出雲王朝史2、スサノウ出雲王朝史考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 出雲王朝は、ヤツカミズオミヅが治めた原出雲から始まり元出雲へと発展する。次に西出雲にスサノウ出雲を生む。この時代は、元出雲とスサノウ出雲の鼎立時代であり、両者が競うようにして国家経営に励む。これを確認する。

 2008.4.10日 れんだいこ拝


【須佐之男命(日本書紀名/素戔嗚尊)】
 八俣の大蛇退治で知られる高天原から追放された荒ぶる神スサノオ。インド由来の牛頭天王だとも云われる。
 父/伊邪那岐(イザナギ)、母/(紀では、伊邪那美イザナミ)。子供/多紀理毘売、市寸島比売、多岐都比売***須勢理毘売、八嶋士奴美神、宇迦之御魂神、大年神など。妃/櫛名田比売(足名椎神女)、神大市比売(大山津見神女)など。
 伊邪那岐の「三貴子」の3番目の子。「海原を治めよ」と命じられる。天照大神は姉として扱われている。しかし、国を治めず啼きわめき、万物は災いに見まわれた。イザナギは怒って「この国に住んではならない」とスサノオを追放した。おもむく前に姉の「天照大御神」に会いたくて天に上る。ここで「宇気比」(誓約)をする。スサノオは、これに勝ったおごりから天照大神の田、神殿など荒らし回った。ついに天照大御神は、天岩屋の戸を閉じて中に籠もった。(天岩戸神話)その後日本書紀では、神々に追いやられたスサノオが、青草の笠ミノをかけ、神々に宿を請うが、汚らわしいと断られ、風雨のなか留まり休むこともできず辛苦を受けた。ところが、一転して記紀共に舞台は出雲国に移り、スサノオは勇敢で人助けをする善神として活躍し始める。八俣の大蛇退治神話、草薙の剣、須賀に宮を定め「櫛名田比売」と結婚。大国主神話に繋がる数々の逸話を生んでいる。スサノオは天津神と国津神の間に位置し、高天原出身ではあるが、八百万の国津神の源点的存在として扱われ、それら国津神の系譜が総て須佐之男に始まるとされている出雲神話の源となっている。素戔嗚尊に関係ない国津神も多々いる。例えば大綿津見神、大山津見神など。
 備後国風土記/蘇民将来伝承、牛頭天王、八坂神社。
 島根県/須佐神社、八重垣神社。出雲熊野坐神社。
 参考
 熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451)
・出雲国一宮
・旧国幣大社
・出雲風土記記事
 出雲には大神が4名,大社が2社ある。筆頭大社は熊野大社。次が杵築大社(出雲大社)である。
・祭神:伊邪那伎真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命。これは現在では、「素戔嗚尊」であるされている。(熊野大社公式見解である)

【スサノウの名前考】
 スサノウは、古事記では「須佐之男命」、「速須佐之男尊」、「須佐の男」、日本書紀では「素戔嗚尊」、出雲風土記では「神須佐能袁命」と記されている。スサノウが祀られている全国の神社で調べた祭神名によると、「須佐之男尊」、「須佐之男命」、「進雄尊」、「素戔嗚尊」、「速玉大神」、「家津御子大神」、「牛頭天王」など多数にのぼる。

【日本神話上のスサノウ履歴】
 スサノウは、日本神話上、「イザナギの禊と三貴神(天照大御神、月読の命、スサノウの命)の誕生譚」に初めて登場する。古事記は次のように記している。「禊の最後に、イザナギが澄み切った水を両手ですくって目や鼻を洗うと、左目からアマテラス(天照)大御神、右目からツキヨミ(月読)の命、鼻からタケハヤスサノウ(建速須佐之男)の命の3人の神様が生まれた。これが最後に生んだ神々となった」。日本書紀は次のように記している。「イザナギは、『自分は随分たくさんの子を生んできたが、一番最後に3人のとりわけ貴い子が得られた』と喜んだ」。スサノウはその後、「高天原王朝神話」に登場し、「天照大神とスサノオのウケヒ(誓約)譚」、「スサノオの高天原追放譚」、「スサノオの五穀譚」、「スサノオの新羅立ち寄り譚」を経て、出雲王朝神話に登場して来ることになる。これを概略する。

 スサノウは、「イザナギの禊と三貴神(天照大御神、月読の命、スサノウの命)の誕生譚」で、天照大御神の次に生まれている。次に、「天照大神とスサノオのウケヒ(誓約)譚」で神産み競べをし、その後の乱暴狼藉により「アマテラスの天の岩戸隠れ譚」となり、天照大神の不興を買い高天原を追放される。この時、食べ物を提供した大ゲツ姫神を斬殺し、その大ゲツ姫神の頭から蚕(かいこ)、両目から稲の穂、両耳にアワ(粟)、鼻に小豆(あずき)、陰(ほと)に麦、尻に大豆(まめ)の五穀物の種を手にする。スサノオはその後、子のイタケルと共に新羅のソシモリに立ち寄っている。暫くいたが、「この地には住みたくない」と発して土の舟をつくり出雲に向う。こうして、元出雲の国に渡来した。これよりスサノウ系出雲王朝史が始まる。見方によれば、スサノウ系出雲王朝は、高天原王朝による原日本/元出雲王朝征服の第一弾であったことになる。しかし、スサノウは出雲王朝と抗争しつつ同化する。この「同化」こそが日本史を貫くDNAであるように思われる。

