日本囲碁史考、丈和以降から秀策入門まで

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.17日

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 2005.4.28日 囲碁吉拝



 1819(文政2)年

 2.29日、10世林門入・鉄元6段没(享年推定34歳)。10世鉄元が早世して当主のいない林家の指名で、元丈門下の舟橋元美6段(47歳)が林家11世の家督相続を許される(9世門悦の生前、10世門入との合意あり。本因坊元丈の計らいによる)。元美は林家中興の祖と呼ばれることもあり準名人に進んだ。碁技に加えて著作活動に大きな足跡を残しており、本邦囲碁史上第一の博学として名高い。著書を列記すれば「碁経連珠」、「碁経衆妙」、「碁経精妙」、「紅甲珍鑑」、「爛河堂碁話」等が数えられる。文久元年没、84歳。
4.5日 (坊)元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝
5.19日 中野知得-(坊)元丈(先) 元丈先番中押勝
(坊)元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝
 5.6日、因碩(因砂)が、宗家の縁戚として他の三家を説得して服部因淑が7段に進み、外家として新規召し出され御城碁出仕を果たす。外家で7段の資格を得て御城碁出仕するのは因淑が初めてとなる。本因坊丈和は6段、服部立徹(旧名橋本立徹)は5段に進む。
 7.28日、戸谷(葛野)丈和6段(33歳)が本因坊11世元丈(45歳)の跡目となる。5月に跡目願いを出し、7月に許され十人扶持を給せられる。
 8.24日、「丈和-水谷琢順(先)」、丈和白番2目勝。
 9.6日、「(坊)元丈-丈和(先)」、打ち掛け。
 10.6日、服部因淑の養子/服部立徹(後の井上因碩11世幻庵)が因碩(因砂)に請われて井上宗家の養子跡目となり井上安節と改名する。幼少からの厳しい修行により、この時には奥歯4本が抜けていたと云う。
 10.24日、「(坊)元丈-丈和(先)」、ジゴ。

 1819(文政2)年11.17日、御城碁。
  服部因淑、林元美、坊)丈和、井上安節(幻庵)が御城碁に初出仕。安井仙知(中野知得)は8段42歳。爾後、因淑は天保7年まで11局、元実は嘉永5年まで11局、丈和は文政12年まで9局、安節(10世及び11世因碩幻庵)は1835(天保6)年までに11局、その後6年休んで同13年に再出仕して2局、計13局勤めた。丈和と元美が因淑・幻庵のライバルとなる。ここ一番の強さが幻庵と丈和の命運を分けており、後に元丈、知得、幻庵、秀和は“囲碁四哲”と呼ばれるが、負けの少ないのが秀和、負けの多いのが幻庵と云われる。  

 安節(後の11世井上幻庵因碩)5段が21歳のとき、9世井上因砂因碩の跡目に乞われて宗家に入り、井上安節と改名。井上家跡目として御城碁に初出仕、服部父子が揃って出仕した。安節は実力7段格と評価されていたにもかかわらず本因坊元丈に二子番で対し辛うじて1目勝ちとした。この碁は「
元丈一生のできばえ 」と評されている。二人の対局は他に3局あり、2子番2局中押勝、先番1局2目勝ちでいずれも安節が勝っている。
428局 (坊11世)元丈-(因碩跡目)安節幻庵(2子)
 幻庵2子局1目勝/元丈8段、安節幻庵5段
(元丈19局)
(幻庵1局)
429局 (安井8世)中野知得8段-(坊跡目)丈和6段(先)
 丈和先番5目勝(名局と称される棋譜を遺している)
(知得19局)
(丈和初1局)
430局 服部因淑(因徹)ー(林11世)元美(先)
 
元美先番7目勝
(因淑初1局)
(元美初1局)

服部因淑御城碁記録

林元美御城碁記録

坊)丈和御城碁記録

井上安節(幻庵)御城碁記録

 12.17日、「丈和-外山算節(先)」、打ち掛け。
 この年8月、井上因碩(因砂)が「竹敲間寄」2巻(守然堂)、服部立徹が「奔図」4巻(青黎閣)を出版する。
 この年、畠中哲斉(金華園主人)編「四家評定・名世碁鑑」(めいせいごかがみ)4巻4冊(青黎閣)が刊行される。天明から文化までの打ち碁百局が収められている。門人高倉柔書「名世碁鑑序」は次のように記している。
 「天正年間、本因坊算砂、国手をもって名づけられる。豊太閤特にその技を善しとし、また碁院をもって官に食す。爾来歴世あい承け、もって今に伝う。今の本因坊元丈、井上因硯、林門入、安井知と得と、みなその職を世にし、家声を落とさず。世これを称して、碁の四家と云う。凡そ天下の碁と云うもの、これに根底せざるはなし」。
 この年、服部因淑著「温故知新碁録」(おんこちしんごろく)2巻2冊が刊行される。
 この年、加藤正徹(後に服部家の養子となる)越後に生まれる。

 1820年(文政3)年 

 黒川立卓が因淑の養子となり、服部雄節と改名する。
1.14日 (坊)元丈-丈和(先)
 元丈が丈和を跡目とした翌年の対局。この時、元丈46歳、丈和34歳。
丈和先番中押勝
3.7日 (坊)元丈-丈和(先)」  打ち掛け
2.25日 丈和-伊藤秀*(2子) 丈和白番9目勝
4.2日 丈和6段-伊藤秀*(2子)」  伊藤2子局中押勝
 4.10日-5.15(5.21)日、「仙知(知得)8段-丈和(先)」、丈和先番2目勝(「丈和と安井知得の文政3年の対局」)。

 仙知は元丈と共に8段準名人、丈和は6段。打ち盛りの丈和が仙知(知得)に先で対局し、形勢不明の碁にされ、101手目で3時間の長考をし、黒2目勝ちを読み切ったと伝説されている。その碁は 259手までで終わっている。先番の丈和の2目勝としたものの白の名局と言われ、この対局が「知得一生の上出来」と称され、「古今随一の名局」、「伝説の名局」と語り継がれ、関山仙太夫が次のように評している。
 概要「この碁仙知一生の上出来なりと伝えらるれども、黒の丈和101の手で2目勝ちを読み切りたること、大いなる手柄というべし。しかして仙知がその101の手を見て、『大いにキモを冷やし、この碁到底勝ちを得ざれば、せめて一目の敗けとなす打ち方はなきやと種々考えしも、遂に得るところなかりしとなり』と言わしめた。但し、この101の手に一刻半(3時間)を要し、102の手もまた同様なりし。故に本局は当世の極妙碁なり」。
 「黒101の手に丈和は一手3時間、これをくつがえさんとする仙知が次の102手に同じ3時間を要した」。

 関山仙太夫は、「当世の極妙碁なり」と評している。打ち盛りの丈和の黒を苦しめたということで「知得一生の出来」と称される。

 1820年(文政3)年11.17日、御城碁。
431局 坊11世)元丈-(因碩9世)因砂(先)
 因砂先番11目勝
(元丈20局)
(因砂9局)
432局 (林11世)元美6段-因碩跡目(安節幻庵)(先)
 幻庵先番11目勝
死活の見落しがあった
(元美2局)
(幻庵2局)
433局 服部因淑6段-(坊跡目)丈和6段(先)
 丈和先番中押勝
(因淑2局)
(丈和2局)

「安井仙知8段―坊)丈和6段(先)」 丈和先番5目勝
 因淑(60歳)、丈和()共に二度目の御城碁出場。因淑が外家ながら出場できたのは前年に7段に推挙されたことによる。
 この年4月、外山算節「置碁必勝」1巻を編纂(後に川北耕之助が遭稿として出版)。六子局の布石のみ65局を集めたユニークな著である。算節の生没年不詳。幼名喜太郎。晩年は京都丸山の正阿弥という料亭を譲り受けて隠居している。丈和が次のように評している。
 「源吉(山本)、因砂、元美(林)、算節等の技は伯仲の間にあるも、気味合いに至りては算節を長とすべし」。

 戸谷梅太郎
 この年、本因坊丈和の長男で戸谷梅太郎が江戸に生まれる。後に水谷琢順の養子となって水谷順策、次いで井上家跡目となって井上秀徹を名乗る。後の12世井上因碩節山。
 土屋俊平(後の本因坊家14世本因坊秀和)が伊豆国相沢郡小下田に生まれる。

【阿波国の四宮米蔵の登場】
 丈和と四宮米蔵は文政3年11月から翌4年3月まで10局、同5年1月に1局、計11局の対戦があり、丈和の主著「国技観光」に採録されている。
 四宮米蔵
 四宮米蔵の履歴は次の通り。

 1769(明和6)年、淡路国津名郡上畑村(現兵庫県淡路市木曽上畑)生まれ。特に師に付くこともなく独学で碁を学び、享保・文政の頃に賭碁師として諸国を巡り阿波の米蔵の名を馳せた。「阿波の米蔵」こと四宮米蔵は享保文政期に賭け碁で稼いだ金額三千両と云われている。

 1820年(文政3)年11.24日、賭碁師(かけごし)/四宮米蔵(しのみやよねぞう)が第12代藩主蜂須賀斉昌(はちすかなりまさ)阿波守の供に加えられて江戸に出向き、本因坊の道場を訪ね手合を求めた。当主の本因坊元丈は当時6段の跡目丈和(後の12世本因坊)と2子で対戦させた。この時、米蔵52歳、丈和34歳。
対局は朝の五つ半(9時)に開始され、死力を尽したねじり合いになり、終局は深夜に及び丈和の9目勝ち。阿波守は後に使者を送り米蔵に三段の認可を求めたが、元丈は「6段に2子で勝てぬようでは」と述べこれを断る。

 1821(文政4)年
 

【丈和と米蔵の十番碁始まる】
 米蔵は再度対戦を求めて受け入れられ、丈和との間で1820(文政3)年から1823(文政6)年にかけて十番碁が打たれ、もう一局重ねて前後11局を4勝6敗1ジゴ(引き分け)で終わっている。この頃の丈和は打ち盛りであり、米蔵の成績が立派と評価され、この功により3段を許された。当時「二子を置く時は天下に敵なし」と自負していた米蔵は、後にこの時のことを語って「丈和は実に名人の器乎」と語ったとされる。丈和が自著の打ち碁集「国技観光」に米蔵との全局を収録しているのも米蔵の碁を高く評価してのものであろう。藤沢秀行が丈和-米蔵戦には名局が何局もあると評している。1824(文政7)年、4段。この頃、井上安節、伊藤松和に先番、林元美に二子、元丈に三子などの碁も残されている。 その後、浪華(大阪)に住み一生軒無案と号した。太田雄蔵との棋譜も西征手談に掲載されている。天保6年に逝去している(享年67歳)。墓所は道頓堀の法善寺
 1821(文政4)年、丈和-米蔵の十番碁の経過は次の通り。
1.2日 第1局 丈和-四宮米蔵(2子) 丈和2子白番9目勝
1.19日 第2局 丈和-四宮米蔵(2子) 丈和2子白番勝
1.23日 第3局 丈和-四宮米蔵(2子) 米蔵2子番中押勝
1.31日 第4局 丈和-四宮米蔵(2子) 米蔵2子番中押勝
2.2日 第5局 丈和-四宮米蔵(2子) 丈和2子白番勝
2.16日 第6局 丈和-四宮米蔵(2子) 丈和2子白番10目勝
2.25日 第7局 丈和-四宮米蔵(2子) ジゴ
2.25日 第*局 丈和-四宮米蔵(2子) 米蔵先番中押勝
2.27日 第8局 丈和-四宮米蔵(2子) 丈和白番6目勝
2.27日 第8局 丈和-四宮米蔵(2子) ジゴ
3.5日 第8局 丈和-四宮米蔵(2子) 丈和白番6目勝
3.18日 第9局 丈和-四宮米蔵 (2子) 丈和白番14目勝
4.10日 第10局 丈和-四宮米蔵(2子) 米蔵先番4目勝

