備中神楽

 更新日/2018(平成30).10.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 さて、いよいよ備中神楽の考察に入ることになった。まず、備中神楽なるものの概要を確認しておく。情報収集としてネット検索による各サイト、書籍からは神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)、藤原昌孝「神楽一代記」(備中神楽保存振興会、1997.5.30日初版)、「備中神楽のあれこれ」(「岡山の自然と文化」第27号)、逸見芳春氏の「神楽絵巻」(備北民報社、2000.10.10日初版)、神崎宣武氏編の「備中神楽の研究」(美星町教育委員会、1984.3.12日初版)等々を参照した。何せ急遽思いついたので、不備な点については今後書き直していくことにする。「備中神楽」その他参照。

 2008.8.6日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評445 れんだいこ 2008/08/06
 【備中神楽考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 さて、いよいよ備中神楽の考察に入ることになった。まず、備中神楽なるものの概要を確認しておく。情報収集としてネット検索による各サイト、書籍からは神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)、藤原昌孝「神楽一代記」(備中神楽保存振興会、1997.5.30日初版)、「備中神楽のあれこれ」(「岡山の自然と文化」第27号)、逸見芳春氏の「神楽絵巻」(備北民報社、2000.10.10日初版)等々を参照した。何せ急遽思いついたので、不備な点については今後書き直していくことにする。
 【備中神楽考その1、特徴】

 備中神楽の発祥経緯と時期の正確な確定は不明であるが、出雲暦で神々が留守になる10月(神無月)、荒神の魂を鎮めるために始まった荒神神楽が起源とされている。故に荒神神楽、神代(殿)神楽とも呼ばれる。「出雲暦で神々が留守になる10月(神無月)」に行われるということ自体が、「出雲王朝と関わりの深い神楽」であることを示している。これが備中神楽の政治的本質を規定する。そうであるが故に、実際には政治性を薄めるための様々な工夫を凝らし、傍目には単なる伝統神楽の一つとして演出していくことになる。ここに備中神楽の特異性が認められるように思われる。

 荒神神楽の「荒神」とは、一般的には火の神、竈神とされる。「鎮魂」は古神道以来の行法である。古神道では、森羅万象を司るものとしての諸神を崇め、森羅万象に神の分霊としての生命を認め、祖霊を崇祖し、産土(うぶすな)神を尊崇する。農業の場合には農作の豊穣祈願と感謝、漁業の場合には操業の安全と大漁を祈念する。神の氏子たる諸人の寿命の長久を祈願する。神がかりになって、分身である人間の体内へ神を呼び戻すことによって願いを達する。これを執り行うのが荒神神楽であり、元々神事色の濃いものである。これを能く為すのが古神道経由の出雲神道であり、即ち出雲王朝と関わりが深い。

 逸見芳春氏の「神楽絵巻」(備北民報社、2002.10.10日初版)は次のように記している。
 「荒神は、土及び火の神のことで、大地の恵みを与えてくれる神でもあり、災害をもたらす神でもある。農民達の切実な祈りとして、この荒神を鎮める祭りが荒神神楽として伝わった」。
 「農村の素朴な信仰心から、五穀豊穣と家内安全を願うための神祭りが、神楽の始まりであった」。

 備中神楽を普通に規定すれば、そういうことになるのであろう。れんだいこは、単にそれだけではないと思う。「神楽絵巻」的規定+アルファーとして、古代史上の出雲王朝史の伝承、出雲王朝時代の政治、信仰、精神、文化、その他伝統の子々孫々への伝承と云う意義を担っていると拝察する。

 備中神楽の元々は、清めの儀式から始め、悪霊払いの先舞(猿田彦の舞い)、五行・悪霊払いの後舞(剣舞い)が基本となっていた。これを近在の神職のみが行っていた。毎年演ずるのが宮神楽、7年目、13年目などの式年祭に演ずるのを荒神神楽と云う。宮神楽は宮内で行い、荒神神楽は野外に神殿(こうどの)を作る。或いは氏子の民家を利用する。これを内容で見れば、神事神楽と荒神神楽から成り、これに他の要素が組み合わされている。

 四囲に注連縄を巡らし、神殿(こうどの)を作り、呉蓙(ござ)を敷く。この二つが神楽場で最も神聖なものである。神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)は次のように記している。
  「神殿の四隅の柱には榊や竹をくくりつけ、柱と柱をつなぐ横木には巻き藁をして、日本六十余州の国津神を表わす六十数本の御幣を取り付け、ぐるりに注連縄を廻らせる」。

 「日本六十余州の国津神を表わす」とは、国津神系の出雲王朝の勢威が、外航族来襲前に日本六十余州の連合国家から成り立っていたことを暗喩していると思われる。果たして、これが案外史実に近いのではなかろうか。