【スサノウの朝鮮降臨説考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62」のどう思われますか氏の2018 年 4 月 30 日付投稿「記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の24)・スサノオは朝鮮に降臨した」は概要次のように述べている。その採用できるところを拾い出しておく。

 古事記では、スサノオは、高天原のアマテラスに別れを告げた後、出雲に降臨しているが朝鮮降臨の記述はない。日本書紀ではスサノオの朝鮮降臨記述が錯綜している。「神代上第八段・本文1」では、高天原から出雲に降臨している。「神代上第八段・一書2」では、高天原から安芸の国の可愛(え)の河上に降臨している。「神代上第八段・一書4」では、高天原から息子の五十猛を連れて新羅国に渡来し、曾尸茂梨(ソシモリ)に行った後、そこから船で日本の紀伊に渡るとしている。「神代上第八段・一書5」では、高天原から(どこかに)降臨した後で、(朝鮮の)熊成(クマナリ)の峯に居て、やがて根の国に向かっている。先代旧事本紀は「神代上第八段・一書4」と同様記述している。即ち、スサノオは高天原のアマテラスに別れを告げた後で、息子の五十猛を連れて、新羅国の曾尸茂梨(ソシモリ)に渡来したが、「こんな国には居たくない」ということで、出雲と伯耆の間の「鳥髪の峯」に辿り着いている。日本書紀一書は、スサノヲ命は、長雨の降る中を蓑笠姿で彷徨(さまよ)い歩いたが、どこの家も留めてくれるところがなく、スサノヲ命の辛苦難渋の流浪の様子を描いている。備後国風土記逸文では、蘇民将来の説話として登場する。沖縄にも類似の説話がある。

【スサノウの朝鮮祖説】
 「スサノオの朝鮮祖説」があり、これを確認しておく。スサノヲのスサは朝鮮語で巫の意味で、シャーマン(古来より、シャーマンと鍛冶部は関連がありそうだ)を表すススングに由来する。このススングがスサヲとなったとしている(渡来した鉄の神)。これによると、スサノヲの命は朝鮮半島から渡来した新羅系の蕃神(外来神)であり、飯石郡須佐がスサノヲの命の出雲における本貫地であるとすることになる。そこから、スサノヲの命を祖神とする集団の勢力が大原郡、神門郡へ伸び、一部意宇郡や島根郡へと及んだとしている。

 「古代出雲王国-スサノオの光と影-1  谷田茂」は次のように記している。
 「島根県平田市。ここにある宇美神社は出雲風土記の中で、スサノオの生誕地と記されている。この地は新羅からの移民が数多く渡ってきたところで、スサノオが新羅の王であったとされる。今も出雲弁は周囲とは全く異なった方言であることからも、特殊な地であったことが分かる。この地の北方に連なる島根半島一帯は、古代の大産銅地であった。さて、ここで数多くの銅矛や銅鐸が生産され、全国に広がる、連合王国、古代出雲王国の首長たちに配られたことは想像に難くない。古代出雲王国は連合王国であったが、その範囲は北九州から東北以南まで、東は関東まで広がる。それは、スサノオを祀る神社が日本中に散らばっている事からも確認できる」。
 「スサノオの朝鮮/金官加羅国建国説」。スサノオは朝鮮に降臨して、狗邪国(狗邪韓国)を滅ぼして金官加羅を建国し、挙句の果てに北九州や出雲に至った、とする説がある。
(私論.私見)
 これら「スサノウの朝鮮祖説」諸説は推定に次ぐ推定で論証できるものはない。

【スサノウ出雲出自説】
 「スサノオの朝鮮祖説」に対抗する「スサノウ出雲出自説」もある。これによれば、「スサノヲ」という名前について古来幾多の解釈がなされてきたが、出雲国風土記の飯石郡須佐郷に、「この国は小さい国だがよい国だ。自分の名を石や木に留めるのではなく、土地の名に留めよ」とあり、スサノヲを「須佐の土地の男」としている。スサノヲのスサは荒れすさぶる男という意味を込めているとする国学の本居宣長の説もある。高天原で乱暴狼藉を働いたスサノヲに相応しい名前と云うことになる。

 出雲国風土記に登場するスサノヲの命は、おおらかな農耕的神である。しかし、記紀神話に登場するスサノヲ命は巨魔的な巨大な神として登場する。この落差は一体何を意味するのであろうか? しかも、記紀神話のスサノヲの命は、高天原、葦原中国(出雲)、根の国(根之堅州国)と三界に登場する特殊な神として登場する。スサノヲの命は、記紀神話の中で、この三界を繋ぎ、その中でも、出雲の神々を高天原の神々の下に位置づける(天津神と国津神を分け、日本を天津神の支配とする)という大きな役割が科せられているようにも思える。それは、記紀神話の中の出雲系神話と出雲国風土記や出雲国造神賀詞の出雲神話の説話の内容の違いからも窺うことができる。