 丈和-米蔵の十番碁終わる(丈和の6勝4敗1持碁)。米蔵は本因坊家から3段を許された。


 第7局の対局につき、米蔵が次のように伝えている。
1821(文政4)年1.25日 丈和恐るべし、米蔵仰天の一局
 「丈和は実に名人の器か。予かって二子置く時は天下に敵なしと信ぜしに、その7番目の碁、110の手に21子を打ち抜き、すでに勝ちを占めたりと思いきや、丈和が125手を下すに及びて主客たちまち転倒し、遂に持碁(引き分け)に帰せり」。
 (解説) 米蔵が「七番目の碁、110の手に21子を打ち抜き、すでに勝ちを占めたりと思いきや」と言っているのは、右上隅で劫を解消、上図の黒石10の手で白の21子を取り切ったことを指しており、また、「丈和が125を下すに及びて主格たちまち転倒し」と言っているのは、その後の丈和の着手、白11~25までの経過で、下辺の黒石10子が攻略されようとしている。
 2年間に11局打って丈和6勝4敗1ジゴ。米蔵は3段を許され、後に4段に進んだ。米蔵の墓は道頓堀の法善寺にある。
 丈和は後に次のように語っている。
 「自分の一生を通じ、米蔵と対局した文政年間は、一番の打ち盛りであった。勝つべき碁はもちろん、とても勝ち難いような碁でも、よく逆転勝ちしたものである」。

 関山仙太夫(1784年(天明4年)~1859年(安政6年)の人で信濃(長野)生まれ。5段格。7段格で素人日本一とも。晩年の本因坊秀策との20番碁は有名)が米蔵の実力を認め次のように評している。
 「米蔵は手の見えはなはだすぐれたり。一向に法を用いず、我流を打つ強五段の珍物なり」。

 林元美の日記は次のように記している。
 「阿波に米蔵となん伝える碁士あり。享和文政の頃諸国を遊歴し、賭碁を渡世とし、下手共を驚かしけり、後、江戸に出て、本因坊門下となりし伝々」。

 爛柯堂棋話(らんかどうきわ)は次のように記している。
 「宝暦明和に至りて賭碁渡世の者まま聞くことあり」、「阿波の国に(四宮)米蔵と云う碁打ちあり。享和・文政のころ、諸国を遊歴して、賭碁(かけご)を渡世として下手どもを驚かしけり。江戸に出て、本因坊に入門し、二段の手相(てあい)を許される」、「賭碁にて家を興せし者は、唯源五郎一人なり。その後尾張の徳助、阿波の米蔵等も三千両許り勝たりと雖も、皆な酒色遊女博奕々等に遣い果たし云々」。

 川村知足の「囲碁見聞誌」は次のように記している。
 「その棋、米蔵後年に至り西国遊歴の折、さる方に至り碁の席上にて曰く、丈和先生は実に古今の名人とも申すべきや。我、東都に於て手合いの時、二子置きてジゴになりし碁あり。その棋、110の手にて21目の石を打ち抜きて取りし折、この碁こそ丈和先生たりとも必定、中押しの勝ちならんと心中に喜悦なせしところ、追々手数打ち下すとき、125の白手を打たれし折、忽ち模様変わり、忙(呆)然として手段更に決すること能(あた)わず。終いにはジゴとなりぬ。よって碁の道に妙手限りなきを知りぬと物語を承りぬ。

 愚、天保の初め年若き頃、下谷車坂なる本因坊の稽古日に折節通いし折、塾生及び通い弟子、大勢打ち交わり、手合いの席へ丈和先生出座ありて、様々の話ありし中に、我れ人々の碁を教ゆる事は次第に巧者になれども、手合い勝負の事は文政の初め頃、米蔵と手合いせしころこそ全く打ち盛りなりしと覚えゆ。その頃は勝ちにできし碁は勿論、克ち難き碁も勝ちになりし事、毎度ありしと語られし事を承りぬ。愚、知足、案ずるところ、先師丈和かくの如く語られしを考えれば、米蔵の碁、田舎修行なれども頗(すこぶ)る力碁と見えたり。さもなくば丈和先生かようの話はあるまじき事なり」。

 1.18日、「丈和-服部雄節(2子)」、打ち掛け(初手合い)。
4.28日 林元美6段-丈和(先)」  丈和先番勝
5.13日 丈和-林元美(先) 林元美先番7目勝
 6.17日、「林元美-四宮米蔵(先)」、米蔵先番6目勝。
10.24日 丈和-幻庵(先) 丈和白番勝
10.27日 丈和-幻庵(先) 丈和白番勝

 1821(文政4)年11.17日(12.3日)、御城碁。
434局 服部因淑(因徹)- (因碩10世)因砂(先)
 ジゴ
(因淑3局)
(因砂10局)
435局 (安井8世)中野知得7段-(林10世)元美6段(先)
 元美先番4目勝
(知得20局)
(元美3局)
436局 (坊跡目)丈和6段-(因碩跡目)安節幻庵5段(先)
 丈和白番12目勝
(丈和3局)
(幻庵3局)
437局 (坊)元丈-中野知得(先)
 知得先番1目勝
(元丈21局)
(知得21局)

 丈和/幻庵は「中盤の54手目と80手目。強く抑えずに軽くケイマに外して打った、ちょっと気がつかない妙手」が高く評価されている白の名局。

 12.8ー翌9.28日、「丈和-幻庵(先)」、幻庵先番中押勝。
 この年、元丈が唯一の著作となる「古碁枢機」を著わしている。「乾」(いぬい)、「坤」(こん、ひつじさる)の二巻から成り、林利玄から道策時代までの古碁50局を纏めている。翌5年、「艮」(うしとら)、「巽」(たつみ)の二巻(算砂、利玄の対局に遡り、道知時代までの51局を追加)を加えて「艮、巽、乾、坤」の四巻101局を掲載した。元丈の後序は次の通り。
 「この古碁枢機は年久に私(わ)が家に伝へぬる書にして、遠津祖・算砂上人よりして代々の名高き人達の後の代までも伝へぬる囲碁にして、更にまたたぐいなき文なり。おのれ朝夕これを取り出して、そがままをまねび囲み見るに、その妙なること、たえて人の思ひよるべくもあらぬ手ともなん多かりける。しかるに、今かかる静けき大御代にあひて、誰も誰も、このことを明け暮れの慰みとして。斧の柄も朽ちすばかりなり。楽しみものする時なれば、かくて秘めおかんは、いとあたら惜しく、果て果ては、かくつち(土)の争にもあひ、しみの住みかともなりぬべきに、こたび彼の上人の二百年、遠の昔忍ぶ筵(むしろ)に列なれる人にも分かち、広く与(世)の人の目もおどろかさんとて、板に恵らせつることとはなりぬ。文政5年の年の春 本因坊元丈記す」。

【「如仏(にょぶつ)の判決」評定】
 この年、福山藩の儒学者・太田八郎(号は文学)が、鎌倉時代において「如仏(にょぶつ)の判決」(建長5年)についてとして知られる全局死活論について、家元四家に統一見解を求めた。元丈を議長とする家元会議が開かれ、本因坊元丈、安井仙知知得、井上因碩因砂、林元美、服部因淑が討議した結果、元丈が「局部的死活論」を採用し「如仏非に成りし」と回答した。これにより五百年ぶりに判例が覆され、ルールが変更されることになった。「爛柯堂棋話」は次のように記している。
 「右、頼みにつき、本因坊元丈へ仙知(知得)、因碩(因砂)、元美、因淑来たりし時、この話に及びし日、五百余年の後に如仏が非になりしと元丈笑ひける由、太田へ答へしことあり。両コウと目一つの石は別々の事なり。異論あるべからず。その後、対話に右の事を問ひしに、穏当とも思ひ難きにより、未だ著述には筆さずとの答へなりき」。

 この問題につき、明治時代になると如仏の判決(全局死活論)を支持する棋士が多かった。このルールが戦後の昭和の初期まで続いた。1949年、日本棋院が制定した囲碁規約では元丈時代の局部的死活論が再生された。1989年の日本囲碁規約改訂では、対局の停止後での「死活確認の際における同一劫での取り返しは、行うことができない」という規定により、これが継承され今日に至っている。また中国ルール・台湾ルール(計点制ルール)では、コウに限らず一局中においてすべての同形反復が禁止されていることから死とされる。

 1959年の呉清源 - 藤沢朋斎の三番勝負第2局において、呉が全局死活論での対局を申し入れた。呉が日本棋院所属棋士ではないために可能だった提案である。藤沢はこれを了承し、例外的なルールでの対局が行われた例となった。これは直前に行われた呉 - 高川格の本因坊三番碁の第2局で、終局時にコウの手入れを巡るルール解釈の問題が生じたことから、当時不合理な点の残る当時の囲碁規約見直しについての問題提起の一つであった、との見方もある。


 1822(文政5)年

 1.3、12、13日、「幻庵-丈和(先相先の先)」、丈和先番中押勝。
1.9日、 (坊)元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝
1.18日 中野知得-(坊)元丈(先) 元丈先番中押勝
 2.8日、「(坊)元丈-四宮米蔵(2子)」、元丈白番2目勝。
 2.14日、「丈和-加藤降二郎(3子)」、丈和白番勝。
2.17日 丈和-伊藤松次郎初段(3子) 丈和白番11目勝
2.20日 丈和-伊藤松次郎初段(2子) 伊藤先番2目勝
 2.21-22日、「丈和-伊?|蜂三郎3段(2子)」、先番1目勝。
 3.5日、京都・寂光寺で「本因坊算砂法師二百年忌追善法要」営まれ、跡目本因坊丈和と後見役の服部因淑が上京した。席上「丈和(35歳)-外山算節(49歳)(先相先の先)」の追善対局(寄進碁)が行わる(本因坊算砂没後200年記念「丈和-外山算節(先)」)。当時、元丈門下の兄弟子にあたる外山算節が京都に居住し多くの門弟を育てていた。その算節あたりが法会対局の準備を整えたものと思われる。こういう場合の対局は儀礼的なもので、所定の時刻になれば打ち掛けになるのが慣わしであるところ4日にわたって打ち継がれた。4日目、119手目を打とうとした算節が倒れた。立会人の因淑が助け起し「この碁、黒の模様大いに良し」と励ました。算節は、やっとのことで119手目を打つと、またのめるように倒れた。算節が次のような言葉を遺している。
「この碁を終局まで継続せんには、決して死を免れざるべし。願わくば打ち掛けに止めんと欲す。しかれども今こま局面にして予の模様悪しとせんか、世人あるいは算節負けを恐れて逃げしと云わん。故に予は現勢予に敗兆ありとせば、断然死を決して打ち継ぐべし」。

 因淑が「勝敗未だ判じ難き」と答えて打ち掛けにしたと云う。「
永遠の打ち掛けの局」として知られる。

 後日、勝敗の予想を問われて、算節は「黒3目勝ち」と答え、丈和は「白1目勝ち」と答えたと伝えられている。衆評は「知得(8世安井仙知)なら、白黒どちらを持っても勝つであろう」。18世本因坊秀圃は次のように述べている。「この局面で終局の目数まで云々するのは無意味である」。

