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春日山おして照らせるこの月は妹が庭にも清けかりけり 〔巻七・一〇七四〕 作者不詳
作者不詳、雑歌、詠レ月である。一首の意は、春日山一帯を照らして居る今夜の月は、妹の庭にもまた清く照って居る、というのである。作者は現在通って来た妹の家に居る趣で、春日山の方は一般の月明(通って来る道すがら見た)を云っているのである。ただ妹の家は春日山の見える処にあったことは想像し得る。伸々とした濁りの無い快い歌で、作者不明の民謡風のものだが、一定の個人を想像しても相当に味われるものである。やはり、「妹が庭にも清けかりけり」という句が具体的で生きているからであろう。
「この月」は、現に照っている今夜の月という意味で、此巻に、「常は嘗て念はぬものをこの月の過ぎ隠れまく惜しき宵かも」(一〇六九)、「この月の此処に来れば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ」(一〇七八)があり、巻三に、「世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち闕けしける」(四四二)がある。「おして照らせる」の表現も万葉調の佳いところで、「我が屋戸に月おし照れりほととぎす心あらば今夜来鳴き響もせ」(巻八・一四八〇)、「窓越しに月おし照りてあしひきの嵐吹く夜は君をしぞ思ふ」(巻十一・二六七九)等の例がある。此歌で、「この月は」と、「妹が庭にも」との関係に疑う人があったため、古義のように、「妹が庭にも清けかるらし」の意だろうというように解釈する説も出でたが、これは作者の位置を考えなかった錯誤である。
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海原の道遠みかも月読の明すくなき夜はふけにつつ 〔巻七・一〇七五〕 作者不詳
作者不詳、海岸にいて、夜更にのぼった月を見ると、光が清明でなく幾らか霞んでいるように見える。それをば、海上遙かなために、月も能く光らないと云うように、作者が感じたから、斯ういう表現を取ったものであろう。巻三(二九〇)に、「倉橋の山を高みか夜ごもりに出で来る月の光ともしき」とあるのも全体が似て居るが、この巻七の歌の方が、何となく稚く素朴に出来ている。それだけ常識的でなく、却って深みを添えているのだが、常識的には理窟に合わぬところがあると見えて、解釈上の異見もあったのである。
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痛足河河浪立ちぬ巻目の由槻が岳に雲居立てるらし 〔巻七・一〇八七〕 柿本人麿歌集
柿本人麿歌集にある歌で、詠雲の中に収められている。痛足河は、大和磯城郡纏向村にあり、纏向山(巻向山)と三輪山との間に源を発し、西流している川で今は巻向川と云っているが、当時は痛足川とも云っただろう。近くに穴師(痛足)の里がある。由槻が岳は巻向山の高い一峰だというのが大体間違ない。一首の意は、痛足河に河浪が強く立っている。恐らく巻向山の一峰である由槻が岳に、雲が立ち雨も降っていると見える、というので、既に由槻が岳に雲霧の去来しているのが見える趣である。強く荒々しい歌調が、自然の動運をさながらに象徴すると看ていい。第二句に、「立ちぬ」、結句に「立てるらし」と云っても、別に耳障りしないのみならず、一首に三つも固有名詞を入れている点なども、大胆なわざだが、作者はただ心の儘にそれを実行して毫もこだわることがない。そしてこの単純な内容をば、荘重な響を以て統一している点は実に驚くべきで、恐らくこの一首は人麿自身の作だろうと推測することが出来る。結句、原文「雲居立有良志」だから、クモヰタテルラシと訓んだが、「有」の無い古鈔本もあり、従ってクモヰタツラシとも訓まれている。この訓もなかなか好いから、認容して鑑賞してかまわない。
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あしひきの山河の瀬の響るなべに弓月が岳に雲立ち渡る 〔巻七・一〇八八〕 柿本人麿歌集
