その棋理論6/後手堪能論 |
更新日/2020(平成31、5.1栄和改元/栄和2).3.1日
(囲碁吉のショートメッセージ) | ||
ここで、「囲碁吉の天下六段の道、棋理論4/攻防論」を書きつけておく。これは平素書きつけていたものを元に、2015年初頭辺りから1局打つごとに気づいたことを書き加え、書き直しして現在に至るものである。2015.3月、最近出くわした「囲碁紫煙荘」の「囲碁講座」、「囲碁講座part2」、「革命的格言講座」その他を参照する。以来、一局打つごとに何か教訓を引き出し、該当する箇所の書き直しをしている。これが結構面白くて為になるんだな。途中からプロの碁の対局を見ながら得た感想をも記すことにした。2016年10月、古書店で、菊池康郎(著)「囲碁に強くなる本」を手にいれた。非常に有益なことが書かれてあり、これを取り込むことにする。 ひとたびは思いつくままに書きつけ、後に推敲を加え、次第にいっぱしの囲碁理論にしたいと思っている。囲碁吉が自分の戒めの為に磨きに磨いているものであり、アマの且つそれほど強くもない囲碁吉の囲碁論であるから説得力も権威もない。囲碁吉が今後ひょっと強くなったら、ここに書いたことの値打ちが上がるだろう。今はまだまったくダメですたい。相変わらずアマの県代表レベルに3子、4子(4子、5子かな?)の手合いでしかない。何とかせんととは思っているのだが。いざ出航せん。 最新の方法として、最も肝要と思われる気づきを頭出しにして並べ替えて行こうと思う。 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝 |
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【攻防論/攻め急ぎせず、まず守って自陣の本隊を安泰にしてからにせよ】 |
進軍ラッパを鳴らして攻めに回る際には、その前に自分の石の用心をして自陣の傷口を防いでから向かうのが賢い。傷を抱えたままの攻めは逆襲された場合の乱戦で却って大損することが多い。 |
【着手論/正しい先手論後手論に習熟せよ】 |
2019.7.6日、序盤に一手パスの手を打ち、いつもの者とはまた別の碁仇に昨日に続き連敗させられた。俄然気がついた。「正しい先手論後手論に習熟せよ」。これが本日の教訓である。 正しい先手論は、相手が応じざるを得ないところに打つことにより、引き続き先手で立ち回れる打ち方を云う。これの反対が「一手パス手」である。相手は、こちらの「一手パス手」により先手を得て、逆にこちらが応じざるを得ないところに打つことにより、引き続き先手で立ち回ることになる。この差が大きい。特に序盤では主導権争いたけなわの時であるから、不用意な先手渡しが局勢を悪くすることになる。心すべしである。 |
【着手論/正しい後手論。正々堂々と打ち回し戻すべき時に正しく戻す】 |
「正しい先手論後手論に習熟せよ」の次の戒めは、「正しい後手論」、「先手病に罹るな。甘んじて後手を引き手を渡すがまん汁の芸を覚えよ」である。「正しい後手論」とは、「それまでを正々堂々と打ち回し戻すべき時に正しく戻す」という意味である。その上で、後手で肝要所に手をいれしつかり守るのが良い。これを正しい後手論と云う。必要なところへの手戻しは後を自由自在に打てる楽しみを生むので、案外と大きい手になっている。「後手の先」のような手戻しもある。敢えて後手にするのだけれども局面上リードし続けており先を取っていることを云うのだろうと思う。 この戒めは、「攻め急ぎするな」、「攻めるとしても大きく攻めよ」の教えに通じる。先を急ぎたいのは山々なれど、ここでは慌てず騒がずじっと腰を落とし、相手に手を渡す芸を覚えることを要求している。但し、これは名人芸であり、なかなかなことで身につくものではない。その要諦は、先手番の攻撃の理、後手番の防御の理を正しく知ることにある。攻めと守りのコンビプレー的構想力が問われていると思う。 ごく最近カラオケを聞きながら或る人の歌い方がとても気に入った。ほんの少しテンポがずれて歌っており、それが非常に聞きやすかったことによる。先回りに歌うのと、遅れて歌うのと、どちらが良いのだろうか。プロともなるとピタリと歌えるのであろうが、アマの我々はそうは行かない。そこで、先回りと遅れのどちらを取るべきかにつき、やや遅れ気味で歌うのが良いのではないかと気づかされた。