【外務省関係】 日中友好条約、国交回復交渉

 更新日/2024(平成31.5.1栄和元/栄和6).8.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 中国での「文革」の真っ只中の時期、日本の頭越しに米中外交が為され、これに刺激され、日中国交回復が政治課題として急浮上してきた。但し、日中国交回復交渉の前途には、越えねばならないハードルが幾つもあった。日本外交は爾来台湾政権の方を正統と認めてきており、日中間には戦前の日中戦争時の賠償問題等々頗る困難な諸問題が待ち受けていた。

 中国の復交3原則は、1・中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府、2・台湾は中国領土の不可分の一部、3・日華平和条約の破棄を要件としていた。これまでの台湾との国家間交渉の積み立てをご破算にせねばならないということであり、台湾ロビー派は断じてこれを受け入れぬよう活動を強めていた。

 台湾派の主張には、「日本敗戦に臨んで、蒋介石が『暴ら報いるのに恩をもってする』といい、日本の軍隊、在留邦人の引き揚げに、全面的に協力し、且つ一切の賠償請求権も放棄した」蒋介石の恩義に対して、「この友誼、義理は裏切れない」というメンタリズムが多分に影響していた。これに対して、復交派の主張は、長い眼で文明史的観点から日中は提携すべきであり、早く友好が為されるべきであり、世界の趨勢に遅れをとってはならぬというものであった。

 これが「日中友好条約、国交回復」の裏舞台でもあった。田中政権がこの難問を如何に処理していったのか。以下、検証する。「日本政府訪中団」が北京に向かうまでは「在任中の流れ1」に記し、それ以降を本サイトで詳述することにする。

 2004.8.31日再編集 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評840 れんだいこ 2010/10/31
 【9.25日、日中首脳会談(田中.周恩来)】 

 1972.9.25日、田中首相一行が羽田発で北京に向かった。日航特別機JA8019(DC-8)に乗り、戦後初めて東京-北京間3千キロの空路を直行した。田中訪中団のメンバーは、田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進官房長官、吉田健三アジア局長、高島利郎条約局長、橋本恕アジア局中国課長、栗山尚一条約局条約課長ら外務省職員、小長啓一首相秘書官、警護の警察関係者36名、16名の報道関係者で、都合52名であった。田中首相の隣には読売新聞記者・中野士郎が坐った。「田中政権889日」は、「なぜ、あなたは北京へ行くのか」の問いに、田中首相が、一瞬苦しげな表情を走らせた後、「時の流れだからだよ」と答えたことを披露している。

 到着した北京空港では、「全世界のプロレタリア階級、被抑圧人民、被抑圧民族は団結せよ」と書かれた大きな横断幕と毛沢東の肖像画を背景にして、周恩来首相、葉剣英国防長官、姫鵬飛外相(外交部長)、郭沫若中日友好協会名誉会長、寥承志外交部顧問(中日友好協会長)ら最高指導部の面々が出迎え、田中首相と周首相が握手した。歓迎式典が行われ、この時中国側は、「佐渡おけさ」、「金毘羅船船」、「鹿児島小原節」を演奏し、熱烈歓迎振りと気配りを見せている。この後、田中首相(54歳)と周首相(74歳)が「紅旗」に同乗し、魚釣台の迎賓館に向かった。

 午後3時から人民大会堂で数次の会談が積み重ねられた。

 人民大会堂の「安徽省の間」で第一回首脳会談。日本側の出席者は、田中・大平・二階堂の他吉田アジア局長、高島益郎条約局長、橋本恕中国課長らの面々であった。中国側は周総理、姫外相(外交部長)、りょう・外交部顧問(中日友好協会長)、韓念竜外務次官(外交部副部長)、陸維けんアジア局長。会談は、「日中間の戦争状態終結問題」で、真っ向から対立した。高島条約局長は、「日本と中国との戦争状態は既に1952年に台湾との間で結んだ日華平和条約によって法的には終結している」との公式見解を悪びれず主張した。中共政府を正統とする中国政府は、「台湾との条約」に固執する日本政府に激怒した。

 日米安保条約に対して、日本側の「日中国交正常化には日米安保条約の堅持が大前提である」と日米安保条約を堅持した上での日中交渉であるという原則の主張につき、中国側を代表して周総理があっさり、「それで結構です」と受け入れた。更に、先の戦争に対する賠償権問題について、周は、「(このたびの会談で)国交正常化問題が解決するなら、両国人民の友好の為に賠償金を放棄することも考えている」と表明している。それまで、「人的被害は1千万人以上、財産損失額は数百億米ドル」の賠償請求権があるとしてきていた。しかし、台湾問題については譲ろうとせず暗礁に乗り上げた。この経過に対して、以降、秘術を尽くしての外交が積み重ねられていくことになった。

 二階堂官房長官は、次のようにスポークスコメントした。概要「驚くべき率直に、双方の基本的立場や考え方について、意見が交換された。非常に有意義だった」。互いに云うべきことを言い合い、火花を散らしたようである。以降、秘術を尽くしての外交が積み重ねられていくことになった。

 午後6.30分(日本時間7時半)より、晩餐会が人民会堂で開かれた。周首相が次のように挨拶した。「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略によって、中国人民は、極めて酷い災難をこうむり、日本人民も大きな損害を受けました」。

 このあと、日本国歌「君が代」が人民解放軍軍歌部隊によって演奏され、乾杯した。約20分後、今度は田中首相が挨拶を答礼した。首相は盛大な歓迎を謝したうえで「過去数十年にわたって、我が国が中国国民に対する多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と述べた。

 この時の発言「迷惑」という表現を廻って悶着が発生することになる。中国側は、田中首相の挨拶の途中、一区切りごとに拍手を送っていたが、「中国国民に対する多大のご迷惑をおかけした」のくだりで拍手が止んだ。「日中双方が合意に達することは可能であると信じます」の結びで拍手が戻った。

 2010.10.31日 れんだいこ拝

Reれんだいこのカンテラ時評841 れんだいこ 2010/10/31
 【9.26日、日中首脳会談(田中.周恩来)その1、迷惑論争】 

 翌9.26日午前7時、北京の迎賓館で一夜を過ごした田中首相は、歴史的な第一回の日中首脳会談がトントン拍子に進んでいるためか、すこぶるごきげんであった。朝7時、日本側代表団の朝食。和中折衷の献立てが用意され、首相も外相もせっせとたいらげた。二階堂官房長官は、「きのう夜の夕食会でもずいぶん食べたり、飲んだりしたが今朝もまた・・・。二人ともとにかく元気すぎるくらいだ」とコメントしている。外相のけんたんぶりに首相が冷やかすと、外相は「持ち来るものみな腹に納めてなお従容」と漢詩まがいの文句で応じた。10時半、田中首相は、宿舎の迎賓館で同行記者団代表を招いて懇談した。