同じく柿本人麿歌集にある。一首の意は、近くの痛足川に水嵩が増して瀬の音が高く聞こえている。すると、向うの巻向の由槻が岳に雲が湧いて盛に動いている、というので、二つの天然現象を「なべに」で結んでいる。「なべに」は、と共に、に連れて、などの意で、「雁がねの声聞くなべに明日よりは春日の山はもみぢ始めなむ」(巻十・二一九五)、「もみぢ葉を散らす時雨の零るなべに夜さへぞ寒き一人し寝れば」(巻十・二二三七)等の例がある。
この歌もなかなか大きな歌だが、天然現象が、そういう荒々しい強い相として現出しているのを、その儘さながらに表現したのが、写生の極致ともいうべき優れた歌を成就したのである。なお、技術上から分析すると、上の句で、「の」音を続けて、連続的・流動的に云いくだして来て、下の句で「ユツキガタケニ」と屈折せしめ、結句を四三調で止めて居る。ことに「ワタル」という音で止めて居るが、そういうところにいろいろ留意しつつ味うと、作歌稽古上にも有益を覚えるのである。次に、此歌は河の瀬の鳴る音と、山に雲の動いている現象とを詠んだものだが、或は風もあり雨も降っていたかも知れぬ。併し其風雨の事は字面には無いから、これは奥に隠して置いて味う方が好いようである。そういう事をいろいろ詮議すると却って一首の気勢を損ずることがあるし、この歌の季についても亦同様であって、夏なら夏と極めてしまわぬ方が好いようである。この歌も人麿歌集出だが恐らく人麿自身の作であろう。巻九(一七〇〇)に、「秋風に山吹の瀬の響むなべ天雲翔る雁に逢へるかも」とあって、やはり人麿歌集にある歌だから、これも人麿自身の作で、上の句の同一手法もそのためだと解釈することが出来る。
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大海に島もあらなくに海原のたゆたふ浪に立てる白雲 〔巻七・一〇八九〕 作者不詳
作者不明だが、「伊勢に駕に従へる作」という左注がある。代匠記に、「持統天皇朱鳥六年ノ御供ナリ」と云ったが、或はそうかも知れない。一首の意は、大海のうえには島一つ見えない、そして漂動している波には、白雲が立っている、というので、「たゆたふ」は、進行せずに一処に猶予している気持だから、海上の波を形容するには適当であり、第一その音調が無類に適当している。それから、「あらなくに」は、「無いのに」という意で、其処に感慨をこもらせているのだが、そう口訳すると、理に堕ちて邪魔するところがあるから、今の口語ならば、「島も見えず」、「島も無くして」ぐらいでいいとおもう。つまり、島一つ無いというのが珍らしく、其処に感動が籠っているので、「なくに」が、「立てる白雲」に直接続くのではない。若し関聯せしめるとせば、普段大和で山岳にばかり雲の立つのを見ていたのだから、海上のこの異様の光景に接して、その儘、「大海に島もあらなくに」と云ったと解することも出来る。調子に流動的に大きいところがあって、藤原朝の人麿の歌などに感ずると同じような感じを覚える。ウナバラノ・タユタフ・ナミニあたりに、明かにその特色が見えている。普通従駕の人でなおこの調をなす人がいたというのは、まことに尊敬すべきことである。
「見まく欲り吾がする君もあらなくに奈何か来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといはなくに」(同・一六六)、「かくしてやなほや老いなむみ雪ふる大あらき野の小竹にあらなくに」(巻七・一三四九)等、例が多い。皆、この「あらなくに」のところに感慨がこもっている
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御室斎く三輪山見れば隠口の初瀬の檜原おもほゆるかも 〔巻七・一〇九五〕 作者不詳
山を詠んだ、作者不詳の歌である。「御室斎く」は、御室に斎くの意で、神を祀ってあることであり、三輪山の枕詞となった。「隠口」は、隠り国の意で、初瀬の地勢をあらわしたものだが、初瀬の枕詞となった。一首の意は、神を斎き祀ってある奥深い三輪山の檜原を見ると、谿谷ふかく同じく繁っておる初瀬の檜原をおもい出す、というので、三輪の檜原、初瀬の檜原といって、檜樹の密林が欝蒼として居り、当時の人の尊崇していたものと見える。上の句と下の句との聯絡が、「おもほゆるかも」で収めてあるのは、古代人的に素朴簡浄で誠によいものである。なお此種の簡潔に山を詠んだ歌は幾つかあるが、いまは此一首を以て代表せしめた。
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ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しも嵐かも疾き 〔巻七・一一〇一〕 柿本人麿歌集
