概要履歴その2

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ウィキペディア聖徳太子」その他を参照する。
  
 2006.12.20日 れんだいこ拝


【聖徳太子が四天王寺他の寺院建立】
 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。聖徳太子によって建立された日本最初の官寺。中門,五重塔,金堂,講堂が一直線に並べ回廊が囲む四天王寺式の伽藍配置が特徴。

 蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てた。


【仏教興隆の詔を発す】
 594(推古天皇2).2月、21歳の時、仏教興隆の詔を発した。

【阿賀神社建立】
 同年、寺院建立にふさわしい地を求めて近江(滋賀県)に立ち寄り、箕作山の一峯である赤神山に正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)を祀る社を建立、赤神山の名前から阿賀神社と称したとされる。四天王寺建立を始めていた頃に社殿が築かれている。オシホミミは、スサノオとアマテラスが誓約(うけい)をした際に生み出された神。聖徳太子がわざわざここにオシオミミを祀ったのは自身の蘇我系である先祖がスサノオと関係していて、近江のこの地が天下を治めるのに重要な斎地となっていたからであろう。太古の昔から祭祀が行われていたとも云われている。夫婦岩の狭い隙間から覗くと、張り出した岩の先から夏至の朝日が現れるという。

【高句麗の僧・彗慈(えじ)渡来】
 595(推古天皇3).5月、22歳の時、高句麗の僧・彗慈(えじ)が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

【法興寺(飛鳥寺)建立】
 596(推古4).11月、23歳の時、法興寺(飛鳥寺)が完成する。

【聖徳太子の対外政策】
 600(推古天皇8)年、27歳の時、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。

 この頃、隋との外交を結ぶため初めて遣隋使を派遣した(第1回遣隋使は隋書に記載されている)。但し、相手にされなかった。

【斑鳩宮を造営】
 601(推古天皇9)辛酉の年.2月、28歳の時、隋との対等外交に相応しい国造りをする場として斑鳩宮の造営を始めている。以降、矢継ぎ早に聖徳太子の新政が進められていく。

【新羅征討未遂事件】
 602(推古天皇10).6月、29歳の時、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。

 603(推古11)年、30歳の時、小墾田宮に遷都する。


【冠位十二階制を定める】
 603(推古天皇11).12.5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。12階とは、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智。

【17条憲法制定】
 604(推古天皇12).4.3、日本書紀「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」。いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。

【引き続く仏教導入政策】
 605(推古天皇13)、32歳の時、斑鳩宮へ移り住んだ。天皇が飛鳥大仏を作らせる。 

【斑鳩寺建立】
 606(推古14)年、33歳の時、聖徳太子が飛鳥の豊浦宮(とようらのみや、現在の橘寺)において、推古天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義する。天皇は大いに喜ばれて聖徳太子に播磨国揖保(いぼ)郡の水田、百町を寄進(きしん)した。聖徳太子はその地を「斑鳩荘」と名付け、伽藍を建てた。これが斑鳩寺の始まりとなる。「斑鳩荘」は後に法隆寺が創建されたことにより寄付され、以後法隆寺の荘園として千年近くにわたり栄えることになった。

 4月-鞍作止利,丈六の金銅仏を法興寺(飛鳥寺)に安置する。 

【法隆寺建立】
 607(推古15)年、34歳の時、仏法興隆を願って法隆寺(斑鳩寺)が建立される。当時は斑鳩寺(いかるがでら)と呼ばれていた。現存する世界最古の木造建築物となっている。建築材は桧(ひのき)で樹齢1000年以上の桧が使われた。礎石の上に柱が建てられている。五重塔の高さは31.8m。 世界最古の木造建築用明天皇が病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願され、その遺志を継いで推古天皇と聖徳太子が607年に造られた。

【2回目の遣隋使派遣】
 607(推古天皇15)年、第2回遣隋使として小野妹子鞍作福利を使者とし随の皇帝煬帝(ようだい)に国書を送った。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無云云(つつがなきや)」(「隋書倭国伝」(隋書卷81 列傳第46東夷、俀國)による)とあり、煬帝を怒らした。 
 608(推古16).4月、推古天皇16年、摂政聖徳太子35歳の時、第2回遣隋使小野妹子が隋からの使者・裴世清(はいせいせい)とともに帰国する。百済経由で筑紫に到着。6月、難波津に至り、新造の客館に宿泊。8月、威容を整えた迎接を受けて飛鳥に入り、小墾田宮において群臣が列席するなか、日本書紀によると裴世清が「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)で始まる皇帝煬帝からの国書を言上。倭国を国家として認めていることになる。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。9月、裴世清が小墾田宮や難波において饗を受け帰国。小野妹子が同行し、留学生や僧ら8名を伴い再度隋へ遣わされる。
 裴世清は、帰国後、唐王朝において対外関係の政務を監査する主客郎中、さらに江州(江西省九江市)を治める長官である江州刺史となった。帰国に伴って留学した高向玄理、南淵請安、僧旻らは隋末唐初の動乱の中において有形無形の庇護を世清から受けたと考えられる。

