阿波の翡翠(ひすい)勾玉(まがたま)考 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.25日(目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「阿波の翡翠(ひすい)勾玉(まがたま)考」をものしておく。 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝 |
【「あわひすい祭り」】 |
■四国・徳島邪馬台国研究学会
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「あわひすいの見分け方」! 美しい光沢を持つ翡翠には緑、ラベンダー、オレンジ、赤、黄などの豊富なバリエーションがある。石の色や質感を観察し、なめらかで光沢があり、模様に一貫性があるかを調べる。大抵の翡翠は不透明な部分と透明な部分が混在しているため、完全に不透明または透明ではない。水が光を反射するような輝きに注目する。石の色が鈍く均一であれば、それは偽物と言える。 「月読が主神だった国=倭」が「天照が主神だった国=阿波」を征服!
この物語は、縄文時代に残された「古代阿波國」の神話である。海の民族で、月読を主神とした倭國が、阿波國に侵略して天照王国は、戦いで、段々と勢力を失って行く。阿波國の多くを月読を主神とした倭國が支配して行くことなり、天照が主神だった國の阿波國が徐々に征服されて行く。そして、阿波國の祭り事を月読を主神とした倭國が抑える事で天皇を起源とする天照王国と倭王国は一つになる運命を辿って行く。ここに祭り事(政治)の力が加わり、天の神を中心とした主神「天照大御神」が誕生する。要するに月読みを主神とした倭國が、天照を主神とした阿波國に変貌して行く。ここに邪馬壱国が、誕生して日本となって行くのである。その後も天照の「翡翠文化」や「イザナミ」を起源とした「あわのうた」が受けつがれ天皇國として、日本全国に阿波の文化と國作りが展開されて行くことになる。 |
日本の起源は、古代阿波國から始まった。日本の國作りや文化は、阿波國から始まり、その後、全土に広まり古代阿波國から継承され日本國の礎が作られていく。 日本の国は、古代阿波國がモデルとなり天皇の起源と繋がって行く。 天照大御神の起源は、「阿波國」から始まり初代、二代、三代と続く。その文化は、翡翠文化から始まり日本の起源となる。「あわのうた」の「あ」は、日の丸の文字であり、「わ」は国旗現す文字である。 |
空海も認めた古代阿波國はホズマ國! その確証物は、県南の地大國主の支配地出雲國の太龍寺のあたりである。 空海は、ホズマの國ここにありと太龍寺に残しいる。 空海は、四国88ヶ所の寺を残した偉大な人物である。 四国の民にお遍路のおもてなしの心を与えた立役者でもある。 空海は、平安時代初期の僧。諡号は弘法大師。真言宗の開祖でもある。 その偉大な空海が、太龍寺にホズマの國ここにありと書き残してある。 要するに古代阿波國が、ホズマ國と伝えているのである。 縄文時代の阿波國は、鮎喰川から西、東南に分かれていた。元々は、阿波國は「天照大御神」が全地を支配していた。そのようすが、「ホズマツタゑ」や「古事記」や「日本記紀」に残されている。どちらにしてもの日本最古の歴史書と言われる「ホズマツタゑ」の発祥の地でもある。 |
「あわのうた」から始まる阿波国! 「あわのうた」神話は、縄文時代に作られた「古代阿波」の國の物語である。 その信憑性は非常に高い。 「ホズマツタゑ」の発祥の地と伝わる「ホズマの國」ここにありと記された空海の記が県南の「太龍寺」にも残されている。 この地域は、大國主が支配していた出雲と関係がある。要するに「縄文時代」には「ホズマの國」と呼ばれいた「ホズマツタゑ」が生まれた発祥の地でもある。このように「古代阿波國」には日本の始まりと言われる「翡翠文化」や天皇の起源と伝わる「天照大御神」の文化が見てとれる。古い年代の縄文時代の事なので、確証する事は難しいが、それでも多くの確証物が、残されいる「古代阿波國」でもある。 |
卑弥呼の國「耶馬台国」の「古代歴史書」! この物語は、縄文時代の始めの阿波の國の物語である。 日本最古の歴史書と言われる「ホズマツタゑ」は、空海が、「ホツマの國は此処にあり」と「太龍寺」に書き残している事で、古代阿波の國はホズマの國であった事は間違いないだろう。「太龍寺」は、阿波國の南に位置し、出雲(いつも)の國と呼ばれている地域に現在も残る。その山には、「魏志倭人伝」に残された「朱(水銀)」ありと伝わる若杉山があり大規模な採掘跡が残る。まさしく「魏志倭人伝」に残る「耶馬台国説」の説が裏付けられる。神話では、イザナミが「天照大御神」を誕生させた地域でもある。イザナミは、のちに「御蔵棚の神(翡翠の勾玉)」を「天照大御神」に与え高天原(剣山)の神山に國を与え天皇の起源となる「阿波國」の國作りが始まる。要するに「天照王国」の始まりとなり阿波國の全土が誕生するのである。この事が、「ホズマツタゑ」が、伝えたい歴史書でもある。要するに「ホズマの國」は、阿波國であったと伝える歴史書でもある。 |
阿波國国取り物語! この物語は、縄文時代の始めの阿波の國の物語である。空海が、「ホツマの國は此処にあり」と「太龍寺」に書き残している。 まさしく、阿波國の南側に当たる地域を指し、出雲(いつも)の國と呼ばれた地域だ。要するに出雲属の大國主が支配した地域でもある。この地域は、天照大御神が支配する空と呼ばれ高天原(剣山)の神山から下流の鮎喰川を境に西は天照大御神が治め南東の出雲が、大國主が支配する勢力地域であった。元々阿波國は、全てを天照大御神が、治めていたが、大國主の出雲族勢力が強くなり国取り物語で阿波の國は二分する事になる。鮎喰川を隔て、最初に国取りを仕掛けたのは大國主であった。その地域は、鮎喰川から西にあった翡翠の女王ぬなかわ姫が支配する地区であった。大國主は、強引にぬなかわ姫を奪い第二の妻とする。この目的は、天照大御神が持つ翡翠勾玉権益であった。その時代の國作りは、力をつけた大國主が行う時代へと向かっていた。その記実の一部は、ホズマツタゑに翻訳されている。このように日本最古の歴史書は阿波國の歴史書でもある。その原本は、見つかっていないが、贋作として封印された「ホズマツタゑ」の原本は「古代阿波國」に眠るのではないかと思われる。
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悲しい翡翠の女王「ぬのかわ姫」と「天照大御神」の國作り! 淡路島「天照大御神」の誕生の場面の要約だ。 おのころの朝日の霊気を受けたことで母神イザナミがみごもり、そしてめでたく生まれたのが、天照大神だったと言う。 その経過は、高天原(剣山)の神々から命を受け淡路島に降りたったイザナミが、國作りを始める。 次に阿波國が誕生して四国が生まれるのだが、イザナミは阿波國に移り本格的に國作りを始める。高天原(剣山)の神山(神領)を天照大御神に与え時代は、天照王国として阿波國の國作りが始まる訳だが、それが天皇の起源だと伝わる。 天照大御神の国作りはイザナミから与えられた勾玉を秘宝として呪術を持って國を拡大して行くのであった。 傘下の豪族ぬのかわ姫とうけい(契約)を交わし勾玉を作らす事になる。 その後、美しい翡翠の女王として、ぬなかわ姫の名は有名になる。 天照大御神から唯一翡翠の勾玉で、身を飾る事が許された豪族であった。その後、多くの豪族が、勾玉で身を飾る勾玉文化が到来して繁栄して行く事になる。 ここで、美しかったぬのかわ姫は、翡翠勾玉で身を飾るモデルであったと憶測される。 と言う事で、ぬのかわ姫の祠は阿波國に残り現在では移転されている。これが阿波國最大の翡翠勾玉女王の物語であるが、大国主の2番目の妻となり悲劇で最期を迎える。 このように天照大御神の國作りも困難を極め天皇の始まりの國として伝わる。 |
「ホズマツタゑ」の発祥の地「古代阿波國」の文化を学ぶ! 古事記や日本記紀の基書となったと伝わる「ホズマツタゑ」の地を空海は「ホツマの国は此処にあり」と「太龍寺」に書き残している。 その「太龍寺」は、徳島県阿南市加茂町にある。この地域が、「ホズマツタゑ」発祥の地でもあると考えられる。 要するに日本最古の歴史書「ホズマツタゑ」の誕生の地であると言うことである。 それは、多くの謎に包まれた「古代史」の世界で、60年近く前に国内で発見された「ホツマツタゑ」という「日本最古の歴史書」である。 漢字が伝わる以前の日本にあった「ホツマ文字」という「神代文字」でつづられている。 「天照大御神」とその親であった「イザナミ」が、国作りに求めた「日本最古の翡翠文化」であった事も分かる。 「イザナミ」と「イザナギ」が作り広めた「あわのうた」なども残る。 天皇の起源、始まりの國「古代阿波國」には、何処の地域にはない伝授が残る不思議な國でもある。 その真髄は、「ホズマツタゑ」に隠されていると言っても間違いない。 |
翡翠の権益を独占した「大国主」が、行った縄文製鉄!
