【毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見】 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).5.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
「日中友好条約、国交回復交渉」の裏舞台で、史書に触れるられることの少ない「日中最高首脳の秘密会談」が持たれている。以下、これについて愚考する。 2002.11.27日付けで講談社より青木直人著「田中角栄と毛沢東」が初版されている。時期を同じくして日経BP出版より三浦康之著「頂に立て!田中角栄とニクソン上・下」も初版されている。いずれも、ロッキード事件を通じて口を極めて批判されてきた田中角栄の見直しに資する良書である。本来もっと注目されても良いが、我が社会に牢として形成されている「角栄包囲網」の幻影に禍(わざわい)されてマスコミに登場する機会が少ない。まことに惜しまれることである。 さて、「田中角栄と毛沢東」は、「毛沢東―角栄首脳会談」の内容が、実は世間に流布されている遣り取りではなく、真相は極めて大胆且つ高度な政治的遣り取りをトップ・シークレット的に為していたことを暴露しており極めて衝撃的である。「現在でも、この夜の会談内容の詳細は謎に包まれている」と云う。 以下、青木直人著「田中角栄と毛沢東」、「頂に立て!田中角栄とニクソン上・下」、横堀克己氏の「その夜、新たな歴史がひらかれた 毛―田中会談を再現する日中の戦略的同盟提起した毛沢東」等を下敷きにしながら、れんだいこ風に纏める。「毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見」としたのは、毛沢東が贈呈した「楚辞集注」のれんだいこなりの裏読みである。こう解く者が居ないが、れんだいこにはそうとしてか読めない。以下、考察する。 2010.10..28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評838 | れんだいこ | 2010/10/30 | |
【日中最高首脳部会談考その1、秘密会談】 1972(昭和47).9.27日午後7時半、北京の迎賓館でくつろいでいた田中首相一行のもとへ、中国外務次官の漢念竜から電話がかかってきた。日本外務省の橋本中国課長が取り次ぐと、「毛沢東首席がお会いします。田中総理と大平外務大臣にお越しいただきたい」という電話の内容であった。それを聞いた田中は即座に云った。「二人だけというのはダメです。二階堂官房長官も一緒に来ているのだから、行くのなら一緒に参ります。そう応えてくれ」。 午後8時、周恩来首相が「先ほどは失礼しました」と云って、姫鵬飛外相と共に迎えに来た。この時、ちょっとした悶着が起った。田中の護衛官が必死の形相で、「私を連れて行ってた下さい。そうでないと日本からついて来た私の職責が果たせません」と田中の袖にとりすがって再三哀願した。田中は、「いいんだよ」と軽く振り払おうとするが、護衛官はそうはさせじと頑張った。田中は彼の顔を真正面から見据え、概要「いいんだよ。分かっている。ここまで来れば煮て食われようと焼いて食われようと、いいじゃないか」と云ってニッコリと笑った。こうして三名のみが出発したが、突然の予定変更であった為、二階堂の車にはホストが不在だった。車は毛主席の住まいする中南海に向かった。 午後8時、田中首相の一行が到着した。「毛主席は田中首相を迎えるため、部屋の外に出て、立って待っていました。田中首相は顔の汗をハンカチで拭きながらやってきました。二人はしっかりと握手し、それを中国のカメラマンがフラッシュをたいて写しました。撮影は一回だけでした」と王効賢さんは回顧している。田中首相は毛主席に大平外相を紹介し、二人は握手を交わした。その時、毛主席が「大平」を「太平」にかけて「天下大平」と云った。林さんはこれを「天下泰平ですね」と訳した。この当意即妙のユーモアに笑い声が起こった。最初は厳粛な顔をしていた田中首相の顔がほころび、それ以後、和気あいあいとした雰囲気となった。テーブルには杭州の竜井茶が入れられた。愛煙家の毛主席だったが、タバコに手を出さなかった。暑がりで有名な田中首相も、このときばかりは愛用の扇子を取り出さなかった。 午後8時半、毛主席の書斎で日本側首脳と毛沢東主席(78歳)との会見が始まった。日本側は田中首相、大平外相、二階堂官房長官。中国側は毛主席、周総理、姫鵬飛外相、廖承志中日友好協会会長、これに通訳・記録係として王効賢(外務省アジア局所属)と林麗雹(共産党中央連絡部所属)の二人の女性が加わった。日本側の事務方は出席していない。会見は約1時間にわたった。田中が辞去するとき、毛は用意していた「楚辞集注」大巻を贈った。 青木直人著「田中角栄と毛沢東」は次のように記している。
会談の冒頭、毛の方から口を開き、田中首相のスピーチにあった「多大な迷惑」を廻る周首相との鞘当を話題にして「チャオ(口に少)完架了マ?総是要チャオ一些的。天下没有不チャオ架的嘛」(周首相との喧嘩はすみましたか。喧嘩は避けられないものですよ。世の中には喧嘩がないわけはないのです)と切り出した。「喧嘩はしなきゃ駄目ですよ。互いに云うべきことを主張し喧嘩してこそ仲良くなれるものです」と続けた。 田中答えて曰く、「ええ少しやりました。問題は解決しました。今は周恩来首相と円満に話し合っております。いいたいことは一つ残さずに話したつもりです」。毛曰く「そう、それで結構、喧嘩をしてこそ仲良くなれます。本当の友情が生まれます」の遣り取りが為された。 毛主席は、大平外相と姫外相を見やりながら、「ト續c他打敗了ーノ」(あなたが相手を打ち負かしたのですね)とユーモアをこめて尋ねた。大平外相はあわてて答えた。「いいえ、打ち負かしてはいません。我々は対等に云いたいことを云い合いました」。こう云い終わるや、大平、姫両外相は声を合わせて笑った。周総理がこの会話をひきとって「両国外相很努力」と云った。「両国の外相はともに大変よくがんばった」とその労をねぎらったことになる。田中首相もこれに続けて「両国の外相は、大変努力して、多くの仕事を成し遂げました」と称えた。 この道中のどこかで次のような遣り取りがされている。れんだいこが、現在漏洩されている情報から類推して再現してみる。 毛主席曰く概要「迷惑をかけたという問題はどう解決しましたか。若い人たちが、ご迷惑をかけたという表現は不十分だと云って拘っております。それも無理はありません、中国では女性のスカートに水をかけた時に使う言葉ですから」。田中首相曰く概要「日本語の迷惑は中国の意味と少し違います。日本語の中で使われている漢字は元をただせば中国から入っておりますが、その後日本的用例も生まれております。日本語的意味では万感の思いを込めてお詫びする時にも使います。すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省していると云うことを表わす為に使う場合もあります。いずれにせよ、このことに拘られるのであればここで揉めても仕方ないので中国の習慣的解釈に添って改めるよう準備を進めております」。毛主席曰く概要「明白了(わかりました)。迷惑の言葉の使い方は、日本の首相の方が上手なようです。いろいろ困難はありますが歴史的大義に向って邁進しませう」。 思いがけぬ騒動となった迷惑問答は、毛主席の「明白了(わかりました)」でケリがついた。続いて雑談が少々続き、毛は、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」と述べている。これについては別に論じたいと思う。これも、毛主席の慧眼ではなかろうかと思う。もとへ。大平外相が、「では、私たちはどうやってあなたの世話をしたらいいのですか。難しいですよ。やはり他の国に留学してください」と茶化し、毛主席曰く、「大平先生は友好的でないですね」と応えた。会談時の友好ムードが伝わる逸話である。 その他、中国の伝統墨守的弊害、日本の選挙制度等々にも話題が及んだと伝えられている。能力のある者同士が外交やればこういう風になり、逆は逆になると云う見本のような会談内容ではなかろうか。 2010.10.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評836 | れんだいこ | 2010/10/30 | ||||||||||
