出雲王朝史5の1、国譲り譚その1考 |
更新日/2018(平成30).10.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「国譲り譚その1」をものしておく。備中神楽の演目次第が「逸見芳春氏の神楽絵巻1」以下№11までサイトアップされている。早速これを購入してみることにした。購入先は、「備北民報社の出版物のページ」の「神楽絵巻改訂版」。その後、神崎宣武氏編の「備中神楽の研究」(美星町教育委員会、1984.3.12日初版)を手に入れ、これらを参照に推敲した。 いよ神楽考の本命中の本命、国譲り譚の考察に入ることにする。れんだいこは、神楽の演目はそれぞれ深い意味があり、どれも外す訳にはいかないことを承知しつつも、国譲り神楽さえあれば満喫できる。とは云うもののまだ観た事はないのだけれども。 追伸。備中神楽は、他のどの神楽に比しても「国譲り譚」を正面から採り上げていることに意義はあるが、やはり想像していたようにかなり変質、こう云って良ければ高天原-大和王朝系の観点からする侵食を受けて居る。これを如何に当初の伝承原文に戻すか、これが課題になっているように思う。 2008.8.1日、2008.8.13日再編 れんだいこ拝 |
【国譲り神楽検証/はじめに】 |
以下、備中神楽に於ける「国譲り譚」の逐一を検証する。これにより、国譲りの実態がより克明に分かるであろう。記紀文書で判明する史実と神楽で判明する史実を付き合わせれば、なお能く分かるであろう。但し、備中神楽に於いても既にどの時点よりかは不明であるが既に伝承原文は散逸しているようである。これにより社中によって口上が異なるようである。これを比較対照するのも一案であるが、これは別の研究になる。 現在の口上は、恐らく当局の行政的監視により止むを得なかったのだと思われるが、多分に高天原神話よりする書き換えが過剰に為されているように思われる。これにより時局迎合的な事大主義的描写が侠雑している。その辺りを原文に戻さない限り本来の備中神楽にはなり得ない。れんだいこがこれを剥がして、記紀その他古史古伝をも参照しながら、本来はこう口上し演じていたのではなかろうか、こう口上し演じるべきではなかろうかと推定しながら確認して行くことにする。これを仮に「れんだいこ推理文」と命名する。未だれんだいこ言葉にならないところはそのまま踏襲しておくことにする。恐らく、「れんだいこ推理文」の方が伝承原文に近いのではないかと自負している。 2008.8.12日 れんだいこ拝 |
【国譲り神楽の演目次第】 |
1・両神の天下り舞、2・大国主命の餅投げ舞、3・国譲りの掛け合い、4・稲脊脛の国譲り仲裁舞、5・事代主の呼び出し、6・事代主の舞、7・大国主と事代主の親子勘評、8・国譲り再掛け合い、9・建御名方命の舞、10・合戦、11・祝い込みと続いて完結する。 |
幕のこと 神楽の幕には大幕と小幕がある。大幕は神楽太夫の控え室、つまり楽屋と神殿を隔てる幕で、舞い出る時には、この大幕を開く。 幕には「備中神楽」とか「神代神楽」という字を染め抜き、社名を入れる。鮮やかな色を配した幕は会場の雰囲気を盛り上げる大切な舞台装置とも言える。小幕は大幕の内側(観客から見て奥側)に低く垂れ下がっている。神々が登場する度に大幕が開かれ、神々は小幕を操って「幕の内」という舞を舞う。それから神殿(こうどの)の八畳間におもむろに舞い出る。大幕が閉じられて背景となる。 |
小道具のこと 神楽では、舞もさることながら、衣装や小道具も大切な必需品である。扇、刀、長剣、槌、素元、竿、鯛などの小道具がある。 |
【国譲り譚その1、経津主、武甕槌両神の天下り】 | ||||||||||||||||||||||||||
「(神の座す)高天原より天下り、瑞穂の国へ急ぐらん」の神歌と共に二柱(ふたはしら)の神が並んで現れる。この二神を通称「両神」(りょうしん)と呼ぶ。
