田中角栄の能力、思想、人となり |
更新日/2018(平成30).11.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「田中角栄の能力、思想、人となり」を確認する。別章【田中角栄語録、逸話】(「田中角栄語録」、「田中角栄演説」)と合わせて噛み締めたい。 2010.12.9日再編集 れんだいこ拝 |
(れんだいこのショートメッセージ) | |||||||||
角栄について、当時の政治評論家にして率先的な角栄ファンであった戸川猪佐武氏は、角栄を次のように評している。
岩見隆夫毎日新聞記者は、「あのマスク、あのダミ声、あの語り口、あのせっかち、あの強引さ、とにかく全てがしみじみとなつかしい」と回顧している。後藤田正晴氏は、次のように述べている。
他にも次のように評されている。
いろんな風に言われているが、まさに角栄はそのような御方であった。角栄には、現代の我々が失っている「体を張って諸事対処し、責任と決断と実行力を掲げる『原日本人の典型』」がある。
23年間角栄の秘書として行動を共にしてきた早坂茂三氏は、名著「政治家田中角栄」のあとがきで、次のように述べている。まことに味わい深い。
佐藤昭子は、「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」の中で次のように述べている。
2006.1.5日再編集 れんだいこ拝 |
◎・学歴は低かったが東大卒官僚が舌を巻くほどの有学の人であった。 |
角栄は自他共に「無学」と認めているが、文字通りに受け止めてはいけない。「無学」の意味は「大学歴がない」であって「学がない」と云う意味ではない。ここを勘違いしている評が多過ぎる。角栄の学の深さは、東大閥官僚が束になっても勝てなかった。それは、官僚が持ち込む書類に目を通し、これを質疑する遣り取りの過程で明らかになった。官僚は的確な理解と飲みこみの早さに感心させられた。同時に打ち出す指示が適切であり、官僚の方がむしろ教わること頻りであった。これが、角栄が大臣となって職掌した官庁の一般的な風景であった。これを思えば、「角栄の金権に籠絡された官僚説」ほど事実を捻じ曲げたものはない。このことをしっかりと踏まえる必要がある。角栄以前以後、官僚が持ち込む書類を読む能力さえない首相が多い中、「無学の角栄」が完璧に修得していた経営能力、政治能力、その思想の高みを正確に認めるべきであろう。 しかし、この現象はどういう意味だろうか。これを理解するには、れんだいこの注釈が必要となる。恐らく、れんだいこ以外にこの「不思議秘密の扉」を開けられる者はいないだろう。以下、開陳しておく。 角栄は尋常高等小学校で「読み書きそろばん」の最低限必須知識を得るや、後は実社会の中で生活に有用になる実学を身につけて行った。ところが、当時の中学、高校、大学へと上級進学した者は、上級へ行け行くほど濃厚になる虚学ばかりを身につけて行った。「高等教育の虚学性」は専ら戦後世界を支配するネオシオニズム系の学問に依拠していることに拠る。その最終学歴である大学、その頂点に東大が位置し、大学秩序を形成している。それらの卒業生は、口先ばかり達者になる虚学を身につけることにより学んで却って無能の人になる。その対価として身分を保証されていた。この学歴者が無意識的なネオシオニズム支配の取り巻きとなる。これが学歴社会の秘密である。角栄は上級進学しなかった不幸により実学を身につける幸福に与ることができたが、幸いなことに虚学を身につけることがなかった。東大罰の官僚がたまげたのは角栄の実学の深さであり、そのことが新鮮だった。これが、官僚が角栄に靡いた秘密である。れんだいこは、そういうことではなかろうかと拝察する。立花隆などは金権力で篭絡したなどと頻りに吹聴しているが、飯が食える、金もある、権力も地位も名誉もある官僚が、今さら金を掴まされて転ぶなどと云うのは下種な与太話以外の何者でもない。 この解説に補足しておけば、それでは角栄のそもそもの地頭の良さ、その質の高さに触れざるを得ない。これを説くには日本古代史の秘密に遡らなければならない。その論証は紙数を増すので省く。結論を言えば、日本古代史上の最大政変である出雲王朝の国譲りの際、出雲王朝派は表向きの政権を外航族に譲り、代わりに非政治権力的な圏内で生息することが許された。こうして出雲王朝派の大勢の有能士が各界で活躍しながら世々を連ねて今日に至っている。それらは全て出雲王朝御代に於いて頭脳の原基が形成されていたことによる。この頭脳は日本語の秀逸さに象徴される如くに世界に通用しており、日本の誇る無体財産となっている。角栄も間違いなくこの系譜の有能士である。その角栄の能力が産業界へ出ればどう通用したか、政界へ転ずればどう通用したか、その外交能力が世界でどう通用したか、これが本来の角栄論である。今までは、指弾する手前の映し鏡でしかない金権論で批判され続けて来ているけれども。 2010.12.9日、2018.11.12日再編集 れんだいこ拝 |
◎・学閥、門閥、閨閥何一つ持たずの徒手空拳の角栄であった。それを正々堂々克服する能力を磨いていた。 | |
1964年、44才で大蔵大臣に就任した角栄は、時間、局長以下、大蔵省の幹部を前に次のような挨拶をしている。
