ロッキード事件証人喚問劇その0、児玉誉士夫

 (最新見直し2015.06.22日)

 これより以前は、【ロッキード事件の概要1-2(事件訴追史)】、【ロッキード事件の概要1-3(日米合同国策捜査発動)】に記す

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2015.06.22日再編集 れんだいこ拝


 「夢幻と湧源」の2009年2月26日付けブログ「ロッキード事件①…アメリカ発の疑惑」が次のように記している。
 闇に消えたダイヤモンド―自民党と財界の腐蝕をつくった「児玉資金の謎」』講談社+α文庫(0901)の著者・立石勝規氏は、もともと新聞記者で、毎日新聞で社会部記者、編集委員、論説委員などを歴任した履歴の人である。上掲書では、ロッキード事件の発端を、自らの体験談として、次のように記述している。

一九七六年二月五日午前一時四○分。毎日新聞社(東京・竹橋)の四階にある編集局は、東京都内と周辺に配達される最終版(一四版)の締め切り時間も過ぎ、ほっとした雰囲気に包まれていた。社会部デスク(副部長)の原田三郎(元毎日新聞論説委員)は、アメリカの通信社UPIから外信部にロッキード事件の第一報を伝える原稿が入っていたのを知らなかった。

 社会部では、突発事件に備えて、毎夜5~6人の記者が宿直していた。最終版の締め切りが終わると、ささやかな「宴会」が開かれる。「お疲れ様、それではささやかに……」というような風景は、毎日がプロジェクトとでもいうべき新聞社では常態であったであろうことは想像に難くない。「宴会」が始まって間もなく、外信部のデスクが、UPIから流れた未翻訳の1枚のテレックスを持ってきた。

<米上院外交委員会の多国籍企業小委員会は四日、公聴会を開き、米ロッキード航空会社が多額の違法献金を日本、イタリア、トルコ、フランスなどで続けていたことを公表した。小委員会が明らかにしたリストによると、数年前から一九七五年末までに七○八万五○○○ドル(約二一億円)が日本の右翼、児玉誉士夫氏に提供されていた。さらに三二二万三○○○ドル(約一○億円)がロッキード社の日本エージェントの丸紅へ支払われている>

 どういうことか? 右翼として名を知られていた児玉誉士夫が、ウラの顔としてロッキード社の秘密代理人になり、巨額の報酬のもとに、航空機の売り込み工作を行っていたということである。この時点で、最終版の輪転機は既に回り始めていたから、朝刊には間に合わない。原田は、一面トップ級のニュースだと直感した。果たしてライバル紙(朝日、読売)は、朝刊でこの記事をどれだけの大きさで扱っているか?心配で、原田は帰宅せずに会社に泊まった。幸いにして、朝日は二面の扱いで、五段の記事だった。原田は、内心「助かった」とホッとした。

 国税庁記者クラブは、原稿の材料はほとんどが発表物だったので、特ダネ競争のない「仲良しクラブ」で、サナトリウム(療養所)と呼ばれていた。当時の毎日新聞国税庁記者クラブを担当していたのは、田中正延、通称ショウエンという記者だった。田中は遊軍の愛波健から、電話でロッキード問題が、税務上の処理の問題として表面化する可能性を示唆された。田中は、個人所得税を管轄している直税部の担当者に、何が問題なのかを確かめた。答は、ロッキード社資金について、児玉が税務署に申告しているかどうか、ということだった。

 ロッキード事件が、児玉の脱税の可能性からスタートしたことにより、国税庁記者クラブは、サナトリウムから地獄の三丁目に変じた。一丁目は、無数の事件に追われる警視庁記者クラブ。二丁目は、超大型事件を摘発する東京地検特捜部を担当する司法記者クラブ。三丁目は、両記者クラブよりつらい、地獄の行き止まりの意味だという。

 児玉誉士夫は、東京地検特捜部が、戦後狙い続けていた人物だった。毎日新聞の司法記者クラブのキャップ・山本祐司は、検事から、児玉の逮捕は国会議員20人の逮捕に匹敵する、と言われていた。二月五日の毎日新聞の夕刊の一面トップは、ロッキード事件の第一報だった。紙面の2/3を割いて、「ロッキード社が“ワイロ商法”」「エアバスにからみ48億円」「児玉誉士夫氏に21億円」などの大見出しだった。朝日新聞も、一面トップの扱いだった。両紙とも、児玉の顔写真を載せていた。この段階で、事件の中心人物が児玉であることを示すものだった。

