Antonius R. Pujo Purnomo, M.A.国立アイルランガ大学「武士道の歴史と新渡戸稲造『武士道』の位置」の次の部分を転載しておく。
1.2 「武士道」及び「武士道」論の歴史
「武士道」及び「武士道」論の歴史は「武士」の発生と共にできたと考えても良いであろう。「武士道」の歴史の流れは大きく分ければ、三つに分けられる。第
一は、中世「武士道」であり、平安末期(10世紀後半)の地方の集落に生まれ始めた「武士」から始まり、荘園制度の誕生と共に武士団も成立、団結した武士
団は強力になり、幕府を成立させた。この時代は、戦争が多かったため、「武士道」という観念は武士の一人一人の実力を重視することになった。第二は、近世
「武士道」であり、徳川幕府の力で天下を統一して、およそ250年以上の平和の中で武士達は、武士としてのやるべきことは何かと道徳的な「武士道」を考え
ていた。第三は、近代「武士道」であり、武士社会がなくなると共に、士族階層は近代的な社会にどのように関わっていくのか、が問題であった。
以上にも述べたように「武士道」とは何かという質問に対して簡単には答えられるわけではない。時代、人々の見方によって、解答も異なる。以下で私は、「武士道」の誕生と歴史について、様々な先行研究に基づいて、述べたいと思う。
(1) 中世 (平安末期―戦国時代、10世紀―16世紀)
中世の武士達は自分の立場、主君との関係に対して非常に単純な考え方を持っていた。武光誠によると、中世の武家社会における主従関係は、「御恩と奉公」と
表現される。家臣は物的な利益など、主君から受けた恩恵に相当する分の恩返し(奉公)をせねばならないというものである。軍記物などには家臣の忠誠を称え
る話が多く出てくるが、「武士は命をかけて主君に仕える」ことを唯一の生きがいにしていたわけではない。彼らにとって最も大切なものは、自分が治める荘園
村落であったと述べている。また、武光は、小領主たちは自領を維持するために、その時々の有力者を主君としたと言う。『源平盛衰記』に次の話がある。
治承4年(1180年)に、源頼朝が反平氏の旗揚げをしたときのことだ。相模国の有力な武士、大庭景親が、この頼朝を討とうと攻めよせてきた。そのため源氏
方と平氏方との間で、石橋山の合戦が起こった。この合戦のはじめの互いの正当性を主張しあう場面で、源氏方の北条時政が、「おまえの先祖は源義家(頼朝の
祖父、為義の祖父)の家臣だったではないか」と言ったところ、景親がこう応えた。「わが祖先は源氏を恩主君としていたが、昔は昔、今は今。恩こそ主よ。源
氏が平治の乱(1159)で没落して以来、私は平氏より海山のごとく深く高い恩を受けてきた。この恩を知らざるものは木石である」と言った。
以上の話について、武光は、「この言葉は、この時代の武士の正直な気持ちを伝えるものであろう」と述べている。それだけではなく、中世の武士達は命を大切に したという。それは、自分がいなければ自分の家族や領民を守るものはいなくなってしまうという考えに基づくものだといっている。
一方、佐伯真一は、中世の武士の道は、武士独特の道徳というような意味より、武士としての実力、能力の意味で使われていたと述べている。高橋昌明も同じようなことを述べている。
中世の他の道と同様、「兵ノ道」にことさら精神的・倫理的なものを求めようとすることは適当ではない。「兵の道」は(中略)勇敢・敏捷、腕力と判断力に優れた、バランスよい戦闘能力の保持に重点を置いており、それであってはじめて中世的な「道」たりうるのである。
佐伯真一らがいうように、平安時代から鎌倉時代にかけての「兵の道」「弓箭の道」あるいは「弓馬の道」は、おおよそ武士らしい能力や習慣、ないしは生き方
全般に広くかかわる言葉であって、特に倫理・道徳を意味したわけではなかった。しかし、南北朝時代に入ると、武士らしさの生き方も少し変わったことがわか
る。『太平記』によれば、たとえば巻一〇「新田義貞謀叛の事」における脇屋義介の言葉「弓矢の道、死を軽んじて、名を重んずるを以て義とせり」、巻三一
「新田義兵を起こすこと」における石塔頼房の言葉「今更弱きを見て捨つるは弓矢の道にあらず」などは倫理・道徳にかかわる面も見られる。しかし、中世の基
本的な「武士道」の特徴はまだ大きくは変わっていないと考える。