 9.26日午前10時15分、人民大会堂の「接見庁の間」で第一回日中外相会談が始まり、大平、姫鵬飛の両外相が直接交渉に入った。この時高島益郎条約局長が、復興3原則に対して、第一原則(中国を代表する唯一合法政府は中華人民共和国である)ことに合意するが、第二・第三原則の台湾との関係破棄には早急に対応できないとの立場を1時間余りにわたって立場を説明した。要旨は、1・第1項の中華人民共和国を中国の唯一合法政府と認めることには異論ない。2・第2項の台湾は中国の1省については、日本の内政干渉に関わる怖れがある。3・第3項の日華条約の廃棄はできない。自然消滅の立場を採りたい。4・中国との戦争は日華条約第1条で終結しており、賠償問題は解決済みである。 

 同日午後、第2回首脳会談が始まった。日本側は田中、大平、二階堂、外務省の橋本中国課長。中国側は周、姫、りょう会長、韓外務次官。この時、前日の田中首相のスピーチに於ける「迷惑」という表現が槍玉にあがった。周恩来は、次のように述べた。(矢吹晋「田中角栄の迷惑、毛沢東の迷惑、昭和天皇の迷惑」等参照)

 概要「日本政府首脳が国交正常化問題を法律的でなく、政治的に解決したいと言ったことを高く評価する。田中首相が述べた『過去の不幸なことを反省する』という考え方は、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の『中国人民に迷惑(添了麻煩)をかけた』との言葉は、中国ではうっかり女性のスカートに水をかけたときに『添了麻煩』という軽いお詫びを意味している。中国では添了麻煩(迷惑)とは小さなことにしか使われず却って反感を呼ぶ。日本軍国主義の侵略戦争で中国人民に深い災難をもたらし、戦争では中国では数百万が犠牲となり、日本人民も深く被害を受けた『添了麻煩』を用いてお詫びの言葉とするのは中国人民として到底受け入れられるものではない。我々のこのような歴史の教訓を忘れではならない」(徐之光・編「中日関係三十年」)。「具体的な数字をかみ締めながら並べ、いかに多くの中国人が殺害されたかを語りだした」とある。

 首相挨拶文は外務省が作成したものであったが、周首相は、概要「『謝罪』と云うのはあまりに軽い言葉で、中国では『道端でうっかり女性の着物に水をかけたのを詫びる』程度の意にしかならず、受け入れられない」と批判した。「不用意な文言」が許されない外交交渉の一コマとなった。

 この周恩来発言を受けた田中の発言は、日本側記録では、こう書かれている。
 「大筋において周総理の話はよく理解できる。日本側においては、国交正常化にあたり、現実問題として処理しなければならぬ問題が沢山ある。しかし、訪中の第一目的は国交正常化を実現し、新しい友好のスタートを切ることである。従って、これにすべての重点をおいて考えるべきだと思う。自民党のなかにも、国民のなかにも、現在ある問題を具体的に解決することを、国交正常化の条件とする向きもあるが、私も大平外相も、すべてに優先して国交正常化をはかるべきであると国民に説いている。日中国交正常化は日中両国民のため、ひいてはアジア・世界のために必要であるというのが私の信念である」(「日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光編、岩波書店、2003年、57~58ページ)。

 どの時点でのやり取りか定かではないが、山岡淳一郎著「田中角栄 封じられた資源戦略」(草思社、2009.11.2日初版)その他が概要次のように記している。

 「周が語り終えるのを待って、田中は次のように言った。『私が飛んできたということは、仲良くしようとする表れじゃないか。だから、私は、こうして北京ヘやってきたのです。あなたが東京へこられたのではなく、私がやってきたのだ。日本に帰ったから殺されるかもという決死の覚悟で来たんだ』。角栄はど迫力で語った。田中の眼を直視していた周は小さくうなずき、それ以上、追いつめようとはしなかった。空気が変わったとみた田中はここで違う角度から話をかぶせた。ここで角栄は、いいわけをくり返すのではなく、とっさのジョークで切り返した。緊迫した状態で冗談をいうのは度胸がいる。『私も戦争中、陸軍二等兵として満州(中国大陸)に来ました。いろいろ大変なご迷惑をおかけしたかもしれません。しかし、私の鉄砲は北(ソ連)を向いていましたよ』。田中はノモンハン事件でソ連と対峠したことを伝え、当時中ソ関係が冷えきっていたことを踏まえてジョークにして語った。周首相はじめ中国側も思わずぷっと吹き出し笑ってしまった。もはや外務当局が用意したトーキング・ペーパーなど何の役にも立たなかった。首脳どうし、精魂をこめた言葉をぶつけあう。緊張の極限で、田中は語りかける。『隣人どうし、垣根がこっちに出っ張っているとか、いないとかでもめるのはよしましょう。明日から仲良くするためにここに来ました。私には日本にも敵がいます。それをかいくぐって、ここに来たのです。もしあなたと話がつかなかったら、日中関係は向こう何十年も救えません。言葉の揚げ足をとるのではなく、本題の議論をしましょう』。こうして会談は具体的な項目についての交渉に移った」。

 この暗礁をどう結末つけたのか経過を確認する。「ウィキペディアの添了麻煩」その他を参照する。
 9.25日の晩餐会席上で田中首相が「わが国が中国国民に対して多大のご迷惑をかけたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」と発言。それを通訳が「多大なご迷惑をかけた」の部分を「添了麻煩」と訳した。これに中国側が謝罪の言葉が軽過ぎるとして問題にした。しかし、外務省中国課長橋本恕は次のように証言している。

「当時の日本の世論に配慮したぎりぎりの言葉づかいであり、何日も推敲を重ねて、精魂を傾けて書いた文章であり、田中首相、大平外相に何度も見せて『これでいこう』ということになった」。

 結局、次のように解決した。大平外相は、「文言を変えてもいい」と中国側に大きく譲歩し、姫鵬飛外相に「過去、戦争によってもたらされた苦しみと損害に対して深く反省の意を表明する」と記した案を示した。姫外相は、「苦しみ」を削除、「責任」を追加した。「日本側が過去、戦争によってもたらした重大な損害の責任を深く反省する」。大平は、「責任」とは何の責任かと姫に問い、姫は「損害を与えた責任」と反論。日本側はこれに「痛感」の言葉を加え、「責任」という表現を受け入れ、次のように案文した。

 「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」
 (英訳・The Japanesr side is keenly conscious of the responsibility for the serious damage that Japan caused in the past to the Chinesr people through war,and deeply reproaches itself)。
 これが最終案となり日中共同声明に盛り込まれた。「責任」と「反省」というロジックを生み出すことにより合意が為されたことになる。

 この交渉経緯は、特筆されるべき日中外交史の財産ではなかろうか。なぜなら、今時の日朝外交史の如くの米国を交えての六カ国会議を通してでしか何も決められないと云うへっぴり腰の粗脳外交ではなく、日中両国が、それぞれの関係各国への根回しを済ませ上で主体的自律的外交を繰り広げ、譲るべきところは譲り押すべきところは押し、その結果としての共同声明条文の文言一つづつにこれほど脳に汗を掻き、共同で隙のない珠玉の名文を作り上げているからである。政治家と官僚、官僚と事務方の頭脳ががっしりと噛み合っていたことが分かる。その後の日本外交史にはこのような能力は絶えてない。このことを確認しておきたい。

