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春日山おして照らせるこの月は妹が庭にも清けかりけり 〔巻七・一〇七四〕 作者不詳
作者不詳、雑歌、詠レ月である。一首の意は、春日山一帯を照らして居る今夜の月は、妹の庭にもまた清く照って居る、というのである。作者は現在通って来た妹の家に居る趣で、春日山の方は一般の月明(通って来る道すがら見た)を云っているのである。ただ妹の家は春日山の見える処にあったことは想像し得る。伸々とした濁りの無い快い歌で、作者不明の民謡風のものだが、一定の個人を想像しても相当に味われるものである。やはり、「妹が庭にも清けかりけり」という句が具体的で生きているからであろう。
「この月」は、現に照っている今夜の月という意味で、此巻に、「常は嘗て念はぬものをこの月の過ぎ隠れまく惜しき宵かも」(一〇六九)、「この月の此処に来れば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ」(一〇七八)があり、巻三に、「世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち闕けしける」(四四二)がある。「おして照らせる」の表現も万葉調の佳いところで、「我が屋戸に月おし照れりほととぎす心あらば今夜来鳴き響もせ」(巻八・一四八〇)、「窓越しに月おし照りてあしひきの嵐吹く夜は君をしぞ思ふ」(巻十一・二六七九)等の例がある。此歌で、「この月は」と、「妹が庭にも」との関係に疑う人があったため、古義のように、「妹が庭にも清けかるらし」の意だろうというように解釈する説も出でたが、これは作者の位置を考えなかった錯誤である。
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海原の道遠みかも月読の明すくなき夜はふけにつつ 〔巻七・一〇七五〕 作者不詳
作者不詳、海岸にいて、夜更にのぼった月を見ると、光が清明でなく幾らか霞んでいるように見える。それをば、海上遙かなために、月も能く光らないと云うように、作者が感じたから、斯ういう表現を取ったものであろう。巻三(二九〇)に、「倉橋の山を高みか夜ごもりに出で来る月の光ともしき」とあるのも全体が似て居るが、この巻七の歌の方が、何となく稚く素朴に出来ている。それだけ常識的でなく、却って深みを添えているのだが、常識的には理窟に合わぬところがあると見えて、解釈上の異見もあったのである。
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痛足河河浪立ちぬ巻目の由槻が岳に雲居立てるらし 〔巻七・一〇八七〕 柿本人麿歌集
柿本人麿歌集にある歌で、詠雲の中に収められている。痛足河は、大和磯城郡纏向村にあり、纏向山(巻向山)と三輪山との間に源を発し、西流している川で今は巻向川と云っているが、当時は痛足川とも云っただろう。近くに穴師(痛足)の里がある。由槻が岳は巻向山の高い一峰だというのが大体間違ない。一首の意は、痛足河に河浪が強く立っている。恐らく巻向山の一峰である由槻が岳に、雲が立ち雨も降っていると見える、というので、既に由槻が岳に雲霧の去来しているのが見える趣である。強く荒々しい歌調が、自然の動運をさながらに象徴すると看ていい。第二句に、「立ちぬ」、結句に「立てるらし」と云っても、別に耳障りしないのみならず、一首に三つも固有名詞を入れている点なども、大胆なわざだが、作者はただ心の儘にそれを実行して毫もこだわることがない。そしてこの単純な内容をば、荘重な響を以て統一している点は実に驚くべきで、恐らくこの一首は人麿自身の作だろうと推測することが出来る。結句、原文「雲居立有良志」だから、クモヰタテルラシと訓んだが、「有」の無い古鈔本もあり、従ってクモヰタツラシとも訓まれている。この訓もなかなか好いから、認容して鑑賞してかまわない。
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あしひきの山河の瀬の響るなべに弓月が岳に雲立ち渡る 〔巻七・一〇八八〕 柿本人麿歌集
同じく柿本人麿歌集にある。一首の意は、近くの痛足川に水嵩が増して瀬の音が高く聞こえている。すると、向うの巻向の由槻が岳に雲が湧いて盛に動いている、というので、二つの天然現象を「なべに」で結んでいる。「なべに」は、と共に、に連れて、などの意で、「雁がねの声聞くなべに明日よりは春日の山はもみぢ始めなむ」(巻十・二一九五)、「もみぢ葉を散らす時雨の零るなべに夜さへぞ寒き一人し寝れば」(巻十・二二三七)等の例がある。
この歌もなかなか大きな歌だが、天然現象が、そういう荒々しい強い相として現出しているのを、その儘さながらに表現したのが、写生の極致ともいうべき優れた歌を成就したのである。なお、技術上から分析すると、上の句で、「の」音を続けて、連続的・流動的に云いくだして来て、下の句で「ユツキガタケニ」と屈折せしめ、結句を四三調で止めて居る。ことに「ワタル」という音で止めて居るが、そういうところにいろいろ留意しつつ味うと、作歌稽古上にも有益を覚えるのである。次に、此歌は河の瀬の鳴る音と、山に雲の動いている現象とを詠んだものだが、或は風もあり雨も降っていたかも知れぬ。併し其風雨の事は字面には無いから、これは奥に隠して置いて味う方が好いようである。そういう事をいろいろ詮議すると却って一首の気勢を損ずることがあるし、この歌の季についても亦同様であって、夏なら夏と極めてしまわぬ方が好いようである。この歌も人麿歌集出だが恐らく人麿自身の作であろう。巻九(一七〇〇)に、「秋風に山吹の瀬の響むなべ天雲翔る雁に逢へるかも」とあって、やはり人麿歌集にある歌だから、これも人麿自身の作で、上の句の同一手法もそのためだと解釈することが出来る。
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大海に島もあらなくに海原のたゆたふ浪に立てる白雲 〔巻七・一〇八九〕 作者不詳
作者不明だが、「伊勢に駕に従へる作」という左注がある。代匠記に、「持統天皇朱鳥六年ノ御供ナリ」と云ったが、或はそうかも知れない。一首の意は、大海のうえには島一つ見えない、そして漂動している波には、白雲が立っている、というので、「たゆたふ」は、進行せずに一処に猶予している気持だから、海上の波を形容するには適当であり、第一その音調が無類に適当している。それから、「あらなくに」は、「無いのに」という意で、其処に感慨をこもらせているのだが、そう口訳すると、理に堕ちて邪魔するところがあるから、今の口語ならば、「島も見えず」、「島も無くして」ぐらいでいいとおもう。つまり、島一つ無いというのが珍らしく、其処に感動が籠っているので、「なくに」が、「立てる白雲」に直接続くのではない。若し関聯せしめるとせば、普段大和で山岳にばかり雲の立つのを見ていたのだから、海上のこの異様の光景に接して、その儘、「大海に島もあらなくに」と云ったと解することも出来る。調子に流動的に大きいところがあって、藤原朝の人麿の歌などに感ずると同じような感じを覚える。ウナバラノ・タユタフ・ナミニあたりに、明かにその特色が見えている。普通従駕の人でなおこの調をなす人がいたというのは、まことに尊敬すべきことである。