柿本人麿歌集にある、詠メルレ河ヲ歌である。一首の意は、夜になると、巻向川の川音が高く聞こえるが、多分嵐が強いかも知れん、というので、内容極めて単純だが、この歌も前の歌同様、流動的で強い歌である。無理なくありの儘に歌われているが、無理が無いといっても、「ぬばたまの夜さりくれば」が一段、「巻向の川音高しも」が一段、共に伸々とした調であるが、結句の、「嵐かも疾き」は、強く緊まって、厳密とでもいうべき語句である。おわりが二音で終った結句は、万葉にも珍らしく、「独りかも寝む」(巻三・二九八等)、「あやにかも寝も」(巻二十・四四二二)、「な踏みそね惜し」(巻十九・四二八五)、「高円の野ぞ」(巻二十・四二九七)、「実の光るも見む」(巻十九・四二二六)、「御船かも彼」(巻十八・四〇四五)、「櫛造る刀自」(巻十六・三八三二)、「やどりする君」(巻十五・三六八八)等は、類似のものとして拾うことが出来る。この歌も前の歌と共通した特徴があって、人麿を彷彿せしむるものである。
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いにしへにありけむ 人も 吾が 如か 三輪の 檜原に 頭折りけむ 〔巻七・一一一八〕 柿本人麿歌集
詠メルレ葉ヲ歌、人麿歌集にある。一首の意は、古人も亦、今の吾のように、三輪山の檜原に入来て、 頭を折っただろう、というので、品佳く情味ある歌である。巻二(一九六)の人麿の歌に、「春べは花折り 頭し、秋たてば黄葉 頭し」とある如く、梅も桜も萩も瞿麦も山吹も柳も藤も 頭にしたが、檜も梨もその小枝を 頭にしたものと見える。詠レ葉とことわっていても、題詠でなく、広義の恋愛歌として、象徴的に歌ったものであろう。人麿の歌に、「古にありけむ人も吾が如か妹に恋ひつつ宿ねがてずけむ」(巻四・四九七)というのがある。さすれば此は伝誦の際に民謡風に変化したものか、或は人麿が二ざまに作ったものか、いずれにしても、二つ並べつつ鑑賞して好い歌である。
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山の際に渡る秋沙の行きて居むその河の瀬に浪立つなゆめ 〔巻七・一一二二〕 作者不詳
詠メルレ鳥ヲ、作者不明。「秋沙」は、鴨の一種で普通秋沙鴨、小鴨などと云っている。一首の意は、山のあいを今飛んで行く秋沙鴨が、何処かの川に宿るだろうから、その川に浪立たずに呉れ、というので、不思議に象徴的な匂いのする歌である。作者はほんのりと恋愛情調を以て詠んだのだろうが、情味が秋沙鴨に対する情味にまでなっている。これならば近代人にも直ぐ受納れられる感味で、万葉にはこういう歌もあるのである。「行きて居む」の句を特に自分は好んでいる。「明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ」(巻七・一三六六)は、寄スルレ鳥ニの譬喩歌だから、此歌とは違うが、譬喩は譬喩らしくいいところがある。
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宇治川を船渡せをと喚ばへども聞えざるらし楫の音もせず 〔巻七・一一三八〕 作者不詳
「山背にて作れる」歌の一首である。「渡せを」の「を」は呼びかける時、命令形に附く助詞で、「よ」に通う。一首は、宇治河の岸に来て、船を渡せと呼ぶけれども、呼ぶのが聞こえないらしい、榜いで来る櫂の音がしない、というので、多分夜の景であろうが、宇治の急流を前にして、規模の大きいような、寂しいような変な気持を起させる歌である。これは、「喚ばへども聞えざるらし」のところにその主点があるためである。
なお此歌の処に、「宇治河は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ声をちこち聞ゆ」(巻七・一一三五)、「千早人宇治川浪を清みかも旅行く人の立ち難にする」(同・一一三九)等の歌もある。網代人は網代の番をする人。千早人は氏に続き、同音の宇治に続く枕詞である。皆、旅中感銘したことを作っているのである。
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しなが鳥猪名野を来れば有間山夕霧立ちぬ宿は無くして 〔巻七・一一四〇〕 作者不詳
