1972年初頭からの首相指名に至る流れ |
更新日/2022(平成31.5.1日より栄和元/栄和4).2.5日
(れんだいこのショートメッセージ) |
7年8ヶ月の佐藤長期体制は、福田。田中・保利茂を三本柱として、この三本柱を競争・牽制・均衡の操縦で安定政権を作り上げてきたことに特質があった。ポスト佐藤は福田が本命であったが、次第に田中が力をつけてきた。保利は政権への色気を見せず、両者の緩衝地帯となって調整役として機能していた。佐藤も池田の敷いた高度成長路線に依拠していたが、佐藤政権末期の頃には既にひずみが生じつつ加速していた。 |
(関連、「戦後政治史検証」の「1972年当時」の項。「履歴その7、宰相時代」)
1.3日、日米繊維協定がワシントンで調印される。3年越しの懸案が解決した。繊維製品の対米輸出の年間伸び率を抑えるもので、「糸で縄(沖縄)を買った」との批判も出る。
【1972、日米首脳会談】 |
1972(昭和47).1.5−6日、カリフォルニア州サクラメント(サンクレメンテ)で日米首脳会談が開かれ、佐藤首相は、福田外相、田中通産相、水田三喜男蔵相を同行している。福田の後継を演出する筈であったが、むしろ田中のパフォーマンスの方が目立つことになり、佐藤首相の思惑通りにはならなかった。翌日のニューヨーク・タイムズは、一面トップで昼食会の模様を報じ、そこにはニクソン大統領と談笑する佐藤首相、田中通産相の顔が映し出されていた。福田の顔はなかった。1.7日、日米首脳会談で「沖縄返還」決まる。返還日を5.15日とする共同声明を発表する。 |
【日米共同声明で、沖縄の施政権返還が発表される】 |
1.8日の共同声明で、5.15日の沖縄施政権返還が決定された。これにより佐藤首相の花道が確定し、一気に後継首相問題が浮上していくことになった。 |
1.23日、ソ連のグロムイコ外相が来日する。1.25日、日ソ定期協議が5年ぶりに開かれ、領土問題などが協議される。
1.24日、元日本兵・横井庄一元伍長が、米国領土グアム島のジャングルの中で発見、保護された。28年間密林で潜伏し続けたことになる。2.22日、羽田空港で帰国記者会見し、「恥ずかしながら、帰ってまいりました」。74年にはフィリピン・ルバング島から小野田寛郎元少尉も帰還し、昭和元禄の世に衝撃を与えた。 |
1.25日、ベトナム和平で、ニクソン大統領が6ヵ月以内の米軍完全撤退などを提案する。
1.28日、社会党第35回大会、社公民連合政権構想を推進する決議案を運営委員会で否決。
1.30日、北アイルランドのロンドンデリーで、カトリック系デモとイギリス軍が衝突し、13人が死亡する(血の日曜日事件)。
1月、「日共革命左派」、原田長司グループの「日本共産党(マルクス・レーニン主義)山口県準備委員会」、安斎庫治グループの「日本共産党再建準備委員会」の三者で「全国規模の前衛党建設」を目指した「全国三者協議会」を結成、同年8月には、これを「前衛党建設を目指すマルクス・レーニン主義者全国協議会」に発展させる。
2月、国会「四次防予算」先取り問題で紛糾。
2.3日、札幌で第11回冬期オリンピックが開催される。
2.3日、佐藤首相、札幌での記者会見で、国会終了後の引退を示唆。
2.9日、イランの軍事法廷が、左翼ゲリラに終身刑などの判決を下す。
2.15日、アメリカが、国際収支が記録的な赤字になっていることを発表する。
【宮顕の家移り】 |
2月、宮顕委員長が家移り。東京都杉並区上高井戸から東京都多摩市連光寺に移転した。敷地約200坪、周囲を高いブロック塀で囲い、家族の他防衛隊員が常駐。以降毎週一回、党本部で開かれる党中央常任幹部会会議の前日には、上田、不破、榊、岡本博之、小林栄三、若林ら私設秘書幹部も含めて謀議を凝らして行くことになった。 |
【連合赤軍浅間山荘事件】 |
2.16日、群馬県妙義山中で連合赤軍の2人が逮捕される。2.17日、連合赤軍最高指導者森恒夫(27).永田洋子(27)が群馬県妙義山アジト付近で逮捕された。 |
2.17日、プロレタリア作家の平林たい子没(享年66歳)(誕生:明治38(1905)/10/03)。
【連合赤軍浅間山荘事件】 |