 2010.10.31日 れんだいこ拝


Reれんだいこのカンテラ時評842 れんだいこ 2010/10/31
 【9.26日、日中首脳会談(田中.周恩来)その2、高島発言論争】 

 続いて、周首相は、午前の外相会議での高島発言に噛みついて、「日中国交正常化は政治問題です。それを法律論でやろうというのは間違いです」と高島条約局長を批判した。更に、高島条約局長を法匪呼ばわりし、「あの人のいる限り、まとのる話もまとまらない」と難色を示し、交渉が決裂寸前となった。この時と思われるが、周恩来の直々発言か周の意向を汲んだ取り巻きの発言かは定かでないが、高島条約局長に国外退去令が出された。要するに、賠償金放棄を梃子に三原則を認めるよう迫る中国側と、外交の一貫性を理由に譲らない日本側の言い分が平行線を辿ったということである。

 「高島条約局長国外退去令」について、田中首相は次のように述べた。
 概要「賓客にまねかれ、供の従者を非難されたときは、主賓にも帰れと言われたことになります。それが日中共同の文化ではないのですか。そうは行きません。この男を帰す訳には行かない。この男は代表団の一員だから、帰れと云われれば我々全員が帰らねばなりません」。

 この角栄の言葉で、周恩来は冷静さを取り戻し、双方の歩み寄りで再交渉が始まった。周恩来は日本軍が何年、どこの戦いで何万人殺したと、数字を際限なく上げはじめた。田中の血圧は200をこえ、鼻血を出すほどだったが、持ち前の粘り腰で望み、粘り強く交渉を続けた。

 野上浩太郎氏の「政治記者」に次のように記されている。
 「おれは周恩来にこう言ったんだ。今はあなたにとって大きなチャンスですよ。日本では会社と交渉するときは、トップが交代して新しい社長と商売するのが、一番有利なのです。新しい社長には社内の期待もあって、大きな裁量の幅を与えるからなのです。私は今、日本という会社の新しい社長なのだから、あなたにとって大きなチャンスなんです、とね」。

 この後と思われるが、2005.3.10日付け「雑記帳」の「諸君!4月号」掲載の佐々淳行「このまま対中ODAを続けたら」を参照すれば、周恩来は、戦時賠償問題を持ち出し、「北京は戦時賠償請求権を放棄していない」と主張した。これに対し、大平外相は黙りこんでしまった。が、田中首相が猛然と反論した。「国民政府から共産党政権に代っても外交継続の原則により、"一つの中国"と主張するならなおさら、サンフランシスコ条約で中国は日本の在外資産の接収とひきかえに賠償請求権を放棄した。従って北京には請求権はない」。

 角栄の反論は、周恩来を黙らせた。この正論の裏で、実務的には賠償放棄の代償」として「中国が近代化するまで可能な限りの経済援助を行う」ことが口頭約束された。結果的に、共同声明には賠償放棄と書かれることになる。

 二階堂官房長官が、「第1回会談に引き続き、広範な具体的問題について精力的に意見交換が行われた」と発表した。

 遅い昼食となった。大平と高島は食事がのどを通らず、水ばかり飲んで考え込んでしまっていた。この時、次のような遣り取りが交わされている。

 田中首相「どうしたんだい、君ら」。座を持ち上げようとしても塞ぎこんでいた。「そんなに心配してもしようがないじゃないか。だから大学出はダメだというんだ。また明日やりゃいいじゃないか」。大平外相「だけど、どうすりゃいいんだ」。田中首相「そりゃぁ、お前ら大学を出ているんだから考えろよ」。沈黙の後、 大平外相「なあ田中君、君は越後の田舎から出て来たとき、総理になれると思ったかい」。田中首相 「冗談じゃない。食えんから出てきたんだ。お前だってそうだろ」。大平外相「俺もそうさ。讃岐の水のみ百姓の小せがれじゃ食えんからのう」。田中首相 「それなら当たって砕けても、元々じゃないか。できなけりゃできないでいいさ。このまま帰るさ。責任は俺が取る」。

 午後5時、迎賓館で、第2回外相会談。

 9.27日、万里の長城、明の13陵の案内を受けた後、午後4時過ぎ、第3回首脳会談。この時、高島条約局長の退去令を取り下げさせている。この会談の席上、周は、中国とソ連は既に一枚岩ではなく、矛盾と対立関係にあると懇切に解説した。周と田中が互いのソ連観を遣り取りしている。次いでアメリカ観、日米安保条約観を披瀝しあっている。最後に領有権を廻って対立中の尖閣列島(中国では釣魚台諸島)が論ぜられた。これにつき詳報はないが、決着は未来の叡智に託したのではなかろうか。更にこの時、周は田中に北朝鮮接近を要請している。この流れは帰国後稼動し始めることになる。  
 2010.10.31日 れんだいこ拝

Reれんだいこのカンテラ時評508 れんだいこ 2008/12/24
 【懐かしの角栄-大平同盟を再評価する】

 れんだいこは今、中野士郎「田中政権886日」(行政問題研究所、1985.12.20日初版)を読んでいる。迂闊にも今までこの本を読み損なってきた。著者は元読売新聞政治記者で、日中国交正常化交渉に向かった機内で田中首相の横に坐るという椿事を経験している。そういうこともあって、日中国交正常化交渉の舞台裏を相当詳しく明らかにしている。

 交渉は予想外に困難に逢着していた。日本は日本の立場で台湾との関係を主張せざるを得ず、中国の云うように「台湾は中国の一省、日華条約を廃棄せよ」を受け入れ難かったからであった。二階堂官房長官が、「第1回会談に引き続き、広範な具体的問題について精力的に意見交換が行われた」とスポークスコメントしたが、内実は剣呑そのものだった。同書で、次のような遣り取りが披瀝されている。

 遅い昼食となった。大平外相と高島条約局長は食事がのどを通らず、水ばかり飲んで考え込んでしまっていた。田中首相 「どうしたんだい君ら」。(座を持ち上げようとしても塞ぎこんでいた)田中首相「そんなに心配してもしようがないじゃないか。だから大学出はダメだというんだ。また明日やりゃいいじゃないか」。大平外相「だけど、どうすりゃいいんだ」。田中首相「そりゃぁ、お前ら大学を出ているんだから考えろよ」。(沈黙の後)大平外相「なあ田中君、君は越後の田舎から出て来たとき総理になれると思ったかい」。田中首相「冗談じゃない。食えんから出てきたんだ。お前だってそうだろ」。大平外相「俺もそうさ。讃岐の水のみ百姓の小せがれじゃ食えんからのう」。田中首相「それなら当たって砕けても、元々じゃないか。できなけりゃできないでいいさ。このまま帰るさ。責任は俺が取る」。

 山岡淳一郎著「田中角栄 封じられた資源戦略」(草思社、2009.11.2日初版)は次のように記している。

 「周恩来が腹を据えた。だが、『戦争状態の終結』、『台湾問題』をめぐって事務レベルの徹夜作業が続く。……交渉は膠着状態に陥った。田中は外交関係者のいないところで、ひとりごちた。『これほど反対するのなら、もう帰るか……。だが、帰ったら、完全に切れてしまう。十年、二十年、日中は……止まる。おれは死ぬる覚悟できたんだ。帰るわけにはいかんな』。秘書官の小長は、命がけの外交とはこういうものか、と感じた」。

