囲碁吉の天下六段の道/棋理論 |
更新日/2017.4.23日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「石好み(3)囲碁上達法1、囲碁吉の天下六段の道編」を書きつけておく。これは平素書きつけていたものを元に、2015年初頭辺りから1局打つごとに気づいたことを書き加え、書き直しして現在に至るものである。2015.3月、最近出くわした「囲碁紫煙荘」の「囲碁講座」、「囲碁講座part2」、「革命的格言講座」その他を参照する。以来、一局打つごとに何か教訓を引き出し、該当する箇所の書き直しをしている。これが結構面白くて為になるんだな。途中からプロの碁の対局を見ながら得た感想をも記すことにした。2016年10月、古書店で、菊池康郎(著)「囲碁に強くなる本」を手にいれた。非常に有益なことが書かれてあり、これを取り込むことにする。 ひとたびは思いつくままに書きつけ、後に推敲を加え、次第にいっぱしの囲碁理論にしたいと思っている。囲碁吉が自分の戒めの為に磨きに磨いているものであり、アマの且つそれほど強くもない囲碁吉の囲碁論であるから説得力も権威もない。囲碁吉が今後ひょっと強くなったら、ここに書いたことの値打ちが上がるだろう。今はまだまったくダメですたい。相変わらずアマの県代表レベルに3子、4子(4子、5子かな?)の手合いでしかない。何とかせんととは思っているのだが。いざ出航せん。 最新の方法として、最も肝要と思われる気づきを頭出しにして並べ替えて行こうと思う。 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、互い先、置き碁の打ち方】 |
囲碁の対局は互先と置碁に分かれる。互先(たがいせん)の場合には先番が黒、後手番が白で打つ。先番黒は、少し前までは「コミ5目半」、現在では「コミ6目半」を負担する。先番は、このハンディにより積極的開拓的精神で打ち進める必要がある。後手番の白は先番黒の打ち方に調子を合わせながら息長く打ち、最終的に「コミ貰い」を有利にするような打ち方が良い。 置き碁は2子番から9子番まである。どういう手合いであろうと、勝負の決着が息長くなるのが良い。何度打っても片方が早く潰れる場合には「手合い違い」と云うことになり「手合い直し」をせねばならない。置き碁には置き碁の楽しみ方、打ち方があり、置かす方も置く方も共にそれなりに勉強になるとすべきだろう。置く方は置石を利き石として徹底活用して打ち進めることが肝要である。その優位を最後まで失わないように打つことができれば置石を一つ剥がして貰い、これをやがて互い先まで持って行くのが理想となる。置かす方は、圧倒的劣勢の中での状況打開力とジリジリと寄せて行く忍耐力を身につけるのが理想となる。両者こういう思いと割り切りで打ち進めるのが良い。 参考までに確認しておくと、碁の打ち方には二種類あるようである。一つはパチッと音がするような打ち方、もう一つは極力音をさせないように置くような打ち方。プロの打ち方にも両方あるようである。 2015.3.31日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、布石】 |
まずは布石から始まる。この棋理を確認しておく。布石は、後の序盤、中盤、終盤、寄せに比べて着手の選択肢が一番多い。この多い選択肢から最も適切とおもわれる一手を見出す。これは棋理による場合もあるし多分に感覚的なものもある。そのミックスで相応しい手を捜す、これが布石に流れる要領である。 布石を互いに隅から打ち合う場合、星、小目、高目、目外し、その他の打ち方がある。次の着手が並行型とたすき型に分かれる。次に掛かり、割打ち、締りを打つ。これらに無数変化がある。布石とは、盤上のこの文様の図柄を云う。この文様図柄をどう描くのかが「布石の棋理」である。 布石を「どのように打ち進めるべきなのか」、これが問いである。どう打とうが自由な中にも自ずから棋理に従った配石の仕方がある。その要領は現に打たれている布石から学ぶしかないのだが、棋理を踏まえて打つ必要がある。アマ6段の囲碁吉の棋力で偉そうには云えないが、言えることは、「布石こそ盤全体を見渡し、我が陣営の配石が将来に役立つよう、潜在的な有機的結合威力を発揮するように打て」である。これこそが「布石の棋理」と思っている。布石構想が盤全体に波及しており、上下左右は無論のこと対角線にも関係している。その時々に最も相応しい着手を目指さねばならない。 この自覚があるかどうかが重要なことである。布石が悪ければ即ち出だしが悪ければ後々に悪影響を及ぼし、次第に変調になり結果的に良いことにならない。逆に布石が良ければ主導権を握り楽しみな局面を引き寄せる。この差を心得てどういう配石をするかの感性が問われている。これに棋理が関係している。よって棋理を磨かねばならないと云う三段論法になっている。囲碁史上の名碁師たる呉清源が頻りに「囲碁のバランス」を説いたが、要するに「棋理に適った石の有機的結合を目指せ」と云う教えではなかろうかと解している。 2015.02.16日、宿敵とのリーグ戦で完勝した。昨年は15連敗の相手である。このところは1勝1敗が続いているが借りを返せていない。そういう意味で新リーグでの幸先の1勝は値打ちがある。で、今日の碁はどうだったかと云うと、序盤で、囲碁吉が先番3連星を敷いたところ、相手が囲碁吉の右下の星石に左からの小ゲイマ掛かり、それを星で挟んで相手の動きを見たところ、相手1間トビ、こちらも1間トビ、相手隅への小ゲイマスベリ、こちら中央へ向かって相手の帽子風小ゲイマで一段落させた。今度は右上に転戦し、ここで棋譜が分からなくなったが、要するに中央への小ゲイマが先の帽子風小ゲイマと連動し、やけにピカピカに光って感じた。あれは恐らく局面に相応しい良い手だったと思う。今度は囲碁吉が相手の下辺左下の小目に小ゲイマにかかり、相手の開きに合わせて中央へ1間トビ。先の下辺の星挟みと連動し、こちらもピカピカに光って感じた。この両ピカで押せ押せムードになり、道中の有為転変はあったものの押し切った。序盤構想の大事さを感じる意味で貴重な経験となった。 もう一つは、既に述べているが、布石こそは心の写し鏡的要素が強い。布石の局面はのびのびと打たねばならないところ、心が萎縮していると石も萎縮する。全体を見回す精神力がなければどうしても部分に拘ることになる。つまり石は心の反映だからして心を磨き心を養えと云うことになる。 布石は互いの勢力杭を打ち合う流れのものであるが、布石と雖も平坦に地を稼ぐものではない。相手の配石に隙があるならば、一気に咎めに行く意欲を持たねばならない。いきなり行くべきか三度目の正直辺りで決行すべきかは一概に云えないが、一気に咎めに行くことで優位に立ち、そのまま押し切る流れに入ることがある。相対的に相手が強ければそういう隙はないが、同格あるいはそれ以下なら結構あるものである。2016.4.24日の対局の敗戦の弁はこれに関係している。序盤で、相手の石を重くして帽子で攻めるべきだった。それを隅のカカリを優先し何となく平凡な展開になった。それは勝機の去る流れを作ったと思う。 2015.02.16日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、序盤】 |