2.19日連合赤軍による「あさま山荘篭城事件」が起った。最高幹部が逮捕されていた連合赤軍のメンバー坂口弘ら5名が、軽井沢の保養所・浅間山荘に乱入し、管理人夫人牟田泰子(31才)を人質にとって立てこもった。武装警官1500名が出動し、2.19日から10日間にわたる睨みあいが続いた。 2.28日、人質の体力が限界にきたと判断した警備本部はクレーン車につるした鉄球で連合赤軍がたてこもる浅間山荘の一部破壊を決行、連合赤軍側もライフル銃などで激しく抵抗、機動隊員2人が死亡、23名の負傷者が出た。結局連合赤軍5人は全員逮捕、人質の主婦は無事救出される。NHKテレビが24時間体制で中継する等、現場中継に国民の多くが釘付けとなった。 |
2.19日、モスクワで、日本とモンゴル人民共和国の国交樹立交渉が妥結する。
【1972、米中首脳会談】 |
2.21日、アメリカのニクソン米大統領が訪中。毛沢東首席、周首相と会談。日本を無視した形となり、頭越し外交と云われる。2.27日、米中共同声明を発表して世間を驚かせた。歴史的な米中和解が実現した。二度目の「ニクソン.ショック」といわれる。
角栄は、ニクソン大統領と周恩来首相の二人が握手を交わす歴史的な場面をテレビで見ながら、「ニクソンもやるもんだなぁ。中国は10億もの人間がいる隣国なのだから、いずれ日本も国交回復を考えなくてはならん」と呟いた(佐藤昭伝)。もしやるとするなら、岸、佐藤、福田などは台湾との関係が深く、「田中しかいなかった」。 |
2.22日、フトハンザ機がパレスチナゲリラに乗っ取られ、南イエメンのアデンに着陸する。2.23日、前日乗っ取られたルフトハンザ機の乗員・乗客が身代金1600万マルクで全員解放される。
2.24日、モスクワで、日本とモンゴル人民共和国の国交樹立の調印が行われる。
3.2日、北ベトナムの「ニャンザン」紙が、米中共同声明のアメリカ側見解を激しく非難する。
3.3日、赤旗は、一面トップ7段で、「警察、連合赤軍に協力賞 情報収集を名目に 後藤田長官らが答弁 泳がせ政策を裏付け」と大きく報道。 |
3.7日、田中角栄ら永年在職議員として衆議員より表彰される(12名)。
3.7日、連合赤軍メンバー12名のリンチ殺人遺体が発見される(群馬県警が、連合赤軍逮捕者の自供から、リンチによって「処刑」された元京大生山田孝の凍死体を発見する。)。京浜安保共闘時代の2名を含めて犠牲者14名。新左翼にショックを与える。 高知聡氏は「日本共産党粛清史」において、「要するに。思想的にシュ儒であった者達が、マンガチックに誇張し、ゲキガチックに非人間的に巻き起こした怪奇な惨劇が、彼等の連続リンチ殺人事件だったのだ」と述べている。 |
3.10日、カンボジアで、ロン・ノル大統領が就任する。
3.13日、スモン研究調査会が、スモン病の原因はキノホルムの服用であるとの結論を出す。
3.15日、山陽新幹線、新大阪―岡山間が開業。
3.15日、ヨルダンのフセイン国王が、連合王国構想を発表する。3.18日、アラブ共和国連邦が、ヨルダンのフセイン国王の統一アラブ王国建国案を拒否する。
3.21日、奈良・高松塚古墳で彩色壁画を発見。
3.21日、アメリカ下院本会議が、政府提案の平価変更法案を可決し、金価格が1オンス35ドルから38ドルへ引き上げが決定する。ドルの7.89%切り下げが確定する。
3.22日、北アイルランド首相のブライアン・フォークナーとイギリス首相ヒースが内戦終結のための会談を行う。イギリスの直接統治で合意する。3.24日、イギリスのヒース首相が、北アイルランドの自治政府・議会の1年間停止の声明を出す。3.30日、北アイルランド暫定法が議会を通過する。
【社会党の横路孝弘、楢崎弥之助氏らが、衆議院予算委員会で「沖縄密約問題」を採り上げる】 |
3.27日、沖縄返還協定の批准書が交換された直後(1972.3.15日)の衆議院予算委員会で、社会党の横路孝弘、楢崎弥之助氏らが、「沖縄返還を廻る沖縄返還協定の締結にあたり、日米に密約が存在する。それを示す外務省公電密約が存在する」として「外務省の極秘電報密約の存在」を漏洩し、爆弾発言となった。 安川外務審議官付きの秘書・蓮見喜久子から毎日新聞記者・西山太吉氏に渡された外務省の機密文書コピーが横路氏に渡ったものであった。これにより、沖縄返還交渉の過程で日米間に為された軍用地地主への復元補償費400万ドルを日本が肩代わりするという密約が暴露された。これを、「外務省公電漏洩事件」と云う。