中世末期から近世初め頃の間に、「武士道」の観念についての最も大事な変化が見 られる。それは甲陽軍鑑(1615−1624)に見られる。これが近世の武士の生活の一つの起源となったと思う。本書は、武田信玄の家臣、高坂弾正昌 信(虎綱)の著作として伝えられた。この本には、武田信玄を中心とし、上杉謙信との戦いのほかに、武士としての精神的な態度、甲州に起こった事件と侍の生 活が記されている。佐伯真一によると、「現在、武士道と言う言葉の初期の用法を考える最大の手がかりは、甲陽軍鑑であるとするのが、通税的な理解であろう。甲陽軍鑑大成の索引篇によって検査すると、武士道三九例を拾うことができる。また、武道は六五あり、その他、類似の言葉に侍道、男道などがある。尚、中世末期から近世にかけて、武士道と武道は、ほぼ同義に近く、混用されたようである。例えば、甲陽軍鑑では、(中 略)「我が家の仏尊し」と言う態度であると思われるようでは「武士の道」とは言えず、すべてを飾らず、ありのままに申し置くのが武道であるとした。こ こでは「武士の道」はほぼ武道に等しい」と述べている。
佐伯真一はまた、「甲陽軍鑑における「武士道」、「武道」の用法は、武士として の能力一般ないし、武士そのものを言うような例もあって多様だが、精神性をいう側面に注目すれば、「勇敢さ」や「男らしさ」などに強くかかわり、貴族的な
上品さに対立する概念といえるようなものである。例えば、侮辱を受けたり、引くに引けない時には瞬時に戦闘を決断し、後先を考えず「きっかけ」を外さずに
戦うことができる―そのような、よくいえば野性的で力強い、悪くいえば粗暴で野蛮な、荒々しい精神といえようか」と述べている。
甲陽軍鑑について他の論者を見てみよう。甲陽軍鑑の武士を上中下並の四つに分類した菅野覚明によると、「甲陽軍鑑がとらえる最も優れた「上」の武士とは「剛強にて、分別・才学ある男」である。
「勝ちがなければ」と説く軍鑑の「武士道」は、先学も指摘するとおり「道徳的な意味での武士の道」ではなく、「端的に武力をもってする闘争の仕方のこ
と」(和辻哲郎『日本倫理思想史』)であったから、「剛強」が武士の第一条件とされるのは当然である。しかし、ただ強いだけでは十分ではない。真に優れた
武士、或いは名大将に欠かすことのできない条件として軍鑑があげるのは、「分別」であった」(P.93) と述べている。以上に述べた甲陽軍鑑に対しての二人の論者の共通点は、本書にえがかれた当時の武士の生き方は、中世的な「武士道」と基本的には変わり
ないが、「貴族的な上品さに対する概念」、「闘争の仕方」、「才学ある男」と言うような特徴があった。
以上の様々な先行研究に基づいて、中世の 「武士道」の特徴を次のようにまとめておこう。(1)中世の武士は「御恩」によって「奉公」を行うこと、つまり、自分の利益によって主君に従うことである
(武光誠の説)、(2)中世の「武士道」が重視することは武士らしい能力と習慣である(佐伯真一の説)、(3) 甲陽軍鑑によれば、中世の「武士道」が重視したのは、武士の能力だけではなく、さらに、武士の「分別」と「才学」が大事ということである(菅野覚明の説)。中世の「武士道」は、武士の行き方や武士がやるべきこととは何かという道徳的な考え方ではなく、利益、能力、才学というものが重視されていた。
(2)近世 (江戸時代、1603−1868)
江戸時代は「武士道」論の形成に関して最も豊かな時代と考えられる。なぜなら、戦国時代が終わってから、1614−1615年に徳川家康は豊臣秀頼を倒し
た後、徳川幕府はおよそ210年以上安定な政権を守り続けた。この時代に武士の生活には大きな変化が見られる。武光誠は言う。戦国時代が終わってから、武
士にとって最も大切なものは、農民を治める能力ではなく、武芸であった。しかし、江戸時代に安定した武家政権が確立すると共に、武芸の必要のない時代が訪
れた。農村の統治は村役人に任せられ、幕府や大名でなければできない仕事は交通路の整備、大がかりな用水や新田の開発、商工業の育成といったものになって
しまった。しかも、江戸時代初めには、民政は下級武士の仕事だとする考えが強かった。そのため多くの武士は、形式的・儀式的な仕事を少々行うだけの、暇を
もてあます生活をおくることになったと述べている。
