1972年初頭からの首相指名に至る流れ

 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和元/栄和4).2.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 7年8ヶ月の佐藤長期体制は、福田。田中・保利茂を三本柱として、この三本柱を競争・牽制・均衡の操縦で安定政権を作り上げてきたことに特質があった。ポスト佐藤は福田が本命であったが、次第に田中が力をつけてきた。保利は政権への色気を見せず、両者の緩衝地帯となって調整役として機能していた。佐藤も池田の敷いた高度成長路線に依拠していたが、佐藤政権末期の頃には既にひずみが生じつつ加速していた。

 他方、国際問題においても、1971(昭和46).7.15日、ニクソン米大統領の訪中発表(第一次ニクソン・ショック)と8.15日、同じくニクソン米大統領による、ドルと金との交換禁止によるドル防衛策(第二次ニクソン・ショック)が発表された。第二次ニクソン・ショックはもう一つの政策転換で、米国への輸入品に15パーセントの課徴金を課す政策を発表していた。これはわが国の輸出依存政策に激震を走らせ、為替市場を大混乱させ、東京証券取引所は史上最大の暴落を誘発した。が、この間佐藤首相は何ら為す策を打たず「佐藤無策」と揶揄された。10.25日、国連が、「中国加盟、国府追放」決議を可決したが、佐藤政府の政策に変化を与えなかった。ひたすら花道としての沖縄返還へ向けての外交交渉に向かい、日中関係の打開は次期政権に託された形になった。

 佐藤政治の継承に当たって、こうした一連の課題にどう対応するのかで、福田と田中には譲り難い違いが見られた。田中は、「高度経済成長路線を踏襲し、そのひずみを是正し、以後の成長政策をどう確立していくかを視点とする「都市政策要綱」をいち早く展望していた(これが「日本列島改造論」に結晶していくことになる)。この時福田の経済政策は、高度経済成長路線からの転換を図る総需要抑制策を志向しており、明らかに田中と福田間には政策的対立が健在していた。

 懸案の日中関係においても、田中はこれを推進し国交回復を目指そうとしていたが、福田はそれまでの台湾政府との信義の積み重ねを重んじようとしていた。ここにも対立があった。この間、角栄は通産大臣として、これまで宮沢喜一、大平正芳の二人の通産大臣が解決できずの懸案であった日米繊維交渉を10.15日に決着させている。「火中のクリを拾い、自分の責任において結論を出し、見事に裁く」好例を見せつけた。



 (関連、戦後政治史検証」の「1972年当時」の項。「履歴その7、宰相時代」)


 1.3日、日米繊維協定がワシントンで調印される。3年越しの懸案が解決した。繊維製品の対米輸出の年間伸び率を抑えるもので、「糸で縄(沖縄)を買った」との批判も出る。


【1972、日米首脳会談】
 1972(昭和47).1.5−6日、カリフォルニア州サクラメント(サンクレメンテ)で日米首脳会談が開かれ、佐藤首相は、福田外相、田中通産相、水田三喜男蔵相を同行している。福田の後継を演出する筈であったが、むしろ田中のパフォーマンスの方が目立つことになり、佐藤首相の思惑通りにはならなかった。翌日のニューヨーク・タイムズは、一面トップで昼食会の模様を報じ、そこにはニクソン大統領と談笑する佐藤首相、田中通産相の顔が映し出されていた。福田の顔はなかった。1.7日、日米首脳会談で「沖縄返還」決まる。返還日を5.15日とする共同声明を発表する。

【日米共同声明で、沖縄の施政権返還が発表される】

 1.8日の共同声明で、5.15日の沖縄施政権返還が決定された。これにより佐藤首相の花道が確定し、一気に後継首相問題が浮上していくことになった。


 1.23日、ソ連のグロムイコ外相が来日する。1.25日、日ソ定期協議が5年ぶりに開かれ、領土問題などが協議される。


 1.24日、元日本兵・横井庄一元伍長が、米国領土グアム島のジャングルの中で発見、保護された。28年間密林で潜伏し続けたことになる。2.22日、羽田空港で帰国記者会見し、「恥ずかしながら、帰ってまいりました」。74年にはフィリピン・ルバング島から小野田寛郎元少尉も帰還し、昭和元禄の世に衝撃を与えた。

 1.25日、ベトナム和平で、ニクソン大統領が6ヵ月以内の米軍完全撤退などを提案する。


 1.28日、社会党第35回大会、社公民連合政権構想を推進する決議案を運営委員会で否決。


 1.30日、北アイルランドのロンドンデリーで、カトリック系デモとイギリス軍が衝突し、13人が死亡する(血の日曜日事件)。


 1月、「日共革命左派」、原田長司グループの「日本共産党(マルクス・レーニン主義)山口県準備委員会」、安斎庫治グループの「日本共産党再建準備委員会」の三者で「全国規模の前衛党建設」を目指した「全国三者協議会」を結成、同年8月には、これを「前衛党建設を目指すマルクス・レーニン主義者全国協議会」に発展させる。


 2月、国会「四次防予算」先取り問題で紛糾。


 2.3日、札幌で第11回冬期オリンピックが開催される。


 2.3日、佐藤首相、札幌での記者会見で、国会終了後の引退を示唆。


 2.9日、イランの軍事法廷が、左翼ゲリラに終身刑などの判決を下す。


 2.15日、アメリカが、国際収支が記録的な赤字になっていることを発表する。


【宮顕の家移り】
 2月、宮顕委員長が家移り。東京都杉並区上高井戸から東京都多摩市連光寺に移転した。敷地約200坪、周囲を高いブロック塀で囲い、家族の他防衛隊員が常駐。以降毎週一回、党本部で開かれる党中央常任幹部会会議の前日には、上田、不破、榊、岡本博之、小林栄三、若林ら私設秘書幹部も含めて謀議を凝らして行くことになった。

【連合赤軍浅間山荘事件】
 2.16日、群馬県妙義山中で連合赤軍の2人が逮捕される。2.17日、連合赤軍最高指導者森恒夫(27).永田洋子(27)が群馬県妙義山アジト付近で逮捕された。

 2.17日、プロレタリア作家の平林たい子没(享年66歳)(誕生:明治38(1905)/10/03)。


【連合赤軍浅間山荘事件】
 2.19日連合赤軍による「あさま山荘篭城事件」が起った。最高幹部が逮捕されていた連合赤軍のメンバー坂口弘ら5名が、軽井沢の保養所・浅間山荘に乱入し、管理人夫人牟田泰子(31才)を人質にとって立てこもった。武装警官1500名が出動し、2.19日から10日間にわたる睨みあいが続いた。

 2.28日、人質の体力が限界にきたと判断した警備本部はクレーン車につるした鉄球で連合赤軍がたてこもる浅間山荘の一部破壊を決行、連合赤軍側もライフル銃などで激しく抵抗、機動隊員2人が死亡、23名の負傷者が出た。結局連合赤軍5人は全員逮捕、人質の主婦は無事救出される。NHKテレビが24時間体制で中継する等、現場中継に国民の多くが釘付けとなった。

 2.19日、モスクワで、日本とモンゴル人民共和国の国交樹立交渉が妥結する。


【1972、米中首脳会談】
 2.21日、アメリカのニクソン米大統領が訪中。毛沢東首席、周首相と会談。日本を無視した形となり、頭越し外交と云われる。2.27日、米中共同声明を発表して世間を驚かせた。歴史的な米中和解が実現した。二度目の「ニクソン.ショック」といわれる。

 角栄は、ニクソン大統領と周恩来首相の二人が握手を交わす歴史的な場面をテレビで見ながら、「ニクソンもやるもんだなぁ。中国は10億もの人間がいる隣国なのだから、いずれ日本も国交回復を考えなくてはならん」と呟いた(佐藤昭伝)。もしやるとするなら、岸、佐藤、福田などは台湾との関係が深く、「田中しかいなかった」。

