イエス履歴その7 イエス派のエルサレム神殿乗り込み

 更新日/2024(平成31.5.1日より栄和改元/栄和6).1.24日

 これより以前は、「イエス履歴その6、本格的伝道」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「イエス派のエルサレム神殿乗り込み」を確認する。各種情報を整理すれば次のようになる。この過程でのイエスの御言葉は、どの程度まで正確なものなのかどうかは分からない。この辺りは推定する以外にない。れんだいこ的には、もっと厳しく的確な言論が為されていたのではないかと窺っている。


【イエスと律法学者、パリサイ派、サドカイ派、ヨハネ派との問答】
 イエスの名声はその奇跡の御わざとイエス教義の確立によってますます挙がり、それに応じて反発も生まれた。次のように記されている。
 「町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った」。

 この頃早くも律法学者、パリサイ派との教義問答が為されている。時に予言者ヨハネ派とも為されている。この後も幾度となく繰り返されるので、ここで「山上の垂訓」の解析と同様そこに流れる御教えを纏めて概括することとする。これを為すのは難しいがれんだいこが敢えて挑む。

 ここでも名言にちりばめられており、これはこれで値打ちがある。特徴的なことは、イエスが、律法学者、パリサイ派との教義問答に於いて、彼らが依拠する律法及び学説を真っ向から受け止め、それに精通している能力を見せつつ逆批判していることにある。イエスは事実、「この人は学問をしたことが無いのに、どうして律法の知識を持っているのだろう」と訝られている。イエスがいつどこでどのように律法の知識を享受したのか詳細は分からないが、幼少期よりの宗教的天分、それに伴う教義取得、あるいはヨハネ教団で学んだ時期、宣教初期の会堂での内倉籠もりしていた短い期間にいわば天才的に取得したと拝察するしかない。

 「山上の垂訓」同様にここでも見事な例えを駆使して相手の論理論法を衝いている。一般に、どんな宗教思想を問わず、批判する側にとって自身が依拠する論理論法を逆手に取られて逆批判されるほど恐ろしいことは無い。この問答を通じて見えてくるのは、律法学者、パリサイ派がイエスとの論争にことごとく負け、逆上していくサマである。この逆上が遂にイエスの処刑へと辿り着いていくことになる。

 その1、「悪霊論争」を通してのイエスの霊能力とその御言葉の神格性論争
 「悪霊論争」は次のように為されている。律法学者、パリサイ派は、イエスが威厳をもって発する御言葉の神格性に対して反発していた。イエスは「あなたの罪は赦された」の御言葉を宣べていたが、「神を冒涜している。神のほかに、一体誰が、罪を赦すことができるだろうか」と批判した。

 律法学者、パリサイ派は、イエスの霊能力と奇跡的な御技に対しても反発していた。「この人は、このような奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と訝り、意訳概要「悪霊の頭のベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。あの男は悪霊の力で悪霊を追い出している。ベルゼブルに取りつかれている」と批判していた。

 こうした批判に対して、イエスは、特にパリサイ派に対し次のように反論している。
 意訳概要「パリサイ派の思想こそサタンに被れている。パリサイ派の者達は、自分達がユダヤ人の正統の子孫だと自称している。しかし、実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。彼らはサタンの王座に住している。そのサタン被れが私をサタン呼ばわりして批判しているが滑稽なことだ。もし、私かサタンだと云うのなら、サタンがサタンを追い出そうとしていることになる。果たしてどちらがサタンに被れているのだろう」。
 「ならば問う。私の霊能力をサタンの力に拠っているとして私をサタン呼ばわりするなら、あなた方は何の力に依拠しているのか述べよ。あなた方は、自らは神の霊の力を借りてサタンを追い出そうとしているとの弁を論証してみよ。お互いがサタン呼ばわりするこの不毛は解決されねばならない。私がサタンか、あなた方がサタンか白黒はっきりさせねばならない。なぜなら、国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。そういう訳で、この問題は早晩決着付けられねばならない」。
 「私から見れば、パリサイ派の者達こそサタン被れである。私は、神の霊に随ってサタンを追い出そうとしている。神の国はすぐ近くに来ている。サタンよ、”霊”に対する冒涜は赦されない。人の世の争いや罪は赦されるが、聖霊に言い逆らう者は赦されず、永遠に罪の責めを負う。裁きの日には必ず責任を問われよう」。

