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第7局の対局につき、米蔵が次のように伝えている。
「丈和は実に名人の器か。予かって二子置く時は天下に敵なしと信ぜしに、その7番目の碁、110の手に21子を打ち抜き、すでに勝ちを占めたりと思いきや、丈和が125手を下すに及びて主客たちまち転倒し、遂に持碁(引き分け)に帰せり」。
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(解説) 米蔵が「七番目の碁、110の手に21子を打ち抜き、すでに勝ちを占めたりと思いきや」と言っているのは、右上隅で劫を解消、上図の黒石10の手で白の21子を取り切ったことを指しており、また、「丈和が125を下すに及びて主格たちまち転倒し」と言っているのは、その後の丈和の着手、白11~25までの経過で、下辺の黒石10子が攻略されようとしている。
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丈和は後に次のように語っている。
「自分の一生を通じ、米蔵と対局した文政年間は、一番の打ち盛りであった。勝つべき碁はもちろん、とても勝ち難いような碁でも、よく逆転勝ちしたものである」。 |
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川村知足の「囲碁見聞誌」は次のように記している。
「その棋、米蔵後年に至り西国遊歴の折、さる方に至り碁の席上にて曰く、丈和先生は実に古今の名人とも申すべきや。我、東都に於て手合いの時、二子置きてジゴになりし碁あり。その棋、110の手にて21目の石を打ち抜きて取りし折、この碁こそ丈和先生たりとも必定、中押しの勝ちならんと心中に喜悦なせしところ、追々手数打ち下すとき、125の白手を打たれし折、忽ち模様変わり、忙(呆)然として手段更に決すること能(あた)わず。終いにはジゴとなりぬ。よって碁の道に妙手限りなきを知りぬと物語を承りぬ。
愚、天保の初め年若き頃、下谷車坂なる本因坊の稽古日に折節通いし折、塾生及び通い弟子、大勢打ち交わり、手合いの席へ丈和先生出座ありて、様々の話ありし中に、我れ人々の碁を教ゆる事は次第に巧者になれども、手合い勝負の事は文政の初め頃、米蔵と手合いせしころこそ全く打ち盛りなりしと覚えゆ。その頃は勝ちにできし碁は勿論、克ち難き碁も勝ちになりし事、毎度ありしと語られし事を承りぬ。愚、知足、案ずるところ、先師丈和かくの如く語られしを考えれば、米蔵の碁、田舎修行なれども頗(すこぶ)る力碁と見えたり。さもなくば丈和先生かようの話はあるまじき事なり」。 |
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