これをきっかけに、国家機密や政府の情報開示に対する国民の「知る権利」運動に関心が高まっていくことになった。 3.28日、前日の衆議院予算委員会での極秘公電の暴露について、政府が「密約」はないとしながらも公電の存在は認める。佐藤首相は激怒し、警察に命じて漏洩ルートの捜索を指示し、関係者が逮捕されるという事件に発展した。3.29日、福田外相が、外務省の極秘公電漏洩の経路について省内徹底調査を命じる。国会で提示した外務省秘密電文のコピーから、政府は直ちに漏洩ルートを割り出した。3.31日、外務省の蓮見喜久子事務官から極秘公電コピーを外部に流した事実を聴取する。4.3日、外務省機密漏洩事件。外務省の蓮見喜久子事務官から毎日新聞政治部の西山太吉記者に極秘公電のコピーが渡されたことが判明する。警察は、西山記者が外務省職員(外務審議官の女性秘書)と不倫関係にあり、「情を通じて」公電を入手したとして「西山記者の情報入手における道義性」を問題としていった。警視庁は、女性秘書を国家公務員法第100条(職員は職務上知ることが出来た秘密を漏らしてはならない。1年以下 の懲役又は罰金3万円以下。)の守秘義務違反で告発した。 4.4日、警視庁が、外務省の公電漏洩容疑で、外務省の蓮見喜久子事務官と毎日新聞の西山太吉記者を、国家公務員法同第111条(国家公務員に秘密を漏らす行為を企て、そそのかし、又はその幇助をした者は1年以下の懲役又は3万円以下の罰金に処せられる)の秘密漏示教唆罪(違法行為のそそのかし容疑)で逮捕する(外務省公電漏洩事件)。 4.5日、外務省機密漏洩事件で記者が逮捕されたことで、毎日新聞社などは「知る権利」への干渉であると反発する。 毎日新聞は、国家機密や政府の情報開示に対する「国民の知る権利」を盾にキャンペーンを続けた。 が、「表現の自由、報道の自由」を護り切れなかった。「国民の知る権利が裁判で大きな論争点になったが、西山記者と外務省蓮見事務官の間に男女の関係があり、人々の好奇心を書き立てるに至った」。 論点は、@・公電内容の真実性、A・公電内容の報道権と政府行為の秘密性の尊重との関係如何、B・マスコミが取材で得た資料が国会議員にわたったことの是非、C・取材にからむ当事者間の情交問題等々にわたり、法理的に解明すべき問題であったにも拘らず議論が深められなかった。 4.*日、外務省機密漏洩事件で、東京地裁が蓮見喜久子事務官と西山記者の拘置を決定する。4.8日、外務省機密漏洩事件で、毎日新聞社の西山記者の拘置決定の取消しを求める準抗告が行われる。4.9日、外務省機密漏洩事件で、東京地裁は毎日新聞社の西山記者の拘置決定を取消す。4.15日、外務省機密漏洩事件で、東京地検が蓮見元事務官を釈放し、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で起訴する。西山記者を同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で起訴する。起訴状では「蓮見事務官をホテルに誘って情を通じたあげく」と男女の私的関係に絡む機密漏洩事件とする。 女性事務官は一審で有罪となり、控訴せずで確定した。西山記者は争った。 |
3.30日、南ベトナム解放軍が68年以来の大攻勢を開始する。4.6日、アメリカが大規模な限定北爆を再開する。4.16日、アメリカ軍がハノイ、ハイフォンへの爆撃を再開する。5.1日、北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線が、南ベトナムの要所のクアンチを占領する。5.4日、ベトナムで臨時革命人民委員会が成立する。5.8日、ニクソン米大統領が北ベトナムの全港湾機雷封鎖を発表する。5.10日、北ベトナムが、アメリカの北爆強化と機雷封鎖に抗議する民主共和国声明を発表する。5.10日、南ベトナムのチュー大統領が全土に非常事態宣言を発する。 |
この頃、過激派学生分裂相次ぎ、革マル対反革マル内ゲバ事件多発。 |
民青同12回大会で新日和見主義者処分。 |
4.3日、マル生闘争処分に抗議して動労が順法闘争を開始する。
4.6日、エジプトのサダト大統領がヨルダンとの断交を発表する。
【インガソル氏が駐日米国大使として着任】 |