【日中最高首脳部会談考その2、秘話】 2010.10月現在、日中は菅改造内閣の前原外相の下で、日中離間外交が押し進められようとしている。アジア間の悶着を誰が差し金しているのか、請け負っているのか云うまでもない。こういう時であるからこそ、かの時の田中角栄一行と毛沢東一行の日中最高指導部の秘密会談の内容を確認して見たい。以下、「日中最高首脳部会談考その2、秘話」を愚考する。 ひと通リの挨拶と雑談が終わると、毛沢東は田中角栄の目の前で、やおら右手を頭上にあげた。その手を左右にゆっくりと振る。田中達の前で何度か同じ動作を繰り返した後、彼は視線を泳がせるようにしながら口を開いた。「田中先生、日本には四つの敵があります」。 この発言を耳にして、田中は辟易し、内心ではくど過ぎると思ったと云う。「四つの敵」という言葉は、中国を訪問する前に行われた外務省のブリーフィングで、何度も聞いていた言葉だったからである。曰く、「アメリカ帝国主義」、「ソ連修正主義」、「日本軍国主義」、「日本共産党宮本修正主義」の「四つの敵」と戦うよう、当時の中国共産党は日本に対して盛んに訴えていた。いわば、中国革命外交のキーワードだった。「日本軍国主義」については中国訪問の当日からさんざん説明し、中国側の理解も得たはずのテーマである。それを又も聞かされるのか。 だが、毛の口から出た「四つの敵」は田中の想像を裏切るものだった。毛は右手の指を一本ずつ折り始め次のように語った。
視線は四本の指を折り曲げた自分の右手に向けられたまま、田中らを見ようともしない。その姿は、瞑想に耽っているようだった。列席した人の中からは咳き一つ聞こえない。田中だけではない。大平も二階堂もこの言葉に沈黙していた。静寂の中、毛の声だけが室内に響いた。 毛は更に話を進めた。意外な人物の名前が毛の口から発せられた。
次に槍玉に挙がったのが、日本の東条英機だった。
彼らの名前を挙げて、毛は田中にこう聞いた。
ここから先は、れんだいこが会話を推理する。毛沢東は次のように述べたのではなかろうか。
毛沢東の話は続いた。
二つの大国が日本と中国の接近の行方を注視している。毛はこう云うのだった。
ソ連が日中接近を警戒するのは分かる。日本と中国という、ソ連に対して友好的ではないアジアの二大国が関係を正常化することにモスクワは神経を尖らせていた。アメリカはなぜ気分が悪いのか。
毛は笑いながらアメリカとソ連の心中を解説して見せた後、こう述べた。
毛沢東の口から出たのは日中同盟論だった。即答できるような話ではなかった。 漏洩されている会談内容はここまでである。れんだいこには、この「秘話」は極めて重要なメッセージを告げているように思われる。れんだいこ史観によると、稀代の戦略家・毛沢東は、田中角栄に同じ資質を見出し、恰も同志的もてなしをしている。まずこのことに気づくべきである。「角栄の左派的資質」―ここにキーワードが隠されている、とれんだいこは観る。その上で、「トップ・シークレット的百年の計」を授けようとしていると読み取るべきである。この視点によってこそ「毛沢東―角栄会談」の凄さが見えて来る。 れんだいこは、実際にはもっと突っ込んだ話があったのではないかと勘ぐっている。例えば、近代から現代の世界史の動向を語り、世界を裏から支配している国際金融資本帝国主義ネオシオニズムに対する言及が為されていたのではなかろうか。その上での対抗策としての日中同盟論がぶたれていた可能性があると観る。但し、この線の話は「最も危険な話」であるからして徹底的に隠されざるをえない。故に推理するしかない。 もとへ。一時間に及ぶ会見は、和やかな雰囲気のうちに終わりに近づいた。毛主席は、書棚の中から糸とじ本の「楚辞集注」全六冊を取ってくるよう服務員に言いつけ、立ち上がってそれを田中首相に手渡した。「楚辞集注」は、楚の宰相であり詩人でもあった屈原らの辞賦を集めた「楚辞」に、南宋の学者の朱熹(朱子)が注釈を付けたものである。毛沢東は、なぜ「楚辞集注」を贈ったのか。これについては別途論ずることにする。毛主席は、田中首相が強く固辞したにもかかわらず、書斎から玄関まで一行を見送りに出た。毛主席の足取りは速く、遅れまいと、林さんは小走りについて行ったという。こうして「歴史的な会見」は終わった。 和やかに終始した「毛沢東―角栄首脳会談」の成功で、日中国交正常化交渉の成功は約束されたも同前だった。時間にして一時間。しかも通訳が入るので実際の会話は30分にしかならなかった。青木直人著「田中角栄と毛沢東」は次のように記している。
毛の自宅を辞した田中は大きく息を吸い込んだ。政治抜きと伝えられた日中首脳会談は、徹頭徹尾政治的なものだった。会談終了後、二階堂官房長官が日本の随行記者団にその模様をブリーフィングした。「一切、政治的な話は抜きだった」。その記事が翌朝の新聞紙面に載った。 あれから40年、日中関係は垣根を取り払い、貿易や人の往来の面で大きく発展した。日本資本の中国市場展開も大きく進んでいる。かの時、日中最高首脳部が歴史を読み政治的決断をした「元一日」の賜物であろう。しかしながら、その後の日本政治は大きく暗転する。ハト派の田中派、大平派が解体され、タカ派が専横する時代になった。中国も然り。文革期に指弾された走資派が奪権し、米中間は蜜月時代に入っている。 れんだいこ史観によれば、日中とも国際金融資本帝国主義に手玉に取られたことを意味する。国際金融資本帝国主義は、日中の親和化を許さない。離間を図り、少なくともワシントンの意向に従うよう指令しシナリオからはみ出ることを許さない。そういう事情により、日中両国は経済的交流を深めつつも、教科書問題、歴史認識、靖国神社への首相公式参拝、ごく最近では尖閣諸島の領土問題等々の政治難題で波風が立つよう仕向けられている。こう読み解くべきではなかろうか。 最後に「歴史的会見」に同席した王さんと林さんの声を聞いてみよう。王氏曰く「中日両国はどんなことがあっても戦争してはいけない。戦争で被害を受けたのは両国の人民であり、ごく少数の日本軍国主義者とは区別すべきだ。歴史を過去のものにし、前に向かって進む必要がある。そのためには、日本は過去の侵略の歴史を承認し、反省する。そこに『中日共同声明』の原点がある。教科書問題などが起こるたびに『原点に帰れ』と私は思う」。 林氏曰く「周総理は、『飲水不忘掘井人』と言われた。今日の中日関係を考えるとき、その井戸を掘った人たちの苦労を忘れてはいけない。国交正常化に到るまでも、民間交流が大きな役割を果たした。民間大使と言われた西園寺公一先生は、国交正常化が実現するまで禁煙を続け共同声明が発表されてからタバコに火をつけて、おいしそうに一服吸った。国交正常化という仕事は、容易ではなかったのです」。 2010.10.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評837 | れんだいこ | 2010/10/30 | |
【【日中最高首脳部会談考その3、同志的眼差し】 関連して補足しておけば、「毛沢東―角栄会談秘話」は角栄の左派的資質を窺わせるのではなかろうか。なぜなら中共政権首脳の毛沢東、周恩来が見せた眼差しが恰も同志的であるからである。毛沢東はそれまで日本共産党指導者の徳球、野坂、宮顕と会談している。この時の態度の差が興味深い。これを結論から述べると、毛沢東の徳球観は同志的であった。徳球も毛沢東を革命遂行の先達の大指導者として仰ぎ見た。その親密さは、徳球が1953(昭和28).9月に北京で客死(享年59歳)し、その遺骨を妻の徳田たつと志賀義雄が持ち帰る為に訪中した際の1955.9.13日、北京で3万人が参列する追悼大会が催され、毛沢東主席が「徳田球一同志 永垂不朽」と称えたことでも知れよう。 野坂に対しては相手にしていない。野坂が親交あったのは後の走資派ばかりである。とかく胡散臭い。宮顕に対しては毛嫌いしており敵性的である。日中共産党の蜜月時代に於いてさえ、まともな会談が一つさえない。宮顕は二度ほど病気療養名目で訪中し大名旅行しているが、「何があれが革命家か」と不評を買っている。これを勘案すれば、角栄―大平に対して見せた同志的態度をどう理解すべきだろうか。一度しか相対せずとも肝胆相照らす仲になっている。 