 2.22日、フトハンザ機がパレスチナゲリラに乗っ取られ、南イエメンのアデンに着陸する。2.23日、前日乗っ取られたルフトハンザ機の乗員・乗客が身代金1600万マルクで全員解放される。


 2.24日、モスクワで、日本とモンゴル人民共和国の国交樹立の調印が行われる。


 2.26日、イスラエル空軍が、レバノンを爆撃する。

 2.29日、原水協が、元米軍曹長が日本国内への核持込みを裏付ける証言を行ったと発表する。

 2.29日、閣議が、中国向け輸出に対して輸銀の資金の使用を認める方針を決定する。

 3.2日、北ベトナムの「ニャンザン」紙が、米中共同声明のアメリカ側見解を激しく非難する。


 3.3日、赤旗は、一面トップ7段で、「警察、連合赤軍に協力賞 情報収集を名目に 後藤田長官らが答弁 泳がせ政策を裏付け」と大きく報道。

 3.7日、田中角栄ら永年在職議員として衆議員より表彰される(12名)。


 3.7日、連合赤軍メンバー12名のリンチ殺人遺体が発見される(群馬県警が、連合赤軍逮捕者の自供から、リンチによって「処刑」された元京大生山田孝の凍死体を発見する。)。京浜安保共闘時代の2名を含めて犠牲者14名。新左翼にショックを与える。

 高知聡氏は「日本共産党粛清史」において、「要するに。思想的にシュ儒であった者達が、マンガチックに誇張し、ゲキガチックに非人間的に巻き起こした怪奇な惨劇が、彼等の連続リンチ殺人事件だったのだ」と述べている。

 3.10日、カンボジアで、ロン・ノル大統領が就任する。


 3.13日、スモン研究調査会が、スモン病の原因はキノホルムの服用であるとの結論を出す。


 3.15日、山陽新幹線、新大阪―岡山間が開業。


 3.15日、ヨルダンのフセイン国王が、連合王国構想を発表する。3.18日、アラブ共和国連邦が、ヨルダンのフセイン国王の統一アラブ王国建国案を拒否する。


 3.21日、奈良・高松塚古墳で彩色壁画を発見。


 3.21日、アメリカ下院本会議が、政府提案の平価変更法案を可決し、金価格が1オンス35ドルから38ドルへ引き上げが決定する。ドルの7.89%切り下げが確定する。


 3.22日、北アイルランド首相のブライアン・フォークナーとイギリス首相ヒースが内戦終結のための会談を行う。イギリスの直接統治で合意する。3.24日、イギリスのヒース首相が、北アイルランドの自治政府・議会の1年間停止の声明を出す。3.30日、北アイルランド暫定法が議会を通過する。


 3.23日、アメリカ政府がジョン・レノンに国外退去命令を出す。ジョン・レノンはこれを拒否する。

【社会党の横路孝弘、楢崎弥之助氏らが、衆議院予算委員会で「沖縄密約問題」を採り上げる】
 3.27日、沖縄返還協定の批准書が交換された直後(1972.3.15日)の衆議院予算委員会で、社会党の横路孝弘、楢崎弥之助氏らが、「沖縄返還を廻る沖縄返還協定の締結にあたり、日米に密約が存在する。それを示す外務省公電密約が存在する」として「外務省の極秘電報密約の存在」を漏洩し、爆弾発言となった。

 安川外務審議官付きの秘書・蓮見喜久子から毎日新聞記者・西山太吉氏に渡された外務省の機密文書コピーが横路氏に渡ったものであった。これにより、沖縄返還交渉の過程で日米間に為された軍用地地主への復元補償費400万ドルを日本が肩代わりするという密約が暴露された。これを、「外務省公電漏洩事件」と云う。これをきっかけに、国家機密や政府の情報開示に対する国民の「知る権利」運動に関心が高まっていくことになった。

 3.28日、前日の衆議院予算委員会での極秘公電の暴露について、政府が「密約」はないとしながらも公電の存在は認める。佐藤首相は激怒し、警察に命じて漏洩ルートの捜索を指示し、関係者が逮捕されるという事件に発展した。3.29日、福田外相が、外務省の極秘公電漏洩の経路について省内徹底調査を命じる。国会で提示した外務省秘密電文のコピーから、政府は直ちに漏洩ルートを割り出した。3.31日、外務省の蓮見喜久子事務官から極秘公電コピーを外部に流した事実を聴取する。4.3日、外務省機密漏洩事件。外務省の蓮見喜久子事務官から毎日新聞政治部の西山太吉記者に極秘公電のコピーが渡されたことが判明する。警察は、西山記者が外務省職員(外務審議官の女性秘書)と不倫関係にあり、「情を通じて」公電を入手したとして「西山記者の情報入手における道義性」を問題としていった。警視庁は、女性秘書を国家公務員法第100条(職員は職務上知ることが出来た秘密を漏らしてはならない。1年以下 の懲役又は罰金3万円以下。)の守秘義務違反で告発した。

 4.4日、警視庁が、外務省の公電漏洩容疑で、外務省の蓮見喜久子事務官と毎日新聞の西山太吉記者を、国家公務員法同第111条(国家公務員に秘密を漏らす行為を企て、そそのかし、又はその幇助をした者は1年以下の懲役又は3万円以下の罰金に処せられる)の秘密漏示教唆罪(違法行為のそそのかし容疑)で逮捕する(外務省公電漏洩事件)。

 4.5日、外務省機密漏洩事件で記者が逮捕されたことで、毎日新聞社などは「知る権利」への干渉であると反発する。 毎日新聞は、国家機密や政府の情報開示に対する「国民の知る権利」を盾にキャンペーンを続けた。 が、「表現の自由、報道の自由」を護り切れなかった。「国民の知る権利が裁判で大きな論争点になったが、西山記者と外務省蓮見事務官の間に男女の関係があり、人々の好奇心を書き立てるに至った」。

 論点は、@・公電内容の真実性、A・公電内容の報道権と政府行為の秘密性の尊重との関係如何、B・マスコミが取材で得た資料が国会議員にわたったことの是非、C・取材にからむ当事者間の情交問題等々にわたり、法理的に解明すべき問題であったにも拘らず議論が深められなかった。

 4.*日、外務省機密漏洩事件で、東京地裁が蓮見喜久子事務官と西山記者の拘置を決定する。4.8日、外務省機密漏洩事件で、毎日新聞社の西山記者の拘置決定の取消しを求める準抗告が行われる。4.9日、外務省機密漏洩事件で、東京地裁は毎日新聞社の西山記者の拘置決定を取消す。4.15日、外務省機密漏洩事件で、東京地検が蓮見元事務官を釈放し、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で起訴する。西山記者を同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で起訴する。起訴状では「蓮見事務官をホテルに誘って情を通じたあげく」と男女の私的関係に絡む機密漏洩事件とする。

 女性事務官は一審で有罪となり、控訴せずで確定した。西山記者は争った。

 3.30日、南ベトナム解放軍が68年以来の大攻勢を開始する。4.6日、アメリカが大規模な限定北爆を再開する。4.16日、アメリカ軍がハノイ、ハイフォンへの爆撃を再開する。5.1日、北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線が、南ベトナムの要所のクアンチを占領する。5.4日、ベトナムで臨時革命人民委員会が成立する。5.8日、ニクソン米大統領が北ベトナムの全港湾機雷封鎖を発表する。5.10日、北ベトナムが、アメリカの北爆強化と機雷封鎖に抗議する民主共和国声明を発表する。5.10日、南ベトナムのチュー大統領が全土に非常事態宣言を発する。