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「ホズマツタゑ」の発祥の地は「古代阿波國」であった! 贋作と歪曲された「ホズマツタゑ」ですが、かの有名な弘法大師(空海)が、「ホツマの国は此処にあり」と「太龍寺」に書き残している事実。 この地から「ホズマツタゑ」の口伝が始まり全国に広がり「日本最古の歴史書」として伝わっているものと思われる。 要するに「古事記」や「日本記紀」より遥かに古い「歴史書」であり「封印」されていた「歴史書」でもあります。 贋作と歪曲されたのは、時の政権の意向がそうさせたものと思われます。 この「ホズマツタゑ」から「あわのうた」や「イザナミ」からの「翡翠文化」を見い出す事が出来ました。 弘法大師(空海)が、「ホツマの国は此処にあり」と書かれた「太龍寺」の近くには、中国の歴史書「三国志」の「魏志倭人伝」には、「耶馬台国」その山には丹ありとも書かれている。まさしく「ホズマツタゑ」発祥の地付近の「若杉山」の事でもある。 このように「古事記」や「日本記紀」では、学べない「古代阿波國」の歴史が多く学べた「ホズマツタゑ」の「歴史書」でもあった。 |
「卑弥呼」を辿ると「天照大御神」が見え隠れする! 「古代阿波國」は「天皇家」の始まりの國である。 その國には、「翡翠」を身で飾り「呪術」で、國を治めた「イザナミ」と「イザナギ」の娘「天照大御神」の生誕の地でもある。高天原の神山の神領と言う地域で「イザナギ」から与えられた「御倉板挙之神(翡翠勾玉)を持って國作りが始まり「天皇家の起源」となって行くのであるが、その過程の国作りは、苦難の道ではあったが、國は栄え天皇家の基礎となり繁盛して行く事になる。 「天照大御神」は、「高天原」で一生を終える事になるが、その子孫が、鮎喰川下流の地(国府)に降臨して國を治める事になる。その地(気延山)にある地元では、「卑弥呼」の墓と言われいるが、恐らく「卑弥呼」と言われる「天照大御神」墓ではないだろう。 何故ならその墓は、「阿波青石」で積まれておりひすいの原石は一個たりとも見渡らないのである。「翡翠文化」で、繁栄した「天照王国」ならば墓には翡翠が使われるのが当然と考えられる。 従って、「卑弥呼」と伝わる「天照大御神」の墓は、一生を終えた「神山神領」にあると言うのが正直なところだ。
このように「あわのうた」や「翡翠文化」の口伝が伝わる不思議な卑弥呼の國阿波でもある。
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「阿波弁」を知れば、「あわのうた」につながる! 阿波弁(あわべん)は、徳島県(旧阿波国)で話されている日本語の方言で、県名から、徳島弁(とくしまべん)と呼ばれることもある。 例えば、「あずる」は標準語で言うと「てこづる」という意味です。てこづったときに「あずる」と言います。また、そうでを「ほうで」と呼ぶ謎を秘めた方言である。いろいろな阿波の方言を数えあげるときりがないが、この方言が「古代阿波国」の方言であったと研究の結果判明されて来たのである。「あわうた」は、「イザナギ」と「イザナミ」の国造りも支えた聖なる歌であり、カダガキ(楽器)をかき鳴らしながら、上 二十四音をイサナギが歌い、下 二十四音をイサナミが歌って言葉の標準化を図り、農業普及と共に国作りをしていきました。同時に、民の言葉が大層なまってお互い通じなくなったのを心配し正そうとされます。これが「あわのうた」の原点で「阿波弁」として、「標準化」され後生に伝えられて行きます。要するに「阿波弁」は、日本言葉の原点と言っても間違いないのです。「あわうた」は、天皇の起源「天照大御神」へと受け継がれ「阿波言葉」として普及して行きます。「ほなけんどな」とか、「そうなんじょ」と言う「阿波弁」の可愛さは、「イザナギ」と「イザナミ」が民の行く末を祈り出来上がったものでもある。要するに「あわのうた」を知ることで、「阿波弁」の原点が見えてくるのである。意外と知られていない「古代阿波国」に伝わる話でもある。 |
国歌「君が代」の発祥の歌は「あわうた文字」で作られていた真実! 日本の国歌「君が代」は、世界でも類を見ないほど短い国歌です。また、世界中で最も古い国家の歌詞とも言われています。「わが君は千代にやちよにさざれ石の巌となりて苔のむすまで」。この国歌の文字が、「あわうた文字」作られていたと言うことは余り知られいない。そこに「あわうた文字」の秘密と日本国家の「君が代」は謎を秘めている。「あ」から始まり「わ」で終わる「あわうた文字」は「日本最古」の文字であり「天皇家」の文字でもある。その「あわうた文字」は、「天照大御神」に後続され現在に至っている。したがって、君が代は、天皇の起源「古代阿波國」に残る国歌でもあり、あわうたは「耶馬台国阿波説」につながる重要な「確証物」でもある。このように我が「古代阿波國」には秘められた多くの伝授が残る不思議なところでもある。
参考文献「ホツマツタヱ」という「古文書」は、景行56年(第12代天皇『景行天皇』の在位中)に三輪臣大直根子命(みわのとみおおたたねこのみこと)によって編纂、献上されたものとされています。「ホツマツタヱ」の舞台とされる時代は、縄文後期中葉から弥生、古墳前期くらいで、古事記や日本書紀には記載されていない神様達の文化や歴史、エピソードが多く記述されている。
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「大国主」の第二の妻の「ぬのかわ姫」は、「阿波杉尾神社」に祭られている真実! 阿波の伝授では、「阿波ぬのかわ姫」は、阿波の生まれで現在の「石井町」から北部の「上板町」を支配とする豪族であった。 その傘下には、翡翠勾玉作りの技術集団「ぬのかわ族」が、控えこの長が、「イザナミ」に勾玉を献上することから「阿波の翡翠文化」は始まるのである。 「イザナミ」は、「天照大御神」に「御倉玉の神(勾玉)」を与え国作りを命じたのである。 「ぬのかわ姫」は、「天照大御神」と同じく「翡翠装飾(勾玉)」で、身を飾り「翡翠の女王」と呼ばれていた。 美人で聡明で美しかった「ぬのかわ姫」は、「大国主」に目をつけられ夜這いされたと伝わっているが、「万葉集」には、美しい二人の掛け合いが残されている。 だが、現実はそうではないらしく「大国主」は、「ぬのかわ族」が持つ「勾玉利権」得るために「ぬのかわ姫」の「支配地」に戦いを挑み分捕たのである。 要するに「大国主」は、「天照大御神」の「翡翠文化」を分捕って戦いを挑んだことになり「阿波の国盗り物語」として伝えられている。 大国主は、それを期に「翡翠勾玉」で「交易」を行ない「天照大御神」に匹敵する力を付けて行く事になる。 これが、「阿波出雲」と言われる「大国主」の国作りとなり、「友好関係」にあった「ぬのかわ姫」と「勾玉利権」を奪われた「天照大御神」の力は衰退して行く事になる。 そして、「大国主」の繁栄の時代は続いて行く事になるが、時代は変わり「天照大御神」の孫「瓊瓊杵尊(ニニギの尊)」が、「大国主」に国譲りを迫る展開になる。そして、「大国主」の第二の妻の「ぬのかわ姫」の祠は、現在、「阿波杉尾神社」に移動して祭られている。 |
「あわのうた」と「阿波邪馬台国説」! 「あわのうた」を紐解けば最初の「あ」の文字は、「日の丸」を現わし最後の文字「わ」は「国旗」を現わし、現在でも日本国おける重要な要素を秘めているのである。 「あわのうた」には、多くの謎が残されているが、古来から「天皇の誕生日」には国旗をささげる風習が続いている。 これぞ「古代阿波国」が、天皇の起源と呼ばれる確証でもあるが、「あわのうた」には、多くの日本国の未来が託されていたのである。 「あわのうた」は、德島の「歴史研究家達」が見落とした「唯一の確証物」でもある。 最近の德島では、邪馬台国は阿波だったと言う催事が行なわれているが、一つも的を得ていないのである。「イザナミ」と「天照大御神」の「翡翠文化」にも目を向けず何を「確証」として、「邪馬台国九州説」や「邪馬台国近畿説」論争に戦いを挑むのかまさしく空ごとである。このように「古代阿波国」には、歴史的に残された「あわのうた文化」が根付いていることも「邪馬台国阿波説」として論争には強力な武器でもある。 空ごとばかりを積み上げても何ら「邪馬台国九州説」や「邪馬台国近畿説」に論争を挑めないと知ることである。「あわのうた」は、唯一「邪馬台国九州説」や「邪馬台国近畿説」に論争を望める「確証物」でもある。そして、現在でも残る「あわのうた」は、癒やしの歌として、多くの人々に歌われていると言う事も真実でもある。 |
翡翠の産地「剣山」と「鮎喰川」と「大国主」と「鮎喰川」の名の由来! イザナミから「御倉玉の神(勾玉)」授り「剣山(つるぎ山)の山中の「神山・神領」の支配を任された「天照大御神」は、国作りを始める。まさしくこれが「天皇の起源」となる「古代阿波国」の歴史は、「旧石器時代後半」から「縄文時代」初期と思われる。「阿波翡翠勾玉」の原型は、「磨製石器時代」に作られたことが判明して来ており「縄文時代」の初期の頃に「イザナミ」が、「高天原(つるぎ山)」の神々から命を受け「淡路島(おのころ島」にて天皇に即位して国作りが始まり次に四国の阿波の国が誕生します。「神山・神領」にて、「翡翠や勾玉」を活用した「鬼道(呪術)」にて、「天照大御神」が、国作りの一歩を踏み出します。その頃「天照大御神」の家来であった「大国主」が、「天照大御神」に鮎を献上したので、川の名前が「鮎喰川」になったと伝わります。「魏志倭人伝」には、倭の地には、真珠・青玉を産する。山には丹が出る。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現したと記載されている。「邪馬台国」が、阿波であったと言われる由縁は、真珠は、鳴門の「内の海」で、産出され、昭和の初め頃には、「真珠業者」が多くいたとも伝わっている。青玉は、翡翠の事であり、山に丹とは、阿南市の「若杉遺跡」が、大がかりな丹の産地でもあり採掘後が残る。そして、イザナミとイザナギが、国作りのために広げていった「あわのうた」は、現在でも癒やしの歌として残されている。そして、天皇が即位する時の「あらたえ」が、「忌部系」の「三木家」から献上される訳だが、この4つの確証が「阿波邪馬台国説」を裏付けるものである。古代史の専門家達はの多くが「神社」等の研究はしているが、肝心要の最初のイザナミと天照大御神の「翡翠文化」には、研究が及んでいないことも真実でもある。
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阿波国府町の「天石門別倉比賣」は、「德島古代研究家達」の推測は間違っているかも?