この平和な時代には、武士達は武芸を習うほかに、様々な学問を学び始めた。しかし、あまりにも長い平和の時代を過ごしたから、油断してしまった武士達もい たわけである。このような状況を見て、何人かの武士達は、「武士はどうすべきか、あるいは、武士らしい生き方はどうすべきか」という「武士道」の道徳を形 成した。たとえば、宮本武蔵が書いた『五輪書』(1643)、山鹿素行の『士道』(1663−1668)、大道寺友山の『武道初心集』(18世紀)、山本 常朝の『葉隠』(1716)などである。これらの本の内容は次のようである。
五輪書は、二天一流の祖、剣客宮本武蔵(1584-1645) による同流派の基本的伝書である。成立は1643年頃で武蔵の晩年の著作である。1640年、肥後細川藩主の客人として迎え入れられた武蔵は、翌18年、
藩主細川忠利の命により『兵法三十五箇条』として、はじめて二天一流の兵法を筆紙に上せた。五輪書は、この『兵法三十五箇条』を基に、編集・敷衍され
たものである。本書について、武光誠は、「五輪書では、武士は「戦いに勝つため」に生きるものだとする倫理が記されている。そして剣術を学ぶにあたっ
ての心得があれこれ書かれるが、その内容は、分かりづらいものになっている。「一切の迷いのない空」の境地にいたるのが兵法の極意だといわれても、一般人
は「空」が何かを理解できない。三代将軍徳川家光の兵法指南を勤めた剣術家柳生宗矩の『兵法家伝書』も、江戸時代に広く学ばれたものだが、それも「太刀先
の勝負は心にあり」といった禅問答のような内容になっている」と述べている。
山鹿語類全45巻の内の第21巻が士道である。山鹿語類は江戸初期の儒学者・軍学者である山鹿素行(1622−1685)の門人達が、 1663年から1665年にかけて、彼の言葉を編集したものである。(『日本思想大系32・山鹿素行』岩波書店に収録)。山鹿素行の「武士道」に対する考 えは次のような文章からわかる。
身上の動静 ことごとく礼の用たれば、一動一静一語一黙おのおの礼節あり。(中略)内外は本一致にして別ならず、外その威儀正しきときは内その徳正し。外にみだるる処あれば内必ずこれに応ず。(山鹿語類「毋不敬」)
この引用の部分を基に、大橋健二は、山鹿素行の士道論の特徴は、このような士としての「威儀」の重視にあったと述べている。 『武道初心集』は江戸時代、諸国を遍歴した軍学者大道寺友山(1639−1730)の手による、武士のための教訓書である。大道寺友山の最晩年の著作であるとされるが、成立年は明らかではない。全五十六カ条から成る。本書の中に、「武士というのは、正月元旦の朝、雑魚を祝う箸を手にしてから、その年の大晦
日の夜にいたるまで、毎日毎夜のごとく、心に死を覚悟するのを第一の心がけとするものである」と書いてあり、『葉隠』と同様、死の覚悟のほかに、武士の奉
公の重要性について書かれたものではないかと思う。
『三河物語』とは、三河武士、大久保彦左衛門忠教(1560−1639)の著作である。徳川 家代々の事績と、それに仕えた大久保一族の言行を記した書で、上中下全三巻で構成されている。本文中の記述に従えば、成立は1622年であるが、1626
年頃まで補筆、修正があったと考えるのが定説である(『日本思想大系26・三河物語 葉隠』岩波書店に収録)。
『葉隠』は、鍋島藩士田代陣基 (1678−1748)が、同じく鍋島藩士山本常朝(1659−1719)の談話を筆録したものを基に、諸資料に当たって編集したものと考えられている。 1716年頃の成立で、「夜陰の閑談」という長文の序と十一巻の聞書で構成されている(『日本思想大系26・三河物語 葉隠』岩波書店に収録)。『葉隠』 の中で最も有名な文書は「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」である。これは、主君への絶対的な忠誠とともに死の清さ、死の覚悟を強調するのではないか と思う。
以上に述べた様々な「武士道」に関しての著作によると、近世の「武士道」論の特徴は、中世の「武士らしいの能力と習慣」と中世末期の 「闘争の仕方」を重視することではなく、道徳的・倫理的な生き方を重視するようになった点にある。平和に恵まれていた江戸時代には、戦いはほとんどなく、
芸術や学問などを学ぶ時代になった。
(3)近現代 (明治維新―現在、1868−現在)
江戸時代には武士の道徳・倫理的な規範 を「武士道」と呼ぶこととなったが、「武士道」は必ずしも一般的な呼び方ではなかった。当時の一般的な呼び方は「武士の道」或いは「士道」であった。「武 士道」という呼び方は明治30年以降から広まった。一つの理由は新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』が明治30年(1900年)に出版され、多くの読者が 注目したからである。