 この頃、過激派学生分裂相次ぎ、革マル対反革マル内ゲバ事件多発。

 民青同12回大会で新日和見主義者処分。

 4.3日、マル生闘争処分に抗議して動労が順法闘争を開始する。


 4.6日、エジプトのサダト大統領がヨルダンとの断交を発表する。


 4.10日、米、英、ソなど79ヵ国が生物兵器禁止条約に調印する。

 4.12日、KCIAが風刺詩「蜚語」を発表した詩人の金芝河を連行する。

【インガソル氏が駐日米国大使として着任】

 4.12日、インガソル氏が駐日米国大使として着任した。彼は職業的な外交官ではなく、著名な実業家であった。世界最大の自動車部品メーカー・ボルグ・ワーナー社の社長、会長を務め、1968年の大統領選にはニクソンの選挙資金責任者として活躍した人物であった。対日本の貿易摩擦問題に備えて、ニクソン政権が白羽の矢を立てた「ポリティカル・アポインティ(政治的任命)」による民間人起用であった。


【「民社党訪中代表団と中日友好協会代表団との共同声明」】
 4.13日、「民社党訪中代表団と中日友好協会代表団との共同声明」は次のような「復興三原則」を声明した。「一日もはやく両国間の戦争状態を終結させ、平和条約を締結し、国交を回復するためには、まずつぎの基本的原則を認めなければならない」として、
(1)  世界には一つの中国しかなく、それは中華人民共和国である。中華人民共和国は中国人民を代表する唯一の合法政府である。「二つの中国」、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」など荒唐無稽な主張にだんこ反対する。
(2)  台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、しかもすでに中国に返還されたものである。台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない。「台湾地位未定」論と「台湾独立」を画策する陰謀にだんこ反対する。
(3)  「日台条約」は不法であり、無効であって、破棄されなければならない。

 双方は、上記の諸原則は中日国交回復の前提であり、断固として貫徹しなければばらないと認めた。


【「外務省公電漏洩事件訴訟」始まる】
 4.15日、第一審で検事は次のような起訴状を読み上げた。
 「西山は蓮見とひそかに情を通じこれを利用し、外交関係機密文書ないしその写しを持ち出させることを企て、46年5月22日頃、蓮見をホテル山王に誘って情を通じた挙句、沖縄関係の秘密文書を頼む,などと執拗に迫った。…」。

 これに対して毎日新聞は、「取材にあたって道義的に遺憾の点があった。新聞記者のモラルから逸脱した」とコメントしている。

 一審判決では次のように述べられている。
 「西山が蓮見に文書の持ち出しを依頼した点はそそのかしにあたる。しかし目的は正当であり、取材活動によってもたらされる利益は、損なわれる利益に優先する。手段,方法については相当性に欠ける点が見うけられないわけではないが、なお違法行為とは言えない」。 

 一審判決(山本卓裁判長)では無罪となり、検察が控訴し、最高裁まで争われた。

 1978.5.31日、最高裁は、公法にいう「秘密」を実質秘とし、その判定は司法判断に服するとしたが、結局、電文の秘密性を認め、さらに取材方法も適当な取材活動の範囲を逸脱しているなどとして、逆転有罪判決を言い渡した。こうして最終的に二人とも有罪となった。その後、西山記者は退社した。

 この事件は、外務省の過剰機密姿勢、西山記者の取材姿勢、横路議員の出所漏洩姿勢、西山記者逮捕の是非、毎日新聞社の対応能力等々に後足の悪さを残すことになった。この事件は、「国民の知る権利」という考え方を広める事になり、その後の情報公開制度定着の引き金となった点で大きな歴史的意義を持つ。

 この事件は、外務省の過剰機密姿勢、西山記者の取材姿勢、横路議員の出所漏洩姿勢、西山記者逮捕の是非等々に後足の悪さを残すことになった。

 2000.5月、「密約」の内容を裏付ける米公文書の存在が明らかになった。それによれば、西山記者が暴露した「軍用地復元費用の肩代わり(4000万ドル)」の他に、米国政府海外向け短波放送「ボイス・オフ・アメリカ(VOA)移転費用(1600万ドル)」、秘密枠と呼ばれる「基地施設改善移転費用(合計2億ドル)」等々の「密約」が開示されている。基地移転費用は、72年の返還以降、5年間にわたって支払われ、これが78年の「思いやり予算」に繋がって行くことになる。

 しかし政府は、「密約は存在しない」との立場を堅持し続けている。なお、この問題を素材としたノンフィクションに、沢地久枝著「密約」(中公文庫)がある。この事件を作家澤地久枝が取材し「密約」という小説を書いたほか、ドキュメンタリー作家によって沢地作品を原作にしてテレビドラマ化され、映画にもなった。後に英語字幕版も制作され、アメリカでも上映され、反響を呼んだ。

 2005年、西山氏は、謝罪と国家賠償を求めて国を提訴。しかし、除斥機関を過ぎているとして敗訴する。その後、24名の原告と共に沖縄密約文書の開示請求訴訟を起こす。

 2009.12.1日、口頭弁論で、密約を交わした当事者の吉野文六・元外務省アメリカ局長が、「密約はあった」と証言。吉野氏は、かって法廷で「密約はない」と証言しており、同じ司法の場で密約の存在を認めたことになる。

 4.16日、ノーベル賞の候補に挙がりながら若すぎると評された三島由紀夫が割腹自殺した2年後、日本人初のノーベル賞作家となった川端康成が、神奈川県逗子市のマンションの一室で、ガス管をくわえた状態で変死した。遺書はなく、謎めいた死が様々な臆測を呼んでいる。

 4.24日、火炎瓶使用等処罰法が公布される。

 4.27日、春闘で、初のゼネストが行われる。

 4.27-28日、自衛隊の「沖縄派兵」等中止を求めて現役自衛官が決起している。


 4月、キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官が来日。「今日米関係は第二次世界大戦後で一番難しい時期にあると言わざるを得ない」。


 雑誌「全貌」5月号で、「連合赤軍の浅間山荘事件と1933年の共産党のスパイリンチ事件が瓜二つだとして、大泉兼蔵まで登場させる記事」を掲載。

 5.2日、キッシンジャー訪仏,ベトナムと秘密接触。


 5.4日、党創立50周年記念の「党勢拡大運動推進本部」を設置。

【田中派が旗揚げ】
 5.9日、田中派が東京柳橋の料亭「いな垣」に集い旗揚げ。佐藤派長老の田中シンパ二階堂進、西村英一、橋本登美三郎、愛知揆一、木村武雄、植木庚子郎が呼びかけ人となり、木村武雄名で呼集され、佐藤派81名(衆議院40名、参議院41名)が結集した。81名は佐藤派124名中約3分の2の勢力にあたる。会合は、木村の「次の総選挙に勝つためには、国民的人気のある人が自民党総裁になるべきだ。その意味で、田中角栄氏は国民の信を託すに十分な人物で、今後、田中氏と行動をともにしたい」のぶちあげで始まり、一年生議員小沢の乾杯音頭で「田中内閣の樹立を目指して、頑張ろう!乾杯!」となった。佐藤後継レースの公然化であり、この頃より、自民党内には田中派と福田派の実弾攻撃が推し進められていくことになった、と伝えられている。田中派発足当時に旗幟鮮明にしたのは、次の通り。愛知揆一、足立篤郎、植木、大村襄治、小沢辰男、小渕恵三、金丸信、亀岡高夫、仮谷忠男、木村武雄、久野忠治、小宮山重四郎、竹下登、二階堂進、西村英一、橋本登美三郎、箕輪登、山下元利、山田久就、渡辺肇、小山省二、石井一、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、高島修、中山利生、羽田孜、林義郎の29名。