 れんだいこは、この遣り取りはどこかで既に仕入れている。改めて読み直して、政治の真剣みに感慨した。それと、この水呑百姓コンビが一時でも戦後政治の権力中枢を占め、采配を振るっていたことを懐かしむ。この時代、日本左派運動は政府自民党批判に明け暮れ、現在のような貧困政治時代になると口先三寸批判でお茶を濁すという犯罪的役割を果たしている。連中は基本的に狂っている。

 れんだいこは今、「戦後日本=プレ社会主義論」を確立している。この目線で見れば、角栄-大平同盟こそが、イデオロギーに頼らず実践的な嗅覚での「戦後日本=プレ社会主義」の牽引者であったと思っている。水呑百姓出自は、唯物論的にも裏付けられよう。これに比べて、日本左派運動派の出自こそ胡散臭い。それを過度に問うのは問題ありなのだけれども、やはりこういう線も踏まえておく必要はある。オカシナことに子供の頃から性悪坊ちゃんばかりだったりして。コラッ不破、聞いとるか。れんだいこは、お前と宮顕と立花の角栄叩きだけは堪(こら)えん。まっその他大勢も同罪ではあるが。

 いずれにせよあの頃は、政治家の発言が正攻法で堂々としていた。云うだけではない責任政治の真骨頂を見せていた。おまけに話が面白い。味があった。つまりそれなりの深い思想があった。それに比べて何だ昨今の政治は。ちまちましており小難しいことばかり言って、その場繕いばかりで、嫌われても国家百年のため根本解決策を提起すると云って持ち出すのが消費税アップだと。馬鹿ばかしいったらありゃしねえ。

 どいつもこいつも目がワシントンの方に向いており、もうブッシュは引退興行しているというのに、未練がましく出世と利権の引き換えに何でもすると今更ながら申し出る請負師ばかりではないか。トラック競技で云えば2周も3周も遅れすぎている。よって使いものにならない。ウヨサヨは表見的には対立しているようで、歴史観なぞ存外通底している。公共事業抑制論でも一致している。馬鹿らしいので、もうこれぐらいにする。

 2008.12.24日 れんだいこ拝


【領土問題棚上げ論考】
 角栄は尖閣諸島についても議題に上げている。これに対し、周恩来は、「今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない」と述べ、角栄を制している。

 これにつき、2013年06月04日付け「田中角栄元首相が「尖閣諸島の棚上げを確認」 野中広務氏の発言は真実か?」を転載しておく。
 尖閣諸島の領有権をめぐって、元官房長官の野中広務氏が発言した内容が波紋を呼んでいる。1972年の日中国交正常化した直後に、当時の田中角栄首相から「尖閣諸島の領有権について日中双方が棚上げを確認した」と直接聞いたというのだ。野中氏は6月3日、北京で中国共産党幹部の劉雲山・党政治局常務委員と会談した際にその内容を伝えたと、会談後の記者会見で明かしている。朝日新聞デジタルは次のように報じている。

 野中氏によると、「(日中)双方が棚上げし、そのまま波静かにやっていこうという話だった」という。(略)野中氏は「当時のことを知る生き証人として、明らかにしたいという思いがあった。私としてはなすべきことをしたという思いだ」と述べた。野中氏によると、田中氏は周恩来首相との国交正常化交渉を終えた直後、箱根で開いた田中派の青年研修で「棚上げ」について明らかにしたという。(朝日新聞デジタル 2013/6/4 5:23)

 尖閣諸島の領有権問題について、中国は「棚上げ合意」があったと主張しているが、日本政府はこれまで認めていない。 外務省が公表した「田中角栄首相、周恩来総理会談」では、1972年の第三回首脳会談で、田中氏が尖閣について質問し、周氏が「今、これを話すのはよくない」と棚上げ案を返答したという記述にとどまっている。

田中総理  尖閣諸島についてどう思うか?私のところに、いろいろ言ってくる人がいる。
周総理  尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。
(東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 「日中国交正常化交渉記録」)

 一方で、今回の野中発言を政府は公式に否定。火消しに必死になっている。以下は、朝日新聞デジタルの報道だ。

 岸田文雄外相は4日午前の記者会見で「我が国の外交記録を見る限り、そういった事実はない」と否定した。菅義偉官房長官も同日の会見で「棚上げや現状維持で合意した事実はないし、棚上げするべき問題も存在しない」と述べた。(朝日新聞デジタル 2013/6/4 10:57)

 尖閣諸島は、沖縄県の石垣島の約170キロ北方に広がる無人島の一群だ。魚釣島(うおつりしま)など、主に5つの島から成っている。1972年の沖縄返還に伴って、米国から日本に返還されたが、その前後から中国と台湾が領有権を主張するようになった。実効支配している日本政府は「日本領であることは明らか。領有権の問題はそもそも存在しない」という立場を取っている。

 2012年9月、日本政府は魚釣島など三島を地権者から20億5000万円で買い取って国有化したことで、中国・台湾の両政府が強く抗議する事態となった。日本政府を威圧する目的で中国当局の船は、尖閣諸島周辺に繰り返し領海侵入しており、昨年9月の尖閣国有化以降では46回にも上った。 

 強硬路線だった中国政府だが、ここにきて尖閣諸島の棚上げ論が浮上してきた。6月2日には中国人民解放軍幹部の戚建国・副総参謀長が、シンガポールで開かれたアジア安全保障会議で「棚上げ」に言及した。産経新聞の報道は次の通り。

 戚氏は「東・南シナ海における中国艦船の航行と巡回活動は、中国領内での正当なものだ。国家の核心的利益を守る決意と意思は揺るがない」と主張した。そのうえで「当面解決できない場合は棚上げし、対話による解決策を探るべきだ」と述べた。(産経新聞デジタル 2013/6/2 20:02)

 今回の野中氏の発言は中国政府の意向と足並みを揃える物といえ、日本政府がどのように対応するかに注目が集まりそうだ。


【歴史的日中首脳会談(田中.毛沢東)】
(別稿【毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見】)
 9.27日午後8時30分、田中、大平、二階堂が外務省を交えず、中南海の毛沢東邸で毛沢東(78歳)と会見、会談は約1時間にわたった。(角栄は、主席公邸兼私邸に到着するなり、緊張のせいか手洗いの拝借を申し出て、毛を廊下で待たせた、ことが毎日新聞政治部著「安保 迷走する革新」で報じられている)中国側は、周、姫、寥が同席。毛主席が冒頭、「周恩来との喧嘩はすみましたか。ケンカしなくちゃダメですよ。喧嘩をしてこそ仲良くなれるものです」と述べ、角栄「ええ、いいたいことは、一つ残さずに話したつもりです」、毛「そう、それで結構、本当の友情が生まれます」の遣り取りが為された。会談は1時間に渡った。田中が辞去するとき、毛は用意していた「楚辞集注」大巻を贈った。

