斎藤茂吉の万葉秀歌考巻4

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.6.8日

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 2015.09.07日 れんだいこ拝



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巻第七


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春日山かすがやまおしてらせるこのつきいもにはにもさやけかりけり 〔巻七・一〇七四〕 作者不詳
 作者不詳、雑歌、詠月である。一首の意は、春日山一帯を照らして居る今夜の月は、いもの庭にもまたきよく照って居る、というのである。作者は現在かよって来た妹の家に居る趣で、春日山の方は一般の月明(かよって来る道すがら見た)を云っているのである。ただ妹の家は春日山の見える処にあったことは想像し得る。伸々のびのびとした濁りの無い快い歌で、作者不明の民謡風のものだが、一定の個人を想像しても相当に味われるものである。やはり、「妹が庭にも清けかりけり」という句が具体的で生きているからであろう。
「この月」は、現に照っている今夜の月という意味で、此巻に、「常はかつて念はぬものをこの月の過ぎ隠れまく惜しきよひかも」(一〇六九)、「この月の此処にきたれば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ」(一〇七八)があり、巻三に、「世の中はむなしきものとあらむとぞこの照る月は満ちけしける」(四四二)がある。「おして照らせる」の表現も万葉調の佳いところで、「我が屋戸やど月おし照れりほととぎす心あらば今夜こよひ来鳴きとよもせ」(巻八・一四八〇)、「窓越しに月おし照りてあしひきのあらし吹く夜は君をしぞ思ふ」(巻十一・二六七九)等の例がある。此歌で、「この月は」と、「妹が庭にも」との関係に疑う人があったため、古義のように、「妹が庭にもさやけかるらし」の意だろうというように解釈する説も出でたが、これは作者の位置を考えなかった錯誤さくごである。

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海原うなばらみちとほみかも月読つくよみあかりすくなきはふけにつつ 〔巻七・一〇七五〕 作者不詳
 作者不詳、海岸にいて、夜更よふけにのぼった月を見ると、光が清明でなく幾らかかすんでいるように見える。それをば、海上遙かなために、月もく光らないと云うように、作者が感じたから、ういう表現を取ったものであろう。巻三(二九〇)に、「倉橋の山を高みかごもりに出で来る月の光ともしき」とあるのも全体が似て居るが、この巻七の歌の方が、何となくおさなく素朴に出来ている。それだけ常識的でなく、却って深みを添えているのだが、常識的には理窟に合わぬところがあると見えて、解釈上の異見もあったのである。

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痛足河あなしがは河浪かはなみちぬ巻目まきむく由槻ゆつきたけ雲居くもゐてるらし 〔巻七・一〇八七〕 柿本人麿歌集
 柿本人麿歌集にある歌で、詠雲くもをよめるの中に収められている。痛足河あなしがわは、大和磯城郡纏向まきむく村にあり、纏向山(巻向山)と三輪山との間にみなもとを発し、西流している川で今は巻向川と云っているが、当時は痛足あなし川とも云っただろう。近くに穴師あなし(痛足)の里がある。由槻ゆつきたけは巻向山の高い一峰だというのが大体間違ない。一首の意は、痛足河に河浪が強く立っている。恐らく巻向山の一峰である由槻が岳に、雲が立ち雨も降っていると見える、というので、既に由槻が岳に雲霧の去来しているのが見えるおもむきである。強く荒々しい歌調が、自然の動運をさながらに象徴するとていい。第二句に、「立ちぬ」、結句に「立てるらし」と云っても、別に耳障みみざわりしないのみならず、一首に三つも固有名詞を入れている点なども、大胆だいたんなわざだが、作者はただ心のままにそれを実行してごうもこだわることがない。そしてこの単純な内容をば、荘重な響を以て統一している点は実に驚くべきで、恐らくこの一首は人麿自身の作だろうと推測することが出来る。結句、原文「雲居立有良志」だから、クモヰタテルラシと訓んだが、「有」の無い古鈔本もあり、従ってクモヰタツラシとも訓まれている。この訓もなかなか好いから、認容して鑑賞してかまわない。

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あしひきの山河やまがはるなべに弓月ゆつきたけくもわたる 〔巻七・一〇八八〕 柿本人麿歌集
 同じく柿本人麿歌集にある。一首の意は、近くの痛足あなし川に水嵩みずかさが増して瀬の音が高く聞こえている。すると、向うの巻向まきむく由槻ゆつきたけに雲がいて盛に動いている、というので、二つの天然現象を「なべに」で結んでいる。「なべに」は、と共に、にれて、などの意で、「雁がねの声聞くなべに明日あすよりは春日かすがの山はもみぢめなむ」(巻十・二一九五)、「もみぢ葉を散らす時雨しぐれなべにさへぞ寒き一人しれば」(巻十・二二三七)等の例がある。
 この歌もなかなか大きな歌だが、天然現象が、そういう荒々しい強い相として現出しているのを、その儘さながらに表現したのが、写生の極致ともいうべきすぐれた歌を成就じょうじゅしたのである。なお、技術上から分析すると、上の句で、「の」音を続けて、連続的・流動的に云いくだして来て、下の句で「ユツキガタケニ」と屈折せしめ、結句を四三調で止めて居る。ことに「ワタル」という音で止めて居るが、そういうところにいろいろ留意しつつ味うと、作歌稽古けいこ上にも有益を覚えるのである。次に、此歌は河の瀬の鳴る音と、山に雲の動いている現象とを詠んだものだが、或は風もあり雨も降っていたかも知れぬ。併し其風雨の事は字面には無いから、これは奥に隠して置いて味う方が好いようである。そういう事をいろいろ詮議せんぎすると却って一首の気勢を損ずることがあるし、この歌のについても亦同様であって、夏なら夏とめてしまわぬ方が好いようである。この歌も人麿歌集出だが恐らく人麿自身の作であろう。巻九(一七〇〇)に、「秋風に山吹の瀬のとよむなべ天雲あまぐもがける雁に逢へるかも」とあって、やはり人麿歌集にある歌だから、これも人麿自身の作で、上の句の同一手法もそのためだと解釈することが出来る。

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大海おほうみしまもあらなくに海原うなばらのたゆたふなみてる白雲しらくも 〔巻七・一〇八九〕 作者不詳
 作者不明だが、「伊勢にに従へる作」という左注がある。代匠記に、「持統天皇朱鳥六年ノ御供ナリ」と云ったが、或はそうかも知れない。一首の意は、大海だいかいのうえには島一つ見えない、そして漂動ひょうどうしている波には、白雲が立っている、というので、「たゆたふ」は、進行せずに一処に猶予している気持だから、海上の波を形容するには適当であり、第一その音調が無類に適当している。それから、「あらなくに」は、「無いのに」という意で、其処に感慨をこもらせているのだが、そう口訳すると、理にちて邪魔するところがあるから、今の口語ならば、「島も見えず」、「島も無くして」ぐらいでいいとおもう。つまり、島一つ無いというのが珍らしく、其処に感動がこもっているので、「なくに」が、「立てる白雲」に直接続くのではない。若し関聯せしめるとせば、普段ふだん大和で山岳にばかり雲の立つのを見ていたのだから、海上のこの異様の光景に接して、その儘、「大海に島もあらなくに」と云ったと解することも出来る。調子に流動的に大きいところがあって、藤原朝の人麿の歌などに感ずると同じような感じを覚える。ウナバラノ・タユタフ・ナミニあたりに、明かにその特色が見えている。普通従駕じゅうがの人でなおこの調しらべをなす人がいたというのは、まことに尊敬すべきことである。
「見まくり吾がする君もあらなくに奈何なにしか来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)、「磯の上に生ふる馬酔木あしび手折たをらめど見すべき君がありといはなくに」(同・一六六)、「かくしてやなほや老いなむみ雪ふる大あらき野の小竹しぬにあらなくに」(巻七・一三四九)等、例が多い。皆、この「あらなくに」のところに感慨がこもっている

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御室みもろ三輪山みわやまれば隠口こもりく初瀬はつせ檜原ひはらおもほゆるかも 〔巻七・一〇九五〕 作者不詳
 山を詠んだ、作者不詳の歌である。「御室みもろく」は、御室みむろいつくの意で、神をまつってあることであり、三輪山の枕詞となった。「隠口こもりく」は、こもくにの意で、初瀬の地勢をあらわしたものだが、初瀬の枕詞となった。一首の意は、神をいつまつってある奥深い三輪山の檜原ひはらを見ると、谿谷けいこくふかく同じく繁っておる初瀬の檜原をおもい出す、というので、三輪の檜原、初瀬の檜原といって、檜樹の密林が欝蒼うっそうとして居り、当時の人の尊崇していたものと見える。上の句と下の句との聯絡が、「おもほゆるかも」で収めてあるのは、古代人的に素朴簡浄で誠によいものである。なお此種このしゅの簡潔に山を詠んだ歌は幾つかあるが、いまは此一首を以て代表せしめた。

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ぬばたまのよるさりれば巻向まきむく川音かはとたかしもあらしかもき 〔巻七・一一〇一〕 柿本人麿歌集
 柿本人麿歌集にある、詠メル歌である。一首の意は、夜になると、巻向川の川音が高く聞こえるが、多分嵐が強いかも知れん、というので、内容極めて単純だが、この歌も前の歌同様、流動的で強い歌である。無理なくありの儘に歌われているが、無理が無いといっても、「ぬばたまのよるさりくれば」が一段、「巻向の川音高しも」が一段、共に伸々とした調しらべであるが、結句の、「嵐かも疾き」は、強くまって、厳密とでもいうべき語句である。おわりが二音で終った結句は、万葉にも珍らしく、「独りかも寝む」(巻三・二九八等)、「あやにかも寝も」(巻二十・四四二二)、「な踏みそね惜し」(巻十九・四二八五)、「高円の野ぞ」(巻二十・四二九七)、「実のるも見む」(巻十九・四二二六)、「御船みふねかもかれ」(巻十八・四〇四五)、「櫛造る刀自とじ」(巻十六・三八三二)、「やどりする君」(巻十五・三六八八)等は、類似のものとして拾うことが出来る。この歌も前の歌と共通した特徴があって、人麿を彷彿ほうふつせしむるものである。

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いにしへにありけむひとごと三輪みわ檜原ひはら※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)かざしりけむ 〔巻七・一一一八〕 柿本人麿歌集
 詠メル歌、人麿歌集にある。一首の意は、古人も亦、今の吾のように、三輪山の檜原に入来いりきて、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)かざしを折っただろう、というので、品佳く情味ある歌である。巻二(一九六)の人麿の歌に、「春べは花折り※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)かざしし、秋たてば黄葉もみぢば※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)かざし」とある如く、梅も桜も萩も瞿麦なでしこも山吹も柳も藤も※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)頭にしたが、檜も梨もその小枝を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)頭にしたものと見える。詠葉とことわっていても、題詠でなく、広義の恋愛歌として、象徴的に歌ったものであろう。人麿の歌に、「古にありけむ人も吾がごといもに恋ひつつ宿ねがてずけむ」(巻四・四九七)というのがある。さすれば此は伝誦の際に民謡風に変化したものか、或は人麿が二ざまに作ったものか、いずれにしても、二つ並べつつ鑑賞して好い歌である。

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やまわた秋沙あきさきてむそのかはなみつなゆめ 〔巻七・一一二二〕 作者不詳
 詠メル、作者不明。「秋沙あきさ」は、鴨の一種で普通秋沙鴨あいさがも小鴨こがもなどと云っている。一首の意は、山のあいを今飛んで行く秋沙鴨が、何処かの川に宿るだろうから、その川に浪立たずに呉れ、というので、不思議に象徴的な匂いのする歌である。作者はほんのりと恋愛情調を以て詠んだのだろうが、情味が秋沙鴨に対する情味にまでなっている。これならば近代人にも直ぐ受納うけいれられる感味で、万葉にはこういう歌もあるのである。「行きてむ」の句を特に自分は好んでいる。「明日香あすか七瀬ななせよどに住む鳥も心あれこそ波立てざらめ」(巻七・一三六六)は、寄スル譬喩歌ひゆかだから、此歌とは違うが、譬喩は譬喩らしくいいところがある。

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宇治川うぢがはふねわたせをとばへどもきこえざるらしかぢもせず 〔巻七・一一三八〕 作者不詳
山背やましろにて作れる」歌の一首である。「渡せを」の「を」は呼びかける時、命令形に附く助詞で、「よ」に通う。一首は、宇治河の岸に来て、船を渡せと呼ぶけれども、呼ぶのが聞こえないらしい、いで来るかいの音がしない、というので、多分夜の景であろうが、宇治の急流を前にして、規模の大きいような、寂しいような変な気持を起させる歌である。これは、「喚ばへどもきこえざるらし」のところにその主点があるためである。
 なお此歌の処に、「宇治河は淀瀬よどせ無からし網代人あじろびと舟呼ばふ声をちこち聞ゆ」(巻七・一一三五)、「千早人ちはやびと宇治川浪を清みかもたびく人の立ちがてにする」(同・一一三九)等の歌もある。網代人は網代の番をする人。千早ちはや人はうじに続き、同音の宇治うじに続く枕詞である。皆、旅中感銘したことを作っているのである。

