早稲田学生運動通史1

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元、栄和2)年.2.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この論考は、1999年12.1日より2000.2.5日にわたっての「さざなみ通信」投稿文、「新日和見主義事件」の項での「戦後学生運動史概観」の「戦後学生運動1、60年安保闘争まで」、「戦後学生運動2、60年安保闘争以降」、「戦後学生運動3、余話」を見直し加筆訂正した。心すべきは、学生運動史を総合的に綴ったものがないと云うことである。仮にあったとしても記述が歪んでおり、学んで為にならない。そういう意味で、れんだいこが客観評論を心がけた。もっとも、れんだいこの私論も加えている。しかし、時事関係は正確に記述したつもりである。市井のそれは時事関係の事実性を問うところに私見が入っており、そのままでは使えないものが多過ぎる。敢えてそうコメントさせていただく。

 以下の文章につき、党及び関係書店発行各書の他いずれも最近古書屋で手に入れた「戦後日本共産党史」(小山弘健.芳賀書店)、「現代の青年運動」(藤原春雄.新興出版社)、「宮本顕治倒るる日」(水島毅.全貌社)、「過激派の形成とその背景」(山室章.日本経営者団体連盟)、「戦後革命運動論争史」(小林良彰著)、第一次ブント関係書等々を参照した。

 2008.8月、大獄秀夫氏の「新左翼の遺産」(東京大学出版会、2007.3.5日初版)を手に入れ、新たな情報、資料を挿入した。但し、れんだいこ観点の下に編集した。

 インターネットサイトでは、「マルチメディア国際共産趣味者連合」、「現代古文書研究会」、「宮地氏の共産党、社会主義問題を考える」、「国際共産趣味ネット」、「遊撃インターネット」、「情況から言葉へ 、学生運動」等を参照させていただいた。新たに「自由のための不定期便」氏の仮名「学生運動考」が登場した。これも学ばせていただいた。

 同志社大学学友会残務整理委員会が、「同志社の栞」(編集人・水野裕之、正文堂、 2005.2.1日初版)を発行した。これを読み進めるのに、戦後学生運動の息吹と流れが見えてくる。同書より得た知識を元に従来の「れんだいこの学生運動論」を書き換えることにする。(と勢い読んでみたが、大した事はなかったな、これは悪意ではない許せ)

 れんだいこの学生運動史論は、戦後学生運動を質的識別し、戦後直後から1970年代前半までを9期に分けることにする。大東亜戦争に狩り出された者が戦史を残そうとする衝動に似て、れんだいこは、僅かではあったが垣間見た学生運動史を遺そうと思う。現在、基本知識を「戦後政治史検証」、やや詳しいものとして「
戦後学生運動史論」、更に個別論考として「新日和見主義事件解析」、「第一次ブント運動考」等々の三段構えにしている。

 引用文については、読む易くするを第一義にする観点から現代仮名遣い、洋数字に改めた。なお、れんだいこ文法に従い適宜句読点も挿入した。又、引用の際原文が長い場合には概要「」文を設け、内容を変えない範囲で簡略にした。膨大な資料集の中から必要と思われる事項を抜き出し、これを一文に纏めることにする。「見立て」能力が問われるが、出来映えは如何だろうか。良くも悪しくもれんだいこ史観で挑んでみた。が、残念ながら未完のまま野晒しにしている。なぜなら難しいんだわ。


 2005.6.22日、2009.2.17日再編集 れんだいこ拝



【特集】1950年前後の学生運動――北大・東大・早大
「早稲田1950年」における
大衆的学生運動の記録
吉田嘉清・高橋彦博
『早稲田1950年・史料と証言』の刊行――「吉田・高橋報告」の経過
北海道大学の学生運動史における1950年の「イールズ反対闘争」を記録する「北大五・一六集
会報告集」が札幌にある白櫓社(発売・星雲社)から『蒼空に梢つらねて』と題されて刊行された
(2011年2月,頒価2,000円)。この報告集の副題は「イールズ闘争六〇周年・安保闘争五〇周年
の年に北大の自由・自治の歴史を考える」とされていた。報告集編集委員会の委員長として名が挙
げられているのは手島繁一氏であり,手島氏については「紛争時」の「北大学連委員長」であり
「全学連委員長」であったと紹介されている。