これはどういうことであろうか。れんだいこには何ら解せないものがない。毛沢東は、感性的にも政治的にも徳球、角栄、大平に対して同志的であった。これに引き替え、野坂、宮顕に対しては敵性的であった。つまり左派圏内に闖入して来た異分子と看做していたと云うことであろう。ところが、日本左派運動史では逆に徳球が罵倒され、野坂、宮顕を名指導者とする論調を通説としている。野坂は晩年、モスクワ在住時の同志売りが露見し除名されたが、宮顕の地位は不動である。角栄は諸悪の元凶視されている。宮顕の後を継いだ不破の地位も動かない。その後釜の志位の評価はこれからであるが、宮顕―不破―志位と云う同一系党中央が55年有余に亘って牛耳っている。戦後日本の政党史上不倒の長期政権となって党勢をジリ貧化させている。 もとへ。日中の左派戦線で田中角栄の評価が割れていることになるが、これはどういうことだろうか。れんだいこは、毛沢東の観点の方が正しく日本左派運動の観点の方が歪んでいると見る。但し、毛沢東を絶対視するつもりはない。れんだいこの毛沢東論は建国前に於いて最も有能であり、建国後において経済指導に失敗し凡庸になったと見立てている。その点で、戦後日本を名指導し高度経済成長する日本を牽引している田中角栄を畏敬し、一目も二目も置いていたのではなかろうかと思われる。そういう意味で、毛沢東の建国後の経済政策は失敗したけれども人物論は終始概ね正鵠であったと見る。 この観点に立つと、日本左派運動の貧相な見識こそ恥ずべきと云うことになる。宮顕系日共党中央を始めとする日本左派運動の見識たる反福本論、反田中清玄論、反徳球論、反伊藤律論、反角栄論ほど有害なものはない。彼らは、終始反革命を指導し日本の人民大衆を騙し続けていることになる。これが、日本左派運動失速の過半の原因ではなかろうか。日本を裏で支配する勢力が日共をを始めとする日本左派運動勢力各派を上手に操っていると云うことにもなる。通りで政局のここ一番で自民党内タカ派と日共が論調を一致させる筈である。その他の左派運動勢力各派がこれにダンマリする訳である。このことが何ら不思議ではなくなる。誰かこの認識を共にせんか。 毛沢東のその後の田中角栄に対する眼差しも確認しておこう。毛沢東はその後の角栄に並々ならぬ関心を持ち続け、角栄の動向に慈愛を注いでいた様子が青木直人著「田中角栄と毛沢東」で次のように明らかにされている。
『私が実際に会って褒めた人は、国に帰るとみな災難に遭っている』の下りは、毛沢東の客観評論としてではなく、それほど角栄を気にかけていたと窺うべきだろう。 もう一つのエピソードが次のように明かされている。毛は最晩年まで身辺から書籍を離そうとしなかった。病床にあっても意識はまだはっきりしていた。身辺の看護を担当していた愛人の張玉鳳は、毛が選んだ本を朗読することが日課になっていた。では、毛が人生の最後に接した書籍は何であったか。諸説あるが「三木武夫」であったという説がある。 これは何を示唆しているのか。これを読み解くのに、毛は、田中角栄逮捕となった日本のロッキード事件に並々ならぬ関心を持ち、角栄訴追の急先鋒を勤める政治家三木の分析に向かおうとしていたのではなかろうか。決して「クリーンでもないのにクリーン三木」として売り出す三木を評価して三木を知ろうとしていたのではあるまい。青木氏の言をそのまま借りれば、「毛は田中をロッキード事件で追い詰めている三木という政治家の経歴や思想からロッキード事件それ自体の政治的構造を推理したかったのだろうか」ということになる。これが死の前日のエピソードであり、毛は翌日の1976.9.9日に生涯を閉じている。 思えば、毛沢東の評価も、田中角栄の評価も棺を置いてなお定まっていない。政治の最高度のところのものは皆、かような運命にあるのかも知れない。林彪将軍となると闇に消されたままになっている。歴史はかく偽造され、愚昧な通説ばかりが流布される。心して参ろう。自称左派運動研究家にして在家歴史学者のれんだいこが覚束ないながらも歴史の真史に挑む。誰かエールしてくれカンパしてくれふふふ。 2010.10.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評835 | れんだいこ | 2010/10/29 | |||||
【日中最高首脳部会談考その4、毛沢東の「楚辞集注」贈呈の裏意味考】 現代政治、政局の痴態に食傷するれんだいこは、その反作用であろう田中角栄と再対話している。今日も久しぶりに古本屋に立ち寄り、大概の角栄本は読んでいるつもりであるが読み落としていた早坂茂三著「オヤジとわたし」(集英社、1987.1.20日初版)を見つけた。今読み進めているが、早坂氏の角栄ものの中でも傑作ではなかろうか。読了後、れんだいこの角栄論の中に取り込み、更に充実させたいと思う。ここでは、毛沢東―角栄会談秘話考その4として毛沢東の「楚辞集注」贈呈の裏意味を愚考してみる。 ここに一つの逸話がある。角栄は首相就任時に「決断と実行」を掲げ、その言葉通り日中国交回復交渉に取り組み北京へと飛んだ。道中の剣呑さをも見事こなして堂々と帰国したのは衆知の通りである。ところで、ここで見落としてはならないエピソードがあるので以下記す。 角栄は、この時、毛沢東主席と会談した際に、自筆の漢詩調の詩文墨書き4行詩を毛主席に手渡している。「国交途絶 幾星霜、修好再開 秋将到、隣人眼温吾 人迎、北京空晴 秋気深」 (国交が絶えて久しかったが今国交回復の機が到来した。中国人民の眼は温かく、北京の空は晴れ秋の香りがする) 毛主席が会談の別れ際に直接、そのお返しにくれたのが、詩経とならぶ中国の詩文の古典「楚辞集注全六冊」(「屈原詩註4冊」ともある)であった。世上、この毛沢東の田中角栄に対する「楚辞集注」プレゼントの意味を様々に解釈している。れんだいこを得心させるものはない。そこで、れんだいこが読み解こうと思う。「楚辞集注全六冊」の解説については「『楚辞』~中華文明の黎明期~」その他を参照する。 当時の角栄は首相就任直後の飛ぶ鳥をも落とす勢いの頃である。日中国交回復は日中共に利益のあることであったが、それを纏め上げることにはかなり難易度の高い外交問題が介在しており、日本側の田中-大平コンビ、中国側の毛-周コンビでなければ到底解決し得なかった。せいぜい先送りの糸口を作った程度で物別れに終わるのが関の山であった。それを、譲るべきところは譲り引かざるところは引かず、ものの見事に纏め上げた角栄の手腕は剋目すべきものであった。毛主席はそれらのことを踏まえた上で、角栄の尋常ならざる有能性を見抜き、最大級のもてなしを意味する会見の場を設けた。会談は1時間に渡った。田中が辞去するとき渡されたのが「楚辞集注」であった。 「楚辞集注」とは如何なる書か。れんだいこは読んではないのだが、解説本を読むのに主役は屈原である。ならば屈原とは何者か。司馬遷の史記の屈原賈生列伝に記されている屈原像、その他の文献から推定するのに、屈原の人となりは次のようなものであった。 「屈原は中国楚の時代の辺境県に頭角を著していた楚の国の王族系重臣であり且つ優れた詩人でもあった。つまり、現代で云えばトップ級の官僚又は政治家であったと云うことになる。その性は剛直で是非の分別に明るい質であった。国を憂いて度々、懐王に経綸を奏上したが、聞き入れられないばかりか却って疎んぜられた。後に懐王は秦の張儀に騙され虜囚となり新しく頃襄王が立った。屈原はこの王にも煙たがられた。やがて党人といわれる君側の小人たちの嫉妬や讒言、これを聞きいれた君主の不明によって官位を奪われ、政界追放の悲運に遭う。屈原は憂愁と憤懣のうちに山野水辺を放浪し続けた挙句、国家の将来を案じながら汨羅江の淵に身を投げる。こうして自ら生を終えた悲運の人であった。5月5日の端午の節句にちまきを食べる風習があるが、屈原を偲ぶのが事始めの行事と云われている。屈原が当時の民衆から支持されていたからこその楚辞集注であり、風習の生まれであると思われる」。 「楚辞」のそういう内容を踏まえれば、れんだいこが何を云いたいのかもはや明らかであろう。帝国主義列強の草刈り場になり存亡の淵に陥っていた近代中国の危機を救った英傑毛沢東は、「英雄は英雄を知る」の心情によってか、角栄の中に本質的に見ての左派的気質、その有能性、それ故に待ち受ける壁を見抜いていた。