 神楽場では斎灯が焚かれる。神殿の中央に四人の神楽太夫が着座し、真ん中に太鼓を置き、表(主)太鼓打ちと裏(副)太子鼓打ちが坐る。両側に笛と手拍子が座す。氏子が集まり観客となる。表太鼓の打ち合わせに合わせて裏太鼓が応じ、笛と手拍子が囃子を受け持つ。こうして備中神楽が始まる。

 演目として、白蓋(びっかい)行事による荒神歓請から綱舞による結願のお託宣まで、数々の神事と神事舞、神能を行なってきた。これを全部演ずると十数時間かかる。観衆を興奮と感動の渦に巻き込みながら、夜が明け、中入れと云われる休憩を挟みながら翌朝の8時、9時頃まで延々と行われる。祭りの後、お神酒を戴き、「ご馳走お呼ばれ」があり歓談する。これを「直会(なおらい)」と云う。神人和楽、神人共食となる。出雲神道の極意を地で行くとも云うべき備中神楽は民俗芸能として育てられつつ、秋祭りや正月などに欠くことができない郷土芸能として本場の「出雲神楽」を凌ぐ勢いで成長して行った。

 備中神楽は、大幕、小幕、言い立て、名乗り、歌ぐら、囃子と続いて本番に入る。この式次第を持つのは備中神楽だけであり、神楽を本格的にさせており質の高さを見せている。備中神楽の魅力に取り憑かれた者は、「飽きることがねえですなぁ」、「わしらには備中神楽しか合わん。他の神楽を観てもぴったりこんが」と云う。

 備中神楽の筋立てストーリーと舞、拍子道具立て(太鼓、笛、扇子、御幣、鈴、手拍子)、神歌、囃子は日本芸能の祖とも云うべき原形を見せている。ストーリーは芝居、講談、浪曲に繫がり、舞は能、歌舞伎、舞踊に繫がり、道具立ては阿波踊りその他の祭りのそれに繫がり、神歌、囃子は民謡へと繋がっているように見える。日本芸能の殆ど全てが神楽に胚胎しており、してみれば、神楽の果たしている役割には絶大なものがあると云うべきではなかろうか。

 道具立てのそれぞれが神楽に合わせて拍子を執るもので熟練を要する。太鼓の叩き方には8種類あり、神学太鼓、曲舞太鼓、シメ太鼓、釣り太鼓、鎧下太鼓、トーロ太鼓、試合太鼓、ミドリ(準備)太鼓からなる。太鼓の打ち方を変えることで神々の性格や局面が表わされる。そういう意味で太鼓の良し悪しで舞が左右される。囃子も神格により変わる。

 剣はその昔は真剣であったが、戦後のGHQ統制時に「神剣を持ってやるのは相成らん」とされ、以来模造刀に切り替えられている。今日に伝わる備中神楽は、道中で時代に合わせて手直しされている。誰が脚本しているのかは分からない。その手直しが改訂か改悪かの評価が分かれるところであろう。
 【備中神楽考その2、発祥】

 備中神楽の発祥の地は成羽町と云われ、現在の岡山県西部に当たる旧川上、小田、井原、後月、高梁、上房、阿哲、総社を中心とする備中一円で伝統的に継承されてきた。次第に興行芸能的神楽色を深めて今日へ至っている。なぜ成羽に発祥し、備中一円で保存されてきたのかは分からない。古より次のように云われている。「備前へ行けば筆持つな。美作へ行けば棒持つな。備中へ行けば神楽声するな」。
 (備前の筆は和気閑谷学校の土地柄、美作の棒は宮本武蔵の土地柄、備中は神楽の本場という土地柄を意味している。上手いことを云うものではある)

 その備中神楽を今日的体裁に整えたのが西林国橋(こっきょう)である。西林は、1764(明和元)年、高梁市福地に生まれ、青年期に京都へ出て国学を学び、帰国して神官を務めつつ国学者としても知られた。江戸時代の文化文政の頃、京、上方で諸芸(能、狂言、歌舞伎、浄瑠璃、落語、曲芸など)が盛んなのを見聞きして、記紀はもとより古代文献を渉猟してそれらを参考に、日本神話の中から「天の岩戸開き」、「大国主命の国譲り」、「素戔鳴命の大蛇退治」の三編を選び劇化した。これを「神代神楽三曲」と云う。前段に榊舞、導き、猿田彦の舞を加え、全体に古今和歌集を中心にいくつかの和歌を引用する等、バラエティーに富んだ芸能性の高い民族芸能に仕上げた。

 備中神楽では全体に、神事、神事舞、歌舞舞、演劇舞、教化問答の五段階の形を厳守し、神事は、巫女舞系の清めの舞と出雲神話に基づく神能が整然一体となり進められている。荒神神楽は史実を踏まえながら、これを神楽一切で表現すると云う濃密な工夫が為されている。古い信仰の精神を受け継ぎながら、その時代時代の人々に受け入れられる魅力を引き出す高い芸能性が要請されている。