この書が刊行され,「書評」が「わだつみ会」の岡田裕之氏によってなされたことを高橋彦博は
早稲田大学の「全学自治会委員長」であった吉田嘉清氏から知らされ,岡田氏の「書評」について
の感想を求められた。岡田氏は法政大学の名誉教授であり,高橋とは旧知の仲であった。加えて,
北大OBの手島氏は法政大学大原社会問題研究所を場とする,高橋の若い研究仲間であった。高橋
は,吉田氏に,「レッドパージ反対闘争」から半世紀経った時点でこの運動についての分析的評価
が東大および北大の関係者によってなされていることを歓迎する旨の感想を述べた。なお,吉田と
高橋はともに1950年の自治会活動で早大を除籍された「退学グループ」の一員であった。
ところで,今回の吉田氏からの連絡で知ったのであるが,早稲田の吉田氏の場合,1950年当時
の学生運動について解明を求められているある問題点を抱えていた。それは「イールズ反対闘争」
と「レッドパージ反対闘争」の関係の問題であった。早稲田の学生運動においては「イールズ反対
闘争」は,すなわち「レッドパージ反対闘争」であったが,当時の全学連執行部にあった吉田氏は,
「道学連」「北大」など国大関係者たちが「イールズ反対闘争」への取り組みを認めても「レッドパ
ージ反対闘争」への参加を拒否するという不可解な立場に立っていたことを目撃していたのであ
る。
吉田氏からそのような問題点の所在を指摘された高橋は,北大の学生運動史『蒼空に梢つらねて』
を再読したのであったが,吉田氏が指摘するような問題点があったのは確かであった。北大を舞台
とする「イールズ反対闘争」の経過は同書における中野徹三氏の回想において的確に記述されてい
たが,中野氏はその記述の中で「奇妙なことであるが,五〇年秋の反レッドパージ闘争には,私た
ち北大の学生が東京の学友たちとともに共闘した記憶はないし,記録もない」と指摘しているのであった(同書,p.210)。
高橋は,この「奇妙」な問題点が中野徹三氏によってさらに論議されるであろう気配を感じたの
で,その問題点のさらなる解明については中野徹三氏ほか北大関係者の論議展開に期待することに
した。また,高橋は,北大の学生運動史を発掘した『蒼空に梢つらねて』が「白鳥事件」について
ほとんど語らない姿勢を保っているように見受けられたので,そのような問題点の所在についても
今後における論議の展開を期待することにした。高橋は,以上のような趣旨の短いペーパーをまと
め,1950年代の学生運動史に関心を持っておられるであろう何人かの人たちに見ていただくこと
にした。併せて,その短いペーパーを大原社会問題研究所の所長・五十嵐仁氏に届け,検討をお願
いした。
幸いにして,大原社研関係者による検討の結果,『大原社会問題研究所雑誌』において「反イー
ルズ・反レッドパージ闘争における三大学運動関係者による分析的回顧」の特集が組まれることに
なった。ただし,「白鳥事件」へのアプローチは,北大関係者としての手島氏によって別の企画と
して取り組まれることになった模様であった(1)。
ところで,1950年の「レッドパージ反対闘争」に関する『大原社研雑誌』の「特集」において,
企画段階においては,早稲田の運動史の場からする発言は吉田嘉清氏に依頼されたのであったが,
そもそもの企画提起に高橋が関与していた経過があり,吉田氏の発言は高橋との共同報告となるこ
とになった。
1950年の早稲田大学における「レッドパージ反対闘争」については1990年代に運動参加者160
名余の発言を収めた『史料と証言』(2)の刊行が安倍徹郎氏,藤川亨氏その他の編により完結して
いた。吉田氏と高橋の間において,早稲田の『史料と証言』の記述に関する積極的評価は一致して
いた。「吉田・高橋報告」の主内容は『史料と証言』に基づくものとなった。
なお,〈WASEDA1950年〉(http://www13.plala.or.jp/abete/)参照。
(1) 後日,手島氏から「白鳥事件」について次のような案内が届けられている。「講演:中野徹三ほか:白鳥事件
60年目の真実2012年4月14日,明治大学リバティタワー」
(2) 「早稲田・1950年・記録の会」が編集した『早稲田1950年史料と証言』(7冊)の刊行年は以下となってい
る。
1997年12月第1号(証言18名)
1998年6月第2号(証言13名)