目前に見るのは政権絶頂期にある角栄ではあったが、毛沢東は前途に立ち塞がる政治的な危機、政権基盤の危うさを見て取っていた。まさに角栄は「楚辞」文中の屈原であることを見抜いていたのではなかろうか。そういう警句と愛着を込めて「楚辞集注」を贈ったと考えられる。 毛沢東の予感は奇しくも当たった。その後のロッキード事件に翻弄されていく角栄は屈原そのものだった。政権を手放して後の角栄はやがてロッキード事件に見舞われ、刑事被告人として磔の刑に遭う。公判闘争を余儀なくされ翻弄された姿は、屈原が憂愁と憤懣のうちに山野水辺を放浪し続けた姿とダブルではないか。国家の将来を案じながら汨羅江の淵に身を投げ自ら生を終えた屈原は、角栄の終末そのものではなかろうか。これを予見した毛沢東の慧眼恐るべし、角栄の悲哀知るべしではなかろうか。れんだいこは、「楚辞集注」贈呈の裏意味をかく読みとる。 しかし、世の自称識者は異なる解釈で悦に入っている。毛主席が角栄に「楚辞」を渡した意図について、日本の大手新聞社記者は次のようにコメントしている。概要「(角栄が読み上げた漢詩を念頭に置いて)漢字を連ねただけでは詩にならない。少し漢詩の作り方を勉強しなさいという毛主席の皮肉を込めた返礼である」。 何とも愚にもつかぬ論評ではなかろうか。誰しも己の知の水準に合わせて政治を測るものであり多少の曲解は免れ難いが、これは酷過ぎるのではなかろうか。この記者の姿勢には、己の非力を弁えながら最高度の政治の機微とアヤを窺おうとする姿勢が微塵もない。逆に粗脳のままに粗脳的に理解し、その粗脳理解で角栄を揶揄すると云う傲慢不遜さを見せている。 あるいは、「迷惑論争」で揺れた経緯を踏まえて、中国語の用法がふんだんに使用されている「楚辞」を贈ることにより中国的文意を知らせようとの配慮から贈られたなる解釈を開陳する者も居る。これも大手新聞社記者と同水準の説教コメントでしかない。現代中国論の権威である矢吹晋・氏は、「田中角栄の迷惑、毛沢東の迷惑、昭和天皇の迷惑」でかなり長文の検証をしている。しかし幾ら読んでも、どう推理しているのかが出てこないらっきょう文になっている。 2009.5.14日付けの大金先輩情報によると、安岡正篤が「無礼、返却するのが筋」といったのは有名な話しとのことである。安岡氏の立論の構図全体が分からないが、「飛ぶ鳥を落とす勢いの角栄に不吉な屈原を重ね合わせる非礼批判」であったとしたなら、安岡氏の洞察力がさすがのもので、他の評者のそれよりはマシであることになる。しかしながら、その後ロッキード事件で倒れた角栄を知れば、毛主席の洞察力がその上を行っていたことになり、合わせて興味深い。 これらが当代一流とされるインテリの論評水準である。何とお粗末なことだろうか。この連中の末裔が目下、小沢キード事件を仕掛け、執拗に政治訴追、政界追放を策している。彼らには恥を知ると云う知性がないことが分かる。幾ら経験を重ねても凡庸さを深めるだけの、相変わらずの「高みの説教」を重ねる幸せな生涯を経て、それを良しとするのだろう。しかし、今後どんな新解釈が生まれようとも、れんだいこ的「角栄の本質的左派政治に注目し、角栄の前途の険しさ屈原になぞらえた毛沢東の慧眼」を見ようとしない論評は的から外れることになろう。 れんだいこは、目下の政治、政局のチンドン芸に飽いた。論評するに値しない。こういう折には、在りし日の生きた政治があった日々を追憶すべきではなかろうか。池田隼人、田中角栄、大平正芳時代の政治、あれはいったい何だったのだろう。今50年経って見えてくるのは、あの時代こそ戦後日本特有の面従腹背系の日本版左派政治だったのではなかろうか。これが徹底的に壊された現下の政治には知能がない。今こそ学生運動が立ちあがるべきではなかろうか。それが逆になっていると云うことは、学生運動の正体も随分怪しいものだったと云うことになる。ならば、メンツにかけて復権せねばならないのではなかろうか。今となっては余りにも脳がヤラレてしまっているけれども。 田中角栄論新版 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/) 田中角栄の思想と政治姿勢、資金源、人脈考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/sisosiseico.htm) 毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/motakutokaidan.htm) 2004.7.10日再編集、2010.10.29日再編集 れんだいこ拝 |
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矢吹晋・氏は、「田中角栄の迷惑、毛沢東の迷惑、昭和天皇の迷惑」の中で、安岡正篤の「角栄はなめられた」説についてコメントしている。それによると、元大蔵省官僚にして後の大和総研理事長である的場順三著「座して待つのか、日本人」(ワック株式会社、2000年)が次のように説いている。概要「(毛沢東の『楚辞
贈呈は)正義を主張したあまり、国を追われて汨羅の淵に身投げして死んだ楚の屈原をモデルにしたものであり、一国の首相にそんな本を渡すのはたいへん失礼な話で完全になめられていたのである」。 この的場見解は安岡説の流れを汲んでいる。安岡とは、「1898年大阪市生まれ。東京帝大法学部卒。東洋政治哲学・人間学の権威とされる。20代後半から陽明学者として政財界、陸海軍関係者に知られ、財団法人金鶏学院、日本農士学校を創立、東洋思想の研究と後進の教育に従事。戦後、師友会を設立。1983.12.13日、逝去。平成の年号の考案者といわれた」人物である。その安岡氏は、不遇の屈原像を踏まえて、そのような人物を記している「楚辞集注」を贈呈されたのは「無礼、返却するのが筋」と主張していた。的場見解は、これを受けている。これに対して、矢吹氏は、概要「一知半解の見本。的場順三のしったかぶりは安岡説の亜流にすぎないが、この俗説を信ずる者が政財界で意外に多く、中国コンプレックスを裏書きしているように思われる」とコメントしている。 れんだいこは、ならば矢吹氏がどう捉えているのかの矢吹説が分からないが、矢吹氏の「安岡説、的場説批判」は良い線を指摘していると見る。だがしかし角栄を屈原に重ねた毛沢東の慧眼こそ評されるべしと見る。このラインで評する視座の方が正鵠であり、このラインから外れる諸論は愚昧と見る。矢吹氏はどう捉えているのだろうか。「別れ際、毛沢東は卓上にあらかじめ用意してあった線装本をとりあげて直接田中に手渡した。その本こそ『楚辞集註』全六冊である。毛沢東はなぜこの本を贈物に選んだのか」の問題意識は聞かされるが、結論にお目にかかれない。 2010.10.30日 れんだいこ拝 |
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【楚辞について】 | |||||||||||||
楚辞について「『楚辞』~中華文明の黎明期~」(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/soji.html)が参考になるのでこれを転載する。
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2021.5.3日、「フェイスブック関 袈裟夫」。
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Re::れんだいこのカンテラ時評839 | れんだいこ | 2010/10/31 |