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しながどり猪名野いなぬれば有間山ありまやま夕霧ゆふぎりちぬ宿やどくして 〔巻七・一一四〇〕 作者不詳
 摂津にて作れる歌である。「しなが鳥」は猪名いなにつづく枕詞で、しなが鳥即ち鳰鳥におどりが、居並いならぶのとが同音であるから、猪名の枕詞になった。猪名野は摂津、今の豊能川辺両郡にわたった、猪名川流域の平野である。有間山は今の有馬温泉のあるあたり一帯の山である。結句の「宿はなくして」は、前出の、「家もあらなくに」などと同一筆法だが、これは旅の実際を歌ったもののようである。それだから作者不明でも、誰の心にも通ずる真実性があるとねばならぬ。それから現在吾々が注意するのは、「有間山夕霧たちぬ」と切ったところにある。有間山は万葉にはただ二カ処だけに出ているが、後になると、「有間山猪名の笹原かぜふけばいでそよ人を忘れやはする」などの如く歌名所になった。

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いへにしてわれひむな印南野いなみぬ浅茅あさぢうへりし月夜つくよを 〔巻七・一一七九〕 作者不詳
 ※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)きりょの歌。印南野で見た、浅茅あさぢの上の月の光を、家に帰ってからもおもい出すことだろうというので、印南野を過ぎて来てからの口吻こうふんのようだが、それは「照りし月夜を」にあるので、併したとい過ぎて来たとしても、印象が未だ新しいのだから、「照れる月夜を」ぐらいの気持で味ってもいい歌である。
 いずれにしても、広い印南野の月光に感動しているところで、「恋ひむな」といっても、天然を恋うるので、そこにこの歌の特色がある。この歌の側に、「印南野は行き過ぎぬらしあまづたふ日笠ひがさの浦に波たてり見ゆ」(巻七・一一七八)というのがあるが、これも佳い歌である。

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たまくしげ見諸戸山みもろとやまきしかば面白おもしろくしていにしへおもほゆ 〔巻七・一二四〇〕 作者不詳
見諸戸みもろと山」は、即ち御室処みむろと山の義で、三輪山のことである。「面白し」は、感深いぐらいの意で、万葉では、※[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-5]怜とも書いて居る。「ける世にはいまだ見ず言絶ことたえて斯く※怜おもしろ[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-5]く縫へるふくろは」(巻四・七四六)、「ぬばたまの夜わたる月を※怜おもしろ[#「りっしんべん+可」、U+2AAE7、上-219-6]み吾が居る袖に露ぞ置きにける」(巻七・一〇八一)、「おもしろき野をばな焼きそ古草ふるくさ新草にひくさまじりひはふるがに」(巻十四・三四五二)、「おもしろみ我を思へか、さつ鳥来鳴きかけらふ」(巻十六・三七九一)等の例があり、現代の吾等が普段いう、「面白い」よりも深みがあるのである。そこで、此歌は、三輪山の風景が佳くて神秘的にも感ぜられるので、「いにしへ思ほゆ」即ち、神代の事もおもわれると云ったのである。平賀元義の歌に、「鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と歌ひけるかも」というのがあるが、この歌の「面白」も、「おもしろくしていにしへおもほゆ」の感と相通じているのである。

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あかとき夜烏よがらす鳴けどこの山上をか木末こぬれうへはいまだ静けし 〔巻七・一二六三〕 作者不詳
 第三句、「山上をか」は代匠記に「みね」とも訓んだ。もう夜が明けたといって夜烏よがらすが鳴くけれど、岡の木立こだちは未だひっそりとして居る、というのである。「木末こぬれの上」は、繁っている樹木のあたりの意、万葉の題には、「時にのぞめる」とあるから、或るおりに臨んで作ったものであろう。そして、からす等は、もう暁天あかつきになったと告げるけれども、あのように岡の森は未だ静かなのですから、も少しゆっくりしておいでなさい、という女言葉のようにも取れるし、或は男がまだ早いからも少しゆっくりしようということを女に向って云ったものとも取れるし、或は男が女の許から帰る時の客観的光景を詠んだものとも取れる。いずれにしても、暁はやく二人が未だ一しょにいる時の情景で、こういう事をいっているその心持と、暁天の清潔とが相待って、快い一首を為上しあげて居る。鑑賞の時、どうしても意味を一つにめなければならぬとせば、やはり女が男にむかって云った言葉として受納うけいれる方がいいのではあるまいか。略解りゃくげにも、「男の別れむとする時、女の詠めるなるべし」と云っている。
 次手ついでに云うと、この歌の一つ前に、「あしひきの山椿やまつばき咲く八峰やつを越え鹿しし待つ君がいはづまかも」(巻七・一二六二)というのがある。これは、猟師が多くの山を越えながら鹿ししの来るのを、心に期待して、隠れ待っている気持で、そのように大切に隠して置く君の妻よというのである。「いはひ妻」などいう語は、現代の吾等には直ぐには頭に来ないが、繰返し読んでいるうちに馴れて来るのである。つまり神にいつくように、粗末にせず、大切にする妻というので、出て来る珍らしい獲物えものの鹿を大切にする気持と相通じて居る。「鹿待つ」までは序詞だが、こういう実際から来た誠に優れた序詞が、万葉になかなか多いので、その一例を此処に示すこととした。

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巻向まきむく山辺やまべとよみてみづ水泡みなわのごとしひとわれは 〔巻七・一二六九〕 柿本人麿歌集
 人麿歌集にある歌で、「児等こらが手を巻向まきむく山はつねなれど過ぎにし人に行きかめやも」(巻七・一二六八)と一しょに載っている。これで見ると、妻の亡くなったのを悲しむ歌で、「行き纏かめやも」は、通って行って一しょに寝ることがもはや出来ないと歎くのだから、この「水泡の如し」の歌も、妻を悲しんだ歌なのである。
 一首の意は、巻向山の近くを音たてて流れゆく川の水泡みなわの如くに果敢はかないもので吾身があるよ、というのである。
 この歌では、自身のことを詠んでいるのだが、それは妻に亡くなられて悲しい余りに、自分の身をも悲しむのは人の常情じょうじょうであるから、この歌は単に大観的に無常を歌ったものではないのである。其処をはっきりさせないと、結論に錯誤さくごを来すので、「もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波の行方ゆくへ知らずも」(巻三・二六四)でもそうであるが、この歌も、単に仏教とか支那文学とかの影響を受け、それ等の文句を取って其儘そのまま詠んだというのでなく、巻向川(痛足あなし川)の、白くたぎ水泡みなわに観入して出来た表現なのである。恐らく此歌は人麿自身の作として間違は無いとおもうが、一寸見ちょっとみには、ただ口に任せて調子で歌っているようにも聞こえるがそうではないのである。巻二に、人麿の妻を痛む歌があるが、この歌もああいう歌と関聯があるのかも知れず、又紀伊の海岸で詠んだ歌も妻を悲しみ追憶した歌だから、一しょにして味ってもいいだろう。

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春日はるひすらつかきみかなしも若草わかくさつま[#「女+麗」、U+5B4B、上-222-12]きみつかる 〔巻七・一二八五〕 柿本人麿歌集
 此処に、柿本人麿歌集に出づという旋頭歌せどうかが二十三首あるが、その一首だけ抜いて見た。旋頭歌は万葉にも数が少く、人麿でも人麿作と明かにその名の見えているのは一首も無い。けれども此処ここの旋頭歌も、巻十一巻頭の旋頭歌も人麿歌集に出づというのであるから、人麿はこの形態の歌をも作ったのかも知れず、技法はなかなかの力量を思わしめるものである。併し内容は殆ど民謡的恋愛歌だから、そういう種類の古歌謡を人麿が整理したのだとも考えることが出来る。
 この一首は、この長閑のどかな春の日ですら、お前は田に働いて疲れる、妻のいない一人ぽっちの、お前は田に働いて疲れる、というので、民謡でも労働歌というのに類し、旋頭歌だから、上の句と、下の句とどちらから歌ってもかまわないのである。「君がため手力たぢから疲れ織りたるきぬぞ、春さらばいかなる色にりてばけむ」(巻七・一二八一)なども、女の気持であるが、やはり労働歌で、はた織りながらうたう女の歌の気持である。

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ふゆごもりはる大野おほぬひとらねかもこころく 〔巻七・一三三六〕 作者不詳
 譬喩歌ひゆかで、「草に寄する」歌であるが、劇しい恋愛の情をその内容として居る。「冬ごもり」は春の枕詞。一首の意は、こんなに胸が燃えて苦しくて為方しかたないのは、あの春の大野を焼く人達が焼き足りないで、私の心までもこんなに焼くのか知らん、というので、譬喩的にいったから、おのずからこういう具合に聯想の歌となるのである。この聯想はただ軽く気をかして云ったもののようにもおもえるが、繰返して読めば必ずしもそうでないところがある。つまり恋情と、春の野火との聯想が、ただ軽くつながって居るのでなく、割合に自然に緊密につながっているというのである。そんならなぜ軽くつながっているように取られるかというに、「焼く人は」と、「吾がこころく」と繰返されているために、其処が調子が好過ぎて軽く響くのである。併しこれは民謡風のものだから自然そうなるので、奈何いかんともしがたいのである。この歌は明治になってから古今の傑作のように評価せられたが、今云ったように民謡風なものの中の佳作として鑑賞する方が好いであろう。
 家持が、坂上大嬢さかのうえのおおいらつめに贈ったのに、「夜のほどろ出でつつ来らく遍多数たびまねくなれば吾が胸く如し」(巻四・七五五)というがあり、「わがこころ焼くも吾なりはしきやし君に恋ふるもわが心から」(巻十三・三二七一)、「我妹子に恋ひすべなかり胸をあつみ朝戸あくれば見ゆる霧かも」(巻十二・三〇三四)というのがあるから、参考として味うことが出来る。

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秋津野あきつぬあさゐるくもせゆけば昨日きのふ今日けふひとおもほゆ 〔巻七・一四〇六〕 作者不詳
 挽歌の中に載せている。吉野離宮の近くにある秋津野に朝のあいだかっていた雲が無くなると(この雲は火葬のけむりである)、昨日も今日も亡くなった人がおもい出されてならない、というのである。人麿が土形娘子ひじかたのおとめ泊瀬はつせ山に火葬した時詠んだのに、「隠口こもりくの泊瀬の山の山のにいさよふ雲は妹にかもあらむ」(巻三・四二八)とあるのは、当時まだ珍しかった、火葬の烟をば亡き人のようにおもった歌である。また出雲娘子いずものおとめを吉野に火葬した時にも、「山の際ゆ出雲いづもの児等は霧なれや吉野の山のみね棚引たなびく」(同・四二九)とも詠んでいるので明かである。此一首は取りたてて秀歌と称する程のものでないが、挽歌としての哀韻と、「雲の失せゆけば」のところに心がかれたのであった。

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さきはひのいかなるひと黒髪くろかみしろくなるまでいもこゑく 〔巻七・一四一一〕 作者不詳
 自分は恋しい妻をもうくしたが、白髪になるまで二人ともすこやかで、その妻の声を聞くことの出来る人は何と為合しあわせな人だろう、うらやましいことだ、というので、「妹が声を聞く」というのが特殊でもあり一首の眼目でもあり古語のすぐれたところを示す句でもある。現代人の言葉などにはこういう素朴で味のあるいい方はもう跡を絶ってしまった。
 一般的なようなことを云っていて、作者の身と遊離しない切実ないい方で、それから結句に、「こゑを聞く」と結んでいるが、「聞く」だけで詠歎の響があるのである。文法的には詠歎の助詞も助動詞も無いが、そういうものが既に含まっているとおもっていい。

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吾背子わがせこ何処いづくかめとさきたけ背向そがひ宿しく今しくやしも 〔巻七・一四一二〕 作者不詳
 これも挽歌の中に入っている。すると一首の意は、私のおっとがこのように、死んで行くなどとは思いもよらず、生前につれなくして、うしろを向いて寝たりして、今となってわたしはくやしい、ということになるであろう。「さき竹の」は枕詞だが、割った竹は、重ねてもしっくりしないので、後ろ向に寝るのに続けたものであろう。また、「背向そがひ宿しく」は、男女云い争った後の行為のように取れて一層哀れも深いし、女らしいところがあっていい。
 然るに、巻十四、東歌あずまうたの挽歌の個処に、「かなし妹を何処いづち行かめと山菅やますげ背向そがひ宿しく今し悔しも」(三五七七)というのがあり、二つ共似ているが、巻七の方が優っている。巻七の方ならば人情も自然だが、巻十四の方はやや調子に乗ったところがある。おもうに、巻七の方は未だ個人的歌らしく、つつましいところがあるけれども、それが伝誦せられているうち民謡的に変形して巻十四の歌となったものであろう。気楽に一しょになってうたうのには、「かなし妹を」の方が調子に乗るだろうが、切実の度が薄らぐのである。
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巻第八


