聖徳太子の国史編纂指令経緯考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、「聖徳太子の国史編纂指令経緯」を確認しておく。
  
 2012.1.5日 れんだいこ拝



【総評】
 聖徳太子が、記紀に先立って、と云うか記紀の先駆けとなる日本史書の編纂を企図していたことが知られている。これをもう少し詳しく知りたいと思っていたところ、「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60」の 不動明 氏の2012.1.4日付け投稿「天皇家を守護する六芒星を成す六家 吾道、物部、忌部、卜部、出雲、三輪 合はせて七家、北斗七星を成す七家-c」に出くわした。これを解析し、必要なところを抜き書きしつつ、れんだいこ文責で書き換えることにする。出典は、後藤隆氏著「先代舊事本紀大成經(サキツミヨノフルコトノモトツフミオオイナルオシエ)」(徳間書店、2004.10.31日初版)のようである。
 聖徳太子は、敢えて天皇位に就(つ)かなかった形跡が認められる。自分には皇太子になるような「徳」はないからと断り、さらに乞われると今度は自分の寿命は五十歳でつきるが天皇は八十歳まで長生きするので、皇太子になっても皇位継承できないからと、さまざまな理由をつけて何度も断ろうとしている。しかし天皇と群臣たちは諦めなかった。何度も太子に言葉を尽くし、ついには「伏して願わくば」という強い思いで太子の承諾を取り付けている。聖徳太子は苦肉の策として叔母である推古天皇を立て、自らは摂政位に就いている。その聖徳太子が心血注いだのが、我が国最初の国史たる旧事本紀編纂である。

 「大臣蘇我馬子宿禰に命せ、内録及び、吾道、物部、忌部、卜部、出雲、三輪の六家の神の先人の録所書紀を集命う」(大臣(おおきみ)の蘇我の馬子宿禰(すくね)に命ぜ、内録(うちつふみ)及び、吾道(あじ)、物部(もののべ)、忌部(いんべ)、卜部(うらべ)、出雲(いずも)、三輪(みわ)の六家の神の先人(さきつひと)の録所書紀(しるされしかきぶみ)を集め命(しめたまう)(大臣(おおきみ)である蘇我馬子(そがのうまこ)に命じて、内録と吾道、物部、忌部、卜部、出雲、三輪という六家に伝わっている記録を集めさせた)。

 「内録」とは、三種の神器(さんしゅのじんぎ)と共に天皇が皇位を継承するときに相続される秘録のことを云う。旧事本紀に、元々は神武天皇に高倉下命(たかくらじのみこと)が奉納したと伝えられるもので、政道要諦つまり政(まつりごと)を行うために最も大切なことが書かれた書物だと記されている。高倉下命というのは、記紀に登場する、神武天皇が東征の際に熊野で苦しんでおられたとき、アマテラスの命によってフツノミタマという剣を届けた人物である。

 聖徳太子は、摂政という自分の立場を利用し、当時としてはかなり強引な方法で学問書を集めた。六家はそれに対して逆らってはいない。序伝や序に書いてあることが事実だとすれば、六家は天皇家の「横暴」な要請に刃向かうことなく秘伝書を差し出したことになる。六家の態度は、逆らってはいないが、協力もしないというものだった。天皇家の使者に対し宝物殿の扉は開けてあげるが、その中から必要な書を選んで渡すことはしていない。「御入り用のものがあれば勝手にどうぞ」という感じで、使者に選ばせている。使者が選んだ書を持ち出すことを拒まない代わりに、「他にもこういうものがありますよ」とは言わない。持っていくのなら勝手に持っていきなさい。ただし私たちはそれを本心では「許可」してはいないですよ、というのが六家のスタンスであった。

 さて、六家から家伝の秘録を集めてはみたが、どうも肝心な部分が見あたらない。そこで聖徳太子は、「隠録(かくしぶみ)有らんか」、つまり「まだ他に隠し文があるはずだ」とさらに探させている。「これでは足りない。まだ他にあるはずだ」として、再度使者を六家に遣(つか)わしている。すると、六家の中の忌部とト部が、「私たちは一行たりとも隠してはいませんが、祖神から伝わる《土笥(はにばこ)》を神武天皇の御代にご神体として祠に祀ったものがある」と申し出る。土笥とは、土で形作られた箱という意味である。ではそれを、ということで、忌部とト部の証言に基づき、小野妹子(おののいもこ)を平岡宮へ、秦河勝(はたのかわかつ)を泡輪宮(あわのみや)へそれぞれ派遣し、神の許しを得て土笥を持ち帰らせる。

 ここで言う「平岡宮」とは、現在、大阪府東大阪市に鎮座する「枚岡(ひらおか)大社」と思われる。枚岡神社はト部氏が属する中臣(なかとみ)氏の祖先神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀った宮である。「泡輪宮」とは、千葉県館山市の「安房(あわ)神社」と解されているが、四国の阿波と読むべきではなかろうか。どちらにせよ忌部氏が代々祭祀を司(つかさど)る宮である。