 元丈は上洛に先立って丈和と向先で十番碁を打ち全敗している。「本因坊算砂二百年忌追善法要」の際、師匠の元丈自ら黒を持って二局打ち二勝している。これは算節から関山仙太夫が聞いた話とされているが譜は伝えられていない。
 丈和は、帰途名古屋から信州を廻り、水内郡の墓所に参拝との伝えあり。2子から4子の指導碁を名古屋で1局、信州で4局ほどの棋譜を遺している。その中に、松代藩士関山虎之助(後の仙太夫)と初手合いし、二子局、三子局を勝利している。夏頃、江戸に帰着している。
3.8日 中野知得-(坊)元丈(先) 元丈先番5目勝
(坊)元丈-中野知得(先) 知得の先番2目勝
5.5日 (坊)元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝
 3.15日、「丈和-河北耕之助(2子)」、ジゴ。
 3.17日、林柏悦(後に柏栄)、御城碁に初出仕、爾後、文久3年の下打ちまで34局を勤める。伊藤松次郎(後に松和)8段。
 3月、「丈和-井上(因砂)6段(先)」、ジゴ。
 4.29日、「丈和-加藤隆二郎(3子)」、加藤先番11目勝。
 6.2日、「丈和-佐野常次郎初段(3子)」、丈和白番中押勝。
 「丈和-小池喜曾八(4子)」、丈和白番15目勝。
 柏悦初段(18歳)が11世林元美の養子となり跡目を許される。
 「(坊)元丈-四宮米蔵(2子)」戦が組まれている。
7.7日 (坊)元丈-四宮米蔵(2子) 米蔵先番中押勝
 「(坊)元丈-中野知得」戦が組まれている。
8.2日 中野知得-(坊)元丈(先) 知得白番中押勝
8.18日 中野知得 -(坊)元丈(先) 元丈先番5目勝
9.15日 (坊)元丈-中野知得(先) 元丈白番2目勝
 「丈和-服部雄節2段(2子)」戦が組まれている。
8.10日 丈和-服部雄節(2子)」   雄節先番3目勝
8.16日 丈和-服部雄節(2子) 雄節先番6目勝
8.17日 丈和-服部雄節(2子) 雄節先番3目勝
 「幻庵-四宮米蔵(2子)」戦が組まれている。
9.5日 第2局「安節(幻庵)-四宮米蔵(定先)」 幻庵白番中押勝
10.15日 安節(幻庵)-四宮米蔵(先) 米蔵先番中押勝
10.23日 安節(幻庵)-四宮米蔵(先) 幻庵白番中押勝

 幻庵-四宮戦の初手合いは、米蔵2子で幻庵が終盤に見損じをして大逆転負けを喫した。第二局は幻庵が負けられない碁となり、米蔵定先で中押勝した。第3局は米蔵定先で米蔵が第4局は米蔵定先で幻庵が中押勝した。  
 「丈和 -安節(幻庵)5段(先)」戦が組まれている。
8.12日 丈和 -安節(幻庵)5段(先) ジゴ
9.28日 丈和 -安節(幻庵)(先) 幻庵先番中押勝
 10.23日、「丈和-太田卯之助(3子)」、太田先番中押勝。

 1822(文政5)年11.17日、御城碁。
 林柏悦(後に柏栄)が御城碁に初出仕。爾後、文久3年の下打ちまで34局を勤む。
438局 因碩10世因砂6段-(坊跡目)丈和6段(先)
 丈和先番中押勝
/「丈和の横綱相撲の局」
(因砂〆11局)
(丈和4局)
439局 (安井8世)知得7段-(因碩跡目)安節幻庵5段(2子)
 幻庵2子局中押勝
(知得22局)
(幻庵4局)
440局 服部因淑(因徹)-(林跡目)柏悦(3子)
 因徹3子局白番9目勝
(因淑4局)
(柏悦初1局)

 伊藤松次郎(後に松和)入段。
 この年、2007年に世界遺産に登録された石見銀山の代官所がある島根県大田市(石見国)大森で坊門の岸本左一郎(1822~1858)が生まれた。岸本は本因坊秀策(広島県因島出身)の兄貴分的存在。これは郷里が比較的近いこと、本因坊丈和への入門がほぼ同時期だったことによる。大田市仁摩町天河内の満行寺(道策ゆかりの馬路の満行寺とは異なる)の前の小高い丘に岸本の碑が立っている。碑文の前面は本因坊秀和が1860年7月6日に書いており、背面は1864年晩春に安井衡の撰(せん)、紀広繁の書となっている。背面の碑文によると、林元美が岸本を後継ぎに望んだが、岸本の父がこれを認めず、七段(上手)での御城碁出場を願った、という興味深い記述がある。秀策の対岸本戦は8局あり秀策の5勝3敗。
 1822(文政5)年夏、本因坊11世元丈(げんじょう1775-1832)が本因坊家に伝わる棋譜「古碁枢機」牌巻(青黎閣)を出版する。元丈が記したあと書きによれば、初代算砂以来、本因坊家に伝わってきた棋譜を記録したものになっている。林利玄はやしりげん(1565?-?)、中村道碩なかむらどうせき(1582-1630)など、本因坊初代算砂と同時代を生きた碁打ちたちとの対局の棋譜から、18世紀中頃までの棋譜が記録されている。
 この年頃、青年時代(文政元年正月から文政5年正月まで)の丈策(宮重岩之助)の打ち碁百局自筆譜「囲碁記」が刊行され写本されている。
 この年、服部立徹著「奕図」(えきず)4巻4冊が刊行される。
 冬、8世安井仙知が「河洛余数」4巻(青黎閣)を出版。

 1823(文政6)年

 4.17日、「丈和-片山知的(先)」、丈和白番中押勝。
 「(坊)元丈 -中野知得」戦が組まれている。
5.27日 中野知得-(坊)元丈(先)」  知得白番5目勝
6.29日 (坊)元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝
10.7日 中野知得-(坊)元丈(先) 元丈先番4目勝
 6.23日、「丈和-伊藤秀助5段(先)」、伊藤先番中押勝。
 7.9日、「(坊)元丈-小池喜曽八(4子)」、元丈白番15目勝。
 7.11日、「伊藤松次郎-四宮米蔵(先) 」、伊藤白番11目勝。
 8.24日、「宮重岩之助(丈策)-太田卯之助(雄蔵)(先)」、丈策白番中押勝。
 10.23日、「丈和-服部雄節2段(2子)」、丈和白番11目勝。

 1823(文政6)年11.17日(翌1.5日)、御城碁。
441局 (坊11世)元丈6段-(林11世)元美6段(先)
 元丈白番3目勝
(元丈22局)
(元美4局)
442局 (坊跡目)丈和-(林跡目)柏悦(3子)
 柏悦3子局中押勝
(丈和5局)
(柏悦2局)
443局 服部因淑7段-(因碩跡目)安節幻庵5段(先)
 幻庵先番2目勝
(因淑5局)
(幻庵5局)

 元丈と元美との対局は元美の先で元丈の4勝4敗1ジゴ。

 12.2日、「丈和-関山仙太夫(2子)」、ジゴ。
 12.27日、「丈和-伊藤松次郎(2子)」、伊藤先番14目勝。
 この年、夏、畠中哲斉著「対勢碁鏡」(たいせいごかがみ)4巻4冊を出版。この後、林元美の発明した木版碁活字を用いて「当世碁譜」を印刷したが、序文中に「碁のために害や多し」と書く。逆説的に碁の妙を説いたことと、各家元の碁譜を無断で掲載したことで家元の反感を招き、訴えられて揚屋入りとなる。交友ある林元美が奔走して事なきを得る。
 11月、石原是山が「囲碁妙石集」2巻(青黎閣)出版。

 1824(文政7)年

 「(坊)元丈 -中野知得」戦が組まれている。
1.27日 (坊)元丈-中野知得(先) 知得先番中押勝
1.29日 中野知得-(坊)元丈(先) 知得白番7目勝
5.7日 (坊)元丈-中野知得(先)」  打ち掛け
8.9日 (坊)元丈-中野知得(先) 知得先番5目勝
8.19日 中野知得 -(坊)元丈(先) 元丈先番2目勝
9.5日 (坊)元丈-中野知得(先) 知得先番9目勝
9.21日 中野知得-(坊)元丈(先) 元丈先番3目勝
 1.28日、「幻庵-宮重岩之助(丈策)(先)」、幻庵白番中押勝。
 5.22日、「(坊)元丈-斎藤銑之助(丈貞)(2子)」、元丈白番中押勝。
 5月、井上因碩9世(因砂)が隠居し、7.27日、安節(26歳、先の名/服部立徹)が家督を継ぎ井上因碩10世(隠居後は幻庵)となる。6段に昇段する。後に、井上家の元祖とされる中村道石(碩という字は使っていない)を一世とし、一代ずつ繰り上げたために世系書き換え後は11世となる(「井上家世系について」)。

 因碩自身が後年、著書「囲碁妙伝」に次のように書き記している。
 「私儀6歳の節囲碁相覚え、小童ながら飲食を忘れ精出し仕り、12歳にて初免許の所作に罷り成り、それより18歳まで、枕を付け候。夜もこれなく、なおまた27歳の春まで二日二夜三日三夜席を去らざる修行数十番仕り、既に21歳にて奥歯四枚脱け申し候」。
 「総じて11世井上因碩の打ち碁、文政7年以前は芥の如し。文政7年と8年の申酉2年に的然と昇達せしを心中に覚ゆるあり」。
 (文政6年までの吾が輩の碁は塵(ちり)芥(あくた)みたいなものだ。文政7、8年の2年間に、はっきり上達したのを自分で感じている)。
8.9日 丈和-伊藤松次郎(松和)(2子) 伊藤松和2子局5目勝
9.1日 丈和-伊藤松次郎(松和)(2子) 伊藤松和2子局5目勝
 8.15日、安井俊哲が8世安井仙知の跡目となり御目見得を許される。

 1824(文政7)年11.17日、御城碁。
444局 (坊11世)元丈8段-(因碩11世)安節幻庵6段(先)
 幻庵先番2目勝
(元丈〆23局)
(幻庵6局)
445局 (安井8世)知得-(林跡目)柏悦(3子)
 柏悦3子局9目勝
(知得23局)
(柏悦3局)

「(坊)」元丈―林元美(先) 元丈白番3目勝
 この年、7月、服部因淑著「置碁由在」(おきごじざい)10巻(青黎閣)出版。置碁布石に詳細な解説を付け、変化図も付すなど当時としては親切な教本である。因淑は他にも「釋貴奕範」、「温故知新碁録」の三冊を著わしている。
 この年秋、鈴木知清が「対手百談」(たいしゅひゃくだん)4巻1冊(青黎閣)出版。

 1825(文政8)年
 この年、異国船打ち払い令。

 1.5日、「(坊)元丈-幻庵(先)」、幻庵先番2目勝。
 6.8-18日、「丈和-服部雄節(2子)」、雄節先番中押勝。
 8.2、7、9.2日、「幻庵-鈴木知清(先)」、。
 10月、林元美、井上因碩が7段に進む。