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石激いはばし垂水たるみうへのさわらびづるはるになりにけるかも 〔巻八・一四一八〕 志貴皇子
 志貴皇子しきのみこよろこびの御歌である。一首の意は、巌の面を音たてて流れおつる、滝のほとりには、もうわらびが萌え出づる春になった、よろこばしい、というのである。「石激いはばしる」は「垂水たるみ」の枕詞として用いているが、意味の分かっているもので、形状言の形式化・様式化・純化せられたものと看做みなし得る。「垂水たるみ」は垂る水で、余り大きくない滝と解釈してよいようである。「垂水の上」の「上」は、ほとりというぐらいの意に取ってよいが、滝下たきしもより滝上たきかみの感じである。この初句は、「石激」で旧訓イハソソグであったのを、こうでイハバシルとんだ。なお、類聚古集るいじゅうこしゅうに「石灑」とあるから、「いはそそぐ」の訓を復活せしめ、「垂水」をば、巌の面をば垂れて来る水、たらたら水の程度のものと解釈する説もあるが、私は、初句をイハバシルとみ、全体の調子から、やはり垂水たるみをば小滝ぐらいのものとして解釈したく、小さくとも激湍げきたんの特色を保存したいのである。
 この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、然かも平板へいばんおちることなく、細かい顫動せんどうを伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御懽びの心が即ち、「さ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」という一気に歌いあげられた句に象徴せられているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この「けるかも」と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない。集中、「昔見しきさの小河を今見ればいよよさやけくなりにけるかも」(巻三・三一六)、「妹として二人作りし吾が山斎しま木高こだかく繁くなりにけるかも」(巻三・四五二)、「うちのぼる佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも」(巻八・一四三三)、「秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも」(巻十・二一七〇)、「萩が花咲けるを見れば君に逢はずまことも久になりにけるかも」(巻十・二二八〇)、「竹敷のうへかた山はくれなゐ八入やしほの色になりにけるかも」(巻十五・三七〇三)等で、皆一気に流動性を持った調べを以て歌いあげている歌であるが、万葉の「なりにけるかも」の例は実に敬服すべきものなので、はんをいとわず書抜いて置いた。そして此等の中にあっても志貴皇子の御歌は特にその感情を伝えているようにおもえるのである。此御歌は皇子の御作中でもすぐれており、万葉集中の傑作の一つだとっていいようである。
 大体以上の如くであるが、「垂水」を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名も摂津せっつ豊能とよの郡の垂水たるみ播磨はりま明石あかし郡の垂水たるみの両説がある。若し地名だとしても、垂水即ち小滝を写象の中に入れなければ此歌は価値が下るとおもうのである。次に此歌に寓意ぐういを求める解釈もある。「此御歌イカナル御懽有テヨマセ給フトハシラネド、垂水ノ上トシモヨマセ給ヘルハ、もし帝ヨリ此処ヲ封戸ふごニ加へ賜ハリテ悦バセ給ヘル。蕨ノ根ニ隠リテカヾマリヲレルガ、春ノ暖気ヲ得テ萌出ルハ、実ニ悦コバシキたとへナリ。御子白壁王不意ニ高御座ミクラノボラセ給ヒテ、此皇子モ田原天皇ト追尊セラレ給ヒ、皇統今ニ相ツヾケルモ此歌ニモトヰセルニヤ」(代匠記)といい、考・略解りゃくげ・古義これに従ったが、やや穿鑿せんさくに過ぎた感じで、むしろ、「水流れ草もえて万物の時をうるを悦び給へる御歌なるべし」(拾穂抄しゅうすいしょう)の簡明な解釈の方が当っているとおもう。なお、「石走いはばしる垂水の水のしきやし君に恋ふらく吾がこころから」(巻十二・三〇二五)という参考歌がある。

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神奈備かむなび伊波瀬いはせもり喚子鳥よぶこどりいたくなきそこひまさる 〔巻八・一四一九〕 鏡王女
 鏡王女かがみのおおきみの歌である。鏡王女は鏡王かがみのおおきみむすめ額田王ぬかだのおおきみの御姉に当り、はじめ天智天皇の御寵おんちょうを受け、後藤原鎌足ふじわらのかまたりの正妻となった。此処ここ神奈備かむなび竜田たつたの神奈備で飛鳥あすかの神奈備ではない。生駒いこま郡竜田町の南方に車瀬という処に森がある。それが伊波瀬の森である。喚子鳥よぶこどりは大体閑古鳥かんこどりの事として置く。一首の意は、神奈備の伊波瀬の森に鳴く喚子鳥よ、そんなに鳴くな、私の恋しい心が増すばかりだから、というのである。
「いたく」は、強く、熱心に、度々、切実になどともほんし得、口語なら、「そんなに鳴くな」ともいえる。喚子鳥の声は、人にうったえて呼ぶようであるから、その声を聞いて自分の身の上に移して感じたものである。この聯想れんそうから来る感じは万葉の歌に可なり多いが、当時の人々は何時いつにかう無理なく表現し得るようになっていたのだろう。人麿の、「夕浪千鳥が鳴けば」でもそうであった。それだから此歌でも、現代の読者にまでそう予備的な心構えがなくも受納うけいれられ、く単純な内容のうちに純粋な詠歎のこえを聞くことが出来るのである。王女は額田王の御姉であったから、額田王の歌にも共通な言語に対する鋭敏がうかがわれるが、額田王の歌よりももっと素直で才鋒さいほうの目だたぬところがある。また時代も万葉上期だから、そのころの純粋な響・語気を伝えている。巻八(一四六五)に、藤原夫人ふじわらのぶにんの、「霍公鳥ほととぎすいたくな鳴きそ汝が声を五月さつきの玉にくまでに」があるが、女らしい気持だけのものである。また、やはり此巻(一四八四)に、「霍公鳥ほととぎすいたくな鳴きそひとりゐて宿らえぬに聞けば苦しも」という大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめの歌があるが、「吾が恋まさる」の簡浄かんじょうな結句には及ばない。これは同じ女性の歌でももはや時代の相違であろうか。

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うちなびはるきたるらしやまとほ木末こぬれきゆく見れば 〔巻八・一四二二〕 尾張連
 尾張連おわりのむらじの歌としてあるが、伝不明である。一首は、山のあいの遠くまで続く木立に、きのうも今日も花が多くなって見える、もう春が来たというので、「咲きゆく」だから、次から次と花が咲いてゆく、時間的経過を含めたものだが、其処に読者を迷わせるところもなく、ゆったりとした迫らない響を感じさせている。そして、春の到来に対する感慨が全体にこもり、特に結句の「見れば」のところに集まっているようである。「木末の咲きゆく」などという簡潔ないいあらわしは、後代には跡をった。それは、幽玄とか有心うしんとか云って、深みを要求していながら、歌人の心の全体が常識的に分化してしまったからである。

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はるすみれみにとわれをなつかしみ一夜ひとよ宿にける 〔巻八・一四二四〕 山部赤人
 山部赤人の歌で、春の原にすみれみに来た自分は、その野をなつかしく思って一夜宿た、というのである。全体がむつかしくない、赤人的な清朗な調べの歌であるが、菫咲く野に対する一つの係恋けいれんといったような情調を感じさせる歌である。即ち極く広義の恋愛情調であるから、説く人によっては、恋人のことを歌ったのではないかと詮議せんぎするのであるが、其処そこまで云わぬ方がかえっていい。また略解は「菫つむは衣すらむ料なるべし」とあるが、これも主要な目的ではないであろう。本来菫を摘むというのは、可憐な花を愛するためでなく、その他の若草と共に食用として摘んだものである。和名鈔わみょうしょうの菫菜で、爾雅じがに、※[#「さんずい+(勹<一)」、U+6C4B、下-6-6]之滑也。疏可食之菜也とあるによって知ることが出来る。しかし此処は、「春日野に煙立つ見ゆ※嬬をとめ[#「女+感」、下-6-7]らし春野の菟芽子うはぎ採みて煮らしも」(巻十・一八七九)という歌のように直ぐ食用にして居る野菜として菫を聯想せずに、第一には可憐な菫の花の咲きつづく野を聯想すべきであり、また其処に恋人などの関係があるにしても、それは奥にひそめる方が鑑賞の常道のようである。
 この歌で、「吾ぞ」と強めて云っていても、赤人の歌だから余り目立たず、「野をなつかしみ」といっても、余り強く響かず、従って感情を強いられるような点も少いのだが、そのうちには少し甘くて物足りぬということが含まっているのである。赤人の歌には、「かたをなみ」、「野をなつかしみ」というような一種の手法傾向があるが、それが清潔な声調で綜合そうごうせられている点は、人の許す万葉第一流歌人の一人ということになるのであろうか。併しこの歌は、富士山の歌ほどに優れたものではない。巻七(一三三二)に、「磐が根のこごしき山に入りめて山なつかしみ出でがてぬかも」という歌があり、これは寄山歌だからこういう表現になるのだが、むしろ民謡風にらくなもので、赤人の此歌とくらべれば赤人の歌ほどには行かぬのである。また、巻十(一八八九)の、「吾が屋前やど毛桃けももの下に月夜つくよさし下心したごころよしうたて此の頃」という歌は、譬喩ひゆ歌ということは直ぐ分かって、少しうるさく感ぜしめる。此等と比較しつつ味うと赤人の歌の好いところもおのずから分かるわけである。なお、赤人の歌には、この歌の次に、「あしひきの山桜花ならべてく咲きたらばいと恋ひめやも」(巻八・一四二五)ほか二首があり、清淡でこまかいあじわいであるが、結句は、やはり弱い。なお、「恋しけば形見にせむと吾が屋戸やどに植ゑし藤浪いま咲きにけり」(同・一四七一)があり、これを模して家持やかもちが、「秋さらば見つつしのべと妹が植ゑし屋前やど石竹なでしこ咲きにけるかも」(巻三・四六四)と作っているが、共に少し当然過ぎて、感に至り得ないところがある。赤人の歌でも、「今咲きにけり」が弱いのである。なお参考句に、「春の野に菫を摘むと、白妙の袖折りかへし」(巻十七・三九七三)がある。

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百済野くだらぬはぎ古枝ふるえはるつとりしうぐいすきにけむかも 〔巻八・一四三一〕 山部赤人
 山部赤人の歌で、春到来の心を詠んでいる。百済野は大和やまと北葛城きたかつらぎ百済くだら村附近の原野である。「萩の古枝」は冬枯れた萩の枝で、相当の高さと繁みになったものであろう。「春待つと居りし」あたりのいい方は、古調のいいところであるが、旧訓スミシ・ウグヒスであったのを、古義では脱字説を唱え、キヰシ・ウグヒスとんだ。併し古い訓(類聚古集・神田本)の、ヲリシウグヒスの方がいい。この歌も、何でもないようであるが、いたずらに興奮せずに、気品を保たせているのを尊敬すべきである。これも期せずして赤人の歌になったが、選んで来て印をつけると、自然こういう結果になるということは興味あることで、もっと先きの巻に於ける家持の歌の場合と同じである。

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かはづ甘南備河かむなびがはにかげえていまくらむ山吹やまぶきはな 〔巻八・一四三五〕 厚見王
 厚見王あつみのおおきみの歌一首。厚見王は続紀しょくきに、天平勝宝てんぴょうしょうほう元年に従五位下を授けられ、天平宝字てんぴょうほうじ元年に従五位上を授けられたことが記されている。甘南備河かむなびがわは、甘南備山が飛鳥あすか雷丘いかずちのおか)か竜田たつたかによって、飛鳥川か竜田川かになるのだが、それが分からないからいずれの河としても味うことが出来る。一首は、かわず河鹿かじか)の鳴いている甘南備河に影をうつして、今頃山吹の花が咲いて居るだろう、というので、こだわりの無い美しい歌である。
 此歌が秀歌として持てはやされ、六帖や新古今に載ったのは、流麗な調子と、「かげ見えて」、「今か咲くらむ」という、幾らか後世ぶりのところがあるためで、これが本歌ほんかになって模倣せられたのは、その後世ぶりが気に入られたものである。「逢坂の関の清水にかげ見えて今や引くらむ望月の駒」(拾遺・貫之つらゆき)、「春ふかみ神なび川に影見えてうつろひにけり山吹の花」(金葉集)等の如くに、その歌調なり内容なりが伝播でんぱしている。この歌は、全体としてはやや軽いので、実際をいえば、このくらいの歌は万葉に幾つもあるのだが、この種類の一代表として選んだのである。参考歌に、「安積香あさか山影さへ見ゆる山井やまのゐの浅き心を吾がはなくに」(巻十六・三八〇七)がある。

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平常よのつねくはくるしき喚子鳥よぶこどりこゑなつかしきときにはなりぬ 〔巻八・一四四七〕 大伴坂上郎女
 大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめが、天平てんぴょう四年三月佐保さおいえで詠んだ歌である。普段には、身につまされてむしろ苦しいくらいな喚子鳥の声も、なつかしく聞かれる春になった、というので、奇もなく鋭いところもないが、季節の変化に対する感じも出ており、春の女心に触れることも出来るようなところがある。「時にはなりぬ」だけで詠歎えいたんのこもることはすでにいった。佐保の宅というのは、郎女いらつめの父大伴安麿やすまろの宅である。「春日なる羽易はがひの山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるはたれ喚子鳥」(巻十・一八二七)、「答へぬにな喚びとよめそ喚子鳥佐保の山辺をのぼくだりに」(同・一八二八)、「卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥ほととぎす佐保の山辺に来鳴きとよもす」(巻八・一四七七)等があって、佐保には鳥の多かったことが分かる。