 国橋の神代神楽登場と共に、それまで神官が演じていた神楽は、神楽を舞う玄人衆「神楽太夫」を生み、太夫は熟練の芸を競うようになった。「神楽太夫」には年季の功が必要で、かっては厳しい師弟制度があった。次のように云われる。「桃栗3年、柿8年、梅はすいすい13年、柚子の大馬鹿18年、神楽太夫は40年」。

 備中神楽はこれにより神事色の強い社家神楽と芸能色の強い歌舞神楽の二系統を持つ。今日では、その両方を神楽太夫が演じる場合が多い。一社中の正太夫は6名ないし7名で構成される。1979.2.24日、国の重要無形民俗文化財に指定された。
 【備中神楽考その3、演目】

 備中神楽の演目は次の順序で進む。社中によって多少の差がある。れんだいこは観ていないので後日確認することにする。

 1・湯祓い神事、2・役指し舞、3・呉座舞、4・土公舞、5・榊舞叉はたくさ舞、6・猿田彦の導き舞(曲舞)、7・猿田彦の命舞。ここまでを「七座神事」と云う。この後が「神代神楽」となる。

 8・神々降臨舞、9・白蓋行事、10、神殿神事、11・天の岩戸開き譚能(西林神能その1)、12・こけら払い。

 これより13・長編「国譲り譚能」(西林神能その2)に入る。「国譲り譚」は、両神の舞、大国主の舞、国譲り掛け合い、稲背脛命の舞、国譲り仲裁、事代主の舞、大国主と事代主の親子勘評、国譲り再掛け合い、建御名方命の舞、合戦、祝い込みと続いて完結する。

 ここで中入れ。14、五行幡割り、15・吉備津、16・玉藻の前。これより17・長編「スサノウ譚」(別名、八岐大蛇&お田植え、八重垣の能)(西林神能その3)に入る。「スサノウ譚」は、須佐之男命の舞、両翁媼嘆きの舞、翁と素戔鳴命の語り、奇稲田姫、松尾明神、酒造り、大蛇の酒呑み、大蛇退治、祝い込みと続いて完結する。

 ここで一時休憩。続いて、朝舞と呼ばれる。18・「蛇神楽」がある。19・剣舞、20・布舞、21・綱入れ、22・綱舞、託宣、23・石割り神事と続いて24・神送り神事で完演する。以上が備中神楽の流れである。

 2008.8.6日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評441 れんだいこ 2008/08/03
 【国譲り譚考はじめに】

 役行者論の際、革めて古代史上に於ける高天原(来航)王朝派と出雲王朝派の抗争軸に行き当たった。かの時代、当然壬申の乱も含めて、両王朝が暗闘していた。これを、役行者論の中で採り上げるのは難しかったが、れんだいこの興味は勝手に動き、日本古代史上の最大政変にして両王朝抗争の元始まりである高天原(来航)王朝派と出雲王朝派の国譲りに関心が向かった。

 この史実確認なくば日本古代史の秘密の扉が開かない。この扉を開けないままの古代史論はまことに味気ない通り一遍なものにしかならない。そういう訳で、国譲り譚解明に向かおうと思った。記紀神話、その他史書により文字的解明はできる。しかし、単に字面を追うだけでは真相に迫れない。編者の筆法を探り、眼光紙背に徹して読み取らねばならない。

 そうした折、れんだいこは備中神楽に行き当たった。れんだいこはまだ目にしたことはないが、驚くことに、備中神楽で演ぜられる国譲りこそが史実を最も忠実に保存伝承している気配がある。もとより現在のそれは現代的バージョン化されており、或る意味では古代史実を茶化しているので、今我々が目にする備中神楽が如何ほど国譲りを正確に伝えているかの検証はと云うと別問題になる。しかしながら、骨格は変えられていまい。これにより、万巻の書よりよほど史実性が高い国譲りの経緯を伝承していると云うべきではなかろうか。そこで、備中神楽とは何ものか、以下これを検証する。とはいえ、今着手したばかりなのでどんどん書き換えていくことにする。良い情報があればご提供頼む。

 蛇足ながら、れんだいこが国譲りに注目する理由は、今に濃厚な日本政治の特質がこの時に作られ、以来、型となったのではないかと思うからである。邪馬台国論も然りで、卑弥呼女王型政治ももう一つの型である。これらを知ることにより、はるけく現代政治をも照射したい為である。

 2008.8.3日 れんだいこ


【備中神楽考その1、特徴】
 「備中神楽」には、毎年、氏神の例大祭に奉納される「宮神楽」と、一般には7年目、13年目ごとのなどの産土荒神(うぶすなこうじんの式年祭で奉納される「荒神神楽」(式年神楽)とがある。宮神楽は宮内で行い、荒神神楽は野外に神殿(こうどの)を作る。或いは氏子の民家を利用する。これを内容で見れば、神事色の強い「神事神楽」(「社家神楽」)と演劇的で芸能色の強い「神代神楽」(「神能(しんのう)神楽」、「歌舞神楽」とも云う)から成り、これに他の要素が組み合わされている。その両方を神楽太夫が演じる場合が多い。一社中の正太夫は6名ないし7名で構成される。 