 青木直人著「田中角栄と毛沢東」は次のように記している。
 「この二人の会談を契機に、それまで足踏みしていた国交正常化交渉は一気に進展し、二日後には共同声明の発表にまで漕ぎつけることができたのだ」、「1972.9.27日、両雄の一度だけの会談は僅か1時間で終わっている。それは日本と田中角栄の運命を決める長い1時間でもあった」。

【日中首脳会談(田中.周恩来)】
 9.28日午後3時30過ぎ、第4回首脳会談。結局、復興3原則のうち、第2原則は日本の主張を1分取り入れ、第三原則については、共同声明発表後、別途、大平外相が談話を出すことで処理することになった。「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に盛り込んだ。周恩来が「言必信、行必果」の六文字を毛筆で書いて田中に手渡した。「言は必ず信じ、行は必ず果断」、すなわち言ったことは必ず信じて、果断に実行するを意味する。周恩来は田中に対して、中華民国との断交など一連の約束を誠実に実行されたいと念を押したことになる。これに対して田中は「信は万事の元」と墨書して返礼した。

 6.30分、田中首相主催のお礼の夕食会が人民大会堂大広間で開催された。田中首相が「今や国交正常化という大事業を成就できるものと確信しております」と挨拶。周首相が「相互理解と、小異を残して大同を求める精神に則って、我々は、中日国交正常化に関する一連の重要な問題で、合意に達しました」と宣言。満場割れるような拍手の後、「我々は、間もなく、両国間に、これまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことになります」と念押しした。

【日中共同声明】

 9.29日午前10時過ぎ、北京の人民大会堂の「西大庁の間」で共同声明の調印式が執り行われる。午前11時過ぎ、日本側は田中と大平、中国側は周と姫が日中国交正常化共同声明にサインをした。かくて日中間の国交が回復した。田中と周は何度も力強い握手を繰り返す。

 取り決められた内容は、1・両国の不正常な関係の終了、2・中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることの承認、3・台湾は中国の不可分の領土であるとする中国の主張を日本が十分理解する、4・外交関係を樹立し、大使を速やかに交換する、5・中国は対日戦争賠償の請求権を放棄する、6・両国の平和関係の維持、7・両国がアジア・太平洋地域で覇権を求めない、8・両国は平和友好条約を早期に締結する、9・貿易・海運・航空・漁業などの締結交渉に合意。日華平和条約は破棄され、台湾とは国交断絶となった。


【日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)全文】
 ここで、「日中共同声明」を確認しておく。
 日本国内閣総理大臣田中角榮は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、1972年9月25日から9月30日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。

 毛沢東主席は、9月27日に田中角榮総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行つた。田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終止、友好的な雰囲気の中で真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。

 日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな1ページを開くこととなろう。

 日本側は、過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立つて国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。

 日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。
 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
2   日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
3   中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する。
 日本国政府及び中華人民共和国政府は、1972年9月29日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務の遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
 中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
 日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。

 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業などの事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。

 1972.9.29日に北京で 日本国内閣総理大臣 田中角榮(署名) 日本国外務大臣 大平正芳(署名) 中華人民共和国国務院総理 周恩来(署名) 中華人民共和国外交部長 姫鵬飛(署名)


Reれんだいこのカンテラ時評843 れんだいこ 2010/10/31
 【日中共同声明】

 9.29日午前10時過ぎ、北京の人民大会堂の「西大庁の間」で共同声明の調印式が執り行われる。午前11時過ぎ、日本側は田中と大平、中国側は周と姫が日中国交正常化共同声明にサインをした。かくて日中間の国交が回復した。田中と周は何度も力強い握手を繰り返す。

 取り決められた内容は、1・両国の不正常な関係の終了、2・中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることの承認、3・台湾は中国の不可分の領土であるとする中国の主張を日本が十分理解する、4・外交関係を樹立し、大使を速やかに交換する、5・中国は対日戦争賠償の請求権を放棄する、6・両国の平和関係の維持、7・両国がアジア・太平洋地域で覇権を求めない、8・両国は平和友好条約を早期に締結する、9・貿易・海運・航空・漁業などの締結交渉に合意。日華平和条約は破棄され、台湾とは国交断絶となった。
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【日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)全文】

 日本国内閣総理大臣田中角榮は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、1972年9月25日から9月30日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。

 毛沢東主席は、9月27日に田中角榮総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行つた。田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終止、友好的な雰囲気の中で真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。

 日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな1ページを開くこととなろう。

 日本側は、過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立つて国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。

 日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。

1、日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
2、日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
3、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する。
4、日本国政府及び中華人民共和国政府は、1972年9月29日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務の遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
5、中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
6、日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。

 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
7、日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
8、日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
9、日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業などの事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。

 1972.9.29日に北京で 日本国内閣総理大臣 田中角榮(署名) 日本国外務大臣 大平正芳(署名) 中華人民共和国国務院総理 周恩来(署名) 中華人民共和国外交部長 姫鵬飛(署名)

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 その後、台湾派がどう対応し、田中政権が椎名を派遣し国民政府とどう裏で修復したのか等々を確認したいが又の機会に譲ることにする。

 今、前原外相が如何に日中離間を策そうとも、この時の日中共同声明及び精神を抹殺できる訳ではない。日中人民大衆は、菅政権が考えているほど愚かではない。むしろ、うす汚い筋書きを見破り、歴史の彼方へ葬るすべを心得ている。我々から見れば、菅政権の愚行は単に、請負士の悪あがきでしかない。

 2010.10.31日 れんだいこ拝

【その後、上海へ】
 北京で共同声明に調印した日本全権団は直ちに帰国したいと考えていたが、周は上海に立ち寄ってからの帰国を強行に主張した。周首相同行で上海に向かう。上海では、四人組の実力者であった張春きょう革命委員会主任、馬天水副主任らが待ち受けていた。一行は空間から、上海市の西南30キロの馬陸人民公社を訪問。綿花畑や農機具工場を見学。7時、上海工業展覧会で、歓迎夕食会に出席。氏の(ここまでは分かるが、その後の記述が手に入らないので不明)

【台湾が国交断交を発表】
 台湾の国民政府が国交断交を発表した。これによって、中華民国政府は台湾にあった日本企業の在外資産を凍結した。総額120億ドルにのぼった。各企業への補償は、日本政府によって為された。この時凍結された日本企業の資産は、中華民国政府の「秘密資金」となり、中曽根がこれに目を付けることになる。

【キッシンジャーの怒り】
 2006.5.26日、米国の国家安全保障公文書館(アーカイブ)によって公表され、5.28日、ジャパンタイムズが、当時の米国ニクソン大統領政権の国家安全保障担当補佐官キッシンジャーが、日中共同声明発表に激怒した様子の記事を掲載した。それによると、キッシンジャーは、日本が抜け駆けして中国と国交回復しないように釘を刺したのに、「Of all the treacherous sons of bitches, the Japs take the cake!」(ふしだら女の産んだ裏切り者の息子のうち、よりによって、あのジャップめが、ぬけがけしてケーキを食らった!)と叫んで、怒りをあらわにした云々。

【帰国後の報告の様子】
 日中国交正常化共同声明調印後のどの時点か定かでないが、田中首相は、中国から羽田孜に電話を入れ、帰国したら直ちに党本部に行く、自民党議員を集めておけと指示している。