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なみうへゆる児島こじまくもがくりあな気衝いきづかしあひわかれなば 〔巻八・一四五四〕 笠金村
 天平五年春うるう三月、入唐使(多治比真人広成たじひのまひとひろなり)が立つ時に、笠金村かさのかなむらが贈った長歌の反歌である。一首は、あなたの船が出帆して、波の上から見える小島のように、遠く雲がくれに見えなくなって、いよいよお別れということになるなら、嗚呼ああ吐息といきかれることだ、悲しいことだ、というのである。此処でも、「波の上ゆ見ゆる」と「ゆ」を使っている。児島は備前児島だろうという説があるが、序の形式だから必ずしも固有名詞とせずともいい。「気衝いきづかし」は、息衝いきづくような状態にあること、溜息ためいきかせるようにあるというので、いい語だとおもう。「味鴨あぢの住む須佐すさの入江のこものあな息衝いきづかし見ずひさにして」(巻十四・三五四七)の用例がある。訣別けつべつの歌だから、やや形式になり易いところだが、海上の小島を以て来てその気持を形式化から救っている。第四句が中心である。

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神名火かむなび磐瀬いはせもりのほととぎすならしのをか何時いつ来鳴きなかむ 〔巻八・一四六六〕 志貴皇子
 志貴皇子の御歌。磐瀬いわせもりは既にいった如く、竜田町の南方車瀬にある。ならしのおかは諸説あって一定しないが、磐瀬の杜の東南にわたる岡だろうという説があるから、一先ひとまずそれに従って置く。この歌は、「ならしの丘に何時か来鳴かむ」と云って、霍公鳥ほととぎすの来ることを希望しているのだが、既に出た皇子の御歌の如く、おおどかの中におごそかなところがあり、感傷にいんせずになお感傷を暗指あんじしている点は独特の御風格というべきである。他の皇子の御歌とくらべるから左程に思わぬが、そのあたりの歌を読んで来ると、やはり選は此歌に逢着ほうちゃくするのである。此歌は一首に三つも地名が詠込よみこまれている。「朝霞たなびく野べにあしひきの山ほととぎすいつか来鳴かむ」(巻十・一九四〇)の例があるが、民謡風だから「個」の作者が隠れて居り、それだけ呑気のんきである。この近くにある、「もののふの磐瀬のもりの霍公鳥いまも鳴かぬか山のと陰に」(巻八・一四七〇)でも内容が似ているが、これも呑気である。

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夏山なつやま木末こぬれしじにほととぎすとよむなるこゑはるけさ 〔巻八・一四九四〕 大伴家持
 大伴家持おおとものやかもち霍公鳥ほととぎすの歌であるが、「夏山の木末のしじ」は作者のたところであろうが、前出の、「山の際の遠きこぬれ」の方がうまいようにもおもう。「こゑの遙けさ」というのが此一首の中心で、現実的な強味がある。この巻(一五五〇)に、湯原王ゆはらのおおきみの、「秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遙けさ」も家持の歌に似ているが、家持の歌のまさっているのは、実際的のひびきがあるためである。然るに巻十(一九五二)に、「今夜このよひのおぼつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遙けさ」というのがあり、家持はこれを模倣しているのである。併し、「夏山の木末の繁に」といって生かしているのを後代の吾等は注意していい。「しじに」は槻落葉つきのおちばにシゲニとんでいる。

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ゆふされば小倉をぐらやま鹿しか今夜こよひかず寝宿いねにけらしも 〔巻八・一五一一〕 舒明天皇
 秋雑歌ぞうか崗本おかもと天皇(舒明じょめい天皇)御製歌一首である。小倉山は恐らく崗本宮近くの山であろうが、その辺に小倉山の名が今は絶えている。一首の意は、夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろうというのである。いつも妻をもとめて鳴いている鹿が、妻を得た心持であるが、結句は、必ずしも率寝いねの意味に取らなくともいい。御製は、調べ高くしてうるおいがあり、豊かにしてたるまざる、万物を同化包摂ほうせつしたもう親愛の御心の流露りゅうろであって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だとおもうのである。第四句で、「今夜は鳴かず」と、其処に休止を置いたから、結句は独立句のように、豊かにしてせまらざる重厚なものとなったが、よく読めばおのずから第四句にいとの如くに続き、また一首全体に響いて、気品の高い、いうにいわれぬ歌調となったものである。「いねにけらしも」は、親愛の大御心であるが、素朴・直接・人間的・肉体的で、後世の歌にこういう表現のないのは、総べてこういう特徴から歌人の心が遠離して行ったためである。此御歌は万葉集中最高峰の一つとおもうので、その説明をしたい念願を持っていたが、実際に当ると好い説明の文を作れないのは、この歌は渾一体こんいったいの境界にあってこまごましい剖析ぼうせきをゆるさないからであろうか。
 此歌の第三句、旧板本「鳴鹿之」となっているから、訓は「ナクシカノ」である。然るに古鈔本(類・神・西・温・矢・京)には、「之」の字が「者」となって居り、また訓も「ナクシカハ」(類・神・温・矢・京)となって居るのがある。注釈書では既に拾穂抄でこれを注意し、代匠記で、官本之作者、点云、ナクシカハ。別校本或同此。幽斎本之作者、点云、ナクシカノ、と注した。そこで近時、「ナクシカハ」の訓に従うようになったが、古今六帖には、「鳴く鹿の」となって居り、又幽斎本では鳴鹿者と書いて、「ナクシカノ」と訓んで、また旧板本は鳴鹿之であるから、「ナクシカノ」という訓も古くからあったことが分かる。もっとも、「鳴鹿之」は巻九巻頭の、「臥鹿之」の「之」にって直したとも想像することも出来るが、兎も角長い期間「鳴く鹿の」として伝わって来ている。今となって見れば、「鳴く鹿」の方は、「今夜」と続いて、古調に響くから、「鳴く鹿は」の方が原作かも知れないけれども、「鳴く鹿の」としても、充分味うことの出来る歌である。
 なお、一寸ちょっと前言した如く、巻九(一六六四)に、雄略天皇御製歌として、「ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜こよひは鳴かずねにけらしも」という歌がっていて、二つとも類似歌であるがどちらが本当だかつまびらかでないから、かさねて載せたという左注がある。併し歌調から見て、雄略天皇御製とせば少し新し過ぎるようだから、先ず舒明天皇御製とした方が適当だろうという説が有力である。なお小倉山であるが、「白雲の竜田の山の、滝の上の小鞍をぐらの峯」(巻九・一七四七)は、竜田川(大和川)の亀の瀬岩附近、竜田山の一部である。それから、この(一六六四)が雄略天皇の御製とせば、朝倉宮近くであるから、今の磯城しき郡朝倉村黒崎に近い山だろうということも出来る。それに舒明天皇の高市崗本宮近くにある小倉山と、仮定のなかに入る小倉山が三つあるわけである。併し、舒明天皇の御製でも、しも行幸でもあって竜田の小鞍峯あたりでの吟咏ぎんえいとすると、小倉山考証の疑問はおのずから冰釈ひょうしゃくするわけであるけれども、「今夜は鳴かず」とことわっているから、ふだんにその鹿の声を御聞きになったことを示し、従って崗本宮近くに小倉山という名の山があったろうと想像することとなるのである。

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今朝けさあさかりがねきつ春日山かすがやまもみぢにけらしがこころいたし 〔巻八・一五二二〕 穂積皇子
 穂積皇子ほづみのみこの御歌二首中の一つで、一首の意は、今日の朝に雁の声を聞いた、もう春日山は黄葉もみじしたであろうか。身にみて心悲しい、というので、作者の心が雁の声を聞き黄葉を聯想しただけでも、心痛むという御境涯にあったものと見える。そしてなお推測すれば但馬皇女たじまのひめみことの御関係があったのだから、それを参考するとおのずから解釈出来る点があるのである。いずれにしても、第二句で「雁がね聞きつ」と切り、第四句で「もみぢにけらし」と切り、結句で「吾が心痛し」と切って、ぽつりぽつりとしている歌調はおのずから痛切な心境を暗指するものである。前の志貴皇子の「石激る垂水の上の」の御歌などと比較すると、その心境と声調の差別を明らかに知ることが出来るのである。もう一つの皇子の御歌は、「秋萩は咲きぬべからし吾が屋戸やどの浅茅が花の散りぬる見れば」(巻八・一五一四)というのである。なお、近くにある、但馬皇女の、「ことしげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを」(同・一五一五)という御歌がある。皇女のこの御歌も、穂積皇子のこの御歌と共に読味うことが出来る。共に恋愛情調のものだが、皇女のには甘くせまる御語気がある。

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あき穂田ほだかりがねくらけくにのほどろにもわたるかも 〔巻八・一五三九〕 聖武天皇
 天皇御製とあるが、聖武しょうむ天皇御製だろうと云われている。「秋の田の穂田を」までは序詞で、「刈り」と「雁」とに掛けている。併しこの序詞は意味の関聯があるので、却って序詞としては巧みでないのかも知れない。御製では、「くらけくに夜のほどろにも鳴きわたるかも」に中心があり、闇中あんちゅうの雁、暁天に向う夜の雁を詠歎したもうたのに特色がある。「夜のほどろ我がいでてくれば吾妹子が念へりしくし面影に見ゆ」(巻四・七五四)等の例がある。

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夕月夜ゆふづくよこころしぬ白露しらつゆくこのには蟋蟀こほろぎくも〔巻八・一五五二〕 湯原王
 湯原王ゆはらのおおきみ蟋蟀こおろぎの歌で、夕方のまだ薄い月の光に、白露のおいた庭に蟋蟀が鳴いている。それを聞くとわが心も萎々しおしおとする、というのである。後世の歌なら、助詞などが多くてたるむところであろうが、そこを緊張せしめつつ、句と句とのあいだに、間隔を置いたりして、端正で且つ感の深い歌調をまっとうしている。「心もしぬに」は、直ぐ、「白露の置く」に続くのではなく、寧ろ、「蟋蟀鳴く」に関聯しているのだが、そこが微妙な手法になっている。いずれにしても、分かりよくて、平凡にならなかった歌である。

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あしひきのやま黄葉もみぢば今夜こよひもかうかびゆくらむ山川やまがはに 〔巻八・一五八七〕 大伴書持
 大伴書持ふみもちの歌である。書持は旅人の子で家持の弟に当る。天平十八年に家持が書持の死を痛んだ歌を作っているから大体その年に死去したのであろう。此一首は天平十年冬、橘宿禰奈良麿たちばなのすくねならまろの邸で宴をした時諸人がきそうて歌をんだ。皆黄葉もみじを内容としているが書持の歌い方がややおもむきことにし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく写象を心に浮べて、「今夜こよひもか浮びゆくらむ」と詠歎している。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない穉拙ちせつのようなところがあって、何時いつか私の心をいたものだが、今読んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておもしろい。また所謂いわゆる万葉的常套じょうとうを脱しているのも注意せらるべく、万葉末期の、次の時代への移行型のようなものかも知れぬが、そういう種類の一つとして私は愛惜あいせきしている。そして天平十年が家持やかもち二十一歳だとせば、書持はまだ二十歳にならぬ頃に作った歌ということになる。
 書持の兄、家持が天平勝宝二年に作った歌に、「夜くだちに寝覚ねさめて居れば河瀬かはせこころもしぬに鳴く千鳥かも」(巻十九・四一四六)というのがある。この「河瀬尋め」あたりの観照の具合に、「浮びゆくらむ」と似たところがあるのは、この一群歌人相互の影響によって発育した歌境だかも知れない。

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大口おほくち真神まがみはらゆきはいたくなりそいへもあらなくに 〔巻八・一六三六〕 舎人娘子
 舎人娘子とねりのおとめの雪の歌である。舎人娘子の伝は未詳であるが、巻二(一一八)に舎人皇子とねりのみここたえ奉った歌があり、大宝二年の持統天皇参河みかわ行幸従駕の作、「丈夫ますらを猟矢さつやたばさみ立ち向ひ射る的形まとかたは見るにさやけし」(巻一・六一)があるから、持統天皇に仕えた宮女でもあろうか。真神まがみの原は高市郡飛鳥にあった原で、「大口の」は、狼(真神)の口が大きいので、真神の枕詞とした。
 この歌は、独詠歌というよりも誰かに贈った歌の如くである。そして、持統天皇従駕じゅうが作の如くに、儀容を張らずに、ありの儘に詠んでいて、贈った対者に対する親愛の情のあらわれている可憐な歌である。「家もあらなくに」の結句ある歌は既に記した。