 「宮神楽」は、神楽を始めるに当たっての清めの舞である「榊舞」と江戸中期に国学者の西林国橋(1764年~1828年)が神話に題材を求め編成した「神代神楽」を中心に演じられる。「神代神楽」とは、神話の世界を描いた「天の岩戸開き」、「国譲り」、「大蛇退治」など芸能色が強い、仮面を多用した神楽である。

 「荒神神楽」は、「宮神楽」の演目に加えて神事色の濃い素面で舞う「神事神楽」が演じられる。「神事神楽」とは、もともと、平均すると20~30戸で組織される集落単位でまつっている荒神を招魂や鎮魂し、五穀豊穣を祈るために行われていたもので派手さはない。「荒神」とは、一般的には火の神、
竈(かまど)の神とされているが、備中地区では地神の親神的な神格を持ち、産土荒神とか臍緒臍緒(へそのお)荒神と呼ばれている。産土神(荒神)の信仰がこれほど濃厚に伝わるところは全国でも稀である。  

 四囲に注連縄を巡らし、神殿(こうどの)を作り、呉蓙(ござ)を敷く。この二つが神楽場で最も神聖なものである。神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)は次のように記している。
 「神殿の四隅の柱には榊や竹をくくりつけ、柱と柱をつなぐ横木には巻き藁をして、日本六十余州の国津神を表わす六十数本の御幣を取り付け、ぐるりに注連縄を廻らせる」。

 「日本六十余州の国津神を表わす」とは、国津神系の出雲王朝の勢威が、外航族の来襲前に日本六十余州の連合国家から成り立っていたことを暗喩していると思われる。果たして、これが案外史実に近いのではなかろうか。

 神楽場では、斎灯が焚かれる。神殿の中央に四人の神楽太夫が着座し、真ん中に太鼓を置き、表(主)太鼓打ちと裏(副)太子鼓打ちが坐る。両側に笛と手拍子が座す。氏子が集まり観客となる。表太鼓の打ち合わせに合わせて裏太鼓が応じ、笛と手拍子が囃子を受け持つ。こうして備中神楽が始まる。
 備中神楽の発祥経緯と時期の正確な確定は不明であるが、出雲暦で神々が留守になる10月(神無月)、荒神の魂を鎮めるために始まった荒神神楽が起源とされている。故に荒神神楽、神代(殿)神楽とも呼ばれる。 

 「出雲暦で神々が留守になる10月(神無月)」に行われるということ自体が、「出雲王朝と関わりの深い神楽」であることを示している。これが備中神楽の政治的本質を規定する。そうであるが故に、実際には政治性を薄めるための様々な工夫を凝らし、傍目には単なる伝統神楽の一つとして演出していくことになる。ここに備中神楽の特異性が認められるように思われる。

 荒神神楽の「荒神」とは、一般的には火の神、竈神とされる。 「鎮魂」は古神道以来の行法である。森羅万象を司るものとして神を崇め、森羅万象に神の分霊としての生命を認め、祖霊を崇祖し、農業の場合には農作の豊穣祈願と感謝、漁業の場合には操業の安全と大漁を祈念し、神の氏子たる人々の寿命の長久を祈願する。神がかりになって、分身である人間の体内へ神を呼び戻すことによって願いを達する。これを執り行うのが荒神神楽であり、元々神事色の濃いものである。これを能く為すのが出雲神道であり、即ち出雲王朝と関わりの深い神楽である事が分かる。

 逸見芳春氏の「神楽絵巻」(備北民報社、2002.10.10日初版)は次のように記している。
 「荒神は、土及び火の神のことで、大地の恵みを与えてくれる神でもあり、災害をもたらす神でもある。農民達の切実な祈りとして、この荒神を鎮める祭りが荒神神楽として伝わった」。
 「農村の素朴な信仰心から、五穀豊穣と家内安全を願うための神祭りが、神楽の始まりであった」。

 備中神楽を普通に規定すれば、そういうことになるのであろう。れんだいこは、単にそれだけではないと思う。「神楽絵巻」的規定+アルファーとして、古代史上の出雲王朝史の伝承、出雲王朝時代の政治、信仰、精神、文化、その他伝統の子々孫々への伝承と云う意義を担っていると拝察する。