【船通山譚】
 「‎江角 修一‎ ― 神社と歴史の広場」参照。
 鬼神神社
 https://goo.gl/maps/6PgK3ZqTme6oPGR18

 鬼神神社(おにがみじんじゃ)の近くにスサノオが降臨されたとする船通山があり、この神社にもスサノオ降臨に関わる伝承が残されている。記紀神話に、あまりな横暴な行動により姉と気まずくなり、高天原と呼ばれる天上界から追放されたとある。そのスサノオが岩船に乗って斐伊川上流の鳥髪に降りてこられた。この鳥髪は船通山という山に比定されている。

 但し、日本書紀にはいくつもの異伝が存在する。ある異伝ではスサノオは安芸の国(広島県)に降臨し、ある異伝ではヤマタノオロチが登場すらしない。出雲地方に色濃く残る神話は第四異伝で、高天原を追放されたスサノオは新羅に降り立ったとしている。しかし「ここは私のいる場所にはふさわしくない」といって赤土で船を作り、出雲の国を目指して航海をした。その船には息子である五十猛命(イソタケル)、娘である大屋津姫命(オオヤツヒメ)、抓津姫命(ツマツヒメ)が乗っていた。五十猛命の名前が残る海岸がある。出雲から西の大田市に五十猛(いそたけ)という地名がある。この地には五十猛神話というものがあり、スサノオが新羅から上陸してきた歴史を伝えている。五十猛命(イソタケル)が土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として拝まれ、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳があるとして信仰されている。

 五十猛神話は次の通り。「昔々、スサノオという神様が息子である五十猛命(イソタケル)、娘である大屋津姫命(オオヤツヒメ)、抓津姫命(ツマツヒメ)と一緒に船でやってきた。スサノオは東の国で成すべきことがあると言って、息子・娘を残し旅立った。しばらくするとイソタケルのもとに『父がヤマタノオロチを退治した』という情報が届いた。イソタケルは姉妹を残し父を追った。そこにはオロチとの死闘を繰り広げた後、草木が倒され荒れ果てた姿になった景色が広がっていた。イソタケルはその焼け野原に木を植えて周った。父の活躍を見てきたイソタケルはある志を胸に、妹たちが待つ町に帰ってきた。その志とは、植林によって人々の生活を豊かにすること。妹たちも兄の意思に従い新たな旅に出た。その活躍によって国々は緑で満たされ、雨水は綺麗な川となり、村では米や麦が実り、人々の生活は豊かになった。この功によりイソタケルは植林の神として敬われる。村人たちは神社を造ってイソタケルを祀り、村の名前を五十猛とした」。  

 船通山の近くに鬼神(おにがみ)神社がある。鎮座地は仁多郡奥出雲町大呂2058-2。 本殿は大社造り、男千木、御神紋は二重亀甲に剣花菱。社殿は南を向いている。鬼神神社の入口脇に鎮座する巨石(通称、岩船大明神)は、スサノオと息子である五十猛命(イソタケル)が乗ってきた船が岩化したものであると云われ岩船大明神として拝されている。岩船大明神は地上に出ているのは2メートル程であるが地下は数メートルに及び動カスことができないと言われている。

 古事記によるとイソタケルは大屋毘古神(オオヤビコノカミ)という名前で登場し、木の国(和歌山県)に鎮座している。因幡の白兎神話において、大国主命が命を狙われていた時、木の国で脱出を助けたのがイソタケルとされている。逃がした先はスサノオがいる根の国(場所は不明)となっている。つまり、イソタケルはスサノオの6代孫であるオオクニヌシの時代までは生きていて、木の国にいたことになる。


【ヤマタノオロチ譚】
 スサノウは、出雲の国の肥の川(現在の斐伊川)上流の鳥髪の船通山(1143m)にやってきた。古事記は「故、避追はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき」と記す。この地は、大砂鉄地帯で且つ原出雲の西域に位置する。つまり、東部の原出雲ではなく、西部に降り立ったことになる。

 古事記が次のように記述している。
 概要「この時、川上より箸が流れてきた。スサノオは、誰か住んでいることを知り訪ねると、オオヤマツミの神の子のアシナヅチ、その妻テナヅチの神が娘のクシナダ姫を抱いて泣いていた。スサノオが訳を尋ねると、老夫婦には元々8人の娘が居たが、山奥にいるヤマタノオロチ(八俣大蛇、岐大蛇、八俣遠呂智)という大蛇が一年に一度出てきて娘を食べ、今ではクシナダ姫一人になっており、この娘もまもなく食べられてしまう(『是の高志の八俣のをろち年毎に来て喫へり。今、其の来べき時なるが故泣く』)との話を聞かされた。