4.12日、インガソル氏が駐日米国大使として着任した。彼は職業的な外交官ではなく、著名な実業家であった。世界最大の自動車部品メーカー・ボルグ・ワーナー社の社長、会長を務め、1968年の大統領選にはニクソンの選挙資金責任者として活躍した人物であった。対日本の貿易摩擦問題に備えて、ニクソン政権が白羽の矢を立てた「ポリティカル・アポインティ(政治的任命)」による民間人起用であった。 |
【「民社党訪中代表団と中日友好協会代表団との共同声明」】 | ||||||
4.13日、「民社党訪中代表団と中日友好協会代表団との共同声明」は次のような「復興三原則」を声明した。「一日もはやく両国間の戦争状態を終結させ、平和条約を締結し、国交を回復するためには、まずつぎの基本的原則を認めなければならない」として、
双方は、上記の諸原則は中日国交回復の前提であり、断固として貫徹しなければばらないと認めた。 |
【「外務省公電漏洩事件訴訟」始まる】 | ||
4.15日、第一審で検事は次のような起訴状を読み上げた。
これに対して毎日新聞は、「取材にあたって道義的に遺憾の点があった。新聞記者のモラルから逸脱した」とコメントしている。 一審判決では次のように述べられている。
一審判決(山本卓裁判長)では無罪となり、検察が控訴し、最高裁まで争われた。 1978.5.31日、最高裁は、公法にいう「秘密」を実質秘とし、その判定は司法判断に服するとしたが、結局、電文の秘密性を認め、さらに取材方法も適当な取材活動の範囲を逸脱しているなどとして、逆転有罪判決を言い渡した。こうして最終的に二人とも有罪となった。その後、西山記者は退社した。 この事件は、外務省の過剰機密姿勢、西山記者の取材姿勢、横路議員の出所漏洩姿勢、西山記者逮捕の是非、毎日新聞社の対応能力等々に後足の悪さを残すことになった。この事件は、「国民の知る権利」という考え方を広める事になり、その後の情報公開制度定着の引き金となった点で大きな歴史的意義を持つ。 この事件は、外務省の過剰機密姿勢、西山記者の取材姿勢、横路議員の出所漏洩姿勢、西山記者逮捕の是非等々に後足の悪さを残すことになった。 2000.5月、「密約」の内容を裏付ける米公文書の存在が明らかになった。それによれば、西山記者が暴露した「軍用地復元費用の肩代わり(4000万ドル)」の他に、米国政府海外向け短波放送「ボイス・オフ・アメリカ(VOA)移転費用(1600万ドル)」、秘密枠と呼ばれる「基地施設改善移転費用(合計2億ドル)」等々の「密約」が開示されている。基地移転費用は、72年の返還以降、5年間にわたって支払われ、これが78年の「思いやり予算」に繋がって行くことになる。 しかし政府は、「密約は存在しない」との立場を堅持し続けている。なお、この問題を素材としたノンフィクションに、沢地久枝著「密約」(中公文庫)がある。この事件を作家澤地久枝が取材し「密約」という小説を書いたほか、ドキュメンタリー作家によって沢地作品を原作にしてテレビドラマ化され、映画にもなった。後に英語字幕版も制作され、アメリカでも上映され、反響を呼んだ。 2005年、西山氏は、謝罪と国家賠償を求めて国を提訴。しかし、除斥機関を過ぎているとして敗訴する。その後、24名の原告と共に沖縄密約文書の開示請求訴訟を起こす。 2009.12.1日、口頭弁論で、密約を交わした当事者の吉野文六・元外務省アメリカ局長が、「密約はあった」と証言。吉野氏は、かって法廷で「密約はない」と証言しており、同じ司法の場で密約の存在を認めたことになる。 |
4.16日、ノーベル賞の候補に挙がりながら若すぎると評された三島由紀夫が割腹自殺した2年後、日本人初のノーベル賞作家となった川端康成が、神奈川県逗子市のマンションの一室で、ガス管をくわえた状態で変死した。遺書はなく、謎めいた死が様々な臆測を呼んでいる。 |
4.27-28日、自衛隊の「沖縄派兵」等中止を求めて現役自衛官が決起している。
4月、キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官が来日。「今日米関係は第二次世界大戦後で一番難しい時期にあると言わざるを得ない」。
雑誌「全貌」5月号で、「連合赤軍の浅間山荘事件と1933年の共産党のスパイリンチ事件が瓜二つだとして、大泉兼蔵まで登場させる記事」を掲載。 |
5.2日、キッシンジャー訪仏,ベトナムと秘密接触。
5.4日、党創立50周年記念の「党勢拡大運動推進本部」を設置。 |
【田中派が旗揚げ】 | |
