棋理論5/勝ち方論、勝負勘論、運とツキ論

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).2.3日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「棋理論5/勝ち方論、勝負勘論、運とツキ論」を書きつけておく。  

 更新日/2020(平成31、5.1栄和改元/栄和2).3.22日 囲碁吉拝
囲碁吉の天下六段の道、棋理論5/中盤論1(攻防)
囲碁吉の天下六段の道、棋理論6/中盤論2(急所)


【勝負勘編№、ペースを乱された方が負ける。ペース管理を能くするのが大切】
 「ペースを乱された方が負ける。ペース管理を能くするのが大切」。しかし「ペース管理を能くする」ことができれば相手より強い訳だから評論でしかない。しかし、そういう理屈になることを知って打つのと知らずで一目の差があろうから知っておくべきである。

【勝負勘編№、勝つと負けでは天地の差。勝ち碁を勝ち切りなさい】
 「勝つと負けでは天地の差。勝ち碁を勝ち切りなさい」。勝ち碁を落とすことはよくある。プロでもある。そういう意味で勝ち碁をきちんと勝ちきる仕上げ方が肝腎である。その為には優勢を維持し続ける棋力を持たねばならない。「優勢な時が危ない。優勢を勝勢に持っていく技もプロの力の見せどころである」と解説されている。その通りである。あるいは勝ち碁にした後の信じられない悪手即ちポカ手に気をつけなければならない。その為の工夫を確認しておく。

 序盤の頃から味の良し悪しを嗅ぎ分け、「我が方の石は味良く、相手の石は味悪く」させねばならない。これを嗅ぎ分ける能力が棋力なので結局は棋力通りと云うことになり棋力を上げる以外に方法はない。自分の陣と相手の陣の長所と短所を上手く操りながら適切に対処せねばならない。

 相手が手のないところへわざわざに入ってきたとき、生きのない石を動き始めた時、警戒せねばならない。そんなところに手があるものかと安易に対応した結果、手にされることがある。特に錯覚に陥らないように気をつけねばならない。錯覚読みで二人がかりで手にされるように打ってしまうことがままある。この辺りは普段からこの対策用の稽古しておかねばならない。  

 2015.2.28日、他人の碁で、圧倒的に有利に進めているのに更に地を頬張り、そのやり取りの道中で形の悪い欠け目繋がりの大石が元から切られ頓死するのを見た。良過ぎて調子に乗り守りを忘れての大逆転負けである。これを思えば、形勢が良ければ良いほど味悪のヶ所を確認し、それらを上手い順序で補強して石を締めておく必要がある。こうして相手の狙いを潰すのが肝要である。特に欠け目には注意が必要である。

 あるいはそそっかしい手で自滅することがある。普通に攻め合いすれば勝ちのところ欠け目狙いで噛ませた筈が先にこちらの石のキズを咎められた結果、欠け目にならずに目にしてしまい、今度はこちらが生きねばならぬと云うようなことで勝ち碁を落としたことがある。勝ち碁を勝ちきるには軽率を慎まねばならない。

 2014.11.04日 2015.3.2日 囲碁吉拝

【勝負勘編№、止めの刺し方をジ・エンド法という。これに習熟せねばならない】
 「止めの刺し方をジ・エンド法という。これに習熟せねばならない」。その通りである。その為には、「決めどき、決め所を感じとり、トドメを必死に読みきり正確に打たねばならない。これを画竜点晴 と云う。画竜点晴を欠いてはならない」。その通りである。

 「
勝ち碁では的確に仕留め、的確に仕上げるのが肝要」。この態度が肝要である。「仕留め」は、相手の石を殺すばかりを意味するのではない。「仕留め」た状態で盤上の好点を打ち、相手が死に石に手入れするや、もう一カ所好点、要点に打って二手連打するのも良い。コウの振り替わりと同じ棋理である。この芸に習熟すれば天下六段間違いなかろう。