【日中最高首脳部会談考その5、政治的意味】 興が乗ったのでもう少し書いておく。 2010.10.31日、新聞各紙朝刊は一斉に30日の東アジアサミットに於ける菅首相と大きく距離を空けて佇むベトナムのグエン首相、中国の温家宝首相の寄りそう写真を掲載している。日中離間の様子を報じていることになるが、如何にもわざとらしい。新聞各紙が一斉に報じているところを見ると、国際金融資本帝国主義の要請によりヤラセと云うことになる。そのわざとらしさを好んで請け負う菅首相とは何者か。真の政治家なら、離間の様子を探られまいとしてワザと接近したり工夫して写真に収まるのが芸である。それをあからさまにする菅首相の政治芸とは何ぞ。鳩山の遊び人政治と似ているが少し違う、小泉と近い劇場型政治であり、小泉がレイプ政治とするなら菅のそれはピエロ政治とみなすべきではなかろうか。いやはや我が日本はトンデモな御仁を代々首相に据えるものである。 バカバカしくて付き合いきれない。もとへ。今日から見て「毛沢東―角栄会談」をどう読みとるべきだろうか。時代は大きく変わった。日本に角栄-大平同盟に象徴される戦後保守系ハト派が居なくなったように、中国にも文革派が一掃され、文革用語で云う走資派の天下となっている。日中が争って国際金融資本帝国主義の総本山である米国との親密さを競うと云う変な時代になってしまっている。時代は大きく変わったことになる。こういう時点から見れば「毛沢東―角栄会談」は幻影的な昔のことになる。しかし、こういうテイタラクだからこそ捉え直すのも一興ではなかろうか。 日本が対中親和政策を押し進めたのは如何なる政治判断によったのだろうか。その理由として、戦時中の贖罪、中国市場の魅力、経済低迷する社会主義中国に対するテコ入れ支援、日本頭越しの米中国交交渉に対する焦りからのバスに乗り遅れるな等々が考えられる。では、中共政権は如何なる政治判断によったのだろうか。思うに、毛沢東政権は、建国後20年余のこの時点において建国革命に失敗し続けていた。建国以来ソ共の指示に従った政策のことごとくが失敗に帰し、その経緯から根っからソ共を嫌悪していた。その背後に潜む国際金融資本帝国主義の左からの干渉に疑問を抱き始め云々、そういう諸々のことを思案した結果、ソ連を油断のならない社会帝国主義国家であると位置づけ訣別せんとしていたのではなかろうか。これが中ソ対立の背景事情考になる。これについては機会があれば別に論じたい。 中国は、日中国交回復交渉のこの時点で既にソ連を明確に敵性国家とみなしていた。この中ソ離間を察知し、米国が食指を伸ばし始めていた。中国は、これまで最も激しく批判して来たアメ帝といっそのこと直接的に向き合った方が賢明と考え路線転換に向かったと考えられる。そうすると、どの程度まで関係修復するのかが国策課題となるが、やはりイデオロギーが違いすぎるので何かと難しかった。しかし、カードとしてこの切り札を切り始め、キッシンジャーの訪中、続いてニクソン訪中が実現した。 注目されていないが、その結果、毛沢東派は文革遂行上、最も親密な盟友関係にあった林彪派を左派性ゆえに粛清している。恐らく、米中親和化の前提代償としてキッシンジャー戦略に基づく「文革の左バネたる林彪派粛清」が要請され、これに応えたのではなかろうか。これにより文革は左バネを失った。このことが毛沢東政権の基盤を危うくすることになった。毛沢東は臍をかむが時すでに遅かった。以降、文革は斜陽化し、四人組逮捕を経て遂に破産する。 毛沢東政権は、そういうしんどい米中交渉の裏腹で、奇跡の復興を遂げつつあった日本に熱い視線を送っていた。日本は、アメ帝との軍事同盟下にありながらも、戦後の平和的国際協調的憲法精神に則り没イデオロギー的に未曽有の経済発展を遂げつつあった。そういう戦後日本を羨望していのではなかろうか。歴史的に繋がりが最も深い日本と提携していくことが中国のためにもなり、日本のためにもなるという国家百年の計による文明的判断を確立し、日中ブロックを形成して、近現代世界を席巻する国際金融資本帝国主義の世界支配計画に対抗して行くべしとする青写真を構想していたのではなかろうか。 しかし、このシナリオは当の中国でも日本でも困難があった。なぜなら、既に両国とも国際金融資本帝国主義のエージェントを政権上層部に抱え過ぎていたからである。その後の流れを見ると見えてくるが、このエージェントの暗躍によって両国とも、日中同盟化シナリオの徹底的破壊方向に向かっている。国際金融資本帝国主義の魔手が暗躍したものと思われる。 これにより中国には走資派の鄧小平政権が誕生し、文革派が潰され、以降この親米親シオニズム系譜が代々政権を司(つかさど)ることになる。この過程で数次の天安門事件が発生している。日本も同じで、ロッキード事件が引き起こされ、田中派が解体され、大平派も分裂させられる。ハト派政権に代わってタカ派政権が登場する。以降この親米親シオニズム政権が代々政権を司(つかさど)ることになる。こうして今や日中両国とも、国際金融資本帝国主義の陣営に与し、その意向を媒介せずには内政も外交も施策できないところまで楔を打ち込まれている。要するに、煮て食おうが焼いて食おうが太らせて食おうが絞りとろうが自在の「カゴの鳥」にされている。 話を戻す。1970年代前半のかの時、日本に田中政権が登場した。田中首相、大平外相、二階堂官房長官の布陣となったが、戦後日本政治史上ハト派系の勢威が頂点に達していたのがこの時ではなかったか。考えて見れば、よりによって角栄、大平ともが貧農出身にして戦後秩序ならでは頭角を現すことのできた政治家であった。存在が意識を決定するとしたなら、その政治が左派系になるのも理が叶っていよう。三者の生き様も良い。れんだいこは、この勢力を日本の在地土着型プレ社会主義、あるいはもっと遡って縄文系社会主義に基づく「近代天皇制イズムに拠らなくとも成り立つ縄文系民族主義者団」ではないかと推定している。この観点から戦後史を見ていくと、既成の政治史論ではさっぱり役に立たないことが分かる。どんな党派のものであろうと権威大御所のそれでも納得できるものがない。 れんだいこ史観によれば、かの時の毛沢東ー角栄の最高首脳会談とは、中国の土着型社会主義者と日本の土着型社会主義者が邂逅した後にも先にもない一回こっきりの歴史的意義深いものであったということになる。緊張し且つ緊迫した中にも旧知の間柄の肝胆相照らす同志的雰囲気が漂っていたのもむべなるかなであろう。面白いことに、時のニセ左翼がこれに如何に対応したか。ニセモノ度の強さに応じて金切り声を上げ罵倒している、あるいは陰に陽に価値を貶めるよう策動している様が見えて来る。後日勃発したロッキード事件で誰が最も執拗に反角栄的動きをしたか云うまでもない。そして、その正義が未だに語られ通用している。そろそろそういう不義を撃たねばなるまい。通史を書き替えせねばなるまい。 もとより、時代は動いている。かの時代に戻せば良いと云う単純なものではない。かの時代から何を拾いだし継承するのか、何を吐き出し否定するのか現代水準で諮らねばなるまい。これを思う時、れんだいこの眼には、小沢政治がまだしも良質ではないかと思っている。小沢政治の先に日本の未来があると思っている。これに引き替え、反小沢標榜組の政治は名目の党派、派閥、グループが違えども皆シオニスタンに見える。仮面正義集団でありシオニズム奴隷の売国奴である。誰が幾ら民族主義者ぶろうとも口先だけであり、実際にやっていることを見ればシオニズムの請負興業師、手配師ばかりである。こういうシオニスタン勢力を排斥し、小沢政治を左から自己否定して行く永続革命の内に唯一の日本の再生の道が有ると思っている。 こう構図ができたら、半ば解決されたも同然であろう。新日本創出に向けて歩一歩参ろう。日本人民大衆の叡慮を信じ連帯しよう。マスコミメディアの反動的な親シオニズム言論に抗して、まずは頭脳戦で勝利しよう。朋輩は幾らでも居る。シオニスタンは一見威勢が良くても、その陰謀性故に常に少数にならざるを得ない。ここに彼らの欠陥が有り我々の勝利のカギあると思う。目指せ大衆路線。大衆を信じて邁進し草莽ネットワークを構築せよ。 2010.10.31日 れんだいこ拝 |
Re:【毛沢東―角栄首脳会談の秘話】 | れんだいこ | 2003/03/31 |