5.9日、田中派が東京柳橋の料亭「いな垣」に集い旗揚げ。佐藤派長老の田中シンパ二階堂進、西村英一、橋本登美三郎、愛知揆一、木村武雄、植木庚子郎が呼びかけ人となり、木村武雄名で呼集され、佐藤派81名(衆議院40名、参議院41名)が結集した。81名は佐藤派124名中約3分の2の勢力にあたる。会合は、木村の「次の総選挙に勝つためには、国民的人気のある人が自民党総裁になるべきだ。その意味で、田中角栄氏は国民の信を託すに十分な人物で、今後、田中氏と行動をともにしたい」のぶちあげで始まり、一年生議員小沢の乾杯音頭で「田中内閣の樹立を目指して、頑張ろう!乾杯!」となった。佐藤後継レースの公然化であり、この頃より、自民党内には田中派と福田派の実弾攻撃が推し進められていくことになった、と伝えられている。田中派発足当時に旗幟鮮明にしたのは、次の通り。愛知揆一、足立篤郎、植木、大村襄治、小沢辰男、小渕恵三、金丸信、亀岡高夫、仮谷忠男、木村武雄、久野忠治、小宮山重四郎、竹下登、二階堂進、西村英一、橋本登美三郎、箕輪登、山下元利、山田久就、渡辺肇、小山省二、石井一、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、高島修、中山利生、羽田孜、林義郎の29名。 田中派が、中間派議員や地方の代議員の取り込みに一人あたり2百万円、派閥のボスに5千万円を「ほんの手付だ」と豪語しながら現金をばらまかれたと噂されている。もっとも、福田派も同様の工作を進めており、その金額が田中派には及ばなかったないしは生かせなかったとの説もあり真偽不明。 この時の渡部恒三の証言は次の通り。
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田中派発足当時に旗幟鮮明にしたのは、次の通り。愛知揆一、足立篤郎、植木、大村襄治、小沢辰男、小渕恵三、金丸信、亀岡高夫、仮谷忠男、木村武雄、久野忠治、小宮山重四郎、竹下登、二階堂進、西村英一、橋本登美三郎、箕輪登、山下元利、山田久就、渡辺肇、小山省二、石井一、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、高島修、中山利生、羽田孜、林義郎の29名。 |
5.10日、カンボジアのロン・ノル大統領が、クメール共和国憲法の制定を布告する。
5.12日、日本・インドネシア共同声明が発表され、アサハン開発計画などで合意する。
5.13日夜、大阪府大阪市南区(現・中央区)の繁華街ミナミで千日デパートビル火災が発生し118名が死亡した。
【沖縄返還協定調印】 |
5.15日、沖縄返還協定の調印式が執り行われ、沖縄施政権が復帰した。27年振りの日本への復帰、沖縄県発足となった。 |
5.22日、ニクソン米大統領訪ソ。5.26日、SALT Iが調印される(アメリカ・ソ連間で「ABM制限条約」「戦略攻撃兵器制限暫定協定」(SALT−I)が成立する。5.29日、モスクワで、米ソ共同コミュニケが調印される。5.31日、アメリカのニクソン大統領がポーランドを公式訪問する。
5.26日、閣議が初の「環境白書」を了承する。
5.30日(日本時間5.31日)、イスラエルのテルアビブ国際空港で、日本赤軍3名による乱射事件が発生した。空港ロビーにいた24名の死者、80名以上の負傷者発生。襲撃した奥平剛士(26才.京大)、安田安之(24才.京大)の2名はその場で射殺された。岡本公三(24才.鹿児島大)は逮捕され軍事法廷で終身刑の判決を受け収容された。パレスチナ入りした日本赤軍の旗揚げ的な意味を持った軍事行動となった。 |
5.28日、アメリカ民主党全国委員会本部にCIA工作員が侵入し、盗聴器をしかける(ウォーターゲート・ビルへの1回目の侵入)。
6.1日、イラク政府が、イラク石油会社(IPC)の国有化を一方的に発表する。6.2日、シリア領内のイラク石油資産の国有化が決定される。
6.2日、田中派と大平派が都内で会合し、「佐藤後」の政局に両派が緊密な連絡を取り合いながら、佐藤首相による「角福調整」を拒否し、党則に基づく公明な選挙に向けて闘う事を申し合わせた。この時、角栄は「大平と田中は、これまでも一緒だつたが、これからも一緒だ。死ぬまで一本である」、大平は「田中無くして大平無し、大平無くして田中無し、という関係だ」と述べ、友誼を確認しあっている。
