出雲王朝史5の1、国譲り譚その1考

 更新日/2018(平成30).10.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「国譲り譚その1」をものしておく。備中神楽の演目次第が「逸見芳春氏の神楽絵巻1」以下№11までサイトアップされている。早速これを購入してみることにした。購入先は、「備北民報社の出版物のページ」の「神楽絵巻改訂版」。その後、神崎宣武氏編の「備中神楽の研究」(美星町教育委員会、1984.3.12日初版)を手に入れ、これらを参照に推敲した。

 いよ神楽考の本命中の本命、国譲り譚の考察に入ることにする。れんだいこは、神楽の演目はそれぞれ深い意味があり、どれも外す訳にはいかないことを承知しつつも、国譲り神楽さえあれば満喫できる。とは云うもののまだ観た事はないのだけれども。

 追伸。備中神楽は、他のどの神楽に比しても「国譲り譚」を正面から採り上げていることに意義はあるが、やはり想像していたようにかなり変質、こう云って良ければ高天原-大和王朝系の観点からする侵食を受けて居る。これを如何に当初の伝承原文に戻すか、これが課題になっているように思う。

 2008.8.1日、2008.8.13日再編 れんだいこ拝


【国譲り神楽検証/はじめに】
 以下、備中神楽に於ける「国譲り譚」の逐一を検証する。これにより、国譲りの実態がより克明に分かるであろう。記紀文書で判明する史実と神楽で判明する史実を付き合わせれば、なお能く分かるであろう。但し、備中神楽に於いても既にどの時点よりかは不明であるが既に伝承原文は散逸しているようである。これにより社中によって口上が異なるようである。これを比較対照するのも一案であるが、これは別の研究になる。

 現在の口上は、恐らく当局の行政的監視により止むを得なかったのだと思われるが、多分に高天原神話よりする書き換えが過剰に為されているように思われる。これにより時局迎合的な事大主義的描写が侠雑している。その辺りを原文に戻さない限り本来の備中神楽にはなり得ない。れんだいこがこれを剥がして、記紀その他古史古伝をも参照しながら、本来はこう口上し演じていたのではなかろうか、こう口上し演じるべきではなかろうかと推定しながら確認して行くことにする。これを仮に「れんだいこ推理文」と命名する。未だれんだいこ言葉にならないところはそのまま踏襲しておくことにする。恐らく、「れんだいこ推理文」の方が伝承原文に近いのではないかと自負している。

 2008.8.12日 れんだいこ拝

【国譲り神楽の演目次第】
1・両神の天下り舞、2・大国主命の餅投げ舞、3・国譲りの掛け合い、4・稲脊脛の国譲り仲裁舞、5・事代主の呼び出し、6・事代主の舞、7・大国主と事代主の親子勘評、8・国譲り再掛け合い、9・建御名方命の舞、10・合戦、11・祝い込みと続いて完結する。
 幕のこと

 神楽の幕には大幕と小幕がある。大幕は神楽太夫の控え室、つまり楽屋と神殿を隔てる幕で、舞い出る時には、この大幕を開く。 幕には「備中神楽」とか「神代神楽」という字を染め抜き、社名を入れる。鮮やかな色を配した幕は会場の雰囲気を盛り上げる大切な舞台装置とも言える。小幕は大幕の内側(観客から見て奥側)に低く垂れ下がっている。神々が登場する度に大幕が開かれ、神々は小幕を操って「幕の内」という舞を舞う。それから神殿(こうどの)の八畳間におもむろに舞い出る。大幕が閉じられて背景となる。
 小道具のこと

 神楽では、舞もさることながら、衣装や小道具も大切な必需品である。扇、刀、長剣、槌、素元、竿、鯛などの小道具がある。

【国譲り譚その1、経津主、武甕槌両神の天下り】

 「(神の座す)高天原より天下り、瑞穂の国へ急ぐらん」の神歌と共に二柱(ふたはしら)の神が並んで現れる。この二神を通称「両神」(りょうしん)と呼ぶ。 これが、「杵築(きつぎ)の能(のう)」、別名「国譲(くにゆず)り」の始まりである。フツヌシは弁舌さわやかな智将(後に千葉県佐原市香取の香取神宮の祭神)、タケミカヅチは武技にすぐれた勇将(後に茨城県鹿島町の鹿島神宮の祭神)である。三時間以上に及ぶこの神楽では、始めから終わりまで登場する重要な両神であって、いわば主役を務める。

 両神は同じ衣装を纏い似たような面で登場するが、その面はどちらも受け口で少し口を開けているが、上下の歯が見えるのが経津主命、上の歯しか見えないのが武甕槌命である。経津主命は弁舌逞しく、武甕槌命は武威の神であることを表している。

 両神の舞
(ト書き)  舞は一対だから、呼吸がピッタリ合っていなければならない。ゆったりと、そして、上品に、しかも内に闘志を秘めた両神の舞は、いわゆる地舞(じまい)の基礎舞の手本たるべし。
神歌  「(神のます)高天原より天下り、瑞穂の国へ急ぐらん」。
(解説)  高天原(来航)王朝は、出雲王朝を「瑞穂の国」と評している。
 (両神が舞い出す) 一畳の舞
両神一  「さって、このところに舞い出したる神をいかなる神とや思うらん。これなるは、皇天は御祖(みおや)の神に仕え奉る、磐筒男(いわつつお)、磐筒女(いわつつめ)の神の御子(おんこ)、日の神より神勅を受け天下る、我はフツヌシの尊にて候」。
両神二  「まった、これなるは同勅使、甕速日(みかのはやひ)の神の御子、タケミカヅチの尊」。
両神  「右二柱(ふたはしら)にて候」。
 (両神が舞い出す) 二畳の舞
神歌  「出雲なる稲佐の浜に下り立ちて、大国主を待つぞ久しき」。
(解説)  記紀神話では、二人の神は出雲の国の伊耶佐(いざさ)の小浜(現在の稲佐の浜)に降り立った。伊耶佐(いざさ)の小浜の中央に弁天島が鎮座する。かっては弁財天を祀っていたが現在は豊玉毘古命が祀られている。
両神  「このところにおいて、大国主の命を相待たばやと存じ候」。
 (両神が舞い出す) 三畳の舞