帽子屋さん皆さんちわぁ。毛沢東的世界観についてですが、思うところを書き付けてみます。毛沢東は、この時点において、根っからソ共を嫌悪しております。これを推測するのに、建国以来ソ共の指示に従った政策のことごとくが失敗に帰し、その他諸々のことを思案した結果、本質的にロシア大国主義でしかないのに左派的言辞を弄ぶ最も油断のならない社会主義的帝国主義国家であると位置づけていたのではないでせうか。 それ故に、この時点では、ソ連を明確に敵性国家とみなしております。そうすると、そのソ連と対立しているアメ帝とどの程度まで関係修復するのか、これが課題となりますがやはりイデオロギーが違いすぎるので難しい。しかし、カードとしてはこの切り札を切り始め、キッシンジャーの訪中、続いてニクソン訪中が実現します。その結果、最も親密な盟友林彪派がその左派性ゆえに粛清されることになります。 むしろ、毛沢東は、奇跡の復興を遂げつつあった日本に熱い視線を送ります。アメ帝との軍事同盟下にありながら、平和的国際協調的憲法精神に則り没イデオロギー的に経済発展を遂げつつある日本を羨望していた感があります。歴史的に繋がりも深いこの日本と提携していくことが、中国のためにもなり日本のためにもなるという国家百年の計による文明的判断を確立していたように思います。要するに、日中ブロックを形成して西欧諸国と伍していくという青写真を構想していたのではないかと思います。 しかし、このシナリオは当の中国でも我が日本でも困難がありました。その後の流れを見ると、両国ともこのシナリオの徹底的破壊方向に向かったことで分かります。周恩来はこのシナリオの合点者でしたが、鄧小平以降現政権に至る系譜は親米派で固められていきます。日本も同じです。今や、日中はアメ帝を媒介せずには何も手が打てないところまで楔を打ち込まれております。 話を戻します。70年代前半のかの時、日本に田中角栄内閣が登場しました。首相・角栄、外相・大平、官房長官・二階堂の布陣ですが、戦後日本政治史上ハト派系が頂点に達していたのがこの時でした。考えて見れば、よりによっていずれも貧農出身の戦後秩序ならでは頭角を現すことの出来た好人物であったことが分かります。皆生き様が良いですね。 れんだいこは、この勢力を日本の土着型社会主義者集団ではないかと推定しております。この観点から戦後史を見ていくと、既成の政治史家の学問ではさっぱり役に立たないことが分かります。どんな党派のものであろうと大御所のそれでも納得できるものがありません。 それはそれとして、毛沢東ー角栄会談とは、中国の土着型社会主義者と日本の土着型社会主義者が邂逅した後にも先にもない一回こっきりの歴史的意義深いものであったということになります。緊張し且つ緊迫した中にも旧知の間柄の肝胆相照らす同志的雰囲気が漂っていたと推測されます。 面白いことに、時のニセモノ左翼がこれに如何に対応したか。ニセモノ度の強さに応じて金切り声を上げ罵倒している、あるいは陰に陽に価値を貶める策動している様が見えてまいります。後日発生したロッキード事件で誰が最も執拗に反角栄的動きをしたか、申すまでもありません。この観点から当時の裏づけを取る作業をして見たいのですが、時間がありません。 >「靖国」などで注文をつける中国政府は、右派には評判が悪いですが、要するにこの観点からすれば「なぜ、漁夫の利を取らせるような日中対立に持ち込みたいのか?」という疑念があるのでしょうね。 れんだいこ史観によれば、「靖国」などで注文をつける中国政府は、かっての毛沢東的世界観とは反目の渓流です。旧日本軍部の所業を批判する観点は、毛沢東時代にも当然ありましたが、そもその目線が違います。今日の中国政府の海外からする何でもかんでも批判は、別の人種達による歴史責任追及であり、それはかなり得手勝手なものがあると思っております。しかしこの連中と宮顕ー不破系日共とは思想が合うようで、最近は招いたり招かれたりして小手先の体制修復運動を賛美しあって居ります。よほどウマが合うのでせうね。 |
【「日中の戦略的同盟提起した毛沢東 田中角栄と毛沢東」 】 |
「阿修羅 国家破産38」の2005.1.30日付け愚民党氏の投稿文で「21世紀ジャーナル」の「日中の戦略的同盟提起した毛沢東」の一文が紹介されている。これを転載しておく。 |
最近読んだ中で一番感銘を受けた本だった。これまで知りたいと思っていたことや、おぼろげながら感じていたことに明快な答えを与えてくれたからだ。 ひとつは日中国交回復をめぐる真実。もうひとつはロッキード事件の真相。ともすれば田中角栄の“功罪”、“光と陰”のような形で言及されるこの二つの出来事は、実は、「アメリカの従属下にある日本の自立」という点でひとつにつながっていた。アメリカの世界戦略にくさびを打ち込もうとする革命家、毛沢東の壮大な戦略的思考は、その当時の世界情勢の客観的実際から出発し、その矛盾関係を分析して打ち出されたものであり、唯物弁証法哲学に基づく政治の実践であった。 著者が「民族派宰相」と形容する田中角栄は、独自のエネルギー資源確保をめぐって、みごとに毛沢東の戦略に沿った動きを開始し、アメリカの怒りを買って失脚する。 1974年、国連で鄧小平が演説した「三つの世界論」は、新しい時代に対応する毛沢東の世界戦略であった。アメリカとソ連の二超大国を第一世界、ヨーロッパと日本の先進国を第二世界、アジア・アフリカ・中南米の発展途上国を第三世界と規定したこの戦略は、第三世界が団結し、第二世界をいかに味方につけて第一世界に反対する世界的包囲網を築くかというものであった。 われわれが住む日本は第二世界に属しており、「三つの世界論」からすれば第三世界の側に獲得して第一世界との矛盾を拡大していくべき存在であった。日本国内で労働運動や“革命運動”に取り組んでいた俗人たちの目から見ると、「アメリカに従属して日本人民を支配している日本独占は敵」であり、“獲得する対象”と言われても、にわかには理解しがたいことであったに違いない。 だが、毛沢東は違っていた。アメリカと共同で日本人民を支配しているとは言え、実際には自分自身もアメリカの支配下にある日本独占の中には、“親米独占”と“反米独占”とがあると見た毛沢東は、その矛盾を利用して日本独占を分断し、アメリカに対抗する勢力として中国と世界人民の側に獲得しようとした。 ニクソン訪中時をはるかに上回る歓待をし、戦争賠償請求権をあっさりと放棄し、日米「安保」条約の存在をも認めて田中を驚かせた周恩来の外交は、毛沢東の戦略に沿って第二世界である日本を獲得するという強い方向性に裏付けられたものであった。 「田中角栄と毛沢東」と題するこの本の最大の焦点は、これまで「政治の話はいっさいなかった」とされていた二人の会談の本当の中身を、ねばり強い取材によって明らかにしたことである。ページ数にしてほんの2ページほどにしかならないこの部分の記述は、これまでのどの記録にも記されていないものであり、毛沢東が「組むというのなら徹底して組もうではありませんか」と田中に日中同盟を呼びかけるという大胆なものであった。 「三つの世界論」が、単に世界を解釈するためのものではなく、世界の矛盾関係を換えるための戦略であるということの意味はこういうことなのか。感銘を受けたのはまさにこの点であった。 中国から帰った田中は、その後、シベリアやインドネシアをはじめとする世界中の油田を回り、アメリカをはじめとするメジャーが独占していた石油資源に挑戦する。田中は総理大臣になるはるか以前から、日本が自立するためには資源を自前で確保しなければならないと考えていたが、日中国交回復を含むその後の資源外交は、民族派宰相としての使命を担ったものであったに違いない。 石油メジャーや金融資本を傘下におき世界を支配するアメリカの“闇の権力”にとって、日本の自立を目指す田中の動きはとうてい許されるものではなかった。日本の裁判の慣例にはなじまない方法で進められたロッキード裁判は明らかに田中の政治生命を絶つためにアメリカが仕組んだものであった。田中は「やられた」とつぶやいたという。全てを承知の上での田中の行動だったのであろう。 最近の日本の政治は、骨のないどうしようもないものになっており、日本中をおおう閉塞感を打ち破る方向を示し得ないでいる。しかし、その元凶が、85年のプラザ合意に端を発するアメリカの日本政策であり、日本が稼いだ金はアメリカに環流するばかりで全く日本再生のためには回ってこないことが明らかになりつつある。言論界には堂々と日本の自立を口にする人も出始めている。 しかし、政治の世界では、自立を指向していたと思われる田中真紀子が、父親のように失脚させられ、今のところ、正面切って自立を訴える政治家は見あたらない。世界を見ても、毛沢東がしたように地球規模でものを考え、歴史の発展方向を見すえて大胆に行動するものはいない。 そのように考えたとき、田中角栄と毛沢東の会談は、ほんの短い時間であったにもかかわらず、世界の矛盾関係を変えようという歴史に残る壮大なものだったのだということがわかる。 あれからすでに30年が経つが、この会談を通じて毛沢東が示したことは今もまだ通用する。というよりもむしろ、「今こそその時」ではないか。この本を通じて毛沢東がそう語りかけているように思った。 日本の対米自立のためのHP http://www.21c-journal.net/index.html |