 1825(文政8)年11.17日、御城碁。
 安井俊哲4段(後の9世算知、20歳)が御城碁に初出仕。爾後、安政4年まで41局を勤める。
446局 (坊跡目)丈和6段(安井跡目)俊哲(2子)
 丈和白番1目勝
(丈和6局)
(俊哲初1局)
 関山仙太夫が次のように評している。
 「俊哲この時六段にも劣らぬ業ならん。ゆえに二つは中押し勝ちの心算なり。しかるに丈和に妙手を打たれてかくの如く1目負け碁となり。大いに落胆し、父仙知は大いに立腹して俊哲を叱責せりという。予案ずるに、黒勝つべき手段百手前にあり。末にも1目勝ちになる打ち方あり」。
447局 (坊跡目)丈和6段-(林11世)元美6段(先)
 丈和白番6目勝
(丈和7局)
(元美5局)
448局 (因碩11世)安節幻庵-(林跡目)柏悦(2子)
 幻庵向2子白番中押勝
(幻庵7局)
(柏悦4局)
449局 服部因淑(因徹)-(安井跡目)俊哲(3子)
 俊哲3子局中押勝
(因淑6局)
(俊哲2局)

 「仙知-幻庵(先)」、幻庵の先番10目勝ち。関山仙太夫は「黒打方極妙」と評している
 この年、安井俊哲4段(仙知8世知得の長子にして後の9世算知、20歳)が安井家跡目となる。
 この年、山本道佐(源吉)5段が生没する(享年63歳)。  
 この年、本因坊丈和著「国技観光」(こくぎかんこう)4冊が刊行される。
 国技観光序
 囲技為、技。僅々(わずか)十九道三百六十子。而縦横開*奇正変化之理悉備。浩か其無涯。*か其不測也。而有法罵。能循法者。如王者之兵。投之所向。無不如意。不循法者。如号将之闘。終亦智窮力屈而止。至其精深宏妙之極。即得之於心而応於手。師不得授之於弟子。各々不得受之於師。有数存罵其間。世成以己不嗜。斤曰愚。*喜有乾肺焦心終身学罵詈而不成者。豈有昏愚之質而可得之理哉。但嗜之者沈思*座。其迄如愚。故云爾。嗚呼嬉又五君*知動静方円之妙資之此而発之彼哉。間者。

 1826(文政9)年

 「(坊)元丈 -仙知(中野知得)7段」戦が組まれている。
2.29日 仙知(中野知得)7段 -(坊)元丈(先) 元丈先番中押勝
5.29日 (坊)元丈-仙知(中野知得)7段 (先) 知得先番5目勝
6.22日 仙知(中野知得)7段 -(坊)元丈(先) 元丈先番8目勝
3.5日 丈和-坂口虎次郎(2子) 丈和白番7目勝

 1826(文政9)年11.17日、御城碁。
450局 安井8世知得7段-(因碩11世)幻庵6段(先)
 幻庵先番13目勝
 中野知得7段、安節幻庵6段
(知得24局)
(幻庵8局)
451局 (林11世)元美-(安井跡目)俊哲(2子)
 俊哲2子局9目勝
(元美6局)
(俊哲3局)
452局 服部因淑(因徹)-(林跡目)柏悦(2子)
 柏悦2子局14目勝
(因淑7局)
(柏悦5局)

 この年、安井知得が実子の俊哲を安井家跡目とする。この時期、安井家の弟子として太田雄蔵阪口仙得鈴木知清、片山知的、石原是山、桜井知達、佐藤源次郎など多くの若手棋士を育成し、安井家は本因坊家に匹敵する興隆を見せている。俊哲、雄蔵、仙得は、伊藤松和と並んで天保四傑と呼ばれる。娘の鉚も二段まで進み、後に土佐藩士宮井某に嫁いだとされる。
 この年、松代藩士関山虎之助(後の仙太夫)虎之助が藩主の祐筆として江戸詰めとなり、五年ほどの在府期間中、棋力に精進している。仙太夫と丈和は文政5年から天保2年までの間、5局の棋譜を遺している。内訳は、仙太夫から見て3子局1勝、2子局3勝1打ち掛け。仙太夫が江戸詰めを終え、松代に帰藩する直前の1局が上野の真如院で打たれ、仙太夫の1目勝ち。「坐隠談叢」が次のように記している。
 「(丈和が戯れに門人に語った言葉)頃日、真如院より金五百疋(一疋は十文)を謝礼せり。然るに予、仙太夫との手合い前四五日間は棋力保養の為め、日々二百疋宛の鰻魚(ウナギ)を料れる故に収支相償わず」。
 「坐隠談叢」が次の逸話を記している。
 「仙太夫常に煙草を喫するに、拳大の煙管を以てせり。而して対局中、己の勝利なりと断定したねときは、その煙管を取り出して磨き初む。この癖百局一律なり。故に相手は仙太夫が煙管を磨くを見れば、一層の注意を払ひたりという」。
 この年秋、本因坊丈和が「国技観光」4巻(青黎閣)出版する。
 この年、若山立覚(立長)没。

 1827(文政10)年

 正月、本因坊丈和が7段に進む。
 1.20-25日、「丈和-*山仙太夫初段(2子)」、先番5目勝。
 2.17日、「幻庵-安井Ryu(*)」、安井の先番中押勝。
 3.16-24日、「丈和-服部雄節4段(2子)」、丈和の白番3目勝。
 「(坊)元丈 -中野知得」戦が組まれている。
5.6日 (坊)元丈 -中野知得(先) 知得先番5目勝
5.18日 中野知得-(坊)元丈(先) 元丈先番中押勝
12.9日 中野知得-(坊)元丈(先) 元丈先番中押勝
 10月、林元美、井上因碩(後の幻庵)が上手(7段)に進む。
 「丈和-赤星因徹5段(2子)」戦が組まれている。
10.11日 丈和-赤星因徹(2子) 因徹2子局中押勝
10.25-29日 丈和-赤星因徹(2子) 丈和2子局白番4目勝

 1827(文政10)年11.17日、御城碁。
453局 (林11世)元美6段-(坊跡目)丈和6段(先)
 丈和先番中押勝
(元美7局)
(丈和8局)
454局 (林跡目)柏悦-(安井跡目)俊哲(先)
 俊哲先番6目勝
(柏悦5局)
(俊哲4局)

 この年閏6月、元丈(53歳)が家督を丈和に譲り、12世本因坊を継ぐ。12月、元丈が隠居する。元丈のその後につき「坐隠談叢」が次のように記している。
 「悠遊自適塵外に逍遥し、また俗事を顧みず」

 この記述は、元丈の隠居後の晩年に起った丈和の碁所就任暗闘に際し、根回しや政治工作しなかったことを暗示している。

【本因坊12世丈和時代】

 1827(文政10)年
 11月、因碩(幻庵)は服部因淑に頼んで次のように丈和を説いてもらった。
 「あなたは名門の棟梁で、年も壮、器も8段であるから、近い将来、名人碁所になる人と思う。その場合、林元美は同門で異議はないだろうし、我々(井上家)はもちろん問題はない。異議を唱えるのは安井仙知(知得)だけだろう。これを何とかするのは自分ら親子の胸三寸にある。ついてはあなたが将来名人碁所となる準備とし、地歩を固める意味で因碩の8段昇進を承諾していただきたい」。

 因碩は7段に昇って1か月たつか立たないかの性急さであった。丈和は承諾の意思表示をした。
 12.12日、本因坊11世元丈(53歳)が隠居する。
 丈和が40歳の時、7段に進み、本因坊の家督を継ぎ本因坊12世丈和となる。「短躯肥大、眉太く頬豊かにして、従容迫らざれども、爛々たる眼光は犯すべからざる風あり」と伝えられる。本因坊家当主は丈和8段(41歳)、井上家当主は因碩(幻庵)7段(30歳)、安井家当主は知得仙知8段(52歳)、林家当主は元美7段(50歳)、因碩(幻庵)の養父の服部因淑7段(67歳)。9世本因坊察元の死去以来、名人碁所空位のまま。
 12.26日、「(坊)丈和-赤星因徹(2子)」、丈和白番6目勝。
 この年、山本道佐に6段を追贈する。

 1828(文政11)年
 シーボルト事件起こる。

 正月、本因坊丈和が準名人(8段)に進む。
 2月、本因坊丈和が碁所就位の行動を起こし名人碁所願を提出する。これより「文政から天保(1820~1840頃)にかけて、家元四家の計略策謀を巡る壮絶な盤上盤外での名人碁所争いが始まる。主役は丈和(8段、42歳)と井上因碩(幻庵)(7段、31歳)。丈和は因碩の11歳年長。両者の対戦は因碩15歳の時の先二の手合から始まり先相先まで70局、幻庵の35勝28敗3持碁4打ち掛け、丈和の28勝35敗3持碁4打ち掛けとなった。手合い割から云って幻庵の先二から始まり、幻庵の先番が圧倒的に多いことから評すれば、丈和に一日の長ありと感じさせる。この両者に安井仙知知得(8段、53歳)、林元美(7段、51歳)、服部因淑(7段、68歳)が絡む。これを、囲碁史上特筆される「丈和-幻庵因碩の名人碁所争い、天保の内訌」と云う。
 2.4日、服部因淑が今度は安井仙知を訪ね、因碩昇段の同意を求めた。ところが、仙知は次のように述べて峻拒した。
 「因碩は去年、7段になったばかりではないか。その後一回の手合いもしないで、僅々3か月ばかりで8段の重い地位に昇ろうと云うのは分に外れている。それに年もまだ若いではないか、他人はさておいて、自分は十局ぐらい手合いをして、その結果で賛否を決めよう」。
 2月、丈和の準名人(8段)昇進の1か月後、10世井上因碩(幻庵)が準名人(8段)に進む。
 2.26日、安井仙知宅で、丈和の碁所運動に関し家元同職会議を開く。 丈和、仙知、因碩、元美の四家元、それに長老の故をもって因淑も特別参加を許された。長老の仙知が議長格であった。席上、仙知が時期尚早と主張し、丈和の1月遅れで8段になっていた井上因碩(幻庵)との争碁を勧めるが幻庵は受けず、仙知が「そういうことならば自分が丈和と争碁を打つ」と全員に告げて会議を閉じた。

 2月下旬、安井仙知、丈和との争碁が寺社奉行に許可されるも、実施について指示なく、丈和の碁所就位も延引となる。仙知の病気などで日程が決まらず、幻庵が争碁願を提出する。仙知の裁定で2、3年待って争碁を行うこととした。
 「(坊)丈和-水谷琢順6段(先)」戦が組まれている。
2.17日 (坊)丈和-水谷琢順(先) 丈和白番4目勝
3.9-10日 (坊)丈和-水谷琢順(先) 水谷先番勝
 3.14日、 「(坊)丈和-服部雄節7段(先)」、不詳。
 4月下旬、安井仙知の丈和との争碁が許可される。但し実施について指示なく、丈和の碁所就位も延引となった。
 5.8日、「中野知得-坊)元丈(先)」、知得白番勝。

【丈和と幻庵の角逐】
 力戦碁の神様といわれた12世本因坊丈和、対抗する11世井上因碩(幻庵)の角逐が市井の話題となった。感情のぶつかり合い、着手に意地がにじんでいる。悪碁敵と評せられた泥沼の格闘は、元丈―知得の清廉な戦いとは対照的だつた。長い対決の後、11歳年長の丈和が因碩の追撃を抑え名人碁所となった。家元の合議ではない。権門に策した抜き打ちであったが、丈和の技量が一頭地抜いていたことは確かである。

 丈和は若い頃、嘱望された棋士ではなかった。後年、大器晩成型と評せられたが、兄弟子、俊秀奥貫智策の後塵を拝し、並々ならぬ努力をした。本因坊跡目となったのは33歳。その頃の好敵手の桜井知達(安井門)、服部立徹(因碩幻庵の前名)は10歳前後若い人達であった。丈和ほど個性の強い人は他にいない。長い対決の間で、丈和が立徹に先番を敗れたのは一度だけ。その後の白番の碁、”丈和は先に先番を一局敗せり。今この碁を負くるにおいては、立ち難き事情あり。故に懸命の碁なり”と関山仙太夫が評している。優勢を維持していた立徹が敗着となった手を、”今川義元の油断に髣髴たり”と自評している。一度の敗れを自己の人生岐路と考える厳しさ。家元の対立が激しかった時代に頂点に立った巨星である。