布石に続いて序盤がやって来る。その境目は、四隅を打ち終えた頃をもって、それまでを布石、それ以降を序盤と区分したい。時に四隅を打ち終えぬまま中盤に入ることもある。この場合は序盤が省略されたと思えば良い。序盤は、布石の構想の継承と手直し、あるいは調整、転換の時期を云う。これを大きく見れば、布石の中のことかも知れず、逆に序盤の中に布石があるのかも知れない。つまりワンセットとして捉えるべきなのだろうが、経験則的に云えば分けて考えるべきだとおもう。即ち、布石は布石、その次が序盤で、その次が中盤なのではなかろうか。 布石、序盤では常に全体の流れを捉え、「大きく構えて威風堂々と構想着手することが大事」である。「構えは大きく」すれば石の流れが良くなる。ついつい好い気分になって甘くなってしまうこともあるが、それはそれであろう。そうするうちにも、締めるところは締めて要所に杭を打ち、錨を降ろしながら中央志向することが肝腎である。この流れの延長で、攻めるなり、地を取るなり、最終的なカウント勝利を見極めつつ石運びせねばならない。 手筋、詰め碁を覚えたことにより、今まで見えなかった隅の手を発見し、序盤の段階でいきなりこの道を味わいに行くことがある。これは邪道で、大抵の場合、形勢を仕損じる。序盤では部分の誘惑に駈られてはならない。但し、中央域の場合は別である。いきなりの切断勝負はあると心得たい。 2015.02.16日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、中盤】 |
布石、序盤に続いて中盤がやって来る。この棋理を確認しておく。中盤は、序盤の杭打ちに比して相手の模様に入ったり入られたり、模様の接点付近の攻防であったりする地点での攻防となる。その際、石の強弱の判断による捌き方、相手の無理をどう咎めるか、どう折衝し応答するのかの石の応接折衝棋理、棋力が問われる。当然、読みが問われている。経験的に云えることはこうである。ザル読みで傷口を抱えたまま先へ進まぬが良い。慎重に歩を進めねばならない。地に拘らず力を手厚く矯めて打つのが良い。もっともこの辺りが棋力に関係しているから鶏と卵論のような気がしないでもない。 「中盤の棋理」で肝要なことは石が極力中央へ向かうことである。これを仮に「中央(本)線」と命名する。「石は中央(本)線に乗るべし」、「本線本筋を打って盤上龍の如くうねれ」。こう格言しておく。これと逆の打ち方が一線、二線ハイである。これは石が重い。そういう所へ打ちそうな着想になったら暫し考え直すのが良い。同様に閉じ込められそうになったら、中でこじんまりと生きるより、それを拒否して中央へ出るのが良い。もっとも生き死にが絡んでいる場合は判断が難しい。出口求めて苦労するより中で早く治まるのが良い場合もある。局面次第と云うことになる。 次に踏まえるべきことは極力相手の石を取らぬことである。取るぞ取るぞと脅して生きを催促しながら天王山を制圧し、以って形勢を有利にするのが賢い。絶対にそうとまでは断言できないが、こう心掛けた方が良い。取り石を締めつけに活用される方が嫌である。逆の場合には取らせて活用するのが良い。これらが経験則である。 2015.2.22日、囲碁吉2子置きの碁で、白が我が黒陣営にやや深く入ってきたのを下から受けて、一つ受ければ又受けざるを得ずと云うようなことになり、結局余裕で負かされた。反省するのに、下から受けて勝てると判断したことのミスの祟りだろうと思う。棋理が問われているのに棋理に逆らった打ち方の咎めを受けたのだろうと思う。今後に期す。 2015.3.1日、楽しみな局勢の碁で、相手の苦し紛れの割打ちに対し、上から被せて取りに行って隅に入られ元も子もなくしてしまった。虎の子の隅への侵入だけは防がねばならなかったと反省するも後の祭りである。相手の打ち込み石を上手に利用する術を修練せねばならないと改めて思った。それと、そもそもに於いて打つべき石の方向が分かっていないからこういう結果になるのだとつくづく思う。 2015.02.16日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、中終盤】 |
中盤に続いて中終盤がやって来る。中終盤では、形勢を確認し、それに応じたギアチェジが必要になる。中終盤には必ずドラマが待ち受けている。囲碁の神様がそういう風に面白くしてくれていると悟らねばならない。打ち手はこれに正しく応えねばならない。 2016.10.2日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、隅の魔物に通じ仲良くなろう。隅の味】 |
中央戦の戦い、辺の石の強弱が自ずと隅の攻防に関連している。この相関関係を見ながら着手せねばならない。この理屈が分かるようになると天下6段であろう。中央戦の戦いに有利を築き、辺の石の生命に捌きの余地がある碁形になった場合、隅に手をつけねばならない。これが囲碁の約定であろう。要するに、隅と中央は裏で繋がっており、中央の出来具合によって隅に味つけせねばならない。そのタイミングが難しいが、ほぼ必ず一手は打って相手の受け方を聞いておかねばならない。これを利かしと云う。これは決して無駄ではない。本気で動く動かないの判断はその後の局勢による。これが上手にできた頃より天下6段の歩みが始まる、と思っている。 補足しておく。「隅には魔物が住んでいる。この魔物に通じ仲良くせねばならない」。隅に手をつけるとは、隅を手にするのが使命であって隅で生きることを意図していない。この両睨みの観点から1・相手の隅の石にツケる、2・辺の味方の石との連絡を兼ねたところに石を置く、3・最もしぶとそうなところに石を置く、この三案が考えられる。この大方針が決まって後、具体的にどこに着手するかを決めることになる。この手段を見いだすことが囲碁を面白くする。 2017.2.14日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、終盤】 |
布石、中盤に続いて終盤がやって来る。この棋理を確認しておく。「終盤の棋理」の理解で肝要なことがある。それは、布石、中盤の次に必ず来るものではないと云うことである。即ち、布石、中盤の次に来るものとしては投了があり、投了に等しき大差があり、投了寸前の局面があり、この死線を超えた果ての伯仲戦に終盤があると解するべきであろう。こう理解せず漠然と終盤を迎えるようではそもそも碁になっていない、と気づき始めた。かく理解して「終盤の棋理」を論じておく。 「死線を超えた果てに終盤の棋理」とは「寄せ」であったり「捕り物帳」であったりする。問題は、優勢な勝ち碁はそのまま勝ちきらねばならない、逆に負けている碁は勝負手を連発して逆転せねばならない、細碁の場合は寄せ負けしてはならない、と云うことになる。終盤でポカ手を出して負けるなどは論外であるが案外と多い。これについてはメンタルトレーニングを要する。要するに、冷静さを失わずに全体を見回して棋力に相応しい確実な手を打ち続けねばならない。これらを「終盤の棋理」と云う。 「終盤の棋理」の花形が投了、捕り物帳であるとすれば、寄せは地味である。しかし、寄せこそ一局の集大成であり、投了、捕り物帳に向かうまでもなく勝利を呼び込むものである。故に正しい順序と応接で万全の寄せをしなければならない。一説に、相手の寄せを受けてばかりいたら忽ちのうちに20目ぐらい損をし、さしもの優勢な碁をも勝てなくしてしまう。そういう意味で、形勢判断を正しくし、優勢なら優勢のままに指しきる寄せを打たなければならない。優勢な局面での寄せは、各地の折衝で味良しを心がけねばならない。仮にコウに持ち込む手があったとしても、必ずしも行く必要はない。むしろ確実な寄せの方が理に適っている。逆に不利な形勢の場合にはコウに持ち込むなどして荒ワザに訴えねばならない。座して死を待つような詰まらない寄せをするぐらいなら、打ち続けず投了した方がマシである。特に、両先手コスミに対しては警戒が必要で、両方打たれるようでは出世がおぼつかない。2か所ある場合には打ち分け、3か所以上ある場合には賢く立ち回らねばならない。 