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沫雪あわゆきのほどろほどろにけば平城なら京師みやこおもほゆるかも 〔巻八・一六三九〕 大伴旅人
 大伴旅人おおとものたびとが筑紫太宰府にいて、雪の降った日にみやこおもった歌である。「ほどろほどろ」は、沫雪あわゆきの降った形容だろうが、沫雪は降っても消え易く、重量感からいえば軽い感じである。厳冬の雪のように固着の感じの反対で消え易い感じである。そういう雪を、ハダレといい、副詞にしてハダラニともいい、ホドロニと転じたものであろうか。「夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり」(巻十・二三一八)とあって、一に云う、「庭もほどろに雪ぞ降りたる」とあるから、「はだらに」、「ほどろに」同義に使ったもののようである。また、「吾背子を今か今かと出で見れば沫雪ふれり庭もほどろに」(同・二三二三)とあり、軽く消え易いように降るので、分量の問題でなく感じの問題であるようにおもえる。沫雪は消え易いけれども、降る時には勢いづいて降る。そこで、旅人の此歌も、「ほどろほどろに」と繰返しているのは、旅人はそう感じて繰返したのであろうから、分量の少い、薄く降るという解釈とは合わぬのである。特に「零りけば」であるから、単に「薄い雪」をハダレというのでは解釈がつかない。また、「はだれ降りおほひなばかも」(同・二三三七)の例も、薄く降るというよりも盛に降る心持である。そこで、ハダレは繊細に柔かに降り積る雪のことで、ホドロホドロニは、そういう柔かい感じの雪が、勢いづいて降るということになりはしないか。ホドロホドロと繰返したのは旅人のこの一首のみで、模倣せられずにしまった。
 この一首は、前にあった旅人の歌同様、線の太い、直線的な歌いぶりであるが、感慨が浮調子うわちょうしでなく真面目まじめな歌いぶりである。細かくふるう哀韻を聴き得ないのは、憶良おくらなどの歌もそうだが、この一団の歌人の一つの傾向と看做みなし得るであろう。

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吾背子わがせこ二人ふたりませば幾許いくばくかこのゆきうれしからまし 〔巻八・一六五八〕 光明皇后
 藤皇后とうこうごう光明こうみょう皇后)が聖武天皇に奉られた御歌である。皇后は藤原不比等ふひとの女、神亀元年二月聖武天皇夫人。ついで、天平元年八月皇后とならせたまい、天平宝字四年六月崩御せられた。御年六十。この美しく降った雪を、若しお二人で眺めることがかないましたならば、どんなにかおうれしいことでございましょう、というのである。く尋常に、御おもいの儘、御会話の儘を伝えているのはまことに不思議なほどである。特に結びの、「うれしからまし」の如き御言葉を、皇后の御生涯と照らしあわせつつ味い得るということの、多幸を私等はおもわねばならぬのである。「見ませば」は、「草枕旅ゆく君と知らませば」(巻一・六九)、「悔しかも斯く知らませば」(巻五・七九七)、「夜わたる月にあらませば」(巻十五・三六七一)等の例と同じく、マセはマシという助動詞の将然段に条件づけた云い方で、知らましせば、あらましせば、見ましせばぐらいの意であろうか。くわしいことは専門の書物にゆずる。なお「あしひきの山よりせば」(巻十・二一四八)も参考になろうか。ウレシという語も、「何すとか君をいとはむ秋萩のその初花のうれしきものを」(同・二二七三)などの用法と殆ど同じである。
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斎藤茂吉の万葉秀歌考巻5

巻第五


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なかむなしきものとときしいよよますますかなしかりけり 〔巻五・七九三〕 大伴旅人
 大伴旅人おおとものたびとは、太宰府に於て、妻大伴郎女おおとものいらつめを亡くした(神亀五年)。その時京師から弔問が来たのにこたえた歌である。なおこの歌には、「禍故重畳ちようでふし、凶問しきりに集る。永く崩心の悲みをいだき、独り断腸のなみだを流す。但し両君の大助に依りて、傾命わづかに継ぐのみ。筆言を尽さず、古今の歎く所なり」という詞書が附いている。傾命は老齢のこと。両君はつまびらかでない。
 一首の意は、世の中が皆空・無常のものだということを、現実に知ったので、今迄よりもますます悲しい、というのである。
「知る時し」は、知る時に、知った時にという事であるが、今迄は経文により、説教により、万事空寂無常のことは聞及んでいたが、今げんに、自分の身に直接に、のあたりに、今の言葉なら、体験したという程のことを、「知る」と云ったのである。同じ用例には、「うつせみの世は常無つねなしと知るものを」(巻三・四六五。家持)、「世の中を常無きものと今ぞ知る」(巻六・一〇四五。不詳)、「世の中の常無きことは知るらむを」(巻十九・四二一六。家持)等がある。そこで「いよよますます」という語に続くのである。この歌には、仏教が入っているので、「空しきものと知る」というだけでも、当時にあっては、深い道理と情感を伴う語感を持っていただろう。一口にいえば思想的にも新しく且つ深かったものだろう。それが年月によって繰返されているうち、その新鮮の色があせつつ来たのであるが、旅人のこの歌頃までは、いまだ諳記あんきしてものを云っているようなところのないのを鑑賞者は見免みのがしてはならぬだろう。その証拠には、此処に引いた用例は皆旅人以後で、旅人の口吻の模倣といってよいのである。それから、結句の、「悲しかりけり」であるが、これは漢文なら、「独り断腸のなみだを流す」というところを、日本語では、「悲しかりけり」というのである。これを以て、日本語の貧弱を云々してはならぬ。短詩形としての短歌の妙味もむずかしい点も此処に存するものだからである。大体以上の如くであるが、後代の吾等から見れば、此歌を以て満足だというわけには行かぬ。それはなぜかというに、思想的抒情詩はむずかしいもので、誰が作っても旅人程度を出で難いものだからである。併しそれを正面から実行した点につき、この方面の作歌に一つの基礎をなした点につき、旅人に満腔まんこうの尊敬を払うてここに一首を選んだのであった。
 旅人の妻、大伴郎女の死した時、旅人は、「うつくしきひときてし敷妙しきたへの吾が手枕たまくらく人あらめや」(巻三・四三八)等三首を作っているが、皆この歌程大観的ではない。序にいうが、巻三(四四二)に、膳部王かしわでべのおおきみを悲しんだ歌に、「世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月は満闕みちかけしける」という作者不詳の歌がある。王の薨去は天平元年だから、やはり旅人の歌の方が早い。

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くやしかもらませばあをによし国内くぬちことごとせましものを 〔巻五・七九七〕 山上憶良
 大伴旅人の妻が死んだ時、山上憶良やまのうえのおくらが、「日本挽歌」(長歌一首反歌五首)を作って、「神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良上」として旅人に贈った。即ちこの長歌及び反歌は、旅人の心持になって、あたかも自分の妻をいたむような心境になって、旅人の妻の死を悼んだものである。それだから、この「山上憶良上」云々という注が無ければ、無論憶良が自分の妻の死を悼んだものとして受取り得る性質のものである。って鑑賞者は、この歌の作者は憶良でも、旅人の妻即ち大伴郎女おおとものいらつめの死を念中に持って味うことが必要なのである。
 一首の意は、こうして妻に別れねばならぬのが分かっていたら、筑紫の国々を残るくまなく見物させてやるのであったのに、今となって残念でならぬ、というのである。
 この歌の「知る」は前の歌の「知る」と稍違って、知れている、分かっている程の意である。次に、「あをによし」という語は普通、「奈良」に懸る枕詞であるのに、憶良は「国内」に続けている。そんなら、「国内」は大和・奈良あたりの意味かというに、そう取っては具合が悪い。やはり筑紫の国々と取らねばならぬところである。そこで種々説が出たのであるが、憶良は必ずしも伝統的な日本語を使わぬ事があるので、或は、「あをによし」の意味をただ山川の美しいというぐらいの意に取ったものと考えられる。(憶良は、「あをによし奈良の都に」(巻五・八〇八)とも使っている。)次に、この歌は、初句から、「くやしかも」と置いているのは、万葉集としては珍らしく、寧ろ新古今集時代の手法であるが、憶良は平然としてこういう手法を実行している。もっともこの手法は、「苦しくも降り来る雨か」などという主観句の短いものと看做みなせば説明のつかぬことはない。
 この歌を味うと、内容に質実的なところがあるが、声調が訥々とつとつとしていて、とおるものがすくないので、つまりは常識の発達したぐらいな感情として伝わって来る。併し声調が流暢りゅうちょう過ぎぬため、却って軽佻けいちょうでなく、質朴の感を起こさせるのである。家持の歌に、「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」(巻十七・三九五九)というのがある。これは弟の書持ふみもちの死をいたんだものであるが、この憶良の歌から影響を受けているところを見ると、大伴家に伝わった此等の歌をも読味ったことが分かる。
 この日本挽歌一首(長歌反歌)は、憶良が旅人の心になって、旅人の心に同感して、旅人の妻の死を哀悼あいとうしたという説に従ったが、これは、憶良の妻の死を、憶良が直接悼んでいるのだと解釈する説があり、岸本由豆流ゆずるの万葉集攷證こうしょうにも、「或人の説に、こは憶良の妻身まかりしにはあるべからず、こは大伴卿の心になりて、憶良の作られけるならんといへれど、さる証もなければとりがたし」と云っている程である。(なお、大柳直次氏の同説がある。)併し、歌の中の妻の死んだのも夏であり、その他の種々の関係が、旅人の妻の死を悼んだ歌として解釈する方がおだやかのように思える。「筑前国守山上憶良上」をば、憶良自身の妻の死を悼んだ歌を旅人に示したものとして、「大伴卿も同じ思ひに歎かるゝころなれば、かの卿に見せられけるなるべし」(攷證)というのであるが、ただそれだけでは証拠不充分であるし、憶良の妻が筑紫で歿したという記録が無いのだから、これを以て直ぐ憶良の妻の死を悼んだのだと断定するわけにも行かぬのである。併し全体が、自分の妻を哀悼するような口吻であるから、茲に両説が対立することとなるのであるが、鑑賞者は、憶良が此歌を作っても、旅人の妻の死を旅人が歎いているという心持に仮りになって味えば面倒ではないのである。

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いもあふちはなりぬべしなみだいまだなくに 〔巻五・七九八〕 山上憶良
 前の歌のつづきで、憶良が旅人の心に同化して旅人の妻を悼んだものである。おうちは即ち栴檀せんだんで、初夏のころ薄紫の花が咲く。
 一首の意は、妻の死を悲しんで、わが涙の未だ乾かぬうちに、妻が生前喜んで見た庭前のおうちの花も散ることであろう、というので、く歳月のはやきを歎じ、亡妻をおもう情の切なことをおもうのである。
 この楝の花は、太宰府の家にある楝であろう。そして、作者の憶良も太宰府にいて、旅人の心になって詠んだからこういう表現となるのである。この歌は、意味もとおり言葉も素直に運ばれて、調べも感動相応の重みを持っているが、飛鳥・藤原あたりの歌調に比して、切実の響を伝え得ないのはなぜであるか。恐らく憶良は伝統的な日本語の響に真に合体し得なかったのではあるまいか。後に発達した第三句切が既にここに実行せられているのを見ても分かるし、「朝日照る佐太さだの岡辺に群れゐつつ吾がく涙止む時もなし」(巻二・一七七)、「御立みたちせし島を見るとき行潦にはたづみながるる涙止めぞかねつる」(巻二・一七八)ぐらいに行くのが寧ろ歌調としての本格であるのに、此歌は其処までも行っていない。この歌は、従来万葉集中の秀歌として評価せられたが、それは、分かり易い、無理のない、感情の自然を保つ、挽歌らしいというような点があるためで、実は此歌よりも優れた挽歌が幾つも前行しているのである。
 天平十一年夏六月、大伴家持は亡妾を悲しんで、「妹が見し屋前やどに花咲き時は経ぬわが泣く涙いまだ干なくに」(巻三・四六九)という歌を作っている。これは明かに憶良の模倣であるから、家持もまた憶良の此一首を尊敬していたということが分かるのである。恐らく家持は此歌のいいところを味い得たのであっただろう。(もっとも家持は此時人麿の歌をも多く模倣して居る。)

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大野山おほぬやまきりたちわたるなげ息嘯おきそかぜきりたちわたる 〔巻五・七九九〕 山上憶良
 此歌も前の続である。「大野山」は和名鈔わみょうしょうに、「筑前国御笠郡大野」とある、その地の山で、太宰府に近い。「おきそ」は、宣長は、息嘯おきうその略とし、神代紀に嘯之時ウソブクトキニ迅風忽起とあるのを証とした。
 一首の意は、今、大野山を見ると霧が立っている、これは妻を歎く自分の長大息の、風の如く強く長い息のために、さ霧となって立っているのだろう、というので、神代紀に、「吹きうつる気噴いぶきのさ霧に」、万葉に、「君がゆく海べの屋戸に霧たたばが立ち嘆くいきと知りませ」(巻十五・三五八〇)、「わが故に妹歎くらし風早かざはやの浦のおきべに霧棚引けり」(同・三六一五)、「沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを」(同・三六一六)等とあるのと同じ技法である。ただ万葉の此等の歌は憶良のこの歌よりも後であろうか。
 此一首も、「霧たちわたる」を繰返したりして強く云っていて、線も太く、能働的であるが、それでもやはり人麿の歌の声調ほどの顫動が無い。例えば前出の、「ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎわかれなむ家のあたり見ず」(巻三・二五四)あたりと比較すればその差別もよく分かるのであるが、憶良は真面目になって骨折っているので、一首は質実にして軽薄でないのである。なお、天平七年、大伴坂上郎女が尼理願りがんを悲しんだ歌に、「嘆きつつ吾が泣く涙、有間山雲居棚引き、雨にりきや」(巻三・四六〇)という句があり、同じような手法である。

