イエス履歴その9 | イエスの処刑経緯 |
更新日/2024(平成31.5.1日より栄和改元/栄和6).1.24日
これより以前は、「イエス履歴その8、イエスの拘束と尋問の様子」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、イエスの処刑経緯を確認する。各種情報を整理すれば次のようになる。この過程でのイエスの御言葉は、どの程度まで正確なものなのかどうかは分からない。この辺りは推定する以外にない。れんだいこ的には、もっと厳しく的確な言論が為されていたのではないかと窺っている。 |
【イエスの釈放を廻るやり取り】 |
過腰祭の度ごとに、人々が願い出る囚人を一人釈放するという習わしがあった。ピラトは、イエスに罪を感じなかったので、過腰祭の習わしを利用して釈放しようと努めた。この時、暴動を起こして人殺しをした罪で投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私はあなたたちの前で取り調べたが、この男には訴えているような犯罪は何も見つからなかった。一体、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。 これに対して、祭司長、長老、律法学者たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得しはじめた。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、律法学者たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆な皇帝に背いています。断固十字架につけるべきです」。イエスはもはや何もお答えにならなかった。律法学者たちはますます激しく「十字架につけろ」と叫び立てた。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求通りに釈放した。 ピラトが、祭司長、律法学者たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」。ピラトが、「あなたたちの王を私が十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「私たちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、イエスを鞭打ってから兵士達に引き渡し処分を任せた。 |
【総督の兵士達のイエスに対する仕打ち】 |
総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、ヘブライ語でガバタ、即ち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。部隊の全員をイエスの周りに集めた。それは過越祭の準備の日の正午ごろであった。 兵士たちは、イエスの着ている物をはぎ取り、紫の外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し、侮辱した。また、また何度も葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいてイエスの苦悶の様子を覗き込んで弄んだ。 |
【イエスが刑場に引き立てられる】 |
このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。大勢の民衆と悲しみ嘆いて止まない女たちの群が、連行されるイエスの後を追った。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に連れて行った。薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 |
【イエス処せられる。イエスの最後】 | ||||
ニーサンの月(ユダヤ歴で、太陽暦の3~4月頃)の過越祭の日の午前9時頃、イエスは、エルサレム市外のゴルゴタの丘で十字架に磔(はりつけ)された。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。罪状書きを認めた立て札も掲げられた。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男はユダヤ人の王と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。 イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。(「他の二人はローマ支配に抵抗して戦った者である」という記述もある) イエスの着ていた服は四つに分けられた。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、誰のものになるか、くじ引きで決めよう」ということになった。それは、「彼らは私の服を分け合い、私の衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちは奇しくもそのとおりにした。 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 イエスの苦悶の最中、祭司長、律法学者、長老たちは、次のように侮蔑した言葉を投げかけた。
昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時頃、イエスは大声で叫ばれた。
これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と云う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは再び大声で叫ばれた。