「見まく欲り吾がする君もあらなくに奈何か来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといはなくに」(同・一六六)、「かくしてやなほや老いなむみ雪ふる大あらき野の小竹にあらなくに」(巻七・一三四九)等、例が多い。皆、この「あらなくに」のところに感慨がこもっている
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御室斎く三輪山見れば隠口の初瀬の檜原おもほゆるかも 〔巻七・一〇九五〕 作者不詳
山を詠んだ、作者不詳の歌である。「御室斎く」は、御室に斎くの意で、神を祀ってあることであり、三輪山の枕詞となった。「隠口」は、隠り国の意で、初瀬の地勢をあらわしたものだが、初瀬の枕詞となった。一首の意は、神を斎き祀ってある奥深い三輪山の檜原を見ると、谿谷ふかく同じく繁っておる初瀬の檜原をおもい出す、というので、三輪の檜原、初瀬の檜原といって、檜樹の密林が欝蒼として居り、当時の人の尊崇していたものと見える。上の句と下の句との聯絡が、「おもほゆるかも」で収めてあるのは、古代人的に素朴簡浄で誠によいものである。なお此種の簡潔に山を詠んだ歌は幾つかあるが、いまは此一首を以て代表せしめた。
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ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しも嵐かも疾き 〔巻七・一一〇一〕 柿本人麿歌集
柿本人麿歌集にある、詠メルレ河ヲ歌である。一首の意は、夜になると、巻向川の川音が高く聞こえるが、多分嵐が強いかも知れん、というので、内容極めて単純だが、この歌も前の歌同様、流動的で強い歌である。無理なくありの儘に歌われているが、無理が無いといっても、「ぬばたまの夜さりくれば」が一段、「巻向の川音高しも」が一段、共に伸々とした調であるが、結句の、「嵐かも疾き」は、強く緊まって、厳密とでもいうべき語句である。おわりが二音で終った結句は、万葉にも珍らしく、「独りかも寝む」(巻三・二九八等)、「あやにかも寝も」(巻二十・四四二二)、「な踏みそね惜し」(巻十九・四二八五)、「高円の野ぞ」(巻二十・四二九七)、「実の光るも見む」(巻十九・四二二六)、「御船かも彼」(巻十八・四〇四五)、「櫛造る刀自」(巻十六・三八三二)、「やどりする君」(巻十五・三六八八)等は、類似のものとして拾うことが出来る。この歌も前の歌と共通した特徴があって、人麿を彷彿せしむるものである。
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いにしへにありけむ 人も 吾が 如か 三輪の 檜原に 頭折りけむ 〔巻七・一一一八〕 柿本人麿歌集
詠メルレ葉ヲ歌、人麿歌集にある。一首の意は、古人も亦、今の吾のように、三輪山の檜原に入来て、 頭を折っただろう、というので、品佳く情味ある歌である。巻二(一九六)の人麿の歌に、「春べは花折り 頭し、秋たてば黄葉 頭し」とある如く、梅も桜も萩も瞿麦も山吹も柳も藤も 頭にしたが、檜も梨もその小枝を 頭にしたものと見える。詠レ葉とことわっていても、題詠でなく、広義の恋愛歌として、象徴的に歌ったものであろう。人麿の歌に、「古にありけむ人も吾が如か妹に恋ひつつ宿ねがてずけむ」(巻四・四九七)というのがある。さすれば此は伝誦の際に民謡風に変化したものか、或は人麿が二ざまに作ったものか、いずれにしても、二つ並べつつ鑑賞して好い歌である。
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山の際に渡る秋沙の行きて居むその河の瀬に浪立つなゆめ 〔巻七・一一二二〕 作者不詳
詠メルレ鳥ヲ、作者不明。「秋沙」は、鴨の一種で普通秋沙鴨、小鴨などと云っている。一首の意は、山のあいを今飛んで行く秋沙鴨が、何処かの川に宿るだろうから、その川に浪立たずに呉れ、というので、不思議に象徴的な匂いのする歌である。作者はほんのりと恋愛情調を以て詠んだのだろうが、情味が秋沙鴨に対する情味にまでなっている。これならば近代人にも直ぐ受納れられる感味で、万葉にはこういう歌もあるのである。「行きて居む」の句を特に自分は好んでいる。「明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ」(巻七・一三六六)は、寄スルレ鳥ニの譬喩歌だから、此歌とは違うが、譬喩は譬喩らしくいいところがある。
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宇治川を船渡せをと喚ばへども聞えざるらし楫の音もせず 〔巻七・一一三八〕 作者不詳
「山背にて作れる」歌の一首である。「渡せを」の「を」は呼びかける時、命令形に附く助詞で、「よ」に通う。一首は、宇治河の岸に来て、船を渡せと呼ぶけれども、呼ぶのが聞こえないらしい、榜いで来る櫂の音がしない、というので、多分夜の景であろうが、宇治の急流を前にして、規模の大きいような、寂しいような変な気持を起させる歌である。これは、「喚ばへども聞えざるらし」のところにその主点があるためである。
なお此歌の処に、「宇治河は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ声をちこち聞ゆ」(巻七・一一三五)、「千早人宇治川浪を清みかも旅行く人の立ち難にする」(同・一一三九)等の歌もある。網代人は網代の番をする人。千早人は氏に続き、同音の宇治に続く枕詞である。皆、旅中感銘したことを作っているのである。
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しなが鳥猪名野を来れば有間山夕霧立ちぬ宿は無くして 〔巻七・一一四〇〕 作者不詳
摂津にて作れる歌である。「しなが鳥」は猪名につづく枕詞で、しなが鳥即ち鳰鳥が、居並ぶの居と猪とが同音であるから、猪名の枕詞になった。猪名野は摂津、今の豊能川辺両郡に亙った、猪名川流域の平野である。有間山は今の有馬温泉のあるあたり一帯の山である。結句の「宿はなくして」は、前出の、「家もあらなくに」などと同一筆法だが、これは旅の実際を歌ったもののようである。それだから作者不明でも、誰の心にも通ずる真実性があると看ねばならぬ。それから現在吾々が注意するのは、「有間山夕霧たちぬ」と切ったところにある。有間山は万葉にはただ二カ処だけに出ているが、後になると、「有間山猪名の笹原かぜふけばいでそよ人を忘れやはする」などの如く歌名所になった。
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家にして吾は恋ひむな印南野の浅茅が上に照りし月夜を 〔巻七・一一七九〕 作者不詳