 優勢な碁を逆転される場合が多い。そこで止めの刺し方のジ・エンド法を編み出さねばならない。これには技術的な問題もあるしメンタルも絡む。ここではその要諦を確認しておく。一つは集中力を切らさないことだろう。もう一つは逃げに回らず、引き続き丁々発止し続けるべきだろう。劣勢側は目いっぱい稼ぎに来る、それを許すといつしか逆転になる。そこで、コウ生きアヤのあるところは後回しして、大きなところを生き分けして局面を次第に狭くしていくことを心がけるべきだろう。その際、味良し整形に留意しながら打つのが肝心である。コウ生きアヤのあるところへ用心の手をいれた時に、相手が大きいところへ手を入れると案外と形勢が急接近することがある。このあたりの機微に通じなければならない。


 2016.01.09日 囲碁吉拝

【勝負勘№、勝負の決め方の芸を磨け】
 プロの碁を見て気づかされたのだが、勝負の決め方にも芸がある。ほぼ間違いなく仕留めることができる態勢に持っていったとして、そこからでも一直線には決めにいかない。これを完璧に仕留めるために、もう一つの弱い大石を突き、その応接の綾で狙っている大石の外堀を埋めていく。要するに次第に首が絞まる仕掛けにしている。なるほどなぁと思った次第である。

 2015.8.19日 囲碁吉拝

【勝負勘編№、勝利宣言は控え目の手でする】
 勝利宣言も仕方が難しい。実践的には、味悪の箇所を消す控え目のところへの手入れで勝負を決める。これが勝利宣言となる。初心者は逆をする。目いっぱい張って、さぁ入って来いと見得をきる。実際に入ったに手にされて元も子もなくしてしまう。相手の侵入を許さず、少しの目減りは良い、それでも残っているとする地点に着手して勝利を決めるのが勝利宣言の手である、と自戒せねばならない。

 2016.10.26日 囲碁吉拝

勝負勘編№、最後に間違って負けるのが下手の常】
 「最後に間違って負けるのが下手の常」。「勝負所でのミス」等により「勝ち碁を逃した」とぼやく者はこの法理を知らない愚か者である。「勝ち碁を勝ちきる」のが責務であり、「勝ち碁を逃した」のは未だ「今ひとつ未熟」な証左である。こう深く反省せねばならない。

勝負勘編№、その喧嘩買うべからずの心得】
 「その喧嘩買うべからずの心得」。その通りである。これの呼吸を会得すれば勝率アップ間違いない。これの意味するところは要するに、最終局面で、負けている側は乾坤一擲の勝負に出て来る。これにまともに付き合うと紛れる恐れがある。既に勝ちを見越している場合、その喧嘩を買う必要はない。紛れないよう、少し削らせてでも事件にならないよう確実安心の道を模索すべきである。

 留意すべきは、それまでの勝ち碁の流れに気を良くして、同じ流れで喧嘩を買う例である。そこで思い出したのが、県下ベスト4常連の方が、ベスト1に挑戦する時、いったん形勢有利となったら後は何もしない、そのままズルズルと打たされ決して逆転できないの言葉である。要するに、意味のない相手のちょっかいに乗り喧嘩を買うのは未熟と云うことになる。自戒せよである。

【勝負勘編№生きるが勝ち、繋ぎが勝ち】
 「生きるが勝ち」の局面は生きに行かねばならない。傷口を残しながら更に稼ぎに向かったり、相手の攻め手を馬鹿にして手抜きして大石が殺されてしまって大逆転の例がなきにしもあらずである。「繋ぐが勝ち」の局面も然り。「繋ぎが勝ち」の繋ぎと石取りの二択局面では繋ぎ優先が良い。

 2016.01.09日 囲碁吉拝

着手論勝ちきることの難しさ有難さ】
 「勝ちきることの難しさ有難さ」。勝負に於いては勝ちことに値打ちがあり、囲碁の場合にはとりわけ難しく有難さがある。道中まで形勢が良かったとして「勝ち碁を落とした」とぼやく棋士が多いが、ぼやく前に詰めの甘さを反省すべきだろう。失敗の要因を検討し、二度と轍を踏まない決意を固めるべきだろう。その口惜しさが上達のバネになるのではなかろうか。「ぼやく」とこの反省力が落ちる気がする。だから囲碁吉はぼやかない。

 2018.9.22日 囲碁吉拝

着手論「勝った!」と思ったスキに負けが忍び寄る】 
 道中で勝ったと思うな。終わるまで気を緩めるな。「勝った!」と思ったスキに負けが忍び寄る。口に抜け始めるも同じこと。