 日本書紀第九段一書(二)が次のように補足している。

 二神は降りて出雲の五十田狹(いたさ)の小汀(おはま)に降り立ち、大己貴の命に「汝(いまし)、將(まさ)にこの國を以ちて天神(あまつかみ)に奉らんや不(いな)や」と尋ねた。これに対し、大己貴の命は、「疑う。汝、二神は是(これ)吾が處に來つる者に非ざるか。故、許さず」と答えた。これを聞いたフツヌシの神は帰り昇って報告した。

【国譲り譚その2、大国主命の登場&餅投げ】

 舞台は代わって、出雲王朝の主である大国主の命が「かまど廻り」を舞いながら登場する。悪を避け善を施す文武両面をもつ神にして寿福増長、福徳円満、縁結びや産子繁栄の神で人々に福の種を蒔くことで知られている。後に島根県大社町の出雲大社の祭神。

 大国主の命は頭に大きな福頭巾(ずきん)をかぶり、大黒面を着け、右手に扇子、左手に打ち出の小槌(こづち)を持っている。頭巾には、「上を見ては及ばぬ事の多かりき。下見て暮らせ己が心を」と記している。

 かまど廻りの舞
神歌  「青垣山のふもとより、神風(かんかぜ)吹くぞ、涼しかるらん」。
 一畳の舞
大国主  「さって、このところに舞い出したる神をいかなる神とや思うらん。我こそは、葦原色(「醜」とも書く)男の神とて八千矛の神、この国の主(あるじ)、大国主の命なり。我、このところに舞い出したるは他でもない、国土経営なさんがため。これより十二氏子五姓の大御宝(おおみたから)の竈廻り(「御門(みかど)巡り」とも記す)なさばやと存じ候」。
太鼓  「こは有り難き、まった、尊き神にて候」。
 二畳の舞
大国主  「御門巡りいたし見るに、我に敵とう者とて更になし。いずれも我を尊信まつる輩(ともがら)ばかりなるによって、これより集まる氏子に福徳幸福を授けばやと存じ候。叉、手向かう者が有る時は、打ち出の小槌を持って、世を靖国と鎮めるなり」。
太鼓  「急ぎ給えやの」。
(ト書き)  竈廻りの舞の後、歌ぐらを一首詠じる。続いて、到着の言葉と次の歌ぐらを一首詠じる。
神歌  「大八州島(おおやしま)の 崎々安らげく 残る隈(くま)なく つきし広矛(ひろほこ)」。
(ト書き)  この神歌で出雲王朝政治の善政特質が示唆される。

 大国主の命が「幕掛かりの舞」を舞う。太鼓の胴をトントンと槌で打つと、忽然として「万福袋」(まんぷぶくろ)に入った福餅が現れる。太鼓の囃子に乗りながら、東南西北、さらに中央に餅を一つずつ投げて清める。次に、神前、大当番の順に餅を供え、続いて、神楽場に集まる産子の人々に餅を投げ与える。

 幕掛かりの舞
(ト書き)  太鼓の胴をトントンと叩くと、忽然として「万福袋」に入った福餅が現われる。これより餅投げとなる。神楽場のムードは最高潮になる。
太鼓  「これはこれは御命(おんみこと)におかれては、なにやら御宝(みたから)が出た儀にござるぞな」。
大国主  「これはしたり。なにやら御宝が出た儀にござるとな。老いたりと言えども、我が打つ槌に狂いはなし。御宝が出たとあるなれば、一首の神歌をもって中をあらため申さん」。
神歌  「大国が 万福袋の 紐といて 集まる氏子に 福を授けん」。
太鼓  「播(ま)こうや播こうや、福の種を播こうや。かより東方は、東方と申さば、きのえきのとの大小神祇の下(お)りえなされる神のな御前(みまえ)に打ちや向かいて福の種を播こうや」。
太鼓  「播こうや播こうや、福の種を播こうや。かより南方へ福の種を播こうや」。
太鼓  「播こうや播こうや、福の種を播こうや。かより西方へ福の種を播こうや」。
太鼓  「播こうや播こうや、福の種を播こうや。かより北方へ福の種を播こうや」。
太鼓  「播こうや播こうや、福の種を播こうや。かより中央へ福の種を播こうや」。
太鼓  「さてまた、神前に福の種を供える。さてまた、大当番にも福の種を授ける。さてまた、集まる氏子に、福の種を授ける」。
 餅投げ。
(ト書き)  この時、満場総立ちとなる。
大国主  「残り物に福ありとはこのことなり。これは大当番に納め置くものなり」。

【国譲り譚その3、イナサの浜での国譲りの掛け合い譚】
 来航族派遣使のタケミカヅチは、出雲のイナサの小浜(現在の島根県出雲市の稲佐の浜、出雲大社の西方1kmにある海岸)で出雲王朝代表の大国主の命と国譲りの談判をすることになった。浜辺の奥に大国主大神と建御雷之男神が国譲りの交渉をしたという屏風岩があり、海岸の南には、国引きのとき、島を結ぶ綱になったという長浜海岸(薗の長浜)が続いている。旧暦10月10日に、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもある。

 タケミカヅチとフツヌシの軍使はアメノトリ船と共に降り立った。タケミカヅチは十握剣(とつかのつるぎ)を抜き放つと剣の切っ先を逆さまに突きたて、その剣の前に胡坐(あぐら)をかいた。こうして武威を示した。
(私論.私見) 「剣サキ」を「剣前」と読むか「剣先」と読むか考 
 この件で、「出雲の稲佐浜にてタケミノカヅチが剣を逆さに立ててその上であぐらをかいた」とする読解があるが誤まりである。タケミノカヅチが稲佐浜にてあぐらをかいてその前方20cmぐらいに剣を逆さに砂浜にさして立てたが正確と思われる。幾ら神話でも、剣の先に座ってあぐらをかく筋立ては無理ではなかろうか。岩波書店の古事記と日本書紀を参照すると、古事記では「剣前」 であぐらをかいた、日本書紀では「剣の先にあぐらをかいた」とある。「剣サキ」を古事記では「剣前」、日本書紀では「剣先」と記述していることになるが、「先」を古事記的に「前」と解するほうが妥当ではなかろうか。
 次のような問答が交わされた。これを仮に「国譲り譚その3、イナサの浜での国譲りの掛け合い譚」と命名する。備中神楽では、大国主の命の餅投げが終わり、たくさんの福の種をプレゼントして休憩しているところへ、幕の内から両神が現れる。太鼓のリズムに合わせて、経津主命(ふつぬしのみこと)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)の両神が大幕を開け、小幕を蹴って出てくる。両神が相舞とか地舞を舞いながらゆったりと登場する。