旅の歌。印南野で見た、浅茅の上の月の光を、家に帰ってからもおもい出すことだろうというので、印南野を過ぎて来てからの口吻のようだが、それは「照りし月夜を」にあるので、併し縦い過ぎて来たとしても、印象が未だ新しいのだから、「照れる月夜を」ぐらいの気持で味ってもいい歌である。
いずれにしても、広い印南野の月光に感動しているところで、「恋ひむな」といっても、天然を恋うるので、そこにこの歌の特色がある。この歌の側に、「印南野は行き過ぎぬらし天づたふ日笠の浦に波たてり見ゆ」(巻七・一一七八)というのがあるが、これも佳い歌である。
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たまくしげ見諸戸山を行きしかば面白くしていにしへ念ほゆ 〔巻七・一二四〇〕 作者不詳
「見諸戸山」は、即ち御室処山の義で、三輪山のことである。「面白し」は、感深いぐらいの意で、万葉では、※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-5]怜とも書いて居る。「生ける世に吾はいまだ見ず言絶えて斯く※怜[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-5]く縫へる嚢は」(巻四・七四六)、「ぬばたまの夜わたる月を※怜[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-6]み吾が居る袖に露ぞ置きにける」(巻七・一〇八一)、「おもしろき野をばな焼きそ古草に新草まじり生ひは生ふるがに」(巻十四・三四五二)、「おもしろみ我を思へか、さ野つ鳥来鳴き翔らふ」(巻十六・三七九一)等の例があり、現代の吾等が普段いう、「面白い」よりも深みがあるのである。そこで、此歌は、三輪山の風景が佳くて神秘的にも感ぜられるので、「いにしへ思ほゆ」即ち、神代の事もおもわれると云ったのである。平賀元義の歌に、「鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と歌ひけるかも」というのがあるが、この歌の「面白」も、「おもしろくして古おもほゆ」の感と相通じているのである。
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暁と夜烏鳴けどこの山上の木末の上はいまだ静けし 〔巻七・一二六三〕 作者不詳
第三句、「山上」は代匠記に「みね」とも訓んだ。もう夜が明けたといって夜烏が鳴くけれど、岡の木立は未だひっそりとして居る、というのである。「木末の上」は、繁っている樹木のあたりの意、万葉の題には、「時に臨める」とあるから、或る機に臨んで作ったものであろう。そして、烏等は、もう暁天になったと告げるけれども、あのように岡の森は未だ静かなのですから、も少しゆっくりしておいでなさい、という女言葉のようにも取れるし、或は男がまだ早いからも少しゆっくりしようということを女に向って云ったものとも取れるし、或は男が女の許から帰る時の客観的光景を詠んだものとも取れる。いずれにしても、暁はやく二人が未だ一しょにいる時の情景で、こういう事をいっているその心持と、暁天の清潔とが相待って、快い一首を為上げて居る。鑑賞の時、どうしても意味を一つに極めなければならぬとせば、やはり女が男にむかって云った言葉として受納れる方がいいのではあるまいか。略解にも、「男の別れむとする時、女の詠めるなるべし」と云っている。
次手に云うと、この歌の一つ前に、「あしひきの山椿咲く八峰越え鹿待つ君が斎ひ妻かも」(巻七・一二六二)というのがある。これは、猟師が多くの山を越えながら鹿の来るのを、心に期待して、隠れ待っている気持で、そのように大切に隠して置く君の妻よというのである。「斎ひ妻」などいう語は、現代の吾等には直ぐには頭に来ないが、繰返し読んでいるうちに馴れて来るのである。つまり神に斎くように、粗末にせず、大切にする妻というので、出て来る珍らしい獲物の鹿を大切にする気持と相通じて居る。「鹿待つ」までは序詞だが、こういう実際から来た誠に優れた序詞が、万葉になかなか多いので、その一例を此処に示すこととした。
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巻向の山辺とよみて行く水の水泡のごとし世の人吾は 〔巻七・一二六九〕 柿本人麿歌集
人麿歌集にある歌で、「児等が手を巻向山は常なれど過ぎにし人に行き纏かめやも」(巻七・一二六八)と一しょに載っている。これで見ると、妻の亡くなったのを悲しむ歌で、「行き纏かめやも」は、通って行って一しょに寝ることがもはや出来ないと歎くのだから、この「水泡の如し」の歌も、妻を悲しんだ歌なのである。
一首の意は、巻向山の近くを音たてて流れゆく川の水泡の如くに果敢ないもので吾身があるよ、というのである。
この歌では、自身のことを詠んでいるのだが、それは妻に亡くなられて悲しい余りに、自分の身をも悲しむのは人の常情であるから、この歌は単に大観的に無常を歌ったものではないのである。其処をはっきりさせないと、結論に錯誤を来すので、「もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波の行方知らずも」(巻三・二六四)でもそうであるが、この歌も、単に仏教とか支那文学とかの影響を受け、それ等の文句を取って其儘詠んだというのでなく、巻向川(痛足川)の、白く激つ水泡に観入して出来た表現なのである。恐らく此歌は人麿自身の作として間違は無いとおもうが、一寸見には、ただ口に任せて調子で歌っているようにも聞こえるがそうではないのである。巻二に、人麿の妻を痛む歌があるが、この歌もああいう歌と関聯があるのかも知れず、又紀伊の海岸で詠んだ歌も妻を悲しみ追憶した歌だから、一しょにして味ってもいいだろう。
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春日すら田に立ち疲る君は哀しも若草の※[#「女+麗」、U+5B4B、上-222-12]無き君が田に立ち疲る 〔巻七・一二八五〕 柿本人麿歌集
此処に、柿本人麿歌集に出づという旋頭歌が二十三首あるが、その一首だけ抜いて見た。旋頭歌は万葉にも数が少く、人麿でも人麿作と明かにその名の見えているのは一首も無い。けれども此処の旋頭歌も、巻十一巻頭の旋頭歌も人麿歌集に出づというのであるから、人麿はこの形態の歌をも作ったのかも知れず、技法はなかなかの力量を思わしめるものである。併し内容は殆ど民謡的恋愛歌だから、そういう種類の古歌謡を人麿が整理したのだとも考えることが出来る。
この一首は、この長閑な春の日ですら、お前は田に働いて疲れる、妻のいない一人ぽっちの、お前は田に働いて疲れる、というので、民謡でも労働歌というのに類し、旋頭歌だから、上の句と、下の句とどちらから歌ってもかまわないのである。「君がため手力疲れ織りたる衣ぞ、春さらばいかなる色に摺りてば好けむ」(巻七・一二八一)なども、女の気持であるが、やはり労働歌で、機織りながらうたう女の歌の気持である。