 備中神楽の元々は、清めの儀式から始め、悪霊払いの先舞(猿田彦の舞い)、五行・悪霊払いの後舞(剣舞い)が荒神神楽の基本となっていた。これを近在の神職のみが行っていた。
演目として、白蓋(びっかい)行事による荒神歓請から綱舞による結願のお託宣まで、数々の神事と神事舞、神能を行なってきた。これを全部演ずると十数時間かかる。観衆を興奮と感動の渦に巻き込みながら、夜が明け、中入れと云われる休憩を挟みながら翌朝の8時、9時頃まで延々と行われる。祭りの後、お神酒を戴き、「ご馳走お呼ばれ」があり歓談する。これを「直会(なおらい)」と云う。神人和楽、神人共食となる。出雲神道の極意を地で行くとも云うべき備中神楽は民俗芸能として育てられつつ、秋祭りや正月などに欠くことができない郷土芸能として本場の「出雲神楽」を凌ぐ勢いで成長して行った。

 備中神楽は、大幕、小幕、言い立て、名乗り、歌ぐら。囃子と続いて本番に入る。この式次第を持つのは備中神楽だけであり、神楽を本格的にさせており質の高さを見せている。備中神楽の魅力に取り憑かれた者は、「飽きることがねえですなぁ」、「わしらには備中神楽しか合わん。他の神楽を観てもぴったりこんが」と云う。

 備中神楽の筋立てストーリーと舞、拍子道具立て(太鼓、笛、扇子、御幣、鈴、手拍子)、神歌、囃子は日本芸能の祖とも云うべき原形を見せている。ストーリーは芝居、講談、浪曲に繫がり、舞は能、歌舞伎、舞踊に繫がり、道具立ては阿波踊りその他の祭りのそれに繫がり、神歌、囃子は民謡へと繋がっているように見える。日本芸能の殆ど全てが神楽に胚胎しており、してみれば、神楽の果たしている役割には絶大なものがあると云うべきではなかろうか。

 道具立てのそれぞれが神楽に合わせて拍子を執るもので熟練を要する。太鼓の叩き方には8種類あり、神学太鼓、曲舞太鼓、シメ太鼓、釣り太鼓、鎧下太鼓、トーロ太鼓、試合太鼓、ミドリ(準備)太鼓からなる。太鼓の打ち方を変える事で、神々の性格や局面が表わされる。そういう意味で太鼓の良し悪しで舞が左右される。囃子も神格により変わる。

 剣はその昔は真剣であったが、戦後のGHQ統制時に「神剣を持ってやるのは相成らん」とされ、以来模造刀に切り替えられている。今日に伝わる備中神楽は、道中で時代に合わせて手直しされている。誰が脚本しているのかは分からない。その手直しが改訂か改悪かの評価が分かれるところであろう。

【備中神楽考その2、発祥】
 備中神楽の発祥の地は成羽町と云われ、現在の岡山県西部に当たる旧川上、小田、井原、後月、高梁、上房、阿哲、総社を中心とする備中一円で伝統的に継承されてきた。次第に興行芸能的神楽色を深めて今日へ至っている。なぜ成羽に発祥し、備中一円で保存されてきたのかは分からない。古より次のように云われている。
 「備前へ行けば筆持つな。美作へ行けば棒持つな。備中へ行けば神楽声するな」。
 (備前の筆は和気閑谷学校の土地柄、美作の棒は宮本武蔵の土地柄、備中は神楽の本場という土地柄を意味している。上手いことを云うものではある)

 その備中神楽を今日的体裁に整えたのが西林国橋(こっきょう)である。西林は、1764(明和元)年、高梁市福地に生まれ、青年期に京都へ出て国学を学び、帰国して神官を務めつつ国学者としても知られた。江戸時代の文化文政の頃、京、上方で諸芸(能、狂言、歌舞伎、浄瑠璃、落語、曲芸など)が盛んなのを見聞きして、記紀はもとより古代文献を渉猟してそれらを参考に、日本神話の中から「天の岩戸開き」、「大国主命の国譲り」、「素戔鳴命の大蛇退治」の三編を選び劇化した。これを「神代神楽三曲」と云う。前段に榊舞、導き、猿田彦の舞を加え、全体に古今和歌集を中心にいくつかの和歌を引用する等、バラエティーに富んだ芸能性の高い民族芸能に仕上げた。

 備中神楽では全体に、神事、神事舞、歌舞舞、演劇舞、教化問答の五段階の形を厳守し、神事は、巫女舞系の清めの舞と出雲神話に基づく神能が整然一体となり進められている。荒神神楽は史実を踏まえながら、これを神楽一切で表現すると云う濃密な工夫が為されている。古い信仰の精神を受け継ぎながら、その時代時代の人々に受け入れられる魅力を引き出す高い芸能性が要請されている。

 国橋の神代神楽登場と共に、それまで神官が演じていた神楽は、神楽を舞う玄人衆「神楽太夫」を生み、太夫は熟練の芸を競うようになった。「神楽太夫」には年季の功が必要で、かっては厳しい師弟制度があった。次のように云われる。
 「桃栗3年、柿8年、梅はすいすい13年、柚子の大馬鹿18年、神楽太夫は40年」。