6.3日、米英仏ソがベルリン協定に調印し、西ドイツと西ベルリンの自由交通など緊張緩和の動きが高まる。
6.5日、ストックホルムで国連人間環境会議が開催され、112ヵ国が参加する。6.15日、国連人間環境会議で、10年間の捕鯨禁止が決議される。6.16日、国連人間環境会議で、人間環境宣言が採択される。
6.9日、佐藤首相が、総裁選調整工作のため、田中通産相、福田外相と個別会談。
【キッシンジャーが来日】(2001.8月号「文芸春秋」の「角栄の犯罪25年目の新事実」より) |
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6.9日、米国安全保障問題担当特別補佐官キッシンジャーが来日し、6.10日、佐藤首相と会談、次期首相についての予想を詳細に探っている。その白眉部分は次の通り。
明らかに、キッシンジャーは、福田に勝たせようとしていることが分かる。 |
6.9日、国労と動労が、ベトナム向け米軍燃料タンク車の増発に反対して強力順法闘争に入る。
【通産大臣田中角栄氏が「日本列島改造論」発表】 |
6.11日、通産大臣田中角栄氏が「日本列島改造論」発表。これは向こう受けを狙って唐突に出したものではない。1966年に幹事長を辞任した翌年の1967年に就任した自民党都市政策委員長時代に、日本の産業・経済構造を研究し、1968・5月に「都市政策大綱」(議論の取りまとめは、麓(ふもと)邦明氏)としてその成果を発表していた延長線上のものであり、東京一極集中からいかにしてバランスの良い総合的国土活用ができるかの視点で、産業の適正配置と分散、高速道路網の整備、地方単位の快適生活環境都市づくり等を提言していた。 |
【「キッシンジャー・田中会談」】 | ||||||||||||||||||||||||
6.13日、キッシンジャー・田中会談が東京のホテルオークラで為されている。会うのは二度目、サシの会談は初めての角栄は、簡単な自己紹介から始め、「25年間にわたる日本の復興で、アメリカ政府に非常にお世話になったことも理解しております」と対米同盟関係の是認スタンスを表明している。興味深いことは次の遣り取り。
角栄が、キッシンジャーとまさに頭脳戦に於いて堂々と渡り合っていることが分かる。 |
6.13日、公明党第10回大会、中道革新連合を提唱。
6.14日、日航DC8がニューデリー空港付近で墜落し86人が死亡する。
6.14日、中絶禁止法に反対し、ピル解禁を要求する女性解放連合(中ピ連)が結成される。
【佐藤長期政権終幕の前夜 】 | |
「渡部恒三のホームページ」より。
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6.17日朝、衆参両院の議員72名がホテルニューオータニに集まり「田中擁立大会」を開催。
【佐藤首相が引退声明】 |
6.17日、佐藤首相が、自民党の衆参両院議員総会で正式に引退声明し、7年8ヶ月にわたる政権が幕をとじることになった。午後零時半過ぎ、記者会見室は異様な空気で遣り取りされている。概要「テレビはどこにあるんだ。私はテレビを通じて国民に直接話をしたいんだ。新聞になると、文字になると違うからね。僕は、偏向的な新聞は大嫌いなんだ。新聞記者は出て行ってくれたまえ」。この佐藤の発言に記者団は反発し、「それじゃぁ、出よう」となって、がらんとなった会見室で、佐藤首相はテレビカメラに向かった。この時、「中国へ、中国へとなびく今の風潮は、賛成し難い」、「総理は孤独である」の発言が為されている。 |
【米国外交機密文書】 | ||
いよいよ佐藤後継レースが議事日程化することとなった。この時の様子について米国務省機密文書は次のように記している。
と認識した上で、総裁候補の福田と特に精緻に田中を、更に大平についてコメントしている。
以降も特に田中についての驚くほど詳細なレポートを発信し続けている。特徴は、「コンピューター付きブルドーザー」としての能力と政治手法を高く評価しており、為に却ってそうした優秀さを危惧している節のあるレポートとなっていた。 |
【佐藤首相引退声明後の動き】 |
6.17日の佐藤引退声明を受けて、田中派が、議員30名からなる世話人会を発足。福田支持グループが「周山クラブ」を結成。大平正芳氏が総裁選立候補を表明。この頃の角栄の弁に「総理の座はなろうと思ってもなれるものではないし、なりたくないと思ってもやらなければならない事もある」が伝えられている。 |