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冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも吾が情熾く 〔巻七・一三三六〕 作者不詳
譬喩歌で、「草に寄する」歌であるが、劇しい恋愛の情をその内容として居る。「冬ごもり」は春の枕詞。一首の意は、こんなに胸が燃えて苦しくて為方ないのは、あの春の大野を焼く人達が焼き足りないで、私の心までもこんなに焼くのか知らん、というので、譬喩的にいったから、おのずからこういう具合に聯想の歌となるのである。この聯想はただ軽く気を利かして云ったもののようにもおもえるが、繰返して読めば必ずしもそうでないところがある。つまり恋情と、春の野火との聯想が、ただ軽くつながって居るのでなく、割合に自然に緊密につながっているというのである。そんならなぜ軽くつながっているように取られるかというに、「焼く人は」と、「吾が情熾く」と繰返されているために、其処が調子が好過ぎて軽く響くのである。併しこれは民謡風のものだから自然そうなるので、奈何ともしがたいのである。この歌は明治になってから古今の傑作のように評価せられたが、今云ったように民謡風なものの中の佳作として鑑賞する方が好いであろう。
家持が、坂上大嬢に贈ったのに、「夜のほどろ出でつつ来らく遍多数くなれば吾が胸截ち焼く如し」(巻四・七五五)というがあり、「わが情焼くも吾なりはしきやし君に恋ふるもわが心から」(巻十三・三二七一)、「我妹子に恋ひ術なかり胸を熱み朝戸あくれば見ゆる霧かも」(巻十二・三〇三四)というのがあるから、参考として味うことが出来る。
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秋津野に朝ゐる雲の失せゆけば昨日も今日も亡き人念ほゆ 〔巻七・一四〇六〕 作者不詳
挽歌の中に載せている。吉野離宮の近くにある秋津野に朝のあいだ懸かっていた雲が無くなると(この雲は火葬の烟である)、昨日も今日も亡くなった人がおもい出されてならない、というのである。人麿が土形娘子を泊瀬山に火葬した時詠んだのに、「隠口の泊瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ」(巻三・四二八)とあるのは、当時まだ珍しかった、火葬の烟をば亡き人のようにおもった歌である。また出雲娘子を吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲の児等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(同・四二九)とも詠んでいるので明かである。此一首は取りたてて秀歌と称する程のものでないが、挽歌としての哀韻と、「雲の失せゆけば」のところに心が牽かれたのであった。
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福のいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が音を聞く 〔巻七・一四一一〕 作者不詳
自分は恋しい妻をもう亡くしたが、白髪になるまで二人とも健かで、その妻の声を聞くことの出来る人は何と為合せな人だろう、羨しいことだ、というので、「妹が声を聞く」というのが特殊でもあり一首の眼目でもあり古語のすぐれたところを示す句でもある。現代人の言葉などにはこういう素朴で味のあるいい方はもう跡を絶ってしまった。
一般的なようなことを云っていて、作者の身と遊離しない切実ないい方で、それから結句に、「こゑを聞く」と結んでいるが、「聞く」だけで詠歎の響があるのである。文法的には詠歎の助詞も助動詞も無いが、そういうものが既に含まっているとおもっていい。
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吾背子を何処行かめとさき竹の背向に宿しく今し悔しも 〔巻七・一四一二〕 作者不詳
これも挽歌の中に入っている。すると一首の意は、私の夫がこのように、死んで行くなどとは思いもよらず、生前につれなくして、後ろを向いて寝たりして、今となってわたしは悔しい、ということになるであろう。「さき竹の」は枕詞だが、割った竹は、重ねてもしっくりしないので、後ろ向に寝るのに続けたものであろう。また、「背向に宿しく」は、男女云い争った後の行為のように取れて一層哀れも深いし、女らしいところがあっていい。
然るに、巻十四、東歌の挽歌の個処に、「愛し妹を何処行かめと山菅の背向に宿しく今し悔しも」(三五七七)というのがあり、二つ共似ているが、巻七の方が優っている。巻七の方ならば人情も自然だが、巻十四の方は稍調子に乗ったところがある。おもうに、巻七の方は未だ個人的歌らしく、つつましいところがあるけれども、それが伝誦せられているうち民謡的に変形して巻十四の歌となったものであろう。気楽に一しょになってうたうのには、「かなし妹を」の方が調子に乗るだろうが、切実の度が薄らぐのである。
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石激る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも 〔巻八・一四一八〕 志貴皇子
志貴皇子の懽の御歌である。一首の意は、巌の面を音たてて流れおつる、滝のほとりには、もう蕨が萌え出づる春になった、懽ばしい、というのである。「石激る」は「垂水」の枕詞として用いているが、意味の分かっているもので、形状言の形式化・様式化・純化せられたものと看做し得る。「垂水」は垂る水で、余り大きくない滝と解釈してよいようである。「垂水の上」の「上」は、ほとりというぐらいの意に取ってよいが、滝下より滝上の感じである。この初句は、「石激」で旧訓イハソソグであったのを、考でイハバシルと訓んだ。なお、類聚古集に「石灑」とあるから、「石そそぐ」の訓を復活せしめ、「垂水」をば、巌の面をば垂れて来る水、たらたら水の程度のものと解釈する説もあるが、私は、初句をイハバシルと訓み、全体の調子から、やはり垂水をば小滝ぐらいのものとして解釈したく、小さくとも激湍の特色を保存したいのである。