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ひさかたの天道あまぢとほしなほなほにいへかへりてなりまさに 〔巻五・八〇一〕 山上憶良
 山上憶良は、或る男が、両親妻子を軽んずるのをみて、その不心得をさとして、「惑情をかへさしむる歌」というのを作った、その反歌がこの歌である。長歌の方は、「父母を見れば尊し、妻子めこ見ればめぐしうつくし、世の中はかくぞ道理ことわり」、「つちならば大王おほきみいます、この照らす日月の下は、天雲あまぐも向伏むかふきはみ谷蟆たにぐくのさ渡る極、きこす国のまほらぞ」というのが、その主な内容で、現実社会のおろそかにしてはならぬことを云ったものである。
 反歌の此一首は、おまえは青雲の志を抱いて、天へも昇るつもりだろうが、天への道は遼遠りょうえんだ、それよりも、普通並に、素直に家に帰って、家業に従事しなさい、というのである。「なほなほに」は、「直直なほなほに」で、素直に、尋常に、普通並にの意、「ふ葛の引かば依り来ねしたなほなほに」(巻十四・三三六四或本歌)の例でも、素直にの意である。結句の、「なりまさに」は、「なりまさね」で、「ね」と「に」が相通い、当時から共に願望の意に使われるから、この句は、「業務に従事しなさい」という意となる。
 この歌も、その声調が流動性でなく、むし佶屈きっくつともうべきものである。然るに内容が実生活の事に関しているのだから、声調おのずからそれに同化して憶良独特のものを成就じょうじゅしたのである。事が娑婆しゃば世界の実事であり、いま説いていることが儒教の道徳観にもとづくとせば、縹緲ひょうびょう幽遠な歌調でない方が却って調和するのである。由来儒教の観相は実生活の常識であるから、それに本づいて出来る歌も亦結局其処に帰着するのである。憶良は、伝誦されて来た古歌謡、祝詞のりとあたりまでさかのぼって勉強し、「谷ぐくのさわたるきはみ」等というけれども、作る憶良の歌というものは何処か漢文的口調のところがある。併し、万葉集全体から見れば、憶良は憶良らしい特殊の歌風を成就したということになるから、その憶良的な歌の出来のよい一例としてこれを選んで置いた。

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しろがねくがねたまもなにせむにまされるたからかめやも 〔巻五・八〇三〕 山上憶良
 山上憶良は、「子等を思ふ歌」一首(長歌反歌)を作った。序は、「釈迦如来、金口こんくに正しく説き給はく、等しく衆生しゆじやうを思ふこと、※(「目+侯」、第3水準1-88-88)らごらの如しと。又説き給はく、愛は子に過ぎたるは無しと。至極の大聖すら尚ほ子をうつくしむ心あり。して世間よのなか蒼生あをひとぐさ、誰か子をしまざらめや」というものであり、長歌は、「うりめば子等こども思ほゆ、くりめば況してしぬばゆ、何処いづくよりきたりしものぞ、眼交まなかひにもとなかかりて、安寝やすいさぬ」というので、この長歌は憶良の歌としては第一等である。簡潔で、飽くまで実事を歌い、恐らく歌全体が憶良の正体と合致したものであろう。
 この反歌は、金銀珠宝も所詮しょせん、子の宝には及ばないというので、長歌の実事を詠んだのに対して、この方は綜括そうかつ的に詠んだ。そして憶良は仏典にも明るかったから、自然にその影響がこの歌にも出たものであろう。「なにせむに」は、「何かせむ」の意である。憶良の語句の仏典から来たのは、「古日ふるひを恋ふる歌」(巻五・九〇四)にも、「世の人の貴み願ふ、七種ななくさの宝も我は、なにせむに、我がなかの生れいでたる、白玉の吾が子古日ふるひは」とあるのを見ても分かる。七宝は、金・銀・瑠璃るり※(「石+車」、第3水準1-89-5)※(「石+渠」、第3水準1-89-12)しゃこ碼碯めのう珊瑚さんご琥珀こはくまたは、金・銀・琉璃るり※(「犂」の「牛」に代えて「木」、第4水準2-14-90)はり車渠しゃこ・瑪瑙・金剛こんごうである。そういう仏典の新しい語感を持った言葉を以て、一首を為立したて、堅苦しい程に緊密な声調を以て終始しているのに、此一首の佳い点があるだろう。けれども長歌に比してこの反歌の劣るのは、後代の今となって見れば言語の輪廓として受取られる弱点が存じているためである。併し、旅人のホムル歌にせよ、この歌にせよ、後代の歌人として、作歌を学ぶ吾等にとって、大に有益をおぼえしめる性質のものである。

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常知つねしらぬみち長路ながてをくれぐれと如何いかにかかむ糧米かりてしに 〔巻五・八八八〕 山上憶良
 肥後国益城ましき郡に大伴君熊凝おおとものきみくまこりという者がいた。天平三年六月、相撲部領使すまいのことりづかい某の従者として京へ上る途中、安芸国佐伯郡高庭たかにわ駅で病死した。行年十八であった。そして、死なんとした時自ら歎息して此歌を作ったとして、山上憶良が此歌を作った。この歌の詞書に次の如くに書いてある。「臨死みまからむとする時、長歎息して曰く、伝へ聞く仮合けがふの身滅び易く、泡沫はうまつの命とどめ難し。所以ゆゑに千聖すでに去り、百賢留らず、況して凡愚のいやしき者、何ぞもく逃避せむ。ただ我が老いたる親ならび菴室あんしつに在り。我を待つこと日を過さば、自ら心をいたむる恨あらむ。我を望みて時にたがはば、必ずめいうしななみだを致さむ。哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母、一身死に向ふ途をうれへず、唯二親世にいます苦を悲しぶ。今日長く別れなば、何れの世にかることを得む。すなはち歌六首を作りてみまかりぬ。其歌に曰く」というのである。そして長歌一首短歌五首がある。併しこれは、前言のごとく、熊凝くまこりが自ら作ったのではなく、憶良が熊凝の心になって、熊凝臨終のつもりになって作ったのである。
 一首の意は、嘗て知らなかった遙かな黄泉の道をば、おぼつかなくも心悲しく、糧米かても持たずに、どうして私は行けば好いのだろうか、というのである。「くれぐれと」は、「闇闇くれくれと」で、心おぼろに、おぼつかなく、うら悲しく等の意である。この歌の前に、「おぼほしく何方いづち向きてか」というのがあるが、その「おぼほしく」に似ている。
 この歌は六首の中で一番優れて居り、想像で作っても、死して黄泉へ行く現身げんしんの姿のようにして詠んでいるのがまことに利いて居る。糧米も持たずに歩くと云ったのも、後代の吾等の心を強く打つものである。糧米をカリテと訓むは、霊異記りょういき下巻に糧(可里弖)とあるによっても明かで、乾飯直カレヒテの義(攷證)だと云われている。一に云、「かれひはなしに」とあるのは、「かれひしに」で意味は同じい。カレヒは乾飯カレイヒである。憶良の作ったこのあたりの歌の中で、私は此一首を好んでいる。

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世間よのなかしとやさしとおもへどもちかねつとりにしあらねば 〔巻五・八九三〕 山上憶良
 山上憶良の「貧窮問答の歌一首并に短歌」(土屋氏云、憶良上京後、即ち天平三年秋冬以後の作であろう。)の短歌である。長歌の方は、二人貧者の問答の体で、一人が、「風まじり雨降る夜の、……如何にしつつか、が世は渡る」といえば、一人が、「天地は広しといへど、あがためくやなりぬる、……斯くばかりすべ無きものか、世間よのなかの道」と答えるところで、万葉集中特殊なもので、また憶良の作中のよいものである。
 この反歌一首の意は、こう吾々は貧乏で世間がつらいのはずかしいのと云ったところで、所詮しょせん吾々は人間の赤裸々で、鳥ではないのだからして、何処ぞへ飛び去るわけにも行くまい、というのである。「やさし」は、恥かしいということで、「玉島のこの川上に家はあれど君をやさしみあらはさずありき」(巻五・八五四)にその例がある。この反歌も、長歌の方で、細かくいろいろと云ったから、概括的に締めくくったのだが、やはり貧乏人の言葉にして、その語気が出ているのでただの概念歌から脱却している。論語に、邦有道、貧且賤焉耻也とあり、魏文帝の詩に、願飛安翼、欲ワタラント河無ハシとあるのも参考となり、憶良の長歌の句などには支那の出典を見出し得るのである。

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なぐさむるこころはなしに雲隠くもがくとりのみしかゆ 〔巻五・八九八〕 山上憶良
 山上憶良の、「老身重病経年辛苦、及思児等歌七首長一首短六首」の短歌である。長歌の方は、人間には老・病の苦しみがあり、長い病に苦しんで、一層死のうとおもうことがあるけれども、児等のことを思えば、そうも行かずに歎息しているというのである。
 この短歌は、そういう風に老・病のために苦しんで、慰めん手段もなく、雲隠れにすがたも見えず鳴いてゆく鳥の如く、ただ独りで忍び泣きしてばかりいる、というので、長歌の終に、「かくに思ひわづらひ、のみし泣かゆ」と止めたのを、この短歌で繰返している。
 このくらいの技巧の歌は、万葉には幾つもあるように思う程、取り立てて特色のあるものでないが、何か悲しい響があるようで棄て難かったのである。

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すべもなくくるしくあればはしななとへど児等こらさやりぬ 〔巻五・八九九〕 山上憶良
 同じく短歌。もう手段も尽き、苦しくて為方がないので、走り出して自殺でもしてしまおうと思うが、児等のために妨げられてそれも出来ない、というので、此は長歌の方で、「年長く病みし渡れば、月かさね憂ひさまよひ、ことごとは死ななと思へど、五月蠅さばへなす騒ぐ児等を、うつててはしには知らず、見つつあれば心は燃えぬ」云々というのが此短歌にも出ている。「さやる」は、障礙しょうがいのことで、「百日ももかしも行かぬ松浦路まつらぢ今日行きて明日は来なむを何かさやれる」(巻五・八七〇)にも用例がある。
 この歌の好いのは、ただ概括的にいわずに、具体的に云っていることで、こういう場面になると、人麿にも無い人間の現実的な姿が現出して来るのである。「出ではしり去ななともへど」というあたりの、朴実とでも謂うような調べは、憶良の身にまとったものとして尊重していいであろう。なお此処ここに、「富人とみびといへ子等こどもの着る身無みなくたし棄つらむ絹綿らはも」(巻五・九〇〇)、「麁妙あらたへ布衣ぬのぎぬをだに着せがてに斯くや歎かむむすべを無み」(同・九〇一)という歌もあるが、これも具体的でおもしろい。そして、これだけの材料を扱いこなす意力をも、後代の吾等は尊重すべきである。この歌の「絹綿」は原文「※[#「糸+包」、U+2B0E0、上-188-1]綿」で、真綿の意であろうが、当時筑紫の真綿の珍重されたこと、また名産地であったことは沙弥満誓の歌のところで既に云ったとおりである。
 憶良は娑婆界の貧・老・病の事を好んで歌って居り、どうしても憶良自身の体験のようであるが、筑前国司であった憶良が実際斯くの如く赤貧困窮であったか否か、自分には能く分からないが、自殺を強いられるほどそんなに貧窮ではなかったものと想像する。そして彼は彼の当時教えられた大陸の思想を、周辺の現実に引き移して、如上じょじょうの数々の歌を詠出したものとも想像している。

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わかければ道行みちゆらじまひはせむ黄泉したべ使つかひひてとほらせ 〔巻五・九〇五〕 山上憶良
男子をのこ名は古日ふるひを恋ふる歌」の短歌である。左注に此歌の作者が不明だが、歌柄から見て憶良だろうと云って居る。古日ふるひという童子の死んだ時弔った歌であろう。そして憶良を作者と仮定しても、古日という童子は憶良の子であるのか他人の子であるのかも分からない。恐らく他人の子であろう。(普通には、古日は憶良の子で、この時憶良は七十歳ぐらいの老翁だと解せられている。なお土屋氏は、古日はコヒと読むのかも知れないと云って居る。)
 一首の意は、死んで行くこの子は、未だおさない童子で、冥土めいどの道はよく分かっていない。冥土の番人よ、よい贈物をするから、どうぞこの子を背負って通してやって呉れよ、というのである。「まひ」は、「天にます月読壮子つくよみをとこまひはせむ今夜こよひの長さ五百夜いほよ継ぎこそ」(巻六・九八五)、「たまぼこの道の神たちまひはせむあが念ふ君をなつかしみせよ」(巻十七・四〇〇九)等にもある如く、神に奉る物も、人に贈る物も、悪い意味の貨賂かろをも皆マヒと云った。
 この一首は、童子の死を悲しむ歌だが、内容が複雑で、人麿の歌の内容の簡単なものなどとは余程その趣が違っている。然かも黄泉の道行をば、あたかも現実にでもあるかの如くに生々なまなましく表現して居るところに、憶良の歌の強味がある。歌調がぼきりぼきりとして流動的波動的に行かないのは、一面はそういう素材如何にもるのであって、こういう素材になれば、こういう歌調をおのずから要求するものともいうことが出来る。

