として顕示することに結着した。明治5年の新社格制度のもとでは一郷社にしか扱ってもらえないという事態となった。明治7年、県社に昇格したものの、それ以上には昇らなかった。明治12年、主神を「佐太大神」とし、諾再二尊を配祀神であるということに改めた。明治18年、「佐太大神」を「佐太御子大神」と書替えた。これ以後社格の昇進ということが悲願となり努力を重ね、大正14年、国幣小社に列する。現在、神社側は、佐太御子大神は猿田彦大神と同一神としている。 |
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佐太大神が何者であるのかの解明は出雲王朝史上重要である。れんだいこは、元出雲、原出雲時代の支配的豪族であり、「国引き譚」の八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅの命、意美豆努命とも称される)ないしはその系譜の者とみなしている。猿田彦命とは、この系譜の命ではなかろうか。佐太神社と熊野大社の関係が分からないが、両社ともあるいは佐太大神相当重要な位置を占める神社、大神であることには間違いない。 2011.7.14日 れんだいこ拝 |
【佐太神社の御座替神事】 |
佐太大社は、出雲大社神道以前の古式出雲神道を司祭していた形跡が認められる。同社の神在祭は文献上もっとも古く、現在の祭式次第も約500年前の記録とほぼ同じ内容の「いにしえの祭り」を執り行っている。他の神社では祭の内容が著しく変化したり、わからなくなったものもあるが、同社では今も変わらず古礼祭を受け伝えている点で宗教学・民俗学等からも注目されている。祭礼は古来年に75回行われたと云うが、1512(永正9)年の「七恰余度之祭之名ヲ知事」(宮川上官家旧蔵)と題する寫文書にその次第を記すが、近世にはすでに行なわれなくなったものもかなりあったらしい。現在は、2月15日(元は正月15日)に管粥神事、5月3日(元は4月3日)に直會神事、5月20日~25日(元は4月20日~25日)に神在祭裏祭、7月15日(元は12月21~23日)に御田植祭、11月20日~25日(元は10月20日~25日)に神在祭を行ない、これはいまも厳修されている。大祭として「御座替神事」と「お忌み祭」が有名である。 御座替神事は同社の古伝祭の一つで、神在祭に先だって神在月に全国から集まって来る神々を迎える為の神殿内陣の神座のござ(御座)を新しく敷き替える行事である。千二百年年以上続いている古式ゆかしい神事となっている。毎年陰暦8月24日(陽暦9.24日)、かがり火と灯明がともる中、精進潔斎した神主、巫女らによる御座替神事が厳かに営まれる。この時、摂社、21ある末社から正中殿の南殿、北殿、本殿の順々に御座を敷き替える。御座は宍道湖北岸の神田で栽培されたイ草で作られている。25日に幣帛を祀ってお祝いをする。舞殿では、神事に合わせ、出雲神楽の源流といわれる佐陀神能(神楽に能の所作を取り入れたもの、国の重要無形民俗文化財に指定)の「七座の舞」(鼕-どう-や笛などの音に合わせ古式ゆかしく行われる優雅な舞)を奉納し、深夜まで続く。(佐陀神能については「出雲神楽考」に記す) 佐太神社の御座替神事の由来を出雲大社系の神迎えの神事としてではなく、出雲大社系の神在祭とは別系のイザナミの命(伊邪那美命・伊弉冉尊)を祀る神事と捉える謂われもある。出雲大社系の神在祭では杵築大社、熊野大社、神魂神社が相互に関係し合っているのに対し、佐太神社の神在祭はやや独立しており且つ関係している感がある。これは何を意味していると解すべきだろうか。 神々の母とされるイザナミ命は旧暦十月に出雲で崩御し、神名火山の山塊にある足日山に埋葬された。この地の近くに建立されたのが佐陀大社であるとする。古事記の「イザナギ命(伊邪那岐命)・イザナミ命(伊邪那美命)神話」の中に、イザナミ命が死んで黄泉の国である出雲へ行くという条がある。「黄泉比良坂は、今出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」としている。日本書紀では紀伊国熊野の有馬村としている。この故事に因んで、神々の母として考えられていたイザナミ命が崩御した旧暦十月に八百万の神々が佐太神社に集まりイザナミ命を祀る神事として神在祭が始まったとされている。その故か、神無月の語源について「母神の無い月」と考える向きもある。この祭りを「お忌祭」(お忌みさん)と呼び厳粛に執り行う。佐太神社祭典記には、「古老が伝えていうには、ここ出雲は日域(日本)の戌亥隅(西北)という陰極の地であり、女神先神伊邪那美は陰霊で、亥月という極陰の時を掌る神である」と記している。 |