この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、然かも平板に堕ることなく、細かい顫動を伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御懽びの心が即ち、「さ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」という一気に歌いあげられた句に象徴せられているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この「けるかも」と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない。集中、「昔見し象の小河を今見ればいよよ清けくなりにけるかも」(巻三・三一六)、「妹として二人作りし吾が山斎は木高く繁くなりにけるかも」(巻三・四五二)、「うち上る佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも」(巻八・一四三三)、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「萩が花咲けるを見れば君に逢はず真も久になりにけるかも」(巻十・二二八〇)、「竹敷のうへかた山は紅の八入の色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)等で、皆一気に流動性を持った調べを以て歌いあげている歌であるが、万葉の「なりにけるかも」の例は実に敬服すべきものなので、煩をいとわず書抜いて置いた。そして此等の中にあっても志貴皇子の御歌は特にその感情を伝えているようにおもえるのである。此御歌は皇子の御作中でも優れており、万葉集中の傑作の一つだと謂っていいようである。
大体以上の如くであるが、「垂水」を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名も摂津豊能郡の垂水、播磨明石郡の垂水の両説がある。若し地名だとしても、垂水即ち小滝を写象の中に入れなければ此歌は価値が下るとおもうのである。次に此歌に寓意を求める解釈もある。「此御歌イカナル御懽有テヨマセ給フトハシラネド、垂水ノ上トシモヨマセ給ヘルハ、若帝ヨリ此処ヲ封戸ニ加へ賜ハリテ悦バセ給ヘル歟。蕨ノ根ニ隠リテカヾマリヲレルガ、春ノ暖気ヲ得テ萌出ルハ、実ニ悦コバシキ譬ナリ。御子白壁王不意ニ高御座ニ昇ラセ給ヒテ、此皇子モ田原天皇ト追尊セラレ給ヒ、皇統今ニ相ツヾケルモ此歌ニモトヰセルニヤ」(代匠記)といい、考・略解・古義これに従ったが、稍穿鑿に過ぎた感じで、寧ろ、「水流れ草もえて万物の時をうるを悦び給へる御歌なるべし」(拾穂抄)の簡明な解釈の方が当っているとおもう。なお、「石走る垂水の水の愛しきやし君に恋ふらく吾が情から」(巻十二・三〇二五)という参考歌がある。
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神奈備の伊波瀬の杜の喚子鳥いたくな鳴きそ吾が恋益る 〔巻八・一四一九〕 鏡王女
鏡王女の歌である。鏡王女は鏡王の女で額田王の御姉に当り、はじめ天智天皇の御寵を受け、後藤原鎌足の正妻となった。此処の神奈備は竜田の神奈備で飛鳥の神奈備ではない。生駒郡竜田町の南方に車瀬という処に森がある。それが伊波瀬の森である。喚子鳥は大体閑古鳥の事として置く。一首の意は、神奈備の伊波瀬の森に鳴く喚子鳥よ、そんなに鳴くな、私の恋しい心が増すばかりだから、というのである。
「いたく」は、強く、熱心に、度々、切実になどとも翻し得、口語なら、「そんなに鳴くな」ともいえる。喚子鳥の声は、人に愬えて呼ぶようであるから、その声を聞いて自分の身の上に移して感じたものである。この聯想から来る感じは万葉の歌に可なり多いが、当時の人々は何時の間にか斯う無理なく表現し得るようになっていたのだろう。人麿の、「夕浪千鳥汝が鳴けば」でもそうであった。それだから此歌でも、現代の読者にまでそう予備的な心構えがなくも受納れられ、極く単純な内容のうちに純粋な詠歎のこえを聞くことが出来るのである。王女は額田王の御姉であったから、額田王の歌にも共通な言語に対する鋭敏がうかがわれるが、額田王の歌よりももっと素直で才鋒の目だたぬところがある。また時代も万葉上期だから、その頃の純粋な響・語気を伝えている。巻八(一四六五)に、藤原夫人の、「霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉に交へ貫くまでに」があるが、女らしい気持だけのものである。また、やはり此巻(一四八四)に、「霍公鳥いたくな鳴きそ独りゐて寐の宿らえぬに聞けば苦しも」という大伴坂上郎女の歌があるが、「吾が恋まさる」の簡浄な結句には及ばない。これは同じ女性の歌でももはや時代の相違であろうか。
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うち靡く春来るらし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば 〔巻八・一四二二〕 尾張連
尾張連の歌としてあるが、伝不明である。一首は、山のあいの遠くまで続く木立に、きのうも今日も花が多くなって見える、もう春が来たというので、「咲きゆく」だから、次から次と花が咲いてゆく、時間的経過を含めたものだが、其処に読者を迷わせるところもなく、ゆったりとした迫らない響を感じさせている。そして、春の到来に対する感慨が全体にこもり、特に結句の「見れば」のところに集まっているようである。「木末の咲きゆく」などという簡潔ないいあらわしは、後代には跡を断った。それは、幽玄とか有心とか云って、深みを要求していながら、歌人の心の全体が常識的に分化してしまったからである。
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春の野に菫採みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜宿にける 〔巻八・一四二四〕 山部赤人
山部赤人の歌で、春の原に菫を採みに来た自分は、その野をなつかしく思って一夜宿た、というのである。全体がむつかしくない、赤人的な清朗な調べの歌であるが、菫咲く野に対する一つの係恋といったような情調を感じさせる歌である。即ち極く広義の恋愛情調であるから、説く人によっては、恋人のことを歌ったのではないかと詮議するのであるが、其処まで云わぬ方が却っていい。また略解は「菫つむは衣摺む料なるべし」とあるが、これも主要な目的ではないであろう。本来菫を摘むというのは、可憐な花を愛するためでなく、その他の若草と共に食用として摘んだものである。和名鈔の菫菜で、爾雅に、※[#「さんずい+(勹<一)」、U+6C4B、下-6-6]食レ之滑也。疏可レ食之菜也とあるによって知ることが出来る。併し此処は、「春日野に煙立つ見ゆ※嬬[#「女+感」、下-6-7]らし春野の菟芽子採みて煮らしも」(巻十・一八七九)という歌のように直ぐ食用にして居る野菜として菫を聯想せずに、第一には可憐な菫の花の咲きつづく野を聯想すべきであり、また其処に恋人などの関係があるにしても、それは奥に潜める方が鑑賞の常道のようである。