摂津にて作れる歌である。「しなが鳥」は猪名につづく枕詞で、しなが鳥即ち鳰鳥が、居並ぶの居と猪とが同音であるから、猪名の枕詞になった。猪名野は摂津、今の豊能川辺両郡に亙った、猪名川流域の平野である。有間山は今の有馬温泉のあるあたり一帯の山である。結句の「宿はなくして」は、前出の、「家もあらなくに」などと同一筆法だが、これは旅の実際を歌ったもののようである。それだから作者不明でも、誰の心にも通ずる真実性があると看ねばならぬ。それから現在吾々が注意するのは、「有間山夕霧たちぬ」と切ったところにある。有間山は万葉にはただ二カ処だけに出ているが、後になると、「有間山猪名の笹原かぜふけばいでそよ人を忘れやはする」などの如く歌名所になった。
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家にして吾は恋ひむな印南野の浅茅が上に照りし月夜を 〔巻七・一一七九〕 作者不詳
旅の歌。印南野で見た、浅茅の上の月の光を、家に帰ってからもおもい出すことだろうというので、印南野を過ぎて来てからの口吻のようだが、それは「照りし月夜を」にあるので、併し縦い過ぎて来たとしても、印象が未だ新しいのだから、「照れる月夜を」ぐらいの気持で味ってもいい歌である。
いずれにしても、広い印南野の月光に感動しているところで、「恋ひむな」といっても、天然を恋うるので、そこにこの歌の特色がある。この歌の側に、「印南野は行き過ぎぬらし天づたふ日笠の浦に波たてり見ゆ」(巻七・一一七八)というのがあるが、これも佳い歌である。
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たまくしげ見諸戸山を行きしかば面白くしていにしへ念ほゆ 〔巻七・一二四〇〕 作者不詳
「見諸戸山」は、即ち御室処山の義で、三輪山のことである。「面白し」は、感深いぐらいの意で、万葉では、※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-5]怜とも書いて居る。「生ける世に吾はいまだ見ず言絶えて斯く※怜[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-5]く縫へる嚢は」(巻四・七四六)、「ぬばたまの夜わたる月を※怜[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-6]み吾が居る袖に露ぞ置きにける」(巻七・一〇八一)、「おもしろき野をばな焼きそ古草に新草まじり生ひは生ふるがに」(巻十四・三四五二)、「おもしろみ我を思へか、さ野つ鳥来鳴き翔らふ」(巻十六・三七九一)等の例があり、現代の吾等が普段いう、「面白い」よりも深みがあるのである。そこで、此歌は、三輪山の風景が佳くて神秘的にも感ぜられるので、「いにしへ思ほゆ」即ち、神代の事もおもわれると云ったのである。平賀元義の歌に、「鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と歌ひけるかも」というのがあるが、この歌の「面白」も、「おもしろくして古おもほゆ」の感と相通じているのである。
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暁と夜烏鳴けどこの山上の木末の上はいまだ静けし 〔巻七・一二六三〕 作者不詳
第三句、「山上」は代匠記に「みね」とも訓んだ。もう夜が明けたといって夜烏が鳴くけれど、岡の木立は未だひっそりとして居る、というのである。「木末の上」は、繁っている樹木のあたりの意、万葉の題には、「時に臨める」とあるから、或る機に臨んで作ったものであろう。そして、烏等は、もう暁天になったと告げるけれども、あのように岡の森は未だ静かなのですから、も少しゆっくりしておいでなさい、という女言葉のようにも取れるし、或は男がまだ早いからも少しゆっくりしようということを女に向って云ったものとも取れるし、或は男が女の許から帰る時の客観的光景を詠んだものとも取れる。いずれにしても、暁はやく二人が未だ一しょにいる時の情景で、こういう事をいっているその心持と、暁天の清潔とが相待って、快い一首を為上げて居る。鑑賞の時、どうしても意味を一つに極めなければならぬとせば、やはり女が男にむかって云った言葉として受納れる方がいいのではあるまいか。略解にも、「男の別れむとする時、女の詠めるなるべし」と云っている。