寄せの局面で案外と手残りがあることが多い。この手残りの手を巧みに捜すのが「寄せの面白み」である。キリ、ハネ、置きが寄せの三羽ガラスであり、これらを駆使して手残りの手を見つけるべきである。その手を見つけたら、細心の注意と最善の手順で手をつけねばならない。のんべんだらりの寄せほど詰まらないものはない。 寄せにも胆力がいる。どういう意味かと云うと、どういう順序で寄せて行くかに関して相手があることだからして思い通りにはならないのが当たり前である。相手の寄せをどう受けてどう反発するのか、自分の意地をどう通すのか、この辺りに技量のみならず胆力がいると思う。これも新たな発見である。寄せ負けをしないこと、これが鉄則である。 それにしても、囲碁吉自身が寄せが下手なのに、その囲碁吉から見て更に下手な者が多い。それが何と囲碁吉の棋力以下の者がそうである。まさに寄せが棋力通りなことに驚かされる。これを逆に云えば、棋力が囲碁吉より上の者との寄せ負けをしないことが肝要と云うことになろう。これは「小さな発見」であるが「大事な発見」である。下手とも上手とも共に機会があれば打つのは、こういう「発見の楽しみ」があるからではなかろうか。 2015.02.16日 囲碁吉拝 |
【着手法その№、一手ごとに意味と意思を確認してから着手すること】 |
「一手ごとに意味と意思を確認してから着手すること」。これが最初の囲碁格言となる。当たり前のようでなかなかできない。これさえできておれば粗忽な手を打たずに済むものを。何事もそうだと思うが碁もまたとりわけ考える芸である。なぜそこに打つのか、着手の意味と意志を付与して打たなければならない。故に対局後の検討でいともたやすく並べ直しができる。並べ直しができないのは、一手毎の意味付与、石の流れのストーリーを作りながら打っていないからである。かく自戒せよ。
多くの対戦は、決着のつく小刻みの「回」を重ねてトータルポイントで「1ゲーム」とする。ところが、囲碁、将棋の対戦には「回」のようなものはない。ひたすら盤面に着手を重ねて決着をつけ「一局」を争うトータルゲームである。そういう意味で、「言うは易く行うは難し」であるけれども、「一手たりとも疎かにしてはならない」、「一手一手に責任を持って打たねばならない」。その為には、「着手の意味と意志を確認した責任手の必要」、「工夫を凝らした考える碁を打とう」と云うことになる。 手に責任を持つとはどういうことか。それは冷静に打ち進めること、及び着手に確信と得心を持ちながら順序正しく打つことを云う。つまり、着手毎に問題図として出されている局面と受け止め、暫し黙考し、一手毎に意味と得心を付与して打たねばならない。かく了解したい。 |
【碁学編その№、手どころ、正念場では着点の意味と意思を反芻確認せよ】 |
対局中、手どころを迎える。この手どころで正解手を打つことで流れが良くなる。逆は逆である。「手どころ、正念場では着点の意味と意思を反芻確認せよ。座禅を組むくらいの瞑想後の着手を心掛けよ」。相手が応じることなく余所(よそ)へ着手した瞬間、シマッタ、そこへ打つべきだったと後悔するようでは「後悔先に立たず」となる。そういう意味で、手どころの着点は牛のよだれの如く反芻して着手せねばならない。 一局の道中、どういう訳か、忙しいところでバタバタ打ちする癖が抜けない。きまってロクなことにならない。後悔頻りである。この癖を直さねばならない。どうすれば矯正できるのだろうか。「正念場で座禅を組むくらいの瞑想後の着手を心掛けよ」、これを言い聞かせておく。 2014.07.06日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、手拍子対策としての一手三法&図柄論】 |
手拍子対策を講じねばならない。手拍子を止めるだけで勝率が2割ほどアップするのは間違いない。手拍子で勝ち碁を負け、相手の手拍子で負け碁を勝つと云う具合の悲喜こもごもがある。それだけ手拍子問題は味わい深い。しかし、天下6段を目指すとなると、そういう指運任せではいけない。 問題はどうすれば改まるかである。言い聞かせるだけでは癖が直らないので、処方箋として新たに「一手三法&図柄論」を着想する。「一手三法&図柄論」とは、感覚的にこう打ちたいと主張して打つ手の場合は別として、着手が分かりきったところでも必ず一呼吸入れ、三種類の着手を見出し、その中で最も得心の行く手を選択し、それを脳内で図柄確認して了解させてから打つべしとする理論である。これにより所要の時間が掛かる。この時間掛けによってそそっかしい手や条件反射のような手拍子の手を防止できるのではなかろうか。実際にはできかねるとして心掛けだけでも「一着手三法&図柄論」に従って打ってみたいと思う。囲碁格言に「三思して後に行う」があるとのこと。同じ意味の戒めではなかろうか。 「どんな場合も打つ前に考える習慣を身につけねばならない」。これに付言しておけば、局面が良くなった時点での次の一手に気をつけねばならない。案外と落とし穴があるものである。目配りの欠けた迂闊な慢心の手で好局を台なしにすることが多い。精神論に関係するのかも知れないが、一局の最も肝心な時に手拍子で打つ愚を戒めねばならない。最も肝心なところでの手拍子の愚は最悪でせっかくの好局を台なしにしてしまう。何度も言い聞かせているのに直らない。物事には筋道と手順があり、この二つが同時に備わらねばならない。筋道が良くても手順を間違うと台なしにしてしまう。「一手三法&図柄論」を身につけておけばこういうことは起らないはずだ。よしっ今度からこれでやってみようっと。と思って心掛けているのだが相変わらず早指しの癖が直らない。今日も手拍子をやってしまった。相手の鼻歌をひたすら耐えた。 この方法でもダメな場合は、手番がくれば指し手の方で扇子を持つようにすれば良い。あるいは必ず一手打つごとに仮想指サックして腕組みし、着手点を決めてから仮想指サックを外して打ち、打った後すぐに又仮想指サックして腕組みすると云う指談方法しかない。とにかく何とかせねば碁の視野が広がらない。と思い、実際に薬局で指サックを買ったが柔らか過ぎる。文房具屋の紙めくり指サックが良いと思う。 とこう色々に工夫してきたが何とも身につかない。相変わらずの感覚打ちが直らない。最後の警句は、要するに相手の一手一手の意味を味わいながら打たなければ失礼だろう、と云うことにある。せっかく強い人に打って貰いながら勝ち負けだけしか記憶に残らないような打ち方では勿体ないだろう、学びながら打ち打ちながら学ぶ良い癖を身につけねばならない。 2014.4.29日、2015.5.06日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、読みを入れよう、その癖をつけよう。おいしい話にご用心】 |
手どころでは必ず読みを入れねばならない。そういう癖をつけねばならない。読みは苦しく面倒なことではあるが、この習慣からしか強くなれない。その読みで、「おいしい話にご用心」せねばならない。相手が大石を気前良くくれようとしていることを喜ぶ前に、タネ石が抜けている場合がある。一種の錯覚であるが、気をつけねばならない。 2017.2.14日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、工夫を凝らした考える碁を打とう】 |
「工夫を凝らした考える碁を打とう」。そもそも、着手に当たっては、分かりきったところでも必ず一呼吸置いて確かめて打つべきである。決して夢遊病者のような手、手拍子の手を打ってはいけない。攻め合いの時はなおさら然りである。正確に打たれれば負けの場合は仕方ないとしても、正確に打てば勝っている場合の寄せ合いの仕方、ダメの詰め方、保険の掛け方等で間違ってはいけない。読みを入れて一手毎に責任を持って打ち、勝つべき流れの碁は勝ちきらねばなりませぬ。 2014.07.06日 囲碁吉拝 |