 相撲と碁が、何時頃から国技といわれるようになったかは、定かでないが、丈和の著書に国技観光があり、相撲の殿堂ができて、国技舘と名づけられたのは、明治42年(1909年)である。昔と思っても、意外と我々の時代に近い。

【後の本因坊14世・秀和の入門譚】
 1828(文政11)年、夏頃、土屋俊平(後の本因坊14世・秀和、秀策より18歳年長)、9歳の時、本因坊12世丈和の門に入門している。この時の逸話は次の通り。父・和三郎父子が三島大社の祭礼見物に出かけ、「沼津万屋(よろずや)某という碁の強い12歳の少年がいる」という話を聞き、沼津へ出向いて対局させたところ、4子置きながら惨敗させられた。ショックを受けた和三郎は、その足で江戸へ向かい、当時囲碁界の頂点に立っていた本因坊12世丈和の門を叩いた。丈和が引き受け、和三郎は俊平を"名伯楽"に預けた喜びで下田に帰った。ところが、家族が猛反対した。やむなく和三郎は江戸の本因坊家に逆戻りして事情を説明、俊平を連れ帰った。帰りの道中、沼津に立ち寄り沼津万屋(よろずや)某少年と打たせた。四子置碁で完敗した俊平が互先で打ち分けた。和三郎は、僅かな期間にこれだけ技量を伸ばした俊平の資質を確信し、「丈和先生の下で磨きをかければ必ず大成する見込みがある」と家族を説得し、家族も同意して再び江戸に上り、改めて本因坊丈和のもとに入門させた云々(「矢畑半助有信手記」)。その後13歳で剃髪し秀和を名乗り、15歳で3段、19歳で6段に進む。
 2020.6.15日付け「本因坊秀和の父 土屋和三郎」。
 江戸時代に確立した囲碁家元の筆頭、本因坊家の十四世・本因坊秀和は、静岡県伊豆市小下田の土屋家出身だそうです。江戸で秀和は別家を興し、長男の秀悦、次男の秀栄、三男の秀元が本因坊家を継承するなど、土屋家は幕末から明治期の囲碁界をけん引。現在、巣鴨の本妙寺にある本因坊家の墓所は、秀和の子孫により管理されています。一方で、小下田の実家・土屋家の菩提寺である最福寺(静岡県伊豆市小下田1667)には、秀和の父を始め先祖の墓が残されています。数年前に秀和の故郷を訪れたことがあり今回紹介させていただきます。

 小下田の土屋家は、武田信玄に仕え、武田勝頼が自害した際、その時間を稼ぐために織田勢と戦い討ち死にした土屋昌恒の末裔で、武田家滅亡後、小下田に落ち延びてきたと伝えられています。小下田の土屋家にはいくつかの分家があり、秀和の実家も分家の一つだそうです。秀和は文政3年(1820)当主の土屋和三郎の子として生まれ、幼名は「土屋俊平」と言いました。父・和三郎は三島の出身で土屋家の養子となったと伝えられています。俊平は幼い頃から父や最福寺の住職に囲碁を教わりますが、9歳の時に父に連れられ三島のお祭りに出かけた際、沼津に住む12歳の少年と囲碁の対局をしたところ、四子で敗北。腹を立てた和三郎は、そのまま俊平を江戸に連れて行き、当時囲碁界の第一人者であり、同郷の伊豆出身であった本因坊秀和に預けて帰ってしまったそうです。しかし、自宅に帰った和三郎は家族に激しく非難され、仕方なく江戸へ戻り俊平を引き取ります。ところが、その帰途、沼津の少年と再び対局した俊平は、今度は互先で打ち分けたそうで、俊平の短期間での成長に気を良くした父親は家族を説得し、正式に丈和の門下生にしてもらったと言われています。つまり、父親のあり得ない行動により、秀和は本因坊家継承への道を切り開いていくことになったのです。

 ところで、父の「土屋和三郎」という名は、歴代当主が名乗っていた名前であり、土屋家の墓所には複数の和三郎の墓があります。そこで、秀和の経歴と照らし合わせたところ、文政13年(1830)に亡くなった和三郎が秀和の父親であることが判明しました。という事は、俊平(秀和)が江戸に出て間もなく和三郎は亡くなり、その後の活躍を見ることは無かったという事が分かりました。

 土屋家の菩提寺・最福寺の境内に建立されている「秀和誕生の地」の碑は、平成2年(1990)に生誕170周年を記念して建立されたもので、文字は坂田栄男(二十三世本因坊栄寿)の揮毫。除幕式には坂田氏本人も出席されています。また境内にある資料館「夢の実現堂」には秀和に関する資料があり、取材当時にご住職から色々とお話をうかがうことが出来ました。そして、ご住職の案内で寺の隣りにある秀和の実家にも案内していただきました。秀和の実家である土屋家は現在、地元にはおられませんが、建物は、江戸時代のでは無いものの、かなり立派な建物で、昭和63年に「第43期本因坊戦」の第五局が、最福寺の近くの土肥温泉で行われた際には、武宮正樹本因坊と大竹英雄九段が、ここを訪れています。なお、秀和の子孫の土屋家と、実家の土屋家は、現在、特に交流はないそうですが、平成18年(2006)に秀和が囲碁殿堂入りした際には、関係者の働きかけで両家が揃って授賞式にのぞんだそうです。

 7.23日、「(坊)丈和-服部雄節(先)」、丈和白番3目勝。
 7.29日、「(坊)丈和-??镱m母(2子)」、打ち掛け。
8.4日 (坊)丈和-服部雄節(先) 丈和白番勝
8.9日 (坊)丈和-服部雄節(先) 丈和白番勝
「本局が両者の最終局」。
 9.18日、「宮重元丈-中野知得(先)」、元丈白番10目勝。
 9月、「(坊)丈和-因碩(幻庵)(先)」、55手打ち掛け。

 文政5年以降に両者が打った唯一の碁で、55手で打ち掛けに終わっている。内容は幻庵の圧勝で、因碩著「囲碁妙伝」の棋譜が載せられ、「文政11子年9月、於本因坊宅、12世本因坊丈和、先番11世井上因碩」と明記されている。「諸君子明察せよ」とも記している。

 1828(文政11)年11.17日、御城碁。 丈和6段、柏栄7段。
455局 (坊12世)丈和-(林跡目)(柏栄Hakuei (2子)
 柏栄2子局6目勝/
丈和6段、柏栄7段
(丈和9局)
(柏栄7局)
456局 服部因淑(因徹)-(安井跡目)俊哲(2子)
 俊哲2子局中押勝
(因淑8局)
(俊哲5局)

 11.29日、「(坊)丈和-水谷琢順(先)」、打ち掛け。
 時日不詳、「(坊)丈和-田原常三郎(3子)」、田原先番1目勝。
 林柏悦が柏栄と改名。
 この年、冬、井上因碩が「弊笠」2巻(名古星・永楽屋ほか)出版。

 1829(文政12)年

 1.19日、「(坊)丈和-水谷琢順(先)」、水谷白番勝。
 「中野知得-宮重元丈(先)」、元丈の先番4目勝。
 2月-3月、「(坊)丈和-安井算知(俊哲)(先)」戦が組まれている。
2.1日 (坊)丈和-算知(俊哲)(先) 丈和白番8目勝
2.6日 (坊)丈和-算知(俊哲)(先) 算知先番1目勝
3.6日 (坊)丈和-算知(俊哲)(先) 丈和白番2目勝
3.14日 (坊)丈和-算知(俊哲)(先) 丈和白番勝
 2.16日、丈和の名人碁所願いに関して、仙知宅で丈和、仙知、因碩、元美の四家当主と、特に参加を許された服部因淑の5名が鳩首会議する。仙知が丈和との争碁の願書を出すことになり、寺社奉行の堀大和守に宛てて提出、許可されている。
 5.9日、丈和が「6年後に因碩(幻庵)に碁所を譲る」と欺き、因碩(幻庵)が丈和の碁所就位に異存のない旨の口上書を提出する。文面は次の通り。
 「本因坊願い奉り候勝負碁の儀につき、お尋ねの趣き篤と勘弁仕り、旧記ども相調べ見候ところ、この一冊見当り申し候へば、則ち本因坊と争論仕るべき家筋これなく、その上、私儀は幼年より当本因坊と数(十)番稽古碁も仕り、取り立てに預かり候由緒も御座候。且つ所作も相勝れ、仲間うち勝負合いも宜しく御座候故、私に於ても本因坊願いの手合い相進め候よう仕りたく存じ奉り候。この段申し上げ候。以上 丑五月九日 井上因碩」。
 10.2日、先代井上因碩(9世、世系書換え後は10世)(因砂)が生没する(享年45歳)。著書に「竹敲間寄」2巻がある。

 1829(文政12)年11.17日、御城碁。
457局 (坊12世)丈和8段-(安井跡目)俊哲(2子)
 丈和2子局白番1目勝
(丈和〆10局)
(俊哲6局)
 
 俊哲は知得仙知の実子。後年の安井算知9世である。この時、20歳4段。俊哲の若年時は飲む打つ買うの三拍子揃った道楽者だった。仙知は何も言わず、見苦しい負け方をした時だけ叱った。この碁の評は「弱虫め」だった。

 時日不詳、「(坊)丈和-水谷琢順(先)」、丈和白番勝。
 この年、7月、三神松太郎が「古棋」1巻自費出版する。

 桑原虎次郎(後の本因坊秀策)誕生
 この年5.5日、桑原虎次郎(後の本因坊秀策)が備後国御調(みつぎ)郡三浦村(因島)大字外之浦(とのうら)(広島県尾道市因島外浦町父和三)の桑原和三(輪三)(父の実家は安田)の二男として生まれる。次のような秀策伝説がある。秀策が母カメの胎内にいるとき母が大病を患い、母はあるいは死亡するかも知れないと思い、それなら好きなことを楽しみ悔いのないように生きたいと望み、もっぱら囲碁を楽しんだと云う。期満ちて分娩した秀策が碁を好むのも、この時の胎教に由るものといわれる。

 秀策は3、4歳の時、泣き止まないときに菓子などをやっても泣き止まず、碁石をやればすぐ泣きやめ黒白を並べて遊んだといわれる。ある時、父和三が怒って彼を押入の内に幽閉したところ、泣き声がやみ、すすり泣き声もしなくなったので母が心配し、そっと見ると押入の内にある碁石を出し盤上に並べて遊んでいた。

 秀策5歳の暮れ、母が秀策の囲碁の縁を察し囲碁を教えた。天保5年の9月末、父に連れられて尾道のうしとら神社の祭りに相撲を見に行ったが、旦那衆が碁を打っているのを見て、盤側に行儀良く座ったきりで動かなかった。その時、打つていた尾道の豪商橋本吉兵衛(橋本竹下)が試しに9子で打ったところ、とても初めてとは思えず、以後少年の碁に関し助言や援助を与えるようになった。

 7歳の時、吉兵衛を介し三原城主・浅野甲斐守忠敬と対局し棋力を認められる。安田榮斎と名を改め、賀茂郡竹原の宝泉寺住職・葆真和尚、儒者坂井虎山に師事し上達する。

 1830(文政13、天保元)年

 天保・弘化・嘉永時代には、本因坊・秀和、本因坊跡目・秀策があり、その他天保四傑と呼ばれる伊藤松和(しょうわ)、安井算知(さんち)、太田雄蔵(ゆうぞう)、坂口仙得(せんとく)らがとり巻き、まさに黄金時代を迎える。
 4.7日、「宮重丈策-水谷琢廉(先)」、丈策白番2目勝。

