猿田彦の命舞 |
(最新見直し2008.8.7日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
備中神楽のメインは国譲り譚であるが、猿田彦の命が格別に位置づけられ盛られている気配がある。猿田彦の命とは何者か、備中神楽は何ゆえ重視しているのか、これを愚考する。 2008.8.7日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評448 | れんだいこ | 2008/08/07 | |||||||||
【猿田彦の命舞】 「猿田彦の命舞」は、悪霊払いである先祓いで力強く勇壮なもので、猿田彦の命の由来を説明する「導き舞」と「猿田彦の命舞」からなる。「導き舞」は、以後の神楽舞の基本となる曲舞で舞う。素面、羽織、袴、御幣、扇子の一人舞いである。舞手は、大幕の脇から神殿に出て、扇子を広げ、御幣を振って一拝の後、次の歌ぐらを詠じる。
この後、猿田彦の命の縁起を語る。 「猿田彦の命舞」は、出雲神楽考で確認したように出雲神楽の本家本元となる佐陀神楽を発祥させた佐太(陀)大社の祭神・猿田彦の命を敢えて登場させる舞である。その舞には日本古来の武術の原型が組み込まれており、その勇壮な舞は鎧下太鼓に合わせて演じられる。 その出で立ちは、面は眼光鋭く目が赤くホオズキのように輝いており、鼻は天狗鼻、赤ら顔、猿づら、髪は白髪をしている。赤地に金銀を配した鎧を着けており、下半身には、袴を着けている。腰に刀を差し両手に扇子をもっている。これは何を証しているのだろう。何かをメッセージしているのだろうが分からない。 サルタ彦の命は、記紀神話に拠れば、後の神武東征に繋がるニニギの命の天下りの際に、道案内役として登場する神である。その様子については、「日本神話考」の「天孫降臨神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/tensonkorinco.htm)に記している。 記紀神話は次のように記している。
そのサルタ彦の命が、備中神楽に於いて格別に位置づけられているところが興味深い。れんだいこがこれを判ずるのに、古事記では「猿田昆古」と書かれているが、佐太(陀)大社の「佐太(陀)彦」と読めるのではなかろうか。「上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす」と形容されているのは、高天原と葦原中国の双方に事情通であったという意味であろう。 思うに、サルタ彦は、大国主の命が形成した統一出雲王朝前の元出雲から原出雲王に関わる時代即ち旧出雲時代の統領格の系譜の者ではなかろうか。猿田彦の命舞をもって神事が終わるのも、昔からの神様であることを示唆しているのではなかろうか。 その猿田彦を擁する原出雲勢力はこの間、スサノウ−大国主の命と続く統一出雲王朝即ち新出雲時代になるや影が薄くなり、要するに冷や飯を食わされる立場に追いやられていたた。高天原王朝系天孫族の降臨は、これと組むことによりかっての王権を復興せしめる絶好機会でありと判断して、自ら案内役を買って出たのではなかろうか。こう理解すれば、サルタ彦の微妙な立場、動き、その後の大和王朝創建と共に使い捨てにされる末路等が整合的に理解できることになる。 れんだいこは、サルタ彦の命を出雲王朝史に於けるスサノウの命登場以前の元々の地元神であり、スサノウの命の王位を継承した大国主の命王朝と一定対立関係にあり、そういう事情から高天原王朝の天下りの際に先導役を引き受けたと見なしている。それは、高天原王朝にとって願っても無い助っ人になったと見なしている。そういうサルタ彦の命を格別に登場させ神楽舞させる備中神楽は、出雲王朝史を丹念に歴史的に伝承していることになろう。 猿田彦の命の舞う剣舞を、剣舞の原形とする見方があるようである。れんだいこは、例え神楽的にはそうであっても、剣舞の本当のモデル(ひな形)では無いと思う。「猿田彦の舞」を剣聖的に格別評価するのは、いわゆる当局の目を眩ますカモフラージュではなかろうか。荒神鎮魂の剣舞とあらば「猿田彦の舞」と云うよりも、国譲りの際に於ける「建御名方命の舞」と受け止めるのが自然ではなかろうか。こうして、表向きは「猿田彦の舞」としつつ実際には「猿田彦の舞」に建御名方命を仮託させ、「国譲り時の建御名方命に纏わる武闘史」を秘かに伝承してきたというのが裏史実なのではあるまいか。 2008.8.7日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)