 東京国税局査察部には、昭和24(1949)年の発足以来、各界主要人物の資産に係わる膨大な資料が蓄積されている。その中で、政界、財界、闇社会などの主だった人物が所有する株、金融債、資金源、預金口座などのカネの動きを記録した極秘ファイルは「特別管理事案」にまとめられ、その中でさらに重要人物が抜き出されて「特別管理A事案」として保管されていた。「Aファイル」と呼ばれるものである。児玉誉士夫の資産資料も、「Aファイル」として保管されていた。

 「夢幻と湧源」の2009年2月27日付けブログ「ロッキード事件②…東京国税局の児玉誉士夫に関する「Aファイル」」が次のように記している。
 立石勝規『闇に消えたダイヤモンド―自民党と財界の腐蝕をつくった「児玉資金の謎」』講談社+α文庫(0901)によれば、毎日新聞の国税庁記者クラブの田中正延は、東京国税局長の磯辺律男と面会し、児玉の所得の申告額を尋ねた。磯辺は、後に国税庁長官を経て、博報堂の社長に迎えられている。東大法学部を出て大蔵省に入り、国税庁への出向期間が長かった。国税庁では、マルサの元締めの査察部査察課長、大企業の税務調査を担当する調査部と査察部を束ねる調査査察部長等を歴任し、国税庁のトップに就任した。

 磯辺は、政治家が登場する脱税事件を多く手がけてきた。池田勇人と佐藤栄作が激突した1964年の自民党総裁選で、池田派の資金作りに関係した吹原産業・森脇文庫事件(1965年)、国会のマッチポンプとして名を馳せた田中彰治事件(1966年)、中曽根康弘の有力スポンサーだった殖産住宅会長・東郷民安脱税事件(1973年)などで、いすれも児玉が登場していた。

 事件の入り口が児玉の脱税摘発と判断した記者たちは、磯辺に資料の提出を迫った。もちろん、守秘義務があるので、簡単に資料を出すわけにはいかない。しかし、磯辺は、しゃべれないにしても嘘はつかないことにしていた。磯辺は記者たちに、「細かな資料は持ち合わせていません」と答えた。田中正延は、この時の様子を「『ない』とも『出せない』とも言わないのである」と書いている。

 地検特捜部と国税庁査察部は、ともに児玉を狙っていた。査察部は、強制調査権を持っていた。家宅捜索までに、1~2年の内偵が極秘に行われることも多い。しかし、査察部には逮捕権がないので、調査を終えると東京地検特捜部に告発する。もなく、査察部単独で立ち向かうには、相手が大物過ぎると思われた。査察課長や調査査察部長を歴任していた磯辺は、東京国税局査察部の「Aファイル」の中に、児玉の資料があることを知っていた。

 「Aファイル」には、児玉が北海道拓殖銀行の東京・築地支店に無記名の口座を持ち、4億円を預金していることを示す資料が含まれていた。児玉の無記名口座を確認すると、磯辺は国税庁長官から児玉の税務調査に入ることの了解を得るとともに、東京地検特捜部長に、児玉の無記名口座の存在と、内偵に入ることを伝えた。査察部と特捜部が、児玉の自宅と拓銀築地支店を脱税(所得税法違反)の疑いで家宅捜索したのは、2月24日のことで、アメリカから第1報が届いてから、僅か19日後のことだった。

 児玉の無記名口座から、2億円が引き出されていた。査察部が追跡すると、児玉は、2億円で日本不動産銀行(後の日本債券信用銀行、現在はあおぞら銀行)の割引金融債の「ワリフドウ」を購入していた。割引金融債は、無記名でも購入が可能で、脱税の温床になっていた。また、マネーロンダリング(資金洗浄)に利用されることも多い。無記名の割引金融債でカネの流れを消し、その後現金化して、スイスの銀行の口座等に送金するという手口である。

 児玉の「Aファイル」には、ロッキード社のコンサルタント料以外の資料も含まれていた。児玉が脱税に問われたのは、1972年~1975年の4年間の所得である。所得は、事業所得と雑所得に分かれている。事業所得の17億円が、ロッキード社からのコンサルタント料であり、雑所得の8億7000万円が株買い占めや企業の内紛を解決した謝礼としての「調停料」だった。