德島市国府町のにある「気延山」にある「天石門別倉比賣」は、「天照大御神」の墓ではなく「豊受大御神」の墓と思われる。「気延山」は、1185年に源義経がこの山を訪れ休息したことから「気延山」と名づけら地元では有名でもある。「気延山」の麓には「内谷板碑」と呼ばれる石があり、これは義経の家来である「武蔵坊弁慶」が山頂から投げ飛ばした石と云われている。この「天石門別倉比賣(天照大御神)」の墓を地元の「古代史研究家達」は「天照大御神(卑弥呼)」と推測して発表しいる。「豊受大御神」は、伊邪那美命(いざなみ)から生まれた和久産巣日神(わくむすび)の子とされている神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を「天照大御神」に司る女神である伝えられる。何故、「德島古代研究家達」の推測は間違っているのかと言うと「天照大御神」の墓だと言われる積み上げ石にも「天照大御神」が愛した翡翠は一つも見つからないのである。又、「気延山」の一角にも翡翠の原石は見つからないのである。「天照大御神」は、「古事記」や「日本記紀」にも翡翠の装飾(勾玉)で身を飾り「鬼道」で、国の統治に使っていたとも伝わる。又、中国の歴史書「魏志倭人伝」にもそれは残されている。従って、「天照大御神」の墓ならば少なくとも翡翠の原石が奉納されていなければならないと言うのが道でもある。「天照大御神」の墓は、「神山町神領」の支配地だった「翡翠文化」の「発祥地」の何処かに質素に翡翠の原石で積まれた墓に眠っていると憶測している。なんせ古い神話の世界なので、確かな事はわからないと言うのも正直なところであるが、「德島古代研究家達」ももっと探索して確証のとれる真実を発表して欲しいと願う。 |
■四国・徳島邪馬台国研究学会
邪馬台国学術研究員:友行安夫(記)
天照大神の秘宝!https://stonesstones.thebase.in
忘れ去られた「古代阿波の国」の生い立ちと「翡翠文化」と「異人文化」の謎!
古代阿波の国の生い立ちは、縄文初期黒潮の流れに乗った異人達が阿波の国の東「淡路島」にやってきます。その異人達は、ユダヤの民と伝わっています。
その異人達の少数派が「淡路」から「阿波剣山」へと向かい「高天原」に住み着き「八百万神」が誕生します。
「淡路」に残された民の中に「イザナミ」と「イザナギ」が「八百万神」の命を受け「イザナミ王」天皇が誕生して国作りを始めます。
「イザナミ」は、その子供の「天照大御神」に「高天原」を与え神山・神領に国作りが始まります。
「天照大御神」は、国作りを「翡翠文化」を軸に進めて行きますが、弟の「スサナオ」の娘婿の「大国主」と国を二分する戦いが始まります。
阿波の国は乱れ「天照大御神」の国作りは衰退して、大国主の時代が訪れてきます。大国主はついに葦原中国を平定。
その後、「天照大御神」の孫にあたる「ニニギ」に三種の神器である「八咫の鏡」・「八坂瓊曲玉」・「草薙剣」を授け、「豊葦原水穂国」を「高天原」のようにすばらしい国にするため、天降るように命じました。
要するに「大国主」に「国譲り」を迫るために「天孫降臨」を行なったと伝えられています。
この「ニニギ」の功績により、以後、大和政権が誕生して、日本国が天皇政権により誕生して行きます。
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■四国・徳島邪馬台国研究学会
邪馬台国学術研究員:友行安夫(記)
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幻の古文書「阿波風土記」と天皇の起源「天照大御神」と「大和朝廷」の謎! 古代阿波の伝授から天皇の起源と伝えられている「天照大御神」の「阿波国」との関わりに伝わる謎は、謎を呼んでいる「阿波邪馬台国説」を紹介する。
幾つか残る「阿波風土記」の断片のうち、興味深いものを紹介しよう。その内容は、空から大きな山が阿波国に落ちてきた。その山が砕け散り大和国に落ちて、天香久山になったとされているのだ。
不気味なことはまだある。阿波出身の国学者である池辺真榛は、延喜式の研究を行い、自分の故郷である阿波国が日本のルーツだと確信した。
その後、池辺は阿波藩政を非議したという罪を被せられ、文久3年(1863)に身柄を拘束され、阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げている。
一説には毒殺されたとも言われているのだが、阿波藩は何を恐れていたのだろうか。幕末から明治初期にかけて、「邪馬台国阿波説」のメイン資料やキーマンが消されているのだ。
「阿波風土記」には幕末のある学者が関わっている。幕末から明治にかけて活躍した阿波出身の国学者・小杉榲邨(こすぎすぎむら)がその人である。
彼の代表的な著書が「阿波国徴古雑抄」である。この書物は阿波関係の古書、古文を網羅しており、阿波徳島の古文書に詳しい人物であった。
小杉は、「邪馬台国阿波説」に絡み、キーとなる出版に関する騒動を起こしている。明治5年、小杉が「阿波古風土記考証」を出版した時、何故か回収騒動に発展しているのだ。
しかも、当時蜂須賀家と徳川家にあったはずの「阿波風土記」の原本さえも、所在が不明になってしまったのだ。
四国の阿波に何か古代の秘密があるというのは、徳川光圀も気が付いていたようで、江戸に修史局を開き大日本史の編纂に乗り出した後、元禄10年(1697)、突然、徳島藩や老中土屋相模守政直を呼びつけている。
そして、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じた。つまり、水戸黄門は古代の天皇の墓は淡路と徳島にあると睨んでいたのだ。
幻の古文書「阿波風土記」、それが出てくれば天皇の起源「天照大御神」と「大和朝廷」の謎のルーツも判明するのかもしれない。
※この記事は、文献やネット上にて、収集したものを引用記載しておりますので確証が取れてない事をご理解下さい。
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■四国・徳島邪馬台国研究学会
邪馬台国学術研究員:友行安夫(記)
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日本最古の勾玉は、「古代阿波」の「磨製石器時代」に原型が作られた!「阿波翡翠」の「勾玉の歴史」を調べている内に「石器時代」の後半の「磨製石器時代」に原型が作られたことが判明して来ました。
旧石器時代は、2万2千年前時代だと伝わっておりますが、打製石器(石を打って割る)時代から磨製石器(石を磨いて削る)時代とあり、好きな形に加工出来る技術が発展して勾玉の加工が行なわれたとあります。
「イザナミ」や「天照大御神」が、愛した「阿波翡翠勾玉」は、「縄文時代」より前の「旧石器時代」の後半に原型が出来上がったものと思われます。
「磨製石器時代」から「縄文時代」へと続く勾玉の歴史は、原石を叩き割って研磨を何回もくり返す独特の技法で「阿波稲持技法」と呼ばれている。
この勾玉は、「磨製石器時代」の後半から「縄文時代」の初期に作られ「イザナミ」が天皇として即位する前に「阿波ぬのかわ族」が製作していたとある。
「イザナミ」が、天皇として即位するあたりに「阿波ぬのかわ族」の長が「イザナミ」に献上したとあります。
「イザナミ」は、たいそう喜び肌身離さなかったと伝わり、天皇として即位の儀式に使われる「勾玉文化」が広まって行くのである。
「イザナミ」は、子供の「天照大御神」に「高天原」の「神山・神領」に領土を分け与え「御倉玉の神(勾玉)」を与え即位させ、この「翡翠勾玉」を持って国を治めなさいと与えたと伝わる。
このころから「阿波の翡翠文化」は、発展して行き「天照大御神の天の岩戸」物語にも「翡翠の勾玉」が登場する。
そうして、「阿波翡翠の勾玉」は、天皇即位に必要な「三種の神器」として、今でも必要とされている。
「阿波翡翠文化」は、時をへて、「阿波ぬのかわ族」から「阿波忌部族」をへて「出雲」に伝えられ大和政権前後に「糸魚川」へと伝わって行くのである。
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邪馬台国学術研究員:友行安夫(記)
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「古代阿波の歴史」!「イザナミ」から「天照大御神」、「大国主」、「忌部族」!「イザナミ」から「忌部族」迄の「古代阿波」の歴史の成り立ちを紹介したいと思います。
高天原の神から国作りを命じられた「イザナミ」は、淡路島のおのころ島に降り立ち「イザナギ」と共に国作りを始めます。
「イザナミ」は、四国、九州、本州に国作りを広めて行きます。当時は、言葉がそれぞれ違っていたので、「あわのうた」を作り「イザナミ」と「イザナギ」が、言葉を統一するために「あわのうた」を広めて行きます。
ある程度国が出来上がった時、「イザナミ」は、子供の「天照大御神」の「高天原」を与へ「御倉玉の神(翡翠勾玉)」を与え国作りの完成を託します。
この「御倉玉の神(翡翠勾玉)」は、「ぬのかわ族」が「イザナミ」に献上したもので、「イザナミ」は、たいそう喜び国宝とします。
その国宝の「御倉玉の神(翡翠勾玉)」を「天照大御神」に与へ王になるための儀式を行ないます。(今も歴史に残る天皇の即位の時に必要な勾玉である。)