 1979(昭和54).2.24日、「宮神楽」・「荒神神楽」を合わせた備中神楽が国の重要無形民俗文化財に指定された。「備中神楽」には「吉備津」という他の神楽にはない演目(神能)があることでも注目されている。

【備中神楽考その3、演目】
 備中神楽の演目は次の順序で進む。社中によって多少の差がある。れんだいこは観ていないので後日確認する事にする。

 1・湯祓い神事、2・役指し舞、3・呉座舞、4・土公舞、5・榊舞叉はたくさ舞、6・猿田彦の導き舞(曲舞)、7・猿田彦の命舞。ここまでを「七座神事」と云う。この後が「神代神楽」となる。8・神々降臨舞、9・白蓋行事、10、神殿神事、11・天の岩戸開き譚能(西林神能その1)、12・こけら払い。

 これより13・長編「国譲り譚能」(西林神能その2)に入る。「国譲り譚」は、両神の舞、大国主の舞、国譲り掛け合い、稲背脛命の舞、国譲り仲裁、事代主の舞、大国主と事代主の親子勘評、国譲り再掛け合い、建御名方命の舞、合戦、祝い込みと続いて完結する。

 ここで一時休憩。14、五行幡割り、15・吉備津、16・玉藻の前。これより17・長編「スサノウ譚」(別名、八岐大蛇&お田植え、八重垣の能)(西林神能その3)に入る。「スサノウ譚」は、須佐之男命の舞、両翁媼嘆きの舞、翁と素戔鳴命の語り、奇稲田姫、松尾明神、酒造り、大蛇の酒呑み、大蛇退治、祝い込みと続いて完結する。

 ここで一時休憩。続いて、朝舞と呼ばれる。18・「蛇神楽」がある。19・剣舞、20・布舞、21・綱入れ、22・綱舞、託宣、23・石割り神事と続いて24・神送り神事で完演する。以上が備中神楽の流れである。  

【備中神楽考その4、各演目の概要】
 その逐一の概略を解説する。
 「七座神事」
 1・湯祓い神事
 佐陀(出雲流)神楽で行われているものと同じと思われる。これを「修祓」(しゅうばつ)とする場合もある。「修祓」は、神主が祓いの詞を奏上した後、大麻(祓い幣)で清める清めの儀式神事である。
 2・役指し舞
 祭主が、祭典や神楽その他の一切の役割を申し渡す。現在は、配役を書いた紙を幣串に挟んで舞う。「差紙」、「役割り」とも云う。本来は祭主が舞ったものであるが、現在は神楽太夫が担当する。
 3・呉座舞(略)
 4・土公舞
 当屋の台所、つまり竃(かまど)を清める舞で、昔は必ず行われていた。
 5・榊舞
 神楽の初めに当たって榊の霊力を称えながら舞う神事神楽としての巫舞(かんなぎ舞)で、普通の神主の服装をして舞う古風な一人舞である。口に榊の葉をはさんで舞うところに厳粛さが感じられる。榊を持って舞う太夫と大鼓を打つ太夫との掛け合いで、神歌を歌いながら舞う。「たくさ舞」は、二人の太夫が対蹠的に舞う優雅な舞で、鈴と榊を持って舞う。最後に、榊の葉を口にくわえた舞い手や祭員が「無上霊法神道加持」と呪文を唱え、それをちぎって禊祓いとする。
 6・導き舞(曲舞)
 これが神楽舞の基本で、荘厳な命舞、流麗な姫舞、勇壮な荒舞などの原舞になる。舞の前に、座長が畳の上を行きつ戻りつしながら猿田彦の概略を前口上する。全詞を淀みなくリズムに乗って述べるのも芸の一つである。
 7・猿田彦の命舞
 別稿「猿田彦の命舞」で確認する。
 「神代神楽」
 8・神々降臨舞(略)。
 9・白蓋(はくがい)行事
 、白い「天蓋(てんがい)」を綱によって上下、左右、四方八方に千振り揺らし、狂喜乱舞の様相を示し、荒神を始め八百万の神々を勧請し鎮座を願う。荒神式年祭の重要行事である。
 10、神殿神事(略)。
 11・天の岩戸開きの能(西林神能その1)
 西林が創作した部分で、高天原王朝神話の代表的な「天の岩戸譚」を演ずる。天照大御神が弟神のスサノウの命の悪行に怒り、天の岩戸に閉じこもる。これが為、高天原は暗闇になる。慌てた諸神が相談し、天照大御神の機嫌を取り持つために諸神が天の安河原に集まって一計を案じる。協議の結果、天ウズメの命が半裸乱舞し、その滑稽さに諸神が狂喜するところ、これを訝った天照大御神が何事ならんと岩戸を開けて様子見したとろを、手力男の命が引き開け、元の明るさが取り戻せたの故事による。これが神楽の起源とされており、備中神楽はこの系譜を採り入れている。