これが、「杵築(きつぎ)の能(のう)」、別名「国譲(くにゆず)り」の始まりである。フツヌシは弁舌さわやかな智将(後に千葉県佐原市香取の香取神宮の祭神)、タケミカヅチは武技にすぐれた勇将(後に茨城県鹿島町の鹿島神宮の祭神)である。三時間以上に及ぶこの神楽では、始めから終わりまで登場する重要な両神であって、いわば主役を務める。
|
||||||||||||||||||||||||||
日本書紀第九段一書(二)が次のように補足している。
|
【国譲り譚その2、大国主命の登場&餅投げ】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舞台は代わって、出雲王朝の主である大国主の命が「かまど廻り」を舞いながら登場する。悪を避け善を施す文武両面をもつ神にして寿福増長、福徳円満、縁結びや産子繁栄の神で人々に福の種を蒔くことで知られている。後に島根県大社町の出雲大社の祭神。
大国主の命が「幕掛かりの舞」を舞う。太鼓の胴をトントンと槌で打つと、忽然として「万福袋」(まんぷぶくろ)に入った福餅が現れる。太鼓の囃子に乗りながら、東南西北、さらに中央に餅を一つずつ投げて清める。次に、神前、大当番の順に餅を供え、続いて、神楽場に集まる産子の人々に餅を投げ与える。
|
【国譲り譚その3、イナサの浜での国譲りの掛け合い譚】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
来航族派遣使のタケミカヅチは、出雲のイナサの小浜(現在の島根県出雲市の稲佐の浜、出雲大社の西方1kmにある海岸)で出雲王朝代表の大国主の命と国譲りの談判をすることになった。浜辺の奥に大国主大神と建御雷之男神が国譲りの交渉をしたという屏風岩があり、海岸の南には、国引きのとき、島を結ぶ綱になったという長浜海岸(薗の長浜)が続いている。旧暦10月10日に、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもある。 タケミカヅチとフツヌシの軍使はアメノトリ船と共に降り立った。タケミカヅチは十握剣(とつかのつるぎ)を抜き放つと剣の切っ先を逆さまに突きたて、その剣の前に胡坐(あぐら)をかいた。こうして武威を示した。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この件で、「出雲の稲佐浜にてタケミノカヅチが剣を逆さに立ててその上であぐらをかいた」とする読解があるが誤まりである。タケミノカヅチが稲佐浜にてあぐらをかいてその前方20cmぐらいに剣を逆さに砂浜にさして立てたが正確と思われる。幾ら神話でも、剣の先に座ってあぐらをかく筋立ては無理ではなかろうか。岩波書店の古事記と日本書紀を参照すると、古事記では「剣前」 であぐらをかいた、日本書紀では「剣の先にあぐらをかいた」とある。「剣サキ」を古事記では「剣前」、日本書紀では「剣先」と記述していることになるが、「先」を古事記的に「前」と解するほうが妥当ではなかろうか。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
次のような問答が交わされた。これを仮に「国譲り譚その3、イナサの浜での国譲りの掛け合い譚」と命名する。備中神楽では、大国主の命の餅投げが終わり、たくさんの福の種をプレゼントして休憩しているところへ、幕の内から両神が現れる。太鼓のリズムに合わせて、経津主命(ふつぬしのみこと)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)の両神が大幕を開け、小幕を蹴って出てくる。両神が相舞とか地舞を舞いながらゆったりと登場する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
まず、名乗り合いとなる。