「天照大御神」は、その「御倉玉の神(翡翠勾玉)」を持って国作りを完成間近まで進めて行きます。
だが、完成前に「大国主」が、現れ「天照大御神」が権力としていた「翡翠勾玉」に目を付け国を乗っ取りにかかります。
それは、勾玉の技術集団「ぬなかわ族」を抱える「ぬなかわ姫」に矛先を向け戦争を仕掛け領地を乗っ取ります。(政略結婚)
その事で、「大国主」は「勾玉交易」で大儲けして、「古代阿波の国」を「天照大御神」と二分する力をつけ「天照大御神」の領地を乗っ取って行く事になります。
「古代阿波の国」は、乱れ「天照大御神」と「大国主」の戦いは「天照大御神」の孫の時代まで続いて行きます。
それ以後は、「大国主」の力が衰へ「国譲り」につながった行く事になり「大国主」の国は消滅して行く事になります。
その後、長い時をへて、権力は「忌部族」に受け継がれて、「大和政権誕生」のあかつきには「忌部族」が、大きな力を持ち「大和政権」を支えて行く事になります。(写真は、忌部神社)
これが、天皇の起源に繋がって行く訳ですが、「古代阿波」には、国作りの「泥苦い歴史」があります。
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■四国・徳島邪馬台国研究学会
邪馬台国学術研究員:友行安夫(記)
天照大神の秘宝!「阿波翡翠」https://stonesstones.thebase.in
天皇の起源!古代阿波国に伝わる「あわ文字」の秘密と「勾玉加工石」! 漢字より古い「あわ文字」は、德島県名東郡大宮八幡宮に伝わる文字であり神主である「藤原充長」の著書「神字書(かなふみ)」で確認することが出来る。
古代阿波には、このように「あわ文字」と「あわのうた」などが残されているが、「勾玉加工」でも必要とされる「結晶片岩」が、産出され出雲や糸魚川に送られています。
勾玉加工で一番難儀だったU型作りに必要だったのは「結晶片岩」と「石英」でした。U型加工にはなくてはならない岩石だったことは文献にも残されており、「結晶片岩」がなければ勾玉は作れなかったとのことです。
阿波忌部が出雲に伝え出雲から糸魚川に伝わり糸魚川でも「阿波結晶片岩」が使われていたと伝えられています。
天皇の起源と伝わる「古代阿波国」には、「天照大御神」が、領地としていた「神山・神領」と言う地名が今でも残されているが、残念だが、「天照大御神」の墓は見つかっていない。
「翡翠文化」を根付かせ「翡翠勾玉」を愛した「天照大御神」の墓は翡翠の原石で作られたものであったと憶測する。
イザナミとイザナミが広めた「あわのうた」を始め「あわ文字」も「天照大御神時代」に考え出されたものと考えるが、その詳細は今のところ判明していない。
ところが、「あわ文字」は、伊勢神宮に存在する「奉納文」に最も多く用いられているのである。
このように「古代阿波の国」には、多くの秘密が隠されているが、どちらにしても「天皇起源」と思われる要素は非常に高い。
今回、発見の「阿波文字」は、計り知れない「阿波邪馬台国説」の解明につながる阿波の国の財産でもある。
「阿波文字」と「あわわうた」は、阿波の古代史に大きな影響を与える事になると思われる。
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■四国・徳島邪馬台国研究学会
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邪馬台国阿波説!「イザナミ」と「イザナギ」の「あわのうた」と「翡翠文化」!
昔から空(天)と呼ばれる高天原(剣山)の神々から指示を受け淡路島に降り立った「イザナミ」と「イザナギ」は、四国、九州、本州を作り国を治めていた。
国作りに当たって、「イザナミ」と「イザナギ」は、四国、九州、本州の言葉を共通させるため「あわのうた」を作り二人で歌い国作りとして稲作を同時に広めて行った。
そこで、「イザナミ」は、「ぬのかわ族」の長から翡翠の勾玉を献上される。「イザナミ」は、その勾玉が気に入り肌身離さず魔除けのお守りとする。
それを見た傘下の長達は、欲しがり「イザナミ」は国作りの働きとして褒美として与えたのである。
要するに今の貨幣に変わるものであり、その当時は「上級階級(豪族)」の者にしか与えられなかったのである。
そして、「あわのうた」と「翡翠勾玉」により国作りは繁栄して揺るぎない「阿波台国」へと発展して行くのであった。
「イザナミ」は、首飾りの「翡翠の勾玉」をゆらゆら揺らし、「天照大御神」にそなたは、「高天の原」を治めなさいと「御倉板挙之神」の勾玉を与えています。
美しく磨かれた勾玉は、貴重なものとされ、権力の象徴になっていました。それを授けるということは権力や地位を譲るということ。
国生み・神生みの偉業を成し遂げた「イザナミ」の後継者として、「天照大御神」が選ばれたということなのです。
「天照大御神」は譲り受けた翡翠勾玉の首飾りを穀倉の棚に安置したのです。豊かに実った五穀を見守っていただくため、次の年も豊作になるよう祈るために。
このように「天照大御神」時代は、「権力の象徴」としての「翡翠勾玉の首飾」りから「祈りを込めた祭具」へと役割が変化したのである。
「棚上にご神体を祀る」という形式から、「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」は神棚の起源であるとも言われています。
そして、現在でも天皇即位の時には三種の神器として、翡翠勾玉は受け継がれているのである。
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邪馬台国阿波説「卑弥呼翡翠」の秘密を明かす!「勾玉工房」の歴史! イザナミに最初に勾玉を献上したのは、「ぬのかわ族」の長であったと言う事は知られているが、その工房が「ぬなかわ姫」が支配していた(現)石井町から上板町であったと伝えられている。
その真ん中に板野町がある「黒谷川郡頭遺跡」付近であったと伝えられその文化が後に三好郡と山川町と国府町に伝わる。
三好郡での昭和62年に行われた2年目の調査では、本遺跡の最大の特徴とされる勾玉(古事記では曲玉)製作に関わる遺構や遺物が確認されている。
現在の地表下80センチの面から竪穴住居跡7軒、溝7本、土坑(穴)29個、甕棺墓一、箱式石棺墓二など弥生時代後期後半から古墳時代初頭の遺構が出土した。
特に住居址のうちで、長円形をした2軒は勾玉製作工房の跡と考えられ、床面から叩き石、台石、砥石、紡錘車、勾玉破片など多数の道具類が出ている。
土坑の中に堆積した赤褐色の粘土は、勾玉の仕上げに使った研磨剤であろう。
製作方法は、原石を叩き割って研磨を何回もくり返す独特の技法で「稲持技法」とも呼べるものである。
3年目の調査では、地下60cmから2mの間に平安時代から縄文時代晩期の遺構が出土した。
石斧の製作工房、集石遺構、建物跡、土器だまり、積文時代晩期の鉢、磨製と打製の石斧、弥生中期の土器、叩石、磨石、台石、砥石、石包丁、石鏃など石製品が多い。
また、鮎喰川の扇状地に縄文から古代へとづっと続く矢野集落遺跡にも鍛冶工房・玉造工房・朱の精製工房などがあったという。
最後の卑弥呼勾玉工房あとは、古代阿波の国を治めた国府(矢野集落遺)があった場所で、鮎喰川の扇状地に縄文から続く鍛冶工房・玉造工房・朱の精製工房などが発見されている。
このように大規模に渡る翡翠勾玉工房跡がのこる古代阿波国は、「翡翠文化」の発祥地(日本最古)でもある。
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翡翠の女王「卑弥呼」墓は、阿波徳島に存在するのか? 中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された、日本史初の「女王卑弥呼」。「邪馬台国」を支配し、中国皇帝からも認められた「倭国の王」である。しかし不可解なことに、、卑弥呼に関する記録も、お墓も、日本では全く見つかっていないと文献に書かれている。それは、間違いのない事と思われるが、もし、それが「古代阿波」に「卑弥呼と呼ばれた墓があったとすれば、「邪馬台国説」の300年議論は大きく変わる。日本最初の国家「ヤマト政権」よりも、卑弥呼がいたとされる時代よりも遥か昔から、日本では高度な文明が栄えていたのである。その文明の祖が、「阿波文明」で、あると考えても疑う余地はない。先人たちが残した「文化遺産」に光を当てるとイザナギの「あわうた文化」、天照大御神の「翡翠文化」、麻の「あらたえ文化」、産業の「朱の文化」は、陳寿が「魏志倭人伝」にかいた「邪馬台国」は、「阿波の文化」と近いと思われる事が書かれている。その書のくだりには、真珠、青玉(翡翠)を出す。その山には丹有りとあり「古代阿波」の産業や文化に類似しています。
何せ、古代の6千年前と言われておりますので、今では、中々確証の判断は出来ませんが、どちらにしても古代阿波には天皇の起源と理解出来るものが多く残るのも事実であります。阿波の文化!「あわのうた」、「阿波翡翠」、「勾玉工房跡」、「朱遺跡」、「麻(あらたえ)、「八倉比売神社」、「神山(地名)」。
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古代阿波国から始まる「天皇家」の「翡翠文化」と「天皇制の日本国家」!