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ここで窺うべきは、佐太大社が「出雲会議」に深く関わっていること、出雲大社に先立って神事を執り行っていること、出雲大社神道とは一部交わり一部別系で営まれていることである。これをどう解するべきか。佐太大社の神在祭は歴史的に見て出雲大社神道に基づく神在祭に先行して神事されていたものであり、その経緯によって出雲大社神道に基づく神在祭にも枢要な役割を担っていると考えるべきではなかろうか。且つイザナミ命を祀る神在祭が本来の意味であり、出雲大社神道の諸国神々の国治会議祭とは趣が違うのではなかろうか。これを逆に云えば、歴史的に佐太大社の神在祭が出雲大社の神在祭へと進化し、その限りに於いて元の神在祭としての佐太大社の神在祭が畏敬されているのではなかろうか。 2011.7.14日 れんだいこ拝 |
【佐太神社のお忌み祭(神在祭)】 |
かっては出雲地方に四つある神名火山(かんなびやま)に関係する神社すべてに神在祭があったと伝えられている。現在では、新穀を神々に捧げるという新嘗祭(にいなめさい)と同義のものとして行われている。これは、この神名火山に新穀を捧げる神名火山祭に発祥しているからと考えられている。 佐太神社では、神在祭を「お忌さん(おいみさん)」と呼ぶ。神在祭については「出雲神道、出雲大社考」で確認している。佐太神社の神在祭は、記録に残るところ祭は陰暦10月11日から25日までの15日間行い、11日から17日までが上忌で準備期間としての散祭(さんさい)、18日から25日までが下忌で到祭(ちさい)とされ下忌の方が重儀で18日に神迎神事を行い境内に注連縄(しめなわ)を引き渡すと25日の神等去出(からさで)神事が終わるまで謹慎斎戒に服した。厳重な物忌みの祭であった為、時代が下ると間に中根(なかね)と呼ぶ緩和日を3日間設け、斎戒を解いた。この間がいわゆる「お忌み」の期間で、祭の期間中は、歌舞音曲、喧騒、造作等も慎む禁忌となる。昔は散髪・針仕事まで遠慮して物忌みしたと云う。 現在では、新暦の11月20日に神迎えが、25日に神送りが、30日には止神送りが行われる。11月20日、境内に忌串を廻らして人々を近づけないように措置して「神迎え」する。南北の出入り口のみを残して、本殿付近は注連縄が張り巡らされる。夜、宮司以下はこの南口より注連縄内に入り、各本殿の前で拝礼を行う。この時、佐太独特の礼拝方法である「四方拝」を行う。その後、直会殿の秘儀で神々を迎え、神籬(ひもろぎ)は中殿前に安置される。その後、二つの入口は青木で閉ざされ、これ以後、神職といえども注連縄内には入ることができない。 11月25日、からさで(神等去出)と云われる「神送り」をする。この日は、特に厳重に身を慎む。迎える側の神々は鹿島町の佐太神社、松江市の神魂(かもす)神社などこの地方の七社を廻ったあと「神送り」に向かうが、佐太神社では「水夫(かこ)」と唱えつつ神目山(かんのめやま)頂上から送る。 亥の刻(午後十時)、斎主を務める白装束姿の神職が神籬(ひもろぎ)を奉持して、氏子がこれに従い、神名火山に向かい、オーという警謐(けいひつ)の声が暗い山々にこだまする中を神名火山に続く尾根の途中にある神目山に登り、秘祭を行う。ここには日本海に通じるとされる小さな窪みの池があり、ここに神籬(ひもろぎ)を載せた船を置くことで、頂上からはるかに見える日本海に神々を送る儀式を行う。これをもって参集した神々が個々に佐太神社を去っていくとされている。これが二段ある秘祭の前段の神事で、後段は五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する。これが祭りの原型とされている。銅鐸と銅剣が出土した志谷奥遺跡はこの山の麓である。青銅器はこの祭りと関係があるのかもしれない。 11月30日(止神送り=しわがみおくり)は、25日の神送りと同様な行事が行われる。これは帰り残った神を送る祭礼である。佐太神社の神在祭は他社と異なり春と秋の二回行われる。佐太神社の約百メートルほど東に佐太神社の摂社の田中神社がある。この神社の歴史も古く、出雲国風土記にその名を見ることができる。 |