1998年12月第3号(証言15名)
1999年6月第4号(証言16名)
1999年12月第5号(証言24名)
2000年5月別冊・資料編(証言12名)
2005年10月特別号(証言63名) 付「縮刷年表」
なお,「早稲田1950年」の『史料と証言』については次のような文献紹介がなされている。(1)『朝日新聞』
特集「検証,全学連半世紀後の問いそれぞれ」(2000年3月22日)。(2)2000年10月17日「大隈会館における
早稲田1950年・反レッドパージ闘争50周年記念集会における報告」(高橋「新憲法制定過程における大衆的学
生運動」『社会史林」第47巻第4号,2002年)。(3)『週刊金曜日』(421号,2002年7月26日)の特集(岩垂
弘「今何なぜ盛ん?五〇年代の学生運動の回顧と検証」,高橋彦博「『青春の回顧』で確認される新憲法感覚の発
露」)。早大自治会における「レッドパージ反対闘争」
『史料と証言』の「別冊・史料編」には「安倍徹郎編・吉田嘉清監修」による「1950年を中心と
する早稲田大学学生運動史年表」(縮小版)が収められていた。約500項目からなる「安倍・吉田
年表」は,精選された早稲田の学生運動史関係文献約50点を消化した「読める年表」となってい
た。さらに,約150項目の「芹沢寿良編・年表」が補充版の位置に置かれてあった。
『史料と証言』に収められた「安倍・吉田年表」において,その冒頭部分は「デアターク・グル
ープ」の記述に当てられている。「マイン・カメラーデン・デアターク」(友よ,その日を!)は,
戦時体制下の街角で別れる時の「さよなら」の代わりに交わされ,やがて軍服を着せられ,共に語
り合うことが叶わなくなった日の「手紙の末尾の言葉」として仲間の間で交わされた合言葉であっ
たという(武藤義男『史料と証言』第2号,p.4)。
「安倍・吉田年表」から「デアターク・グループ」に関する記録を拾うと,以下の諸点となる。
グループを構成したのは松尾隆,寺尾五郎らであったとされている。
1935年早大,マルキスト・グループ検挙。
1939年各大学の合法左翼,一斉検挙。
1941年早大・入交教授主催の「経済史学会」への入会者は約20人。テキストは『資本論』
『発達史講座』。慶応の豊田四郎ゼミと交流。他の非合法の研究会では「32年テーゼ」
『帝国主義論』などを検討。
1942年「文化綱領](宮直治)が発表される(5月)。「現代のヒューマニズム」として「新
しき世界観」があるとした。
1943年学徒徴兵猶予が停止される。早大マル研グループのほとんど全員が入隊決定となる。
同年12月1日,那珂湊の一軒家で最後の合宿研究。合言葉は「デア・ターク」。
1944年歳末から翌年年頭にかけマルクス主義グループのほとんど全員が満州,岡山,下北
半島の要塞などの所属部隊で逮捕され,東京に連行される。
1945年九段下憲兵隊司令部地下留置場で早大マルクス主義グループが「再会」。早大グルー
プ,憲兵隊解体により警視庁特高課へ。10月,釈放される。
戦後の早稲田大学において第一回学生大会が開かれたのは1946年1月26日,第二回学生大会が
開かれたのは同年5月31日であったと記録されているが,当時,早大の大学当局は「自治権確立
を承認」していた。全学自治会には演劇博物館の右にある建物の使用が認められていた。そこに
「都学連」も同居していた。全員加盟制の自治会における自治会費は「代理徴収制」で支えられ,
全学自治会本部には女性の書記が雇用されていた。政経学部地下の「第二政経自治会室」にも女性
の書記がいて「活動家」たちの憧れの的になっていた。
吉田の記憶では,大学当局によって承認されていた「旧制大学」段階の既得権を「新制大学」に
も持続適用させることが当時の自治会における主要課題となっていた。しかし,大学当局は,学生
自治会の制度は旧制学部の学生のみに適用されるとする告示を行ない,すでに機能していた「教職
員学生協議会」による自治会規程の解釈を無視する姿勢を示していた(吉田嘉清「“学の独立”都
の西北にひびく」『史料と証言』第1号,p.127)。
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「安倍・吉田年表」でなによりも注目される記述となっていたのは,全学自治会発足当初におい