6000年前の阿波には、剣山の頂上近くに「高天原」と言われた神々の国があった。その神々が住むところを阿波では、空(天)言っていた。
古代阿波では、空(天)に住む神々を民は「天の神々」と呼んでいた。
コレが後に天下国家と呼ばれる由縁でもあるし、天皇と言う言葉が生まれたのである。
その昔、天神の「オモタル」と「カシコネ」の即位の時代には、両神は国を巡って「農業開発」に努力し、民の糧も豊かに、政事も行き届いた平和な阿波国でした。
ですが、残念ながら両神は「世嗣子」に恵まれず両神の死後「阿波国」は、再び乱れ無秩序な状態になっていきます。
そんな時、空(天)の高天原(剣山)の神々から指名を受けた、「イサナギ」と「イサナミ」が即位し皇位を継承します。
「イサナギ」と「イサナミ」の両神は、空(天)の高天原(剣山)の天神から引き継いだ矛を使い生産力の落ちた阿波の農業を復活させます。
同時に、阿波国の言葉が大層なまってお互い通じなくなったのを心配し正そうとされます。そして出来上がったのが「あわのうた」です。
更に「イサナギ」は、「ぬなかわ族」から献上された「翡翠の勾玉」を気に入り「国宝」としての価値を高めて行きます。
そして、その後を後続したのが「天照大御神」で、その即位の儀式に翡翠の勾玉「御倉板挙之神」が使われたのである。
この儀式の伝統は、現在でも「天皇即位」の時には「三種の神器」として、翡翠勾玉が使われているのは承知のとうりである。
「天照大御神」時代から空(天)の皇帝として、天皇と言う言葉が生まれ広まって行く事になる。
だが、その後の「大国主」時代から国の形の秩序は乱れ「天皇」が、乱立されて行く事になるのであるが「大国主」に、益を分配すれば誰にでも「天皇」と言う称号を与えたのである。
これが、「天照大御神」と「大国主」の「国盗り物語」となり、「大国主」の「国譲り」へとつながって行く事になる。
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「古代阿波国」には「翡翠文化」があった!https://stonesstones.thebase.in
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卑弥呼の謎!天照大御神の謎!邪馬台国の謎! 「中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された、日本史初の女王・卑弥呼。「邪馬台国」を支配し、中国皇帝からも認められた「倭国の王」である。
しかし不可解なことに、、卑弥呼に関する記録も、お墓も、日本では全く見つかっていない。
また、天皇の起源とも言われる天照大御神の存在も定かでは無いと言うのが現状でもあるが、天照大御神が卑弥呼でなかったのではとも憶測される。
だが、我が阿波徳島には「イザナミ」と「イザナギ」が広めた言われる「あわのうた」やイザナミが天照大御神に与えた「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」の神話も残り剣山一帯は、翡翠の産地でもある。
「魏志倭人伝」には、卑弥呼がおわすところは翡翠の産地あり「翡翠文化」の国でもあると記されているのである。
それほどの権力者であれば、死後、地域の神社で祀られるのが普通だが、日本各地の神社にも、遺跡にも、卑弥呼が存在した痕跡が一切見当たらないのだ…
これが、天照大御神と卑弥呼の道祖論につながっているのではないかと思われるが、今のところ判明していない。
だが、「イザナギ」が広めた言われる「あわのうた」や「イザナギ」が、天照大御神に与えた「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」の神話から古代阿波国が天皇の起源であったことは間違いないだろう。
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日本最古の翡翠勾玉の歴史!「イザナミ」から始まる勾玉の歴史は、「イザナミ」が治める領地に「ぬのかわ姫」がいた。
その「ぬのかわ姫」が治める領地に勾玉の技術集団「ぬのかわ族」が、住んでいた。その長が「イザナミ」に勾玉を献上したのが「古代日本国」において「勾玉文化」の始まりであった。
「イザナミ」は、大変喜び肌身離さなかったと伝わり「阿波翡翠勾玉」の文化が根付いて行く事になる。
そして、「高天原」を治めよと「イザナミ」は、「天照大御神」に「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」を与えたのであった。
「天照大御神」は、「イザナミ」から授かった御倉板挙之神(翡翠勾玉)」神とする「翡翠文化」が誕生したのである。
それから時をへて、勾玉の技術集団「ぬのかわ族」が、勾玉を本格的に作るようになり「天照大御神」の国宝として治められる事になる。
その後、翡翠勾玉は、「大国主」が支配することになっていくのだが「天照大御神」と「大国主」の争いは「翡翠勾玉」分捕り合戦になっていく。
その勾玉作りは、「ぬのかわ族」から「忌部族」にくら替えされ「忌部族」の勾玉作りが出雲から糸魚川に伝わるのである。
このように「大国主」から「阿波翡翠勾玉」は、変貌をとげて行く事になる。
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日本最古の「翡翠文化」は、天皇の起源!「古代阿波国」から始まったと言う真実!
翡翠を利用する文化は、日本・朝鮮半島・中国・ヨーロッパ、そしてメソアメリカに存在する。
時代的にはメソアメリカでは約3000年前のオルメカ文化と約2000年前のマヤ文明など、朝鮮半島では約1600年前、中国では清王朝の約250年前とされる。
中国では、約7000年前からネフライトを使った玉の文化が存在していた。
日本では、「縄文時代」の初期に「イザナミ」が「翡翠護符」として用いたのが、「翡翠文化」としての始まりであり「世界最古」の「翡翠文化」と伝わる。
「イザナミ」が、「天照大御神」に「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」を与えた事から三種の神器として天皇の即位に必要なものとされている。
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邪馬台国学術研究員:友行安夫(記) 天照大神の秘宝!「阿波翡翠」https://stonesstones.thebase.in 「阿波翡翠勾玉」は、「阿波忌部」が、「ヤマト王権」の「有力氏族秦氏」に献上された。
写真の翡翠勾玉は、「有力氏族秦氏」のものだったと伝わる勾玉でもあるが、「古代阿波国」で、初期に作られていた勾玉よりは完成度が相当高き物である。(勾玉の完成品とも言える。)
日本で、初期の「翡翠勾玉作り」の歴史は、「ぬなかわ族」から始まり「大国主」の略奪から刻をへて「忌部族」に伝わり「「出雲」や「糸魚川」に伝わり「完成度」の近いものとなった。
「ヤマト王権」の時代へと歴史は移り変わり「秦氏」は、「ヤマト王権」の「有力氏族」であり多くの功績残している。
時を同じくして、古代の「朝廷祭祀」を担当した「忌部氏」は、「秦氏」とは心が通じ合う仲だった事と思われる。
そんな「政権の有力者」が、「忌部氏」と「秦氏」であったことから「忌部氏」から「秦氏」に贈られたのが、「イザナギ」や「天照大御神」の「秘宝」でもあった「阿波翡翠勾玉」であった。
それが証拠として、「伊都国王の墳墓」からは、鏡に付随して剣や勾玉も出土した。三種の神器が揃って出土するのである。
古墳から出土した割れた鏡は、葬送文化の一端なのであろうが、「鏡」そのものは王権の象徴と思われ、「剣」は軍事力を表す。
では、勾玉は何を意味するのか。装身具としての勾玉は、伊都国に限らず「古代ヤマト」にあっては、普遍的な何ものかである。
「[三種の神器の一つ]勾玉(まがたま)の形はヘブル語で「ヤー」(神の御名)と読める。」とあり。勾玉は「ヤハウェ」のことであると主張している。
それ(勾玉のこと:筆者注)は糸に通して垂らした状態において、ちょうどヘブル文字の「ヨッド」(❜)に見える。
それは「ヤー」とも発音され、伝統的に神の御名を表すものとして使われてきた文字なのである。「参考文献・勾玉画像」(石川雅晟氏)
「秦氏」は、「ユダヤ系」の「渡来人」と伝わっているが、「阿波剣山」に隠された「アーク伝説」ともつながり不思議でもある。
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翡翠の勾玉作りは、「古代阿波国」の「ぬのかわ族」から始まったと言う真実!