【着手法その№、囲碁十訣、囲碁十章、囲碁名言】 |
「囲碁十訣、囲碁十章、囲碁名言」を反芻すべし。 |
【着手法その№、囲碁格言を通暁せよ】 |
囲碁格言を味わねばならない。一般のことわざ、格言に生活のエッセンスが凝縮しているように囲碁格言には囲碁のエッセンスが詰め込まれている。棋力を増すほどに囲碁格言を深く知ることになるのだろうと思う。これについては「別章【囲碁将棋の格言、訓話】」に記す。 2015.3.10日、2016.1.11日再編集 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、定石】 |
修身論、風格論の次に技術論が必要となっている。これが囲碁上達法の第三の要諦であろう。その技術論は序盤(布石)、中盤(戦い)、終盤(寄せ)の流れに際しての的確な対応、即ち定石、手筋、手順、死活、詰め碁等々の技術から構成されている。最初に問われるものが定石である。これについては「石好み(2)、定石論、棋道論」に記す。 2013.6.3日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、石の五種論】 |
囲碁は勝負の決着をつける競技芸である。まずこのことを深く踏まえておく必要がある。即ち、形勢に無頓着にのんべんだらりと打ち続けるようであってはならないと云う裏意味がある。その上で、石には五種あることも踏まえねばならない。その一は「流れの手」。これが最も普通である。大半がこの手である。次に「カチッと守る手」、次に「攻めを見た守りの手」、次が「攻めが守りになる手」。次が「行け行けの攻めの手」。囲碁は、石のこの組み合わせで進行する。その巧拙を棋力と云う。この芸を競うのが棋道である。 2017.4.4日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、手筋、無理筋】 |
手筋に敏感になることも大事である。これは、手筋を使う場合と使われる場合のどちらにも言える。使われて見事に決められる場合には、寸前までの石の応酬に難があったと思わざるを得ない。軽い石の場合にはともかく要石の周辺に対しては用心に用心を重ね安全を期しておかねばならない。 無理筋についても敏感にならねばならない。「無理を通せば道理が引っ込む」のが世の倣いであり囲碁も同様である。相手の無理筋に対しては冷静沈着にして的確にし止めねばならない。あるいは得を図るチャンスと心得て上手に利用せねばならない。 2015.2.22日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、棋理、石の景色論】 |
あらゆる芸道がそれぞれの筋とかコツとか理をもっている。これを囲碁に当て嵌めれば棋理と云う。囲碁は棋理を味わいながら打つところに妙味がある。棋理を味わうには相当の賢さを要する。そういう意味では、囲碁は賢さが問われる技芸である。世間で「囲碁は難しい」と評される所以のものが確かにあるように思われる。もっとも、であるが故にこそ求める人も生まれるのが世の倣いである。この人たちによって競われる日本の伝統的芸道が囲碁、将棋であろう。ここでは、以下単に「囲碁」と表現する。 囲碁は思われている以上に棋理的即ち理論的である。このことにもっと注意が払われても良いと思う。もっとも、棋理とは何かと問われると、これに一言で答えるのが難しい。これを解析するのに、縦の経過線では「布石の棋理」、「中盤の棋理」、「寄せ(終盤)の棋理」の三種から成り立っている。それぞれ共通している棋理もあるが、それぞれに独特の棋理もあるように思われる。横の面線では「定石」、「手筋」、「詰め碁」から成り立っているように思われる。 石の景色論も意味がある。要するに、石の景色が良いのが良く、逆は悪い。「石の景色が良い」のを一言で述べるのは難しいが、要するに 碁盤を広く見て着手しており、ダブった感じがなく、ゴチャゴチャしておらず、全体にバランスが取れているのがそうである。以下、これらを簡単に確認しておく。 2015.02.16日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、囲碁の別名「手談」考】 | |
囲碁の別名を「手談」と云う。まことに結構な妙訳だと思う。確かにお互いに「打つ石の手で意思表示し談義している」からである。囲碁はかくあらねばならぬとの戒めと悟らせていただく。問題は、このように「手談」する碁を打たねばならないところ、意味も意思も不明の着手に出くわすことがあり、こういう手は打たないように心がけねばならない。 囲碁を打つ意味は「手を見つけて石語りすることに」ある。即ち「手を見出し、手を作り、手を味わう碁にせねばならぬ」と云うことになる。「手を見出す」とは、攻めにせよ守りにせよ「秀逸なる手」を見つけることを意味する。「手を作る」とは、手を見出した後の手作りを云う。「手を味わう」とは、手作りの成果を確認、検証することを云う。「手を味わう」にはもう一つ意味がある。分かりきったところであろうが、やはり一呼吸置いて手を味わわねばならぬ。然る後に着手する良い癖をつけねばならない。この味わいも肝要である。 当たり前のことだが、マイペースマイウェイ碁は独りよがりな碁であってはならない。碁のことを手談とも云うように、絶えず常に手談しつつ打ち進めねばならない。これができないうちは碁とは云えない。単なる碁石並べに過ぎない。よって手談碁を打たねばならない。 手談碁にも質がある。最も上質は丁々発止の碁ではなかろうか。但しそれにも質がある。要するに棋力に応じた、且つ棋力上達を目指す策のある、「意思」のある碁を打たねばならない。今ふと思うのに、碁石の石は「意思」ではなかろうか。少なくとも「意思」を含意しているのではなかろうか。それほど「意思」が大事な役割を持っているのが碁であると了解すべきではなかろうか。 「緩急自在に硬軟両様で打ち、時には然らばの気合いで切り結ばねばならない」。これも大事である。 囲碁の手談性につき、張ウ9段が次のように述べている。実にその通りであろう。
2015.10.06日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、「手談」のスケールをとことん大仕掛けにしたらどうなるか】 |
囲碁の「手談」のスケールをとことん大仕掛けにしたらどうなるか。これが2016年11月4日現在の囲碁吉の新たな発見である。考えてみれば、ここにプロとアマの違いがあるのではなかろうか。棋力差とは実はこれの差ではなかろうか。アマは、その重みに耐えられないから分かり易い地に走り、それぞれがこじんまりと纏まり、相手もそうだからそれなりの碁にはなるけれどもプロの碁とは違うものになる。プロの碁も地に走ることはあるが、それは闘い辞さずの硬軟織り交ぜてのそれであり、アマの地走りとは違う。もっとも、アマでも喧嘩碁を得意とする流派もある。但し、プロのそれとアマのそれは質が違う。目の付け所と厳しさが違うのだろうと思う。攻めと云っても、アマのそれはせいぜい肉切りまでで、プロのそれは骨断ちまで行く。いわゆる剣道で使われる言葉