て学内外の学生集会への学生参加者数が「数千人」「数万人」「数十万人」とカウントされているこ
とであった。それらは「主催団体発表」ではあったが,「関東自治連組織現勢」(1947年11月)と
して「早大2万,慶大1万,明大1万,東大1万,法政1万,日大22万,東女0.1万…」の確認が
なされている。「全国学生自治会総連合結成(全学連)」(1948年9月)における「官公私立145校,
26万」の確認に関する集計であった。
1946年12月13日学園復興要求国会デモ,早大生約6,000名参加。
1947年1月31日皇居前広場,関東大学高専連合学生大会。40校代表3万名。
1947年5月24日早大,第2回滝川事件記念学生祭。参加学生3,000名。
1948年6月1日関東自治連・教育復興学生決起大会。60数校,3万名。
1948年8月26日学生運動史上初の全国ゼネスト。114校,約20万名。
1949年5月24日全学連全国統ースト。139校29万人参加。
1949年5月31日都学連主催の公安条例反対大会。早大生500名参加。
1950年7月6日東京都平和擁護大会に早大生1,000名参加。平和投票56,000票。
1950年9月28日早大,全学総決起大会。都下5,000名の学生参加。戦後初,学内デモに警
官隊乱入。その後の「早警戦」の前哨戦となる。
1950年9月29日東大で全都学生決起大会。参加,4,500名。
1950年10月5日東大,レッドパージ計画粉砕全学総決起大会。東大生4,500名,応援の早
大生1,000名,警官隊と激突。
「安倍・吉田年表」からは,これら,数千,数万の学生大衆を結集させていたのは「学園復興」
「教育復興」「平和擁護」「レッドパージ反対」などの行動スローガンであったことが読み取れる。
当時,学生への集会通知は機関紙,学内配布のチラシ,立て看,ハンド・スピーカーによるアナウ
ンスなどによってなされていた。その際,宣伝媒体としてもっとも効果的であり大衆的支持を受け
ていた手段は,少数の突出した「活動家」による「アジ演説(雄弁)」であった。早稲田大学本部
棟2階のバルコニーから警官隊の退去を求めてなされた全学自治会の委員長演説が構内5,000の学
生に対して「学の独立」を求める大演説となり学生大衆を「魅了」したことが一参加者であった高
橋によって記憶されている。
澤地久枝さんと親しかった畠中稔美(二文)の「達文・達弁」を記憶している者は多い。早大自
治会全学協議会の議長を務めた境栄八郎(第二政経)は高校生時代に朝日新聞社主催の弁論大会で
優勝した経歴の保持者で,「…であるんであります」とする弁論部調の演説が得意であった。
早稲田の学生運動の特徴となった「雄弁」は戦前からの伝統であった。1949年9月27日,占領
政策違反容疑でGHQのMP本部に連行された大山郁夫は,釈放後,警視庁に留置された。そのとき,
駆けつけた戦前派の大山門下生である蓬田武弁護士が警視庁に「響き渡る」と思える「大音声」で
即時釈放を求めたことを戦後派の橋本進が記録している(『史料と証言』第3号,p.1)。早稲田の
「雄弁」は人によっては「大音声」であった。吉田嘉清はレッドパージ反対闘争で東京地裁の法廷
に立ったが,その法廷における蓬田弁護人の「大音声」を昨日のことのように覚えている。「第一次早大事件」と「第二次早大事件」
早稲田大学における1950年のレッドパージ反対闘争は,制度化された全学自治会によって担わ
れていた「正統性」観念によって支えられていたが,全学に充満していた「正統性」観念は,全学
自治会の制度的「正当性」が見失われるとともに急速に消滅した。早稲田全学自治会の「承認」と
「廃止」の経過は「安倍・吉田年表」によれば以下となっている。この経過は,一度は成立した自
治会費の代理徴収制であったが,まもなく,崩壊した経過を示している。
1947年4月早大自治会規程,無修正承認。全国学生運動の先駆となる。
1949年4月早大自治会主催大学法と自治会規程に関する公聴会の開催。
1950年9月6日全学連代表,CIEルーミス課長と会見。レッドパージ計画を質す。
1950年9月26日早大自治会委員長,レッドパージ計画に関し島田孝一早大総長に意見交換
を申し入れ。
1950年9月27日天野文相,レッドパージは政令62号によると談話発表。
1951年2月早大,自治会規程廃止。自治会,非合法化の告示。