 オロチの姿形は、体が八つの谷、八つの丘にまたがっており、頭がハつ尻尾が八本あって体には苔(こけ)が一杯で、その上に桧や杉が生い茂っており、目はほうずきの実のように赤く恐ろしい姿をしているということであった。(『彼の目は赤かがちの如くして、身一つに八頭、八尾あり。亦その身に蘿及檜・椙生ひ、その長谿八谷・峡八尾に度りて、その腹を見れば悉に常に血爛れたり』)。スサノオは、自分がアマテラスの弟で高天原から降りて来たばかりであることを告げ、退治することを約束した。見事にオロチを退治した暁には、この娘を妻にくれないかと願うと、そういう立派な方ならよろこんで差し上げませうと頷いた。

 スサノオは一計を案じ、クシナダ姫を櫛に変え髪に刺し、家の周りに垣根をつくり、その入り口を八箇所とし、強い酒桶を置くことにした。アシナヅチとテナヅチは指示された通りにして待ち受けた。いよいよオロチがやってきた。八つの頭の目は真っ赤でギラギラしていた。オロチは酒桶を見るや勢いよく飲みだした。酒をすっかり飲みほしたオロチは酔ってしまい眠り込んだ。

 スサノオは、ここぞとばかり十拳剣(とつかのつるぎ)を振り下ろし襲い掛かった。オロチは酔いながら反撃したが、スサノオは次々と首を刎ねていった。肥の川はオロチの血で紅く染まった。尻尾を切った時、硬いものに当り刃こぼれした。見ると立派な剣が出てきた。これを天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と云う。この剣はその後アマテラスに献上され、後にヤマトタケルが使うことになり、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と云われ、三種の神器の一つとなる。

 出雲の肥の河上の鳥髪に降ったスサノヲの命は、斐伊川を流れる箸をみて、上流に人がいると知り尋ねてみると、そこには国つ神/オオヤマツミの神の子でアシナズチ、テナズチの老いた夫婦とその娘のクシナダヒメ命が嘆き悲しんでいた。そこで、スサノヲの命はヤマタノオロチの生贄にされようとしていたクシナダヒメ命を助けようとする。スサノヲの命はヤマタノオロチを酒に酔わせ、眠らせておいて十拳剣で斬り殺し、肥の川は血に変わったという。大蛇の尾を切り裂いたところ、霊剣/草薙剣が出てきたので、姉神であるアマテラス(天照大御神)に献上し、これが後の三種の神器の一つになったという。 

 記紀神話のなかで、これほど大きく取り上げているヤマタノオロチ(八俣大蛇)退治の説話であるが、出雲国風土記には一行も記されていない。記紀神話に記載されているのに出雲国風土記にないという説話は、他にもオホナムヂ命の根の国訪問など結構たくさんある。これをどう理解するのか興味深い。

 ヤマタノオロチの異様な形容記述の解釈につき諸説ある。斐伊川が鉄穴(かんな)流しによって水が赤く濁ったとする説、斐伊川の姿(蛇体の水の精霊)を表しているとする説(竜神に人柱として生贄を捧げていたが、治水開拓にすぐれた英雄神が河川を治めた)、出雲での蛇祭を表しているとする説、大和政権からみた出雲のイメージとする説、高志(北陸地方)人の首長であるとする説、中国山脈の鉄山と鍛冶部(かぬちべ=タタラと呼ばれる漂泊的採鉱冶金鍛冶集団)であるとする説、あるいは、シベリアのオロチ族であるとする説等々。他にも、もともとは「怪物と人身御供」の説話ではなく、蛇体の水神と稲田の女神との神婚説話に、新たに人間的英雄神説話「ペルセウス・アンドロメダ型説話」が包摂したとする説もある。
 オオヤマツミの神(大山津見神)。アシナヅチ(足名椎、脚摩乳)。テナヅチ(手名椎、手摩乳)。クシナダ姫(櫛名田比売、櫛稲田姫、奇稲田姫命)。ヤマタノオロチ(八俣の大蛇、八岐大蛇、八俣遠呂智)。クサナギの剣(草薙剣、草那芸の大刀、都牟刈の大刀)。
(私論.私見)
 「ヤマタノオロチ譚」は、スサノウが渡来してきたこと、手始めにヤマタノオロチを退治し、出雲西域の斐伊川一帯を支配したことを明らかにしている。且つ、奇しくもクサナギの剣の由来を伝えている。出雲の国の肥の川上流の鳥髪の船通山とは、いわゆる奥出雲のことであり砂鉄の産地であった。恐らく、オロチ退治は、スサノオが同所の製鉄技能を掌握したことを暗喩している。このことは、スサノウが鉄剣その他鉄器の産地を手に入れた事を意味する。ヤマタとは、八に象徴されるたくさんのという意味であり、オロチとは先住民豪族のことを指しているように思われる。ヤマタノオロチを退治したスサノウは、先に大ゲツ姫神から生まれた蚕(かいこ)と稲、粟、小豆、麦、大豆の五穀に加えて新たに鉄を手に入れたことになる。あるいは又、それまでの支配者である原出雲、元出雲の支配を形容しているとも考えられる。れんだいこは、この説を支持する。原出雲、元出雲系の猿田彦も同様に記述されており、これが記紀神話の筆法だったと窺いたい。
 ヤマタノオロチが酒に酔わせられ斬殺されたとの記述も興味深い。これによると、先住民豪族のオロチが滅法酒好きだったことになる。ヤマタノオロチを元出雲派と考えると、元出雲と酒との深い関係が浮かび上がってくる。