 調停料は、河本敏夫(元通産相)のジャパンライン株買い占め事件(1972~73年)、東郷民安殖産住宅会長追放事件(1973年)、昭和石油の内紛(1973年)、横井英樹の台糖株買い占め事件(1974年)などを解決して得た報酬であった。児玉は、この報酬を申告していなかったが、東京国税局は秘かにキャッチして「Aファイル」に残していた。

 「夢幻と湧源」の2009年3月 2日付けブログ「ロッキード事件③…児玉が秘匿していたダイヤモンド」が次のように記している。
 東京国税局査察部の「Aファイル」にある児玉誉士夫の資料には、ロッキード事件以外の記録も収められていた。立石勝規『闇に消えたダイヤモンド―自民党と財界の腐蝕をつくった「児玉資金の謎」』講談社+α文庫(0901)は、膨大なロッキード事件・児玉ルートの公判記録を解読して、児玉の戦後史における役割を追跡している。ジャパンライン株買い占めをめぐる調停に対する謝礼に関する公判記録の中に、児玉がこの調停で、現金2億100万円と東山魁夷の日本画「緑汀」(1600万円相当)と黄金の茶釜(400万円相当)を、ジャパンラインから受け取っていた。

 ジャパンライン株買い占め事件について、Wikipediaの三光汽船の項目(09年1月26日最終更新)から概要を抜粋する。
 1970年(昭和45年)9月末、ジャパンラインの大株主に和光証券(374万株)、三重証券(150万株)が名を現した。半年後の1971年(昭和46年)3月末には和光証券名義の株数は926万株と3倍になり、同社の第7位の株主に躍り出た。さらに半年後の1971年(昭和46年)9月末には、和光証券名義の株式が1,320万株へと増えたのをはじめ、一吉証券160万株、平岡証券120万株など、証券会社名義の株式数が同社の発行株数の4.7%に当たる1,670万株に達した。これらの証券会社の名義を使って株を買っていたのは、同業の三光汽船だった。

 1971年(昭和46年)12月になると、三光汽船はすでに7,000万株(19.7%)を取得したことを通告し、ジャパンラインに業務提携を迫った。三光汽船はその後も同社株を買い集め、1972年(昭和47年)9月末には関係会社の東光商船名義で3,500万株、瑞東海運名義で約2,000万株なども含め、発行株数の41%に当たる1億4,600万株を取得した(買収資金には、度重なる第三者割当増資による資金が充てられたとみられる)。

 三光汽船が迫った業務提携はジャパンラインのメインバンクである日本興業銀行の反対で遅々として進まなかった。当初、三光汽船との提携に熱心だったジャパンラインの岡田修一社長が急死するというアクシデントも加わり、強引な三光汽船のやり方にジャパンライン側が反発し、世間の批判が高まる中で両社はついに1973年(昭和48年)4月24日に和解した。この和解により、三光汽船が1株300円前後で買い集めた株を、ジャパンライン側に1株380円で引き取らせたため、三光汽船は約100億円の売却益を得ることとなった。

 合意した和解内容は、以下の通りである。
 ・三光汽船が保有する1億4,500万株のうち、1,000万株を残してジャパンライン側に売り戻す。
 ・ジャパンライン側の買い取り価格は1株380円とする。
 ・両社は業務提携を進める

 この和解に児玉誉士夫が関与したというわけである。児玉は、調停の決着に協力してくれた野村證券の瀬川美能留会長とそごうの水島廣雄社長に対して、ダイヤモンドで謝礼した。瀬川には5カラット(検察評価額2000万円)、水島には20カラット(同1億円)の指輪だった。検察側資料には、「児玉が戦時中に取得していた」という記載がある。ちなみに、著者の立石氏は、東京都心でカレーライスが300円、ラーメンが250円の時代だったとしている。現在の物価に換算すれば、おおよそ3倍程度ということになるだろう。

 児玉は、野村證券に深く食い込んでいて、毎年500万円の謝礼を受け取っていたという。端的にいえば、癒着していたということだ。野村グループによる石井進・元稲川会会長への株買い占めのための巨額資金の提供や総会屋・小池隆一への利益供与事件の上流に、児玉と野村證券との癒着があった、と立石氏は書いている。