ところで,「安倍・吉田年表」において,全学自治会の制度化と並行して進行した日本共産党の
学内組織化が記録されている。さらに,日本共産党における「武装闘争方針」の採用と学内党組織
(細胞)における受け入れ経過が記録されている。この経過は,学内で「正当化」されていた自治
会が「非公然」組織の浸潤を受け「正当性」を自失する経過となっていた。
1948年日本共産党,約300の学校細胞,5,000名の学生党員を組織。
1949年早大細胞,団体等規制令による党員登録約350名。
1950年5月7日早大細胞総会111名参加。本部の解散命令に反対。
1951年2月23日日本共産党,「4全協」で武装闘争方針を提起。
1951年11月12日日本共産党,暴力革命唯一論,山村工作隊の方針を提示。
1952年2月早大から20名ほどの山村工作隊。小河内に。3月29日,23人,検挙。
1952年2月17日早大細胞「中核自衛隊」,牛込警察署長官舎を襲撃。
1952年5月1日「血のメーデー」当夜,1,000人近くで学内デモ。
1952年5月7日騒乱罪適用で萎縮した学生に「早大突撃隊」の方針で対応。
1952年5月30日新宿で早大,東大,お茶大らの軍事組織。火炎ビン闘争。
1952年6月25日早大細胞の軍事組織,米軍司令部に「テルミドール」攻撃。
1952年6月26日全学連,立命館地下室リンチ事件。
「安倍・吉田年表」において1950年代に繰り返された警官隊の学園突入は「早警戦」(p.29)と
戯画化されて記録されているが,そこにあるのは,全学自治会組織による「自治会」活動が「街頭
闘争」に転化して自滅する情景であった。「安倍・吉田年表」が代表的な「早警戦」として記録し
ているのは「第一次早大事件」(1950年10月17日)と「第二次早大事件」(1952年5月8日)で
あった。
警官隊の学園立ち入りを「早大事件」として取り上げ,「第一次」と「第二次」に区分して把握
する認識は「事件」直後において明瞭であった。京大国史研究室による「日本近代史辞典」(1958
40 大原社会問題研究所雑誌 №651/2013.1
年,東洋経済新報社)が「第一次」と「第二次」の区分を行なっていた。しかし,そのような認識
はまもなく希薄となる。岩波書店刊『近代日本総合年表』(1968年)においては「1952/5/9」
の箇所に「早大事件」の記入がなされているが「1950/10/17」についての事件記入はなされて
いない。大原社会問題研究所刊の『新版社会労働運動大年表』(1995年)において「早大事件」と
して解説付きで記入されたのは「1952/5/9」であり,「1950/10/17」については事件の記
事記入がなされただけとなっている。
『史料と証言』において1950年のレッドパージ反対闘争が史私的分析の対象となったとき,早稲
田大学における警官隊の学内立ち入り事件は明確に再構成された。「安倍・吉田年表」と「芹沢年
表」において1950年10月の事件が「第一次早大事件」と規定され,1952年5月の事件が「第二
次早大事件」と規定された。
ところで,二つの「早大事件」の時間的距離は一年半ほどであり近接していたが,この二つの
「早警戦」の間には無視できない運動内容の違いがあった。「第一次」の場合,東大生を含む全学連
執行部中心による学部長会議開催中の早大本部・会議室に対する「占拠」行動であったが,「第二
次」の場合,無断捜査を行なった警官に対して謝罪を求める学生大衆,とくに二部学生の「座り込
み」であった。「第一次」の場合,扇動した東大グループの集団逃亡がエピソードになったが,「第
二次」の場合,スクラムを組んだ5,000の学生に対する警官隊の実力行使が大学当局の抗議を招く
など社会問題化していた。「第二次」の場合は国会における論議をも巻き起こしていた。
そして,この二つの「早大事件」には,その態様の違いにかかわらず大きく共通する一点があっ
た。それは,警官隊の導入が特定の学生グループの「暴走」と「仕組み」によって誘発されていた
ことである。「第一次」の場合は「東大と国際共産主義者団の指導下に占拠を継続」した結果であ
り(別冊・資料編,p.32),「第二次」の場合も「学内の沈滞を転回させるために……仕組まれた」
策動の結果であった(別冊・資料編,p.39)。