この歌で、「吾ぞ」と強めて云っていても、赤人の歌だから余り目立たず、「野をなつかしみ」といっても、余り強く響かず、従って感情を強いられるような点も少いのだが、そのうちには少し甘くて物足りぬということが含まっているのである。赤人の歌には、「潟をなみ」、「野をなつかしみ」というような一種の手法傾向があるが、それが清潔な声調で綜合せられている点は、人の許す万葉第一流歌人の一人ということになるのであろうか。併しこの歌は、富士山の歌ほどに優れたものではない。巻七(一三三二)に、「磐が根の凝しき山に入り初めて山なつかしみ出でがてぬかも」という歌があり、これは寄レ山歌だからこういう表現になるのだが、寧ろ民謡風に楽なもので、赤人の此歌と較れば赤人の歌ほどには行かぬのである。また、巻十(一八八九)の、「吾が屋前の毛桃の下に月夜さし下心よしうたて此の頃」という歌は、譬喩歌ということは直ぐ分かって、少しうるさく感ぜしめる。此等と比較しつつ味うと赤人の歌の好いところもおのずから分かるわけである。なお、赤人の歌には、この歌の次に、「あしひきの山桜花日ならべて斯く咲きたらばいと恋ひめやも」(巻八・一四二五)ほか二首があり、清淡でこまかい味いであるが、結句は、やはり弱い。なお、「恋しけば形見にせむと吾が屋戸に植ゑし藤浪いま咲きにけり」(同・一四七一)があり、これを模して家持が、「秋さらば見つつ偲べと妹が植ゑし屋前の石竹咲きにけるかも」(巻三・四六四)と作っているが、共に少し当然過ぎて、感に至り得ないところがある。赤人の歌でも、「今咲きにけり」が弱いのである。なお参考句に、「春の野に菫を摘むと、白妙の袖折りかへし」(巻十七・三九七三)がある。
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百済野の萩の古枝に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも 〔巻八・一四三一〕 山部赤人
山部赤人の歌で、春到来の心を詠んでいる。百済野は大和北葛城郡百済村附近の原野である。「萩の古枝」は冬枯れた萩の枝で、相当の高さと繁みになったものであろう。「春待つと居りし」あたりのいい方は、古調のいいところであるが、旧訓スミシ・ウグヒスであったのを、古義では脱字説を唱え、キヰシ・ウグヒスと訓んだ。併し古い訓(類聚古集・神田本)の、ヲリシウグヒスの方がいい。この歌も、何でもないようであるが、徒らに興奮せずに、気品を保たせているのを尊敬すべきである。これも期せずして赤人の歌になったが、選んで来て印をつけると、自然こういう結果になるということは興味あることで、もっと先きの巻に於ける家持の歌の場合と同じである。
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蝦鳴く甘南備河にかげ見えて今か咲くらむ山吹の花 〔巻八・一四三五〕 厚見王
厚見王の歌一首。厚見王は続紀に、天平勝宝元年に従五位下を授けられ、天平宝字元年に従五位上を授けられたことが記されている。甘南備河は、甘南備山が飛鳥(雷丘)か竜田かによって、飛鳥川か竜田川かになるのだが、それが分からないからいずれの河としても味うことが出来る。一首は、蝦(河鹿)の鳴いている甘南備河に影をうつして、今頃山吹の花が咲いて居るだろう、というので、こだわりの無い美しい歌である。
此歌が秀歌として持てはやされ、六帖や新古今に載ったのは、流麗な調子と、「かげ見えて」、「今か咲くらむ」という、幾らか後世ぶりのところがあるためで、これが本歌になって模倣せられたのは、その後世ぶりが気に入られたものである。「逢坂の関の清水にかげ見えて今や引くらむ望月の駒」(拾遺・貫之)、「春ふかみ神なび川に影見えてうつろひにけり山吹の花」(金葉集)等の如くに、その歌調なり内容なりが伝播している。この歌は、全体としては稍軽いので、実際をいえば、このくらいの歌は万葉に幾つもあるのだが、この種類の一代表として選んだのである。参考歌に、「安積香山影さへ見ゆる山井の浅き心を吾が念はなくに」(巻十六・三八〇七)がある。
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平常に聞くは苦しき喚子鳥こゑなつかしき時にはなりぬ 〔巻八・一四四七〕 大伴坂上郎女
大伴坂上郎女が、天平四年三月佐保の宅で詠んだ歌である。普段には、身につまされて寧ろ苦しいくらいな喚子鳥の声も、なつかしく聞かれる春になった、というので、奇もなく鋭いところもないが、季節の変化に対する感じも出ており、春の女心に触れることも出来るようなところがある。「時にはなりぬ」だけで詠歎のこもることは既にいった。佐保の宅というのは、郎女の父大伴安麿の宅である。「春日なる羽易の山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰喚子鳥」(巻十・一八二七)、「答へぬにな喚び響めそ喚子鳥佐保の山辺を上り下りに」(同・一八二八)、「卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす」(巻八・一四七七)等があって、佐保には鳥の多かったことが分かる。
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波の上ゆ見ゆる児島の雲隠りあな気衝かし相別れなば 〔巻八・一四五四〕 笠金村
天平五年春閏三月、入唐使(多治比真人広成)が立つ時に、笠金村が贈った長歌の反歌である。一首は、あなたの船が出帆して、波の上から見える小島のように、遠く雲がくれに見えなくなって、いよいよお別れということになるなら、嗚呼吐息の衝かれることだ、悲しいことだ、というのである。此処でも、「波の上ゆ見ゆる」と「ゆ」を使っている。児島は備前児島だろうという説があるが、序の形式だから必ずしも固有名詞とせずともいい。「気衝かし」は、息衝くような状態にあること、溜息を衝かせるようにあるというので、いい語だとおもう。「味鴨の住む須佐の入江の隠り沼のあな息衝かし見ず久にして」(巻十四・三五四七)の用例がある。訣別の歌だから、稍形式になり易いところだが、海上の小島を以て来てその気持を形式化から救っている。第四句が中心である。
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神名火の磐瀬の杜のほととぎすならしの岳に何時か来鳴かむ 〔巻八・一四六六〕 志貴皇子
志貴皇子の御歌。磐瀬の杜は既にいった如く、竜田町の南方車瀬にある。ならしの丘は諸説あって一定しないが、磐瀬の杜の東南にわたる岡だろうという説があるから、一先ずそれに従って置く。この歌は、「ならしの丘に何時か来鳴かむ」と云って、霍公鳥の来ることを希望しているのだが、既に出た皇子の御歌の如く、おおどかの中に厳かなところがあり、感傷に淫せずになお感傷を暗指している点は独特の御風格というべきである。他の皇子の御歌と較べるから左程に思わぬが、そのあたりの歌を読んで来ると、やはり選は此歌に逢着するのである。此歌は一首に三つも地名が詠込まれている。「朝霞たなびく野べにあしひきの山ほととぎすいつか来鳴かむ」(巻十・一九四〇)の例があるが、民謡風だから「個」の作者が隠れて居り、それだけ呑気である。この近くにある、「もののふの磐瀬の杜の霍公鳥いまも鳴かぬか山のと陰に」(巻八・一四七〇)でも内容が似ているが、これも呑気である。