 1830(文政13、天保元)年11.17日、御城碁。
458局 安井8世知得7段-服部因淑(因徹)6段(先)
 ジゴ
(知得25局)
(因淑9局)
459局 (因碩11世)安節幻庵-(安井跡目)俊哲(2子)
 
俊哲2子局中押勝
(俊哲7局)
(幻庵9局)

 この年、10世井上因碩(幻庵)が井上家の元祖・中村道碩を正式に井上家1世と書き換えることを思い立ち、第1世井上因碩(古田碩、玄覚)を2世とし、以下一代ずつ繰り下げて、みずから11世と改称する(「井上家の世系」参照)。免状署名には11世の替わりに、5世因碩(春碩、書き換え後は6世)の先例に倣らい、大国手の称号を用いる。

 12.10日、天保に改元。 

 1831(天保2)年

正月 (坊)丈和-若杉善策(2子) 若杉先番中押勝
1月 (坊)丈和-若杉善策(2子) 丈和白番2目勝
1.6日 (坊)丈和-水谷琢順(先) 丈和白番10目勝
2.18日 (坊)丈和-水谷琢順(先) 丈和白番10目勝

 水谷琢順
 水谷琢順は元丈の門下。遺譜は1802(享和2)年から1831(天保2)年までの95局ある。元丈とは12局。
 2.23日、「(坊)丈和―関山仙太夫(2子)」、関山の2子局1目勝ち(於/上野真如院)。丈和45歳、仙太夫44歳、丈和は名人碁所を目前にしていた。

 関山仙太夫は信州真田藩で知行百石。烈元の門に入り16歳で初段を許されている。同僚に武芸未熟をののしられ、文武百般に通じてからまた碁に戻った。文政9年、祐筆として江戸詰めとなり、5年の在府期間中、棋力が大いに上がった。丈和と3子1勝、2子3勝1打ち掛け。本局は帰藩する直前の碁である。準名人に2子は5段の手合いだが仙太夫は免状初段だった。一気に5段を望み、3段をと云われて機嫌を損ね終生そのままとなった。

【12世本因坊丈和が名人碁所に就く】
 3.16日、12世本因坊丈和が、水野出羽守忠成、大久保加賀守忠真など老中列座の席(将軍家斉は出座しなかつたと思われる)で碁所任命の証書を渡され、名人碁所に就任した。この時、丈和45歳。囲碁史上、「前聖/本因坊道策、後聖/本因坊丈和」の評を得ることになる。丈和の名人碁所就任は仙知と因碩を呆然とさせた。この急な任命の理由は不明だが、林元美が丈和から8段昇段の約束を得て、出身である水戸藩の徳川斉昭を通じて寺社奉行に働きかけたとの見方がある。

 道策、秀策など名手の多かった本因坊家の中でも上位に位置する強豪中の強豪の本因坊家第十二代の当主・丈和は、名人碁所に就任するに際して、あらゆる権謀術数を使ったとされる。「文化、文政の暗闘」と呼ばれる政治的駆け引きの中で、盤上での戦いを抜きにして当時の囲碁界ナンバーワンの地位たる碁所を得た。「坐隠談叢」が次のように記している。
 「元美は先づ丈和の添願人たりし以来、一意専念丈和の成功を企図し、殊に土屋相模守係りの当時に於て所決の遷延するを憂ひ、幸に相模守は水戸家より養子せられたる者にして、自分また水戸の出身にして、老公の知遇を受け居たるを以て、事の次第を当時の隠居翠翁公に訴へ、決意の速やかならん事を公より相模守に内諭せしめんと図りたり」。
 「公より相模守に内諭ありて、その結果、天保二年、丈和は碁所となりたる次第なり。然るに丈和はその目的を達したるも、元美がこの如く苦肉の計を廻らしたる事及び兼約をも知らざるを為し、元美より数次督促を受くるも毫も顧みず、爲に時日の遷延して元美は八段に昇段する能はず間は、翠翁公に対して僞りを申し出たる姿となり、公もまた病褥に在りて恰もその薨去に際し、屡々元美の事を問ひ、元美に限り右様の男とは思はざりしにとその欺かれたるを怒り、『水戸屋敷にては武士気質に違約の節は、自分に致方有之べきに老人に相成ても命は惜き者と見ゆ』と語られたるを聞きて、元美は或は嘆き、或は泣き、只管、丈和の無情冷酷を怨み、何時か之に報復する所あらんと、肝膽を碎きてその機を窺ひたり」。
 「それ文政に於ける盛況は、如上、各家元の暗闘となりて、活発々地に波乱を起し、人をして睥睨(へいげい)する能はざらしむ。しかして、その原因の遠く察元の死去と同時に、碁所の中絶となり、各家斉(ひと)しくこの中原の鹿を射んと欲するに起り、丈和の奸詐と因碩の術数とによりて幾多の波乱を湧出せしめ、仙知の朴訥(ぼくとつ)これに衝動せられ、元美また多少の野心を包蔵して本因坊の塁を固うせしめしと、当時に於ける各家元が多く権門勢家と関係を有し、これらの後援によりて種々なる運動を為し、以上如上の変態を助成せしめたるものにして、各家元が自家の門戸勢力を拡張せんと欲して競争したる実状は、将来の碁界に対し、大いに参考視するを得べしと雖も、徒(いたず)らに技芸の外に逸出し、権謀術数によりて勝ちを天下に制せんと欲したる心事に至りては、その芸の玄妙優美なる精神を悪用したるものにして、その陋劣、憫察するに余りあり。しこうして、丈和は老獪その魁(さきがけ)を為したる者なり。宣(むべ)なるかな。仙知、因碩の絶対的に否認し、その旨の出願を為したるありて、丈和は阿部能登守(正瞭)より三度の吟味を受け、その後、稲葉丹後守(正守)の係りにて、数次尋問せられたる結果、その内容により幾何(いくばく)ならずして退隠せしめらるるに至る。嗚呼(あぁ)、天の与えたるものは自然にして、何人もこれを横奪する能はざるも、我の誤ってこれを獲得したる者、遂に久しうすべからず、丈和の碁所の如きも豈(あ)に後の殷鑑ならずとせんや」。
(私論.私見)
 丈和の名人碁所就任に際しての手練手管が独り歩きして「丈和の権謀術数家ぶり」評が定着している。しかし、丈和の対局履歴、その姿勢、棋譜よりするならば囲碁に対する真摯誠実さ、棋界に対する大局的見地対応ぶりが見て取れる。この評とのすり合わせが求められているように思う。
 丈和の子女は次の通り。全部で四男一女。長男は戸谷梅太郎。初代葛野忠左衛門、水谷琢順の養子となり水谷道和を名乗った後に井上家を継ぎ井上秀徹、12世井上因碩(節山)と名乗る等、いろいろ改名している。二男が二代目葛野忠左衛門、後の本因坊秀和。この下に長女花(きな)。本因坊秀策に嫁いだ。三男は中川姓を名乗り明治期方円社2代目社長になった中川亀三郎。四男が藤四郎。

 6.23(7.31)日、「(坊)丈和-関山仙太夫 (2子)」、関山先番1目勝。
 信州松代藩藩士(信州真田藩で知行百石)の関山仙太夫が、江戸詰めを終え松代に帰る時の記念碁としての本因坊丈和との二子対局が上野36坊の筆頭/真如院の書院で打たれた。丈和45歳、仙太夫44歳。関山が五段の免状を請うたところ、素人に五段免状の例がないとして断られ三段なら許すと言われ、関山は三段なら要らないと断る。その為、生涯初段のままだった。よほど丹念な人物で、多くの筆写本を頒布している。
 9.14日、「(坊)丈和-加藤小三郎(4子)」、加藤先番1目勝。

 1831(天保2)年11.17日、御城碁。
460局 (安井8世)知得7段-(林跡目)柏栄7段(2子)
 柏栄2子局10目勝
(知得26局)
(柏栄8局)
461局 服部因淑(因徹)-(安井跡目)俊哲(先)
 ジゴ
(因淑〆10局)
(俊哲8局)

 この年、林元実が「掌中碁箋」(しょうちゅうごせん)1帖を刊行する。
 この年、大塚亀太郎、梶川昇(守礼)、青田半十郎が生まる。
 解良栄重の「良寛禅師奇話」で良寛(1758-1831)が次のように記している。
 「師 銭を掛け物ものにして碁を囲むこともあり。又多くは師に勝ちを譲る」。
 「師 色紙短冊詩歌随意に書く」。
 「師 銭が多くなりて やり処なしと云う」。

【本因坊/車坂下囲碁道場の繁盛】
 本因坊丈和は囲碁の大衆化にも努めている。どの頃からか詳細は分からないが、新たに上野東叡山の麓の車坂下に本因坊囲碁道場を設け、毎月4日、10日、16日、20日、26日の五日間を「会日」と名づけて、道場を江戸の町民に一般開放、本因坊家所属棋士も出席して囲碁の指導をした。正午には来賓や会員に膳部を饗し、少年棋士に席上もてなしさせた。これが評判となり、朝から名士来賓が押し寄せ、会場は大混雑した。その盛んなること、古来未だなかったと云う。この車坂の道場から後に棋聖と呼ばれる秀策やその高弟の秀甫が育って行くことになる。

 1832(天保3)年
 この年、天保の飢饉始まる。

 2月、服部因淑の倅の服部雄節5段(31歳)が御城碁出仕を命ぜられ、以後同9年まで6局を勤める。

 1832(天保3)年11.17日、御城碁。
 服部雄節5段が御城碁に初出仕する。
462局 (因碩11世)安節幻庵-(林跡目)柏栄(2子)
 柏栄2子局中押勝
(幻庵10局)
(柏栄9局)
463局 (安井跡目)俊哲-服部雄節(先)
 
雄節先番11目勝
(俊哲9局)
(雄節1局)

 3.15日、「(坊)丈和-?尾金三郎(3子)」、丈和白番9目勝。
 4.23日、「
(坊)丈和-山名????(3子)」、ジゴ。
 5.18日、雄節が御目見得。
 8.29日、「(坊)丈和-佐??半?(3子)」、佐??半?先番3目勝。
 12.17日、「因碩(幻庵)-赤星因徹(先)」、幻庵白番勝。
 この年、9月、河北耕之助編「置碁必勝・後編」(外山算節の遺著)が刊行される。
 この年10.28日、丈和が碁所の大望を成し遂げた翌年、本因坊家隠居元丈が生没する(享年58歳)。隠居後は丈和の名人就位運動にも特に関わらず酒を楽しみに余生を送った。法名は日真。墓所は本妙寺で、現在は本因坊秀甫と同じ墓に葬られている。実子に、丈和の跡を継いだ十三世本因坊丈策、宮重策全6段がいる。長兄作重郎は大御番小笠原近江守の組与力を勤めた。

 1833(天保4)年

 「(坊)丈和-安井算知(俊哲)」戦が組まれている。
3.21日 (坊)丈和-安井算知(俊哲)(2子) 打ち掛け
10.7日 (坊)丈和-安井算知(俊哲)(先) 俊哲先番1目勝

 1833(天保4)年11.17日(12.22日)、御城碁。
464局 (安井8世)知得7段-服部雄節5段(2子)
 雄節2子局8目勝
(知得27局)
(雄節2局)
465局 (安井跡目)俊哲6段 -(林跡目)柏栄7段(先)
 俊哲白番中押勝
(俊哲10局)
(柏栄10局)