 イエスは、次のようにたとえ話をしている。
 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮(マムシ)の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」。
(私論.私見) 「悪霊論争」について
 何と痛烈な批判だろうか。律法学者、パリサイ派によって悪魔被れと謗られたイエスは逆に、律法学者、パリサイ派こそ悪魔の下僕と言い返している。且つ、この認定は譲ることの出来ないものであると述べている。これはなかなか興味深いことであるように思える。「パリサイ派の思想こそサタンに被れている。パリサイ派の者達は、自分達がユダヤ人の正統の子孫だと自称している。しかし、実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである」は意味深である。

 再確認すれば、イエスは、律法学者、パリサイ派をユダヤ教信奉者と看做しているのではなく、サタン思想被れ者として批判している構図が見える。この意味するところは深いと思われる。イエスは、イエスの眼から見てそのサタン思想被れ者からよりによってサタン呼ばわれされたことに対して、どちらがサタンか白黒決着つけようと迫っている。世の中には曖昧にして良いこととできないことが有り、この問題は後者であり、決着付けるべしの態度を見せていることになる。

 その2、イエスは人か神かの論争。
 律法学者、パリサイ派、サドカイ派は、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスは次のように応答して批判した。
 「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。邪(よこし)まで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。パリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」。
(私論.私見) 「イエスは人か神かの論争」について
 キリスト教とユダヤ教の教義的対立は実にここに発している。つまり、イエスを人と見る律法学者、パリサイ派と、人以上の存在ないしは神そのものと見るイエス及びその使徒達の根本的な教義対立が介在している。これは非常に難しい。ユダヤ教の教義は、偶像崇拝同様に「人間をもって神とする信仰」は堅く禁じられており、容認し難いものであった。そこで、「イエスは、神であるのか、人間に過ぎないのか」を巡ってイエス生存中にも大論争が起きていたということになる。

 ちなみに、れんだいこは、この論争では律法学者、パリサイ派の見解を支持する。然しながら、イエスの痛烈な律法学者、パリサイ派のイスラエル神殿教義批判に賛意する。むしろ、律法学者、パリサイ派の詭弁、詐術と対決するには、自身を神の側に置くことによってしか為しえなかったのではなかろうか、と拝察している。

 その3、イエスの悪人正機説による批判。
 イエスは、悪人正機説を唱えていた。その論は、律法学者、パリサイ派の「常識」を逸脱しており批判を招いた。パリサイ派の律法学者は、イエスが社会の底辺に位置し、最も忌み嫌われている罪人や徴税人と一緒に食事をしたり平然と親しくしている様を批判した。

 これに対して、イエスは次のように宣べている。
 意訳概要「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。教義に忠実ならんとすれば、恵まれている世の上層部の人たちの助けは後回しにするが良い。真に助けを求めている恵まれない人こそ助けを欲しているし助からねばならない。彼らを救うのが私の役目である。私がやって来たのは、裕福さによって罪を犯さないで済んでいる世間的に正しい人を招くためではなく、何らかの事情で罪を犯したあるいは犯さざるを得なかった罪人を招いて悔い改めさせ救済するためである」。
 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」。
 「あなたがたは裁判を好み、法廷を開き、法律の規定するところに従って裁く。私は、人を裁くのに増して治療が先だと思う。罪人は病人である。必要なの法学博士ではなく医学博士である。私が来たのは、この世を裁くためではなく、この世を救う為である。羊飼いは、迷える羊を一番心配する。もしそれを見つけたら、迷わないでいる99匹の羊の為よりも、むしろその一匹の為に喜ぶであろう。そのように、小さい者の一人が滅びることは、天に居ますあなたがたの父の御心ではない。よく聞きなさい。罪人が一人でも悔い改めるなら、神の御使いたちの前で悦びがあるであろう」。
(私論.私見) 「イエスの悪人正機説」について
 これも非常に難しい論題である。ちなみに、れんだいこは、この論争ではイエスの見解を支持する。日本仏教でも、浄土真宗の親鸞がこの問題に挑んだことは周知の通りである。中山みきは「高山批判、谷底救済、金持ち後回し論」を宣べ更にこの観点を押し進めた。