 田中派が、中間派議員や地方の代議員の取り込みに一人あたり2百万円、派閥のボスに5千万円を「ほんの手付だ」と豪語しながら現金をばらまかれたと噂されている。もっとも、福田派も同様の工作を進めており、その金額が田中派には及ばなかったないしは生かせなかったとの説もあり真偽不明。 

 この時の渡部恒三の証言は次の通り。
 「通常国会の会期末もおしせまった5月9日夜、私は同志の高鳥修、小沢一郎、羽田孜君などと期待に胸をはずませながら柳橋にむかった。元帥と愛称される党人政治家の元老木村武雄氏(現建設大臣)の案内で田中角栄氏擁立の会が開かれることになったからである。会費二千円、縦にならべられた細長いテーブルの上に、黒ぬりの弁当がならべられているだけの質素な宴席である。しかし参加者は予想をはるかに上まわる81名、衆議院では佐藤派より二階堂進、亀岡高夫氏等38名。それに無派閥の私と小沢辰男氏(新潟)が参加して40名である。とくに参議院からは衆議院を上まわる41名が参加し、重宗王国にきずかれた参議院は、福田という伝説を完全に吹き飛ばしてしまった。とくに木村元帥より指名された私は、『今日まで党近代化を主張し、無派閥の一匹狼としてやってきたが、これからは、田中内閣の実現によって庶民大衆の政治をつくり上げるという目的のもとに先輩諸氏と行動をともにしたい』と挨拶をした。このこと、私は新聞記者に、『まさに老人と青年の会、参議院のオールドパワーと衆議院のヤングパワーの集まりであった』と語ったが、後代に良き社会を残そうとする老人たちと、未来に新しい時代をつくろうとする自民党のヤングが、田中内閣の実現という目的で一致したのは愉快であった。やはり田中陣営に参加した福島県出身の一竜斎貞鳳氏にさそわれた私は、梶山静六、奥田敬和、中山利生、林義郎、左藤恵、斉藤滋与史、佐藤守良等の同志とともに、この日ばかりは柳橋で名高い柳光亭で痛飲した。田中派の旗上げに参加して多くの同志を得た喜びとともに、自民党の派閥政治という大勢のなかで、ついに自分も派閥政治の渦巻の一員に組み込まれてしまったという反省が、かすかに私の心をよこぎった。柳光亭の楼上より大川をへだてて明滅するネオンが静かに流れる大川の水面を美しく映し出している。酒にほてった顔を川風が心地よくなでてくれる。しばし私は友人たちの喧噪をよそに、柳橋の夜景に目をはしらせていたのである」。
 田中派発足当時に旗幟鮮明にしたのは、次の通り。愛知揆一、足立篤郎、植木、大村襄治、小沢辰男、小渕恵三、金丸信、亀岡高夫、仮谷忠男、木村武雄、久野忠治、小宮山重四郎、竹下登、二階堂進、西村英一、橋本登美三郎、箕輪登、山下元利、山田久就、渡辺肇、小山省二、石井一、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、高島修、中山利生、羽田孜、林義郎の29名。

 5.10日、カンボジアのロン・ノル大統領が、クメール共和国憲法の制定を布告する。


 5.12日、日本・インドネシア共同声明が発表され、アサハン開発計画などで合意する。


 5.13日夜、大阪府大阪市南区(現・中央区)の繁華街ミナミで千日デパートビル火災が発生し118名が死亡した。


【沖縄返還協定調印】
 5.15日、沖縄返還協定の調印式が執り行われ、沖縄施政権が復帰した。27年振りの日本への復帰、沖縄県発足となった。

 5.22日、ニクソン米大統領訪ソ。5.26日、SALT Iが調印される(アメリカ・ソ連間で「ABM制限条約」「戦略攻撃兵器制限暫定協定」(SALT−I)が成立する。5.29日、モスクワで、米ソ共同コミュニケが調印される。5.31日、アメリカのニクソン大統領がポーランドを公式訪問する。


 5.26日、閣議が初の「環境白書」を了承する。


 5.30日(日本時間5.31日)、イスラエルのテルアビブ国際空港で、日本赤軍3名による乱射事件が発生した。空港ロビーにいた24名の死者、80名以上の負傷者発生。襲撃した奥平剛士(26才.京大)、安田安之(24才.京大)の2名はその場で射殺された。岡本公三(24才.鹿児島大)は逮捕され軍事法廷で終身刑の判決を受け収容された。パレスチナ入りした日本赤軍の旗揚げ的な意味を持った軍事行動となった。

 5.28日、アメリカ民主党全国委員会本部にCIA工作員が侵入し、盗聴器をしかける(ウォーターゲート・ビルへの1回目の侵入)。


 6.1日、イラク政府が、イラク石油会社(IPC)の国有化を一方的に発表する。6.2日、シリア領内のイラク石油資産の国有化が決定される。


 6.2日、田中派と大平派が都内で会合し、「佐藤後」の政局に両派が緊密な連絡を取り合いながら、佐藤首相による「角福調整」を拒否し、党則に基づく公明な選挙に向けて闘う事を申し合わせた。この時、角栄は「大平と田中は、これまでも一緒だつたが、これからも一緒だ。死ぬまで一本である」、大平は「田中無くして大平無し、大平無くして田中無し、という関係だ」と述べ、友誼を確認しあっている。


 6.3日、米英仏ソがベルリン協定に調印し、西ドイツと西ベルリンの自由交通など緊張緩和の動きが高まる。


 6.5日、ストックホルムで国連人間環境会議が開催され、112ヵ国が参加する。6.15日、国連人間環境会議で、10年間の捕鯨禁止が決議される。6.16日、国連人間環境会議で、人間環境宣言が採択される。


 6.9日、佐藤首相が、総裁選調整工作のため、田中通産相、福田外相と個別会談。 


【キッシンジャーが来日】(2001.8月号「文芸春秋」の「角栄の犯罪25年目の新事実」より)

 6.9日、米国安全保障問題担当特別補佐官キッシンジャーが来日し、6.10日、佐藤首相と会談、次期首相についての予想を詳細に探っている。その白眉部分は次の通り。

 「田中が勝った場合、日本政府の方針に大きな変化がありますか」。
佐藤  「田中がなろうが、福田、大平がなろうが、自民党の枠内での変化に過ぎません。枠は変わりませんよ」。
 「彼(福田)は勝てますか」。
佐藤  「現時点では五分五分です」。

 明らかに、キッシンジャーは、福田に勝たせようとしていることが分かる。


 6.9日、国労と動労が、ベトナム向け米軍燃料タンク車の増発に反対して強力順法闘争に入る。


【通産大臣田中角栄氏が「日本列島改造論」発表】

 6.11日、通産大臣田中角栄氏が「日本列島改造論」発表。これは向こう受けを狙って唐突に出したものではない。1966年に幹事長を辞任した翌年の1967年に就任した自民党都市政策委員長時代に、日本の産業・経済構造を研究し、1968・5月に「都市政策大綱」(議論の取りまとめは、麓(ふもと)邦明氏)としてその成果を発表していた延長線上のものであり、東京一極集中からいかにしてバランスの良い総合的国土活用ができるかの視点で、産業の適正配置と分散、高速道路網の整備、地方単位の快適生活環境都市づくり等を提言していた。


【「キッシンジャー・田中会談」】

 6.13日、キッシンジャー・田中会談が東京のホテルオークラで為されている。会うのは二度目、サシの会談は初めての角栄は、簡単な自己紹介から始め、「25年間にわたる日本の復興で、アメリカ政府に非常にお世話になったことも理解しております」と対米同盟関係の是認スタンスを表明している。興味深いことは次の遣り取り。