 9.30日午後1時前、羽田着の日航特別機で帰国。田中首相は、羽田空港に帰国した際のステートメントで次のように述べている。
 「(日中国交正常化という)課題は、今日の国際情勢ひいては大きな歴史の中で捉え、またいつか、誰かが果たさねばならない仕事であったと信ずる」。

 帰国後の雰囲気は「党が大変」だった。皇居で帰国報告の記帳の後、自民党執行部に報告(自民党本部で椎名副総裁、橋本幹事長ら党執行部と懇談)。午後2時20分から官邸で臨時閣議を開き、国交正常化交渉の経過と成果を報告。午後3時過ぎ、首相官邸でテレビ中継の合同記者会見に臨んだ。午後4時過ぎ、党本部の9階講堂で開かれた自民党両院議員総会に出席し訪中結果を報告。この時、次のように述べている。
 「毛沢東、周恩来と議論して、あるときは席をけって帰ろうとしたこともあった。しかし、中国には10億を超える民がいる。この国とはいいことも悪いことも素直に話し合える関係をつくらないといかん。中国は永遠に我が隣国である。それを考えたとき、私は国交正常化を決断した」。

 演壇に立った田中は次のように述べている。
 「日中国交回復を成し遂げて今私は帰国しました。党の中にはいろいろ議論のあることは承知しております。相手との間には隔たりもありました。途中で帰ろうと思ったこともありました」。
 「しかし、中国は動かすことのできぬ隣国であります。いかに体制が違っていても、日本との関係がどうであっても、隣の大国です。そまことは永遠に変わらないのです。中国が嫌だからといって引っ越すわけにはいかない。しかるに、そのような国といさかいがあっても、政府間で話し合えるルートがない。一部の党とか赤十字を通じてしか話し合えないのではどうにもならないではありませんか。中国は大変な人口を抱える大国であります。毛沢東や周恩来が権力を握っている今がチャンスなのです。中国とは良いことでも悪いことでも話し合えるようにする。何でもものをいえるようにする。私は決断して国交正常化に踏み切ったのです」。

 共同声明について党の最終的了承を求め、台湾派の野次と怒号のなかで自民党は田中報告を了承した。

【「日中国交政策の裏事情」】
 角栄は、後に地元の懇意な新聞記者に対して、次のような「日中国交政策の裏事情」を吐露している。
 「日中国交は、いわば裏安保条約だったんだ。アメリカと安保条約を結んでいても、彼らは日本を軍需産業のお得意さんにしたくてしようがない。兵器を売りつけたくてしようがないんだ。今の日本は、軍事費を国民総生産の1%枠に押さえている。この1%枠は丁度良い塩梅で、これを超えては、今の日本は苦しくなる。しかし、アメリカはこれが不満なのだ。このままだとアメリカの誘導で、日本は確実に3%以上の軍事費を余儀なくされる。そんな金があるんなら、もっといい使い道が一杯あるのにだ。国にとって有益な事業を思えば、軍事予算に湯水の如く金を使うのは得策ではない。そういう余裕なぞない! 日中国交回復は、その道に行かせない国家的選択でもあった。だから、中国と国交を結んだんだ。中国が、ソ連と日本との盾になる。こうしてアジアの軍事的安定が図られれば、危険を煽って日本に兵器を買わせたいアメリカへ、いい抑止力になるんだよ」。

 週刊文春2016.6.23日号124p「阿川佐和子のこの人に会いたい 第1119回」の「学校法人・山野学苑総長 山野正義/田中角栄先生が日中国交正常化交渉で訪中する直前、頼まれてアメリカでお手伝いしました」参照。
山野 「それでたまたま日本にいた時に、その石田(博英)先生に誘われて、目白まで田中角栄先生の悩みを聞きに伺う機会があったんですね。1972年、確かあと十日くらいで角栄先生が中国の毛沢東に会いに行くと。籐か器機に」。
阿川 「え、日中国交正常化交渉直前のタイミングですか」。
山野 「はい。先生がおっしゃるには『情けない話なんだけど、外務省は中国のことをほとんど知らない。これでは毛沢東さんと話をするのにいかにも心細い』。当時は竹のカーテンと言われて、中国の内情は謎に包まれていましたから」。
阿川 「情報がなさ過ぎると」。
山野 「で、『山野さん、アメリカに長いこといて、中国のニュースやで実態が分かる方法はありませんか』と聞かれたので、『それじゃ、私のアメリカの友達から資料をもらってきます』と答えたんです。飛行機代諸々出すと言われましたけど、『山野はそのくらいのお金はありますから』と断って(笑)」。
阿川 「カッコいーいー」。
山野 「アメリカ生活長いから、なんでもストレートに言っちゃうんです(笑)。それで、その晩のうちに総理のクルマで羽田まで行きまして」。
阿川 「また急なことで」。
山野 「ええ。空港に着いたらワシントン飛行機が近い時間にないから、マイアミに飛んで、そこからシカゴ経由でワシントンへ。そこでジム(ジェームズ)・シュレジンジャーを訪ねたんです。CIA長官の」。
阿川 「そんな方ともお友達だったんですか」。
山野 「彼もユダヤ系なんですけど、ロサンゼルスにいる僕のユダヤ系の友達と無二の親友で、よく一緒にご飯を食べて仲良くなっていた。そこで夜中だったんですが、『ジム、アイ、ニード、ユア、ヘルプ』と伝えました」。
阿川 「お前の助けが必要だと」。
山野 「『じゃぁ、行こう』となって、一人担当官を付けてもらい、ペンタゴンの地下5階か6階だかに行って、400枚くらいの資料をコピーさせてもらうんです。特に、一番重要だったのが、偵察機で撮影した中国の写真ですね。それを持って急いで日本にとんぼ返りですよ。目白に届けに行ったときには東大の教授が三人居ました」。
阿川 「なんでまた」。
山野 「資料を翻訳するためでせうね」。
阿川 「そうか、英語の資料だから、それをアカデミックな方々がみんなで訳したってことですか」。
山野 「はい。しかも角栄先生はそれを1週間足らずで全部暗記されて毛沢東に会っているんです」。
阿川 「うわー、日中国交正常化前夜の知られざるエピソード。山野さんの人脈がなければどうなっていたことやら----」。
山野 「後年、角栄先生から『山野さんのお陰で対等に話ができた』と言われました。それで『お礼がしたいから何か欲しいものはないかね』って。そんな褒美を取らせるなんて江戸時代じゃあるまいし、アメリカに長くいたから一日本人として国のために働こうという気持ちになるんですよ」。
阿川 「じゃぁ、ご褒美はお断りになったんですか」。
 (以下略)

 松崎稔(元共同通信社専務理事)は、生前の角栄が最も信頼したブレーンの一人であるが、次のように評している。
 「田中が成し遂げた日中国交正常化は、冷戦下日米中の二等辺三角形を作り上げ、アジアに平和と安定をもたらした。他に比べようがない平和への貢献である。政治家・田中角栄は必ず見直される時が来る」。