「古代阿波」から各地に広がって行った「イザナミ」と「イザナギ」の「あわうた」から「天照大御神」の「翡翠勾玉」の文化は「古代阿波」においてはさけては通れない真実でもある。
何故か、「古代阿波」には、「あわうた」や「翡翠勾玉」や「天皇の即位」になくてはならない「あらたえ」の文化がある。
果たして、「九州」や「近畿」には、その欠片もないと言うのも真実であり疑う余地もないと言うのが、阿波が天皇の起源と言う事につながる。
能書きは、後にして、「翡翠の勾玉」作りは、「古代阿波国」の「ぬのかわ族」から始まったと言う真実を紹介しよう~
古代阿波には、「ぬのかわ姫」と「大国主」が、「天照大御神」の傘下で暮らしていたのだが、双方「天照大御神」の家来で豪族であったと言える。
「天照大御神」が高天原(剣山)に降臨するる時、「イザナミ」は、「天照大御神」に「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」を与えた。
お前は、この「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」を神として、「高天原」を治めなさいと言われたのが「天照王朝」の始まりでもあり「翡翠文化」の始まりでもあった。
その「天照大御神」の傘下であった豪族が、「ぬなかわ姫」でありその「ぬなかわ姫」が支配する高原(関)の国には、「ぬなかわ族」と言う勾玉作りの技術集団がいた。
この「技術集団」の長が、「イザナミ」に翡翠の勾玉を献上したことから「翡翠文化」が、根付いて行く事になる。
そして、「天照大御神」へと「翡翠文化」が、受け継がれて行く事になるのだが、そこに現れたのが「大国主」と言う事になる。
「大国主」は、「天照大御神」の秘宝としていた「勾玉の権威」をあの手この手で横取りしようと画策して、翡翠勾玉作りの「ぬなかわ族」を手に入れてやろうと企み「ぬのかわ姫」を略奪する。
そして、「勾玉交易」で大儲けして、「天照大御神」に匹敵する大豪族と力をつけて行く事になる。
そして、「天照大御神」と「大国主」の戦いは、刻をへて「大国主」の「国譲り」とつながって行くことになる。
更に、刻をへて「ぬなかわ族」から勾玉作りの技術を受け継いだ「忌部族」が、出雲や糸魚川にその技術を伝えたと伝えられている。
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ご存知ですか?「ヤマト王権」は、「阿波の文化」を学びながら各地に「阿波の地名」をつけて行った!
「ヤマト王権」は、国を統一するために「古代阿波国」文化を見習い統一をしやすくするために地名に阿波で栄た地域の名をつけた。
又、神社も同じく阿波で栄た神社の名前をつけ「阿波信仰」を学び各地に神社を作らせた。
古代「阿波の国」ある神社名は、日本と呼ばれる地域にはほとんどが、阿波から広まった「阿波信仰」でもある。
阿波国美馬郡所在の式内社11社のうちの1社に「伊射奈美神社」の名がみえます。
イザナミと対になるイザナギを社名とする式内社は、「淡路伊佐奈伎神社」をはじめとして7社ありますが、イザナミを社名とする式内社は阿波国美馬郡の1社のみです。
イザナギ神社にはイザナミも併せて祀られることも多かったと考えられますが、あえて女神のイザナミを社名とする「伊射奈美神社」は、特殊な意味をもつものかも知れません。
要するに多くの神社名が、全国にある中で「伊射奈美神社」は、ここ「阿波国」にしか見わたりません。
要するに「ヤマト王権」は、他の名前を各地に広めていったが「伊射奈美神社」名は使わせなかったものと思われます。
何故なら「天皇の起源」となる「母神」は、「伊射奈美」であったからと憶測します。
このように「ヤマト王権」は、阿波で繁栄していた地域の名前や神社をつける事にして、統一をしやすくして分かりやすくして、祭り事(政治)を行ったものと思われます。
全国至る所に阿波の地域名や神社名が、現在でも全国に残されているのは、「ヤマ王権」の全国統一に必要不可欠であったと思われます。
このように「あわのうた」や「翡翠文化」等、いろんな状況を調べた結果だが、天皇の起源は、古代阿波から始まったと言えよう~
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「天照大御神」と「大国主」に翻弄され続けた!翡翠の女王「ぬのかわ姫」の悲運!「ぬなかわ姫」は、「大国主」の二番目の妻であったと文献には伝えられているが、「ぬなかわ姫」が支配していたと伝わる石井町の高原(関)には祠が今も残る。
「ぬなかわ姫」は、翡翠の勾玉で身を飾り翡翠の女王であったと伝わり「大国主」が夜這いして妻としたとあるが、それは、略奪婚でもあったと記されている。 その「ぬなかわ姫」の支配する高原(関)の国には、「ぬなかわ族」と言う勾玉作りの集団がいた。 この「技術集団」の長が、「イザナミ」に翡翠の勾玉を献上したことから「翡翠文化」が、根付いて行く事になる。 「イザナミ」は、非常に喜び肌身離さず勾玉を宝ものとした。「イザナミ」が、「天照大御神」を高天原(剣山)に降臨させる時、「イザナミ」は、「天照大御神」に「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」を与えた。 お前は、この「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」を神として、「高天原」を治めなさいと言われたのが「天照王朝」の始まりでもあり「翡翠文化」の始まりでもあった。 そして、「天照大御神」は、勾玉を「ぬなかわ姫」の勾玉作りの技術集団「ぬなかわ族」に独占して作ることを許したのである。 「天照大御神」は、その「翡翠勾玉」を傘下の豪族に褒美として与え祭り事を行って行く事になる。 当時は、貨幣がない「ぶつぶつ交換」の時代でもあった為に貨幣として使われた可能性が非常高い。 そのため阿波の数多く古墳で発掘された「埋蔵品」には、綺麗な翡翠の勾玉が発見されているのも「翡翠文化」の現れであったと言える。 その「翡翠勾玉」目をつけたのが、当時、名も無い小さな領地を支配する「大国主」が、その勾玉に目をつけるのであった。 「ぬなかわ姫」の「支配地」を手に入れ「ぬなかわ族」を支配すれば「勾玉」を独占出来ると踏んだのである。 その狙いどうり「ぬなかわ族」を手に入れた「大国主」は、交易で大儲けして、「天照大御神」に匹敵する豪族にのし上がって行くのである。 要するに「ぬなかわ姫」の悲運は無理矢理略奪されたと言う事になるのだが、その後、悲しい運命だどる事になる。 このことで、「天照大御神」と「大国主」との国を分けた戦いが始まって行くのであるが、その後「天照大御神」の孫が「大国主」に「国譲り」を迫って行く事になる。 ■四国・徳島邪馬台国研究学会 邪馬台国学術研究員:友行安夫(記) 天照大神の秘宝!「阿波翡翠」https://stonesstones.thebase.in 「イザナミ」と「イザナギ」が、広めた「あわのうた」を知れば「邪馬台国」が見えてくる!阿波には、「イザナミ」と「イザナギ」が広めた「あわのうた神話」が残る不思議なところでもある。
「あ」から始まり「わ」で終わるこの歌は、「あ」は日本の日の丸に似た文字で、「わ」は、国旗と見て取れる文字でもある。 要するにこの歌は、日本国の日の丸や国旗を現わし、現在でも「祝日」や「天皇誕生日」には「日の丸国旗」掲げ祝う風習が残る。 「あわうた」は、「日本書紀、古事記」よりもさらに古い、日本最古の叙事詩・歴史書ともいわれる「ホツマツタヱ」の中に記された、48音からなる5・7調の歌である。 要するに「イザナミ」と「イザナギ」の国作り時代に考えられた日本国の伝統でもあり、日本国天皇の起源の始まりだと見て取れる。 「あ」から始まり「わ」で終わるこの歌は、何故、「あわのうた」なのか?この事を見ても「阿波」は、天皇の起源と考えてもおかしくないのではないだろうか? そして、何故、「イザナミ」と「イザナギ」が、「あわのうた」としたのか想像をかき立てるのである。 阿波には、もう一つ「イザナミ」が、「天照大御神」に与えた「翡翠文化」が、大きく残り「あわのうた」と「翡翠文化」は、「邪馬台国近畿説」や「九州説」にはみ渡らない2つの「確証物」とも見て取れる。 「イザナミ」が、「天照大御神」に与えた「翡翠文化」は、余り「古代史」には見渡らないが「あわのうた」と同じく阿波の歴史に評価されて来ると考えられる。 翡翠の勾玉は、「天照大御神」と「スサナオ」とのうけい(契約)にも登場して、天の岩戸でも翡翠の勾玉が登場する。 要するに「翡翠勾玉」と「あわのうた」は、より確証の高い天皇の起源の「確証物」ではなかろうか? そろそろ論争だけの三百年「邪馬台国説」に終止符を打ち新しい「確証物」の発見による論争にしなければならないのではないだろうか? ■四国・徳島邪馬台国研究学会 邪馬台国学術研究員:友行安夫(記) 天照大神の秘宝!「阿波翡翠」https://stonesstones.thebase.in 日本国誕生は「イザナミ」と「天照大御神」が愛した「翡翠文化」から始まる!「古代阿波王朝」の始まりは、「イザナミ」が、「天照大御神」を高天原(剣山)に降臨させる時、「イザナミ」は、「天照大御神」に「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」を与えた。
お前は、この「御倉板挙之神(翡翠勾玉)」を神として、「高天原」を治めなさいと言われたのが「天照王朝」の始まりでもあり「翡翠文化」の始まりでもあった。
そして、「御倉板挙之神(翡翠勾玉)を神として、「天照大御神」は、呪術や呪文を持って民の願いを叶えて「天照王朝」は栄えたと伝わる。
6000年前の縄文時代初期に「天照大御神」が、身に着け飾った翡翠勾玉は世界最古の宝飾品でもあった。
何故、「イザナミ」が、「天照大御神」が、それまで「翡翠勾玉」に拘ったのかは謎だが、鉄や金が発見されていない時代は岩石が唯一の神であったのでは無かろうか?