名乗り合いが済み、いよいよ国譲りの交渉に入る。(長編語りとなるので、第一弾、二弾に分けることとする)
この第一弾の遣り取りで、お互いの言い分が交差される。次に、互いの言い分の検証に入る。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稲佐の浜の弁天島。神仏習合、廃仏毀釈から祀られている神様は弁才天から豊玉姫になった。昭和40年代までは海の中にあったが、防波堤の建設により砂が堆積して今は浜から歩いてお詣りできる島になっている。 |
【国譲り譚その4、国譲り合戦】 | ||||||||||||||||||||||||
国譲りの交渉が決裂し合戦に入る。
|
【国譲り譚その5、イナサの浜での国譲り再談判譚】 | |||||||||
高天原王朝のタケミカヅチは、出雲のイナサの小浜で大国主の命と国譲りの再談判をする。これを仮に「国譲り譚その5、イナサの浜での国譲り再談判譚」と命名する。
|
|||||||||
日本書紀は次のように記している。
|
|||||||||
イナサの漢字は「伊奈佐」、「稲佐」。十握剣は「とつかのつるぎ」と読む。コトシロ主の漢字名き「言代主神」又は「事代主」。タケミナカタの漢字名は「建御名方神」。 | |||||||||
![]() |
|||||||||
「イナサの浜での国譲り談判譚」は、高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主がイナサの浜での直談判した様子を明らかにしている。記紀神話上は文人頭のコトシロ主と軍人頭のタケミナカタを「大国主命の我が子」としているが、この「我が子」をどう理解すべきか。れんだいこは、「実の我が子」と解する必要はないと解する。従って、系図上で確かめられれば良しと云う程度に解する。実際は、この場合の「我が子」は後継者と云う意味で使われていると解する。それによると、文人頭のコトシロ主が後継者№1候補であり、軍人頭のタケミナカタが後継者№2候補であったと解する。ちなみに、コトシロ主はヤマトの葛城と縁が深い。タケミナカタは越の国と縁が深い。 2013.3.18日 れんだいこ拝 |
【国譲り譚その6、イナセハギの国譲り仲裁】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大国主の命と両神の問答は決裂する。両者、戦うが、なかなか勝負がつかない。この時、幕内から「待った。待った。この戦争、しばらく待った」と、手拍子を鳴らしながら声をかけ、中に割って入るのがイナセハギ(「稲脊脛」)の命である。元々は高天原より派遣された武夷鳥(たけひなどり)の尊である。「イナセハギ」とは、茶利役使者にたったことを意味する。後に、島根半島西端のさぎの浦に、さぎ大明神として祀られる。ほうそう(疱瘡)の神でもある。一説に「法曹」の守護神ともいう。国譲り談判の仲介という大切な役目で登場しており、抜け目のないしっかりとした顔つきである。
イナセハギの命の元々の口上は散逸しているようである。あるいは、伝承原文そのままに口上するのはよほど不都合があるのかも知れない。現在の備中神楽のこの下りは大きく茶化し、現代評論風に口上されている。これをそのまま書き写しても意味がないので概略を記しておく。
参考までに、備中神楽の「イナセハギと両神の掛け合い」に言及しておくと、史実性の高いと思われる遣り取りを全く無視し、イナセハギのひょうきんさをのみ浮き彫りにするものに仕立てている。これを現代世相に応じたものにしているので面白みはあるが、国譲りそのものの遣り取りとは関係ない長々の遣り取りとなるので割愛する。備中神楽の「イナセハギと両神の掛け合い」その現代バージョン」は駄作であり使いものにならない。但し、それまでの緊迫した遣り取りの息抜きとして演芸効果はあるのかも知れない。 |
【国譲り譚その7、イナセハギの出雲王朝の文人頭コトシロ主の呼び出 し】 |