【「その夜、新たな歴史がひらかれた 毛―田中会談を再現する (横堀 克己)」】 |
「阿修羅 国家破産38」の2005.1.30日付け愚民党氏の投稿文で横堀克己氏の「その夜、新たな歴史がひらかれた 毛―田中会談を再現する日中の戦略的同盟提起した毛沢東」の一文が紹介されている。これを転載しておく。 |
●特集 国交正常化から30年 新世紀の中日関係を築くために 30年前の9月29日午前10時――これは永遠に史書に記載される時刻であろう。中日両国政府が北京で、『共同声明』に調印した瞬間である。この時を期して、半世紀以上に及んだ両国の対立と抗争、さらに「戦争状態」にピリオドが打たれ、両国の国交が回復した。中日両国の人々は喜びにわきかえった。中日関係の長期にわたる友好の一ページが開かれたのである。 30年来、中日関係の道はデコボコや曲折があったが、「友好」を奏でる主旋律が止むことはなかった。国交正常化当時の、両国の各階層、各団体の人々が果たした数々の努力に想いをはせ、さらに今日の中日関係を考えるとき、私たちは中日の友好と平和な環境をつくるために力を尽くしたあの「井戸を掘った人々」を忘れることはできない。 中日関係は「和すればすなわち利あり、闘えばともに傷つく」。知恵も能力もある中日両国の人民は、この新しい世紀に、引き続き中日友好協力の新たな「交響曲」を創作し続けていくに違いない。 その一 その夜、新たな歴史がひらかれた 毛―田中会談を再現する 横堀 克己中国の毛沢東主席と日本の田中角栄首相が初めて握手を交わしたのは、30年前の、1972年9月27日の夜のことであった。この歴史的な会見によって、中国と日本が長かった「戦争状態」を終わらせ、正式に国交を正常化することが最終的に確定したのである。 北京・中南海の毛主席の書斎で行われた毛―田中会談に同席した人は、日本側は大平正芳外相、二階堂進官房長官、中国側は周恩来総理、姫鵬飛外相、廖承志中日友好協会会長である。だが残念なことに、いまはみな、この世を去ってしまった。 会談の内容は、終了後、二階堂長官が日本の随行記者団にその模様をブリーフィングし、それが翌朝の日本の新聞に載っただけで、中国側からのくわしい発表はなかった。はたして二階堂長官が言うように「一切、政治的な話は抜きだった」のだろうか。本当は何が話し合われ、どんなやりとりがあったのか。 それを知る二人の生き証人がいる。通訳・記録係としてこの会談に同席した二人の中国女性だった。王效賢さんと林麗雹さんの二人である。日本側の事務方は参加していない。 二人の記憶などをもとに「歴史的一夜」を再現してみた。すると、これまで伝えられていなかった両国首脳の、生き生きとしたやりとりがわかってきた。ユーモア溢れる和やかな雰囲気の中にも、国交正常化のためにはゆるがせにできない問題も、この会談で真剣に話し合われていたのである。(文中の肩書きはいずれも当時) 周総理の細かい心配り 田中首相一行が泊まっていた釣魚台の迎賓館に、毛主席が会うとの知らせがあったのは、一行が中国を訪問してから三日目の夕刻だった。その知らせは「突然やってきた」と、日本側は受け止めている。大平外相の回想によると、招かれたのは田中首相、大平外相だけだったが、日本側の要望で二階堂長官も加わることになり、三人は車で迎賓館を出発した。 田中首相の一行は9月25日に北京空港に着き、ただちに田中首相と周総理による第一回首脳会談が開催された。26日には第二回会談が、27日には第三回会談が挙行されたが、中国の最高指導者の毛主席はずっと姿を見せなかった。第三回会談の直後、毛主席が会見するということは、交渉が基本的にまとまったことを予感させるものであった。 当時、外交部アジア局に勤めていた王效賢さんと、中聯部(中国共産党中央対外連絡部)で働いていた林麗ウンさんは、自宅に帰っている暇はなかった。二人とも、その他の中国側のスタッフとともに、交渉が行われた人民大会堂の中にある部屋に泊り込んで仕事をしていた。第三回会談が終わったあと、突然二人は「これから毛主席のところに行く」と告げられた。 「周総理が自ら『私の車に乗りなさい』と言い、人民大会堂から高級乗用車の『紅旗』で、中南海にある毛主席の住居に向かいました。前の座席に運転手と護衛が乗り、後ろの座席に周総理と私たちが乗ったのです」と二人は言う。 周総理は、事務方で働く人たちに細かい心配りをする人であった。林さんは、以前にも周総理の車に乗せてもらったことがあった。 それは1956年、日本・神戸で教育を受けたあと、「祖国建設のため」中国に帰国した林さんが、初めて毛主席の通訳をしたときのことである。それまでは中聯部の趙安博氏が毛主席の通訳を勤めていたが、この日、突然、通訳せよと言われたのだ。だが毛主席の言葉は、湖南の訛りが非常に強く、同じ中国人でも、慣れないとよく聞き取れない。 「一瞬、頭が真っ白になって、なにがなんだかわからなくなってしまった。するとそばにいた周総理や廖承志会長が、『小姑娘、落ち着いて』と励ましてくれたのです。西郊賓館での会議の後、中南海へ戻るとき、周総理が自分の車に乗せてくれました。夕暮れの西単の十字路にさしかかると、時計塔の時報が聞こえてきました。それを今でもはっきり覚えています」と林さんは当時を振り返る。 王さんもまた、周総理の心配りを思い出す。 日本との国交正常化交渉が始まる少し前、王さんは林さんといっしょに、毛主席と周総理が話し合う場に連れていかれた。「毛主席の言葉は難しいので、耳ならしをしておいたほうが良い、という周総理の配慮だった。そういうチャンスが二回ありました。おかげで交渉が始まるときには毛主席の言葉はよくわかるようになっていました」と言うのである。 主席のユーモアが空気を変えた 周総理と王さん、林さんを乗せた『紅旗』は、中国の指導者たちが住み、執務する中南海にすべり込んだ。 会見場所は毛主席の住まいの中にある書斎だった。毛主席をはじめ中国側の要人はすでに書斎の中にいた。毛主席と周総理、姫外相は薄いグレーの中山服、廖会長だけが濃いグレーの中山服を着ていた。毛主席は顔色もよく、足取りもしっかりしていた。 壁の書棚は、中国の古い書籍でいっぱいだった。毛主席はすでに読んだ本に白く小さな付箋をつけていた。大きなスタンドの灯りはこうこうと輝き、部屋はとても明るかった。床には赤い絨毯が敷かれ、椅子には薄いピンクのカバーがかけられていた。九月末なのに暑い夜だった。 「書斎といってもとても広々としていた。声が聞こえないといけないので、私たち二人は椅子を動かして、毛主席に近いところに座りました」と林さんはいう。 それからどれほどの時間が経ったか、はっきりしない。午後八時、田中首相の一行が到着した。 「毛主席は田中首相を迎えるため、部屋の外に出て、立って待っていました。田中首相は顔の汗をハンカチで拭きながらやってきました。二人はしっかりと握手し、それを中国のカメラマンがフラッシュをたいて写しました。撮影は一回だけでした」と王さんは回顧する。 田中首相は毛主席に大平外相を紹介し、二人は握手を交わした。そのときである。毛主席が「天下大平」と言ったのだ。「大平」を「太平」にかけたのだ。林さんはこれを「天下泰平ですね」と訳した。この当意即妙のユーモアに、笑い声が起こった。最初は厳粛な顔をしていた田中首相の顔がほころび、それ以後、和気あいあいとした雰囲気となった。 テーブルには杭州の竜井茶が入れられた。愛煙家の毛主席だったが、タバコに手を出さなかった。暑がりで有名な田中首相も、このときばかりは愛用の扇子を取り出さなかった。 「喧嘩はすみましたか」 会談が始まった。最初に口を開いたのは、毛主席だった。後に有名となるあの言葉である。中国語ではこう言った。 「チャオ(口に少)完架了マ?総是要チャオ一些的。天下没有不チャオ架的嘛」 (喧嘩はもうすみましたか。喧嘩は避けられないものですよ。世の中には喧嘩がないわけはないのです) 二階堂長官のブリーフィングでは、最後の一句はなく、「喧嘩してこそ初めて仲良くなれます」と言ったことになっている。 「喧嘩」とは何を意味するのか。それは国交正常化に当たって、戦争の終結をどう宣言するか、台湾をどう位置付けるか、などを巡って中日間に大きな意見の隔たりがあり、首脳会談で激しい論戦が交わされたことを指す。 