 ※「三国史記巻第27 百済本紀第5 ※武王「九年 春三月 遣使入 隋朝貢 隋 林郎 裴淸 奉使 倭國 經我國南路」とある。裴清は百済南部を経由したことが記述されている。(参考文献/池田温「裴世清と高表仁」(日本歴史280号)

【仏教経義書「勝鬘経義疏」を著す】
 611(推古19)年、38歳の時、「勝鬘経義疏」を著す。菟田野(奈良県宇陀郡)へ薬猟(くすりかり)に出かける。

【伎楽の舞を保護する】
 612(推古20)年、39歳の時、日本書紀に百済から帰化した味摩之(みまし)という人物についての記述がある。この人は伎楽を伝えた人で,現在の桜井市に住んでいた。味摩之は「呉で学んで伎楽の舞を習得した」と聖徳太子に申し上げたので、太子は桜井で少年を集めてこの伎楽の舞を習わせた。真野首弟子(まののおびとでし)や新漢済文(いまきのあやひとさいもん)の二人が習って、舞を伝えたと書かれている。伎楽はチベットやインド発祥の仮面劇で中国に伝わったものである。桜井市にある土舞台と呼ばれる場所が我が国初の国立演劇研究所と国立の劇場が置かれた所。「芸能発祥の地」となっている。

【仏教経義書「維摩経義疏」(ゆいまぎょうぎしょ)を著す】
 613(推古21)年 40歳の時、「維摩経義疏」(ゆいまぎょうぎしょ)を著す。

【聖の埋葬逸話】
 同12月 太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。
「しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て  臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ」

 翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。


【仏教経義書「三経義疏」を著す】
 615(推古23)年、42歳の時、厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、「三経義疏」を著した。

【隋が滅び唐が興る】
 618(推古26)年、隋滅び、唐興る。

 聖徳太子の親隋路線は根拠を失い、蘇我馬子の親新羅路線が取られるようになった。これは外交政策の大転換であった。れまでの皇族中心の政権は任那を日本領として復活しようとうする政策であった。しかし馬子はあっさり任那を新羅の属国であることを受け入れる。聖徳太子とその周囲の政権は任那を復興する夢を捨て切れない。馬子は、新羅をバックにつけ、新羅が正式に任那を属国化することを認める。


【国史書作成】
 620(推古天皇28)年、47歳の時、厩戸皇子は馬子と議して国記(くにつふみ)、天皇記(すめらみことのふみ)、臣連伴造国造等本記(おみむらじくにのみやっこしょうのほんき)などを編纂した。(詳細は「聖徳太子の国史編纂指令経緯考」に記す)

 621(推古天皇29)年、48歳の時、新羅朝貢。


【蘇我馬子との対立】
 厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、仏教の導入、興隆につとめると共に天皇中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。

 ところが、「国記、天皇記などを編纂」の頃から厩戸皇子と馬子の関係が対立含みになる。丁度この頃、対外情勢が急激に変わり、外交路線をめぐっての対立が発生したとも考えられるが、れんだいこは、国史編纂を主因としたい。これについては更に検証して行く事とする。

 2008.8.10日 れんだいこ拝

【晩年】
 622(推古天皇30)年、49歳の時、厩戸皇子は、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈っていた妃・膳大郎女が2.21日に没した直後、翌22非、その後を追うようにして亡くなった。

 623年、新羅の使者が任那の使者をつれて朝貢。日本に新羅は任那を属国化したことを見せつけた。

【子孫】
 聖徳太子の正室は、推古の子の菟道貝蛸王女(うじのかいたこのひめみこ)である。してみれば、聖徳太子は、推古の甥でかつ娘婿ということになる。この二人の間には子がなかった。上宮聖徳法王帝説などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるという。次の通り。

 刀自古郎女(山背大兄王、財王、日置王、片岡女王)、橘大郎女(白髪部王、手島女王)、膳大郎女(長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王、春米女王、久波太女王、波止利女王、馬屋古女王)。

 死後、子孫は、入鹿の手により謀反の罪を着せられ全滅させられる。これにより厩戸皇子の子孫は全くいなくなってしまった。

【墓所】
 叡福寺 聖徳太子墓

 墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。しかし、実際は後世になって太子信仰が盛んになった時に定められたものと考えられ、信憑性は定かではない。


【逸話】

 平安時代に著された聖徳太子の伝記「聖徳太子伝暦」は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。

 ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。

 『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。 また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。

 一方「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。一説に、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」(とよとみ)はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。


【和歌】
 日本書紀によると次のようなものである。万葉集には上宮聖德皇子作として次の歌がある。
 「家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ」(『万葉集』巻三415)

 また、拾遺和歌集には聖徳太子作として次の歌がある。
 「しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし」(拾遺和歌集巻20哀傷1350 返し歌は「いかるがや富緒河の(とみの小川の)絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ」)

 後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。


【聖徳太子虚構説】
 聖徳太子が実在したこと自体を否定する説がある。





(私論.私見)