「肉を切らせて骨を断つ」違いの話になるのではなかろうか。 ならば、アマの身分で骨断ち碁に向かえばどうなるのか。これが残された課題である。アマにもそういう碁打ちがいるのだろうが、私もそういう碁になるよう挑んでみたいと思う。要するに石の折衝の仕掛けを大きくして、即ち話を大きくして、どこが頭で尻尾だか分からないような混戦に向かって戦線を拡大して行き、頃合加減のところで手打ちし始め、そのカオスから勝利的に抜け出していくような碁を打ちたいと思う。人呼んで「手談カオス」と云われるような碁打ちになりたいふふふ。 そのカオス戦線で仮に不利になったら、道中で用意していた時限爆弾を炸裂させて行けば良い。つまり石を取るのはそれからでも良い。これが本来の私の打ち方で確か勝率が良かったのではなかろうか。 2016.11.4日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、目を肥やし、ひと目で感知する能力磨くよう】 |
「趙治勲のひと目の詰碁」と云う書籍がある。題名の「ひと目」のところに意味がある。「ひと目で分かる」ことが大事とメッセージしていると拝察すべきである。これは実際その通りで、恐らく囲碁のみならず全般に云えることだと思うが、芸能を磨けば磨くほど「ひと目で分かる」ようになると知るべきだろう。これを逆に云うと「ひと目で分からない」のは精通不足と云うことになる。例えばシチョウがそうだろう。手指で追わなくても「ひと目で分かる」者が強い。そういう意味で、「ひと目で分かる」よう目指すべきである。 囲碁に限らずと思うが「ひと目で感知する能力磨くよう」心掛けねばならない。対局で早打ちの人と熟考型の人が居るが、早打ちの人は慎重さが足りないだけで本来は熟考型の人も着手をひと目で見出しているのではなかろうか。対局上の考慮時間とは、ひと目で感知した着手の是非を総合的に確認する為に要する時間であって、空白の中から着手を探し出す時間ではないのではなかろうか。もっとも大抵の場合はと云う条件付きである。時には難解な局面で適切な着手を見出すのに苦吟する場合もあろう。そういう場合は別にしてである。そういう気づきを得た。 2014.12.07日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、石を嗅げるようになったら一人前】 |
石の臭いを嗅がねばならない。石の臭いを嗅ぐとは、相手の着手石の意味を知ることであり、意味を知るとは狙いと役割を察知することを云う。これを正しく嗅ぐことにより適切な応酬ができるようになる。これができるようになると一人前であり天下6段の扉が開いたことになる。これにも早嗅ぎと熟考嗅ぎがあろう。どちらもできるようにならねばならない。これは割合と新しい発見であり、2017.2.13日の飼い犬の散歩のときに気づいた。愛犬が草花の匂いを嗅いで対話しているように囲碁も然りで石を嗅ぐべきではなかろうかと。これをしない早打ちはメクラ滅法ではないのかと。「手談の裏に石の嗅ぎがあり」、これを囲碁吉用語とする。 2017.2.14日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、目算の必要性、目算を受けてのギアチェンジの必要性】 |
「目算と目算を受けてのギアチェンジの必要性」を確認しておく。対局道中で、序盤、中盤、終盤のそれぞれで彼我の地合いの確認をせねばならない。これがなぜ必要なのかと云うと、それにより着手が変わるからである。序盤、中盤の場合には大まかな形勢判断で良かろうが、終盤では目算を要する。目算をしていないと、どう寄せるのか、即ち踏ん張りを要する手を打つべきなのか手堅く寄せるべきなのかの方向性が見えてこない。目算が苦手な人も、辛抱強く続けるうちにできるようになると聞かされている。 着手は、石の流れによって決まる場合が多いが、優勢か非勢かを知ることで決まる場合もある。優勢であれば、相手が狙う薄みをキャッチしフォローしつつ打たねばならない。形勢が良いのに更に稼ぎに向かい、そのうち薄くなって大石が死ぬのは愚の骨頂である。但し、形勢が良くても縮こまって打つようではいけない。明らかに形勢が良いのは稀で、大抵は僅かに良い程度のものが多い。数手緩むと逆転されると心得るが良い。形勢に自信が持てる場合、硬軟両様で厚みを重視しながら打つべきだろう。非勢であれば局面打開の手を編み出さねばならない。そういうギアチェンジをしないと本当の囲碁ではない。以上、ギアチェンジをする為に形勢判断、目算が必要と心得たい。 目算が必要なもうひとつの理由は、並べた結果が大きく狂うことがあるからである。この場合、原因が目算違いか整地間違いかと云うことになる。目算違いの場合は次第に精度を上げねばならない。整地間違いの場合にはどうすべきか。プロの碁には起こり得ないだろうがアマの碁ではあり得る。整地間違いとインチキ整地の二通りが考えられる。それを許さない為に、相手の整地の仕方に目を光らせておかねばならない。重要な大会等の場合には、双方が一斉に整地するのではなく相手の整地ぶりを確認しつつ片方ずつ整地して行く方が良いのかもしれない。 2015.04.29日 囲碁吉拝 |
【碁学編その№、大きく構える手と部分的急所の手の着手二考】 |
着手には全体を見渡して大きく構える手(全体局面最善手)と、部分的急所の手(詰め碁局面最善手)の2種類がある。この違いを熟知して使い分けねばならない。盤上に要請されている次の一手は、このどちらの手なのか分別して打たねばならない。これを逆に打つと大変なことになる。 実際に逆に打つ失敗をして負けた。その反省を記しておく。中盤で、盤上の中央付近の相手の大石を討ち取った。勝負ありとなったので、相手は尋常な手ではなく、渡りを見た死んで元々の中入りのヤケクソの手を打ってきた。その際の応接の仕方が問題である。実践は、渡らさないとして下がったが、これが少々ぬるかった。もはや地を気にする必要はない局面なのだから、大入りして来た相手の石を生かさないことに集中すべきだった。となると、黙下がりではなく、進入して来た石にコスミつける一手だった。そうすれば中で生きるのが大変だった。と云うか生きられない。この一手の緩みで難解にされ、結局はコウにされてしまった。全くナンセンスだった。この大石を取ったが、それまでに神経をへとへとにされ、対局時間をなくしてしまった。この影響が別のところで現われ、チョンボの手を打ち大乱戦に持ち込まれることになった。更には仕舞いの仕舞いの寄せで最初に取り上げていた大石を自ら一時セキにしてしまう手を打ち、逆に取られると云う大チョンボの結末となった。二眼にしておけば良かったが後の祭りである。穴があったら入りたい心境となった。思い返すのに、大入りして来た相手の石にコスミつけ、不自由にさせなかった咎めから全てが始まったと思う。 |
【着手法その№、広い読み、深い読み、深謀遠慮な手】 | |
囲碁に限らずであろうが囲碁は特にと云う意味で、読みのゲームである。その読みにも質があり、その質の究極にも「広い読み」と「深い読み」があるとのこと。これは、木谷実と坂田栄男の対戦の解説の際に云われていた言葉である。どちらがどうと云っていたのか分からなかったが、感心した言葉なので採録しておく。 囲碁の着手にはいろんな打ち方があるが、一見穏やかなじっくりとした遠巻きの深謀遠慮な手が玄人好みである。柔と剛に例えれば柔な手である。但し、甘くなる恐れもある。この辺りの兼ね合いが棋力だろうと思う。一貫して要求されるのは沈着冷静さである。これあればこその大局観であり鷹の目俯瞰戦法である。 この件につき、坂口安吾の「呉清源論」の末尾での十番碁に負けた本因坊秀哉の言葉が為になる。秀哉は次のように述べている。
当たり前の手を正確に打ち下ろしていくには棋理技能は無論のこと、加えてメンタルな面での沈着冷静な平常心、万事深謀遠慮が肝要となる。これがなかなかできかねるのが普通であるところ、呉清源師は能く調御し得たところに値打ちがあるのだろうと思う。 2015.1.10日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、目指せパワーバランス碁】 |