明治時代に入ると、武士階級がなくなると共に「武士道」論も少しずつ変わってきた。もと武士であった彼らは明治の社会でど のような役割を担っていたのか、あるいは明治の社会階層のどの部分に位置していたのか、これらの疑問を明らかにするには明治時代の士族階層の行動規範ある
いは思想を考えていく必要がある。
「やせ我慢の説」は1891年(明治24年)に書かれた勝海舟と榎本武揚に対する福沢諭吉(1834−1901)の批判の書である。 発表されたのは10年後の1901年(明治34年)である。福沢は、戦わずして江戸城まで明け渡した勝海舟や、五稜郭に籠もって戦いながら後に明治新政府
で大臣にまで出世した榎本武揚などの旧幕臣を、日本の武士の美風であった「やせ我慢」を失ったものとして批判する。福沢によれば、国民一人一人が「独立自
尊」の民となったとき日本の独立は達成される(「一身独立して一国独立」)というのである。
もう一つの『武士道』は、幕臣の家に生まれた剣客である山岡鉄舟(1836−1888)が明治20年(1887)に行った講義の口述筆記である。 山岡の弟子である勝海舟が明治35年(1902)に出版した。山岡『武士道』の内容は、まず仏教の四恩を語り、次いで社会の堕落と科学の発達の関係を語っ
た後、日本には古来、「天地未開の前」から、「皇祖皇宗」に伴って「武士道」が存在していたと語り、それが衰えつつあることが社会の乱れの原因であるとし
て、「武士道」精神を根本にして生きていく必要があると説く。山岡によれば「武士道」とは仏教、儒教の影響を受けているというが、神道については明言して
いない。
明治11年(1878)10月12日、軍人を統制し、政治から分離すること目的とし、西周(1829−1897)が起草、陸軍卿山県有 朋(1838−1922)の名で陸軍に発布されたのが『軍人訓誡』である。そして、この『訓誡』の4年後の明治15年(1882)1月4日、山県の命によ
り西が起草、明治天皇(1852−1912)が陸海軍軍人に対して下したものが、5か条から成る『軍人勅諭』である。 近代的な国家を形成するためには強い軍事力を作らなければならない。そこで明治政府は1873年1月に徴兵令を出した。徴兵令は、士族たちだけではなく、
一般の国民に対しても下された。『軍人勅諭』は、徴兵制開始の9年後に、明治天皇から陸海軍人に対して下された。5か条は、以下のようである。
一、軍人は忠節をつくすを本分とすべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尚ぶべし
一、軍人は信義を重んずべし
一、軍人は質素を旨とすべし
この「忠節」、「礼儀」、「武勇」「信義」、「質素」が明治の近代的な「武士道」の観念となった。
1889年に作られた『大日本帝国憲法』の中には、「天皇は陸海軍を統帥する」という条文がうたわれ、日本軍は天皇のために命を捧げなければならないとい
う意味も加えられた。これについて、武光誠は、「明治政府による「忠誠」の教えは危険な要素をはらむものであった。江戸時代の武士の忠誠は俸禄を与えてく
れる将軍や大名に対するものであったが、明治維新によって幕府も藩主もなくなり、兵隊が仕える対象は天皇一人だけになっているからだ」と述べている[16]。このような「武士道」の新しい発想が日本の国家主義につながったのではないかと思う。
“Bushido, The Soul of Japan: An Exposition of Japanese Thought”(武士道、日本の精神:日本思想の解説)(英文)は農学博士新渡戸稲造(1862−1933)が、日本の道徳観念を外国人に紹介するため に執筆、明治33年(1900)米国で出版した。新渡戸ははじめて外国に紹介する日本の道徳観を、西洋の道徳観・倫理観と関連づけながら、普遍的な道徳の 価値観に基づいて語った。(本書についての評価は後に詳しく述べたいと思う)。
「武士道と基督教」は明治・大正期の思想家内村鑑三(1861−1930)が『聖書之研究』誌に発表した文章である[17]。 内村鑑三による「武士道」観は次の文からわかる。内村は「武士道は日本国最善の産物である」、「武士道は神が日本人に賜ひし最大の賜物であって、これがあ