【天叢雲剣/考】
 天叢雲剣/八俣遠呂智由来説

 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ、あめのむらぐものつるぎ、あまのむらぐものつるぎ)は三種(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)の神器の一つの神剣または宝剣である。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。日本神話において、スサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、大蛇の体内(尾)から見つかった神剣である。草薙剣(くさなぎのつるぎ)、草那藝之大刀(くさなぎのたち)とも言われる。熱田神宮にある本体と、皇居にある形代の二つがある。日本書紀の注記より。ヤマタノオロチの頭上にはいつも雲がかかっていたので「天叢雲剣」と名付けられた。 実際、出雲など山陰地方は曇り日が多く、安来地方の山奥、島根県奥出雲町にある船通山(鳥髪峯)山頂には天叢雲剣出顕之地の碑があり、毎年7月28日に船通山記念碑祭・宣揚祭が開催される。また、「天叢雲剣」の名の由来である、「大蛇の上に雲気有り」という表現や「生贄の乙女を救い、龍を退治する」という物語展開に関して中国大陸(中国文化圏)の影響を指摘し、史記や漢書からの引用だと説かれることもある。
 八岐大蛇退治に至る経緯と、神剣の名称については古事記、日本書紀で複数の異伝がある。 スサノオは、八岐大蛇由来の神剣を高天原のアマテラスに献上した。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共にニニギノミコトに託され、地上に降りた。崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたという。 景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かうヤマトタケルに神剣(天叢雲剣/草薙剣)を託す。ヤマトタケルの死後、草薙剣は神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けた。これが名古屋・熱田神宮の起源である。熱田の御神体として本体の草薙剣が祀られている。
 一方、形代の草薙剣は、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中、安徳天皇(第81代天皇)を奉じた平家により、他の神器とともに西国へ落ち、源氏方に擁立された後鳥羽天皇(第82代天皇)は三種の神器がないまま即位する。平氏滅亡後、神璽と神鏡は確保できたが、神剣は壇ノ浦の戦いにより関門海峡に沈み、失われた。その後、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とした。神剣の喪失により、様々な伝説・神話が生まれることとなった(中世神話)。南北朝時代、北朝陣営・南朝陣営とも三種の神器(神剣を含む)の所持を主張して正統性を争い、この混乱は後小松天皇(第100代天皇)における南北朝合一まで続いた(明徳の和約)。現在、神剣(形代)は宮中に祭られている。
 「蛇の剣」

 クサは臭、ナギは蛇の意(ウナギ#名称などを参照)で、原義は「蛇の剣」であるという説。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。蛇の形状をした剣として蛇行剣がある。 高崎正秀は「神剣考」、「草薙剣考」において、クサ=串=奇、で霊威ある意とし、ナギ=ナダ=蛇であるとして、この剣の名義を「霊妙なる蛇の剣」と説いている。また、その名はヤマタノオロチに生贄にされかけたクシナダヒメ(奇稲田姫)に通じるものであり、本来クシナダヒメは霊蛇姫(くしなだひめ)と表記したのではと考察している。ヤマタノオロチに対する祭祀者でありながら同時に出雲を支配する女酋的存在ではなかったかとする。なお垂仁天皇の神話でも、出雲の女性が蛇神だった事例がある。葦原色許男大神(出雲大社)の祟りが解けた誉津別命(本牟智和気王)は肥長比売と結婚するが、肥長比売の正体は「光る大蛇」だったという。

【足名椎神、手名椎神】
 父/大山津見神、母/不明。子供が櫛名田比売。日本書紀名は稲田宮主簀狭(スサ)之八個耳、脚摩手摩、別名/脚摩乳、手摩乳。八俣大蛇退治を機に須佐之男と結婚した櫛名田比売の両親。八俣大蛇退治神話で、須佐之男に問われての名のり。「僕は国津神、大山津見神の子ぞ。名は、足名椎、妻の名は、手名椎、女の名は、櫛名田比売という」。大蛇を退治後、須佐之男は娘と結婚。須賀の宮に住む。足名椎を呼んで「汝我が宮の首任れ」と命じ稲田宮主須賀之八耳と名ずけた。現在の島根県簸川郡佐田町宮内「須佐神社」である。現当主須佐氏78代目。

【櫛名田比売命(日本書紀名/奇稲田姫)】
 父/足名椎神、母/手名椎神の子。八俣大蛇神話、草薙剣神話に登場する。須佐之男と結婚し、須賀に宮殿を造った。その時に謡った「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」が和歌の始祖とされる。夫/スサノオ(須佐之男命)、妻/櫛名田比売(足名椎神女)の間に八嶋士奴美神(やしまじぬみ)。日本書紀では、日本書紀では、スサノオと奇稲田姫との子「大己貴神(大国主)」が誕生したと記し、その後スサノオは、根の国へ行ったと伝える。(記紀で非常に異なる)