私の目指す碁の型が見えてきた。それはパワーバランス碁である。パワーとバランスは一般的には相反する面がある。最悪はパワーとバランスの二人船頭になって支離滅裂になる。この愚に陥らないよう自戒せねばならない。真意は、パワー碁にしてバランスの良い碁を目指さねばならないことにある。両者は決して対立していない。パワー碁とは厚い碁に通じている。その厚い碁に力をつけたものを想定している。敢えて言えば硬軟の硬派になる。同様の意味でバランスは軟派になる。この両者の関係は、碁に関する限り、パワー碁の中にバランス碁があり、バランス碁の中にパワー碁が宿されているのではなかろうか。少なくともそのような打ち方を心得るべきだろう。 2016.01.25日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、「守、破、離の理」】 |
日本式稽古道の能狂言、茶道、武道、囲碁将棋の世界では「守、破、離の理」が言われる。「守」とは、定められた基本を守ること。基礎の大事である。「破」とは、定められた枠を破って個性を発揮すること。「離」とは、全てを離れて自由自在に行動しても道に適っていると云う名人の境地を云う。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、ガラス細工理論】 |
2015.10.14日、ガラス細工理論を考案した。ガラス細工理論とは、我が陣の着手石の碁形がガラス細工のように割れ易い、壊れ易いものと思って、細心の注意で、気をつけて取り扱いすべしとする理論を云う。今後はこういう気持ちで打ってみたいと思う。 2015.10.14日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、出し汁戦法】 |
「言うは易く行うは難し」であるけれども「出し汁戦法」を着想した。「出し汁戦法」とは、序盤から中盤、中盤から終盤へと次第に煮詰めて行く戦法を云う。この戦法を覚えれば、対局中を「目下煮込み中」と心得、煮込み具合を測り、味具合を見るようになる。こういう余裕の態度が良いのではなかろうか。 これによると、序盤、中盤での決着は自慢にならず、むしろ良くないことになる。中盤から終盤まではよく煮込み、終盤から寄せの辺りで我が方に具合の良い寄せ味が出るようにせねばならない。この頃には自ずと投了がある。投了決着させられなかった場合に地合い計算となる。いずれでも良しとする両面作戦で勝利の女神を引き寄せねばならない。よし早速に今から実践してみよう。 2015.10.14日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、和戦両様、臨機応変、変幻自在、のらりくらり戦法】 |
これも「言うは易く行うは難し」であるけれども、「和戦両様、臨機応変、変幻自在、のらりくらり」を常態とせねばならない。和戦両様とは、和して良し戦って良しの柔軟戦法を云う。臨機応変とは、情況に応じて情況に合わす戦法を云う。変幻自在とは名の通りの戦法を云う。のらりくらりとは拘りのない鯰(なまず)の逃げ方のような戦法を云う。 なぜこれが常態とすべきかと云うと、囲碁の根本命題に関わるからである。囲碁はそもそもが「意固地を嫌い、頭を柔らかくする」効能がある。しからば「和戦両様、臨機応変、変幻自在」を常態とせねばなるまい。この戒めは初手から最終手まで一貫して言えることである。 この教訓は、終始優勢に局面を進め、相手の最後のお願いのような隅への打ち込み手で、生かしても勝っているからと粗雑に応接し、結果、石の処理を間違い、こちらが殺されるという破目に遭わされた時の反省から生まれている。まったく「九仞の功を一簣に虧(欠)く」(きゅうじんのこうをいっきにかく)(「今一歩と言うところで油断したり手違いで失敗し、それまで営々と積み重ねてきた努力が海の藻屑となる」)ことになった。あり得ないことが起った事情に、隅の死活の勉強不足の咎があるが、それはそれとして局勢により相手の石の殺し方、生かし方を和戦両様で考えた上で対処する要諦を喪失していることにもよるであろう。まずはこちらの石の生き死にの万全の備えをした上で、和戦両様の戦法を選択し、それに合わせて打ち進めるべきであろう。こう深く肝に銘じておきたい。 2014.07.06日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、一手の変調が全局に及ぶ怖さを知れ】 |
「一手の変調が全局に及ぶ怖さを知れ」。 2015.3.1日、私の碁で、左辺で優勢に進めていた碁を右辺で台なしにする碁を打って負けた。一手の石の方向の悪さがドつぼにはまる例である。如何なる場合にも石の方向だけは間違えてはいけない。その教訓としよう。しかし何度も同じ過ちを繰り返すとなると、これはほとんどビョウキの類で実に困ったことである。 2014.07.06日、2015.3.1日再編集 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、地力とは】 |
「地力」(じりき)に一言しておく。「地力」とは、「本来持っている力
。そのものに備わっている本来の力。実力」を云う。大相撲における地力が参考になる。大相撲で地力があると言えば、その番付に見合う実力を基準にして、潜在的に番付上位の力量を有しているという肯定的な意味で使われている。実力にキャリアを加味したものが地力だと思えば良い。囲碁でも同様な意味で使われているように思われる。即ち、優勢な碁を優勢なままに打ち進め、非勢な碁を盛り返し、結局は勝ち碁にするのを「地力がある」と云うのではあるまいか。
2015.10.05日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、構想力&構想石】 |
棋理に続いて構想力を重視せねばならない。構想力と棋理は被るところもあろうが一応は別と心得、千変万化の棋理から汲み上げる意思を構想力としたい。要するに構想力は主体性の問題である。但しこれは相手の着手にも影響されるので二人三脚的なシナリオともなる。このシナリオの巧拙が棋力でもある。 ところで、構想力で獲得した地、大事にしてきた石は捨ててはならない。これを仮に「構想石」と命名する。構想石をなぜ捨ててはならないのか。それは、経験則で云えることだが、構想石を捨てた場合には大概負けているからである。してみれば、「構想石」は「目先の損得に馴染まない、目先の損得で捨ててはならない生命線の石と心得るべき」ではなかろうか。これを愚考するのに、構想石地面には宝の山が埋まっており今後の含みが多いからではなかろうか。構想石を局面打開に使うべきであるところ、これを捨てることにより石の全体が萎えてしまう、そういう気がする。これは2015.02.23日のネット戦での経験からの総括である。こう了解し今後に役立ててみたいと思う。問題はどれが「構想石」なのかである。これは打ちながら感じ取るべきだろう。 2015.02.23日 囲碁吉拝 |
【棋道講座その№、天王山争奪の手、急所の手】 |
