概要履歴 |
(最新見直し2008.8.8日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「ウィキペディア聖徳太子」その他を参照する。 |
【総評】 |
573-621.飛鳥時代の皇族とされる人物で、日本古代史上重要な役割を果たしている。仏教受容を廻る政争で、受容派の蘇我氏側に与し、神道派の物部氏と対立する。蘇我氏が勝利し、推古天皇の御世、摂政として活躍する。冠位十二階制の制定、17条憲法の制定、仏教導入政策、遣隋使の派遣、国史編纂等で知られる。晩年は蘇我氏と対立し一族が滅ぼされる。 |
【出生及び出自】 |
574.2.7日(敏達天皇3.1.1日)-622.4.8日(推古天皇30.2.7日) 。 574(敏達天皇3)年、父を、橘豊日皇子(後の第31代、用明天皇)、母を第29代、欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)として生まれた。用明天皇の第二皇子とされる。 橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。 本名は「厩戸(うまやど)皇子」であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。ただし、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。別名、「豊聡耳」(とよとみみ、とよさとみみ)、「上宮王」(かみつみやおう)の皇子とも呼ばれた。古事記では「上宮之厩戸豊聡耳命」、日本書紀では「厩戸皇子」、「豊耳聡聖徳」、「豊聡耳法大王」、「法主王」と色々に表記されている。他にも、上宮聖徳法王帝説での「厩戸豊聰耳聖徳法王」、「上宮聖徳法王」、万葉集巻三の「上宮聖徳皇子」など、様々な名前で呼ばれる。 |
【聖徳太子の名前考】 |
聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく平安時代から広く用いられ一般的な呼称となった後世につけられた尊称(追号)である。「死後に贈られた諡号(しごう)である」との記述もあるが、「諡号」と云うのかどうか疑問が有る。、没後100年以上を経て成立した尊称であり、平安時代に成立した史書である日本三代実録、大鏡、東大寺要録、水鏡等にはいずれも「聖徳太子」と記載され、「厩戸」、「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期にはすでに「聖徳太子」の名が広く用いられていたことが伺える。 |
【生育期】 |
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。その中でも注目すべきは、廐戸皇子は用明天皇に愛され、、少年期から青年期にかけて天皇の宮(池辺宮:いけのべのみや)の南にあった上宮(かみつみや、奈良県桜井市上之宮)で過ごしていることであろう。 |
【蘇我氏と物部氏の政争に於ける蘇我氏側で台頭する】 |
585(用明天皇元)年、敏達天皇崩御を受け、厩戸皇子の父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。蘇我氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)と繫がり、仏教受容派に位置した。石上神宮を氏神とする物部氏は中臣氏や忌部氏とともに排仏を主張した。紀氏、巨勢氏、膳部氏、葛城氏、大伴氏、安倍氏、平群氏などの有力豪族は蘇我氏に与した。こうして蘇我派と物部派の対立が激しくなって行った。 |
【蘇我馬子が物部守屋が推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)を誅殺、宅部皇子(やかべみこ)を殺害】 |
587(用明天皇2)年、用明天皇は即位2年足らずで崩御した。後継争いが始まり、蘇我馬子は、敏達天皇の皇后・豊御食炊屋姫の詔を得て、物部守屋が推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)を誅殺する。続いて、蘇我馬子は額田部皇女(後の推古天皇)を後継とし、穴穂部皇子や皇子とつながっていた宅部皇子(やかべみこ)を殺害した。 |
【「丁未の変」(ていびのへん)】 |
こうして物部氏と蘇我氏の対立が激化する。7月、蘇我馬子は、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めた。が、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城(いなぎ)を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを「丁未の変」(ていびのへん)と云う。 この時、厩戸皇子は、泊瀬部皇子(はつせべのみこ。後の崇峻天皇)、竹田皇子らの蘇我氏の血を引く皇族と共に蘇我馬子の軍に加わった。白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。 討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。秦河勝(はたのかわかつ)が守屋の首を切り落とし、本陣に持ち帰った。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。異説として、破れた物部守屋は東浅井郡浅井町まで漆部小阪を伴って領地の田根之荘に逃げ、池奥の山中にある洞穴に隠れ住んだとも云う。ここが「本宮の岩屋」と呼ばれるようになり、村人が食事の世話をした。守屋はここで萩生翁と自称して暮らし、神社に祀られたと語り継がれている。 |
聖徳太子が物部守屋を討伐するため河内稲村城へと向かう途中、信貴山に至り戦勝祈願をすると、天空遥かに毘沙門天王が示現され、必勝の秘法をお授けになったと伝わる。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建し、この山を「信ずべし貴ぶべき山」という意味の『信貴山』と名付けたと云われている。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されている。
信貴山朝護孫子寺の寅まつりは、このようにご縁の深い「寅」にあやかったお祭で、勝縁の寅の月(2月)に一山僧侶総出のもと、寅御輿を担いだ日本で唯一の「寅行列」がお囃子太鼓に合わせ本堂へと練り歩き、人々の諸願成就を祈る大法要を執り行う。
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【法興寺(飛鳥寺)の建立】 |
588(崇峻2)年、戦勝の誓いに従い、蘇我氏は法興寺(飛鳥寺)の建設を始めた。 |
【崇峻天皇擁立、暗殺】 |
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。 |
【聖徳太子が摂政となる】 |
593(推古天皇元).4.10日、20歳の時、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし、以降目覚しい国政改革に着手していく事になる。 |
(私論.私見)