 その4、イエス及びイエス派の律法違反批判。
 パリサイ派、律法学者は、イエス及びイエス派が「昔の人の言い伝えを破る」非を批判した。市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。杯、鉢、銅の器や寝台を洗う等々の戒律を無視して、例えば、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と批判した。

 イエスは次のように反論している。
 「あなた方は、昔の人の言い伝えを守っているが、むしろ神の掟を破っているのではないのか。あなたたちは、言い伝えを守るその裏で神の言葉を台無しにしている偽善者たちである。イザヤは、あなたたちのことを見事に預言している。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』」。

 イエスは、これを裏付けるものとして次の指摘をしている。
 意訳概要「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは、神への供え物(コルパン)をすることでもって父または母に対する敬意の証としている。それにより、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだとの理屈をこねている。この一事を見れば分かるように、一事万事がそうで、あなたたちは、受け継いだ言い伝えを守るという名目で実際には神の言葉を無にしている」。
 「物分りが悪すぎる。私の云うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るものは人を汚さない。逆に、人の中から出て来るものが人を汚す。すべて口に入るものは、腹を通って外に出される。人から出て来るものこそ、人を汚す。同様に、口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す。口から出て来るものは、大抵の場合人の悪い心から出て来るので、これが人を汚す。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫(姦通)、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな心から出て来るからである。これが人を汚す」。
 「これを思えば、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。これを咎めるなら、もっと咎められなければならないことがあるだろう。なぜ、咎められなければならないことの方が問われないのだ。形式を問い内容を問わない者を明き盲と云う。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」。
(私論.私見) 「律法違反」について
 イエスは、パリサイ派、律法学者が「昔の人の言い伝え」を伝統的に守っていることは認めながらも、それが形式主義に堕しており、それは却って神の御心に叶わないと批判していることになる。つまり、「形式よりも内実、外観よりも実質的な信仰を求めるのがイエスの御教え」という事になる。

 その5、断食論争。
 ヨハネ派、パリサイ派は、伝統的宗教的戒律である断食を重視しており、イエス派がこの禁を重視せず時に破る行為を批判した。「なぜ、あなたがたは断食しないのですか」と問うている。

 イエスは次のように反論している。
 概要「断食は形式的に墨守されるものではない。断食は一概に否定されるべきではないが、断食の精神こそ尊ばれるべきである。世の流れに合わせて戒律としての断食は緩められるべしである。誰も新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすればぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も袋も無駄になってしまう。『新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるべきである』」。
(私論.私見) 「断食論争」について
 断食についても然りで、パリサイ派、律法学者が伝統的に墨守しているのに対し、イエスは、時流に合わすべしと主張していることになる。つまり、「イエスの御教えは、『新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ』の言葉に象徴される革新主義にある」ことが分かる。

 その6、安息日論争。
 パリサイ派は、伝統的宗教的戒律である安息日の定めを重視しており、イエス派がこの禁を重視せず時に破る行為を批判した。「働くべき日は六日ある。安息日には働いてはならない。これが律法である。御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と問うている。

 イエスは次のように反論している。
 意訳概要「安息日の戒律も断食の戒律と同様に形式的に墨守されるものではない。一概に否定されるべきではないが、その精神こそ尊ばれるべきである。ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。それに、あなたがたは、安息日であっても、自分の牛やろばに家畜小屋から引き出して水を飲ませているではないか」。