【現在の佐太神社のお忌み祭(神在祭)祭祀の竜蛇信仰考】 |
神在月の頃、日本海には激しい北西の季節風が吹く。出雲の海は急に暗くなり海面は荒れて泡立つ。島根半島の海岸部に錦紋小蛇=南方産のセグロウミヘビの一種が現れる。この海蛇の背が黒色をしており、脇腹の色が金色をしている。尻尾に斑紋がある。体長は60~70cmの小さな海蛇だが、眼も歯も鋭く、威厳と神秘性が感じられる。夜、この海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉に見えるという。古代の出雲の人々は、これを神の使いの竜蛇様として篤く信仰していた。古事記には、海を照らして光り輝きながらわたってきた御諸の神、つまり三輪大神が大国主の国づくりを手伝ったとあり、この三輪の神は蛇に化身する神であることから、この風習と一致する。大国主は大穴牟遅(オオナムチ)の別名を持っておりナムチは蛇を表わす。 佐陀の浦(鹿島町古浦海岸)にも竜蛇が出現し、これが佐太神社に奉納されるようになった。佐太神社の境内にある舟庫に掲げられた額には「神光照海」と書かれている。佐太神社では古来、竜蛇(海蛇を神の使いとして信仰する竜蛇信仰)は恵曇の古浦から上がるとされていた。古浦とその隣りの江角浦とを合わせて神在浜と呼ばれるが、そこには板橋という佐太神社の社人が居住して、代々竜蛇上げの職を奉していた。 この竜蛇信仰の由来は分からない。古代のマレビト信仰では海の果ての常世国から豊饒をもたらす神伝説があり、これに拠るものと思われる。「対馬海流がもたらす南方文化への憧れと信仰を伝えるもの」とされている。 |
【佐太大神と加賀の潜戸信仰考】 | ||
島根半島の北の加賀の神埼には、通り抜けることのできる洞穴があって、「加賀の潜戸(かがのくけど)」といわれている(島根県八束郡島根町潜戸鼻岬の海岸洞窟)。新潜戸と旧潜戸があり、旧潜戸は岬の胴体部で巨大な洞窟が広がる。玄武岩、集塊岩などが海食によりできたものである。潜戸の近くには賽の河原もあり、幼い子を亡くした親たちが哀しみを持ってくるといわれている。
出雲国風土記の「嶋根の郡加賀の潜戸の条」に次のように記されている。
この潜戸で佐太神社の祭神である佐太大神が生まれたとして「加加(加賀)」の由来を次のように記されている。
今日でも、この潜戸といわれる窟の内を潜りぬけようとする者は、必ず大声で叫びながら通過しなければならぬ。もし無言で通過しようとすると、神が出現して親風を起すので、船は必ず覆るというのが伝承となっている。この地が加賀といわれる所以は、サダの大神が生まれたとき、「闇キ岩屋ナルカモ」と申されて、黄金の弓を以て射たとき光り輝いたので加賀と云うとも伝承されている。この潜戸は東西約200メートル、高さ30メートル、水深は8メートルの巨大な窟であり、大神がハッシと射たてた箭は、この潜戸の洞門からおよそ500メートルをへだてた的島をも射通したとも云う。 加賀の潜戸の近くに加賀(かか)神社が鎮座する。祭神は、キサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)、猿田彦命(佐太大神)、イザナギ命、イザナミ命、天照大神である。近世には潜戸大明神とされていた。キサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)は赤貝の神格化とされ、古事記には、八十神に火傷を負わされて死んだオホナムジ命(大穴牟遅命・大穴持命)を蘇生させるために、カミムスビ命(神産巣日之命)がキサカイヒメ命とウムカイヒメ命を遣わしたとある。 |
【佐太大神と金の弓箭(黄金の矢)考】 |