||||||||||||||||||||||||||||||||
イナセハギは、素元(すもと)を馬に見立てて、幕内から引き出してくる。太鼓の急調子に乗って、美保関めざして一気に馬を駆る。関に着くまで、畳の上を数十回跳び上がる。このあと陣羽織をぬいで、艫綱に見立て、諸手船に乗って海を渡る仕草を演じる神楽社もある。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||
コトシロ主は、大国主の命と神屋楯姫神(かむやたてひめ)の間の子供と云われる。神屋楯比売神の出自は不詳であるが、旧事本紀には「坐辺都宮・高降姫神」と書かれている。兄の味鋤高彦根神(賀茂大神)の母が「坐胸形奥津宮神多紀理比賣命」と書かれているので、この伝によれば宗像系と云うことになる。大和平野の葛城山系の麓にある鴨津波(かもつは)神社の祭神となっており、鴨一族の代表であった可能性がある。この場合、鴨族が、遠祖を出雲王朝とするのか、大和葛城地方の土着豪族のどちらかということになろう。鴨族には別に高天原王朝系の系譜もあり非常にややこしい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
|
【国譲り譚その8、 コトシロ主の舞】 | ||||||||||||||||||||
備中神楽では、大国主の命の長子、コトシロ主の命が、にこやかにして理知的な面相で舞い出る。コトシロ主は後に島根県美保関町の美保神社の祭神となる。
神楽では、舞い出る神々ごとに独特の節回しをもった神歌を歌う。神歌は、いわば、舞い出る神の性格と役割を知らせる一種のせりふだと思えばよい。舞い手には、おおむね小柄な太夫が選ばれる。コトシロ主の舞の動きは激しいが、複雑に見えて実はそれほど難しい舞ではない。 この神歌の中に「恵比寿」(えびす)とあるのは、大黒(だいこく)と対になった福の神で、コトシロ主の別名である。神楽では、華やかな衣装と、小道具として釣竿を肩に鯛をぶら下げている姿が特徴である。コトシロ主を親しみを込めて「えびす」、「えべっさん」、大国主を「だいこく」、「だいこくさん」とも呼ぶ呼び方もある。「恵比寿」(えびす)と「大黒天」(だいこくてん)は、室町時代から江戸時代にかけて人気のあった民間信仰の七福神の中に納まって伝承され続けている。 コトシロ主の命には鯛釣りの逸話がある。島根半島突端の美保の関は昔から対馬暖流に乗って回遊する鯛(たい)の釣り場として有名である。コトシロ主の命は釣り好きで、一番鶏の鳴き声にだまされて真夜中に鯛釣りに出かけ、鰐鮫(わにざめ)に片足を食いちぎられたという。だから、コトシロ主の命の舞は片足ではねたり跳んだりする所作が織り込まれている。軽快で、生き生きと、いかにもうれしそうに、楽しそうに鯛釣りに興じているさまを表現するのが上手な舞い方である。この舞いは、各社中ごとにいろいろ工夫して演出し、特に鯛を釣り上げるところが圧巻であろう。太鼓のリズムはほぼ共通していて子どもでも覚えやすい。
イナシハギとコトシロ主の命の遣り取りは、元々なかったのか分量が増え過ぎるため割愛されているのか、備中神楽では演ぜられないようである。 |
【国譲り譚その9、コトシロ主との談判譚】 | |
国譲りの判断を任された片方の文人頭のコトシロ主は次のように対応した。古事記は次のように記している。これを仮に「国譲り譚その9、コトシロ主との談判譚」と命名する。
|
|
|
|
![]() |
|
「この時、コトシロ主は美保の崎にいた」を、もう少し詳しく見れば、「コトシロ主はこの時、出かけていて、美保の崎でを釣るを樂(わざ)となしていた。あるいは、遊鳥(とりのあそび、鳥の狩り)を樂となしていたと伝えられている。コトシロ主が七福神で恵比寿様に例えられ、恵比寿様の風体が鯛を抱え、釣り竿を背負った格好をしているのは、この時の姿を表現していることになる。ちなみに、「鳥の遊び」とは、「古い魂を鳥に返し、新たな魂と交換する」宗教儀式を指している。「鳥が魂を運ぶ」と云う信仰はアジアの広い範囲で確認できるところのものである。つまり、「鳥の遊び」は遊戯としての遊びではない。 | |