(坊)丈和-安井算知(俊哲)(先) 俊哲先番1目勝
(坊)丈和-仙角(春哲)(先) 春哲先番1目勝
仙角4世(古仙角)-秀伯(先) 秀伯先番5目勝
 太田雄蔵が名古屋、京都、大阪、九州へ対局の旅に出る。少年時代からこの時までの棋譜は、天保10(1839)年から12年に「西征手談(上下巻)」として刊行した。
 この年、正月、赤星因徹が「棋譜・玄覧」を刊行する。

 1834(天保5)年

 2.20日、「太田雄蔵-四宮米蔵(先)」、不詳。
 6月から8月、「(坊)丈和-赤星因徹(先)」戦が組まれている。
6.27日 「(坊)丈和-赤星因徹(先)」 打ち掛け
7.1日 「(坊)丈和-赤星因徹(先)」 打ち掛け
7.16日 「(坊)丈和-赤星因徹(先)」 打ち掛け(打ち掛け3番目)
8.2日 (坊)丈和-赤星因徹(先) 不詳
8.5日 (坊)丈和-赤星因徹(先) 不詳
 8.22日、「因碩(幻庵)-赤星因徹(先)」、因徹先番1目勝。
 10.18日、元丈実子の宮重丈策(32歳、6段)が本因坊丈和の跡目になり、公儀の許可を得ている。

 1834(天保5)年11.17日(12.22日)、お城碁。
 宮重丈策が御城碁に初出仕する。丈策の御城碁戦績は(坊*世)丈策の御城碁譜」に記す。
466局 (林11世)元美6段-(安井跡目)俊哲6段(先)
 俊哲先番中押勝
(元美8局)
(俊哲11局)
467局 服部雄節5段-(坊跡目)丈策7段(先)
 雄節白番2目勝
(雄節3局)
(丈策1局)

 12.9日、因徹の家で師弟対決「因碩(幻庵)-赤星因徹(先)」。
 この年、囲碁四哲に数えられる井上家の11世・因碩(幻庵)(1798-1859)が、吉備真備の菩提寺である吉備寺(086-698-0154 倉敷市真備町*谷)に碁盤を寄贈している。裏側にはクシンダレ惜しむ両雄争いの漢詩が記されている。碁盤をしまう箱には後に同寺を訪れた16世井上因碩がイササカモッテカワスレウレイの言葉を添えている。同寺に今も保管されている。
 この年、丈和が「収秤精思」を著わしている。同書に元丈-知得の対戦譜30局が掲載され、「双方一の不可なる手なく、全く名人の所作というべきもの7局に及ぶ」の評がある。

 1835(天保6)年

 4.26日、「(坊)丈和-安井算知(俊哲)(先)」、不詳。
 7月、「秀和-日置源二郎」戦が組まれている。
7月 秀和-日置源二郎(先) 日置先番勝
7.14日 秀和-日置源二郎 (先) 日置先番3目勝
7.16日 秀和-日置源二郎(先) 日置先番勝
7.16日 日置源二郎-秀和(先) 日置先番勝
7.24日 秀和-日置源二郎(先) ジゴ
7.24日 日置源二郎-秀和(先) 秀和先番勝
7.26日 秀和-日置源二郎(先) 日置先番勝
 日置が秀和を圧倒している。
 7月、「因碩(幻庵)-赤星因徹(先)」、赤星の先番中押勝。因徹が先で4連勝した為、因碩が代理に差し向けることにした。

【松平家の碁会、「因徹吐血の局」(別名「丈和の三妙手局」)】
 さる1831(天保2)年に名人碁所に就位した丈和は「6年後に地位を譲るという密約」の約束を守る気配を見せなかった。欺かれたことを知った因碩が反発し碁所就位の運動を起し丈和との争碁を出願した。先に争碁願を出した安井仙知が長老の故に取りさばくこととなり、二、三年の猶予期間を設けることで一時調停が成立する。
 1835(天保6)年、7.19、21、24、27日、浜田藩の国家老で、安井仙角に師事し囲碁番付上位に名を連ねる打ち手(5段)だった安井家門人の岡田頼母(1763~1836)が「江戸上向の口実として碁会開催を企画」し、石見浜田藩三代藩主にして1834(天保5年)に老中首座となった松平周防守康任(やすとう)の江戸屋敷邸で退隠を記念する碁会が開かれた。名人碁所である丈和は将軍家の囲碁指南役。対局を行わないのが通例なのだが、各方面に手を回して「老中主催のイベントだから」と対局の場に引っ張り出すことに成功したのが、この碁会だった。これを「松平家の碁会」と云う。成り行き上、岡田頼母が世話役として関わった。この碁会でも仙角と二子局を打っている。

 席上、お好みとして「名人本因坊丈和-赤星因徹(7段、幻庵因碩の筆頭弟子)」の手合が組まれた。時に丈和54歳、因徹26歳。実力では劣っていないという自負があるのに、政治力でナンバーワンの座を取られてしまったという思いがある幻庵因碩が何とか丈和に一泡吹かせようとして、愛弟子秘蔵っ子一番弟子の赤星因徹を刺客として丈和に挑ませたメインイベント対局となった。 この時、因碩幻庵は、弟子の因徹が勝って丈和を負かせば「七段の因徹に負けるようでは、名人碁所の資格なし」として公儀に訴え出る算段であった。因徹は因碩の秘蔵弟子で、18歳3段の時、因誠から因徹と改めた。井上家と近縁にある服部家の当主因淑が若い頃、因徹と呼ばれた由緒ある名である。天保5年、25歳で7段に進み、実質的な跡目で実力8段と云われた。

 他に「井上因碩幻庵8段-安井俊哲6段」、「安井仙知8段-林柏栄6段」、「林元美7段-服部雄節6段」、「坂口虎次郎6段-宮重丈策6段」の対局となり、囲碁四家の当主、跡目クラスが総出演した大変豪華な碁会となった。丈和・因徹局が最上座で、すぐ隣に幻庵-俊哲局を配した。こうして当時を代表する十人の碁打ちが40畳の広間に盤を挟んで対座すると云う壮観な様となった。


 7.19-7.27日、松平家碁会6局の対戦結果は次の通り。
「(坊)丈和-赤星因徹(先)」 丈和白番中押勝
「因碩(幻庵)-安井俊哲(先)」 幻庵白番3目勝
「安井仙知-林柏栄(先)」 仙知白番2目勝
「林元美-服部雄節(先)」 元美白番中押勝
「坊)丈策-坂口虎次郎(先)」 丈策白番3目勝
「安井仙角7世-岡田頼母(先)」 打ち掛け

 6局のうち仙角-頼母戦を除いて.19、21、24、27の4回にわたって打ち継がれた。これは丈和-因徹戦と歩調を合わせたものである。松平周防守は碁に執心していたが出席したかはわからない。さほど指摘されていないが、「7世安井仙角-岡田頼母(先)」の打ち掛け以外、全局白番勝ちとなっている。「コミのない時代の全局白番勝ち」は一考に値するのではなかろうか。
 メイン対局の「(坊)丈和-赤星因徹(先)」(「丈和-赤星因徹(先)」)は三度打ち掛け四日に及んだ。19日は50手で打ち掛け、21日に続行して99手打ち、24日に72手、27日に打ち切った。序盤、因徹は井上家一同で研究した「井門の秘手」と云われた大斜定石の新手をを繰り出して互角以上に戦うが、老練な丈和の前に少しずつ形勢を損ねていく。その後「丈和の三妙手」と云われる玄妙な「第一の内からの持ち込み妙手(白68)」、「第二の利き味妙手(白70)」、「第三のブツカリ妙手(白78)」の三妙手で形勢を挽回し、結果は、壮絶な戦いの末、白246手目のコウ取り(10十二)を見て因徹が投了し丈和の中押勝ちとなった。本局は別名「丈和の三妙手」として知られ(光の碁採録名局「(坊)丈和-赤星因徹(先)」、白中押勝)、丈和の後半生における唯一の勝負碁で江戸囲碁史のハイライトとされる。
 (より詳しくは、「(坊)丈和-赤星因徹(先)」参照)  

 余談ながら、一門の盛衰を賭けたこの局中、幻庵は某寺に依頼し、不動明王に護摩を焚かせ修法して貰っていたと云う。これに対して、丈和の妻は浅草観音にお百度を踏み日参りして夫の勝ちを祈願したと云う。さらに後日談がある。林元美が帰国する途中に立ち寄った寺で松平家碁会の話をすると、僧は既に知っており、「丈和の技倆は神仏の力でも動かし難い」と長嘆息し、不動明王に護摩を修した反動で因徹が死に至った事情を打ち明けた。後、丈和がこれを聞き、因徹が投了した時に気を失いかけたのはその為か、と改めて戦慄した云々と伝えられている。


 この時既に重度の肺結核を患っていた因徹は対局中に吐血したと伝えられており「
因徹吐血の局」として知られている。敗けた因徹は2ケ月後、吐血して亡くなるという悲劇的な結末となった(享年26歳)。坐隠談叢は次のように記している。
 「囲碁百家の伝を草する中に於いて赤星因徹の伝ほど同情に堪えざるものはなし。因徹この碁に於いて脳充血症を起し吐血昏倒遂に起たず。*月(きげつ、まるひと月)を出ずして遠逝す。享年26歳也」。

【「松平家の碁会」の背後に蠢く政治考】
 松平康任は分家旗本・松平康道の長男だったが、浜田藩主松平康定に子がないため康定の婿養子となり家督を相続した。1807年に藩主に就任し石見浜田藩第3代藩主、松井松平家8代となった。康任は、寺社奉行、大坂城代、京都所司代と順調に昇進し、1826年に老中に昇進した。幕府の実力者水野忠成の歩調に合わせ、彼に追随する形で順当に昇役した。1834.2月、老中首座水野忠成の死去により大久保忠真とともに老中首座を務めていた。

 この松平康任に「仙石騒動」が絡む。「仙石騒動」とは出石藩仙石家の御家騒動で、その背景には藩内の主導権争い、財政再建を廻る対立があった。1824年、第6代出石藩主仙石政美(別名主税)が参勤交代で出府する途中で発病し、江戸についてまもなく28歳の若さで病没した。仙石政美には嗣子がなく隠居していた政美の父・久道が江戸で後嗣を選定するため、分家の旗本を含めての会議を開いた。仙石左京は筆頭家老であるため国許の代表者として江戸へ出るが、実子小太郎を同伴させた。これを左京が小太郎を後継に推すのではと不信感を抱いた財政責任者の勝手頭取家老の仙石造酒は実弟の酒匂清兵衛を同道させ監視した。会議は造酒派の主導で進み、久道の十二男で政美の弟である道之助を元服させ久利として藩主に据えることで決定した。仙石左京は小太郎を後継に主張することもなくその決定に賛成し、藩政の実権は造酒派が掌握した。ところが、造酒派内での側近重用争いから事件が起こり、造酒が隠居を命ぜられた。これにより仙石左京が復権し、幼君の下、筆頭家老として人事権を握ることとなり、藩重役のほとんどが左京派に挿げ替えられた。

 その後、松平康任は、但馬出石藩仙石家の筆頭家老の仙石左京(藩主仙石家の支流)から6000両の賄賂を受け取ったとされる。1831年、藩政の最高権力者になった仙石左京は、息子・小太郎の嫁に幕府筆頭老中松平康任の姪(実弟の分家旗本寄合席・松平主税の娘)を迎える。これにより松平康任と仙石左京は縁戚関係に入る。