田中  「新聞というのは常に百%間違っているものです」。
 「各候補者の間に政策的な違いはありますか。それとも主にパーソナリティーの問題ですか」。
田中  「ほとんどパーソナリティーの問題です。田中、福田、大平、三木の違いは宗旨の問題と云っていいと思います。この四人では三人が外務大臣の経験を持ち、また福田と私は大蔵大臣も経験しました。過去の首相では、幣原、吉田、池田、佐藤が自民党の忠実なメンバーで、大平もそうです。一方、福田は初出馬は無所属での当選でした。福田の政治家としての歴史を感嘆に説明すると、岸が(A級戦犯として)追放され、その後、政界復帰した後に行動を共にしたのが福田だったわけです。従って、福田の自民党入りは岸が当選した後のことでした。ですが、ある意味では、福田は現在の自民党の主流といえる人物でしょう」。
 (その後、中国問題、台湾問題について意見交換している、というか田中の見解がウオッチされている)
 「(台湾問題に対して)どのような態度をとるべきだとお考えですか」。
田中  「台湾問題に関しては、日米の間で完全な合意が必要です。これは日本と中国との間だけでは解決するのが難しい問題です」。
 「台湾問題に関して、日本としては独自の解決を目指すつもりはないということですか」。
田中  「日本が独自に動くよりも、米国が加わった方がより理性的な解決ができるのではないかということです。夫婦喧嘩と同様に、共通の友人が間に入ることで問題解決ができるのではないでしょうか」。
 「誰が夫と妻で、誰が友人になるのですか」。
田中  「まず間違いないのは、米国が友人ということです。夫と妻に関しては、歴史的に言えば、日本と中国が夫婦でしたが、この四分の三世紀の間は、日本と台湾がカップルでした」。
 「私の理解するところ、台湾の処理に関しては、日本と米国は共通の方針を取るべきだというのが、あなたのご意見だと思われるのですが、それでいいですか」。
田中  「そうするのがベストだと思われます」。

 角栄が、キッシンジャーとまさに頭脳戦に於いて堂々と渡り合っていることが分かる。

 6.13日、公明党第10回大会、中道革新連合を提唱。


 6.14日、日航DC8がニューデリー空港付近で墜落し86人が死亡する。


 6.14日、中絶禁止法に反対し、ピル解禁を要求する女性解放連合(中ピ連)が結成される。


【佐藤長期政権終幕の前夜 】
 「渡部恒三のホームページ」より。
長い通常国会が終わろうとする6.15日。今国会の重要法案といわれてきた“健保改正法案“と“国鉄改正法案“はいずれも参議院で流産になってしまう見通しが濃くなっていた。しかも執行部は、この法案を今国会で真剣に通そうとする努力をせず、現内閣の手で臨時国会を開いて二法案を審議する、すなわち佐藤内閣を延命しようとする露骨な動きを見せはじめた。朝の国対が終わったあと、浜田幸一(千葉県)、林義郎(山口県)君等の提案で院内十四控室において獅子会が開かれた。私は、今日の代議士会に佐藤首相の出席を要求しようと提案した。いまや党内は佐藤後をめぐって麻の如く乱れている。佐藤首相が引退の意志を明示しないために、党内は疑心暗鬼、不信と混乱がつのり、まさに崩壊の瀬戸ぎわに立っている。このままでは自民党は亡びてしまう。日本の民主主義の危機である。

 しかし、残念ながら我われの要求はいれられないままに、本会議が開かれることになった。けたたましい本会議の開会ベルが鳴りひびくなかで、私は中曽根総務会長に「17日の両院議員総会に佐藤首相は出席して引退の意志を表明すべきこと」を強く要求した。中曽根会長の返事はあいまいであったが、その顔には、十分我われの要求を受け入れる用意のあることをありありと示していた。さらに金丸信国対委員長が「現内閣で臨時国会を開くことは絶対にない」と断言したので、つね日ごろ金丸氏の人柄に信頼をおく我われは、これを了承して本会議に入ることになった。しかしこれだけでもまだ安心できない。16日深夜、私は同志浜田幸一君、中山正輝君、それに石井一君の4名で竹下官房長官をたずねた。私は「もし明日の両院議員総会で佐藤首相が引退の意志を表明しない場合は、我われ3名が、首相の退陣の要求をする演説をぶつ。我々が立ち上がれば、河野洋平、西岡武夫氏等の若手の先輩がバックアップすることになっているから総会は滅茶苦茶になる。佐藤首相の引退をいさぎよくするためにぜひ内閣の番頭役である官房長官は首相に引退をすすめてもらいたい」とお願いした。竹下官房長官は我われの要望を否定し、「決してそのようなことを行なってはならない」と繰り返し、我われの翻意を求めた。おし問答が午前3時まで続けられたが、なんとなく寂しそうな官房長官の表情を見て、私は明日の佐藤引退を確信することができた。

 思えば人間の運命とは不可思議なものである。昭和34年、私が郷里に帰って県会議員に立候補しようとしたとき、早稲田の先輩である竹下さんは、ちょうど県会議員から代議士になったばかりであった。大隈会館で竹下さんから県会議員は三期やってはならない。二期つとめたら必ず国会に出てこい、と励まされ、その通りにやってきた私である。昨年の夏、慶応病院に入院中の私のところに来て「コウゾウ、おれも大臣になったぞ。どうだ大臣らしくなったか。お前も10年たてばなれるぞ。早く病気をなおせ」といって励ましてくれた竹下先輩である。私たちは今日、その竹下官房長官に対し、佐藤首相の退陣を要求しているのである。白々と夜の明けようとする首相官邸をあとにしながら、私は寂しそうな官房長官の顔と、政治家が信念をつらぬくためにはさけることのできない厳しくも険しい人の道を思った。しかし夜はほのぼのと明けようとしている。いよいよ今日から、次期総裁をめぐる戦いの火ぶたはぎって落とされるのである。そうなれば当然、田中角栄派の参謀となる竹下さんのもとで我われは同志として戦うことができるのである。どうせ「明日からはいっしょだ」  みずからをなぐさめるようにつぶやきながら、私は九段の宿舎にもどった。いつも靖国神社の境内から聞こえる夜明けをつげる鶏鳴の声が、なぜか今日ばかりは印象的に私の耳に残った。

 6.17日朝、衆参両院の議員72名がホテルニューオータニに集まり「田中擁立大会」を開催。


【佐藤首相が引退声明】

 6.17日、佐藤首相が、自民党の衆参両院議員総会で正式に引退声明し、7年8ヶ月にわたる政権が幕をとじることになった。午後零時半過ぎ、記者会見室は異様な空気で遣り取りされている。概要「テレビはどこにあるんだ。私はテレビを通じて国民に直接話をしたいんだ。新聞になると、文字になると違うからね。僕は、偏向的な新聞は大嫌いなんだ。新聞記者は出て行ってくれたまえ」。この佐藤の発言に記者団は反発し、「それじゃぁ、出よう」となって、がらんとなった会見室で、佐藤首相はテレビカメラに向かった。この時、「中国へ、中国へとなびく今の風潮は、賛成し難い」、「総理は孤独である」の発言が為されている。

 佐藤首相は、この後すぐさま後継首相として福田の担ぎ出しを保利と打ち合わせ、福・角調整に入った。この調整に成功すれば、佐藤の院政を敷く事が出来るという思惑もあったと推定できる。佐藤・福田・田中会談で、田中の出馬の意思が高いことを踏まえて、第一回目の投票により二位になった方が決選投票で一位に連合するという「一、二位連合」案が盟約された。


【米国外交機密文書】
 いよいよ佐藤後継レースが議事日程化することとなった。この時の様子について米国務省機密文書は次のように記している。
 「佐藤の後継者選出がそれまでの自民党総裁選と違う理由は、それまでは主流対反主流派の戦いが一般的であったが、今回はほぼ絶対この中から総裁が決まると思われる三人は、全員主流派であり、それだけに後任選びの過程で主流派の結束に永久的な亀裂を生む可能性がある」。