「構想石」に似た例に「天王山石」がある。いわゆる模様の接点にして両者の必争点であるが、この地を譲ってはならない。中央へ向けての必争点は忽ちは地にならないので隅や辺の地取り向かいがちであるが、なぜだか「天王山石」を打たなかった場合には大概負けている。要するにこれも「目先の損得に馴染まない、目先の損得で捨ててはならない生命線の石と心得るべき」ではなかろうか。こう了解し今後に役立ててみたいと思う。 「天王山石」に似た例に「急所の手」がある。いわゆる競り合いの最中の絶好点である。この地を見つけて着手せねばならない。大抵の場合、功を急がず息の長い、腰を落とした手になる。それで良い。息を長くして打つことこそ勝着になる気がする。形勢を仕損じるのは、息の長い手が打てず、自分で転ぶような悪手を打つことによってである。こう了解し今後に役立ててみたいと思う。 2015.02.23日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、全体の目配り、大局観】 | |
囲碁の上達法の要諦は「全体の目配り」である。これは囲碁の鍛錬を通じて万般に及ぼす囲碁の効用のひとつである。 囲碁の上達法の第一は大局観である。大局観こそ命であり全てを睥睨している。この大局観は二種のものから構成されているように思う。一つはズバリの大局観であり、もう一つは碁形の全体観である。両者は少し違うと思う。囲碁吉の理解によれば、最初の大局観が碁形の全体観から来るものである。碁形の全体観から内在的に呼び出される次の一手を感知し着手する為に必要とされる大局観である。碁形の全体観とは碁盤全体の全体観(全体の全体)と局所に於ける接触している石の上下左右全体(部分の全体)の更に二種類の全体観から成る。 次の大局観が本来の意味での大局観で、碁形の全体観も踏まえて、さて次にどうリードして行くのかと云う最高度な問いからもたらされるものである。この観点からの次の一手を感知し着手する為に必要とされる大局観である。一服したときの大局観であり、そういう意味では前者は折衝中の大局観と云うことになる。この両方の大局観を踏まえる必要がある。 この大局観を終始徹底して終局まで貫くことが肝腎であるが実際にはかなり困難でもある。なぜなら、座禅瞑想しながらの平常心で言い聞かせている訳ではなく既に対局しているからである。対局ともなると必然的に互いの着手で「手談」しつつ打ち進めている。この道中で両者は相当なる感情的な行き掛かりを抱えている。更に対局を進めるうちに局面の難しさが増し、いわゆる手どころを迎え、あるいは次の手どころを迎えと云うように尋常ならざる心境下で打ち進めている。この間を冷静沈着に大局観を失わずに打つことが難しい。 局面が険しければ険しいほど「手どころの慌(あわ)て者」になりがちである。これは自戒を込めて言い聞かせている。これに気をつけるだけで、いわゆるポカ、貪り等はかなり防げる。「手どころのしっかり者」になるだけで戦績が大きく変わる。そういう意味で、初手から大局観に基づき打ち進め、手どころも然りの打ち手になりたいと思っている。肝腎要の手どころで苦しさから逃れるために早打ちする愚を戒めたいと思う。常に己の棋力に相応しい沈着冷静の解を見出し、責任ある石を打ち続けるのが肝要と云い聞かせている。いついかなる時も「大局観こそ命」と肝に銘じて打ちたいと誓っている。 瀬越憲作名誉九段の手談の最終章「碁の妙味」の中に次のように書かれている。味わうべしの名言だと思う。
これによれば、大局観に従い、棋理に合う最善の一手を求めて苦吟していることになる。プロはその最先端最深の囲碁芸人と云うことになるのだと思う。この緊張感の濃密さに基づく一連の着手が絵になるのだと思う。 2013.6.3日、2014.5.25日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、複眼思考、鷹の目俯瞰戦法】 |
そこだけしか見ないようでは覚束ない。触る石の周囲全体、盤面全体を見て適切な応じ手を繰り出さなければならない。これを複眼思考と云う。 2014.5.25日、禁煙まで誓って挑んだ新聞社主催のとある棋戦の1回戦で敗退した。負け惜しみの弁はしない。この時、今後の打ち方として鷹の目戦法で鍛えていく必要と意義を感じた。これを記しておく。鷹の目戦法とは、盤全体を単に見ると云うだけではなく、鷹の如くに空高く舞い上がり、その高地から盤全体を俯瞰し、彼我の石の長短所を見抜き、彼の石の着手に乱れを感知するやその欠点を鋭く且つ的確且つ効果的に攻め立てる。仮に彼の石に弱点がなければ突いてでも弱点を作る打ち方を云う。部分的観点から攻めず必ず高地から捉えた鷹の目を通して判断し処すると云う作法であり鳥瞰図とも云う。今後はこの技術を磨きに磨いて行こうと思う。これも今までにない発想で、「張栩の眼」を見て思った次第である。 そもそも一局において互いが死力を尽くす訳だから、手合い違いでない限り必ず勝負のアヤがある。沈着冷静に打ち進めるにも拘わらず一局のうちには必ず勝機を損なうような危険を生む事態が生まれる。この時、これをどう防ぎどう纏めて乗り切るのか、逆に相手のそれをどう狙うのかが問われている。これを発見するのが鷹の目戦法である。但し、この鷹の目戦法も感じる力がなければ要するに見れども見れずでどうにもならない。云うは易し行うは難しである。 2013.6.3日 囲碁吉拝 |
囲碁経営学では、「3つの目(鳥の目、魚の目、虫の目)の必要」が云われる。 |
【棋道論その№、六合一石(りくごうひといし)論】 | |
呉清源が「六合」(りくごう)を重視していたことが知られている。「六合」とは古代中国の言葉で「天地と四方(東西南北と上下)」を指している。この六合を意識して、「碁の一石一石はすべからく六合に、つまりあらゆる方面と調和しピタリとその場に適合するのが望ましい」とするのが六合論である。囲碁吉はこれに「一石(ひといし)論」を加えて「六合一石論」を構想したい。「六合一石論」とは「盤を隅、辺、中央の三域に識別して、それらを意図的有機的に結びつけ一石化せしめようとする打法」を云う。従来こういう発想をしなかったので新たな発見である。これは囲碁吉の師匠筋の方との語らいの中で閃いた。中央の着手の検討で、「この一帯は制空権のあるところ云々」を聞きながら発想した。これを開陳する。 当初は隅、辺、中央を陸海空と例え理論化していたが実践的にはあまり役立たなかった。そこで単にそのまま隅辺央結合理論とする。要するに隅と辺と中央の有機的結びつきを重視する理論である。隅を点、辺を線、中央を面とする捉え方もある。肝要なことは極力「一石」を目指すのが良いと云うことである。と云うことは、相手のノゾキに対しては無用な反発を控え原則的に有難いと思ってツグべしと云うことになる。そう云えば、ノゾキを切らせて無用な苦労をしたことが多い気がする。この辺りは「英明な素直さ」が要るのではなかろうかと思われる。 問題は、こちらは「一石打法」で打ち進めるが、相手は「一石させじ打法」で来ることにある。お互いがそうする訳である。故に、この瞬間の着手であるノゾキ、キリ、コウが非常に重要な分岐点と云うことになる。故にノゾキ、キリ、コウの駆け引きに熟達せねばならないということになる。結論から言えば、自分の石は繋がるように相手の石は切れるように打つのが理想的な石運びではなかろうか。これを「囲碁吉一石打法」としよう。今後はこういう構想力で打ってみようと思う。 以下、「囲碁の大雑把な形勢判断をする方法を知りたいです」を参照する。興味深い内容なので確認しておく。
2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、渦潮円運動論&時計回り盤四順論】 |