古代出雲は、佐太川を境に西を狭田の国、東を闇見(くらみ)の国と別個の小国家が成立していたと思われる。これは国引き神話にも登場する。この二つの国は程なく佐太大神の信仰によって繋がる。これにより、闇見の国を代表する祖神の社は久良弥社(くらやみのやしろ)で、闇見の国神話が狭田の国神話に飲み込まれたと考えられる。加賀の潜戸の説話で「佐太大神」としているのは、実は「佐太御子神」の誤伝で、もともと麻須羅神こそ「佐太大神」であったのかもしれない。即ちこの説話は、古くは狭田の国の「佐太大神」が矢になって、闇見の国のキサカヒメ命(枳佐加比売命・支佐加比売命、神魂命の御子)のもとに通い、その結果として「佐太御子神」の誕生を見たとする説話であったと思われる。結果、二つの国は程なく佐太大神の信仰によって繋がることになる。 加賀の潜戸を貫いた金の弓箭(黄金の矢)とは、的島の東から射しこむ太陽の光線(黄金の矢を持つ太陽神)を比喩したものとされている。そこから、黄金の矢を持つ太陽神が、暗い洞穴に矢を放つとは、太陽神とそれを祀る巫女の交合の儀式と考えられている。このような加賀の潜戸という自然の造形が、壮大な説話を生み出したと思われる。新潜戸から見た的島の方向は夏至の日の出の方向にあたり、反対に的島から見た新潜戸は冬至の日没の方向にあたる。夏至の朝日が生、冬至の夕日が死を象徴するものと考えられていたようだ。この説話には、神婚説話や日光感精説話が見て取れる。 洞窟(大穴)で生まれたということで、この佐太大神をオホナムヂ命(大穴牟遅命・大穴持命)とする説がある。しかし、オホナムヂ命(所造天下大神大穴持命)を奉ずる勢力による出雲統一の以前、この地は既に佐太大神の勢力圏であった。神々の通い婚の説話はオホナムヂ命に代表されるが、加賀の潜戸の説話のように佐太大神の通い婚の説話があった。 元来、出雲国の佐太大神の原質は太陽神(天照神)であったのであろうか。太古より、わが国の太陽信仰は広く行われており、各地に所在する天照神(プレ・天照大神)もそうであり、大和の三輪山の山頂にも太陽神を祀る社があり、日本書紀(応神記)のアメノヒボコ(天之日矛・天日槍、新羅の王子)も太陽神とされている。 「金の弓箭」。矢というと類似の説話として、山城国風土記逸文の「賀茂の丹塗矢」伝承(賀茂建角身命の御子・玉依日売と川上から流れてきた丹塗りの矢と感けて、賀茂別雷命が生まれたとする御子神伝承)がある。金の弓矢は雷火か太陽光を象徴しているようで、こうした説話は太陽神・雷神とそれを祀る巫女の交合の儀式(神婚説話・日光感精説話)を表していると考えられる。類似の説話の存在は、出雲一族の大和・山城への移住と関連がある可能性が強い。賀茂説話や三輪山・大物主説話との関係が気になるところである。 出雲国風土記(嶋根郡)によると、生まれた佐太大神(または佐太御子神)は、佐太国(狭田国)の総鎮守神であり、それがカミムスビ命(神魂命)の御子(キサカヒメ命=枳佐加比売命)から生まれたとすると、佐太大神を奉斎する氏族が神魂命を信仰する祭祀集団と何らかの関係があったことを示唆していることになる。カミムスビ(神産巣日神・神皇産霊神)は記紀では天地初発のときに生まれた独神であり、タカミムスビとカミムスビは併称されている。しかし、出雲国風土記では神魂命と記されており、性格は記紀と異なっている。神魂命は島根半島の太古よりの海辺の素朴な女神で、出雲土着の神の総称であったと思われる。 |
【万九千(まんくせん)神社のお忌み祭(神在祭)】 |
「佐太神社と万九千神社」を参照する。 斐川町の万九千(まんくせん)神社では、11月26日の夕方、梅の小枝で神社の戸を叩きつつ見送る。かつては出雲の神名火山(現在の仏経山)で焚く火の中をお立ちになったという。このように海(あま)から迎え、山=天(あま)から送り返すところに、ものごとを循環してとらえる日本人の深層意識が読み取れる(お盆にも同じような習俗が残されている)。神等去出の夜は、静粛にし、外出もせずに神々を見送る風習がこの地元には残っている。人々は身を慎み、清らかな心で神々に接した後、もの忌みから解放され、晴れ晴れとした活力を感じるようになると云われている。神々が帰っていく「神等去出」(カラサデ)を行う重要な神社が万九千神社であることが奇妙である。万九千神社は、立虫神社の摂社として設置された小さな神社となっている。神立という地名や神立橋があることなど重要な場所であるはずなのに立虫神社に居候している。 九千神社は、もともと神代(カムシロ)神社であったらしい。これが、紆余曲折し、出雲国造の千家とつながりの深い立虫神社の摂社となっているところに深い意味を感じる。 |