やがて,早稲田1950年代の大衆運動は大学キャンパスにおける学生と警官隊との激突とは異な
った内容の自然発生的大衆運動としての様相を示すようになる。1950年5月以降,「原子兵器使用
禁止」を求めるストックホルム・アッピールの署名運動が徐々に広まっていたが,1954年3月,
ビキニ水爆実験による第五福竜丸の被曝があり,原水爆禁止署名運動の全国的発展となった。
1954年8月,原水爆禁止署名運動全国協議会が発足し,1955年9月,原水爆禁止日本協議会が結
成され,早稲田の全学自治会を代表する吉田嘉清が事務局を担当する。
この頃,学生選挙権に関する自治庁通達が発せられ学生の反発が強まった。1953年9月,自治
庁通達撤回全国学生決起集会が開かれ,大隈講堂前に2,500名,清水谷公園に3,500名が参加し,
代表の自治庁への抗議交渉がなされた。茨城大生の自発的提訴があり,1954年10月20日,最高裁
における勝訴となった。
ところで,新たな全学自治組織の議長となった芹沢寿良は,「レッドパージ反対闘争」とその後
の「学生選挙権闘争」との間に「大きな断絶」があったとは見ていない(『史料と証言』第2号,
p.43)。しかし,「朝日新聞」社会部の記者であった岩垂弘は『戦後五〇年年表』(『朝日年鑑1995
年版』)における記録において,1954年当時の運動であった「学生選挙権闘争」と東京砂川の「米
軍基地反対闘争」は「学生がかかわった運動のうちでごくまれな勝利の例であった」とする把握を
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示している。芹沢と岩垂の間には,「目的意識的」学生運動と「自然発生的」学生運動との間の違
いに着目する視点のあるなしの違いがあったようである。
「大山郁夫教授擁護」運動の継承と展開
早稲田大学における学生運動の歴史を,明治期から大正・昭和の時代にかけて,さらに,戦前期
から戦後期にかけて,社会史としての視野の拡がりにおける総観を試みた意欲的な史論として「早
稲田の学生運動小史」(『史料と証言』別冊資料編,所収)がある。「執筆担当」は「戦前」編の場
合,『早大新聞』編集長・北沢輝明,「戦後」編の場合,早大自治会中央執行委員・小林一彦,とさ
れている。
この「小史」において,早稲田の学生運動は,「在野の私学」において「学問の独立」を掲げ続け
た特有の伝統においてとらえられている。そのような「小史」の視点において浮上するのは戦前に
おける大山郁夫教授の学園「追放」阻止の運動であり,戦後における大山郁夫教授の学園「復帰」
歓迎の運動であった。1950年代における早稲田のレッドパージ反対闘争は,早稲田の学生運動に
おける「私学の伝統」の継承と「学の独立」の担い手としての役割発揮を自覚する立場において取
り組まれていた。そこには,自然発生的運動と目的意識的運動の融合があった。
早稲田の学生運動史における大山郁夫教授擁護運動の位置については,高橋「大山会の人たち」
(『史料と証言』第3号,所収)が詳述するものとなっている。「大山会」は,大山郁夫を「敬慕」
する戦前派,戦後派の人々によって1964年に発足させられた「大山郁夫ファンの会」であった。
参集したのは,各界の知名人350人であり,特徴的であったのは会が「戦前派中退組」と「戦後派
中退組」の合流地点となっていたことであった。
大隈講堂で「大山郁夫生誕百年」を記念する講演会が開催され,東京大学教授の丸山真男氏によ
る「御
(ママ)
挨拶」がなされたのは1980年11月であった。その後,高橋は,大山会の一員として,丸山
真男氏に二度,大山郁夫論を見ていただいた。丸山真男氏からは,その都度,丁寧なコメントを葉
書で頂戴したが,その内容は,丸山真男氏の大山郁夫論として貴重な内容を示すものとなってい
た。
最初は,「大山郁夫生誕百年記念会」直後に高橋が「新労農党論の一視点」と題した一論を法大
社会学部の紀要『社会労働研究』(第28巻1・2号,1982年2月)に発表し,丸山真男氏のお目
にかけたときであった。
「玉稿の大山政治学の意味について論じられたところは,もうーつの研究報告集の御報告と
相俟って教示されるところ多大です。しかも一昨年の大山生誕百年記念のとき,早大講堂で
話をさせられたとき,あまり自信のないままにのべたことと大体一致するので,大いに意を
強くしました。」(1982年3月25日)