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夏山の木末の繁にほととぎす鳴き響むなる声の遙けさ 〔巻八・一四九四〕 大伴家持
大伴家持の霍公鳥の歌であるが、「夏山の木末の繁」は作者の観たところであろうが、前出の、「山の際の遠きこぬれ」の方が旨いようにもおもう。「こゑの遙けさ」というのが此一首の中心で、現実的な強味がある。この巻(一五五〇)に、湯原王の、「秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遙けさ」も家持の歌に似ているが、家持の歌のまさっているのは、実際的のひびきがあるためである。然るに巻十(一九五二)に、「今夜のおぼつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遙けさ」というのがあり、家持はこれを模倣しているのである。併し、「夏山の木末の繁に」といって生かしているのを後代の吾等は注意していい。「繁に」は槻落葉にシゲニと訓んでいる。
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夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝宿にけらしも 〔巻八・一五一一〕 舒明天皇
秋雑歌、崗本天皇(舒明天皇)御製歌一首である。小倉山は恐らく崗本宮近くの山であろうが、その辺に小倉山の名が今は絶えている。一首の意は、夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろうというのである。いつも妻をもとめて鳴いている鹿が、妻を得た心持であるが、結句は、必ずしも率寝の意味に取らなくともいい。御製は、調べ高くして潤いがあり、豊かにして弛まざる、万物を同化包摂したもう親愛の御心の流露であって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だとおもうのである。第四句で、「今夜は鳴かず」と、其処に休止を置いたから、結句は独立句のように、豊かにして逼らざる重厚なものとなったが、よく読めばおのずから第四句に縷の如くに続き、また一首全体に響いて、気品の高い、いうにいわれぬ歌調となったものである。「いねにけらしも」は、親愛の大御心であるが、素朴・直接・人間的・肉体的で、後世の歌にこういう表現のないのは、総べてこういう特徴から歌人の心が遠離して行ったためである。此御歌は万葉集中最高峰の一つとおもうので、その説明をしたい念願を持っていたが、実際に当ると好い説明の文を作れないのは、この歌は渾一体の境界にあってこまごましい剖析をゆるさないからであろうか。
此歌の第三句、旧板本「鳴鹿之」となっているから、訓は「ナクシカノ」である。然るに古鈔本(類・神・西・温・矢・京)には、「之」の字が「者」となって居り、また訓も「ナクシカハ」(類・神・温・矢・京)となって居るのがある。注釈書では既に拾穂抄でこれを注意し、代匠記で、官本之作レ者、点云、ナクシカハ。別校本或同レ此。幽斎本之作レ者、点云、ナクシカノ、と注した。そこで近時、「ナクシカハ」の訓に従うようになったが、古今六帖には、「鳴く鹿の」となって居り、又幽斎本では鳴鹿者と書いて、「ナクシカノ」と訓んで、また旧板本は鳴鹿之であるから、「ナクシカノ」という訓も古くからあったことが分かる。もっとも、「鳴鹿之」は巻九巻頭の、「臥鹿之」の「之」に拠って直したとも想像することも出来るが、兎も角長い期間「鳴く鹿の」として伝わって来ている。今となって見れば、「鳴く鹿は」の方は、「今夜は」と続いて、古調に響くから、「鳴く鹿は」の方が原作かも知れないけれども、「鳴く鹿の」としても、充分味うことの出来る歌である。
なお、一寸前言した如く、巻九(一六六四)に、雄略天皇御製歌として、「ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも」という歌が載っていて、二つとも類似歌であるがどちらが本当だか審でないから、累ねて載せたという左注がある。併し歌調から見て、雄略天皇御製とせば少し新し過ぎるようだから、先ず舒明天皇御製とした方が適当だろうという説が有力である。なお小倉山であるが、「白雲の竜田の山の、滝の上の小鞍の峯」(巻九・一七四七)は、竜田川(大和川)の亀の瀬岩附近、竜田山の一部である。それから、この(一六六四)が雄略天皇の御製とせば、朝倉宮近くであるから、今の磯城郡朝倉村黒崎に近い山だろうということも出来る。それに舒明天皇の高市崗本宮近くにある小倉山と、仮定のなかに入る小倉山が三つあるわけである。併し、舒明天皇の御製でも、若しも行幸でもあって竜田の小鞍峯あたりでの吟咏とすると、小倉山考証の疑問はおのずから冰釈するわけであるけれども、「今夜は鳴かず」とことわっているから、ふだんにその鹿の声を御聞きになったことを示し、従って崗本宮近くに小倉山という名の山があったろうと想像することとなるのである。
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今朝の朝け雁がね聞きつ春日山もみぢにけらし吾がこころ痛し 〔巻八・一五二二〕 穂積皇子
穂積皇子の御歌二首中の一つで、一首の意は、今日の朝に雁の声を聞いた、もう春日山は黄葉したであろうか。身に沁みて心悲しい、というので、作者の心が雁の声を聞き黄葉を聯想しただけでも、心痛むという御境涯にあったものと見える。そしてなお推測すれば但馬皇女との御関係があったのだから、それを参考するとおのずから解釈出来る点があるのである。何れにしても、第二句で「雁がね聞きつ」と切り、第四句で「もみぢにけらし」と切り、結句で「吾が心痛し」と切って、ぽつりぽつりとしている歌調はおのずから痛切な心境を暗指するものである。前の志貴皇子の「石激る垂水の上の」の御歌などと比較すると、その心境と声調の差別を明らかに知ることが出来るのである。もう一つの皇子の御歌は、「秋萩は咲きぬべからし吾が屋戸の浅茅が花の散りぬる見れば」(巻八・一五一四)というのである。なお、近くにある、但馬皇女の、「言しげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを」(同・一五一五)という御歌がある。皇女のこの御歌も、穂積皇子のこの御歌と共に読味うことが出来る。共に恋愛情調のものだが、皇女のには甘く逼る御語気がある。
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秋の田の穂田を雁がね闇けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも 〔巻八・一五三九〕 聖武天皇
天皇御製とあるが、聖武天皇御製だろうと云われている。「秋の田の穂田を」までは序詞で、「刈り」と「雁」とに掛けている。併しこの序詞は意味の関聯があるので、却って序詞としては巧みでないのかも知れない。御製では、「闇けくに夜のほどろにも鳴きわたるかも」に中心があり、闇中の雁、暁天に向う夜の雁を詠歎したもうたのに特色がある。「夜のほどろ我が出てくれば吾妹子が念へりしくし面影に見ゆ」(巻四・七五四)等の例がある。