角栄は、後ろ盾を持たない裸一貫の成り上がり居士であった。その人物が一国の首相の座に上り詰め、世界と丁々発止で渡り合ったという稀有な歴史を遺している。このような事例は、日本史上の快挙として評されるべきであろう。 |
◎・率先垂範の人であった。 |
角栄の率先垂範は生来の気質で、実業時代も政界に入ってもそうであった。何事も常に自分が体を張って手本を示すことで周囲を引っ張って行き、要所では全力投球であった。してみれば、リーダーシップの要諦をマスターした人であったということになる。 |
◎・その類稀なる能力と人間洞察力、人心収攬術は他の追随を許さないものであった。 | |
角栄は、「ワカッタの角さん」と云われたくらい速断の人であった。問題の急所を捉える呑み込みが早く、タイミングを外さなかった。須らく機先を制する術を得ており、先手必勝作戦であった。人情の機微に通じており、「泣かせる男」であった。佐藤栄作が側近に次のように語っている。微笑(ほほえ)ましい逸話である。
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◎・練成された判断で即断即決を下し、その判断を誤らなかった。一種霊能者的なものがあった。 |
◎・判断の的確さ、抜群の決断力、行動力、事に処して常に責任を引き受ける態度が充満していた。 |
◎・角栄は人の悪口を言わず、恩着せがましい態度を極力とらなかった。 | |
角栄は、ロッキード事件渦中の政局の中で時局を憂い、次のように述べている。
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◎・角栄は本当に誇り高く、誠実な人間だった。 | ||
長年政治活動を共にした佐藤秘書は、角栄の生き様を次のように語り評している。
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◎・角栄の付き合った女性は最後まで信服していた。 | ||
角栄の女性関係はそれなりにあったようであるが、得意然の時から失脚に至ってもその信服は変わらず、誰一人として悪くいう者が出なかった。
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◎・角栄は、原日本人とでも云うべき感性と責任感の篤い人物であった。 | |
角栄は、原日本人とでも云うべき感性と責任感の篤い人物であった。特に、冠婚葬祭を大事にしていた。次のように語っている。
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◎・角栄は、筆を持てば天下一品、端正で勢いのある字を書く能筆家であり且つ自筆文をモットーにしていた。 |
後に幹事長、蔵相などの激務のさなかでも、可能な限り自ら筆をとった。やむを得ず代筆させるときでも、出来上がった原稿に、納得のいくまで赤筆を入れた。簡単なインタビューでも、口述がそのまま原稿になるよう配慮する。その文体は、簡潔な散文調である。 |
◎・角栄には単純・明快・直裁な人生哲学があった。 |
自伝「わたくしの少年時代」の巻頭ページには、「一、人を信ぜよ、二、自信を持って行動せよ、三、責任は絶対に回避しない」と自筆で書かれている。これが角栄の思想であり行動哲学であったのではないかと思われる。 |
◎・角栄の政治哲学は哲人的風貌があった。 | |
角栄の秘書・早坂氏は次のように証言している。
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◎・角栄は責任から逃げず、人に転嫁せず、自ら真っ向から解決していった。 | ||
次のような逸話がある。
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◎・角栄は約束を必ず守った。結んだ人間関係を極めて大事にした。 | ||
次のような逸話がある。
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◎・角栄の勤労哲学は社会主義的であった。 | ||
昭和48年の総理大臣時の全国勤労青少年会館の開館式での角栄の挨拶はこうである。
次のような言葉も残している。
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◎・角栄は常に、分かりやすい言葉で説明、持って回った言い方を嫌った。 |
◎・角栄の度量 | |
旧中曽根派の若手議員の秘書が次のように証言している。
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◎・角栄の趣味 |
馬主としても有名で、1965年の優駿牝馬優勝馬のベロナ(名義は夫人であったが、実質上は田中自身の持ち馬)や、長女の眞紀子から名を取ったマキノホープ、マキノカツラ、マキノサクラ、マキノスガタなどの馬を所有していた。 |
◎・角栄の愛読書 |
小室直樹の著作を愛読し、高く評価していた。小室はロッキード事件の際「田中無罪論」を展開したが、それ以前からの読者である。 |
(私論.私見)