 つまり、伝統的な安息日の禁を形式的に守る非を衝いて反論した。

 イエスの安息日の救済活動も議論の対象にされた。そこで、イエスは言われた。
 「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。18年間も病魔に冒されているこのアブラハムの末裔である娘に対して、安息日であっても、その束縛を解いてやるのに何の咎めがあろう。あなたがたの理屈は偽善である。偽善者よ、『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない』。あなたがたは自分たちの言い伝えを頑なに守ろうとしている。が、その為に神の戒めを捨てている。神の戒めこそ最優先されねばなならぬというのに物事を本末転倒させてはならない」。
(私論.私見) 「安息日論争」について
 安息日についても然りで、パリサイ派、律法学者が伝統的に墨守しているのに対し、イエスは、その拠って来る所以の理法こそ尊重すべしとと主張していることになる。つまり、「イエスの御教えは『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない』の言葉に象徴される人間疎外現象批判、本末転倒事象批判主義にある」ことが分かる。

 その7、「親兄弟を苦しめるな」論争。
 この時、パリサイ派、律法学者は、イエスの母と兄弟たちを呼び出し、イエスが反体制活動を止めるよう愁訴させている。家族に不利益が及ぼされ、悲しんでいる様を訴えさせ、イエスの伝道活動を抑制しようとした。これに対して、イエスは、次のような「信仰に於ける父母観」を披瀝している。
 「私の母、私の兄弟とは誰か。見なさい。(イエスを取り囲んでいる人々を見回して云われた) ご覧なさい、ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母である。誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である」。
(私論.私見) 「父母兄弟による泣き落とし」について
 「父母兄弟による泣き落とし」は昔も今も多用されている。それに対する、イエスのこの反論、弁明を見よ。「イエスの御教えは『誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である』の言葉に象徴される同志的紐帯重視論にある」ことが分かる。

 補足すれば、イエスのこの言説を一人歩きさせ悪用して「父母愛阻害論」を説く者が居る。それはナンセンスで、この言葉が発せられた事情を汲み取らねばならない。それは、イエスの反体制活動を止めさせようとして父母兄弟に愁訴させた官憲策略に対し、イエスが宣べた御言葉であり、父母兄弟の愁訴によって教義を曲げる訳には行かない、何故なら云々というセンテンスであることを理解する必要がある。「父母愛阻害論」を説く宗派が存在するが、彼らは文意を捻じ曲げていると云わざるを得ない。このことは深く知っておく必要が有る。

 その8、「神の国はいつ来るのか」論争。
 パリサイ派が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて宣べられた。
 「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。
(私論.私見) 「神の国の到来期」について
 この問答の意味も深い。「神の国到来」とは、単に外来的にやってくるのではなく、内の内実が釣り合いながらやって来るものとの御教えを宣べているように悟らせていただく。これは神論にも繋がるが、「イエスの御教えは『実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』の言葉に象徴される神=理合い論にある」ことが分かる。

 ちなみに、中山みきの「神というものは有ると言えば有る。無いと言えば無い。成ってくる理が神である」の御教えと通底しているように思える。

【イエス派高弟「十二人の使徒」形成される】
 この頃、マタイが新たな使徒に加わっている。ある時、イエスは祈るために山に行き、終夜神に祈り続けた。夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二名を選びだした。この選ばれた者を十二使徒と云う。使徒とは、ギリシャ語のアポストロスであり、古代ギリシャでは航海術の専門用語で、他国へ遠征する艦隊の司令官の意味を持っている。ヘブライ語でこれに掃討するのがシャリアーで、代表として派遣された者、使節という意味で用いられている。

 イエスは、十二使徒を傍に置き、特別教育を施した。その上で、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす霊能力伝授とその権能の授け」を渡した。この時のことかどうかは分からないが、イエスは、十二使徒に次のように言い聞かせている。
 「あなた達に聞く者は、私に聞く者であり、あなた達を拒む者は、私を拒む者である。あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生はただ一人であって、あなたがたは皆兄弟である」。