次手に云うと、この歌の一つ前に、「あしひきの山椿咲く八峰越え鹿待つ君が斎ひ妻かも」(巻七・一二六二)というのがある。これは、猟師が多くの山を越えながら鹿の来るのを、心に期待して、隠れ待っている気持で、そのように大切に隠して置く君の妻よというのである。「斎ひ妻」などいう語は、現代の吾等には直ぐには頭に来ないが、繰返し読んでいるうちに馴れて来るのである。つまり神に斎くように、粗末にせず、大切にする妻というので、出て来る珍らしい獲物の鹿を大切にする気持と相通じて居る。「鹿待つ」までは序詞だが、こういう実際から来た誠に優れた序詞が、万葉になかなか多いので、その一例を此処に示すこととした。
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巻向の山辺とよみて行く水の水泡のごとし世の人吾は 〔巻七・一二六九〕 柿本人麿歌集
人麿歌集にある歌で、「児等が手を巻向山は常なれど過ぎにし人に行き纏かめやも」(巻七・一二六八)と一しょに載っている。これで見ると、妻の亡くなったのを悲しむ歌で、「行き纏かめやも」は、通って行って一しょに寝ることがもはや出来ないと歎くのだから、この「水泡の如し」の歌も、妻を悲しんだ歌なのである。
一首の意は、巻向山の近くを音たてて流れゆく川の水泡の如くに果敢ないもので吾身があるよ、というのである。
この歌では、自身のことを詠んでいるのだが、それは妻に亡くなられて悲しい余りに、自分の身をも悲しむのは人の常情であるから、この歌は単に大観的に無常を歌ったものではないのである。其処をはっきりさせないと、結論に錯誤を来すので、「もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波の行方知らずも」(巻三・二六四)でもそうであるが、この歌も、単に仏教とか支那文学とかの影響を受け、それ等の文句を取って其儘詠んだというのでなく、巻向川(痛足川)の、白く激つ水泡に観入して出来た表現なのである。恐らく此歌は人麿自身の作として間違は無いとおもうが、一寸見には、ただ口に任せて調子で歌っているようにも聞こえるがそうではないのである。巻二に、人麿の妻を痛む歌があるが、この歌もああいう歌と関聯があるのかも知れず、又紀伊の海岸で詠んだ歌も妻を悲しみ追憶した歌だから、一しょにして味ってもいいだろう。
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春日すら田に立ち疲る君は哀しも若草の※[#「女+麗」、U+5B4B、上-222-12]無き君が田に立ち疲る 〔巻七・一二八五〕 柿本人麿歌集
此処に、柿本人麿歌集に出づという旋頭歌が二十三首あるが、その一首だけ抜いて見た。旋頭歌は万葉にも数が少く、人麿でも人麿作と明かにその名の見えているのは一首も無い。けれども此処の旋頭歌も、巻十一巻頭の旋頭歌も人麿歌集に出づというのであるから、人麿はこの形態の歌をも作ったのかも知れず、技法はなかなかの力量を思わしめるものである。併し内容は殆ど民謡的恋愛歌だから、そういう種類の古歌謡を人麿が整理したのだとも考えることが出来る。
この一首は、この長閑な春の日ですら、お前は田に働いて疲れる、妻のいない一人ぽっちの、お前は田に働いて疲れる、というので、民謡でも労働歌というのに類し、旋頭歌だから、上の句と、下の句とどちらから歌ってもかまわないのである。「君がため手力疲れ織りたる衣ぞ、春さらばいかなる色に摺りてば好けむ」(巻七・一二八一)なども、女の気持であるが、やはり労働歌で、機織りながらうたう女の歌の気持である。
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冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも吾が情熾く 〔巻七・一三三六〕 作者不詳