勝負勘編№、ホッとした後が危ない】
 窮地を脱したときとか、勝ちが見えてきたときの「ホッとした後が危ない」。特に、こういう時にものをいうと碌なことがない。恐らく集中力が切れ、そういうときには思わぬ見落としの手がある故にだと思う。

 2016.2.15日 囲碁吉拝

着手論/金持ち喧嘩せず 
 優勢碁なのに相手の挑発を受けて乱戦に向かうのは愚かである。味良い戦法に切り替えるのが賢い。

着手論勝ち碁を勝ち切れ。勝ち碁を落すのは弱い証拠】
 「勝ち碁を勝ち切れ。勝ち碁を落すのは弱い証拠」。故に、勝ち碁を落して「勝っていたのに」の言い訳をするな。プロの碁では勝ち碁を落すのは稀ではなかろうか。アマの碁では天下六段までの芸域にはしょっちゅうあると考える。これを逆に云えば、いったん優勢になれば手堅く進め、勝ち碁を落さなくなれば天下六段の域に入っているということになろう。あるアマの天下六段者曰く「県代表の誰それは、いったん優勢になったら何にもしなくなる。後は打ってみるだけで鉄板の壁になる。どうにもならない」。これが県代表の誰それ氏の強さだと云う。学ぶべきだろう。

勝負勘編№、取りこぼしがないのが強い証拠】
 「取りこぼしがないのが強い証拠」である。「取りこぼし」とは、勝ち碁を落とすことを云う。もう一つ、実力的に見て勝てる相手に星を落すことも云う。この両方の意味で、「取りこぼしがないのが強い証拠」である。

 2020.11.23日 囲碁吉拝

勝負勘編№、勝って奢らず負けて腐らず】
 「勝って奢らず負けて腐らず」でありたい。「勝負は時の運」とも云う。勝った方が労り、負けた方が腐らず更なる上達を目指すような関係で碁を学べたらと思う。

 2015.3.12日 囲碁吉拝

勝負勘編№、相手が碁の神様だと思って打つ】
 「相手が碁の神様だと思って打つ」。この態度が肝要である。「碁の神様」はとても強い相手なので侮ってはいけない。ウソ手は打てない。ミスにつけこむような僥倖を期待してはいけない。自陣のスキを作らないよう慎重に打つ。難所では怯まず正々堂々と立ち向かわなければならない。時に機略縦横の知恵を働かせねばならない。この辺りを弁えて苦しいながらも打ち続ければ、道が開ける。こう信じて局面に立ち向かうべきではなかろうか。

勝ち方論/登り下りのギアチェンジ論
 「登り下りのギアチェンジ論」。勝ち方には「登り下りのギアチェンジ論」が肝要である。これを確認しておく。囲碁は登山にも例えられる。登山には当たり前のことだが登りと下りがある。囲碁にも登りと下りがある。このことが案外と確認されていない。登山の場合には山頂があるので登りと下りは自明であるが、囲碁の場合には山頂が明らかでないので登り下りの仕切りが分別できない。という訳で囲碁の登り下りに対する意識が弱いのだろうか。そこで、囲碁に於ける登り、下りの確認をしておく。

 囲碁の登りとは序盤、中盤を云う。この局面は攻めギアで打ち進めて行くのが良い。念の為、ここで云う攻め、守りは守らない攻め、攻めない守りを云うのではない。実際には攻防紙一重で進めていくのであり、その際の基調が攻めにあるのか守りにあるのかの違いを指している。この過程で勝利の道筋を発見し、勝利を確定する着手を打つことができた時点までを登りとする。この地点に着手できた時、カチッと音がするような気分になる。あるいは局面に後光が差すようになる。こうなれば好調の流れである。この局面が現れないときは劣勢下にある。

 登りの頂上に達した時点から下りとなる。これにより着手のギアチェンジが必要になる。のであるが、同じギアで打ち進める者が多い。これは愚かである。優勢な局面での下りは、勝利を確実なものにする為に局面を慎重ギアで打ち進めて行くのが良い。と云う訳で、勝勢になるまではしぶとく大仕掛けに、勝勢後は局面を分かり易く均し始め、手順正しく打つのが良い」。これが実践訓である。この教訓は、勝勢後も大仕掛けに打ち進めパンクしたときの反省である。このギアチェンジをせずに打ち進めるのは未だ素人の碁である。