 十二使徒の名は次の通りである。後にペトロと名づけられた1・シモンと2・その兄弟アンデレ。3・ゼベダイの子ヤコブと4・その兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、即ち「雷の子ら」という名を付けられた。5・フィリポと6・バルトロマイ(ナタナエル)、7・トマス、8・徴税人のマタイ(アルファイの子レビ)、9・アルファイの子ヤコブ、10・ヤコブの子タダイ(ユダ)、この二人はイエスのいとこと考えられている。ヤコブは、イエスの死後、エルサレム教会の指導者となる。11・熱心党のシモン、12・それにイエスを裏切ったイスカリオテ(ケリオト人の意味)のユダ。このユダがイエスを裏切ることになる。以上の12名である。 

【イエスの「十二人の使徒」に対する指導】
 イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人の使徒も連れ添った。やがて、イエスは、「十二人の使徒」を各所に派遣する。この時次のように指示している。これらは教義篇に照応する実践篇とも云うべきもので、これも非常に参考になる。詳細は「補足、イエスの12使徒に対する指導考」に記す。ここでは、イエスの珠玉の御言葉を確認する。
 「『天の国は近づいた』ことを伝えよ」。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。
 意訳概要「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、あなた方は、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」。
 意訳概要「審問時の弁明に悩むな。神の自由自在力が働く。それを信じよ。何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊である」。
 概要「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのだ。わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。
 意訳概要「私は、父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと仲たがいさせることを厭わない。こうして、自分の家族の者が敵となる。私よりも父や母を愛する者は、私の教えにふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。もし、誰かが私の使徒にならんとして来るとしても、神の義に立たない父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを捨て私の元に来るのでなければ、私のの弟子ではありえない」。
 「あなた方は、私が平和をこの地上にもたらす為に来たと思っているのか。そうはない。私は分かれさせる為に来た。私の信仰に従うなら、今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して、父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対立するであろう。信仰の義を求める為に避けて通れない道である」。
 概要「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、私にふさわしくない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたの誰一人として私の弟子ではありえない」。
 「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。
 「人は皆、火で塩味を付けられる。確かに塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。自分自身の内に塩を持ちなさい」。
 「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。あなたがたを受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく」。
 「私達に逆らわない者は、私達の味方である。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。
 「私は7度までとは云わない。7度の70倍まで赦す」。

【イエスの率先伝道布教】
 イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。ガリラヤ湖畔にイエス教団が出現しつつあった。この時、次のように教話している。
 「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」。
 「見よ、私の選んだ僕(しもべ)。私の心に適った愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」。
(私論.私見) 「イエスの指針する『私のひながたを歩め』」について
 イエスは、自ら率先垂範し、「私のひながたを歩め」と教導していることが分かる。

【イエスに随う女性たち】
 イエスと12使徒の伝道が続くこの頃、イエスの御技により悪霊を追い出され病気を癒された数名の婦人達がイエス一行に随い始めた。その人の名は、マグダラのマリヤ、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、サロメそのほかの人たちであった。後にイエスが十字架に処せられた時、連行されるイエスの後を追い、処刑の一部始終を見守り、墓守りしたのがこの婦人たちである。
(私論.私見) 「イエスの女性、婦人観」について
 イエス教団に多くの女性が加わっていたことが注目される。イエスに列なった婦人たちはイエスに何を認めていたのかに関心が生まれる。当時のユダヤ社会では女性の地位は著しく低かった。シナゴーグでのユダヤ教の儀式に参加できるのは男性だけで、女性は屋根裏のようなところで傍聴を許されるのが精一杯であった。思うに、主イエスの威厳と威光によってのみならず、イエスの男女同権平等助け合いの新思想に思わず合点させられ、福音を共に伝道することに共鳴した故ではなかったか。イエスは、当時に於いては稀有なことであったが、女性の人格を認めていた。福音の前には男と女は片方が偉く片方が弱いという関係ではなく助け合いすべきものであった。そういう意味で、神の前には男女は一視同仁であった。