 瀬川も水島も、このダイヤモンドの取得を所得として申告していなかった。もともと表沙汰にできない性格のものだったから当然である。査察部はダイヤモンドを押収し、瀬川と水島に課税した。瀬川は納税したが、水島はカネがないと応じなかった。水島のダイヤモンドは、東京地裁で競売にかけられ落札された。落札したのは、ある宝石商だった。落札価格は2000万円だった。この落札を仲介したのは、東京国税局の磯辺律男自身だった。水島へのダイヤモンドは、児玉が奥さんへのプレゼントとして無理矢理渡したものだった。児玉に突き返すわけにもいかず、水島が知り合いの弁護士を通じて磯辺に相談し、磯辺は相手が児玉で返却できなかった事情を勘案して物納を認めた。宝石商に2000万円で落札することを依頼したのも磯辺だった。

 落札額の2000万円が、水島の所得に認定された。当時の所得税の最高税率は70%で1400万円、これに2年あまりの延滞税と過少申告加算税と住民税を加算すると、ちょうど2000万円程度になる計算だった。水島は、日本興業銀行出身で、「そごう」の社長を1962年から32年間にわたって務め、その後会長に就任している。拡大路線の結果として、2000年に「そごう」は破綻した。

 「夢幻と湧源」の2009年3月 2日付けブログ「ロッキード事件④…背後にある闇」が次のように記している。
 「ロッキード事件」が発覚したのは、昭和51(1976)年2月5日であった(09年2月26日の項)。もう33年も前のことになる。昭和50(1975)年12月27日から始まっていた第77回通常国会は、「ロッキード事件」の真相究明を巡って与野党が激しく対立し、後に「ロッキード国会」と呼ばれるようになる。平野貞夫『ロッキード事件「葬られた真実」』講談社(0607)は、当時衆議院議長・前尾繁三郎の秘書だった著者が、自身のメモをもとに、著者の思うところの「真実」を明らかにした著書である。
奥付の著者略歴を見てみよう。

1935年、高知県に生まれる。1960年、法政大学大学院社会科学研究科政治学専攻修士課程修了。この年、衆議院事務局に就職。1965年、園田直衆議院副議長秘書、1973年、前尾繁三郎衆議院議長秘書。委員部総務課長、委員部部長などを経て、1992年退官し、同年の参議院議員選挙に出馬。自由民主党、公明党の推薦を受け高知県選挙区で当選し、その後、自由民主党に入党。1993年に新生党、1994年に新進党、1998年に自由党の結党に参加。2003年民主党に合流、参議院財政金融委員長に就任。2004年、政界を引退。議会政治の理論と国会法規の運用に精通する唯一の政治家。著書には『小沢一郎との二十年』『自由党の挑戦』(以上、プレジデント社)、『亡国』展望社、ベストセラーになった『日本を呪縛した八人の政治家』『昭和天皇の「極秘指令』『公明党・創価学会の真実』『公明党・創価学会と日本』(以上、講談社)などがある。

 上記の履歴を見れば分かるように、国会のオモテとウラを最も良く知っている人、ということになるだろう。私などは、報道によってしか窺い知れない世界である。「ロッキード国会」では、11年ぶりという証人喚問が行われ、マスコミの報道も過熱した。国会の会期終了後の7月27日、田中角栄前首相が、東京地検に逮捕された。前首相の逮捕という事態は、日本政治史上空前のものであった。田中角栄逮捕で、自民党の暗部に検察のメスが入ったのだろうか?

 平野氏は、次のように言う。「あの国会で、誰もロッキード事件の真相を解明しようなんて考えていなかった」。どういうことか?首相の三木武夫は、政敵の田中角栄を追い落とすチャンスだとスタンドプレーに終始して、真相究明を蔑ろにした。田中角栄自身を含む自民党主流派は、右往左往するばかりだった。野党は、間近に迫る総選挙を有利にすることしか考えていなかった。検察は、「誰でもいいから大物政治家のクビをあげる」ことに突っ走っていた。