これに対し田中首相は「少しやりました。しかし、問題は解決しました」と答えた。三回目の首脳会談で、双方が知恵を出し合い、大筋で合意を見たことを述べたのだった。 すると毛主席は、大平外相と姫外相を見やりながら「ト續c他打敗了ーノ」とユーモアをこめて尋ねたのだ。「あなたは、相手を打ち負かしたのですね」というわけだ。 大平外相はあわてて答えた。「いいえ、打ち負かしてはいません。我々は平等です」。こういい終わるや、大平、姫両外相は声を合わせて笑った。 周総理がこの会話をひきとって「両国外相很努力」と言った。「両国の外相はともに大変よくがんばった」とその労をねぎらったのである。田中首相もこれに続けて「両国の外相は、大変努力して、多くの仕事を成し遂げました」とたたえた。 すると毛主席は、姫外相を指差しながら「他是周文王的后代」と言った。「彼は周の文王の末裔だ」というのである。 周の文王は、周王朝の基礎を作った名君と言われ、姓は姫、名は昌といい、太公望呂尚をはじめ多数の人材、賢者がその下に集まったことで知られている。周の勢いを恐れた殷の紂王のために捕らえられたこともあるが、虞とワヌの両国の争いを裁いてから勢力を伸ばした。在位五十年といわれ、その子の武王が天下を取る基礎を築いた人物である。 歴史に詳しい毛主席らしい、人物紹介である。 すると周総理が「周文王姓姫 他不姓我這個周」と言った。「周の文王の姓は姫で、私のような周姓ではありません」ということだ。「これを聞いてみんなが笑った」のを王さんは覚えている。 周総理がこう言った理由は何か。中国の歴史や氏姓に詳しくない日本側に、毛主席の発言の意味を解説したのか、それにとどまらず、もっと深い含意があったのか、それはよくわからない。周総理は、自分は周の文王のような人物でない、と謙遜したのではないだろうか。 「添了麻煩」はどうなった 今度は廖会長の話になった。二階堂長官の話では「毛主席は廖会長を指差しながら『彼は日本で生まれたので、今度帰る際にはぜひ連れていってください』といい、田中首相が『廖承志先生は日本でも非常に有名です。もし参議院全国区の選挙に出馬されれば、必ず当選するでしょう』と応じた」という。 王さんも廖会長に関してこういう趣旨の話があったことを確認している。当時の参議院は、全国区と地方区に分かれていて、全国区の候補者は、知名度の高い人物が当選しやすい制度だった。 この後、中華料理や中国茶、テゥ台酒の話になったという。田中首相が「テゥ台酒は六〇度といわれますが、とてもおいしい」と言うと、毛主席が「誰が六〇度と言いましたか。テゥ台酒は七五度ですよ」と応じ、さらに中国の歴史の話や日本の選挙などについて「ユーモアを交えた和やかなやりとりが続いた」と二階堂長官は紹介している。だが、王さんも林さんも、こうしたやりとりを覚えていない。 しかし、二階堂長官が言わなかった重要なことを、二人はしっかり記憶していた。それは「添了麻煩」(迷惑をかけた)に関するやりとりである。 毛主席が「添了麻煩的問題 怎マ解決了」(「添了麻煩」の問題はどうなったのか)と言い出したのだった。そして書斎の後ろの方に控えていた毛主席の英語の通訳で、若い女性の唐聞生さんを指差しながら「女同志有意見」(彼女たちは文句を言っているのです)と言ったのだった。しかし毛主席の口調は、厳しいものではなく、穏やかだった。 「添了麻煩」の問題は、田中首相が中国訪問の初日に、人民大会堂で開かれた歓迎宴で、こう演説したことに端を発する。 「過去数十年にわたって日中関係は、遺憾ながら、不幸な経過をたどってまいりました。この間、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものであります」 日本側通訳が「多大のご迷惑をおかけした」を「添了麻煩」と中国語に訳したとき、宴会場にざわめきが起こった。中国側の日本語通訳を担当していた林さんに、英語の通訳の唐さんが「『添了麻煩』なんて軽すぎるのではないの」とささやきかけたのだ。 確かに「添了麻煩」という表現は、「女性のスカートに水をかけてしまったときに使われる」程度の軽い言葉とされている。「周総理もこれを聞いて憤慨した」と、周総理周辺にいた人たちは証言している。日本の侵略による戦争でもたらされた被害と責任について日本側がどう認識しているかを、この表現は端的に示していた。だから首脳会談では、これをめぐって激しい議論が交わされてきたのである。 毛主席のこの問いに大平外相が答えた。「これは、中国側の意見に従って改め、解決しました」 確かに中日双方の激しい議論の末、九月二十九日発表された『共同声明』では、「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国人民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記されたのだった。日本側が「添了麻煩」という表現をやめ、中国側の主張に歩み寄ったことは明らかだ。 二階堂長官は、「政治的な話はなかった」と言ったが、これこそまさに政治的なやりとりだった。 だが、二階堂長官の苦労も察してあげなければならないだろう。この時点では、双方の意見は大筋で合意に達したものの、『共同声明』の文言をめぐって最終的な詰めの作業がまだ続いていた。それが随行記者団に漏れれば、思わぬ結果を引き起こすかもしれない、と心配したに違いない。 一時間に及ぶ会見は、和やかな雰囲気のうちに終わりに近づいた。 毛主席は、書棚の中から糸とじ本の『楚辞集注』六巻を取ってくるよう服務員に言いつけ、立ち上がってそれを田中首相に手渡した。『楚辞集注』は、楚の宰相であり詩人でもあった屈原らの辞賦を集めた『楚辞』に、南宋の学者、朱熹が注釈を付けたものである。 なぜ『楚辞集注』を贈ったのか。さまざまな憶測が流れた。「屈原に引っかけて、国民の利益のため決然として訪中した田中首相の愛国心を称えたのだ」という見方もあった。真相はよくわからない。しかし「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と王さんはみている。 毛主席は、田中首相が強く固辞したにもかかわらず、書斎から玄関まで一行を見送りに出た。毛主席の足取りは速く、遅れまいと、林さんは小走りについて行ったという。 こうして「歴史的な会見」は終わった。 原点に帰れ あれから三十年。中国と日本はそれぞれ発展し、中日関係も貿易や人の往来の面で飛躍的な伸びを見せた。しかし、教科書問題や歴史認識、靖国神社への首相の参拝などで、中日関係に波風が立っている。 「歴史的会見」に同席した王さんと林さんは、いま、何を考え、どんな教訓を引き出しているだろうか。 王さんはこう言う。「中日両国はどんなことがあっても戦争してはいけない。戦争で被害を受けたのは両国の人民であり、ごく少数の日本軍国主義者とは区別すべきだ。歴史を過去のものにし、前に向かって進む必要がある。そのためには、日本は過去の侵略の歴史を承認し、反省する。そこに『中日共同声明』の原点がある。教科書問題などが起こるたびに『原点に帰れ』と私は思う」 林さんはこう言う。「周総理は、『飲水不忘掘井人』と言われた。今日の中日関係を考えるとき、その井戸を掘った人たちの苦労を忘れてはいけない。国交正常化に到るまでも、民間交流が大きな役割を果たした。民間大使と言われた西園寺公一先生は、国交正常化が実現するまで禁煙を続け、『共同声明』が発表されてからタバコに火をつけて、おいしそうに一服吸った。国交正常化という仕事は、容易ではなかったのです」 |
筆者略歴 1933年3月、台湾・台中生まれ、40年から52年まで、日本・神戸の小、中、高校で学び、神戸中華同文学校の教員となる。52年に中国に帰国し、北京大学で生物学を学ぶ。53年から中連部に勤務し、局長となる。全国人民代表大会常務委員を五期つとめた後、現在、中国共産党中央委員、中華全国帰国華僑連合会副主席、中国国際文化交流センター副理事長。 王效賢さん 1930年6月、河北省生まれ。北京大学で日本語を学び、53年から外交学会、71年から外務省勤務。外務省日本課長を経て83年から86年まで、駐日中国大使館に勤務。86年から中日友好協会副会長兼秘書長、中国人民対外友好協会副会長をつとめ、現在は中日友好協会副会長、政治協商会議全国委員。 |
(私論.私見)