【パリサイ派によるイエス殺害謀議】
 イエスの伝道活動は、パリサイ派に打撃を与えた。早くもこの頃、パリサイ派はヘロデ派と謀議し、イエスの殺害を相談し始めている。

【こうした折、幽閉されていた預言者ヨハネが殺される】
 この頃、予言者ヨハネが殺された。時を同じくしてイエスの名が知れ渡り始めたので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と怖れた。

 この時のイエスの動静が次のように伝えられている。
 「イエスはヨハネの死を知り、ひとり人里離れた所に退かれた。祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」。

 ヨハネ斬首物語を戯曲化したのが、オスカー・ワイルドの「サロメ」である。

 イエス派は、州都のディべりウスには近づかず、ガリラヤ州端のカペナウム、州外のベツサイダ、ガリラヤ湖東岸のギリシャ人が住むデカポリスなどを巡回した。

【イエスの神格を廻るイエスと使徒との談じあい】
 この頃、人々は、イエスを次のように様々に評し始めていた。
 「あれは洗礼者ヨハネだ。ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」。
 「彼はエリヤだ。エリヤが現れたのだ」。
 「昔の預言者のような今日の預言者だ」。
 「誰か昔の預言者が生き返ったのだ」。

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、イエスの神格を廻って弟子たちと機密的な談じ合いをしている。イエスは、「預言者と神の子の違い」を質疑し、その上で「私は預言者か神の子か。人々は、わたしのことを何者だと評しているのか」と問うている。

 イエスは、使徒との遣り取りを受けて次のように自己定義している。
 概要「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤは偉大な預言者の一人であるが、私は人の子でしかない預言者以上の者である。私は、預言者としての人間ではなく精霊の宿りし天の父の神の子である。私は神から送られやってきたメシアである。しかし、このことは誰にも話さないように」。
(私論.私見) 「イエスの神格規定論議」について
 この時のイエスの御言葉「私は人の子でしかない預言者以上の者である。私は、預言者としての人間ではなく精霊の宿りし天の父の神の子である。私は神から送られやってきたメシアである」がどこまで正確な記述かどうか分からない。イエスを神格的にどのように位置づけるのか、これは難しい。新約聖書のイエス伝各書は様々に捉えている。

【教会普請を促す】
 イエスは、使徒たちに教会づくりを促した。12使徒の筆頭格シモンに対し次のように宣べられている。
 「あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」。

 イエスは、シモンに「岩」という意味のペトロと云う名前を与えた。こうして、シモンは以来ペトロと云われることになった。以降、12使徒は各地に教会を創っていくことになった。教会とは、ギリシャ語でエクレシアと云い、「呼び集める」という意味を持つ。ちなみに、教会に於いては信仰と生活が共同体となっていた。この交わりを、ギリシャ語でコイノニアと云う。財産まで共有しており、この言葉がコミュニズムやコミュ二オンの語源となる。

【イエスのイスラエル行き決意披露とその時の使徒との遣り取り】
 イエスは、十二人を呼び寄せてこう宣べられた。
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する」。
(私論.私見) 
 イエス伝各書では、イエスが既に度々宣教に出向いていたのか、これが最初にして最後のイスラエル行きなのか、イエスのそれまでのエルサレム行き記述が一定していない。

 イエスはかくイスラエル行きを宣言した。このイスラエル行きがイエスの最後となる。この時、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されることも予言した。三日目に復活することになっているとも告げた。

 これに対して、ペトロが、イエスのイスラエル行き決行を無謀だと案ずる意見を述べた。これに対し、イエスは、ペトロを叱って次のように宣べた。
 意訳概要「それは人間思案というものである。神のことを思わず、人間のことを思っている。その知恵はサタンが云わせている。サタンよ、引き下がれ。私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は自分を見失うが、私のためまた福音のために命を失う者は助かる。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の真の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。今は、神に背いた罪深い時代である。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いられる。私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じることになるだろう。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。