 島根県 須佐神社、須賀神社、八重垣神社。広島県新市町戸手のスサノオ神社。八坂神社。

【布須神社(ふすじんじゃ)譚】
 「江角 修一‎/神社と歴史の広場」参照。
 【布須(ふす)神社】。
 〒699-1321 島根県雲南市木次町宇谷367番地。

 祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナタヒメノミコト)。出雲風土記に、「スサノオノミコトが御室(みむろ)をお造りになった場所だから、この地を御室と呼ぶ」と記す。スサノオはここでオロチを退治するための八塩折りのお酒を造り、この御座所に宿り、オロチが登場するのを待ったと云う。元々は山を拝んでいたカンナビ信仰で、今でも本殿などはなく山の前に拝殿があるのみである。布須神社がある御室山を少し降りたところに釜石(かまいし)という巨石がある。この石はスサノオがお酒を醸造するのに使った釜と云う。この石の近くにお酒に使う酒米を植えた田んぼ、お酒に使う水を汲んだ池がある云々。

【別系のヤマタノオロチ譚】
 「江角 修一‎/神社と歴史の広場」参照。
 出雲神話でも最も有名なスサノオのヤマタノオロチ退治。その神話の細かい点で別の語りがあるのでそれを確認しておく。

 【八口神社】
 〒699-1121 島根県雲南市加茂町神原98。御祭神/素戔嗚命(すさのおのみこと)。

 スサノオの活躍ぶりは古事記、日本書紀では大々的に取り上げられているものの、出雲風土記ではほんの一瞬しか登場しないという謎がある。出雲風土記の数少ない記述に矢口社として登場している。その由緒によれば、スサノオがオロチを退治しようと挑んだ際、オロチが逃げ出し、命からがらこの地にとどまっている。山を枕代わりにして休んでいたところを、スサノオがその8つの頭を斬り伏せた。そしてこの地を八口(やぐち)と呼ぶようになった云々。別の逸話では、休んでいたオロチをスサノオが矢を射かけて成敗したので矢口(やぐち)と呼ぶとされている。八口神社から見える草枕山にはオロチが枕にして休んでいたという伝説が残っている。古事記に見えるヤマタノオロチ神話では、オロチを退治するために強い酒を用意しオロチを泥酔させたところで斬り伏せたとあるが、八口神社の御由緒によると、スサノオは第1戦においてオロチを撃ち損じ逃げられ、この八口の地においてトドメを刺したという。つまり八口神社がヤマタノオロチ終焉の地ということになる。こういう古事記に記載されないリアルな戦いを伝えている。御神紋は亀甲に違え鷹。千木は出雲系の男千木で、社殿は南東を向いている。江戸時代、安政年間に治水事業によってこの山を切り開き、川の流れを変えた。それまで赤川の水は八口神社の前を通り、草枕山の南側を流れていた。この八口神社の周辺にはさらに興味深い御由緒を持った神社がたくさんある。その中にもう一つの八口神社がある!近くに同じ名前を持った神社が存在している。


【血洗滝神社譚】
 スサノオノミコトが大蛇を退治した剣を洗い身を清めたという神聖な「血洗の滝」。そのほとりにある血洗滝神社。

【スサノオ王権譚】
 八岐大蛇を退治して奥出雲を支配し鉄を手に入れたスサノウは、元出雲の西部に位置する杵築(きづき)郷と斐伊川一帯にスサノウ系出雲王朝を樹立した。これを仮に「スサノウ系出雲王朝」と命名する。「スサノウ系出雲王朝」は、東部の「元出雲王朝」に対抗する勢力となり、両王朝鼎立時代を迎える。その形成史が次のように伝えている。
 スサノオは、ヤマタノオロチを退治した後クシナダ姫と結ばれ、出雲で生活することになった。新妻を迎える宮を作るべき地として須賀の地を選び、御殿を建て暮らし始めた。古事記は、その須賀の宮を造られたとき、その地から「雲立チ騰リキ」と記している。宮殿を造っているときに、雲が立ち上がったのを見て、スサノオは次のように歌を詠んだ。
 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」。

 スサノオとクシナダ姫は、古代出雲の地にスサノオ王権を確立していった。スサノオは、クシナダ姫以外にも豪族の娘との間に次々に子供を生み血縁一族を増やしていった。この政略結婚政策で王朝の礎(いしずえ)を創っていった。特に、稲作農耕と鉄器の導入と「八十木種」(やそこだね)を播いて国中に植林し、国土経略事業を押し進めた」。
(私論.私見)
 スサノウは、「蚕、五穀、鉄」の支配を活用し斐伊川出雲に影響力を広げ、スサノウ王権を創始していったことが伝えられている。当然、東域の元出雲王朝と対立することになる。