 平野氏は、誰もがロッキード事件の背後に隠された「闇」から目を背けつづけていた、という。その本筋とは何か? 日本は、昭和20(1945)年8月15日の敗戦から、昭和27(1952)年のサンフランシスコ講和条約発効までの約7年間、外国によって占領されるという史上初めての体験をした。その間も、それ以降も、日本の政治は、多かれ少なかれ、外国の(特にその諜報機関の)影響を受けてきた、というのが、平野氏の時代認識である。

 自由民主党が結成された自由党と日本民主党の保守合同では、結党資金にCIAの資金が流れた。社会党への国会対策費や総評への懐柔資金としてもCIA資金が流れ込んでいた。中国ロビーを通じて中国共産党の資金も入っていたし、日本共産党はソ連からも資金提供を受けていた。ロッキード事件で、児玉誉士夫の名前が真っ先に登場したのは、そういう実態の中でのことであった。児玉は、CIAのエージェントだった、と平野氏は言う。

 児玉が、フィクサーと呼ばれ、日本の政界に暗然たる影響力を持っていた事実こそ、日本の政界の「闇」であった。平野氏のいうロッキード事件の解明とは、外国の諜報機関によって政界が汚染されてきたという事実、それを明らかにするということである。それは、日本の政治が「真の独立」を果たすチャンスだった。

 だから、ロッキード事件における最も重要な案件は、「児玉誉士夫ルート」の解明のはすだった。ロッキード社から、同社ののエージェントでもあった児玉にカネが流れ、防衛庁が国産化も視野に入れていた次期対潜哨戒機として、ロッキード社のP3Cオライオンが導入され、児玉には21億円もの賄賂を得た。それがロッキード事件の本筋だったはずである。しかし、実際には、脇道の「全日空ルート」ばかりが取り上げられ、田中角栄という大物の逮捕で幕引きが行われ、日本の政界が抱えていた「闇」は、解明されないまま、さらなる漆黒の闇の中に閉ざされた。

 「夢幻と湧源」の2009年3月 2日付けブログ「ロッキード事件⑤…児玉誉士夫の証人喚問」が次のように記している。
 昭和51(1976)年2月5日の未明、アメリカの通信社UPIからロッキード事件の発端となる第1報が届き、5日の夕刊には、児玉誉士夫に渡したカネの一部が「日本政府当局者に対して使われた」とロッキード社の公認会計士が明言したことが報じられた。その当時の国会は、衆議院は自民党が圧倒していたが、参議院は与野党伯仲していた。しかも自民党の中は、金権批判を受けて田中角栄が退陣を余儀なくされ、副総裁・椎名悦三郎の裁定で、三木武夫が政権を継いでいた。田中派を中心とする主流派は、金権批判のほとぼりが冷めるであろう秋口の解散によって、政権への返り咲きを狙い、三木首相は、政権延命を第一に考え、予算成立後に解散に打って出ると揺さぶりをかけていた。何やら、33年後の現在と余り変わらないかのような状況だったといえるだろう。

 ロッキード事件のような疑獄事件は、政権与党に不利に働くはずである。しかし、この時の自民党幹事長は中曽根康弘で、児玉誉士夫の秘書をしていた太刀川恒夫は、かつては中曽根の書生をしていたことがあった。つまり、児玉に最も親しい政治家が中曽根であることは周知の事実だった。ロッキード社から賄賂を受け取った「日本政府高官」として、中曽根に疑いの目が向けられたのは当然のことであった。政権の要の幹事長が事件にかかわっているとすれば、内閣崩壊も起こり得る。政権延命に固執する三木首相が、どこまで事件を追求するか。あるいは、ロッキード社は、イタリア、トルコ、フランスなどにも同様の賄賂を贈っており、外交問題に発展する可能性があって、アメリカの出方も不透明だった。

 2月6日の衆院予算員会では、すべての審議がロッキード事件がらみとなった。三木首相は、野党の追及に対して、「日本の政治の名誉にかけても、この問題を明らかにする必要がある」と、野党の、あるいは世論の望む通りの回答をした。つまり、中曽根幹事長によって政権に傷がついても、田中角栄を潰そうというスタンスに立ったのだった。この首相発言を受けて、野党は証人喚問を要求した。この時点で、田中角栄はロッキード社との係わりを前面否定、中曽根幹事等は「ノーコメント」で通していた。予算委員会の審議終了後、ロッキード社のアーチボルト・コーチャン副会長が、「小佐野賢治、檜山広丸紅会長、大久保利春丸紅専務らが関わっていた」と発言したことが伝えられた。小佐野賢治は、田中金権批判の祭に、「刎頚の友」として登場した人物だった。

 2月8日は、日曜日だった。公務員住宅で過ごしていた平野氏のもとに、朝日新聞の記者から、中曽根幹事長と宇野宗佑国対委員長が、三木首相の要請を受けて、証人喚問に応ずることにした、という電話が入った。中曽根幹事長は、証人喚問に積極的だという。週末に何があったのか?