【イエスとペトロ、ヤコブ、ヨハネの三者秘儀伝】
 イエスは、イスラエル行きを宣言した後、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ということは、「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」が三高弟ということになる。

 この時起ったことが次のように伝えられている。
 概要「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。不思議な雲と光が覆う中で、エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」。
(私論.私見) 
 モーゼは、最初の契約を受け取った予言者であり、エリアは契約を再確認した予言者であり、終末の時を開く人物として再来を待望されている。「モーゼとエリアとイエスが共に語り合っていた」との位置づけは、三者が同格ということを裏意味しているのではなかろうか。

 その後、イエスは次のように教示している。それは、「来るべき日」に備えての「使徒に信仰上の純潔」を求める訓話であった。
 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。私の名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである」。

 イエスは、次のように問いかけている。
 「この道の今後のことだが、我が教義を応法化させ、捻じ曲げられた教義を信奉するのと、我が教義の原義を純粋に守るのとどちらを選ぶべきか」。

 三高弟はそれぞれが思うところを述べ議論となったが、これを受けてイエスは次のように宣べている。
 意訳概要「教義を曲げずに応法化させる術があるなら、その道を行くべし。なぜなら、使徒が一人でも滅びることは、天の父の御心ではないから。使徒は御教えの証人として生きるべきだ。それらの証人が地上で心を一つにして求めるなら、天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」。
(私論.私見) 
 これによれば、断乎としてイスラエルに行くが、「教義を曲げずに応法化させる術があるなら、その道を行くべし」。つまり、「教義は曲げない。但し、迫害に対しては、使徒の御身を大切にする故に時の権力とは柔軟に対応する」と指針させたことになる。イエスならではの指導ではなかろうか。

 この時、ペトロがイエスに尋ねた。「御教えの証人達が罪を犯したなら、何回まで赦されるへきか。七回までですか」。イエスは次のように諭されている。
 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。許された者は他の者も同様に許しなさい。ところが、己が許されたのに、その人が他の者を許さないのは不善であり、厳しく罰されることになるだろう。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」。

【イエスとパリサイ派の続論争「人ではなく神を目標に信仰の義に生きよ」の教え】
 イエス派のますます盛んになる伝道に対して、パリサイ派との「続論争」が為されている。これを整理すると次のような遣り取りになっている。
 その1、「良い方」についての教え
 パリサイ派が、イエスを試そうとして次のような質問を浴びせた。「永遠の命」についての質問で、「善い先生、どのようにしたら永遠の命を得ることができるのでしょうか。その為にどんな善いことをすればよいのでしょうか」。これに対して、イエスは宣べられた。
 「なぜ、私を「『善い』先生」と言うのか。善い方はおひとりである。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」。
(私論.私見) 「イエスの『善い方はおひとりである。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない』の言」について
 この下りもどこまで性格なのか判然としない。イエス伝各書の記載はまちまちであるが、この件は重要なように思える。イエスは、自身を神と考えていなかったのか、神としていたのか、その代理としていたのかという問いに繋がる。ここでは、神としている御言葉が為されている。

 その2、「永遠の命」についての教え
 続いて、「永遠の命」について次のように宣べられた。

 イエスは、「永遠の命」について、「『永遠の命』について律法に既に書かれている」と応えた。男が、「律法のどの掟ですか」と尋ねると、イエスは次のように宣べられた。
 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とある。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』ともある。この掟をあなたは知っているはずだ。これをその通りに守ればよい。そうすれば永遠の命が得られる」。

 その3、「地上ではなく天上への徳積み」の教え
 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言った。

 イエスは彼を見つめ、慈しんで宣べられた。
 「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。

 「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と記されている。
(私論.私見) 「『貧しい人々に施し、天に富を積みなさい』の御教え」について
 「陰徳を積め」の教えと悟らせていただくことができる。