 小野妹子と秦河勝は、無事土笥を持ち帰るが、この土笥、どうしたわけか蓋(ふた)が開かない。群臣がよってたかって開けようとするのだがどうしても開けることができない。それが不思議なことに、聖徳太子が手を伸ばすと、箱はそれだけで自然に開いたという。「皇太子(ひつぎのみこ)、自ら手を伸し、蓋を攀(よじっ)て之を矯(もたげたまう)に土笥(はにばこ)は自づと開き、中より土簡(はにふだ)を得り。おなじもの五十箇見(あら)われ、神代の事の跡(ありさま)、ことごとく茲に也(また)分明(ぶんみょう)せり」。その中には五十枚の土簡(はにふだ)が収まっていた。土簡とは、文字を刻んだ粘土板のようなものだと考えられる。
  
 天皇家、六家、そして平岡・泡輪宮の両宮とバラバラになっていた超古代の叡智が聖徳太子の手元に揃い、いよいよ編纂事業が本格的にスタートする。太子は秦河勝に命じ、旧事本紀の編纂にあたり、スタッフに「この本に色付けしてはならない」と厳命している。一字一句変えてはならない。読む人間の立場や読む人間の感想を入れてはいけない。秘伝書をそのままそっくり写せと言っている。こうして、神代文字を写し取らせ、そのままそっくり意味を違えることがないよう細心の注意を払って漢文に翻訳させている。留意すべきは、旧事本紀に見られる卓越した表現力である。大和言葉を当時の外来語である「漢文」に置き換えるのでさえ大変な作業なのに、その漢文の完成度は非常に高い。これは、渡来系氏族である秦一族の力に負うところが大きいと考えられる。大和言葉と古代中国語、この二つの言語に精通した秦一族なくしては、この編纂事業は成し得なかった。 

 聖徳太子は旧事本紀七十二巻の完成を急ぎ、心血注いだ。それはあれだけ膨大な書がわずか三年足らずで完成したことからも窺える。記紀では太子は推古三十年(六ニニ年)の二月に亡くなったことになっているが、旧事本紀ではその一年前、推古天皇の二十九年二月に没したと記録している。旧事本紀が完成したのは推古三十年だから、太子は完成した旧事本紀を見ることなく世を去ったことになる。そのため、秦野河勝が序伝に書いているが、残されたスタッフたちは非常に苦労してこの書を完成させたという。
  
 旧事本紀は、本來は特定の書物のタイトルではない。元々は、日本の吾道、物部、忌部、卜部、出雲、三輪という六家と天皇を合わせた七家に伝わっていた古代の学問書を一つにまとめたものの総称であり、「これは、遠い昔からの御技を教える学問書である」という意味で用いられた呼称である。六家に伝わっていた古文獻に、それぞれの固有名称があったのかどうかすらわからない。旧事本紀編纂に際し、特別、天皇家に貸し出されたこれら六家の古文献は、本來は門外不出の秘伝書だった。家々の秘伝書の内容は、それぞれ異なる。それらを貫く天隠山理論は同じものであっても、それをもとにした医術が伝わっているのか、暦法が伝わっているのか、あるいは占いが伝わっているのか、祭祀(さいし)法が伝わっているのか、学ぶべきことはそれぞれ違う。そしてその違いが、そのままその家にしかできない重要な「おつとめ」の内容になってくる。たとえば、物部氏は古代から軍部の仕事を司っていたことが知られているが、それはそのための学問が物部家に伝わっていたからだと考えられる。各家にはそうした専門分野があり、それぞれの立場で全力を尽くし協力し合うことで、天皇家を支えてきたのだ。旧事本紀の完成後、それぞれの家の秘伝書ぱ戻されている。天皇家は六家から秘伝書を借り受けただけで、取り上げたわけではない。それら各家の秘伝書がその後どのような運命を辿ったのかは、わかっていない。こうした各家の秘伝書がいわゆる古史古伝の原典となっている可能性がある。

 日本の最初の歴史書は推古天皇28年に聖德太子(574-622)と蘇我馬子(551-626)が編纂した「天皇記」(すめらみことのふみ)と「國記」(くにつふみ)、「臣連伴造國造百八十部幷公民等本記」(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももやそとものをあわせておおみたからどものもとつふみ)である。古事記(712年)と日本書紀(720年)の原本となった「帝紀」と「舊辭」は皇極天皇四年(645年)に蘇我蝦夷(えみし 585-645)が焼失したので、日本書紀の内容を検証する先行文献がない。

【旧事本紀】
 旧事本紀につき「別章【先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)考】」に記す。





(私論.私見)