 2020(平成31、5.1栄和改元/栄和2).3.22日 囲碁吉拝

勝ち方論/勝利の迷宮パズルをこじ開けた時、女神が微笑む
 「勝利の迷宮パズルをこじ開けた時、女神が微笑む」。「登り下りのギアチェンジ論」に補足しておく。優勢局面から勝勢局面になる直前、悲勢の相手は座して死を待つことを拒否して最後の大勝負に出てくる。それが明らかに無謀な手であれば咎め易いが、受け方攻め方が難しい迷宮パズル入りの「渾身の反撃」の場合がある。この難問をどう解くかの能力が問われる。この局面で肝心なことは「渾身の読み」を入れ、局面の分別を能くし、「渾身の反撃」に対する直接の反応、転戦の振り替わり等々を検討し、要するに勝利の道筋を発見することである。これを乗り切ったとき初めて勝利街道が開けることになる。これを御する能力を身につけねばならない。

 このことを逆に云うと、勝利を掌中にするには、その前に相手の最後の大勝負を受け止める壁があるということになる。この壁を突破する能力、術、呼吸を会得したときに初めて勝ち馬になれる。これも日頃の鍛錬で会得する以外にない。

 2020(平成31、5.1栄和改元/栄和2).3.22日 囲碁吉拝

勝負勘№、勝ち碁を落とすな】
強気でいかないと負ける
勝ち碁を落とすな
好機、戦機、勝機、締め機を知れ。勝負勘、手どころ勘を磨け
勝負強さ考
石の心、盤の声考
神の一手考
痛恨の一着、虚の一手考
囲碁体操考
やけにならなければ道はあるもんだ
楽して勝てる碁はない
飛ばす時の弓同様に石も一杯に張らねばならない
ホッとした後が危ない
石を取らされて碁を負かされるほど侮辱はない
勝負の決め方の芸を磨け
真空切り
勝機を捉え、チャンスの女神を掴まえなさい
勝つと負けでは天地の差。勝ち碁を勝ち切りなさい
勝って奢らず負けて腐らず
最後に間違って負けるのが下手の常

勝負勘編№、羽生三冠の「指運」論】
 「将棋コラム」の2017年08月27日「羽生三冠/「わからないからこそ読みより勘」その言葉の真意とは?
 「勝負は対局前に既についている」とはあるプロ棋士の言葉。これはある意味、「対局までの過程がとても大切な時間なのだ」と言い換えることもできます。将棋の対局ではどう指していいのか分からない局面が必ず出てきます。プロ棋士の皆さんは日々、地道な研究や"頭の筋トレ"を積み重ねて対局の場に臨んでいますが、それでも研究とは違った展開になるものです。そんな局面は、「指運」が働くと言われますが、本当に強い人はこの「指運」が悪手にならないのです。一体、何故なのでしょうか。
 研究を重ねてもなお、分からない局面がやってくる

 プロ棋士がいくら研究を重ねていても、必ず普段の研究とは違った展開になります。そんな局面になったときには、自分の力だけを頼りに進んで行くことになります。これまでの経験や知識によって築いてきた自分だけの羅針盤を見ながら行くのですが、たまに真っ暗闇になって右も左も分からない、どう指したらいいのか皆目検討もつかない、というときが現れます。それまではパッとどこかに光が当たって手筋が見え、その中で最善を尽くそうと選んでこられた。ところが、それが全くの闇に包まれてしまう。そんなことが起こります。絶えず様々な局面を想定して備えているつもりでも、想定外の手を指されて、羅針盤が利かなくなってしまうことがあるのです。

 実人生でも、思いもよらない事件が起こったり、事故に遭ってしまったり、どうしたらいいのだろうという事態に陥ってしまうことがあります。仕事においても、突然無理難題を押しつけられたり、自分の言動が誤解されてしまったり、対処に困るようなこともしばしばあります。そういうときに、焦ってパニックになってしまうのか、あるいは冷静に対処できるのか。緊急時にこそ、本当の力が試されるのです。