 その4、「財物思想と決別し、神の義に生きよ」の教え
 イエスは弟子たちを見回して宣べられた。
 「はっきり言っておく。財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。

 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。
 「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。

 弟子たちはますます驚いて、「それでは、誰が救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて宣べられた。
 「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。
(私論.私見) 「『財物思想と決別し、神の義に生きよ』の御教え」について
 「神の義に生き、神の自由自在力に委ねて生きよ」の御教えと悟らせていただくことができる。

 その5、「永遠の命の道に随えば一粒万倍」の教え
 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と問うた。

 イエスは一同に宣べられた。
 「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、私に従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。私の名のためにまた福音のために、、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。
(私論.私見) 「『永遠の命の道に随えば一粒万倍』の御教え」について
 「永遠の命の道に随えば一粒万倍」の御教えと悟らせていただくことができる。

 その6、「子供のような素直な心を神が喜ぶ」の教え
 ある時、次のようにも宣べられた。
 「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。(イエスは、幼な子を呼び寄せ、一座の真ん中に立たせて云われた) 誰でもこの幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉い。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。

 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
(私論.私見) 「『子供のような素直な心を神が喜ぶ』の御教え」について
 「子供のような素直な心を神が喜ぶ」の御教えと悟らせていただくことができる。

 その7、「入信序列ではなく信仰の深さが問われる」の御教え
 パリサイ派が、イエスを試そうとして次のような質問を浴びせた。「天国論」についての質問で、「先に信仰した者が優先され、後から来る者は順序を重んじるべきではないのか」。

 イエスは宣べられた。
 意訳概要「信仰の程度により、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。入信時期の早さよりも、信仰の義の深さが測られる。これが神の思いである。後に来た者が先になり、先にいる者が後になることもある」。
(私論.私見) 「『永遠の命の道に随えば一粒万倍』の御教え」について
 「入信序列ではなく信仰の深さが問われる」の教えと悟らせていただくことができる。

 その8、「人間思案よりも神思案に従え」の教え
 パリサイ派が、イエスを試そうとして次のような質問を浴びせた。「夫婦の結縁と離縁」についての質問で、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。

 イエスはお答えになった。
 「創造主の導きにより男女が造られ、夫婦となった。神の御前で契りを為せば、二人はもはや別々ではなく一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」。イエスは宣べられた。
 「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」。

 これに対して、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは宣べられた。
 「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。

 弟子は、「夫婦の間柄がそんなに厳格なら、いっそのこと妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは宣べられた。
 「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」。
(私論.私見) 「夫婦の結縁と離縁」について
 この問答で、イエスは、「人間思案よりも神思案に従え」の教えを宣べられていると悟らせていただくことができる。神の御前で契りを為した結縁は尊ぶべきものであり、離縁した他の者と結縁し直す者は姦通の罪を犯すことになる。但し、これは全ての者に適用すべしという風に律法的に受け止めるべきではなく、終生添い遂げられた者は恵まれた者であるという意味である、との御教えのように悟らせていただくことができる。

 しかしながら、イエスにとって、「夫婦の結縁、離縁、和合問題」は不得手ではなかっただろうか。それが証拠に他に御教えは見当たらない。本部神殿派批判の舌鋒に比べて極めて控えめな諭しであるように拝察させていただく。

【イエスがエルサレム神殿行きを指針する】
 この後、イエスは、エルサレム行きを指針させた。それは余りにも無謀であったが、イエスの意思は硬く毅然としていた。使徒は、イエスの指針に殉じた。それは、預言書「イザヤ書」の次の一説を髣髴とさせる。
 「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きの為であり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎(とが)であった。彼の受けた懲(こ)らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒(いや)された。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。その私たちの罪を全て主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠(ほふ)り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命をとられた」。

 イエスは、十字架刑で処せられたことをつれ加えれば、この予言通りの運命となる。

 これより以降は、「イエス履歴その8、イエスの拘束と尋問の様子」に記す。





(私論.私見)