 2022年9月28日,NHK政治マガジン(岩澤千太朗) 「田中角栄 日中国交正常化交渉の舞台裏 台湾断交で開かれた道」。

 政治部記者/岩澤 千太朗

 2016年入局。初任地は大阪局で2021年から政治部。“総理番”を経てことし8月から外務省を担当。ブルーベリー農家の長男で、現在、入局後3回目の肉体改造中。
 今から50年前の9月29日。田中角栄総理大臣と中国の周恩来首相が日中共同声明に調印し、日本と中国の国交が正常化した。歴史が動いたその時、日本の政治家や外交官は中国側とどのような交渉を行ったのか。大平正芳外務大臣の秘書官として訪中した元外交官が舞台裏を語った。

 ぶっつけ本番の旅

 「成算が無いまま中国に行ったんです。国交がないから中国政府と本当の話ができないんですよ。ちょっと表現が悪いんですけど、『ぶっつけ本番の旅』ですね」。1972年9月29日の日中国交正常化を成した5日間の中国での交渉をこう表現したのは、元外交官で、北米局長やイギリス大使を歴任した藤井宏昭(89)。50年前、藤井は大平正芳外務大臣の秘書官を務めていた。総理大臣の田中角栄や、外務大臣の大平正芳が訪中した際、大平と行動をともにした。都内でインタビューに応じた藤井は、記憶の糸をたぐるように語り始めた。「ジェットコースターに乗ったような気分でしたね。はじめは国交正常化できないかもしれないと。本当にダメで振り落とされてしまうかもしれないと。それが振り落とされずに無事に戻れたという感じですね」。
 訪中前に遺書も

 
1972年9月24日夜。田中をトップとする訪中団の一行は、出発を翌日に控え、羽田空港近くのホテルに宿泊した。しかし、そこでの食事会は…
(元外交官 藤井宏昭)「会話はあんまり無いですよ。笑い声なんてほとんど無く、みんな沈うつな気分で飯を食べた。本当に国交正常化がなるのか分からなくて、暗い気持ちだったんですね」。

 藤井によると、国交正常化ができるという確証が持てない中、大平は、訪中前に遺書までしたためていたと言う。
「中国で何が起きるか分からないという気持ちもあったのかもしれないですね。命を賭してというのかな。遺書を書くことで大平さんは、自分の気持ちを吹っ切らせる効果があったのかなと」。

 訪中を決めた瞬間は

 この2か月前の1972年7月、田中が総理大臣に就任。田中は、翌月の15日、中国訪問を正式に発表する。田中はなぜ、訪中を決断したのか。決断の前に、公明党委員長の竹入義勝が独自のルートで中国の首相・周恩来と会談し、その内容が政府にもたらされたことが大きいと言う。藤井は、中国が日本に戦後賠償を要求しないとした点が重要だったと、証言した。
「『竹入メモ』って当時言われてましたけど、一番大きなところでは、『中国は賠償金は取らない』って書いてあるんですね。田中さんのところに大平さんはすぐ飛んで行ってね。それでメモを見て『うん、行こう』となったわけです。僕は総理の秘書官室かどこかで待って、帰りの車で大平さんから『もう(訪中を)決めたぞ』って」。

 当時の国際情勢は

 藤井が「ぶっつけ本番の旅」と表現した、田中と大平の中国訪問。それは、激変する当時の国際情勢のなかで、日本政府が、なんとか主導的に東アジア外交を進めようと打ち出した、リスクをはらんだ賭けとも言える一手だった。中国訪問に至った当時の国際情勢として、藤井が1つ目に挙げたのが、いわゆる「ニクソン・ショック」だ。1972年2月、アメリカの大統領のニクソンが、国交がなかった中国を訪問した一連の動きを言う。日米関係は盤石と思われていた中で、日本の頭越しに突然起きた米中の接近。「日本が『置き去り』になるのではないか」などと、国内に大きな衝撃を与えた。さらに挙げたのが、中国側=北京の共産党政権からの視点だ。当時のソビエト連邦との、共産主義の国同士の「中ソ対立」のなかで、中国も日本との国交正常化を欲していたという。ただ、この点は、当時、日本側にはあまり見えていない部分だったと振り返る。

 アメリカへの根回し

 こうした国際情勢の中で、日中国交正常化交渉のための中国訪問を固めた日本政府。大平は速やかにある行動に出る。それは、アメリカへの事前の根回しだった。アメリカは、大統領の訪中は果たしたが、まだ中国との国交は樹立していなかった。
(元外交官 藤井宏昭)「アメリカより先にかなり重要な外交政策をやるのは戦後の日本では珍しいことなんです。だから大平さんはアメリカのニクソン大統領に仁義を切っておかないといけないと考えた。緻密な方ですから。『北京にまっすぐじゃなくてアメリカ経由で行くんだ』ってね」。

 8月末にハワイで田中とニクソンとの首脳会談が行われた。ともに訪問した大平に藤井も同行した。
「大平さんは、往路は非常に緊張していたが、帰りは、よっぽど嬉しかったんですね、アメリカの了解が取れたって。鼻歌を歌ってね。何とかの第二国道っていう歌でしたね」。

 難航する正常化交渉そして9月25日、田中や大平らの訪中団は北京に到着。
藤井はその時の様子をこう回想する。
「周恩来首相が出迎えに来てくれましたね。それから儀仗兵もいましたけども、それしかいないという。出迎えとしては立派なんですけど、何というか非常に寂しいような」。

 こうして始まった国交正常化交渉。
しかし、出ばなをくじかれることになる。晩餐会での日中戦争に関する田中の発言に中国側が不快感を示したのだ。
(元外交官 藤井宏昭)「田中総理は、日本は中国の人民に対して『ご迷惑をおかけした』ということを言ったんですが、翌日午後の首脳会談で周首相が『迷惑』っていうのは非常に軽すぎると。中国語で言ったら非常に軽いんだっていうことを述べてね」。

 さらに、具体的な交渉の内容でも日中間で大きな溝があった。日本と台湾との関係だ。
中国と国交を結ぶということは、これまで国交を結んできた台湾との関係を事実上、切り捨てることになる。
「最大の案件はやっぱり台湾です。中国は、日本と台湾が結んだ日華平和条約は『不法であり、効力を有しない』と言うんですよ。日本は『不法であり』というのは絶対に受け入れられない」。

 台湾をめぐり、表現ぶりをどうするのか。協議は平行線をたどり、時間だけが過ぎていった。

 雰囲気を変えたのは…

 訪中2日目、9月26日の夜。この日の外相会談でも大きな進展はなく、悲観的な気持ちで大平たちは報告を待つ田中の元へ向かった。
(元外交官 藤井宏昭)「中国とは全くの平行線でらちがあかない。非常に絶望的な気持ちで、もうダメかもしれないという、一番苦しい時でした」。

 ところが、大平から報告を受けたときの田中の対応は、意外なものだった。
「みんな驚いたのは田中さんがいやに快活なんですよ。話を聞いても『そうか』という感じでね。それで誰かが『総理どうしたらよろしいですか?総理だったらどうしますか?』って聞いたんですよ。そしたら田中さんが『そこはお前ら大学を出た連中が考えろ』って」