天の岩戸と伝わる「天照大御神」が、隠れた場所も「天の岩戸」として岩石で出来ているものであった。
6000年前の縄文時代初期には、石が願いを叶えてくれる宝物であったと憶測するが、翡翠で石器を作り生活の糧として、田畑開拓の道具として重宝されていたのだろう~
翡翠は、硬くダイヤモンドやコランダムのような原石は日本では採取されず翡翠が一番硬かったから重宝されたものと思われる。
その課程で、キラキラと結晶が輝く重くて艶のある原石が翡翠としての発見でもあり勾玉作りの発想につながっていったものと思われる。
勾玉作りの発想は、「イザナミ」が、翡翠の勾玉の原型を考案して「天照大御神」が、その勾玉を国作りの政治に使ったと言うのが真実だろう。
ようするに「邪馬台国論」には、翡翠が採れる産地で無ければ「邪馬台国」では無いと言うことになる。
従って、卑弥呼を女王とする「邪馬台国論」は、「翡翠文化」が、無ければ到底「邪馬台国」とは言えない事になる。
要するに「翡翠文化」が、無ければ天皇を起源とするこの国は発展しなかったと思われる。
■四国・徳島邪馬台国研究学会
邪馬台国学術研究員:友行安夫(記)
天照大神の秘宝!「阿波翡翠」https://stonesstones.thebase.in
翡翠は、忘れ去られた約6,000年前の初期縄文(じょうもん)時代の秘宝!翡翠は宝石(ほうせき)の一種で、特に東洋(とうよう)で人気の高い宝石です。
古くから日本で広く長い間にわたって利用され、考古学的に重要であり、地質学的にも日本のような沈しずみ込こみ帯でのみできる『日本ならでは』の石なので、2016年9月24日に日本鉱物こうぶつ科学会が『国石』に選定せんていしました。
約6,000年前の初期縄文(じょうもん)時代に阿波で縄文人が翡翠の加工を始めました。これは翡翠と人間の関わり(翡翠文化)です。
その後、弥生やよい時代・古墳(こふん)時代を通じて翡翠は非常に珍重(ちんちょう)されましたが、奈良時代以降(いこう)は全く利用されなくなってしまいました。
そのため、阿波で翡翠が採とれることも忘れ去られました。
阿波翡翠は、天皇の起源!「天照大御神」が、阿波で最初に「イザナミ」から翡翠勾玉を譲り受けたと文献にあります。
徳島の古墳後で見つかる勾玉は、「天照大御神」が、傘下の豪族に褒美として与えていたとも伝わっています。
国内の翡翠と言えば、糸井川が有名ですが、阿波翡翠は、忌部族が出雲に伝え糸井川に広がったとも伝わっています。
■四国・徳島邪馬台国研究学会
邪馬台国学術研究員:友行安夫(記)
■天照大神の秘宝!「阿波翡翠」https://stonesstones.thebase.in
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「古代阿波」の「勾玉加工」は、「人類上最古」の「加工技法」で、「稲持技法」と呼ばれた!阿波で「縄文人」が「翡翠」の「勾玉加工」を始めたのが、約5,000年前と伝わり「人類上最古」の加工で、石を勾玉の形に割って加工して行く「稲持技法」と伝えられている。
この技法は、勾玉を作る上に必要な技術で、「人類最古」の「加工技法」であり「人類最古」の「英知」と伝わる。
この「稲持技法」は、「翡翠の女王」と言われた豪族の「ぬのかわ姫」の傘下の「ぬのかわ族」が、あみだしたと伝わりその「工房跡」も残る。
この「加工技法」は、「大倭時代(やまと政権)」に「阿波忌部」が、受け継ぎ「何百年」もへて「出雲」から「糸魚川」に伝わったと記されている。
「イザナミ時代」から伝わる「稲持技法」は、「天照大御神」から「大国主」へと「縄文時代」に最大の「勾玉文化」が形成される事になり、「有力豪族」が亡くなると「古墳」に「勾玉祭祀」する「古墳時代」へと続く。
その「勾玉加工」には、「阿波翡翠」が、使われているのは間違い無く「剣山」にかけて「中央構造線翡翠鉱脈」につながっている。
従って、に近畿や四国や中国地方の「古墳」から発掘されている「勾玉」は、「阿波翡翠」で加工されたものも多く残る。
従って、日本の天皇を起源とする「勾玉文化」は、揺るぎも無く「阿波倭」から「奈良大倭」へとつながって行った事になる。
※これらの「古代阿波国物語」の記事等は、尼崎の「友行神社」周辺を開祖した「先祖友行」の「文書(もんじょ)」から代々受け継がれた口伝を元に記事にしております。
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2022.5.22日、「阿波邪馬台国説/友行安夫」。
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歴史書から消された四国1)倭国大乱が軽微だった四国
土蜘蛛/土雲(つちぐも)は、上古の日本においてヤマト王権・大王(天皇)に恭順しなかった土豪たちを示す名称とされており全国の風土記に記録が残されている。その多くには平定した天皇名が記載されているが、これは奈良時代初期、元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂した時に記載されたものであろう。時代としては弥生時代であり、実際には、大和朝廷による土蜘蛛征伐というよりも、後漢書に記載されている倭国大乱に相当すると考えられる。
風土記の記述は、豊後国4箇所、筑後国1箇所、肥前国7箇所、肥後国1箇所、日向国1箇所、大和国5箇所、越後国1箇所、常陸国3箇所にわたり、九州・近畿・関東甲信越と各地に点在している。北九州は2世紀後半の冷害に見舞われたうえに、倭国大乱の主戦場になった。相当疲弊したことであろう。四国だけは土蜘蛛の記録がない。四国にも倭国大乱があったであろうが、比較的軽微であったと言える。
2)四国を平定していないヤマトタケル
ヤマトタケル(景行天皇12年 - 景行天皇41年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)であり、倭国内を平定したと記述されている。そのルートは記紀で若干違うが、その平定地は、下記である。
[征西]
―九州のクマソ、肥前(佐嘉郡、小城郡、藤津郡)
―出雲
[東征]
―尾張、岐阜、静岡、相模、上総、甲斐、武蔵、群馬県(上野)、信濃、常陸
―東北(北上川)、陸奥、蝦夷
ヤマトタケルは伊勢で、草那藝剣(くさなぎのつるぎ)を与えられるが、四国にだけは行っていない。
四国は倭国大乱も軽微であり、ヤマトタケルにも平定されていない。なぜであろうか?これは四国に安定した権力基盤が存在していたことを意味しているのであろう。ヤマトタケルは、実は、知行地であった四国から出発したのではないだろうか?