 この動きに並行して、「竹嶋事件」(今津屋八右衛門が竹嶋(現・鬱陵島)で行った密貿易事件)が勃発していた。同事件は、藩財政への寄与を目的とし、頼母の他に国年寄松井図書らが関与したとされ、藩主の康任も黙認していた浜田藩ぐるみの竹島密貿易だった。

 これに対し仙石主計など造酒派の重臣が、左京が息子・小太郎を藩主に据えようとしていると先々代藩主久道に直訴する。これが却って久道の怒りを買い蟄居を命じられ、首謀者であった河野瀬兵衛は藩を追放される。瀬兵衛は江戸に上り一門の旗本仙石弥三郎に訴えると、上書が左京の政策により江戸屋敷で耐乏生活を送っていた久道夫人に送られ、左京が藩士から取上げた俸禄を不正に蓄財しているとする書の内容が隠居している久道に送られた。

 丁度この動きのある頃に「松平家の碁会」が主催されたことになる。松平康任はこれを境に運命を暗転させる。これを確認しておく。「松平家の碁会」が1835.7.19、21、24、27日の日程で開催されたところ、その最中に「仙石騒動」が動き始めた。「松平家の碁会」後、久道から書状を見せられた左京は弁明をすると共に、藩内に潜伏していた瀬兵衛を天領・生野銀山にて捕縛する。幕府の勘定奉行の許諾なしでの天領での捕縛は違法であり、左京は老中・松平康任にもみ消し工作をしてもらう。そして瀬兵衛に加担した弥三郎の家臣・神谷転の捕縛を老中松平康任の伝により南町奉行に実行させる。一方、久道夫人は実家である姫路藩邸に赴き、藩主酒井忠学の妻で将軍家斉の娘喜代姫に藩の騒動を話す。

 寺社奉行の脇坂安董は、康任に対抗し政権を掌握しようと考えていた老中・水野忠邦と計り、仙石藩の騒動と康任の関係を示す訴状や、意見書を将軍家斉に上奏する。脇坂安董が責任者となり、取り調べの結果、仙石左京は獄門・鈴ヶ森にて斬首り、左京の子・小太郎は八丈島へ配流となり左京派は壊滅的打撃を受けた。

 老中・松平康任は仙石左京に肩入れした不正の計らいを追求され、10.23日に奏者番、10.29日に老中退任に追い込まれた。康任が老中を辞任して幕閣を去った後、捜査を主導した水野忠邦による天保の改革が始まった。最終的に12.9日、康任は隠居、康爵の藩主就任の裁定があり、康任は名乗りを下野守と改めさせられたうえ、永年蟄居を命じられた。1836.3月、康任の後、家督を継いだ次男の康爵が奥州棚倉への懲罰的転封が伝えられた。続いて「竹嶋事件」の取り調べが進められ、(竹島を通じての密貿易が幕府隠密/間宮林蔵によって摘発される)浜田に出向いていた頼母らが江戸上向を命じられた。3.28日夜、頼母、29日、松井図書が相次いで自害した。康任は、1841(天保12)年7.22日、死去(享年63歳)。
 (「
松平家の碁会の背景~岡田頼母の生涯(2)」、「仙石騒動と松平周防守康任」その他参照)

 前年に続いて、7月―8月、「秀和-日置源二郎」戦が組まれている。
7.29日 日置源二郎-秀和(先) 秀和先番5目勝
8.4日 秀和-日置源二郎(先) 秀和白番4目勝
8.6日 秀和-日置源二郎(先) 秀和白番2目勝
8.10日 日置源二郎-秀和(先) 秀和先番勝
8.10日 秀和-日置源二郎(先) 日置先番8目勝
8.10日 秀和-日置源二郎(先) 日置先番3目勝
8.20日 秀和-日置源二郎(先) 日置先番2目勝

 前年の日置優勢対局に比して、秀和―日置が五分になっていることが分かる。
 8.13日、「安井知得-林門入(柏栄)(先)」、知得白番2目勝。
 「安井算知-(坊)秀和」、。棋譜上最初の三三打ち。「星対三三」として知られる。
 11.1日~12.4日、天保7年5.24日、6.4日、「因碩(幻庵)-安井9世算知(俊哲)(先)」、幻庵白番7目勝。
 安井俊哲は後の安井9世算知で、安井8世仙知(知得)の実子。無類の力碁で知られ、後年、本因坊秀和に対し御城碁で先番5戦全勝、白番1勝3敗の好成績を遺している。準名人・秀和を「戦いから逃げてばかりいる」と批判した逸話が残っている。

 1835(天保6)年11.17日、御城碁。
468局 (安井8世)知得7段-(坊跡目)丈策7段(先)
 丈策先番11目勝
/ 「丈策一生の好局」
(知得〆28局)
(丈策2局)
469局 (因碩11世)安節幻庵8段-(安井跡目)俊哲6段(先)
 ジゴ
(俊哲12局)
(幻庵11局)
470局 (林跡目)柏栄7段-服部雄節5段(先)
 雄節先番9目勝
(柏栄11局)
(雄節4局)
 12.20日、「因碩(幻庵)-安井算知(俊哲)(先)」、幻庵白番7目勝。
 「伊藤松和-安井算知()」。中盤の劫争いから405手にまで及ぶ。「古今唯一の長局」として知られる。
 「因碩(幻庵)-安井算知(俊哲)(先)」、幻庵の白番3目勝ち。本局は幻庵の名作とされる。関山仙太夫は、「この時、因碩既に妙に達す。本局は後学の範となすに足る」と評している。幻庵は自著り囲碁妙伝で「勝負のみにて強弱を論ずるは愚の甚だしき也、諸君子運の芸と知りたまえ」の語を遺している。
 この年、本因坊丈和著「収平精思」(しゅうへいせいし)2巻2冊が刊行される。
 この年、6月、林元美著「碁経精妙」(ごきょうせいみょう)4巻4冊が刊行される。
 この年、閏8.28日、「因徹吐血の局」の2ヵ月後、因徹没す(享年26歳)。
 10.5日、四宮米蔵没(1769-1835、享年66歳)。
 鈴木知清没。

 1836(天保7)年

 1.7日、「本因坊丈策-秀和(先)」、丈策白番中押勝。
 5月―6月、「(坊)秀和―真井徳次郎」対局が集中している。
5.10日 坊)秀和-真井徳次郎(先) 真井先番4目勝
5.11日 坊)秀和-真井徳次郎(先) 真井先番勝
5月 坊)秀和-真井徳次郎(先) 真井先番勝
6.10日 坊)秀和-真井徳次郎(2子) 真井2子局勝
6.26日 坊)秀和-真井徳次郎(2子) 真井2子局勝
5.19日 算知(俊哲)-坊)秀和(先)」  俊哲白番勝
6.2日 算知(俊哲)-坊)秀和(先) 秀和先番7目勝
7.9日 坊)丈和-算知(俊哲)(先)

 1836(天保7)年11.17日、御城碁。
471局 服部雄節5段-(安井跡目)俊哲6段(先)
 俊哲先番1目勝
(雄節5局)
(俊哲13局)
472局 服部因淑(因徹)6段-(坊跡目)丈策7段(先)
 丈策先番中押勝
(因淑10局)
(丈策3局)

「因碩(幻庵)-安井俊哲(俊哲)(先)」 ジゴ
11.24日 坊)秀和-因碩(節山)(先) 秀和白番9目勝
12.3日 因碩(節山)-坊) 秀和(先) 秀和先番勝
(坊)丈策-秀和(先) 秀和先番11目勝
「(坊)丈策-秀和(先) 秀和先番勝
(坊)丈策-秀和(先) 丈策白番勝
 算知(俊哲)-坊) 秀和(先)」、秀和先番勝。
 「因碩(節山)-坊) 秀和(先)」、秀和先番4目勝。
 この年、水谷琢廉が生没する(あるいは8年)。
 この年、高橋杵三郎が生まれる。 

 1837(天保8)年
 この年、大塩平八郎の乱起こる。

 「(坊)丈策-秀和 (先)」戦が組まれている。
1.2日 (坊)丈策-秀和 (先) 秀和先番勝
1.7日 (坊)丈策-秀和(先) 丈策白番勝
3.14日 (坊)丈策-秀和(先) 秀和先番4目勝
 「安井算知(俊哲)-秀和(先)」戦が組まれている。
1.5日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番勝
1.15日 算知(俊哲)-秀和(先) 俊哲白番8目勝
5.13日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番10目勝
5.18日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和の勝
5.23日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番7目勝
5.27日 算知(俊哲)-秀和(先) 俊哲白番勝
5.29日 算知(俊哲)-秀和(先) 俊哲白番勝
6.3日 算知(俊哲)-秀和(先) 俊哲白番3目勝
6.23日 算知(俊哲)-秀和(先) 俊哲白番2目勝
10.28日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番3目勝
11.6日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番5目勝
11.8日 算知(俊哲)-秀和(先) ジゴ
11.13日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番4目勝
11.15日 算知(俊哲)-秀和(先) 秀和先番5目勝
 「秀和-勝田栄輔(えいすけ)」戦が組まれている。
1.18日 勝田栄輔-秀和(先) 秀和先番2目勝
4.14日 秀和-勝田栄輔(先) 秀和白番5目勝

 勝田栄輔(えいすけ)は幕臣。本因坊元丈に師事し、門下の5段に進。明治8、9年ごろ高齢で死去したという。本姓は佐野。
 3.28日、「秀和-鶴岡三郎助(2子)」、秀和白番勝。

 1837(天保8)年11.17日、御城碁。
473局 (坊跡目)丈策7段-(林跡目)柏栄7段(先)
 丈策白番中押勝
(丈策4局)
(柏栄12局)

算知9世(俊哲)-秀和(先) ジゴ
算知9世(俊哲)-秀和(先) 秀和先番8目勝
 この年、仙角仙知が生没(享年74歳)。
 この年、桑原虎次郎が、数え9歳のとき、12世本因坊丈和の門に入る。秀策逸話が次のように伝えられている。
 「この年、宝泉寺葆真に鍛えられる日々の秀策、数え9歳のとき、本因坊丈和門下の高弟・伊藤松次郎(1801~1878、名古屋出身)が遊歴して尾道を訪れた。伊藤は後に松和と名前を改め7段の高位に登り御城碁も務めることになる。安井算知(俊哲)、坂口仙得、太田雄蔵らとならび囲碁四傑(天保四傑)と称せられることになる名棋士である。当時の棋士は、いわゆる武者修行と称してよく地方を旅し手合いを重ねた。地方の有段者にとっては格好の腕試しの機会であり地方の普及に益するところも大きかった。伊藤松次郎-秀策の対局がお膳立てされたところ、松次郎は、『初段なら座敷ホイトだ』と言い捨て不快感を表したと云う。後援者たちが秀策の才気をあまり誉めそやすので松次郎の癇に障ったのだと思われる。このときの棋譜は残っていないが松次郎は秀策の超ど級の才を認めた。秀策が本因坊家に入門した経緯は不明だが、恐らくは松次郎の口添えによる手引きがあったものと思われる。後年、松次郎は初対面のときの発言を詫びている。秀策が本因坊跡目となり、松次郎が名古屋から上府したというから10余年後のことである。松次郎と秀策は同年に御城碁に初出仕しており、その前後であろう。秀策は謝罪に対して、その言葉のお陰で奮起でき今日があり、むしろ自分の方がお礼を申し上げたいと答えたと云う。いかにも秀策らしいエピソードである」。(「幽玄深奥~囲碁の世界探訪」の「本因坊秀策伝(3)」参照)




(私論.私見)