【熾烈極める自民党総裁選】 |
この時の自民党派閥の内訳は次の通り。合計347議席(衆院287、参院60)のうち、田中派49(衆議院29.参議院20)名、大平派60(44.16)、中曽根派50(30.20)。 |
6.17日、アメリカ民主党全国委員会に盗聴器を仕掛けようとした5人が逮捕され、ワシントン・ポスト紙が国防総省の対北ベトナム秘密文書を暴露する(ウォーターゲート事件の発端)。
6.19日、佐藤首相は、自民党本部の総裁室へ福田と田中を招き、総裁選問題で「君子の争いでやってもらいたい」と要望した。更に、第一回の投票結果により、どちらが1位になろうと「一位協力方式」を提案した。福田は了承し、田中は曖昧に答え言質を与えなかった。
6.19日、中曽根総務会長が総裁選出馬を見合す声明による田中支持を表明、中曽根派の40票が田中に向かうことになり、田中有利の構図へ拍車がかかった。この不出馬には黒い噂が流れた。田中派から中曽根に7億円の資金が渡り、派内の議員に一人当たり一千万円ずつ配られたと週刊誌に漏洩されている。
佐藤退陣表明の三日後の6.20日、福田が立候補を表明。 翌6.21日、田中が総裁選の事務所開きに出席し、正式に立候補を表明。衆議院40名、参議院45名が駆けつけた。林義郎が「十大政策」を読み上げた。角栄の立候補声明は次の通り。
同日、三木氏も表明。同日、中曽根が、自派の総会を開き、「総裁選不出馬、田中支持」を正式表明。 |
後の9月訪中の際に、周恩来が、「あなたは統一戦線作りの名人ですね」とユーモア交じりに誉めている。仲共から見ると、「岸・佐藤後継のプリンス福田」に対して、非主流、反主流の大平、三木、中曽根勢力を糾合した角栄戦略は、「都市を農村で包囲する毛沢東戦略の自民党版」であった。
6.23日、参議院に「田中角栄推進会」が結成される。
6.26(25)日、沖縄県知事選で、革新共闘会議の屋良朝苗氏が当選。
6.27日、ワシントン・ポスト紙が、米国防総省の対北ベトナム交渉秘密文書を暴露する。
6.27日、北アイルランドの過激派とイギリス軍が停戦する。7.9日、北アイルランドで、過激派が停戦を破棄する。7.21日、北アイルランドのベルファストで連続爆発事件が起こり、150人以上が死傷する(血の金曜日事件)。7.31日、イギリス軍が北アイルランド全土を制圧する。過激派は徹底抗戦を宣言する。
6.27日、南ベトナムが、チュー大統領の非常大権を抜き打ちで可決する。
6.29日午後、中曽根が「田中角栄君を励ます会」に現われ、「キリン児・田中候補」と持ち上げ、将棋の中原名人が「五五角」と揮毫した扇子を贈り、「五五角は、攻めるにも守るにも強い角。ゴーゴー角さん」と激励した。
7.1日、田中、中曽根、椎名、水田、石井の各派代表が、「田中支持新連合」を結成。
同日、自民等総務会で、福田系総務が、「中曽根立候補見送りの裏に、田中から中曽根への7億円の献金」を報じた週刊新潮7.8日号記事を採り上げ、中曽根総務会長を攻撃した。叉、この日の総務会で、第1回投票で過半数を獲得した候補が居ない場合、休憩せず、直ちに決選投票に入ることを確認した。
7.2日、田中・大平・三木の三者会談。毛利松平と金丸信がお膳立てした。「この3人のうち誰が次期総裁になっても、日中復交は今や国論であり、政府間交渉を通じて中国との平和条約を締結することを目標に交渉を行うべきである」との合意が為され、発表された。こうして田中・大平・三木・中曽根派の四派連合が形成され、決選投票での3派「上位協力」の合意が為された。この時、「大角提携」により「どちらが勝っても助け合う」盟約が為されていた。この間、倍々ゲームを地でいくような相当の札束が動いており、後に金権政治批判の伏線となる。
7.2日、埼玉県知事選で、革新統一の畑和が当選する。
【47総裁公選当時の自民党の派閥分布図】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
47総裁公選当時の自民党の派閥分布図は次の通り。
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【自民党総裁選】 |