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夕月夜心も萎に白露の置くこの庭に蟋蟀鳴くも〔巻八・一五五二〕 湯原王
湯原王の蟋蟀の歌で、夕方のまだ薄い月の光に、白露のおいた庭に蟋蟀が鳴いている。それを聞くとわが心も萎々とする、というのである。後世の歌なら、助詞などが多くて弛むところであろうが、そこを緊張せしめつつ、句と句とのあいだに、間隔を置いたりして、端正で且つ感の深い歌調を全うしている。「心も萎に」は、直ぐ、「白露の置く」に続くのではなく、寧ろ、「蟋蟀鳴く」に関聯しているのだが、そこが微妙な手法になっている。いずれにしても、分かりよくて、平凡にならなかった歌である。
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あしひきの山の黄葉今夜もか浮びゆくらむ山川の瀬に 〔巻八・一五八七〕 大伴書持
大伴書持の歌である。書持は旅人の子で家持の弟に当る。天平十八年に家持が書持の死を痛んだ歌を作っているから大体その年に死去したのであろう。此一首は天平十年冬、橘宿禰奈良麿の邸で宴をした時諸人が競うて歌を詠んだ。皆黄葉を内容としているが書持の歌い方が稍趣を異にし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく写象を心に浮べて、「今夜もか浮びゆくらむ」と詠歎している。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない穉拙のようなところがあって、何時か私の心を牽いたものだが、今読んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておもしろい。また所謂万葉的常套を脱しているのも注意せらるべく、万葉末期の、次の時代への移行型のようなものかも知れぬが、そういう種類の一つとして私は愛惜している。そして天平十年が家持二十一歳だとせば、書持はまだ二十歳にならぬ頃に作った歌ということになる。
書持の兄、家持が天平勝宝二年に作った歌に、「夜くだちに寝覚めて居れば河瀬尋め情もしぬに鳴く千鳥かも」(巻十九・四一四六)というのがある。この「河瀬尋め」あたりの観照の具合に、「浮びゆくらむ」と似たところがあるのは、この一群歌人相互の影響によって発育した歌境だかも知れない。
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大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに 〔巻八・一六三六〕 舎人娘子
舎人娘子の雪の歌である。舎人娘子の伝は未詳であるが、巻二(一一八)に舎人皇子に和え奉った歌があり、大宝二年の持統天皇参河行幸従駕の作、「丈夫が猟矢たばさみ立ち向ひ射る的形は見るにさやけし」(巻一・六一)があるから、持統天皇に仕えた宮女でもあろうか。真神の原は高市郡飛鳥にあった原で、「大口の」は、狼(真神)の口が大きいので、真神の枕詞とした。
この歌は、独詠歌というよりも誰かに贈った歌の如くである。そして、持統天皇従駕作の如くに、儀容を張らずに、ありの儘に詠んでいて、贈った対者に対する親愛の情のあらわれている可憐な歌である。「家もあらなくに」の結句ある歌は既に記した。
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沫雪のほどろほどろに零り重けば平城の京師し念ほゆるかも 〔巻八・一六三九〕 大伴旅人
大伴旅人が筑紫太宰府にいて、雪の降った日に京を憶った歌である。「ほどろほどろ」は、沫雪の降った形容だろうが、沫雪は降っても消え易く、重量感からいえば軽い感じである。厳冬の雪のように固着の感じの反対で消え易い感じである。そういう雪を、ハダレといい、副詞にしてハダラニともいい、ホドロニと転じたものであろうか。「夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり」(巻十・二三一八)とあって、一に云う、「庭もほどろに雪ぞ降りたる」とあるから、「はだらに」、「ほどろに」同義に使ったもののようである。また、「吾背子を今か今かと出で見れば沫雪ふれり庭もほどろに」(同・二三二三)とあり、軽く消え易いように降るので、分量の問題でなく感じの問題であるようにおもえる。沫雪は消え易いけれども、降る時には勢いづいて降る。そこで、旅人の此歌も、「ほどろほどろに」と繰返しているのは、旅人はそう感じて繰返したのであろうから、分量の少い、薄く降るという解釈とは合わぬのである。特に「零り重けば」であるから、単に「薄い雪」をハダレというのでは解釈がつかない。また、「はだれ降りおほひ消なばかも」(同・二三三七)の例も、薄く降るというよりも盛に降る心持である。そこで、ハダレは繊細に柔かに降り積る雪のことで、ホドロホドロニは、そういう柔かい感じの雪が、勢いづいて降るということになりはしないか。ホドロホドロと繰返したのは旅人のこの一首のみで、模倣せられずにしまった。
この一首は、前にあった旅人の歌同様、線の太い、直線的な歌いぶりであるが、感慨が浮調子でなく真面目な歌いぶりである。細かく顫う哀韻を聴き得ないのは、憶良などの歌もそうだが、この一団の歌人の一つの傾向と看做し得るであろう。
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吾背子と二人見ませば幾許かこの零る雪の懽しからまし 〔巻八・一六五八〕 光明皇后
藤皇后(光明皇后)が聖武天皇に奉られた御歌である。皇后は藤原不比等の女、神亀元年二月聖武天皇夫人。ついで、天平元年八月皇后とならせたまい、天平宝字四年六月崩御せられた。御年六十。この美しく降った雪を、若しお二人で眺めることが叶いましたならば、どんなにかお懽しいことでございましょう、というのである。斯く尋常に、御おもいの儘、御会話の儘を伝えているのはまことに不思議なほどである。特に結びの、「懽しからまし」の如き御言葉を、皇后の御生涯と照らしあわせつつ味い得るということの、多幸を私等はおもわねばならぬのである。「見ませば」は、「草枕旅ゆく君と知らませば」(巻一・六九)、「悔しかも斯く知らませば」(巻五・七九七)、「夜わたる月にあらませば」(巻十五・三六七一)等の例と同じく、マセはマシという助動詞の将然段に条件づけた云い方で、知らましせば、あらましせば、見ましせばぐらいの意であろうか。精しいことは専門の書物にゆずる。なお「あしひきの山より来せば」(巻十・二一四八)も参考になろうか。ウレシという語も、「何すとか君を厭はむ秋萩のその初花の歓しきものを」(同・二二七三)などの用法と殆ど同じである。
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