 まず、名乗り合いとなる。

 両神と大国主の命の名乗り合い
言い立て  「ようやく急ぎ候て稲佐の浜に着いたと覚えてあり。この所において大国主の命をあい待たばやと存じ候」。
(ト書き)  両神と大国主との遣り取りは坐ったままの台詞劇。
両神一  「磯の松風いとどさやけて見えけるに、左の御手に打ち出の小槌をたずさえ、背には万福の袋を背負い、にこらふくらと美しき舞をなさしめ給う神、いずこいかなる神にてましますか、その美しき御名さとし給えやな」。
大国主  「これはしたり、我が名を尋ね給うかな。我こそはこの国の主(あるじ)大国主の命にてましますが、かく我が名を尋ね給う神、いずこいかなる神にて候や。その美しき御名、さとし給えやな」。
両神一  「我こそは皇天は御祖(みおや)の神に仕え奉る、磐筒男磐筒女の神の御子、フツヌシの尊にて候」。
両神二  「まった、これなるは同勅使、甕速日の神の御子、タケミカヅチの尊、右二柱にてましますぞな」。
大国主  「これはしたり、いずこの神かと思いしに、高天原につかえ奉るフツヌシ、タケミカヅチの御両神とな。天津(あまつ)神のことに候えば、それがし左右の御座に御座しめ給え。とくと対面つかまつるにて候」。
両神一  「しからば、左右の美しき御座、許し給えやな」。

 名乗り合いが済み、いよいよ国譲りの交渉に入る。(長編語りとなるので、第一弾、二弾に分けることとする)

 両神と大国主の命の国譲り掛け合いその一
大国主  「天津神には、この地に用なき神に候えば、このたびは、なんらの用件にて天下られ候かな」。
両神一  「されば候、今般この地に天下りしこと、余の儀にあらず。こたび高天原においては、三代の君の皇孫(すめらぎ)ニニギの命の御参政と相成り、天照大神以来の勅(みことのり)してのたまわく、『豊葦原(とよあしはら)千五百(ちいほ)の長い穂、秋の瑞穂の国は、我が子孫の世々にして治むべき地なり。汝(なんじ)皇孫行きてしろしめせ。天津日嗣(あまつひつぎ)の豊祚(ほうそ)の栄えまさんこと天地と共に窮(きわま)りなかるべし』。この大御言(おおみこと)により、我々両神、重き勅命頭にいただき、そなたのしろしめす国どころを所望に天下り候。なにとぞ、この国を日の神にご献上あらしめ給えやな」。
 「今より、アマテラス大御神、タカギの神の命を伝える。お前達が領有しているこの葦原の中つ国は、アマテラス大御神の御子が統治すべき国である。天神に奉ることを了解するかどうか返答せよ」。
(解説)  高天原王朝は、出雲王朝を「豊葦原の千五百穂の秋の瑞穂の国」と評している。
大国主  「これはしたり、御両神にはいかなるご用件にて天下られ候かと思えば、高天原の御神勅を戴いての国譲りの件にて天下られ候か。こは、ご苦労なることに候。しかしながら、よく聞き給え。この国と申するは、今日に至るまで世々に亙って艱難辛苦して造り上げし国に候えば、いかに日の神の命とは言え、国譲ること叶わず。このよし、高天原に立ち帰り、日の神に言上あらしめ給え」。
両神二  「これはしたり、御命(おんみこと)のご返答、ごもっともなる次第なれども、よく聞き給え御命。そもそもこの国の始まりたるや、イザナギ、イザナミの命、天の浮橋に立ち給い、この下に国あらんか島なからんやと、天のぬ鉾を差し下し、かき給えば、ぬ鉾の先より滴り落つ雫(しずく)固まりて一つの島となるなり。これをオノコロ島と称するなり。これより次々と国を産ませ給い、この大八州も産ませ給う島なり。さすれば、汝共が艱難辛苦して造り上げし国に候えども、元々を質せば汝らの国には非ず。イザナギ、イザナミの命の創始し給う国なり。そのご神統を持つのが高天原、高天原に国譲り給うが筋と云うものではござらんか」。
大国主  「そなた等の神話によればさもあらんか。なれどよく聞き給え、御両神。我々は叉別の神話を戴いておる。概ねその弁を述べんに、天地が初めてできたとき、天の御中主の神(アマノミナカヌシの神)、高御産巣日神(タカミムスヒの神)、神産巣日神(カミムスヒの神)の三柱が御座った。これを造化の三神と云う。私どもの国は、この神話に支えられた国であり、この三神に導かれて、この国の経営が代々為され今日へと至っている。その元深く、かつ重し。そなた等に都合の良い神話を勝手に持ち出されて、ハイそうですかと国を差し出す訳には参らぬ。

 我が国はここに至るまでの間、神民共々心を一つとなし、大海原にむつびの綱を打ち掛け、もそろもそろと引き寄せ、合いたるところを国となし、合わざるところを島となし、所々に府県を立て、荒野を開墾為し、五穀を作り、水利を開き、堤防を築き、害虫鳥獣を除くに呪(まじない)の法を修め、病める者には医薬を与え、貧なる者には福徳を授け、おろか者には説諭をなし、『豊葦原の千五百穂の秋の瑞穂の国』と云われるまでになった。なに不自由なく治まり、今に豊祚(ほうそ)に栄えまさし国に候えば、いかに仰せあそばすとも譲ることあいかなわず。このよし、日の神に復命あらしめ給え」。
両神一  「御命のご弁論承り候えばもっともに候かなれども、よく聞き給え。普天の下(もと)は卒土(そつど)の賓(ひん)、いずれ王土にあらざるなし。御命におかれては七つの御名まで現し給う御方に候わずや。そのご高徳に照らせば、ここは一つ国譲り給うが、御命のご政道にてはましまさんかな」。
大国主  「これはしたり。普天の下は卒土の賓、いずれ王土にあらざるはなけれども、天下の天を高天原に求めるのはそなた等の勝手に申せしことで、我が国を勝手に編入されるのは迷惑千万と云うもの。申したるごとく、この国と申するは、歴代艱難辛苦して作り固めし国なれば、いかに仰せあろうとも、譲ることあいかなわず。ましてや即刻の返答を迫るとは。早々に引き取り給え」。