イエスは、「成し遂げられた」との言葉を残して 息を引き取られた。この時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。紀元30年、こうしてイエスは十字架上で処刑された。 |
【タルムードのイエス処刑記述】 | |
イエス処刑について、パリサイ派の生活規範信条集タルムードの「サンへドリン43」は次のように記している。
イエスのパリサイ派攻撃が激しかったように、パリサイ派のイエス憎悪のほどが分かろう。 |
【イエスの処刑を廻る議論考】 |
イエスの処刑を廻って二つの対立する議論がある。主犯をローマとするのか、ユダヤ教長老派とするのかで見解が分かれている。これをどう窺うべきであろうか。その前に一言しておきたい。イエスを実在とみるのか比喩的な象徴人物とみるのか、単数と見るのか複数の複合人物とみるのか、福音書の記述をそれぞれ正確無比とみて絶対視するのか福音者のみたイエス論として相対的にみるのか。本来はこの辺りから論を説き起こさねばならないだろうが、ここでははしょることにする。いわゆる新約聖書を通じて捉えられるイエス像を元にして、イエス処刑の主犯を探り当てることにする。 最近、一部でか大手を振ってかどうかまでは分からないが、「イエス処刑主犯=ローマ帝国説」が登場しつつある。その文意には、「イエス処刑主犯=ユダヤ人説による不幸なユダヤ人迫害史即ちありもしない罪が捏造され十字架贖罪論となり、その後の二千年に及ぶユダヤ人迫害の土台を形作ることになった」として、この「負のユダヤ史」からの転換を企図しているように見える。その主張は大凡(おおよそ)、イエスはローマの植民地支配への反逆者にして祖国ユダヤ解放の旗手としての革命家であったと見立てる。それが証拠に、イエスは「ユダヤ人の王」を僭称しており、ローマ支配をくつがえして聖書記述の「神の国」を招き、「ユダヤ人王国」を建設しようとしていたとする。このセンテンスで、イエスを黙示録的な政治的メシアと位置づける。イエスのこの性質故に、イエスはローマ帝国によって処刑されねばならなかった云々とする。実際、ローマ兵に捕らえられ、ローマ総督ピラトからローマ法に則る罪名の死刑宣告を受け、ローマの処刑法である十字架に掛けられ、ローマ兵によって刑殺されたではないかと云う。 かく立論する当人は至極真面目に主張しているのかも知れない。だがしかし、れんだいこは採用しない。福音書の記述を透かして見えてくるイエス受難物語は、ローマと闘うイエスではない。当時のユダヤ教内の教義的正統を争う諸セクト間の抗争に割り込んで、彼らと論争するイエスこそ浮き出てくるイエスである。これをもう少し述べれば、イエスは、ユダヤ教内の守旧派に対して革新的急進主義的に登場しつつあったパリサイ派を強敵とみなし、このパリサイ派の教義と生態に生涯を賭けた理論闘争を挑んだ形跡が認められる。何となれば、パリサイ派の論こそ神の名を語って神をないがしろにし、神殿を冒涜し、金貨を掻き集める二律背反信仰であり、いわば「信仰の自己否定教」であったからに他ならない。 イエスは、パリサイ派が次第にユダヤ教-ユダヤ社会を席巻し、その結果として富の偏在が生まれ、富の力による神の利用と云う不義が罷り通る社会の到来を見抜いていた。であるが故にイエスは、パリサイ派的教義の二枚舌を論難し、信仰の義の正邪を賭けて争った。ここに、イエスの宗教史的歴史的地位の高みがある。イエスは、パリサイ派をも含む当時のユダヤ教界の腐敗堕落を厳しく批判し続けた。そのイエスの説法を聞いた当時の人民大衆は、イエスの御教えこそ本来の宗教ではないかと覚醒し、イエスを救世主と仰ぎ従う動きを強めていった。ここを認めるのがイエス-キリスト教の原点であり、ここを曖昧模糊にすることはイエス-キリスト教の自己否定であろう。 当時のユダヤ教界は、そのようにして台頭し始めて来たイエス派を恐れ、双葉の芽を摘むかの如くに早急な対応策を講じた。但し、ローマ帝国の植民地であったので処罰権を持たなかった。そこで、イエスがローマ法により裁かれるように誘導し、様々な事由を付けてイエスをローマ当局に引き渡した。総督ピラトは当初、ユダヤ教内部の争い事であるとして内政不干渉的態度で様子見していた。しかしながら、イエスを十字架刑にせよとの執拗な要求と圧力によって尋問い続け、一度はイエス無罪あるいはローマ帝国関知せずの立場に傾きつつあったが最終的にイエス処刑を決断した。そしてイエスは最も辱められながら刑場に赴かせられ露と消えた。これが実相ではなかろうか。この観点を揺るがす必要はないのではなかろうか。現在、イエス-キリスト教の骨格的な重要構図がいろんな角度から歪曲させられつつある。これを危ぶむべきではなかろうか。 イエスの処刑論の観点を修正するとすれば、「イエス処刑主犯=ユダヤ人説」ではなく「イエス処刑主犯=パリサイ派説」としてより精緻にすることであろう。これが為すべき理論的営為方向であるところ、「イエス処刑主犯=ローマ帝国説」に向かわしめるのは寧ろ反動的ではなかろうか。イエスを反ローマ主義の独立運動革命家として描き出し、イエス処刑の責任をローマに押し付ける論は、「イエス処刑主犯=ユダヤ人説」がユダヤ人に迷惑だったように今度はローマ人に迷惑な話でしかなかろう。それを敢えて「イエス処刑主犯=ローマ帝国説」に向かわしめるのは、イエスの御教え、生きざまを隠蔽し、ユダヤ教界の悪だくみを免責する悪質な理論ではなかろうか。のみならず、イエス死してなおイエスを冒涜する二重の詐術ではなかろうか。れんだいこはキリスト教徒ではないが、これぐらいは云わせて貰おうと思う。 2010.7.22日 れんだいこ拝 |
これより以降は、「イエス履歴その10、イエス処刑以降の使徒の動き(「使徒行伝」)」に記す。
(私論.私見)