 分からない局面こそ勝負どころ。羽生三冠の選ぶ指し手とは・・・

 将棋の場合も同様です。どう指したら良いのか分からない真っ暗闇の中であっても、悪手を指して自滅することなく、平均的な指し手を選び続けられるかどうか、それが勝負の行方を左右します。「そういうとき、具体的にはどのように指し手を選んでいるのですか?」と羽生三冠に伺ったことがあります。羽生三冠の答えは「できるだけ直接的な手を指さないように気をつけています」とのこと。直接的な手というのは、おそらく、「ええい、いっちゃえ。王手!」というような手のことだと私は解釈しています。読み切れていないのに「えいやっ!」と詰ましにかかる手もそれと同じことでしょう。分からないときはそんな手は指さず、ここは我慢して一呼吸置くようにするということだと思います。

 羽生三冠でも分からないときがあるというのは、凡人にはちょっとほっとさせられるような気がしますが、羽生三冠はこんな言い方もされています。「分からないからこそ勝負どころ。ぼくの場合、読みより勘で決めます」。直接的な手は指さないといっても、そこでただ休んでいるわけではありません。姿勢はあくまで前向きで、しかも勝負どころの大切な局面として捉えているのです。そして興味深いことに、そんなときに「指運」というものが出るらしいのです。それは羽生三冠に限ったことではなく、分からないとき、なぜか「指がそこに行く」ということがあるのです。

 分からない局面に出る指運の凄さ

 私など、棋力はたいしたことがないので、「あ、どうしよう。分からないな」というときに指す手は、たいてい悪い手を選んでしまいます。「どちらかが当たりです。AとBのどちらを選びますか?」と言われて、二択なのに必ずハズレの方を選んでしまうという感じ。ところが、強い人は不思議と悪い手を指さないのです。分からないけれど何か一手指さなくてはいけないと思い本能的に手を出す。その、ふと指した手が当たっているのです。2人で最善手を積み上げてきたような素晴らしい対局において、しかも時間がもうないといった状況で、見事な指運が出たのを何度も眼にしました。見ているだけで鳥肌が立つ凄さを感じさせられます。

 「指運」と言っても、それは運試しの「運」ではありません。以前の記事でも述べた「詰み勘」の「勘」と一緒で、「指運」を出せる土台がちゃんとできているから、当たりの方に手がいくのです。

 結局、私の様に悪い手になってしまうのは、今まで努力をしていなかった証拠です。プロ棋士は実体験でそれを知っているから、対局の中でそういう局面に出くわしたときに指運で当たりの方に手を持っていくためにも、棋譜並べや詰将棋、読みの無駄、戦術の研究など様々な努力を積み重ねているのです。だから羽生三冠も、銀将の裏がすり減るまで家で駒を並べて研究しているのです。あのすり減った銀将を見たときの衝撃は今でも私の脳裏に残っています。プロ棋士の凄さをまざまざと見せられた気がします。理屈や読みだけでは説明できないような「指運」や「勘」にこそ、不断の努力の本質が反映される。その人の過ごしてきたすべての時間の結果が偶然に見える一手に表れる。そう考えると、指運の意味するところの重さに、思わず襟を正す思いがします。

 指運をつかみ取る姿勢

 人生においても、大きな決断を迫られるときがあります。その決断も、理詰めのシミュレーションや損得勘定だけでは答えが出ないとき、ここにも指運と同種の「運」の介在を感じさせざるを得ません。そんなとき私たちも、何をどれだけ頑張って積み重ねてきたか、どういう心持ちで生きてきたか、そういうことが問われることになるのだと思います。最善の「指運」をつかみ取るために、プロ棋士の姿勢を見習って生きたいものです。

 ライター安次嶺隆幸

 私立暁星小学校教諭。公益社団法人日本将棋連盟学校教育アドバイザー。 2015年からJT将棋日本シリーズでの特別講演を全国で行う。中学1年生のとき、第1回中学生名人戦出場。その後、剣持松二九段の門下生として弟子入り。高校、大学と奨励会を3度受験。アマ五段位。 主な著書に「子どもが激変する 将棋メソッド」(明治図書)「将棋をやってる子供はなぜ「伸びしろ」が大きいのか? 」(講談社)「将棋に学ぶ」(東洋館出版)など。
 子供たちは将棋から何を学ぶのか