 この第一弾の遣り取りで、お互いの言い分が交差される。次に、互いの言い分の検証に入る。
 両神と大国主の命の国譲り掛け合いその二
両神一  「命殿、よくお聞き為されよ。国譲りは既に二代の君、天押穂耳(あめのおしほみみ)の尊の頃よりの御心組みなり。この神は、第一番の勅使として天穂日(あめのほひ)の尊を遣わした。尊は、天の浮橋に立ち給うて下界をご一覧召さるところ、未だもって国若きが故に大国主の命に今しばらく治めさせ様子を見んとて猶予を与えた。これを知りたるや」。
大国主  「その昔より、高天原が、この豊葦原の千五百穂の秋の瑞穂の国に深い関心を示してきたことは承知しているところである」。
両神一  「今時至り、三代の君になって数次に亙って使者を派遣した。まずタケヒナドリの尊を遣わした。但し、この使者は御命の甘言に迷うて取り込まれてしまったか何の報告もない。次に、アメノワカ彦の尊を遣わした。この時、天の加護弓、波々矢を持たせて御降しになるも、御命の娘、シタテル姫の色香に迷うて、またしても取り込まれてしまった。次に、七瀬の雉(きじ)を遣わした。アメノワカ彦の尊は、御命に帰順したことを知らされるのを恐れて雉を射殺した。これが高天原に伝わり、三代の君は、アメノワカ彦の尊が翻心し、使命に従うよう諭し給うも聞き分けない故に、当方が成敗した。

 このたび、高天原は朝議で不退転の決意を打ち固めた。高天原に於いては、もはや猶予致すべくもなく、今回我々が登場することと相成った。この経緯を思えば、国譲りにつき十分詰み切っており、高天原は既に十分に意を尽くしておると考える。如何か返答せよ」。
大国主  「なるほど、再三の勅使を御降しに相成った点についてはその通りである。しかしながら、よく考えてみ給え。タケヒナドリの尊にせよ、アメノワカ彦の尊にせよ、勅命に背いてまで我が国の経営に情を通じ、共々の国づくりに向かうことになった訳を思え。

 そもそも、高天原との関係で云えば、よく聞き給え。我が王朝の先代を為すスサノウの命は高天原からやって来た。我が国と高天原はスサノウの命により繋がっている。その神話を聞けば、その昔、高天原に於いてイザナミの神失せ給いし時、イザナギの神呼び戻すべく黄泉の国へ訪ねるももはや心通ぜず、仕舞いには鬼神に追われ、よもの平坂をようやく抜けて出て日向国の高千穂の小戸(おど)のあわぎ原の中つ瀬に落ち着き、ここで禊をなし給いし時、左の目を洗い給いて日の神を生じ給い、右の目を洗い給いて月読の神を生じ給い、鼻を洗いてスサノウの命を生じ給い、日の神は高天原を司どり給え、月読命は夜のうす国をしろし召せ、スサノウの命は海をしろし召せと御託宣為された。

 そのスサノウの命が我が国へやって来て、我が王朝を拵え、国造りの神となってこの国を経営為されてきた。これは、我が国と高天原との繫がりを示している。この繫がりは友好の道を示せども、国譲りには至らない。今高天原が国譲りに拘るのは理不尽と申すべきではなかろうか」。
両神一  「これはしたり。御命は、スサノウの命を持ち出すか。なれども、スサノウの命は高天原において日の神に荒々しき振る舞いをなしたるにより、日の神のお怒りに触れ、追放された命である。そういう脛に傷持つ履歴のスサノウの命引き合いに出しても何の意味もござらぬ」。
大国主  「これはしたり、ならばもう一つ聞かせよう、よく聞き給え、御両神。私の御代になっての或る時、美保の岬において天の鏡船に乗り来ませる神あり。いかなる神かと問えば、高天原のカンムスビ神の御子スクナヒコナの神と判明せり。以来、この命とスクナヒコナの神は二つ心を一つとなし、この国を経営して来た。この繫がりは、高天原との友好の道を示せども国譲りにはならない。何ゆえ国譲りをせかし給うや」。

 稲佐の浜の弁天島。神仏習合、廃仏毀釈から祀られている神様は弁才天から豊玉姫になった。昭和40年代までは海の中にあったが、防波堤の建設により砂が堆積して今は浜から歩いてお詣りできる島になっている。


【国譲り譚その4、国譲り合戦】

 国譲りの交渉が決裂し合戦に入る。

両神二  「御命(おんみこと)のご弁論、逐一承り候えば、ごもっともなる次第なれども、よく聞き給え。これほど理非善悪をこと分けて申しても分からざるにおいては、我々は、これまでの御使いとはこと違い、最後の勅使なるぞ。綸言(りんげん)汗のごとく出て再び帰らざる覚悟に候えば、武甕槌命の猛き勢いをもって御命の生首引っさげてでも、切っても張ってもこの国は請い受けて帰る所存に候。こたびは日の神の厳命なり。御覚悟ありて、国譲りするかしないのか、二つに一つの返答あるべし」。
大国主  「これはしたり、御両神にはそれがしの生首引っさげてでも国を請い受け帰ると仰せあそばすか。それは国賊と申すものなり。いざ進軍とあいなれば、それがしには数万の味方がござる。これが応援なさば御両神の敗北は明白でござる。それでも苦しうござらぬか。止むをえん、この打ち出の小槌の武威をもってお相手仕る」。
両神一  「問答無用。いざさぁ立ち上がり候え。我々、左の腰に手挟む一刀は千敵も一度に滅ぶと云う宝剣なり。これでお相手つかまつろう」。
大国主  「しからば、一戦交えつかまつらん。この天(あめ)の平鉾の剣(槌)でお相手申そう」。
両神一、二  「しからば、いざ」。
大国主  「しからば、いざ」。
 幣と扇との合戦。
両神二  「逃げ隠れし、敵に後ろを見せるとは卑怯でござろう。掛かって参れ」。
大国主  「卑怯ではござらん。進む引くは軍事の常道、戦略の要諦なり。ご両神こそ掛かって参れ」。
両神一  「これはしたり。ならば、我々皇天出立の際に、腰にたばさむ一刀は一寸抜けば一万才(ざい)、二寸抜けば二万才、三寸抜けば三万三千才、千敵も一度に亡ぶという宝剣がござる。これをもってお相手つかまつろう」。
大国主  「これはしたり、御両神。しからば、それがしもこの天の平鉾の剣を右手に構え、打って打って打ちまくろう。後帽子に大きなコブが出来ても苦しうござらぬか。しからば、いざ」。
 剣と槌との合戦。