「コトシロ主との談判譚」は、国津族の文人頭、コトシロ主が苦衷の末「国譲り」に応じ、同時に王朝の安泰を願って我が身を引き換えに姿を消したことを明らかにしている。「青柴垣」は、古神道に於ける聖域を意味しており、護り神となったことを暗喩している。投身自殺し後々の信仰対象となったのか、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びたのか、あるいは高度な政治判断により投降により勢力温存を図ったのかは不明である。 |
【大國主命と事代主命コトシロ主の命の関係考】 | |
大國主命が武甕槌神に国譲りを迫られた際に事代主命に相談している。秀真伝では事代主命が「クシヒコ」と呼ばれている。「クシの神」とは少彦名神のことであるので繋がりがあると考えられる。一説に次のように記されている。
|
【コトシロ主の命と蘇我氏の関係考】 |
注目すべき着想をえた。即ち、後の蘇我氏はコトシロ主系の子孫ではなかろうか。こう理解するとコトシロ主の隠退、蘇我氏の台頭史が整合的に理解できるようになる。「タケミカヅチは八咫烏(やたがらす)の孫。事代主は蘇我大王」を参照すると、コトシロ主は「八重コトシロ主」とも記されている。八重はハエでもあり、大隅語ではハエは「速い」であるとのこと。事は日のジツのジに通じる。即ち、八重事は「速日」に合う。代はダイの音が「大」に繋がる。主は「王」でもあり、「速日大王」の裏意味を持っていることになる。コトシロ主は七福神の恵比寿(エビス)として知られており、関西では「十日えびす」を祭る。十日の十は「ソ」、日は「カ」で蘇我に繋がる。ここに蘇我とコトシロ主が繋がり、コトシロ主が蘇我の祖であることが判明する。この推理の重要性は、蘇我氏の台頭、王権化、失墜の歴史ドラマを出雲王朝絡みで整合的に説明できることにある。 |
【コトシロ主の命を祀る神社考】 |
「荒川 豊 / 神社と歴史の広場」参照。 |
【日白(ひじら)神社】 島根県安来市日白町。御祭神/事代主命。安来市の西の玄関口、荒島地区の上側山手の梨農業が盛んな地域に鎮座されている。由緒は不明ながら通称一の宮、慶長年間の棟札には伊久志明神とあったと云う。ようです。この地の伝承に、海からの波風が強く住民は常に不安を抱えて暮らしていたところ「金色のうさぎ」が現れ、「日と月の神様を祀れば風や波の被害がなくなり、住民が安全になり、作物が豊かに実るでしょう」と告げた。そこで日形大明神(天照大神)、月向山形大明神(月読尊)をお祀りしたところ波風の被害がなくなった云々と云う。この地区には「月向山形大明神」を祭神とする月形神社はあるが、「日形大明神」を祭神とする神社は見当たらない(月形神社の後方高壇に日形社とよばれる祠はある)。伊久志明神を辿ると伊伎志爾男命で、長崎県壱岐市の月讀神社、京都の松尾大社の境外摂社の月読神社に伝わる日・月の神の伝説に辿り着く。 |
参考 |
・高市御県座鴨事代神社(奈良県橿原市雲梯町689)
式内社、旧村社 現在名:河俣神社
祭神:鴨八重事代主神
|
・鴨都波八重事代主神神社(奈良県御所市御所513)
旧県社、式内社
祭神:積羽八重事代主神
別名:下鴨社 三輪神社別宮
創祀:崇神朝に鴨積が葛木の地に奉祀
|
・高鴨神社(御所市鴨神1110)
旧名:高鴨阿治須岐詫彦根命神社 大神神社・大和国魂神社と同じ従二位の神階
明神大社、旧県社、式内社
祭神:味治須岐高彦根命
別名:高鴨社 自称全国鴨神社の総社
|
・葛木御歳神社(御所市東持田御歳山)
祭神:御歳神、高照姫(事代主神同母妹)
別名:中鴨社
|
・長柄神社(御所市名柄字宮271)
旧村社、式内社
祭神:下照姫(あかる姫)(味治須岐高彦根命の同母妹)
|
(私論.私見)