【勝負勘編№、大山勝負哲学語録】
 将棋の大山名人が次のような「大山勝負哲学語録」を遺している。味わうべしだろう。
 「迷いが生じたときは、できるだけ積極的な手を指す」(「勝負の世界2」p24)。
 「自分が苦しいときは相手も苦しい。苦しいのは自分だけではないと思えば、自然に道が開けてくるものです」(「勝負の世界2」p27)。
 「勝負は周囲を信用させることが第一(大事?)だ。信用されなくなったら勝てない。あの人は強いとか、指し手の中に間違いがない、あるいは、あの人が優勢になったら頑張っても、もう勝てない、と思われるのが信用で、いろんな信用をつくると、相手の戦う意欲が半減し、こちらの勝ちにつながる」(河口俊彦「大山康晴の晩節」)

 2015.3.12日 囲碁吉拝

勝負勘編№、安田隆夫「安売り王一代」名言】
 「運気の流れを読む、掴む」、「勝負の勘どころ」、「ツキのないときは無理せず『見』(けん)を決め込む」、「見切り千両」、「勘と感受性を磨くべし」。「禍福はあざなえる縄の如し」。「逆張り発想」。「腸(はらわた)と肝(きも)」。「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ。踏み込みゆかばあとは極楽」。「目から鱗が落ちる」。「言うは易し、行うは難し」。「商売は真っ正直にやるのが最終的に一番儲かる」。「オア(or)ではなくアンド(and)で考える」。「我が意を得たり」。「得手に帆を揚げる」。成功のシナリオ、失敗のシナリオ。勇気ある撤退。「運」。「距離感の達人」。「君子の交わりは淡きこと水の如し」。(安田隆夫「安売り王一代」)
 安田隆夫「安売り王一代」参照。
 運気の流れを読み、勝負の勘どころを掴む。勘と感受性を磨くべし。
 ツキのないときは無理せず「見」(けん)を決め込む。
 見切り千両。
 禍福はあざなえる縄の如し。
 逆張り発想。
 腸(はらわた)と肝(きも)。
 切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ。踏み込みゆかばあとは極楽。
 目から鱗が落ちる。
 言うは易し、行うは難し。
 商売は真っ正直にやるのが最終的に一番儲かる。
 オア(or)ではなくアンド(and)で考える。
 我が意を得たり。
 得手に帆を揚げる。
 成功のシナリオ、失敗のシナリオ。
 勇気ある撤退。
 距離感の達人。
 君子の交わりは淡きこと水の如し。

勝負勘編№、決闘者の心得】
 「決闘者の心得」が参考になるので確認しておく。「運は天にありの運否天賦」の重要性に言及している。確かに囲碁にも「指運」がある。勝負勘が大事とも云う。凡そ次のように述べている。囲碁にもそのまま当て嵌まるような教訓ではなかろうか。
 「決闘者として最初に必要となる資質は流れを読む力(状況判断能力)であり流れを重視すべし。中盤以降に将棋でいう詰み状態になった時に、温存した手札を一気に使って全力で仕留めに行くべし。詰みを感じる力が必要。勝負事には感性(勘)だけでなく情報戦も重要。情報収集&分析能力に基づく裏づけのある勝負手を『確信の一撃』(クリティカル・ヒット)と云う。しかし情報収集&分析能力だけでは不十分で精神波動攻撃を上手く対処せねばならない。相手からの揺さぶり、プレッシャーに動揺しない、強い精神力が要求される。プレイの際に怯えないのは当然として焦り、過信も禁物。精神的に中庸(リラックス)せねばならない。決闘に集中しながらプレイ一つ一つを大切にする姿勢こそ求められる云々。心理戦に強い人の特徴として1.どんな状況でも動揺せず、客観的な視線を保てる人。2.相手の表情、プレイから相手の心理状態を読み取れる人。3.プレイの前に一呼吸おいて戦況、流れを確認できる人。4.ミスをしても集中力が切れない人などが上げられる。心理戦に持ち込むには色々な手段がある。表情、特に眼力、視線による揺さぶり。ポーカーフェイス(無表情)。圧力。意表を突く計算を狂わせる戦術、戦法。はったり戦法。沈着冷静。言葉攻め。感想戦が大事である」。