【国譲り譚その5、イナサの浜での国譲り再談判譚】 
 高天原王朝のタケミカヅチは、出雲のイナサの小浜で大国主の命と国譲りの再談判をする。これを仮に「国譲り譚その5、イナサの浜での国譲り再談判譚」と命名する。
 高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主の命は、出雲のイナサの小浜で再度談判することになった。タケミカヅチとフツヌシの軍使はアメノトリ船と共に降り立った。タケミカヅチは十握剣(とつかのつるぎ)を抜き放つと剣の切っ先を逆さまに突きたて、その剣の前に胡坐(あぐら)をかいた。「その剣の切っ先の上にあぐらを組んで座り、大国の命を待った」の記述もある。その様子が尋常でない談判だったことが暗喩されている。こうして武威を示した。次のような問答が交わされた。

タケミカヅチ  「今より、アマテラス大御神、タカギの神の命を伝える。お前達が領有しているこの葦原の中つ国は、アマテラス大御神の御子が統治すべき国である。天神に奉ることを了解するかどうか返答せよ」。
大国主  「私達は、今まで農業を主として平和な共同体を築いてきた。ここで戦争をすると勝敗は別として元も子もなくなる。子供達が反対しなければ私は従う。私の一存では行かない。我が子が返答することになるでせう」。
タケミカヅチ  「子供たちの誰が権限を持っているのか」。
大国主  「コトシロ主とタケミナカタの二人である。コトシロ主は文をタケミナカタは武を受け持っておる。その二人の了承を取り付けてくだされば良し」。

 大国主の命は即答を避け、判断を兄であり文人頭のコトシロ主と弟であり軍人頭のタケミナカタに委ねた。
 日本書紀は次のように記している。
 「二神(ふたはしらのかみ)は出雲國の五十田狹の小汀(いたさのおはま)に降り到り、十握劒を抜いて逆さに地面に突き立てると、その剣先にあぐらをかいて座り、大己貴神に、「高皇産靈尊の皇孫を降(くだ)し、この地に君臨せんと欲す。故、まず我ら二神を駈除(はら)い平定(やわし)に遣す。汝(いまし)が意(こころ)は何如(いかに)。まさに避(さ)らんや不(いな)や」と尋ねた。すると大己貴の命は「まさに我が子に問いて、然る後に報(かえりごともう)さん」と答えた」。
 イナサの漢字は「伊奈佐」、「稲佐」。十握剣は「とつかのつるぎ」と読む。コトシロ主の漢字名き「言代主神」又は「事代主」。タケミナカタの漢字名は「建御名方神」。
(私論.私見)
 「イナサの浜での国譲り談判譚」は、高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主がイナサの浜での直談判した様子を明らかにしている。記紀神話上は文人頭のコトシロ主と軍人頭のタケミナカタを「大国主命の我が子」としているが、この「我が子」をどう理解すべきか。れんだいこは、「実の我が子」と解する必要はないと解する。従って、系図上で確かめられれば良しと云う程度に解する。実際は、この場合の「我が子」は後継者と云う意味で使われていると解する。それによると、文人頭のコトシロ主が後継者№1候補であり、軍人頭のタケミナカタが後継者№2候補であったと解する。ちなみに、コトシロ主はヤマトの葛城と縁が深い。タケミナカタは越の国と縁が深い。

 2013.3.18日 れんだいこ拝

【国譲り譚その6、イナセハギの国譲り仲裁】
 大国主の命と両神の問答は決裂する。両者、戦うが、なかなか勝負がつかない。この時、幕内から「待った。待った。この戦争、しばらく待った」と、手拍子を鳴らしながら声をかけ、中に割って入るのがイナセハギ(「稲脊脛」)の命である。元々は高天原より派遣された武夷鳥(たけひなどり)の尊である。「イナセハギ」とは、茶利役使者にたったことを意味する。後に、島根半島西端のさぎの浦に、さぎ大明神として祀られる。ほうそう(疱瘡)の神でもある。一説に「法曹」の守護神ともいう。国譲り談判の仲介という大切な役目で登場しており、抜け目のないしっかりとした顔つきである。

 イナセハギの命の元々の口上は散逸しているようである。あるいは、伝承原文そのままに口上するのはよほど不都合があるのかも知れない。現在の備中神楽のこの下りは大きく茶化し、現代評論風に口上されている。これをそのまま書き写しても意味がないので概略を記しておく。

 イナセハギの命は登場当初、一方的傲慢不遜に、両神の身元調べや罪状などをあばき立てる。ところが、イナセハギの命の身元が明かされ、返す刀でイナセハギの命の素性が問われ、元々高天原より派遣された使者であることが判明するに及び次第に旗色が悪くなってくる。両神は、使者の役目を放棄した弱みを衝き、イナセハギの命が結局、大国主命の長子、コトシロ主の命に相談してはという調停案を出して両神に許される。その経緯が長々と綴られている。思うに、伝承原文が相当に長かったと云うことではなかろうか。以下、「れんだいこ推定文」を記す。