【須佐之男命と奇稲田姫命の新婚地考】
 八重垣神社

 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」は五・七・五・七・七の形式の整った和歌であり、これが和歌の初見とされている。出雲国風土記では、このスサノオの命の神詠は、出雲の国引きをしたヤツカミズオミツヌの命の詠んだとされる「出雲(いずも)と号(なず)くる所以は、ヤツカミズオミツヌの命、八雲立つと詔り給いき、故、八雲立つ出雲という」と記している。これによれば、スサノウはヤツカミズオミツヌの命が樹立した東出雲王朝の王権を意識していることになる。
 佐世神社(島根県雲南市 )

 島根県出雲地方の神社には須佐之男命を祀る神社は多いがここ佐世神社も奥さんの奇稲田姫命と共に祀られている。里山の中腹に鎮座して地元の人に大切に護られている。出雲地方のみならず島根県、鳥取県には、このような長い歴史の神社が多くある。

 河邊神社(かわべじんじゃ)
 河邊神社。〒699-1331 島根県雲南市木次町上熊谷1462−1。

 ここにはスサノオの正妻/稲田姫の伝説が残っている。スサノオの偉業については古事記、日本書紀、出雲風土記に詳しく記載されているものの、稲田姫のことについてはあまり詳しいことが分かっていない。河邊神社の主祭神は久志伊奈太美等與麻奴良比賣(くしいなだみとよまぬらひめ)の命(スサノオの妻のイナタヒメ)、清之湯山主三名狭漏彦八島篠(すがのゆやまぬしみなさるひこやしまじぬみ)の命(その御子であるヤシマジヌミ)。長い名前は、長ければ長いほど尊い神、あるいは偉業を成し遂げた神を意味している。相殿として正八幡宮(誉田別命(応神天皇)、気長足姫命(神功皇后)を祀る)、海原神社(大綿津見三神(住吉三神)を祀る)。

 河邊神社の御由緒は、スサノオの御子を懐妊したイナタヒメが出産の地を求めて旅をし、産湯に使える良い水源のある熊谷(くまたに)という地にたどり着き、「ここは久麻久麻しき谷である」と仰った。出雲風土記には姫が仰った言葉が地名の由来になったとしている。これによりこの地を熊谷(くまたに)という。「くまくましい」というのは現代語では「奥深い」という意味。河邊神社の本殿 社殿は大社造で南を向いている。御神紋はなく千木は大和系の女千木。

 河邊神社はもともとこの場所にあったのではなく、ここから斐伊川を下ったところにある下熊谷という地にあった。下熊谷との境には烏帽子山という山があり、その麓に鎮座していた。現在の河邊神社の位置には元々海原神社と八幡宮があり、明治時代に合祀した。この地は斐伊川が大きく蛇行する不思議な場所。まるで神様の力で人の住む場所を確保したかのように川が迂回している。(「江角 修一神社と歴史の広場」参照)

【安来の由来考】
 安来市の名前の由来につき、須佐之男命が来られ「吾が御心は安平(やす)けくなりぬ」と言われたことから「安来(やすぎ)」の名がついたと云われる。この地域(JR荒島駅周辺)は、墳墓が集中しており「古代出雲王陵の丘」と呼ばれている。鎮座地近辺にも塩津山墳墓群があり、境内地にも「塩津神社古墳」がある。これは県内最大級の古墳で出雲市の西谷墳墓群にも大型のものがあり、出雲地方の東西に二大勢力があったと考えられている。出雲国造の生誕地説もあり、ここが古代出雲発祥地だったのかも知れない。

 この地に塩津(しおつ)神社がある。島根県安来市久白(くじら)町。主祭神/塩土翁(しおつちのおじ)。配祀神/太田命、金山彦命、須佐之雄命、真富津命。1700年代建立。お参りしての第一印象「賽銭箱がない!」。

 須佐之男命が新羅から辿り着いたのが出雲市塩津浦。その関係はわからない。主祭神は「塩土翁」。塩椎(しおつち)神ともよばれ、潮流を司どる神、航海の神で、漁業や製塩法を教えたとの話がある。配祀神に金山彦命が祀られており、位置的に奥出雲地方から鉄、鋳物などの運搬も行われていたと思われる。荒島地区始め安来市は金山姓が多いのもそのため?。塩津とは「塩のない近江に塩が入って来る所(港)」。地名の「久白(くじら)」は、江戸時代の文献に「鯨」と表記されていた云々。直線で1km足らずの日本海と繋がる中海で、漁業や製塩なども盛んな地域だったかなと推定される。

 大屋毘古命
①父;スサノオ 母;不明
②子供;不明  (豊都彦)
 妃;不明
③日本書紀名;五十猛命
④国中に植林し日本列島を青山となした樹木の神
⑤新羅国に降臨したが日本に渡り植林をし国中を青山となした。
⑥紀伊国の大神、妹神「大屋津媛」「柧津媛 」との共同行動。
 「伊太祁曽神社」3兄弟を祀る。
⑦紀伊海人が、韓土にも行っておりこの神の往来神話となった。
⑧大国主命を助けている。八十神と大国主の争いで大国主の窮地を救った話し。
⑨この流から宇佐神宮「辛島氏」が出たとされる。建内宿禰の母「山下影姫」も出たとの系図もある。