 空手の世界選手権での優勝候補者のインタヴューが参考になるので確認しておく。次の心構えが重要であると云う。
 「リラックスベスト、パワー、スタミナ、テクニック、高いモチベーション、エースの自覚、揺るがぬ自信、揺るがぬ精神」。

 2015.4.10日再編集 囲碁吉拝

勝負勘編№、勝負勘、手どころ勘を磨け】
 打ち進めるうちに手どころを迎え、「ここ一番」の局面に出くわすことになる。これを掴むのが勝負勘である。勝負勘が磨かれておれば、この局面が正念場であると感じることができる。この機会を正しく掴むことにより果敢な攻め、あるいは守りに才能を発揮し、形勢を一気に有利に導くことになる。勝負勘を磨いていなければ、せっかくのチャンスを見逃し不意にしてしまう。その差が大きいと心得るべきである。

 2015.08.30日 囲碁吉拝

勝負勘編№、勝機を捉え、チャンスの女神を掴まえなさい】
 囲碁に限らずであろうが勝負事はチャンスの女神が訪れるように打ちまわさねばならない。そして女神が訪れた時、この機会を逃さず、女神にきちんと挨拶し、女神の前髪を掴んで来訪に応えねばならない。この機会を逃して後ろ髪を掴むとスルリと逃げてしまう。これを「幸運の女神には前髪を掴むしかない。後ろ髪を掴むとスルリと逃げられてしまう」と云う。

 これを手の解説ですると、相手が隅の守りのカケツギをする余裕がなく他の手を打ったとき、当然その手が当方のハサミツケ又は三三入りの手よりも大きな手であることを要する。そうであれば受けざるを得ないが、そういう手がいつまでも続く訳ではない。相手が更に他所へ打ち続けると、当方のハサミツケ又は三三入りの手番がやって来る。この機会を逃してはいけない。相手に他の好点を打たせた挙句、当方がそれに付き合いし、その挙句に手戻しのカケツギさせるようなことでは勝てない。これはある種の催眠術に入れられている格好である。

 勝機とはどういう状態のことか。思うに、石の連続折衝で、必然的に相手が受けざるを得ず、しかしながら受けると相手の思う壷にはまリ、更に具合の悪い状態に入るので受け切れないような局面を云う。これをずるずると打つ者は弱い。強い者は思い切って手抜きし転戦する。この時が勝負である。相手が受けるべきところを受けなかったのだから手抜きをとがめるのが良い。仮に受けても一刻も早く手抜きを咎める手に戻さねばならない。この一点に勝負の分かれ道があるように思う。

 2015.07.06日 囲碁吉拝

着手論/投了の美学 
 投了の美学を心得ておかねばならない。負け碁を挽回手も打たぬままダラダラと打ち続けるべきでない。

着手論/ツキの呼び込み論 
 勝負には運とツキの女神が連れ添っている。この女神の支援を呼び込むような流れを生み出していくのが良い。

 例えば、こういう例がある。中盤で大石を頓死させられ敗勢必至の碁を、戦局の遠いところから打ち直して、相手が堅く打ち始めたのを幸いに目いっぱい広げて巨大地を作り、最終的に細碁に仕上げ、それに焦った相手が寄せの段階で当りを見逃し万事休すの勝ちを拾った。これなぞは、運とツキの女神の寄り添いとしか考えられない。

着手論/半目の勝ち、半目の負け 
 「半目勝てば良いのが理想」。その通りである。その裏意味は、「大きく勝とうとして無理するな」である。これが実戦的な裏意味である。

 「半目の勝ち、半目の負け」も、運とツキの女神の寄り添いの結果としか考えられない。一般に勝てば笑い、負ければ口惜しがるのだが、半目の勝ちが最もうれしく、半目の負けが最も口惜しい。ハラハラどきどきの展開の結果としての勝利の呼び込みを掴めるよう、運とツキの女神に日頃からご愛顧していただくのがコツだろうと思われる。

着手論/接戦の苦しい局面を最後まで粘り強く打つのも囲碁の醍醐味である
 「接戦苦しい局面を最後まで粘り強く打つのも囲碁の醍醐味である」。その通りである。




(私論.私見)