 イナセハギと両神の掛け合い
イナセハギ  「待った。待った。この戦争、しばらく待った。国譲りの件は、このイナセハギにお任せくだされまいか」。
両神一  「お前は何者ぞ」。
イナセハギ  「人の身元を尋ねるからには、まず自分の方から名乗るのが筋ではござらんか」。
両神一  「ならば明かそう。我は、皇天は御祖(みおや)の神に仕え奉る、磐筒男(いわつつお)、磐筒女(いわつつめ)の神の御子(おんこ)、日の神より神勅を受け天下る、我はフツヌシの尊にて候」。
両神二  「我は、同勅使、甕速日(みかのはやひ)の神の御子、タケミカヅチの尊」。
イナセハギ  「して、何をしに参ったのじゃな」。
両神一  「こたび、高天原に於いては、三代の君の皇孫(すめらぎ)としてニニギの尊順調にご生育遊ばれ、今や尊の御参政の御世と相成り、アマテラス以来の勅(みことのり)してのたまわく、『豊葦原(とよあしはら)千五百(ちいほ)の長い穂、秋の瑞穂の国は、我が子孫の世々にして治むべき地なり。汝皇孫行きてしろしめせ。天津日嗣(あまつひつぎ)の豊祚(ほうそ)の栄えまさんこと天地と共に窮(きわま)りなかるべし』。この大御言(おおみこと)により、我々両神、重き勅命頭にいただき、この国どころを所望に天下り候」。
イナセハギ  「それはお役目大儀でござる。なれど、高天原の一方的なご神勅で、この国が易々と従うというのは有り得ないことではあるわな。そもそもこの国は、高天原と比しても遜色のない、これまた神の御世が歴代続く神の国であるぞな。この辺り承知しているか」。
両神一  「詳しく申せ」。
(解説)  ここで、イナセハギが出雲王朝史を延々と語る。時に高天原王朝史と比較しながら出雲王朝の素晴らしさを説く。
両神一  「高天原に詳しいそちは何者ぞ」。
イナセハギ  「おぅ、これは失礼した。私は高天原にある時は武夷鳥の尊。そしてこの地に天下ってからは大国主の命と主従の契約を結んで家来として仕えている稲脊脛である」。
(ト書き)  イナセハギが身元を明かしたところから形勢が転じ、それまでの威圧的な物言いから許しを請う非勢へと変わる。
両神一  「お前は元をただせば、第一番の勅使として高天原からこの地に下ったのではないか。それにも拘らず帰り言を致さず、この地で大国主の命の家来になるとは何事か」。
イナセハギ  「それわじゃな。私は、出雲へやって来て大国主の命様が治める様子を見て、これこそ理想の政治ならんと知り、以来ご協力を申し上げる身に転じた。当地では、上も下もが相協力し御国を支え、諸人が神を敬い人を慕い和している。これは素晴らしいことではござらぬか。汝ら御命令に従ってのことであろうが、いきなり剣を抜くようなことではあるまい。ここは一つ、お互いに良かれの道を追求すべきではないのか」。
 イナセハギと太鼓の掛け合い
両神一  「稲脊脛殿、そなたがどう弁じようと、そなたの変心は高天原から見れば裏切りである。高天原の者が出雲へ寝返って良い訳があろうまい。使者は、使者の本分を尽すことが使命ではござらんか」。
イナセハギ  「云われてみれば、使者の立場を損ねた非がある。汚名挽回、名誉回復のためご協力させていただく覚悟ですので、私の役に立つ事なら何なりと云い付けくだされ」。
両神一  「そこまで改心したのなら許そう。して、何か名案はあるか」。
イナセハギ  「こたびの国譲りの件を稲脊脛に御託しくださるなら、当地の事情に通じた稲脊脛ならではの相互に良きような取り計らいを致しまする。この儀、いかがならん」。
両神一  「申せ」。
イナセハギ  「大国主の命にはたくさんの子供がおいでである。その中に、天に在りては地のことを知り、地に有りては天のことを知ると云われる誠に賢いコトシロ主の命様がおられる。このコトシロ主の命様と大国主の命様がご相談為されるのが良いかと存じます。暫しの猶予を貸してくださらんか」。
両神一  「そういうことであるなら、稲脊脛に一任するから良きに取り計らえ。今しばらく見守ろう」。
 両神、退場。

 参考までに、備中神楽の「イナセハギと両神の掛け合い」に言及しておくと、史実性の高いと思われる遣り取りを全く無視し、イナセハギのひょうきんさをのみ浮き彫りにするものに仕立てている。これを現代世相に応じたものにしているので面白みはあるが、国譲りそのものの遣り取りとは関係ない長々の遣り取りとなるので割愛する。備中神楽の「イナセハギと両神の掛け合い」その現代バージョン」は駄作であり使いものにならない。但し、それまでの緊迫した遣り取りの息抜きとして演芸効果はあるのかも知れない。

【国譲り譚その7、イナセハギの出雲王朝の文人頭コトシロ主の呼び出
し】
イナセハギ  「なんと、音楽さん。さっきのやりとりを見ておられましたか」。
太鼓  「いや、私は知りませんが。どうなされました」。
イナセハギ  「難儀なことを請け負わされました。音楽さん、請け負うてくださらんか」。
太鼓  「私は知りません。あなたが請け負われたのですから、なさらにゃあいけません」。
イナセハギ  「そうですか。そんなら仕方がありません。ところで、美保関まで行くには何がいいでしょうかな」。
太鼓  「そうですなあ。それは馬がよろしかろう」。
イナセハギ  「そうかな。それでは、馬を借りて来ましょう」。
(ト書き)  イナセハギ、馬を借りに幕内に入る。

 イナセハギは、素元(すもと)を馬に見立てて、幕内から引き出してくる。太鼓の急調子に乗って、美保関めざして一気に馬を駆る。関に着くまで、畳の上を数十回跳び上がる。このあと陣羽織をぬいで、艫綱に見立て、諸手船に乗って海を渡る仕草を演じる神楽社もある。