 と認識した上で、総裁候補の福田と特に精緻に田中を、更に大平についてコメントしている。
 概要「基本的には三人の中で誰が総裁になっても、いずれとでも上手くやっていけるだろう。日米関係の行方は、福田が一番良い影響を与えるであろう。大平が一番影が薄い。田中の態度が最も未知数だ。日本の政治家の中では、田中だけが海外との絆を発掘するどころか、海外との接点すら持っていない。彼の素養が最も不明である」。

 以降も特に田中についての驚くほど詳細なレポートを発信し続けている。特徴は、「コンピューター付きブルドーザー」としての能力と政治手法を高く評価しており、為に却ってそうした優秀さを危惧している節のあるレポートとなっていた。

【佐藤首相引退声明後の動き】

 6.17日の佐藤引退声明を受けて、田中派が、議員30名からなる世話人会を発足。福田支持グループが「周山クラブ」を結成。大平正芳氏が総裁選立候補を表明。この頃の角栄の弁に「総理の座はなろうと思ってもなれるものではないし、なりたくないと思ってもやらなければならない事もある」が伝えられている。

 6.18日、佐藤首相が、福田支持工作をはじめる。この頃の6月中旬、ホテル・ニューオータニに衆参両院議員72名が集まり、「田中擁立大会」を開く。若手では衆議院に「きさらぎ会」、参議院に「やよい会」ができた。


【熾烈極める自民党総裁選】
 この時の自民党派閥の内訳は次の通り。合計347議席(衆院287、参院60)のうち、田中派49(衆議院29.参議院20)名、大平派60(44.16)、中曽根派50(30.20)。

 6.17日、アメリカ民主党全国委員会に盗聴器を仕掛けようとした5人が逮捕され、ワシントン・ポスト紙が国防総省の対北ベトナム秘密文書を暴露する(ウォーターゲート事件の発端)。


 6.19日、佐藤首相は、自民党本部の総裁室へ福田と田中を招き、総裁選問題で「君子の争いでやってもらいたい」と要望した。更に、第一回の投票結果により、どちらが1位になろうと「一位協力方式」を提案した。福田は了承し、田中は曖昧に答え言質を与えなかった。


 6.19日、中曽根総務会長が総裁選出馬を見合す声明による田中支持を表明、中曽根派の40票が田中に向かうことになり、田中有利の構図へ拍車がかかった。この不出馬には黒い噂が流れた。田中派から中曽根に7億円の資金が渡り、派内の議員に一人当たり一千万円ずつ配られたと週刊誌に漏洩されている。


 佐藤退陣表明の三日後の6.20日、福田が立候補を表明。

 翌6.21日、田中が総裁選の事務所開きに出席し、正式に立候補を表明。衆議院40名、参議院45名が駆けつけた。林義郎が「十大政策」を読み上げた。角栄の立候補声明は次の通り。
 概要「戦後27年、国内は転換と変革のときを迎えております。私たちは戦後の荒波から立ち上がるために、精一杯働いてきました。そして、短時間のうちに今日の繁栄を確保することができました。汗を流して築き上げた実績は、日本人自らの努力の集積であり、誇り得るものであります。また、経済は量的には十分拡大しましたが、しかし、質的な充実はこれからであります。成長の陰に公害、物価高、過密と過疎、教育の混迷、世代間の断絶など、解決する問題が数多く現れて参りました。70年代の政治には、強力なリーダーシップが求められています。政治家は国民にテーマを示して具体的な目標を明らかにして、日限りを切って政策の実現に全力を傾けるべきであります。私は国民の皆さんと熟慮し、断行します。結果についの責任は、私が負うつもりであります。政治責任の明らかな決断と実行≠フ政治こそ、綿私の目指すところであります。政治責任の明らかな決断と実行の政治こそ、私の目指すところであります。私は日本中の家庭に笑い声があふれ、老いも若きも明日に希望をつなぐことができる社会の建設に、全力を傾けて参ります」。

 同日、三木氏も表明。同日、中曽根が、自派の総会を開き、「総裁選不出馬、田中支持」を正式表明。

 後の9月訪中の際に、周恩来が、「あなたは統一戦線作りの名人ですね」とユーモア交じりに誉めている。仲共から見ると、「岸・佐藤後継のプリンス福田」に対して、非主流、反主流の大平、三木、中曽根勢力を糾合した角栄戦略は、「都市を農村で包囲する毛沢東戦略の自民党版」であった。


 6.23日、参議院に「田中角栄推進会」が結成される。


 6.26(25)日、沖縄県知事選で、革新共闘会議の屋良朝苗氏が当選。


 6.27日、ワシントン・ポスト紙が、米国防総省の対北ベトナム交渉秘密文書を暴露する。


 6.27日、北アイルランドの過激派とイギリス軍が停戦する。7.9日、北アイルランドで、過激派が停戦を破棄する。7.21日、北アイルランドのベルファストで連続爆発事件が起こり、150人以上が死傷する(血の金曜日事件)。7.31日、イギリス軍が北アイルランド全土を制圧する。過激派は徹底抗戦を宣言する。


 6.27日、南ベトナムが、チュー大統領の非常大権を抜き打ちで可決する。


 6.29日午後、中曽根が「田中角栄君を励ます会」に現われ、「キリン児・田中候補」と持ち上げ、将棋の中原名人が「五五角」と揮毫した扇子を贈り、「五五角は、攻めるにも守るにも強い角。ゴーゴー角さん」と激励した。


 7.1日、田中、中曽根、椎名、水田、石井の各派代表が、「田中支持新連合」を結成。


 同日、自民等総務会で、福田系総務が、「中曽根立候補見送りの裏に、田中から中曽根への7億円の献金」を報じた週刊新潮7.8日号記事を採り上げ、中曽根総務会長を攻撃した。叉、この日の総務会で、第1回投票で過半数を獲得した候補が居ない場合、休憩せず、直ちに決選投票に入ることを確認した。


 7.2日、田中・大平・三木の三者会談。毛利松平と金丸信がお膳立てした。「この3人のうち誰が次期総裁になっても、日中復交は今や国論であり、政府間交渉を通じて中国との平和条約を締結することを目標に交渉を行うべきである」との合意が為され、発表された。こうして田中・大平・三木・中曽根派の四派連合が形成され、決選投票での3派「上位協力」の合意が為された。この時、「大角提携」により「どちらが勝っても助け合う」盟約が為されていた。この間、倍々ゲームを地でいくような相当の札束が動いており、後に金権政治批判の伏線となる。


 7.2日、埼玉県知事選で、革新統一の畑和が当選する。


【47総裁公選当時の自民党の派閥分布図】
 47総裁公選当時の自民党の派閥分布図は次の通り。
衆議院 佐藤派 62
大平派 43
三木派 42
福田派 37
中曽根派 34
椎名派 17
水田派 17
石井派 13
園田派 12
船田派
藤山派
旧松村派
無派閥
参議院 清風クラブ 71  佐藤派の福田系。うち他派と重複が5名
大平派 21
三木派 12
春秋会  旧河野系
日本新政策発揚会 10  福田擁立グループ
石井系
椎名系
無派閥

【自民党総裁選】

 7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催された。総裁選の第一回投票結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となった(有効投票476)。この結果、いずれも過半数に達しなかったため上位二人の決選投票になった。再投票の結果、選挙管理委員会委員長・秋田大助が、「田中角栄君、282票」と読み上げた。田中は282票、福田190票、無効4票と、圧倒的な大差で福田赳夫を破って第6代自民党総裁に選出された。