 天児屋根(あめのこやね)の命と天太玉(あめのふとだま)の命の両神の舞、思兼(おもいがね)の命の舞、天*女(あめのうずめ)の命舞、手力男(たぢからお)の命の舞、天照大御神の出御と続く。

 こうして始まる備中神楽の圧巻は、13・国譲りの舞(神能)(西林神能その2)で、備中神楽の真面目は国譲り神楽にこそ認められると云うべきだろう。仮に備中神楽全体をらっきょうに例えれば、その皮をめくって行くほどに最後に辿り着くのが「大国主命の国譲り神楽」である。その意味では、神代神楽三曲のうちの「天の岩戸開き」は高天原王朝神楽であり付け足しでしかなかろう。「素戔鳴命の大蛇退治」は出雲神話に関するものであるが、「大国主命の国譲り」ほどには伝承価値は高くないと見る。
 12・こけら払い(略)。12・こけら払い。
 13・国譲り神楽
 別稿「国譲り神楽」(西林神能その2)で確認する。

 14・「五行(ごぎょう)の能神楽
 荒神の由来や自然の摂理などの問答をする。五行幡割りとも云う。神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)は次のように記している。

 「五行幡割りは、五行思想に則った教化神楽とでもいうべきもので、季節の循環と暦の構成、天地万物の成り立ちを問答形式で説くのが原型である。西林国橋が神代神楽を編する以前からの荒神神楽の中心となっていたもので、往時は、近在の神主達が一堂に会してあらん限りの知識を駆使して問答、論争した、と云う。現在は、神楽社中が演じる」。

 国生みの主、盤古大王(ばんこだいおう)が五人の王子に、それぞれ春・夏・秋・冬・土用(どよう)の五季節と方位を分け与える。神代神楽の三大能が創られる以前の備中神楽の主要部分は「幡分(はたわ)け」とよばれる荒神神楽であった。中国の五行(ごぎょう)思想をもとにした天地万物創生の物語である。五行とは、木・火・土・金・水が万物の根源だとする思想で、その象徴として、五色の幡(はた)をもって表す。

 国生みの主、盤古大王(ばんこだいおう)が五人の王子に、それぞれ春・夏・秋・冬・土用(どよう)の五季節と方位を分け与える。
 春は、東方、青色、木、太郎の王子。
 夏は、南方、赤色、火、次郎の王子。
 秋は、西方、白色、金、三郎の王子。
 冬は、北方、黒色、水、四郎の王子。

 ところが、末子の五郎の王子の取り分をめぐって兄弟同士相争い、乱闘に及ぼうとしたとき、堅牢地神(けんろうちしん)が現れ、五郎の王子に四つの土用(どよう)、則ち、春十八日、夏十八日、秋十八日、冬十八日を分け与える調停をし、他の四王子も納得する。五郎の王子は土用、中央、黄色、土を取り、天地は収まるが、兄弟五人の争いが激しいほど荒神様のご機嫌がいい、と言われている。これが幡分けという神事である。 
 14、土用
 五色の幡は別名「切り千幡(せんばた)」と呼ばれ、縦長の切り抜きのある色幡である。盤古大王はまず四人の王子に四色の幡を分け与える。五郎の王子は分配後に出てきて分け前を主張するので、備中地方では、理屈をこねて権利を主張する者を「五郎の王子のようだ」と言う。この幡は、神楽の後、それぞれ氏子に分けられ、各家の神棚に供える。特に五郎の王子の黄色幡は台所、則ち「土公神(どくうじん)」に供えられる。また、五郎の王子の取り分である「土用(どよう)」は一年に四回あるが、現代では夏の土用の十八日だけが慣習として残り、暑さの代名詞となっている。「土用波」とか「土用の丑(うし)の日にウナギを食べる」とか、「土用が明ければ秋が来る(立秋)」と言われるようになった。「土用」の「土」は言うまでもなく五行思想の「土」を示す。
 15・吉備津の舞
 吉
吉備津彦命きびつひこのみこと温羅うらを退治する備津神社の縁起を劇物語にした神能で、「一宮能」または」一品能」とも云われている。備中神楽でしか見ることができない。四道将軍として吉備の国を治めた吉備津彦の命が備中国の岩山明神に依頼され、その使内宮姫より弓矢を渡され、新山にたてこもって邪道を働く温羅(鬼)を退治する物語である。なかでも血吸川をはさんでの「矢喰いの合戦」は白木綿一反を川にかたちどり演ずるもので壮観ある。温羅太鼓は、和太鼓、笛などを使って独自に作ったリズムと振りにより、 各種行事や催し物などで吉備路の郷土芸能として活躍している。吉備津彦の命舞、吉備津彦の命と温羅の戦い、温羅の降参、吉備津彦の命舞と続く。
 16・玉藻の前(略)。
 17・長編「スサノウ譚」(別名、八岐大蛇、八重垣の能)(西林神能その3)
 「スサノウの命神楽」で確認する。 
 ここで一時休憩。これ以降は朝舞と呼ばれる。 