稲脊脛  「ドウドウドウドウ。馬を借りて来ました。なんと、音楽さん。この馬はずいぶん痩せとりますなあ。その上、早う乗れ、早う行ってえと、尻をピンコ、ピンコと上げようりますがな」。
神歌  「急ぐには風の袴(はかま)に火の車(「両の駒」とも記す)
 、千里の道もいまぞひと飛び(千里の道をひっと跳びにする)」。
 稲脊脛、素元の馬を走らせる。
イナセハギ  「音楽さん。とうとう着きました」。
太鼓  「どこえな」。
イナセハギ  「お尻が畳に着きました。ところで音楽さん。このへんからコトシロ主の命を呼んだら聞こえるでしょうか」。
太鼓  「そりゃあ、聞こえましょう」。
イナセハギ  「そうですか。それでは大声で呼んでみましょう。さって、このところにコトシロ主の命様はおわしまさんかな。おわしますなら、はやばやおん立ち給えやな」。
 コトシロ主は、大国主の命と神屋楯姫神(かむやたてひめ)の間の子供と云われる。神屋楯比売神の出自は不詳であるが、旧事本紀には「坐辺都宮・高降姫神」と書かれている。兄の味鋤高彦根神(賀茂大神)の母が「坐胸形奥津宮神多紀理比賣命」と書かれているので、この伝によれば宗像系と云うことになる。大和平野の葛城山系の麓にある鴨津波(かもつは)神社の祭神となっており、鴨一族の代表であった可能性がある。この場合、鴨族が、遠祖を出雲王朝とするのか、大和葛城地方の土着豪族のどちらかということになろう。鴨族には別に高天原王朝系の系譜もあり非常にややこしい。
 事代主神(ことしろぬし)
大国主神
神屋楯比売命
三島溝杭女玉櫛媛(紀)、天津羽羽命?。三島溝杭女活玉依姫(旧事)
子供
五十鈴媛(神武天皇后:紀) 五十鈴依媛(綏靖天皇后:紀)
日本書紀名;事代主神、別名;八重言(事)代主神。
託宣をつかさどる大国主神の御子神。
神話 国譲り神話
国譲り神話;大国主神が、伊那佐、小浜で天神より服従を迫られた時「僕は之白さじ。我が子八重言代主神、これ白すべし」と答えた。この時事代主神は、「御大の前」で鳥と遊び、魚捕りをしていたが、「恐し、この国は天津神の御子に立て奉らむ」と父に語り、その乗ってきた船を踏み傾けて,天の逆手を打って青葉の柴垣に変えて隠れてしまった。(美保神社、青柴垣神事)
日本書紀;事代主神は、八尋熊鰐になって三嶋の溝織(クイ)媛(玉櫛媛)に通い、タタラ五十鈴媛命を生んだとある。綏靖、安寧天皇妃も子供、孫である。
 (古事記には、この記事なし)
 古事記では、大和での事績のほとんど記されてない人物。日本書紀では非常に重要な人物。先代旧事本紀では、大己貴神の子供であり、日本書記と同様な系譜とさらに大田田根子に続く詳しい系譜が記されてある。
神功皇后紀にも「事代主神を祀れ」とある。
大嘗祭8坐の一柱。
天武紀「高市県主許梅」の神懸かり「吾は、高市社に居る名は事代主神なり。---」の記事。天皇の守り神的性格として登場。
出雲国と結びついて語られるが、その出自が出雲国にあるか疑問。「出雲風土記」にはその名なし。

【国譲り譚その8、 コトシロ主の舞】
 備中神楽では、大国主の命の長子、コトシロ主の命が、にこやかにして理知的な面相で舞い出る。コトシロ主は後に島根県美保関町の美保神社の祭神となる。

神歌 「沖中に、はるかに見ゆるあの岩は、あれぞ、恵比寿(えびす)の腰掛けの岩」。

 神楽では、舞い出る神々ごとに独特の節回しをもった神歌を歌う。神歌は、いわば、舞い出る神の性格と役割を知らせる一種のせりふだと思えばよい。舞い手には、おおむね小柄な太夫が選ばれる。コトシロ主の舞の動きは激しいが、複雑に見えて実はそれほど難しい舞ではない。

 この神歌の中に「恵比寿」(えびす)とあるのは、大黒(だいこく)と対になった福の神で、コトシロ主の別名である。神楽では、華やかな衣装と、小道具として釣竿を肩に鯛をぶら下げている姿が特徴である。コトシロ主を親しみを込めて「えびす」、「えべっさん」、大国主を「だいこく」、「だいこくさん」とも呼ぶ呼び方もある。「恵比寿」(えびす)と「大黒天」(だいこくてん)は、室町時代から江戸時代にかけて人気のあった民間信仰の七福神の中に納まって伝承され続けている。

 コトシロ主の命には鯛釣りの逸話がある。島根半島突端の美保の関は昔から対馬暖流に乗って回遊する鯛(たい)の釣り場として有名である。コトシロ主の命は釣り好きで、一番鶏の鳴き声にだまされて真夜中に鯛釣りに出かけ、鰐鮫(わにざめ)に片足を食いちぎられたという。だから、コトシロ主の命の舞は片足ではねたり跳んだりする所作が織り込まれている。軽快で、生き生きと、いかにもうれしそうに、楽しそうに鯛釣りに興じているさまを表現するのが上手な舞い方である。この舞いは、各社中ごとにいろいろ工夫して演出し、特に鯛を釣り上げるところが圧巻であろう。太鼓のリズムはほぼ共通していて子どもでも覚えやすい。
事代主  「承って候」。
神歌  「沖中に、はるかに見ゆるあの岩は、あれぞ、恵比寿の腰掛けの岩」。
 一畳の舞
事代主  「さって、このところに舞い出だす神をいかなる神とや思うらん。我こそはこの国の主(あるじ)大国主の命が一子、コトシロ主の命にて候」。
 二畳の舞
神歌  「魚のえ 越えてゆくらむ 出雲なる、美保の岬で 釣りぞ楽しむ」。
神歌  「今日もまた 美保の浜沖 静かにて いざ船浮けて 釣をえん」。
神歌  「いなどりや 釣の遊びも 空晴れて 波風立たぬ 今日の楽しさ」。
事代主  「さって、海上波静かなれば、これより釣り針おろさばやと存じ候」。