 喚問されるのは、児玉誉士夫、小佐野賢治、檜山広、松尾泰一郎(丸紅社長)、伊藤宏(丸紅専務)、大久保利春、若狭得治(全日空社長)、渡辺尚治(全日空副社長)の8人である。この中で、政治家と直結していると見られていたのは、児玉誉士夫と小佐野賢治ということになる。児玉が金銭の授受を否定しても、証人喚問となれば、偽証罪が適用されるので、「中曽根との関係」を否定することはできない。ロッキード事件の主役との深い関係が証明されることによって、自民党は大きなダメージを受けるだろう。また、小佐野賢治は、田中角栄の刎頚の友だから、小佐野と丸紅経由で、田中にカネが渡っているのではないか、と容易に推定される。

 アメリカ上院の多国籍企業小委員会(チャーチ委員長)で、児玉誉士夫は、昭和32(1957)年ごろから、ロッキード社の「秘密代理人」として契約していることが明らかにされていた。第三次防衛力整備計画も、「グラマンかロッキードか」が問題になっておりロッキード社のF104導入に絡んで児玉が関与していたのではないか、と疑われていた。また、昭和47(1962)年に、国産機開発から一転してロッキード社のP3Cの導入に変わった次期対潜哨戒機計画でも、児玉の暗躍が想像された。児玉に渡ったカネは21億円である。現在の貨幣価値に換算すれば、10倍程度と見積もられる。極右として知られていた児玉誉士夫が、アメリカの企業のエージェントとなって、日本の防衛計画に絡んで政治家を動かしていたことが明らかになれば、一大事件である。中曽根幹事長は、どうして証人喚問を承諾したのか?

 「夢幻と湧源」の2009.3.3日付けブログ「ロッキード事件⑥…児玉誉士夫の病状診断」が次のように記している。
 「16日から証人喚問が始まった。トップバッターは、小佐野賢治だった。小佐野は、野党の質問に対して、「記憶にございません」を連発した。「記憶にございません」は、後に流行語になった。今ならば、流行語大賞間違いなしだろう。全日空の若狭社長は、トライスターの選定に関し、小佐野の推薦は受けていないと証言し、渡辺副社長も、機種選定途中で軌道修正はしていず、大庭哲夫前社長の交代も関係ない、と断言した。

 そういう国会の状況の中で、児玉に対する国会からの医師団派遣が、予算委員会の理事会での話題になった。「本当に病気なのかどうか、確かめるべきだ」という野党の主張を自民党も了承した。医師団の構成について、理事会で結論が出ず、前尾衆議院議長に一任する、ということになった。事実上の選考は、平野氏が担当することになる。平野氏は、衆院事務局と提携している東京慈恵会医科大学の医局と交渉することにし、医師団の派遣は、16日中になるか17日の午前中になるかわからないので、それだけの時間を確保できる人を条件とした。上田泰慈恵医大教授、下条貞友同大講師、里吉栄次郎東邦大学教授の3名が選ばれた。

 医師団の派遣をいつ行うか? もし、児玉の主治医の喜多村東京女子医大教授が虚偽の診断書を書いているとすれば、今日(16日)中にそれが確認できれば、17日の予算委員会の証人喚問に間に合う。午後7時には、当日中の医師団派遣が決定し、各医師に連絡がついて、医師団が世田谷の児玉邸に着いたのが午後10時前だった。午後11時過ぎ、児玉を診断した医師団から報告が入った。「重症の意識障害で、口もきけない状態であり、国会での証人喚問は無理……」。驚くべき内容だった。