 18・「蛇神楽」。
 夜が白む明け方に「蛇神楽」がある。荒神(こうじん)の使いと言われる蛇を媒介にして荒神の宣託(せんたく)を受ける神事が「蛇神楽(へびかぐら)」である。剣を取られた大蛇(おろち)の霊魂が、鬼となって、再び素戔鳴命(すさなおのみこと)に挑戦するのが、鬼(霊魂)退治である。これは、国譲りの能に登場する建御名方(黒鬼)との戦いと、ほぼ同じような大立ち回りが演じられる。

 蛇は新しい藁で、大勢の氏子が寄り集まって作る。藁の茎は胴からはみ出していて、鱗となる。蛇神楽は所によっては七年に一度行われる。その時は「大神楽」とも言う。蛇がなぜ荒神の使いなのかは、よく分からないが、蛇神楽の起源は江戸時代の宝暦年間と伝えられる。


 まず、当番組によって作られた蛇が庭先から神殿(こうどの)に入るとき、押し問答のやりとりがあり、ようやく神殿(八畳の間)に入った蛇は神殿の柱にくくりつけられる。やがて、太夫が二人、刀を持って蛇の鱗(うろこ)を打つ舞をする。これが「鱗打ちの舞」である。蛇に御神酒を呑ませる行事をすませ、川石を白紙に包み、二人の太夫が蛇をはさんで回り合いながら、カチカチと石を打ち合わせると、荒神の降臨(こうりん)が近くなる。

 次に、松明(たいまつ)に火をつけ、蛇を回りながら火を打ち合う。荒神は火の神様だから、火の打ち合いによって、いよいよ降臨となる。神憑(かみがか)りになる太夫は、白い布を振り回し、「ごうや、ごうや」と叫びながら、荒神の神霊を受けて、神官に導かれ、神の座に直る。神憑りになった太夫は、神官の問いに答えて、この年の吉凶を告げる。神殿にひれ伏した氏子たちは、恐れ戦(おのの)きながら、荒神の宣託を承る。これが「蛇神楽」のあらましである。このあと、氏子たちにかつがれた藁蛇は、田んぼや畑を踏み荒らし、その地区の荒神社に運ばれて収まる。

 19・剣舞(略)

 再度、悪霊払いである「剣舞」を舞う。
 20・布舞、21・綱入れ、22・綱舞、託宣神事(神懸った舞手が、吉凶月や五穀の豊凶、氏子の禍福などについての託宣をくだす)、23・石割り神事(開墾にちなんだであろう神事)、24・神送り神事で完演する。産子の繁栄の祈願や個人の祈願を受けての「願神楽」などが加わる。以上が備中神楽の流れである。夜を徹して行われる。

 一夜の神楽は幕を降ろす。飲み、喰い、騒いだ当屋は、片付けが済むと、元の静かな平常生活に戻る。太夫も故郷に帰って生業に就き、春を迎える。柿が熟する秋どこかでまた神楽が行われる。

【2018大元八幡神社の「神々の舞」】
 「2018神々の舞」備中神楽の季節到来 高梁などの神社で勇壮に演じ魅了」。

 太刀を手に「猿田彦命の舞」を奉納する太夫=大元八幡神社
 岡山県西部の国重要無形民俗文化財・備中神楽の季節が到来した。各地の神社では秋祭りの夜、神楽太夫たちが古式ゆかしい神々の舞を披露している。備中神楽発祥の地・高梁市成羽町地区の大元八幡神社でも20日、演舞が披露され、地元住民や県内外のファンを魅了した。

 同神社では宵の口の午後7時から、境内に組まれた神殿(こうどの)で備中成羽社(大塚芳伸代表)が舞を奉納。「猿田彦命(さるたひこのみこと)の舞」では、面や太刀、扇を身に着けた太夫2人がテンポの速い太鼓の拍子に合わせ、白髪を振り乱して勇壮に舞った。

 神殿を囲む観客は、間近で繰り広げられる迫力の演舞に見入り、所作が決まるたびに拍手を送った。熱演は、素戔嗚命(すさのおのみこと)が酒に酔った大蛇(おろち)の首を切り落とす「大蛇退治」まで4時間以上続いた。初めて訪れたという自営業の男性(68)=岡山市=は「趣ある雰囲気の中、躍動感あふれる舞に圧倒された。ストーリー性もあって奥深い。長年培われた伝統を感じる」と見入っていた。

 備中神楽は江戸時代の国学者・西林国橋(高梁市出身)が「古事記」などの神話を基に礎を築いた。シーズンは11月下旬まで続く。(2018年10月20日 23時07分 更新)




(私論.私見)