る間は日本は栄え、之が無くなるときに日本は亡ぶるのである」と述べている。これについて、大橋健二は「明治時代の代表的なキリスト者の内村鑑三がこれほ
ど武士道を称賛しているのは意外に思われるかもしれないが、幼年時代から身につけた武士道の精神は、それほど彼の骨髄にしみっていたからである」と述べて
いる。
船津明生は、明治期の「武士道」論についてそれぞれの特徴あるいはそれぞれの規範となった思想によって明治期の武士道を三つに分けている。
1)山岡鉄舟等の旧来の武士道を守り伝統を伝えるもの、また福沢諭吉『やせ我慢の説』等に代表される精神論に受け継がれていく<和魂的武士道>。
2)『葉隠』の伝統を残し、軍人勅諭等に代表される天皇中心の政治形態を強固な物にしようとするイデオロギーとしての滅私奉公を基本倫理とした<天皇的武士道>。
3)新渡戸稲造『武士道』に代表されるプロテスタン精神との融合を目指し、国際的かつ普遍な思想へと武士道を高めていこうとした<キリスト教的武士道>。
1)と2)の「武士道」は江戸後期に発生した後期水戸学や国学の影響を受けていると考えられるが、3)の「武士道」は、キリスト教に基づいて、「武士道」と「キリスト教」の普遍的な道徳の共通点を強調するものである。
井上哲次郎は『武士道全書』(1942−1944)の中で、明治以降の「武士道」について次のように述べている。彼によると、明治以降の武士道とは「天皇
に対する忠誠」であり、「万世一系の国体」を支えるものであった。これに対して大橋健二は、『武士道全書』を刊行する目的は、満州事変以降、戦争が今後ま
すます拡大し、未曾有の展開となって、いつまで続くかわからない情勢の下で、武士道の盛衰こそが国運を左右するものだとし、武士道精神の鼓吹を目的とした
ものであったと述べている。井上は『武士道全書』「序文」では、「今後武士道的精神を研究し発揚し、将来世界に於いて皇国の権威を維持するのみならず、益々是を発揚するために、何うしても武士道的精神を十分涵養して之を子孫後昆に伝へなければならない」と述べている。この『武士道全書』によって、井上哲次郎は「皇国権威」を「維持」し「発揚」させ、武士道を「万世一系の国体」に結びつけようとしたのではないかと考えられる。
現代的な文学者である三島由紀夫は、「武士道」を哲学的な価値観から考察している。彼は「武士道というものは、(中略)健康であることよりも健康に見える
ことを重要と考え、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切と考える、このような道徳観は男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いている点で、最も男性的
な道徳観といえるかもしれない」と述べている。三島は、山本常朝『葉隠』に基づいて、『葉隠』を三つの哲学にまとめた。「行動哲学」、「恋愛哲学」、「生きた哲学」である。三島の「武士道」は外見的な道徳を重んじたものである。
以上で、近現代「武士道」論においては、(1)明治期の「武士道」論、(2)明治期以降の「武士道」論、(3)戦後の「武士道」論を三つの時期に分かれて
いる。明治期の「武士道」論においては、船津明生が分類しているように、和魂的武士道、天皇的武士道、キリスト教的武士道がある。明治以降の武士道におい
ては、大東亜戦争との関わりがあるため、井上哲次郎が述べているように「武士道」を「国体」に結びつけようとした考えがある。戦後の「武士道」は、敗戦し
た日本は、物質的な価値観に向けて、国民の精神的な状況は非常に貧しいため、『葉隠』のような武士道の精神を国民に持たせるようにという考えがある。つま
り、大きくまとめると、近現代の「武士道」論は、国民国家の形成との関わり、世界の中での日本を位置づけ、国民の道徳観との関わりという様々な特徴が見え
てきた。
「武士道」論は、以上に述べたように時代によって、変化が見られる。単純な主君に対しての関係あるいは上下関係から誕生した中世的な 「武士道」論からはじまって、「武士らしい生き方」あるいは「武士はどう生きるべきか」という近世の道徳的な「武士道」論に変り、近現代においては、「国 民国家の形成との関わり」、「世界の中での日本を位置づけ」、「日本国民の道徳観との関わり」という様々な変化が見られる。 |
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