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佐太神社、万九千(まんくせん)神社の神在祭に注目するのは、出雲大社とは別系のものにして、出雲大社神道以前に確立していた古式出雲神道の様式を伝えているのではなかろうかと思われるからである。一口に出雲神道と云われているが、出雲神道の中身に立ち入れば、古式出雲神道と出雲大社神道の両派から構成されているように思われる。そのどちらの出雲神道も、縄文時代の精霊信仰を継承しつつ、弥生時代の祖霊信仰を受け入れている。この出雲神道こそが日本人の神信仰の基底を形作っており、今日まで生き続けて来ているように思われる。その後の他派神道の多くが、縄文文化との縁を断ち切ったうえで、大陸や朝鮮半島の新文化を取り入れたのに対して、出雲神道は縄文文化を継承しつつ、新しい高度な文化を取り入れたように思われる。こう見ると、出雲神道にこそ日本人の信仰の基層を見て取ることができそうである。小泉八雲は言う。概要「出雲は日本の民族の揺籃(ゆりかご)であり、出雲はわけても神々の国である」。至言ではなかろうか。 2011.7.14日 れんだいこ拝 |
佐太神社考】 | 【||||||
「佐太神社」 神社名/佐太神社の所在地は島根県松江市鹿島町佐陀宮内73。佐太神社は、一畑電車松江しんじ湖温泉駅から、宍道湖を背にして概ね北西方面に向かい車で十分ばかりのところにある。途中松江高専を通過して右手に大きくカーブする辺りにある。そのまま進むと恵曇漁港・古浦に行き着く。 ●バス/JR松江駅より一畑バス恵曇行き約25分「佐太神社前」下車すぐ。 ●車/JR松江駅よりタクシーで約20分 ●駐車場情報/大型バスなら10台駐車可 佐太神社は松江市の北、鹿島町佐陀宮内に鎮座している。延喜式(えんぎしき)に出雲國二の宮の佐陀大社と記されている。出雲國三大社の内のひとつとしての「佐陀大社」として称えられてもいる。出雲国風土記に佐太大神社、あるいは佐太御子社と記されている古い神社である。本殿、直会(なおらい)殿、舞殿、神門、および数宇の摂末社(せつまつしゃ)などの建造物を有している。大社造りの本殿が三殿並立し国の重要文化財になっている。三殿で12柱の神が祀られている。祭神のそれぞれは下記の通り。正殿に佐太大神(さだおおかみ)、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)。北殿に天照大神(あまてらすおおかみ)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)。南殿に素盞鳴尊(すさのおのみこと)、秘説四柱の神が祀られている。
このような社殿構えが成立したのは中世の末ごろであったようである。現在の御社殿は文化年間の造営であるが、その様式は元亀(げんき)年間に造営されたものを踏襲してきたもののようである。佐太神社は、本殿を始め舞殿等の社殿の修復が始まっており、平成二十八年の正遷座祭に向けて御造営が進められている。現在は国・県の指定する文化財も多数有している。 県道沿いの佐陀川にかかる橋の佐太神社側を北に少し行くと境外社の田中神社があり、ここは全国でも珍しい「縁切り」の神社である。男女の悪縁をはじめなかなか断ち切れない様々な悪縁を除くため、参拝、御祈念に訪れる方が多数ある。神楽にも「悪切り」と云う演目がある。佐太神社の神事舞として伝わる「佐陀神能」は、平成二十三年に人類が共有すべき文化遺産であるとして、「ユネスコ無形文化遺産リスト」に登録された。佐陀神能は、毎年九月二五日に行われる茣蓙替祭等の日に夜八時頃から十一時頃まで境内舞殿で奉納される。神社南側の鹿島歴史民俗資料館では、何時でもそのビデオを見ることができる。また、同資料館二階には、中国の小説家魯迅に師事し、著作物の翻訳紹介に尽力した鹿島町出身の「増田渉」の資料が多数あり、手にとって読むことができる。 |
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(私論.私見)