譬喩歌で、「草に寄する」歌であるが、劇しい恋愛の情をその内容として居る。「冬ごもり」は春の枕詞。一首の意は、こんなに胸が燃えて苦しくて為方ないのは、あの春の大野を焼く人達が焼き足りないで、私の心までもこんなに焼くのか知らん、というので、譬喩的にいったから、おのずからこういう具合に聯想の歌となるのである。この聯想はただ軽く気を利かして云ったもののようにもおもえるが、繰返して読めば必ずしもそうでないところがある。つまり恋情と、春の野火との聯想が、ただ軽くつながって居るのでなく、割合に自然に緊密につながっているというのである。そんならなぜ軽くつながっているように取られるかというに、「焼く人は」と、「吾が情熾く」と繰返されているために、其処が調子が好過ぎて軽く響くのである。併しこれは民謡風のものだから自然そうなるので、奈何ともしがたいのである。この歌は明治になってから古今の傑作のように評価せられたが、今云ったように民謡風なものの中の佳作として鑑賞する方が好いであろう。
家持が、坂上大嬢に贈ったのに、「夜のほどろ出でつつ来らく遍多数くなれば吾が胸截ち焼く如し」(巻四・七五五)というがあり、「わが情焼くも吾なりはしきやし君に恋ふるもわが心から」(巻十三・三二七一)、「我妹子に恋ひ術なかり胸を熱み朝戸あくれば見ゆる霧かも」(巻十二・三〇三四)というのがあるから、参考として味うことが出来る。
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秋津野に朝ゐる雲の失せゆけば昨日も今日も亡き人念ほゆ 〔巻七・一四〇六〕 作者不詳
挽歌の中に載せている。吉野離宮の近くにある秋津野に朝のあいだ懸かっていた雲が無くなると(この雲は火葬の烟である)、昨日も今日も亡くなった人がおもい出されてならない、というのである。人麿が土形娘子を泊瀬山に火葬した時詠んだのに、「隠口の泊瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ」(巻三・四二八)とあるのは、当時まだ珍しかった、火葬の烟をば亡き人のようにおもった歌である。また出雲娘子を吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲の児等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(同・四二九)とも詠んでいるので明かである。此一首は取りたてて秀歌と称する程のものでないが、挽歌としての哀韻と、「雲の失せゆけば」のところに心が牽かれたのであった。
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福のいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が音を聞く 〔巻七・一四一一〕 作者不詳
自分は恋しい妻をもう亡くしたが、白髪になるまで二人とも健かで、その妻の声を聞くことの出来る人は何と為合せな人だろう、羨しいことだ、というので、「妹が声を聞く」というのが特殊でもあり一首の眼目でもあり古語のすぐれたところを示す句でもある。現代人の言葉などにはこういう素朴で味のあるいい方はもう跡を絶ってしまった。
一般的なようなことを云っていて、作者の身と遊離しない切実ないい方で、それから結句に、「こゑを聞く」と結んでいるが、「聞く」だけで詠歎の響があるのである。文法的には詠歎の助詞も助動詞も無いが、そういうものが既に含まっているとおもっていい。
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吾背子を何処行かめとさき竹の背向に宿しく今し悔しも 〔巻七・一四一二〕 作者不詳
これも挽歌の中に入っている。すると一首の意は、私の夫がこのように、死んで行くなどとは思いもよらず、生前につれなくして、後ろを向いて寝たりして、今となってわたしは悔しい、ということになるであろう。「さき竹の」は枕詞だが、割った竹は、重ねてもしっくりしないので、後ろ向に寝るのに続けたものであろう。また、「背向に宿しく」は、男女云い争った後の行為のように取れて一層哀れも深いし、女らしいところがあっていい。
然るに、巻十四、東歌の挽歌の個処に、「愛し妹を何処行かめと山菅の背向に宿しく今し悔しも」(三五七七)というのがあり、二つ共似ているが、巻七の方が優っている。巻七の方ならば人情も自然だが、巻十四の方は稍調子に乗ったところがある。おもうに、巻七の方は未だ個人的歌らしく、つつましいところがあるけれども、それが伝誦せられているうち民謡的に変形して巻十四の歌となったものであろう。気楽に一しょになってうたうのには、「かなし妹を」の方が調子に乗るだろうが、切実の度が薄らぐのである。 |