7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催された。総裁選の第一回投票結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となった(有効投票476)。この結果、いずれも過半数に達しなかったため上位二人の決選投票になった。再投票の結果、選挙管理委員会委員長・秋田大助が、「田中角栄君、282票」と読み上げた。田中は282票、福田190票、無効4票と、圧倒的な大差で福田赳夫を破って第6代自民党総裁に選出された。 |
7.5日午後2時、角栄は、自民党総裁として初めての記者会見、続いて新聞各社の政治部長と懇談し、席上、当時最大の懸案になっていた日中問題について、「日中国交回復の時期は熟しつつある。政府間交渉に臨む基本姿勢を検討し、責任をもって対したい」と明言した。日本列島改造案について、「これが行われない限り、公共投資のメリットが低く、インフレになる。公害、物価、都市問題などでは、年次計画を立てて、具体的な青写真を提供する」と語った。 |
総理就任直後の財界人会合に出席して挨拶。「私はこのたび、はからずも---」と云いかけて、額の汗をハンカチで拭きながら、次のように言い直している。「いえ、はからずじゃありません。私は全智全能を傾けて総裁の地位を獲得しました」。大きな拍手で迎えられた。 |
【新聞社の夕刊速報記事】 |
7.5日の夕刊各紙の論調は次の通り。毎日新聞は一面で「自民新総裁に田中角栄氏 決戦で福田氏破る 92票差 三派連合が奏功 最年少の党人派」。二面で「高小卒で天下を取る 人間・角栄」。読売新聞は「野人総裁角さん 浪花節と“電動ブルドーザー”」。 |
【第64代内閣総理大臣に指名される】 |
7.6日、臨時国会召集、佐藤内閣総辞職。衆参両院で第64代内閣総理大臣に指名される。田中は直ちに組閣に着手した。就任直後の記者会見で、「日中関係正常化への機は熟した」と宣言。組閣時に福田派が入閣を拒否、波乱の幕開けとなった。「民族の歴史の1ページを書くつもりで頑張る。働き者の越後もんの名を汚しません」(目白の椿山荘で地元支持者に)の言が残されている。 福田は、この日の午後田中の来訪を待っていた。「あの日、角さんが会いに来てくれると思っていた。夕方まで待っていたが、遂に現れなかった。あの時、来てくれたら、こんなしこりを残すこともなかったんだよ」と述懐している(大蔵大臣に迎えられたとき)。福田が出向くのは屈服であり、勝者の田中のほうがやってくるのが武士の情けという美学。気配りの良い田中にしては落ち度となった。この後手違いも含めて様々なすれ違いが発生し、田中と福田の対立は昂じていくことになる。 |
【首相就任時の評価】 | ||||||
朝日新聞論調「いま田中首相の登場を迎えて、変化への予感と期待がよみがえろうとしている」。同社説(47.7.7)
読売新聞論調「野人総裁角さん、浪花節と電算ブルドーザー▲。同社説(47.7.6)
毎日新聞論調「高小卒で天下を取る」。同社説(47.7.6)
田原総一朗論文
母フメの言葉。
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【太田龍・氏の指摘】 | |
太田龍・氏は著作「ユダヤ問題入門」(泰流社、1994.1.20日初版)は24Pで、角栄首相誕生を次のように評している。
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【麓邦明と早坂茂三の両秘書の辞任騒動】 | ||||||||||||||||
角栄が総理就任直前の頃、日本列島改造論を書き上げることに尽力した麓邦明と早坂茂三の両秘書と「政商・小佐野、金庫番・佐藤」を廻る次のようなやり取りが遺されている。
麓邦明と早坂茂三の両秘書が、かく「オヤジ、小佐野さんと佐藤昭さんを、この際切ってください」と談判している。小佐野は政商として、佐藤は金庫番として、これまで田中と奥深くまで繋がっていたが、首相となった時点で田中政権のアキレス腱になることを憂えたからであった。田中は両秘書の申し出を拒否した。辞表を胸に直訴した以上、ケジメをつけねばならない。麓が、「君まで辞めたらオヤジが困る」と説得し、早川が浮けいれた。早坂は残り、麓は去った。 |
(私論.私見)