これは囲碁でも同じではないかと閃いた。我々アマチュアは先へ先へと打ちたがる。が、むしろやや遅れるぐらいにじっくり腰を落として打つ方が良いのではないかと。これを今後の実戦で確認しようと思う。先手病を直せと云われているが、その真意はこういうところにあるのではなかろうか。但し、頭ではそう分かっても、慌てず焦らずゆったり打法ができるかどうか、これもやはり鍛錬論に関係していると思う。 囲碁を歌に例えたついでに云えば、囲碁はオーケストラである。精神力を鍛え、忍耐力と我慢力を重ね最終章の盛り上がりで聴衆の胸を打つ。そう考えれば、必要以上に先を急がず、要所では必ず手戻りして腰を落すところでは落すのが良い。第一、手戻りしたところでは強く戦うことができる。そういう風に力を溜めつつ追走し、次の山場へ向かうのが良い。そして最終章の山場へ向かう。これを「手厚い碁」と云うのではなかろうか。これの逆が、先走りして自滅する「薄い打ち方」である。自戒で言い聞かせているのだけれども。 2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝 |
【着手論/味悪のタタリに泣かされるの巻】 |
「味悪のタタリに泣かされるの巻」。本日の教訓である。盤面十数目余していると思っていた局面で、碁仇が味悪のところに手をつけてきた。生きればいいやと二子捨てて繋がったが、その二子捨てが連鎖して他の寄せに波及した。結果、盤面5目勝ちで、コミを入れて1目半負けとなった。このところ十数連勝で「碁仇をようやく越したかな」と自負し始めた矢先の一敗である。教訓として、遡ってそもそも味悪になるような手入れに問題があったと思う。手を戻す際の要所への一着が肝要と言い聞かしておく。 |
【着手論/囲碁の神様はしっかり手を戻す手を好む。手を戻す勇気を持ちなさい |
「囲碁の神様はしっかり手を戻す手を好む。手を戻す勇気を持ちなさい」。囲碁の神様は形の悪いところを嫌い手を戻すのを好む。人情は味悪を残したまま先々を急ぎ、後でしっぺ返しを食らうことが多い。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
【着手論/がまん汁が飲める落ち着きのある子になりなさい。がまんの木に花が咲く】 | |
「がまん汁が飲める落ち着きのある子になりなさい。がまんの木に花が咲く」。これを2020年の最初の棋理として言い聞かせておこう。がまん汁の手とは、生き死にの応接、あるいは勢力の張り合いで、後手でもしっかり守る手をも云う。生きがはっきりしないところに錨を下ろして眼を確保しておくことが肝要であるのに、この手を省略して先走る者が多い。しかし眼がない状態での戦いは戦い切れず、そのことが原因で不利になり高い授業料を払わされる。それを思えば、始発駅のところでがまん汁を飲んで眼を確保しておくことが必要だったことになる。がまんしておけさえすれば次にキリがあって楽しみと云う局面がある。それを、いきなりキりで対応した場合、カス石の方を取るキリだったということが往々にしてある。慌てることはない、しっかり我慢すれば果報は無効からこれもがまん汁の効用だろう。 先日、相手の利かしに手を抜いて先手で足早に立ち回ったものの、その後に手抜きのところを咎められ、その辺りに思いがけぬ地を作られ、結局は地合いが足りないという負け方を喫した。これなんかも先手病の影響だと思う。「受けるべきところはしっかり受けることが大事」と改めて知らされた次第である。 別の日、目のない二つの大石を繋ぐ手番があったが、繋ぐだけで実にならないのを嫌い、部分折衝戦に耽った。その結果、二つの大石が別々に攻められ、相手には地がつき、こちらは死ななかっただけの逃げ石となった。初めに戻って、繋ぐ手番の時に繋いでおけば、相手の地中深く入り込むこともでき、景色が変わっていたはずと反省を余儀なくされた。 優勢な局面で攻め合いが発生した場合、必要な攻撃をしながら寸止めし、タイミング良いところで自陣の安全を確保する手を打って様子見するのが良い。自陣の安全を確保しないまま攻め続けると思わぬ落とし穴にはまって大逆転されることがある。この辺りの呼吸を身につけたい。 これにつき有益な話を得たので記しておく。「第40期名人戦挑戦者決定リーグ戦第21局観戦記/村川〝平明流〟」より。
2017.4.29日 囲碁吉拝 |
(私論.私見)