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布施ふせきてわれあざむかずただ率行ゐゆきて天路あまぢらしめ 〔巻五・九〇六〕 山上憶良
 これも同じ歌で、「布施」は仏教語で、捧げ物の事だから、前の歌の、「幣」と同じ事に落着く。この歌も、童子の死にゆくさまを歌っているが、この方は黄泉でなく、天路のことを云っている。共に死者の往く道であるが、この方はやや日本的に云っている。初句原文「布施於吉弖」は旧訓フシオキテであるが、略解りゃくげで、「布施はぬさと訓べし。又たゞちにふせとも訓べき也。こゝにこひのむといへるは、仏にこふにて、神にいのるとは事異なれば、ヌサとはいはで、布施と言へる也。施を※(「糸+施のつくり」、第3水準1-90-1)の誤として、ふしおき(臥起)てとよめるはひがこと也」と云った。いかにもその通りで、「伏し起きて」では意味を成さない。この歌もこれだけの複雑なことを云っていて、相当の情調をしみ出でさせるのは、先ず珍とせねばなるまい。

斎藤茂吉の万葉秀歌考巻6

巻第六


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やまたか白木綿花しらゆふはなちたぎつたぎ河内かふちれどかぬかも 〔巻六・九〇九〕 笠金村
 元正げんしょう天皇、養老七年夏五月芳野離宮に行幸あった時、従駕の笠金村かさのかなむらが作った長歌の反歌である。「白木綿」はたえかじ(穀桑楮)の皮から作った白布、その白木綿しらゆうの如くに水の流れ落つる状態である。「河内かふち」は、河からめぐらされている土地をいう。既に人麿の歌に、「たぎつ河内かふち船出ふなでするかも」(巻一・三九)がある。また、「見れど飽かぬかも」という結句も、人麿の、「珠水激いはばしる滝の宮処みやこは、見れど飽かぬかも」(巻一・三六)のほか、万葉には可なりある。
 この一首は、従駕の作であるから、謹んで作っているので、その歌調もおのずから華朗かろうで荘重である。けれどもそれだけ類型的、図案的で、特に人麿の歌句の模倣なども目立つのである。併し、この朗々とした荘重な歌調は、人麿あたりから脈を引いて、一つの伝統的なものであり、万葉調といえば、直ちに此種のものを聯想し得る程であるから、後代の吾等は時を以てかえりみるべき性質のものである。巻九(一七三六)に、「山高み白木綿花しらゆふはなに落ちたぎつ夏実なつみ河門かはと見れど飽かぬかも」というのがあるのは、恐らく此歌の模倣であろうから、そうすれば金村のこの形式的な一首も、時に人の注意をいたに相違ない。

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おきしま荒磯ありそ玉藻たまもしほ干満ひみちいかくれゆかばおもほえむかも 〔巻六・九一八〕 山部赤人
 聖武しょうむ天皇、神亀じんき元年冬十月紀伊国に行幸せられた時、従駕の山部赤人の歌った長歌の反歌である。「沖つ島」は沖にある島の意で、此処は玉津島たまつしまのことである。
 一首の意は、沖の島の荒磯に生えている玉藻刈もしたが、今に潮が満ちて来て荒磯が隠れてしまうなら、心残りがして、玉藻を恋しくおもうだろう、というのである。長歌の方で、「潮干れば玉藻苅りつつ、神代より然ぞ尊き、玉津島山」とあるのを受けている。
 第四句、板本はんぽん、「伊隠去者」であるから、「いかくれゆかば」或は「いかくろひなば」と訓んだが、元暦校本・金沢本・神田本等に、「※[#「にんべん+弖」、U+2B88F、上-192-12]隠去者」となっているから、「※[#「にんべん+弖」、U+2B88F、上-192-12]」を上につけて「潮干みちてかくろひゆかば」とも訓んでいる。これは二つの訓とも尊重して味うことが出来る。
 この歌は、中心は、「潮干満ちい隠れゆかば思ほえむかも」にあり、赤人的に清淡の調であるが、なかに情感がただよっていて佳い歌である。海の玉藻に対する係恋けいれんとも云うべきもので、「思ほえむかも」は、多くは恋人とか旧都などに対して用いる言葉であるが、この歌では「玉藻」に云っている。もっとも集中には、例えば、「飼飯けひの浦に寄する白浪しくしくに妹が容儀すがたはおもほゆるかも」(巻十二・三二〇〇)、「飫宇海おうのうみの河原の千鳥汝が鳴けばわが佐保河さほかはのおもほゆらくに」(巻三・三七一)の如きがあって、共通して使われている。行幸に供奉ぐぶし、赤人は歌人としての意識を以てこの歌を作ったのだろうが、必ずしも「宮廷歌人」などという意図が目立たずに、自由に個人としての好みを吐露とろしているようである。一般が自由でこだわりのなかった聖世を反映していると謂っていい。また、「宮廷歌人」などと云っても、現代の人々の持っている「宮廷歌人」の西洋まがいの概念と違った気持で供奉ぐぶしたことをも知らねばならぬのである。

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わかうらしほればかた葦辺あしべをさしてたづわたる 〔巻六・九一九〕 山部赤人
 赤人の歌続き。「若の浦」は今は和歌の浦と書くが、弱浜わかはまとも書いた(続紀)。また聖武天皇のこの行幸の時、明光の浦と命名せられた記事がある。「潟」は干潟ひがたの意である。
 一首の意は、若の浦にだんだん潮が満ちて来て、干潟が無くなるから、干潟に集まっていた沢山の鶴が、葦の生えて居る陸の方に飛んで行く、というのである。
 やはり此歌も清潔な感じのする赤人一流のもので、「葦べをさしてたづ鳴きわたる」は写象鮮明で旨いものである。また声調も流動的で、作者の気乗していることも想像するに難くはない。「潟をなみ」は、赤人の要求であっただろうが、微かな「理」が潜んでいて、もっと古いところの歌ならこうは云わない。例えば、既出の高市黒人作、「桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟あゆちがた潮干しほひにけらし鶴鳴きわたる」(巻三・二七一)の如きである。つまり「潟をなみ」の第三句が弱いのである。これはもはや時代的の差違であろう。この歌は、古来有名で、叙景歌の極地とも云われ、遂には男波・女波・片男波の聯想にまで拡大して通俗化せられたが、そういう俗説を洗い去って見て、依然として後にのこる歌である。万葉集を通読して来て、注意すべき歌にしるしをつけるとしたら、従来の評判などを全く知らずにいるとしても、標のつかる性質のものである。一般にいってもそういういいところが赤人の歌に存じているのである。ただこの歌に先行したのに、黒人の歌があるから黒人の影響乃至模倣ということを否定するわけには行かない。
 巻十五に、「鶴が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづしひとりれば」(三六二六)、「沖辺より潮満ち来らしからの浦に求食あさりする鶴鳴きて騒ぎぬ」(三六四二)等の歌があり、共に赤人の此歌の模倣であるから、その頃から此歌は尊敬せられていたのであろう。
 なお、「難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島にたづわたる見ゆ」(巻七・一一六〇)、「円方まとかたの湊の渚鳥すどり浪立てや妻呼び立ててに近づくも」(同・一一六二)、「夕なぎにあさりするたづ潮満てば沖浪おきなみ高み己妻おのづまばふ」(同・一一六五)というのもあり、赤人の此歌と共に置いて味ってよい歌である。特に、「妻呼びたてて辺に近づくも」、「沖浪高み己妻ばふ」の句は、なかなか佳いものだから看過かんかしない方がよいとおもう。

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芳野よしぬ象山きさやま木末こぬれには幾許ここださわとりのこゑかも 〔巻六・九二四〕 山部赤人
 聖武天皇神亀二年夏五月、芳野離宮に行幸の時、山部赤人の作ったものである。「象山きさやま」は芳野離宮の近くにある山で、「」は「」で、あいだとかなかとかいう意味になる。「奈良の山の山のにい隠るまで」(巻一・一七)という額田王の歌の「山の際」も奈良山の連なって居る間にという意。此処では、象山の中に立ち繁っている樹木というのに落着く。
 一首の意は、芳野の象山の木立の繁みには、実に沢山の鳥が鳴いて居る、というので、中味は単純であるが、それだけ此処に出ている中味がみがきをかけられて光彩を放つに至っている。この歌も前の歌の如く下半に中心が置かれ、「ここだも騒ぐ鳥の声かも」に作歌衝迫しょうはくもおのずから集注せられている。この光景に相対あいたいしたと仮定して見ても、「ここだも騒ぐ鳥の声かも」とだけに云い切れないから、此歌はやはり優れた歌で、亡友島木赤彦も力説した如く、赤人傑作の一つであろう。「幾許ここだ」という副詞も注意すべきもので、集中、「神柄かむから幾許ここだ尊き」(巻二・二二〇)「妹がに雪かも降ると見るまでに幾許ここだもまがふ梅の花かも」(巻五・八四四)、「そのの梅の花かも久方の清き月夜つくよ幾許ここだ散り来る」(巻十・二三二五)等の例がある。この赤人の「幾許も騒ぐ」は、主に群鳥の声であるが、鳥の姿も見えていてかまわぬし、若干の鳥の飛んで見える方が却っていいかも知れない。また、結句の「かも」であるが、名詞から続く「かも」を据えるのはむずかしいのだけれども、この歌では、「ここだも騒ぐ」に続けたから声調が完備した。そういう点でも赤人の大きい歌人であることが分かる。

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ぬばたまのけぬれば久木ひさきふるきよ河原かはら千鳥ちどりしばく 〔巻六・九二五〕 山部赤人
 赤人作で前歌と同時の作である。「久木」は即ち歴木、しゅう樹で赤目柏あかめがしわである。夏、黄緑の花が咲く。一首の意は、夜が更けわたると楸樹ひさぎの立ちしげっている、景色よい芳野川の川原に、千鳥がしきりに鳴いて居る、というのである。
 この歌は夜景で、千鳥の鳴声がその中心をなしているが、今度の行幸に際して見聞した、芳野のいろいろの事が念中にあるので、それが一首の要素にもなって居る。「久木生ふる清き河原」の句も、現にその光景を見ているのでなくともよく、写象として浮んだものであろう。或は月明の川原とも解し得る、それは「清き」の字で補充したのであるが、月の事がなければやはりこの「清き」は川原一帯の佳景という意味にとる方がいいようである。併しこの歌は、そういう詮議せんぎを必要としない程統一せられていて、読者は左程さほど解釈上思い悩むことが無くて済んでいるのは、視覚も聴覚も融合した、一つの感じで無理なく綜合そうごうせられて居るからである。或は、この歌は、深夜の千鳥の声だけでは物足りないのかも知れない。「久木生ふる清き河原」という、視覚上の要素が却って必要なのかも知れない。その辺の解明が能く私に出来ないけれども、全体として、感銘の新鮮な歌で、供奉歌人の歌として、人麿の、「見れど飽かぬ吉野よしぬの河の常滑とこなめの絶ゆることなくまたかへり見む」(巻一・三七)とも比較が出来るし、また、笠金村かさのかなむらとも同行したのだから、金村の、「万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ」(巻六・九二一)、「皆人の寿いのちわれもみ吉野の滝の床磐とこはの常ならぬかも」(同・九二二)の二首とも比較することが出来る。比較して見ると、赤人の歌の方が具体的で、落着いて写生している。なお、声調のうち、第三句の「久木生ふる」という伸びた句と、結句の「しば鳴く」と端的に止めたのを注意していいだろう。

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島隠しまがくればともしかも大和やまとへのぼる真熊野まくまぬふね 〔巻六・九四四〕 山部赤人
 山部赤人が、辛荷からに島を過ぎて詠んだ長歌の反歌である。辛荷島は播磨国室津の沖にある島である。一首の意は、島かげを舟に乗っていで来ると、うらやましいことには、大和へのぼる熊野の舟が見える、というので、旅にいて家郷の大和をおもうのは、今から見ればただの常套じょうとう手段のように見えるが、当時の人には、そういう常套語が、既に一種の感動を伴って聞こえて来たものと見える。「真熊野の舟」は、熊野舟で、熊野の海で多く乗ったものであろう。攷證に、「紀州熊野は良材多かる所なれば、その材もて作りたるよしのいひか。さればそれを本にて、いづくにて作れるをも、それに似たるをば熊野舟といふならん。集中、松浦船まつらぶね伊豆手船いづてぶね足柄小船あしがらをぶねなどいふあるも、みなこの類とすべし」とあり、「浦回うらみ榜ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし」(巻十二・三一七二)の例がある。「羨しかも」は、「羨しきかも」と同じだが当時は終止言からも直ぐ続けた。結句は、「真熊野の船」という名詞止めで、「棚無し小船」などの止めと同じだが、「の」が入っているので、それだけの落着おちつきがある。第三句の、「羨しかも」は小休止があるので、前の歌の「潟を無み」などと同様、幾らか此処でたるむが、これは赤人的手法の一つの傾向かも知れない。一首は、※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)きりょの寂しい情をめつつ、赤人的諧調音で統一せられた佳作である。この時の歌に、「玉藻苅る辛荷の島に島回しまみするにしもあれや家はざらむ」(巻六・九四三)というのがある。これは若し鵜ででもあったら、家の事をおもわずに済むだろう、というので「羨しかも」という気持と相通じている。鵜をとらえて詠んでいるのは写生でおもしろい。