 大年神(おおとし)
①父;スサノオ 母;神大市比売(大山津見神女)
②子供;大山咋神、羽山戸神、大土神など
 妃;天知迦流美豆比売(天上の水の神)
③日本書紀名;不明
④穀物をつかさどり大国主神の国土経営を助けた神。
⑤大国主神は、はじめ「少名毘古那」の助けを得て国内を治めていたが、少名毘古那が、常世国に渡ってしまったため、「私一人でこの国を治めることは、大変なので誰か私と共にこの国を治めてくれる神はいないだろうか」と提案。大年神が「私は御諸山(三輪山)に坐す大年神であるがこれからは倭の青垣、東の山上に祀るように」と応じた。間もなく大年神は神活須毘神の娘「伊怒比売神」を娶り「大国御魂神」ら5柱を生み、「香用比売」と2柱、「天知迦流美豆比売」との間に「大山咋」ら9柱を生んだ。この流れから多くの出雲神が生じた。

【三種の神器譚】
 スサノウ王朝の御代、正統王権の証として「三種の神器」が生まれたように思われる。「三種の神器」とは、天*(むら)雲の剣、八*(た)の鏡、八尺(やさか)*(に)の勾玉(まがたま)を云う。

【息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚譚】
  
 「やがて、正妻クシナダ姫との息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚することになる」。

 但し、日本書紀は、スサノウと稲田姫の間に生まれた子として八嶋手の命を記し、「この神の5世の孫は即ち大国主神なり」と記していると云う。つまり、「正妻クシナダ姫との息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚することになる」との時間差が生まれている。
(私論.私見)
 れんだいこが思うに、大国主の命となるオオナムヂがスサノウ-クシナダ姫の息女・須世理姫を娶ったのは象徴的神話であり、スサノウ王朝の後継息女を娶ったと云うのが史実なのではあるまいか。そう考えた方が良いと思われる。

【八十(やそ)木種譚】
 日本書紀の第五の一書が次のように記している。
 一書に曰く、スサノウ尊曰く、『韓郷(からくに)の嶋には、これ金(こがね)銀(しろがね)有り。若使(たとい)吾が児の所御(しら)す国に、浮く宝有らずは、未だ佳(よ)からじ』とのたまいて、すなわと髭髯(ひげ)を抜きて散(あか)つ。即ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。これ檜に成る。尻の毛は、これマキに成る。眉の毛はこり樟(くす)に成る。すでにしてその用いるべきものを定む。すなわち称(ことあげ)して曰く、『杉及び樟、この両(ふたつ)の樹は、以て浮く宝とすべし。檜は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材にすべし。マキは以て顕見(うつしき)蒼(あお)生(くさ)の奥津(おきつ)棄戸(すたへ)に将(も)ち臥さむ具(そなえ)にすべし。その比ぶべき八十(やそ)木種、皆能(よ)くほどこし生(う)』とのたまう」。

【全国に分布するスサノオ神社考】

 スサノオを祀る神社は全国各地にある。その中でも組織だった神社として氷川神社(ひかわじんじゃ)がある。旧武蔵国(埼玉県、東京都)を中心として神奈川県下に及びその数は280社を数える。簸川神社と書く神社もあり、これは出雲の「簸川」(ひいかわ、現在は斐伊川)に由来するものと思われる。埼玉県埼玉市大宮区にある氷川神社を総本社とする。夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)に任じられた出雲系の豪族が各地に勧請されて広大な祭祀(さいし)圏を形成して来たものと推定できる。国造本紀の中に、志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に、出雲臣の祖、名は二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫、兄多毛比命を以って、无邪志国造に定め賜うとある。これによれば、出雲族のエタモヒが第13代成務天皇の時代に、无邪志国造として赴任してきたことになる。高橋氏文では、第12代景行天皇が安房の浮島にあった行宮に行幸した際、武蔵国造の上祖・大多毛比と知々夫国造の上祖が、共にその地に参り奉仕したと記されている。武蔵の国は広大だったため、大化の改新以前は、无邪志(むさし)、胸刺(む(な)さし)、知々夫(ちちぶ)の3つの地域に分けて、それぞれに国造が置かれた。无邪志の国は、北部の荒川流域を支配する国であり、その中心は、埼玉県の行田周辺の古代埼玉(さきたま)地方や、東松山市周辺の古代比企(ひき)地方だった。この地域には、6世紀になると埼玉古墳群の巨大古墳を築造されていて、有力豪族がいたことを証明している。 氷川信仰は、同じスサノオ信仰でも祇園信仰とは異なり、自然神である氷川神(ひかわのかみ)とスサノオが習合したものと思われる。氾濫を起こす暴れ荒川の本支流域に多く分布する。 ヤマトタケルの東征経路や、8世紀に出雲族出身の无邪志国造が開拓したと伝えられる地域と一致している。






(私論.私見)