 イナシハギとコトシロ主の命の遣り取りは、元々なかったのか分量が増え過ぎるため割愛されているのか、備中神楽では演ぜられないようである。

【国譲り譚その9、コトシロ主との談判譚】
 国譲りの判断を任された片方の文人頭のコトシロ主は次のように対応した。古事記は次のように記している。これを仮に「国譲り譚その9、コトシロ主との談判譚」と命名する。
 「この時、コトシロ主は美保の崎にいた。アメノトリ船が向かい連れて来たタケミカヅチが、大国主の命に対して述べたと同じことを伝えると、『かしこまりました。この国は、アマテラス様の御子に奉りましょう』と云い残して、拍手を打って、船棚を踏んで自ら海へ身を投じた(「天の逆手を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して隠りき」)。コトシロ主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった。後に恵比寿様として七福神に入れられ奉られることになる」(「日本神道の発生史及び教理について」)。
 「そこで、熊野諸手船(くまののもろたふね)またの名は天鴿船(あまのはとふね)に使者のイナセハギを乗せて遣わした。そうしてタカミムスビの勅(みことのり)をコトシロ主に伝え、その返事を尋ねた。するとコトシロ主の命は使者イナセハギに、「今、天神(あまつかみ)のこの借問の勅あり。我が父(かぞ)宜(よろ)しくまさに避り奉るべし。我もまた違うべからず」と語って、海中に八重蒼柴籬(やえあおふしかき)を造り、船(ふな)のへを蹈みて避(さ)った」。
(私論.私見)
 「この時、コトシロ主は美保の崎にいた」を、もう少し詳しく見れば、「コトシロ主はこの時、出かけていて、美保の崎でを釣るを樂(わざ)となしていた。あるいは、遊鳥(とりのあそび、鳥の狩り)を樂となしていたと伝えられている。コトシロ主が七福神で恵比寿様に例えられ、恵比寿様の風体が鯛を抱え、釣り竿を背負った格好をしているのは、この時の姿を表現していることになる。ちなみに、「鳥の遊び」とは、「古い魂を鳥に返し、新たな魂と交換する」宗教儀式を指している。「鳥が魂を運ぶ」と云う信仰はアジアの広い範囲で確認できるところのものである。つまり、「鳥の遊び」は遊戯としての遊びではない。
 「コトシロ主との談判譚」は、国津族の文人頭、コトシロ主が苦衷の末「国譲り」に応じ、同時に王朝の安泰を願って我が身を引き換えに姿を消したことを明らかにしている。「青柴垣」は、古神道に於ける聖域を意味しており、護り神となったことを暗喩している。投身自殺し後々の信仰対象となったのか、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びたのか、あるいは高度な政治判断により投降により勢力温存を図ったのかは不明である。

【大國主命と事代主命コトシロ主の命の関係考】
 大國主命が武甕槌神に国譲りを迫られた際に事代主命に相談している。秀真伝では事代主命が「クシヒコ」と呼ばれている。「クシの神」とは少彦名神のことであるので繋がりがあると考えられる。一説に次のように記されている。
 「思うに、大國主命の子である事代主命は少彦名神が去ったあとに少彦名神を降ろす霊媒となって神の意思を伝える巫覡(ふげき、かんなぎ)的な存在ではなかったか。事代という意味は言代であり神の言葉を寿ぐということであろう。それで大國主命は事代主命を通して少彦名神の思いを聞いたのではないかと思う。あるいは事代主命は少彦名神を信奉する一族の娘と大國主命の間の子で事代主命はこの少彦名神を信奉する一族を束ねる立場にあったのかもしれない。いずれにせよ事代主命は少彦名神の意思を継いだからこそ「ゑびす神」とされたのであろう。出雲の美保関町に「延喜式」にみえる美保神社がある。全国のゑびす社3385社の総本社となっているが、この地の首長が事代主命を祭祀していたものが、大國主命を祭祀する一族に取り込まれたという説もある」。

【コトシロ主の命と蘇我氏の関係考】
 注目すべき着想をえた。即ち、後の蘇我氏はコトシロ主系の子孫ではなかろうか。こう理解するとコトシロ主の隠退、蘇我氏の台頭史が整合的に理解できるようになる。「タケミカヅチは八咫烏(やたがらす)の孫。事代主は蘇我大王」を参照すると、コトシロ主は「八重コトシロ主」とも記されている。八重はハエでもあり、大隅語ではハエは「速い」であるとのこと。事は日のジツのジに通じる。即ち、八重事は「速日」に合う。代はダイの音が「大」に繋がる。主は「王」でもあり、「速日大王」の裏意味を持っていることになる。コトシロ主は七福神の恵比寿(エビス)として知られており、関西では「十日えびす」を祭る。十日の十は「ソ」、日は「カ」で蘇我に繋がる。ここに蘇我とコトシロ主が繋がり、コトシロ主が蘇我の祖であることが判明する。この推理の重要性は、蘇我氏の台頭、王権化、失墜の歴史ドラマを出雲王朝絡みで整合的に説明できることにある。

【コトシロ主の命を祀る神社考】
 「荒川 豊‎ / 神社と歴史の広場」参照。
 【日白(ひじら)神社】

 島根県安来市日白町。御祭神/事代主命。安来市の西の玄関口、荒島地区の上側山手の梨農業が盛んな地域に鎮座されている。由緒は不明ながら通称一の宮、慶長年間の棟札には伊久志明神とあったと云う。ようです。この地の伝承に、海からの波風が強く住民は常に不安を抱えて暮らしていたところ「金色のうさぎ」が現れ、「日と月の神様を祀れば風や波の被害がなくなり、住民が安全になり、作物が豊かに実るでしょう」と告げた。そこで日形大明神(天照大神)、月向山形大明神(月読尊)をお祀りしたところ波風の被害がなくなった云々と云う。この地区には「月向山形大明神」を祭神とする月形神社はあるが、「日形大明神」を祭神とする神社は見当たらない(月形神社の後方高壇に日形社とよばれる祠はある)。伊久志明神を辿ると伊伎志爾男命で、長崎県壱岐市の月讀神社、京都の松尾大社の境外摂社の月読神社に伝わる日・月の神の伝説に辿り着く。
 参考
・高市御県座鴨事代神社(奈良県橿原市雲梯町689)
式内社、旧村社 現在名:河俣神社
祭神:鴨八重事代主神
・鴨都波八重事代主神神社(奈良県御所市御所513)
旧県社、式内社
祭神:積羽八重事代主神
別名:下鴨社  三輪神社別宮
創祀:崇神朝に鴨積が葛木の地に奉祀
・高鴨神社(御所市鴨神1110)
旧名:高鴨阿治須岐詫彦根命神社 大神神社・大和国魂神社と同じ従二位の神階
明神大社、旧県社、式内社
祭神:味治須岐高彦根命
別名:高鴨社   自称全国鴨神社の総社
・葛木御歳神社(御所市東持田御歳山)
祭神:御歳神、高照姫(事代主神同母妹)
別名:中鴨社
・長柄神社(御所市名柄字宮271)
旧村社、式内社
祭神:下照姫(あかる姫)(味治須岐高彦根命の同母妹)





(私論.私見)