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かぜけばなみたむと伺候さもらひ都多つた細江ほそえうらがくり 〔巻六・九四五〕 山部赤人
 赤人作で前歌の続である。「都多つたの細江」は姫路から西南、現在の津田・細江あたりで、船場川せんばがわの川口になっている。当時はなるべく陸近く舟行しゅうこうし、少し風が荒いと船をめたので、こういう歌がある。一首の意は、この風で浪が荒く立つだろうと、心配して様子を見ながら、都多つたの川口のところに船を寄せて隠れておる、というのである。第三句、原文「伺候爾」は、旧訓マツホドニ。代匠記サモラフニ。古義サモラヒニ。この「さもらふ」は、「東の滝の御門にさもらへど」(巻二・一八四)の如く、伺候する意が本だが、転じて様子を伺うこととなった。「大御舟おほみふねててさもらふ高島の三尾みを勝野かちぬなぎさし思ほゆ」(巻七・一一七一)、「朝なぎに向けがむと、さもらふと」(巻二十・四三九八)等の例がある。
 この歌も、※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)きりょの苦しみを念頭に置いているようだが、そういう響はなくて、寧ろ清淡とも謂うべき情調がにじみ出でている。ことに結句の、「浦隠り居り」などは、なかなか落着いた句である。そして読過のすえに眼前に光景の鮮かに浮んで来る特徴は赤人一流のもので、古来赤人を以て叙景歌人の最大なものと称したのも偶然ではないのである。吾等は短歌を広義抒情詩と見立てるから、叙景・抒情をば截然せつぜんと区別しないが、総じて赤人のものには、激越性が無く、静かに落着いて、物をている点を、後代の吾等は学んでいるのである。

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ますらをとおもへるわれ水茎みづくき水城みづきのうへになみだのごはむ 〔巻六・九六八〕 大伴旅人
 大伴旅人が大納言に兼任して、京に上る時、多勢の見送人の中に児島こじまという遊行女婦うかれめが居た。旅人が馬を水城みずき(貯水池の大きな堤)にめて、皆と別を惜しんだ時に、児島は、「おほならばむをかしこみと振りたき袖をしぬびてあるかも」(巻六・九六五)、「大和道やまとぢ雲隠くもがくりたり然れども我が振る袖を無礼なめしと思ふな」(同・九六六)という歌を贈った。それに旅人のこたえた二首中の一首である。
 一首の意は、大丈夫ますらおだと自任していたこのおれも、お前との別離が悲しく、此処ここの〔水茎の〕(枕詞)水城みずきのうえに、涙を落すのだ、というのである。
 児島の歌も、軽佻けいちょうでないが、旅人の歌もしんみりしていて、決して軽佻なものではない。「涙のごはむ」の一句、今の常識から行けば、諧謔かいぎゃくまじえた誇張と取るかも知れないが、実際はそうでないのかも知れない、少くとも調べの上では戯れではない。「大丈夫ますらおとおもへる吾や」はその頃の常套語で軽いといえば軽いものである。当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目まじめにその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である。
「真袖もち涙をのごひ、むせびつつ言問ことどひすれば」(巻二十・四三九八)のほか、「庭たづみ流るる涙とめぞかねつる」(巻二・一七八)、「白雲に涙は尽きぬ」(巻八・一五二〇)等の例がある。

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千万ちよろづいくさなりとも言挙ことあげせずりてぬべきをのことぞおもふ 〔巻六・九七二〕 高橋虫麿
 天平てんぴょう四年八月、藤原宇合うまかい(不比等の子)が西海道節度使さいかいどうのせつどし(兵馬の政をつかさどる)になって赴任する時、高橋虫麿たかはしのむしまろの詠んだものである。「言挙せず」は、「神ながら言挙せぬ国」(巻十三・三二五三)、「言挙せず妹に依り寝む」(巻十二・二九一八)等の例にもある如く、彼此かれこれと言葉に出していわないことである。
 一首の意は、たとい千万の軍勢なりとも、彼此と言葉に云わずに、前触まえぶれなどせずに、直ちに討取って来る武将だとおもう、君は、というので、威勢をつけて行をさかんにしたものである。虫麿の此処の長歌も技法に屈折のあるものだが、虫麿歌集の長歌にもなかなか佳作があって、作者の力量をおもわしめるが、この短歌一首も、調べを強くめて、武将を送るにふさわしい声調を出している。彼此いっても、この万葉調がもはや吾等には出来ない。

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丈夫ますらをの行くとふ道ぞおほろかにおもひてくな丈夫ますらをとも 〔巻六・九七四〕 聖武天皇
 聖武天皇御製。天平四年八月、節度使の制を東海・東山・山陰・西海の四道にいた。聖武天皇が其等の節度使等が任におもむく時に、酒を賜わり、この御製を作りたもうた。その長歌の反歌である。
 一首は、今出で立つ汝等節度使の任は、まさに大丈夫の行くべき行旅である。ゆめおろそかに思うな、大丈夫の汝等よ、と宣うので、功をおさめて早く帰れという大御心が含まれている。「行くとふ」の「とふ」は「といふ」で、天地のことわりとして人のいう意である。「おほろかに」は、おおよそに、軽々しく、平凡にぐらいの意で、「百種ももくさことこもれるおほろかにすな」(巻八・一四五六)、「おほろかに吾し思はば斯くばかり難き御門みかど退まかめやも」(巻十一・二五六八)等の例がある。御製は、調べ大きく高く、御慈愛に満ちて、闊達かったつ至極のものと拝誦し奉る。「大君の辺にこそ死なめ」の語のおのずからにして口を漏るるは、国民の自然のこえだということをおもわねばならぬ。短歌はかくの如くであるが、長歌は、「食国をすくにとほ御朝廷みかどに、汝等いましらまかりなば、平らけく吾は遊ばむ、手抱たうだきて我は御在いまさむ、天皇すめらがうづの御手みてもち、掻撫かきなでぞぎたまふ、うち撫でぞぎたまふ、かへり来む日あいまむぞ、この豊御酒とよみきは」というのであり、「平らけく吾は遊ばむ手抱きて我はいまさむ」とは、慈愛遍照へんしょうする現神あきつかみのみ声である。

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をのこやもむなしかるべき万代よろづよかたりつぐべきてずして 〔巻六・九七八〕 山上憶良
 山上憶良のやまいしずめる時の歌一首で、巻五の、沈痾自哀文と思子等歌は、天平五年六月の作であるから、此短歌一首もその時作ったものであろう。また此歌の左注に、憶良が病んだ時、藤原朝臣八束ふじわらのあそみやつか(藤原真楯またて)が、河辺朝臣東人あずまびとを使として病を問わしめた、その時の作だとある。
 一首の意は、大丈夫たるものは、万代の後まで語り伝えられるような功名もせず、空しく此世を終るべきであろうか、というので、名も遂げずに此儘このまま死するのは残念だという意である。憶良は渡海して支那文化に直接接したから、此思想も彼には身にいていて切実なものであったに相違ない。そこで此一首の調べも、重厚で、浮々していないし、また憶良の歌にしては連続流動的声調を持っているが、ただ後代の吾等にとっては稍大づかみに響くというだけである。結句原文、「名者不立之而」は旧訓ナハ・タタズシテであったのを、古義でナハ・タテズシテと訓んだ。旧訓の方が古調のようである。
 巻十九に、大伴家持が此歌に追和した長歌と短歌が載っている。長歌の方に、「あしひきの八峯やつを踏み越え、さしまくるこころさやらず、後代のちのよの語りつぐべく、名を立つべしも」(四一六四)とあり、短歌の方に、「丈夫ますらをは名をし立つべし後の代に聞き継ぐ人も語りつぐがね」(四一六五)とある。家持は憶良の此一首をも尊敬していたことが分かる。

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振仰ふりさけて若月みかづきれば一目ひとめひと眉引まよびきおもほゆるかも 〔巻六・九九四〕 大伴家持
 大伴家持の作った、初月みかづきの歌である。大伴家持の年代の明かな歌中、最も早期のもので、家持十六歳ぐらいの時だろうといわれている。「眉引まよびき」は眉墨を以て眉を画くことで、薬師寺所蔵の吉祥天女、或は正倉院御蔵の樹下美人などの眉の如き最も具体的な例である。書紀仲哀巻に、譬如美女之※[#「目+碌のつくり」、U+7769、上-205-3]、有向津国。※[#「目+碌のつくり」、U+7769、上-205-3]、此云麻用弭枳マヨビキ。古事記中巻、応神天皇御製歌に、麻用賀岐許邇加岐多礼マヨカキコニカキタレ和名鈔わみょうしょう容飾具に、黛、和名万由須美マユスミ。集中の例は、「おもはぬに到らば妹が嬉しみとまむ眉引まよびきおもほゆるかも」(巻十一・二五四六)、「我妹子が笑まひ眉引まよびき面影にかかりてもとな思ほゆるかも」(巻十二・二九〇〇)等がある。
 一首の意は、三日月を仰ぎ見ると、ただ一目見た美人の眉引のようである、というので、少年向きの美しい歌である。併し家持は少年にして斯く流暢りゅうちょうな歌調を実行し得たのであるから、歌が好きで、先輩の作や古歌の数々を勉強していたものであろう。この歌で、「一目見し」に家持は興味を持っている如くであるが、「一目見し人に恋ふらく天霧あまぎらしり来る雪のぬべく念ほゆ」(巻十・二三四〇)、「花ぐはし葦垣あしがきしにただ一目相見し児ゆゑ千たび歎きつ」(巻十一・二五六五)等の例が若干ある。家持の歌は、斯く美しく、覚官的でもあるが、彼の歌には、なお、「なでしこが花見る毎に処女らがゑまひのにほひ思ほゆるかも」(巻十八・四一一四)、「秋風になびく川びの柔草にこぐさのにこよかにしも思ほゆるかも」(巻二十・四三〇九)の如き歌をも作っている。「ゑまひのにほひ」は青年の体にいた語でなかなかうまいところがある。併し此等の歌を以て、万葉最上級の歌とせしめるのはいかがとも思うが、万葉鑑賞にはこういう歌をもまた通過せねばならぬのである。

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御民みたみわれけるしるしあり天地あめつちさかゆるときへらくおもへば 〔巻六・九九六〕 海犬養岡麿
 天平てんぴょう六年、海犬養岡麿あまのいぬかいのおかまろが詔にこたえまつった歌である。一首の意は、天皇の御民である私等は、この天地と共に栄ゆる盛大の御世に遭遇そうぐうして、何という甲斐がいのあることであろう、というのである。「しるし」は効験、結果、甲斐等の意味に落着く。「天ざかるひなやつこ天人あめびとく恋すらば生けるしるしあり」(巻十八・四〇八二)という家持の用例もある。一首は応詔歌であるから、謹んで歌い、荘厳の気をみなぎらしめている。そして斯く思想的大観的に歌うのは、此時代の歌には時々見当るのであって、その恩想を統一して一首の声調をまっとうするだけの力量がまだこの時代の歌人にはあった。それが万葉を離れるともはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみをかろうじて作るにとどまる状態となった。此の歌などは、万葉としては後期に属するのだが、聖武しょうむ盛世せいせいにあって、歌人等もきそつとめたために、人麿調の復活ともなり、かかる歌も作らるるに至った。

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児等こらしあらば二人ふたりかむをおきくなるたづあかときこゑ 〔巻六・一〇〇〇〕 守部王
 聖武天皇天平六年春三月、難波宮なにわのみやに行幸あった時、諸人が歌を作った。此一首は守部王もりべのおおきみ舎人親王とねりのみこの御子)の歌である。一首は、し奈良に残して来たつまも一しょなら、二人で聞くものを、沖のなぎさに鳴いて居る鶴の暁のこえよ、何とも云えぬい声よ、という程の歌である。なぜ私は此一首を選んだかというに、特に集中で秀歌というのでなく、結句が「鳴くなるたづあかときのこゑ」の如く名詞止めであるのみならず、後世新古今時代に発達した、名詞止めの歌調が此歌に既にあって、新古今調と違った、重厚なゆらぎをっているのに目を留めたゆえであった。なお、巻十九(四一四三)に、「もののふの八十やそをとめ等が※(「てへん+邑」、第3水準1-84-78)みまがふ寺井てらゐのうへの堅香子かたかごの花」、巻十九(四一九三)に、「ほととぎす鳴く羽触はぶりにも散りにけり盛過ぐらし藤浪の花」という歌の結句も、上代の古調歌には無い名詞止めの歌である。






(私論.私見)