 平野氏は有名なメモ魔である。自分のメモをもとに、時系列で事象を整理している。
・午後0時11分からの予算委員会理事会で医師団派遣を決定
・午後4時、医師団メンバーが決定
・午後6時前、理事会再開。医師団メンバーを了承
・午後7時、当日中の医師団派遣を決定
・午後10時前、医師団が児玉邸で診断
こういう時系列でみれば、医師団が買収されているような可能性はあり得ず、児玉が口もきけない状態にあることは事実に違いない。

 しかし、児玉の動きは、余りにも出来すぎていた。5日にロッキード事件が発覚した時には、前々日から伊豆へ保養に出かけて連絡が取れなくなっていた。8日に証人喚問が決定したときには、児玉の所在は不明だった。12日に、児玉は自宅で高脂血症の悪化によって自宅で倒れ、診察した主治医の喜多村教授は、「茶飲み話ぐらいならできる」としたが、夜になると「口もきけないので国会への出頭は無理だ」と前言を変える。14日の夕刻には、妻名義で「不出頭届」が書面で送付される。この日は土曜日で、議長が対処できない時間だった。16日には証人喚問が始まるが、児玉の「不出頭届」の精査は、この日に行わざるを得なかった。16日の夜10時に国会から派遣された医師団によって、17日の喚問は不可能と診断された。誰にしても、何らかの謀略があったと考えざるを得ないだろう」。

 「夢幻と湧源」の2009年3月16日付けブログ「ロッキード事件⑩…事件の風化と露出する真実」。
 田中角栄元首相は、昭和51(1976)年7月27日に、東京地検捜査本部によって、外国為替管理法違反容疑で逮捕され、8月16日、外為法違反と受託収賄の容疑で起訴されて、ロッキード事件はロッキード裁判となった。昭和58年(1983)年10月12日、東京地方裁判所(岡田光了裁判長)は、田中角栄に、「懲役4年、追徴金5億円」の実刑判決を下した。田中角栄は控訴するが、昭和62(1987)年7月、東京高等裁判所は一審判決を支持して控訴を棄却した。

 田中角栄は、昭和60(1985)年2月27日、脳梗塞で倒れ、闘病生活に入り、平成5(1993)年12月16日に死去した。享年75歳だった。刑事被告人のまま、田中角栄は、大平正芳(昭和53~55年)、鈴木善幸(昭和55~57年)、中曽根康弘(昭和57~62年)の政権を裏から支配し、「目白の闇将軍」と呼ばれた。角栄の死の1年2カ月後の平成7(1995)年2月22日、最高裁まで争われた「丸紅ルート」で、檜山広、榎本敏夫両被告の上告が棄却された。

 注目すべきことは、この判決で、ロッキード社のコーチャンおよびクラッターへの嘱託尋問調書には「証拠能力がない」と判断されたことだろう。つまり、刑事免責を前提とした嘱託尋問は間違っていた、と最高裁自身が判断したことになる。平野貞夫『ロッキード事件「葬られた真実」』講談社(0607)によれば、著者の平野氏は、最高裁がコーチャンおよびクラッターへの嘱託尋問調書に「証拠能力がない」と判決したとき、参院法務委員会の理事であり、平成7(1995)年3月17日の法務委員会でこの問題を取り上げた。

 平野氏に対して、則定衛刑事局長は、「相当の知恵を出した捜査手法で得た調書の証拠能力が否定されたことに、いささか戸惑いを覚えている」と答弁している。平野氏は、「嘱託尋問調書の証拠能力が否定されたことは、日本の司法制度そのものの信頼性を問われる問題だ」と指摘した。

 平野氏は、ロッキード事件も30年の時間を経て風化しているが、風化はあながち悪いことではなく、地中深く葬り去られた「真実」が、その姿を露出させる、としている。平野氏によれば、ロッキード国会で最大の謎は、児玉誉士夫の証人喚問である。児玉誉士夫は、証人喚問の直前、脳梗塞の発作によって証人喚問を免れた。国会から派遣された医師団も、「出頭できる状態ではない」と判断している。

その謎の一端が、平成13(2001)年の『新潮45』4月号に掲載された、元東京女子医大脳神経外科助教授の天野恵市氏の手記によって明らかにされた。天野氏の手記には、驚くべき内容が記されている。