3)地名の類似性と古事記の神話
古代史書では、四国に関して明確には記載されていないが、四国には畿内と同じ地名が多い、例えば、吉野川が代表的であるが、万葉集で15首が詠まれている香具山と同じ地名が「徳島県小松島湾の香具山」にある。伊勢という地名も「徳島県阿波市阿波町伊勢」にある。鳴門の大坂峠、阿波市市場町には「奈良」という地名があり、阿波 奈良坂城という城があった。四国にも秦性やハタの地名が数多くある。また、古事記に登場する淡海は近江・琵琶湖を指すと言われているが、もとは「あはうみ」、即ち、阿波の海とも考えられる。大阪に阿波座という地名があるが、阿波の人が移り住んでいた土地であろう。
斎部宿禰廣成は,「古語拾遺」の中で,天岩戸が開いた時の状況を伝えている。
阿波禮【言天晴也】 阿那於茂志呂【古語 事之甚切 皆稱阿那 言衆面明白也】 阿那多能志【言伸手而舞 今指樂事謂之多能志 此意也】 阿那佐夜憩【竹葉之聲也】 飫憩【木名也 振其葉之調也】
阿波禮(あわれ)とは,「折に触れ,目に見,耳に聞くものごとに触発されて生ずる,しみじみとした情趣や哀愁」。つまり,現れてきたものを気づき感じることである。であり、「あわれ」とは阿波に起因する言葉と言える。
また厩戸皇子(うまやどのみこ:聖徳太子)は「厩戸川の川口でお産みになったという伝話」がある(岩利大閑氏)。香川県大内郡に馬宿(うまやど)村という名前の村があった。香川県引田(ひけた)の近くであるが、桜井市にも秉田(ひきた)神社がある。古事記下巻に、「ひきた」に関わる話がある。『のちに雄略天皇となった若建命は三輪川に行幸した時に、河辺で衣を洗う童女の姿に心を奪われその童女に「お前は誰の子か」と尋ねると、「私の名は引田部赤猪子といいます」』。この引田の近くに流れる川が馬宿(うまやど)川と呼ばれている。
徳島県美馬町の「倭大國魂(やまとおおくにたま)神社があり、祭神は大国魂命と大己貴命である。『日本書紀』の第10代崇神天皇紀6年に「天照大神・【倭大国魂】、二神を天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が、『延喜式神社』(927年にまとめられた格式ある神社)のうちで[倭大国魂]を冠する神社は他にない。境内には、古墳時代後期(6世紀)の3基からなる大国魂古墳があるが、その北側には[吉水遺跡]があり、弥生後期の住居7軒、東西9間X南北3間の掘立柱建物跡等が発掘されている。弥生時代後期からの古い歴史が残る地である。
前天皇から新天皇への“引継ぎ儀式”が大嘗祭で,皇祖神の「天皇霊」を新天皇が受け継いで心身一体化することにあり,それは当然,高天原から「天皇霊」が降ることにある。「大嘗祭」をひとくちでいえば,「天孫降臨」の故事を儀式的に再現したものであり,歴代天皇が何代にも渡って,天は皇の一世一度の重大な祭儀として伝承されてきた儀式である。阿波の木屋平という山間部の三木家に残る古文書に大嘗祭に使われる「麁服(あらたえ)」(麻の織物)が,天皇が即位後,初めて行う践祚大嘗祭の神座に神衣(かむそ)として祀る「麁服」が阿波から献上されているのである。上古より阿波忌部氏の役割として,麁服神服(あらたえかむみそ)を調製し貢進してきた事が古文書に書かれているからである。麁服を手がけるのは古代の職能集団「阿波忌部(いんべ)氏」直系の三木家である。この習わしの最古の記録が残っているのは、21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)(在位456年~479年)にまで遡ることができ、近年では、大正天皇から歴代天皇へと復活した。高天原が阿波にあったという説は、大嘗祭の時に阿波から献上される麁服によっている。
国産みの神話も淡路島が舞台になっており、淡路島には伊弉諾(イザナギ)神社が、阿波には伊弉諾(イザナミ)神社がある。伊弉諾(イザナミ)を祀っている神社は阿波にしかない。このほか、四国には古事記に関連する名前、伝承が数多く残っているのである。
4)邪馬壹国・四国説
添付図に、弥生時代に存在していた国/部族を図示する。福井/近江には越、九州には扶餘族、熊襲、中国地方には出雲、吉備、多婆那国(たばら:丹波と推定されており、第4代新羅王、脱解の生誕地)があったと考えられる。古事記の神話以外の史書には、四国は古代の史書に登場しない空白地帯であったと言える。四国は歴史から消されたミッシングリンクであったと言える。魏志倭人伝の行程記録を読み替えしないで丹念に追っていくと女王の都は阿波になる。記述との矛盾は一切ない。ちょうど四国(土佐の一部の南を除く)と中国地方瀬戸内海沿岸に、周旋5千余里の邪馬壹国があてはまる。豊前には奴國(二万戸)、豊後/日向/東薩摩には投馬國(五万戸)が存在していたのであろう。この東九州の地域は、ウエツフミに記載されているウガヤフキアエズ王朝の末裔国と思われる。この空白地帯であった四国と中国地方瀬戸内海沿岸に倭国の母体となった邪馬壹国が存在していたと考えられる。邪馬壹国以外に、この空白地帯四国を埋める国が何であったのか、倭人伝以外の史書では一切記述されていない。女王國が阿波にあったとすれば、後漢書の「海を渡って、その東千余里」の地、つまり畿内に狗奴国が存在していたことになる。
5)歴史的推移
愛媛県上浮穴郡に、上黒岩岩陰遺跡という遺跡があり、約1万4,500年の最古級クラスの細隆起線文土器が出土している。縄文時代の草創期(約1万6,000年前~)から縄文人が四国に住み着いていた。
その後、7000年前の鬼界カルデラ噴火により殆ど人が住まなくなったようであるが、弥生時代中期から瀬戸内は高地性集落を形成していた。瀬戸内文化圏であり、その後大阪付近まで伝わっていった。瀬戸内産の土器が宮崎、東鹿児島に伝っていたことが確認されている。瀬戸内文化圏と東九州文化園は交流が深かったのである。魏の一行が邪馬壹国と敵対する国に立ち寄るはずがない。また阿波には日本最古の水銀鉱山、若杉山遺跡(徳島県阿南市)がある。鉄を加工する最古の工房も発見されている。片や奈良には、奈良湖が存在したので縄文遺跡も殆どない。縄文人も殆ど住んでいなかったのである。また弥生時代に奈良では鉄器の遺物は発見されていない。鉄器を持たない奈良勢力が、鉄の武器を持っていた九州、四国の勢力を征服できるはずがない。おそらく空白の4世紀頃、宿敵であった狗奴国を制圧した邪馬壹国が、阿波から畿内に移り住み、阿波の地名をとって畿内の地名として名付けたと考えられる。
6)墳墓/遺跡
阿波の墳墓遺跡は、あまり知られていないが、実に数多くある。発掘はあまり進んでいないが弥生時代の遺跡だけで33もある。本格的な調査をすれば、さらに数多く発見されるであろう。中でも徳島の矢野遺跡は竪穴住居跡約100棟がある。鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る突線鈕式と呼ばれる銅鐸が見つかっており、鉄器の工房跡も発見されている。稲持遺跡(弥生時代)では、蛇紋岩製勾玉が見つかっている。稲持遺跡では勾玉の工房跡が見つかっている。名東遺跡では水銀朱の工房跡も発見されている。
阿波の代表的な墳墓として積石塚と萩原古墳群がある。積石塚(つみいしづか)とは、石を積み上げて墳丘を造っている墓であるが、この墓形式が存在する地域は、香川県から徳島県の一部の地域と長野県、山梨県の甲府盆地北縁など一部の地域に顕著に見られる。香川・徳島のものは古墳時代前期(3~4世紀)のものである。後の古墳時代の前方後円墳の基になったと考えられる。
萩原古墳群は積石によるもので、2世紀末〜3世紀前半に築造されたと考えられている。前方後円墳の原型ともいえる突出部がある。2号墓は板を使った墓室と木槨を積石で囲んだ3重構造の埋葬施設があり、同様の構造の埋葬施設は奈良県ホケノ山古墳にある。ホケノ山古墳は箸墓古墳の近くにある古墳で、萩原2号墓はそのホケノ山と同じ時期かやや古い時期といわれている。萩原2号墓がホケノ山古墳に影響を与えたと評価されている。おそらく邪馬壹国が奈良に東遷した時に持っていった墳墓の形式で奈良の古墳時代を築いた原型と思われる。
卑弥呼の墓と言われているのは八倉比賣神社(やくらひめじんじゃ)にある。添付図の五角形の祭壇の下に径100歩の墓があると言われている。八倉比売神社の御神体は杉尾山であるが、この山を含む気延山一帯には約200もの古墳が存在している。しかし、発掘されていないので、現時点でここを卑弥呼の墓と比定することはできないであろう。#聖徳太子
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(私論.私見)