囲碁吉は新たに「渦潮円運動論&時計回り盤四順論」を構想した。常に盤上の石全体との渦潮円運動を意識した着手を心掛ける。そうすれば自ずと着手点が見えてくる湧いてくる。今後はこれを囲碁吉打法として、選択的に許される限りこういう順序で打ってみようと思う。 次に、盤を四分割して、右方上面を季節で云う春、右上下面を夏、左下下面を秋、左下上面を冬として、この季節の廻りの順序で着手して行く時計回り打法を云う。これは、人間の思考回路の特性による。人の思考回路が遺伝子的にあるいは又血流が時計回りになっており、これに合わせる方が自然であると云う理由による。いわゆるポカはこの思考式を踏まえない時に多くなる気がする。よってその対策である。 この打法は先番でも後手番でも通用する。実際にやってみて上手くいかないとすれば改良すれば良い。この理論は、どこへ打っても良い手番が回ってきた時の打ち方であり何が何でもと云う話しではない。何事も無理矢理が一番いけない。熟達するにつれて、振り子が戻るように要所へ打てるようになると思われる。なぜなら棋理に沿っているからである。 2014.4.29日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、前半預金で温泉気分になり、後をぬるま湯に漬かると負けコース一直線】 |
「半預金で温泉気分になり、後をぬるま湯に漬かると負けコース一直線」。解説不要で、その通りである。優勢であれば、優勢預金で、相手陣に切り違いの手筋で騒動起こすのが良い。大抵は、これを逆にやられ、手にされて優勢預金を失うことが多い。 2016.11.12日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、囲碁はホウレンソウ&うどんこの60キロマラソンであると心せよ】 |
大手前棋院の専属棋士、白黒軍の軍師、盤上の経営者になる決心をしたからには、ホウレンソウ&うどんこを信条とせねばならない。囲碁は「ホウレンソウうどんこ」の60キロマラソンであると心せよ。「ホウレンソウうどんこ」とは何か。前段の「ホウレンソウ」は経営学では「報・連・相」で、「ホウ」は「報告」の意味である。但しここでは「法」と読み「定石をこなす」と解く。「レン」は「連絡」である。但しここでは「石の連携」の「連」と解く。「ソウ」は「相談」である。但しここでは「創造」の「創」と解く。よって囲碁では「法・連・創」と解する。 後段の「うどんこ」は経営学では「運・鈍・根」で、「う」は「うん」の略で「運命」、「幸運」の「運」と解く。「どん」は「鈍」と解く。「鈍いくらいの粘り強さ」を意味する。「こ」は「こん」の略で「根気」の「根」と解く。一局に於いては「盤上の持続的な集中力」、棋道に於いては「愚直な精進」を意味する。 この「法」、「連」、「創」、「運」、「鈍」、「根」の各項を仮に10キロと例えるならば、囲碁は盤上の60キロマラソンレースと心得ればよい。棋士はこの60キロレースに耐えられるレース力を身につけねばならないと云うことになる。裏意味として、60キロレースに向かうようレースの決着を先延ばしして持久戦で勝つよう心がけねばならないということになる。かく心得よ。 「囲碁は盤上の60キロマラソンレース」を指手数で考えれば、19×19=361路を交互に打つので、361÷2≒180となる。これにコウがつくともっと指手が増えるが、それも加味して平均ざっと200手と想定できる。この200手を「次の一手」形式で最善手、良手、普通手を打ち続けることができるかどうかが問われている。実際には悪手、俗手を打ち、それを整形する手などがあり、決して平坦な道にはならない。とはいえ、「200手持久マラソンレース」と考え、これを完走できる知力体力精神力が必要である。こう了解する必要があろう。 2016.1.23日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、平素は無用の反発良くない、素直さが肝腎。但し、相手の高圧には反発が気合である】 |
「無用の反発良くない、素直さが肝腎。相手の高圧には反発が気合である」。その通りである。これが碁の棋理である。この呼吸、間合いの取り方が芸である。 2017.4.17日 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、棋譜意識論】 | |
上達を期す為には棋譜を採るのが有効である。これには、棋譜汚しの手を打たないよう戒める意味と対局後の検討に足りる碁を打ての二つの意味、意図があるように思われる。記録採りに値する手を打つと云うことになるので、一手一手に緊張感と印象づけの負荷が掛かり、それが上達に有益と思う。とはいえ実際には言うは易く行い難しである。以前したことがあるが数手先から棋譜汚しのダメ手を連発しており、保存するに値しなかったので止めてしまった。先日も、序盤の忙しいときに先手下がりを決めたまでは良いが、続いて意味のないハネツギを打ち、手抜かれて中央に回られ、優勢の局面を振り出しに戻す手を打った。ハネツギなぞ打たずに中央に手を回せば制空圏を握り続けていたのに。こういうところは技術以前の精神性の問題だなとつくづく思う。 もとへ。思うに、最近のパソコン能力によれば簡単に棋譜採り、プリントアウト、棋譜のホームページ掲載ができるのではなかろうか。そういうソフトが欲しいと切に願っているのだが今のところ知らない。どなたかに手を取り足を取り教えてもらいたいと思っている。 それにしてもプロの検討会は和気あいあいで感心させられる。それまでの盤上の丁々発止の激闘がウソみたいに和やかなものに変わり且つ熱心である。よほど人として素直でなければああはなれないなと感心しながら我が身に言い聞かせている。そんなこんなを考えている今日この頃である。 2014.6.11日、今日より棋譜を意識して打つことにする。実際に棋譜を取るのが良いが、取らなくても取っているつもりで打つべしである。その際の留意点は、局後の検討の際に常に説明のつく着手を心掛けることにすることである。この心掛けがあれば棋譜は後からでも取ることができよう。 棋譜意識の重要性はストーリー&メロディーに結びついている。棋譜がストーリー&メロディー性を強めれば強めるほど鑑賞に堪えられるものとなり逆は逆である。これにつき「元院生の思い出話 橘諒」が次のように述べている。この下りがとても気に入っている。
これによれば、棋譜とは対局者と共同の対局物語であり対局歴史書と云うことになる。且つこの物語は一手毎に主張性、数手毎に思想性、全体の棋譜がストーリー性で繋がっている。こういう自覚で打ち続けてみたいと思う。これを能く為し得た場合が名局で逆は粗局なのではなかろうか。名局はプロの棋譜にしか現れず、よって学ぶに値するものがある。同じ理屈でアマの棋譜には学ぶべきものはない。せいぜい反面教師的に学ぶぐらいのものだろう。それはそうと、筋か良いとか悪いとかは、ここで云うところの対局者との共同の物語であり歴史書であるところの棋譜の筋書きと考えれば良いのではなかろうか。筋が良い手は筋書きを面白くし、悪い手は悪くするのではなかろうか。そういう意味での筋論に通暁しておきたいと思う。 2014.6.9日 2014.12.1日再編集 囲碁吉拝 |
【棋道論その№、対局時間1時間碁が理想かな】 |
意識的な早打ち碁は別として、持時間1時間碁が打てるようになれば天下6段ではなかろうか。初心者の長考は手が分からないために徒に時間を掛けているに過ぎないので別として、相手が打てば条件反射的に打つような棋力同士の早碁の場合には一局が30分もあれば良い。互いに手どころで考えるようになれば1時間ぐらいは掛かる。しかし、持時間1時間碁が打てるようになるには相当の棋力を要する。当然それ以上の持時間を要するとなると県代表クラス、あるいはプロの域に入る。これにより一局の消費時間を見れば、ある程度の棋力が推定できると云うほど対局時間が重要な要素になっている。願うらくは持時間1時間碁を堪能できるような碁打ちになりたいものである。 2015.04.13日 囲碁吉拝 |
(私論.私見)