 藤井は、田中のこのふるまいが、訪中団の雰囲気を大きく変えたと感じた。
「田中さんの明るい態度と応対で、みんながぱっと明るくなったんですね。これは後で気づいたんですけど、田中さんは鋭敏な直感力で、利害と利害が対立してどうにもならない問題ではなく、言葉で解決できると考えたんじゃないかな」。

 車内で信頼関係を構築

 9月27日、交渉3日目。田中と大平は万里の長城に見学に向かった。車内で大平は中国の外相・姫鵬飛と隣り合って座った。同乗した藤井は、2人がここで信頼関係を築くことができたと振り返る。
(元外交官 藤井宏昭)「会談の場合は大勢いて記録に残るから正式なことを言わなきゃいけない。だけど車に乗って隣にいると、いろんなことが話せて人間的な付き合いができるわけです。行き帰り合わせて4時間くらい『大使の交換をいつにしようか』とか、ずっとやっていましたね」。

 言葉による解決


 台湾との関係について、どうすれば中国側と折り合えるのか。交渉で中心的な役割を担った大平と外務省の事務方は、連日、知恵を絞った。そして、外務省の事務方が考え出した1つの言葉をきっかけに交渉が大きく前進する。
(元外交官 藤井宏昭)「『不正常な状態』っていう言葉がキーなんですよね。案を出したのは橋本さん(当時の外務省中国課長)。日本側の解釈は(台湾との)日華平和条約は有効だったけれども、中国全体と日本との関係では不正常だったと。中国の解釈は、今まで不正常な状態だったということは、日華平和条約は無効で、これから共同声明によって有効な関係を結ぶことができるのだと」。

 この言葉は、日中共同声明に次のように盛り込まれることになる。
さらに台湾をめぐっては次のように明記された。日本と中国の双方の側から主張を通すことができる言葉が見つかり、正常化への道が開かれた。

 共同声明に調印、台湾と断交

 そして迎えた9月29日。田中と大平、周恩来と姫鵬飛は、日中共同声明に調印した。日本と中国が国交を樹立した歴史的な瞬間だった。藤井は、晴れがましい田中の表情とは違い、緊張した大平の様子を記憶している。
「大平さんは調印式が終わっても大役があって、非常に沈うつというか、緊張していました。毎日、朝から晩まで隣にいるから、その気持ちはすぐに伝わってくるんですね」。

 共同声明に調印したあとの記者会見で、大平は次のように述べた。
「最後に、共同声明の中には触れられておりませんが、日中関係正常化の結果として、日華平和条約は、存続の意義を失い、終了したものと認められるというのが日本政府の見解でございます」。

 会見場で、記者たちは慌てふためいたという。
(元外交官 藤井宏昭)「日台の関係が切れたということを宣言したわけです。国交は断絶すると。記者は、会見でそういうのが出てくるとは思っていなかったから、とにかく騒然としていました」。

 大平には中国と国交を樹立したあと、間を置かず台湾との断交を表明することで、混乱を避ける狙いがあったと藤井は解説した。
「(台湾との関係は)中国との交渉では非常に重要な部分で、それを大平さんは記者会見でやっちゃおうと。日本へ帰ってやったら、また騒然としますからね。だから記者会見でやっちゃって『全部それでおしまい』っていうのが大平さんの気持ちでした」。

 本当の意味での正常化

 だが、この段階ではまだ本当に“全部おしまい”ではなかったのだという。田中と大平は、当時、台湾にいた日本人に危害が加えられるような事態が起きないか危惧していた。調印した日の午後、訪中団一行は、人民公社を視察するため、首相の周とともに北京から上海に向かった。上海の空港に到着すると、藤井は大平の指示を受けて一行から離れ1人宿舎に向かった。そこで、外務省中国課の首席事務官に電話をかけた。藤井:「台湾の情勢はどうだ?」。首席事務官:「いたって平静です」。

 携帯電話のない時代。

 藤井は、宿舎の玄関で田中と大平を待ち構えた。
(元外交官 藤井宏昭)「玄関の階段の前で待っていて、一行が現れるわけです。車を降りた大平さんに『台湾、いたって平静だそうです』とまず耳打ちしてね。大平さんがすぐ田中さんに同じことを言ったら2人とも本当に安堵して。これで国交正常化は成功したなって」

 藤井は、このときが本当の意味で国交正常化を成し遂げた瞬間だったと力を込めた。


 胆力と緻密さと知恵

 中国での5日間を語り終えた藤井はこう続けた。
「非常に肝が据わった総理の胆力と、緻密で物を深く考える粘り強い外務大臣。2人の気があって一心同体でね。それから外務省の事務方の知恵。3者の呼吸がぴったり合った。ずいぶん長い間外交官をやったけど、本当にそれを感じた5日間でした」。

 さらに、藤井はもう1つ、忘れられないエピソードがあると明かした。
それは共同声明に調印したあと、北京から上海に移動した飛行機の中での出来事だった。田中と周が首相どうし、隣の席に座っていた。
(元外交官 藤井宏昭)「田中さん、疲れちゃったんでしょうね。眠りだしたんですね。大平さんに『起こしましょうか』と聞いたら、『いいよ、いいよ』と。周首相も、もちろん気付いて『寝かしておきなさい』と言っていました。それで大平さんと周首相が話をしていましたね」。

 豪放磊落な田中と寛容な周。
この2人だからこそ国交正常化を成し遂げられたのだと、藤井は感じたという。

 今後の日中関係は

 あれから50年。いまの日中関係を藤井はどうみているのか。経済を成長させ軍事力を増強してきた中国は覇権主義的な動きを強めている。藤井は、日本は防衛力を強化するとともに、中国との対話が重要だと強調した。
「相互理解を深めていく。対話は必ず必要なんです。何世代に渡ってこれは続いていく話なんですよ。今の中国が問題だと決めつけない方がいい。日中はお互いに学び合ってきた国なんです」。さらに、手元に準備していた、かつて仕えた大平の演説の一節を読み上げた。
「大みそかと元旦っていうのは、僕は『どっちが元旦なんだ』て言ってましたけど、大平さんの本心だと思うんです。また、これは本当に今でも通じる名言だと思います」。

 日本外交に求められるものは

 インタビューは、休憩を取りながらおよそ2時間に及んだ。藤井は、静かに、そして時に熱っぽく当時を語った。言葉の端々から政治家や官僚の息づかいを感じ、取材した私は50年前にタイムスリップしたような錯覚に陥った。そして田中の胆力と大平の緻密さを骨格とした日本外交のチームワークに思いをはせた。日中関係は、いま尖閣諸島をめぐる問題や台湾情勢をめぐり、課題は多い。50年前、先人たちは遺書をしたため並々ならぬ覚悟で中国との国交を樹立した。そこに日中関係改善の糸口を探るとすれば、必要なのは、リーダーの胆力と、激変する国際情勢を冷徹に見極め、現実的な次の一手を見いだすチーム力なのではないか。いまこそ日本外交の真価が問われている。(文中敬称略・肩書きは当時)

【参考サイト】
日中国交正常化文書
私が歩んだ日中友好の道




(私論.私見)