*【山鹿素行】
《我れ等事幼少より壮年迄専ら程子朱子の学筋を勤め…(中略)漢唐宋明之学者之書を見候故、合点不参候哉、直に周公孔子の書を見申候て、是を手本に仕候て学問の筋を可申存》(『配所残筆』)
《若し聖人の道を不知して、儒の行は如此、聖人の家つくりは如此と形を立てば、儒者の宅は寺院の如く、儒士は僧沙門の体になりて、何のいたしなすこともなく、深衣を着しかんむりをいたゞき、記誦詞章を玩んで世務日用に施すべきなく、文武農工商に用ふべき道なく、只だ出家の女犯肉食して国の遊民たるにことなるべからざる也》(『山鹿語類』)
山鹿素行像
*【太宰春台】
《初め山鹿子、兵法を談ずるを以て赤穂侯に事ふ。良雄らこれに従ひて学ぶ。吉良子を殺さんと謀るに及ぴて、ことごとくその法を用ふ。ここを以て、計に遺策なく、能くその事を済す。然れども、怨む所を知らざるは、大義において闕くることあり。山鹿氏の教、乃ち爾り》(『赤穂四十六士論』)
*【山鹿素行】
《私に云く、楠正成云ふ、一気に三あり、始中終是なりと云々。然れば、始気に三段、中気に三段、終気に三段あるべければ、其の察気を綿密ならしめずんば、真実の勝負をしる事かたかるべし。正成は此の気をよく知りけるにや、天王寺へ出張のとき、両六波羅より隅田、高橋五千余の軍兵を率し相向ひけるを、わざと渡部の橋を引かずして、軽兵少し計りさし出し、京都の軍勢を相待ちたり。是を敵の気をまはすと云ふなり。其の故は…》(兵法奥義)
湊川神社 嗚呼忠臣楠子之墓
元禄4年 水戸光圀建立
大楠公像 皇居前広場
楠
大石ニ化スル圖
曲亭馬琴 楠正成軍慮智恵輪
*【太平記】
《抑、元弘以来、忝も此君に憑れ進せて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然共、此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨て敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智仁勇の三徳を兼て死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横(ま)に威を振ふべき、其前表のしるしなれ》(巻十六 正成兄弟討死事)
*【山鹿素行】
《古今兵を論ずるの士は、殺略戦陣を専らとす。故に兵法は一技の中に陥る。天下の間は士農工商に出でず、士は農工商を司り、士の至れる者は帝王・公侯なり。士の業を兵法と曰ふ。若し兵法を以て、修身正心治国平天下の道を尽さずんば、兵法は用ふるに足らず》(兵法奥義)
*【北条氏長】
《居城を主として我これに居り、人数を四方に分けて、その境目を守らしむるは方円なり。その道を行ひ、道理によってこれを下知するは、神心の曲尺なり》(『士鑑用法』)
*【山鹿素行】
《事理は方円を出ず、方円は天地なり。天地の理を知るは、惑はず、懼れず、憂へず》(兵法奥義)
*【五輪書】
《第二、水の巻。水を本として、心を水になる也。水は方円のうツわものに随ひ、一滴となり、滄海となる。水に碧潭の色あり、きよき所をもちひて、一流のことを此巻に書顕す也》(地之巻)
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