 辛勝で首相の座を勝ち取った角栄だが、佐藤昭子秘書は次のように言っている。直前の出陣式には192名(174名ともある)が出席していたが、総裁選の第一回投票結果は156票で予想より20票少なかった。田中と福田の差は6票、後3人が福田票へ動いただけで同数という結果であった。「改めて政治の世界の冷酷さを思い知らされたようで、政権の先行きに言い知れぬ不安を覚えた」との佐藤昭子氏の回顧が為されている。これに対し、田中は、「盟友大平が三木より下では困るから票を回したけれど、それが多すぎた」と田中は分析した。それから「おいおい、中曽根のところからは、半分も来てないよ」とのことだった、と伝えられている。

 角栄はこの時54歳。戦後最も若い宰相であり、大学を出ていない首相として初、戦前の一兵卒上がりの初首相でもあった。角栄が首相になった意義に戦後歴代首相の帝大卒(石橋湛山のみ私大早稲田卒)の不文律を打ち破ったことも加わる。


 7.5日午後2時、角栄は、自民党総裁として初めての記者会見、続いて新聞各社の政治部長と懇談し、席上、当時最大の懸案になっていた日中問題について、「日中国交回復の時期は熟しつつある。政府間交渉に臨む基本姿勢を検討し、責任をもって対したい」と明言した。日本列島改造案について、「これが行われない限り、公共投資のメリットが低く、インフレになる。公害、物価、都市問題などでは、年次計画を立てて、具体的な青写真を提供する」と語った。

 総理就任直後の財界人会合に出席して挨拶。「私はこのたび、はからずも---」と云いかけて、額の汗をハンカチで拭きながら、次のように言い直している。「いえ、はからずじゃありません。私は全智全能を傾けて総裁の地位を獲得しました」。大きな拍手で迎えられた。

【新聞社の夕刊速報記事】
 7.5日の夕刊各紙の論調は次の通り。毎日新聞は一面で「自民新総裁に田中角栄氏 決戦で福田氏破る 92票差 三派連合が奏功 最年少の党人派」。二面で「高小卒で天下を取る 人間・角栄」。読売新聞は「野人総裁角さん 浪花節と“電動ブルドーザー”」。

【第64代内閣総理大臣に指名される】
 7.6日、臨時国会召集、佐藤内閣総辞職。衆参両院で第64代内閣総理大臣に指名される。田中は直ちに組閣に着手した。就任直後の記者会見で、「日中関係正常化への機は熟した」と宣言。組閣時に福田派が入閣を拒否、波乱の幕開けとなった。「民族の歴史の1ページを書くつもりで頑張る。働き者の越後もんの名を汚しません」(目白の椿山荘で地元支持者に)の言が残されている。

 福田は、この日の午後田中の来訪を待っていた。「あの日、角さんが会いに来てくれると思っていた。夕方まで待っていたが、遂に現れなかった。あの時、来てくれたら、こんなしこりを残すこともなかったんだよ」と述懐している(大蔵大臣に迎えられたとき)。福田が出向くのは屈服であり、勝者の田中のほうがやってくるのが武士の情けという美学。気配りの良い田中にしては落ち度となった。この後手違いも含めて様々なすれ違いが発生し、田中と福田の対立は昂じていくことになる。

【首相就任時の評価】

 朝日新聞論調「いま田中首相の登場を迎えて、変化への予感と期待がよみがえろうとしている」。同社説(47.7.7)

 「長い間国民の多くは政治に変化を期待することの空しさを感じてきた。しかし、今田中首相の登場を迎えて、変化への予感と期待がよみがえろうとしている。新首相が持つ、内外の情勢に敏感に反応する若さの可能性や、門閥や学閥と無縁の庶民的個性が、今度の新首相登場に、単なる政権担当者の交代にとどまらない政治一新の新風を吹き込むものとして期待させる」。

 読売新聞論調「野人総裁角さん、浪花節と電算ブルドーザー▲。同社説(47.7.6)

 「田中角栄氏が自民党の新総裁に選出された。田中氏は新潟県の片田舎の生まれで、さしたる学歴も無い。15才で裸一貫東京に出てから、住み込みの店員、書生などを振り出しに、天賦の分の才幹と努力と、旺盛な行動力によって今日の地位へ驀進してきたといってよい。こういう経歴で政権の座にのし上がった人は、戦前戦後を通じてほかにない。54才という若さも、また異例である」。

 毎日新聞論調「高小卒で天下を取る」。同社説(47.7.6)

 「」。

 田原総一朗論文

 「戦後、吉田茂以来、石橋湛山という例外を除いては、全て東大、京大など旧帝国大学を卒業して、中央官僚を経たエリートたちが首相の座を独占してきた。大野伴睦、河野一一郎のように下馬評は高かった政治家も、党人派は首相にはなれなかった。それを、田中角栄は、小学校卒で学閥も閨閥もなく、直前首相の佐藤栄作が強烈に反対していたのに、なぜ首相の座を奪取しえたのか」。

 母フメの言葉。
 「アニに注文なんて、ござんせんよ。人さまに迷惑をかけちゃならねぇ、この気持ちだけだな。これだけありゃ、世の中、しくじりはござんせん。他人の思惑は関係ねぇです。働いて、働いて、精一杯やって、それでダメなら帰ってくればええ、おらは待っとるだ」。
 「人様は人様。迷惑にならねぇことを、精一杯働くことだ。総理大臣がなんぼ偉かろうが、そんなこと関係しません。人の恩も忘れちゃならねぇ。はい、苦あれば楽あり。枯れ木に咲いた花はいつまでもねえぞ。みんな定めでございますよ。政治家なんて、喜んでくれる人が7分なら、怒ってくれる人も3分はある。それを我慢しんきゃ。人間、棺おけに入るまで、いい気になっちゃいけねぇだ。でけえことも、ほどほどだね」。
(私論.私見) 角栄の自民党総裁、首相就任考
Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評212 2006/09/12
 【「1971自民党総裁選」考】

 2006年の史上最貧困な自民党総裁選に辟易するにつけ、角栄選出時の総裁選に思いを馳せた。角栄はその時、福田、大平、三木と争った。中曽根は降りた。本命は福田とされていた。

 7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催された。総裁選の第一回投票結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となった(有効投票476)。この結果、いずれも過半数に達しなかったため上位二人の決選投票になった。再投票の結果、選挙管理委員会委員長・秋田大助が、「田中角栄君、282票」と読み上げた。田中は282票、福田190票と、圧倒的な大差で福田赳夫を破って第6代自民党総裁に選出された。

 7.6日、臨時国会召集、佐藤内閣総辞職。衆参両院で第64代内閣総理大臣に指名され、直ちに組閣に着手した。就任直後の記者会見で、「日中関係正常化への機は熟した」と宣言。組閣時に福田派が入閣を拒否、波乱の幕開けとなった。「民族の歴史の1ページを書くつもりで頑張る。働き者の越後もんの名を汚しません」(目白の椿山荘で地元支持者に)の言が残されている。

 新聞各社は、角栄の首相就任を次のように評価している。朝日新聞社説(47.7.7)は次のように述べた。

 「長い間国民の多くは政治に変化を期待することの空しさを感じてきた。しかし、今田中首相の登場を迎えて、変化への予感と期待がよみがえろうとしている。新首相が持つ、内外の情勢に敏感に反応する若さの可能性や、門閥や学閥と無縁の庶民的個性が、今度の新首相登場に、単なる政権担当者の交代にとどまらない政治一新の新風を吹き込むものとして期待させる」。

 読売新聞社説(47.7.6)は次のように述べた。

 「田中角栄氏が自民党の新総裁に選出された。田中氏は新潟県の片田舎の生まれで、さしたる学歴も無い。15才で裸一貫東京に出てから、住み込みの店員、書生などを振り出しに、天賦の分の才幹と努力と、旺盛な行動力によって今日の地位へ驀進してきたといってよい。こういう経歴で政権の座にのし上がった人は、戦前戦後を通じてほかにない。54才という若さも、また異例である」。