 国会医師団が児玉邸に行くと決まった昭和51(1986)年2月16日の午前中、天野氏は、東京女子医大の脳神経センター外来診察室で患者を診ていた。午前11時に近づいた頃、天野氏は、喜多村孝一同大教授と二人きりで向かい合っていた。立ったままの喜多村教授が、「これから児玉様のお宅へ行ってくる」と切り出した。「なんのために?」と問う天野氏に対して、喜多村教授は次のように答えた。「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」。

 「夢幻と湧源」の2009年3月16日付けブログ「ロッキード事件⑪…中曽根幹事長の「陰謀」」。
 天野氏が、喜多村教授に、「何を注射するのですか」と聞くと、喜多村教授は「フェノバールとセルシンだ」と答えた。いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用があるものだ。天野氏が、「そんなことをしたら、国会医師団が来ても患者(児玉)は、完全に眠り込んだ状態になっていて診察できない」というと、喜多村教授は、「児玉様は、僕の患者だ、口を出すな」と激怒して病院を出て行った。

 数時間後、国会医師団が児玉邸に行き、診察した。児玉は、喜多村診断書の通りで、重症の意識障害下にあり、口も利けないで国会証人喚問は無理ということになった。セルシン・フェノバール注射で発生する意識障害・昏睡状態と、重症脳梗塞による意識障害は酷似しており、狸寝入りとは異なっている。血液・尿を採取すれば意識障害が薬物性のものであることを証明できるが、医師団の目的は、児玉の診察であって、薬物性の意識障害を証明することではなかった。この喜多村教授による児玉への注射は、誰の意向だったのか?

 昭和51年2月16日午前中に、児玉誉士夫の主治医である喜多村孝一教授と天野恵市助教授は、「その日中に、国会医師団の派遣がある」ことを知っていた。その日、医師団の派遣を巡って、予算委員会理事会は紛糾しており、医師団の派遣が決まったのが16日正午過ぎだった。医師団のメンバーが決まったのが午後4時で、医師団派遣の調整をしたのは、平野貞夫氏自身だった。平野氏はメモ魔で、自身のメモをもとに、当日の状況を再現している。意図的に虚構を書く理由もないだろうから、平野氏の『ロッキード事件「葬られた真実」』講談社(0607)に書かれていることは確かな事実と考えていいだろう。

 医師団派遣が16日中と決定したのは、夜の7時だった。ところが、喜多村教授は、午前中にすでに「医師団が本日中に児玉邸に来る」ことを確信していた。児玉誉士夫の主治医は、なぜこのような「機密」を知っていたのか? 誰かが「医師団を今日中(16日中)に派遣する」というシナリオを作り、指示を出し、それを喜多村教授に伝えていたのではないか。夕方には既にマスコミが児玉邸に張り付いていたから、それまでに「仕事」を済ませておくことが必要である。国会派遣医師団が、喜多村教授の違法注射を見抜けなかったのは、喜多村教授の行為を知らなかったからで、喜多村教授が児玉邸に来訪し、注射をしている事実を知っていれば、薬物性の意識障害の可能性についても考慮したと思われる。

 このような「陰謀」の黒幕は誰か? 国会運営を事実上仕切れる立場にいて、児玉サイドとコンタクトできる人間は? 平野氏は、中曽根康弘自民党幹事長(当時)と特定している。与党幹事長は、国会運営の総指揮官であり、すべての情報が集中する。平野氏は、天野氏の手記を見て、中曽根幹事長に対する疑惑を「確信」したと書いている。

 国会医師団の派遣時期はどう決まるか? 野党側は、派遣を16日に行うことを求めており、中曽根康弘幹事長が、「自民党は16日中に派遣したい」と指示を出せば、100%の確率で決まったはずである。

 3月4日には、中曽根幹事長は、前尾繁三郎衆院議長を尋ねて、「ロッキード事件でむやみに政治家の名前を出さないよう」クギを指している。翌日の5日には、児玉誉士夫は検察の臨床尋問を受けているが、それを事前に知っていたかのような中曽根幹事長の動きである。このことは、児玉サイドの情報が中曽根に入ってきていることを意味している。とすれば、中曽根サイドから、児玉サイドにも情報が流れていたと考えられるだろう。両者を繋ぐのは、中曽根の書生から児玉の秘書になった太刀川恒夫である。

 これより以降は、【3.1日/ロッキード事件証人喚問劇その1、大庭哲夫】に記す





(私論.私見)