 (私論.私見) 角栄の自民党総裁、首相就任考

 角栄の自民党総裁、首相就任は、次の点で画期的であった。1・54歳という若さは戦後最も若い宰相であった。2・大学を出ていない首相としては初めてであった。同時に3・戦後歴代首相の帝大卒(石橋湛山のみ私大早稲田卒)の不文律を打ち破った。

 ここまでは一般に評されているところであるが、れんだいこは、もう一点挙げる。それは、角栄が、戦時中一兵卒に過ぎなかった者が首相に辿り着いた稀有な事例であるということに注目したい。このことは本来大きな歴史的意味があるのではなかろうか。

 角栄までの戦後歴代の首相を通覧して見えてくることは、角栄ただ独りが「戦時中一兵卒」のいわば百姓であることである。このことは、「存在が意識を決定する」とする唯物弁証法に従えば、角栄が、「戦前の一平卒の眼」で戦後社会を捉え、その舵取りに誤りなきを期す政治を心中に期していた可能性を示唆する。角栄のハト派政治の真髄はまさにこの辺りにあったのではなかろうか。

 れんだいこは、角栄こそは、戦後日本の憲法秩序に内在しているプレ社会主義的秩序をそのままに認識し、受け止め、実践した稀有なる在地型社会主義の指導者足りえていたとみなしている。角栄と同盟した大平もまた百姓のせがれであった。鈴木善幸然り。彼らは共通して下手にイデオロギーに染まらずに、保守権力地盤に立って在地型社会主義政治を実践していった。これは史上例のないもので、もっと評価されて良い。

 これに噛み付いたのが、エセ左翼の社共特に日共の宮顕ー不破ラインであった。いまだにその反革命理論に汚染されているサヨが反角栄を唱えては左派ぶっている姿は嬌態である。れんだいこはかく判じている。

 ところで、戦後政治家の中で、「憲法改正、自主防衛」を唱える者のその多くは、中曽根に典型的なように戦時中は高級将校である。あるいは官僚である。当然ながら彼らは戦争の現場を知らない。つまり悲哀を知らない。御身を常に安全区に置いたまま戦後を迎えた。その精神は安逸である。そういうせいであろう、戦後になってまたぞろ国防論者になりさがっている。

 あるいは2世、3世政治家も又然りで、戦争の現場の悲哀を知らない。一兵卒の眼を持たない。現代世界を牛耳るネオ・シオニストに媚を売り、立身出世権力と金力を得ようとしてシナリオ通りの請売り防衛論を合唱する。反戦平和理論及び運動を観念的と批判して得意がっている。

 れんだいこが逆批判しておく。平和の尊さは実在的なもので観念的ではない。国家予算の中に占める軍事費を次第に増やしていくことこそ観念的で、小泉政権による軍事費を水道の如くに出しっぱなしにする政策こそ観念的で、これを止めずにやれ増税だ財政危機だと煽ることこそ観念的ではないのか。イラク派兵自衛隊の無事生還に安堵するのは良いとしても、一体いくら無駄ゼニ使ったんだ。その天文学的金額を公開せよ。こうしたことに政治責任をとらなくて済ませる政治手法こそ観念的ではないのか。

 その点で、「一兵卒首相」たる角栄の政治史的意義は高い。このことが評価されていない政治学は凡庸過ぎよう。かの時代、未曾有の国力発展をもたらした。角栄政権が後数年続いておれば、日ソ国交回復、日朝国交回復までやり遂げていたかも知れない。イフは禁物なので後の弁は差し控える。

 その角栄を葬ることに極端に手を貸した日共指導部の政治反動性は許しがたい。エセサヨを党中央にするとこういうことが起る。れんだいこ研究に拠れば、徳球ー伊藤律ラインの党中央ならこういうバカな指導はしなかったであろう。しかしいけない。そういう徳球ー伊藤律ラインに対して、新旧左翼が共通して袋叩きして今日に至っている。肝腎なところが全て逆さに評されている。これではいくら学んでも、学べば学ぶほどバカになる。

 2006.9.12日 れんだいこ拝

【太田龍・氏の指摘】
 太田龍・氏は著作「ユダヤ問題入門」(泰流社、1994.1.20日初版)は24Pで、角栄首相誕生を次のように評している。
 「戦後の日本の総理大臣で、唯一人、ユダヤの支配に抵抗したのが、田中角栄でした。角栄氏は対米従属から脱却する展望を企てて、日中回復に踏み切り、大東亜共栄圏の再興に進出しようとしたのですが、その途端、ユダヤの仕掛けた、文芸春秋誌の田中金脈暴露、ロッキード事件の陰謀が爆発して失脚しました。

 角栄氏は、小菅の東京拘置所から保釈で出所した直後、『ユダヤにやられた!』と、腹心の子分達に叫んだ、と伝えられています。金丸信氏や、竹下登氏はユダヤに抱きこまれて、親分の角栄を裏切った人たちです。敗戦からこのかた、日本の首相で、ユダヤの意思に反して、総理大臣の座を獲得したのは、田中角栄ひとりです。他の全ての首相は、ユダヤと、その道具である、フリーメーソンによって指名され、捜査されているのです。

 つまり、首相の任命は、日本の国民とは無関係なところで、闇の中のユダヤ地下政府によってなされるのです。いくらお人よしの日本国民でも、日本民族の見えないところで行われる時刻の首相選びに、白けざるを得ないでは有りませんか。自民党の政治家達は、心の中では、アメリカに刃向かえば、角栄氏のようにスキャンダルで葬られることを恐れています」。

【麓邦明と早坂茂三の両秘書の辞任騒動】
 角栄が総理就任直前の頃、日本列島改造論を書き上げることに尽力した麓邦明と早坂茂三の両秘書と「政商・小佐野、金庫番・佐藤」を廻る次のようなやり取りが遺されている。
秘書 「オヤジさん、話がありま」。
角栄 「なんだ。話してみろ」。
秘書 「小佐野賢治さんと今のうちに手を切ってください。これから総理を目指すという折、福田は必ずこの部分を狙ってくるでせう」。
角栄 「心配するな」。「政治にはカネがかかる。酢だコンニャクだと理屈をこねても始まらない。池田や佐藤も危ない橋を渡ってきた。きれいごとではすまないんだ。必要なカネは、俺が血のしょんべんを流してでも作る。君らはただそれを仕事に活かしてくれ」。
秘書 「佐藤さんを政治の場から遠ざけてください」。
角栄 「無理だ。君たちにも分からない事情が色々あるんだ。まぁ君たちの父親がとんでもない荷物を背負い込んでしまったと思って、ここは諦めてくれ」。
秘書  
角栄  涙を流しながら次のように語った。「もう俺についてこれないということだな。お前達の言うことは良く分かる。しかしな、この俺が長年の友人であり自分を助けてくれた人間を、これからの自分に都合が悪いというだけの理由で切ることができると思うか。自分に非情さがないのはわかっている。だが、それは俺の問題だ。自分で責任を持つ。責めは自分で負う」。

 麓邦明と早坂茂三の両秘書が、かく「オヤジ、小佐野さんと佐藤昭さんを、この際切ってください」と談判している。小佐野は政商として、佐藤は金庫番として、これまで田中と奥深くまで繋がっていたが、首相となった時点で田中政権のアキレス腱になることを憂えたからであった。田中は両秘書の申し出を拒否した。辞表を胸に直訴した以上、ケジメをつけねばならない。麓が、「君まで辞めたらオヤジが困る」と説得し、早川が浮けいれた。早坂は残り、麓は去った。




(私論.私見)