二度目は,高橋が「長谷川如是閑と大山郁夫」と題した一論を『大原社会問題研究所雑誌』(第
337号,1986年12月)に発表し,丸山真男氏のお目にかけたときであった。
「御論稿は興味深く拝読しました。政治的多元論についての大山と長谷川のプライオリティ
については,大体お説の通りと思います。ただ,この両者は気質・生活態度・学問観・ユー
「早稲田1950年」における大衆的学生運動の記録(吉田嘉清・高橋彦博)
42 大原社会問題研究所雑誌 №651/2013.1
モアのセンスなどあらゆる意味で,対蹠的なので,〈方法論〉的自覚の有無とか概念的〈厳密
性〉でもって比較することは,それこそオックスフォード大学教授とバーナードショウ(あ
るいはW. リップマン)とを比べるようなもので,あまり生産的とは思えません。如是閑翁に
直接親灸した若僧の一人からみれば。……」(1987年4月23日)
この頃,ようやく,大山郁夫の学問に対する評価が日本政治学史の領域における「多元的政治理
論の開拓者」として注目され始めていた。それまでの大山郁夫研究は,蝋山政道や丸山真男などの
評価を別とすれば,大原社会問題研究所で無産政党分析に専念していた高橋が「大山会」から委嘱
された仕事として資料収集,著作目録と年譜の作成などに取り組んでいる程度であった。
日本の政治学において,大山の位置が労働農民党の党首としての経歴で注目されるだけでなく,
政治学説としての多元主義の開拓者として評価されるようになったのはある段階以降においてであ
った。とくに,早稲田大学政治経済学部における藤原保信教授の研究と学会活動の展開が画期的で
あった。なお,助手論文で大山郁夫を研究対象としていた藤原保信氏は,それを契機に,早くから,
大山会の諸種の催しに対する積極的な参加者となっていた。
日本の政治学における大山郁夫研究の到達点は,1987年から1988年にかけて刊行された『大山
郁夫著作集』(全7巻,岩波書店)によって確定されるものとなっている。『大山郁夫著作集』(全
7巻)刊行の事業は早稲田大学政経学部の現代政治研究所に設定された「大山郁夫研究プロジェク
ト」によって取り組まれた。同プロジェクトの構成は以下であった。プロジェクトのチーフとなっ
ていたのは藤原保信氏であった。
早稲田大学政経学部
教授正田健一郎,同,兼近輝雄,同,内田満,同,藤原保信
東京大学教授三谷太一郎,東京大学名誉教授松本三之介
法政大学教授高橋彦博
日本政治学会の創立50周年記念シンポジウムが1998年10月,京都のブライトン・ホテルで開催
された。「日本における政治学の展開」として大山郁夫が取り上げられ,三谷太一郎氏が報告者,
内田満氏が討論者となった。ただし,1994年に急逝された藤原保信教授の姿をこの学会で目にす
ることはできなかった。高橋は,早稲田の学生運動史を回顧する立場で参加していた。
おわりに
『早稲田1950年史料と証言』に関してぜひ紹介したいと思った証言は数多くあったが,中でも,
津金佑近「あさやけのうた」(第1号),由井誓「パルチザン前々史」(第1号),土本典昭「〈小河
内山村工作隊〉の記」(第3号)の三氏による証言内容についての注目が吉田と高橋において一致
していた。
「尾崎士郎の『人生劇場』を読んで,早稲田の在野精神にあこがれたりもした」(津金)とする出
発点が三氏に共通していたのであろうが,イールズ反対闘争,日本共産党の分裂,小河内山村工作
隊,火炎ビン闘争,「六全協」の自己批判,などについて述べる三氏の回顧は多様性の中にある共
通性を示す率直な語りとなっていた。特に「軍事闘争」については秘密裏における縦割り組織の活動であったので三氏の経験が交錯する場面はそれほどなかったようであるが,それにしても,三氏
に共通するのは「後悔」ではなく「反省」であるとともに胸底にただよう「ほろ苦さ」であったこ
とを感じ取ることができる。
日本の学生運動,とくに早稲田の学生運動に特徴的であったと思えるのはその根っからの楽天性
であった。日比谷のGHQ本部に東大生を加えた三人で出向き全学連を名乗ってマッカーサーに会
見を申し込み「朝鮮からの撤兵」を告げようとしたなどの蛮勇はどこから出てきたのであったろう
か。エレベーターでマッカーサーとすれ違ったが会見はできず,副官から「占領政策違反」になる
と一喝され,GHQのあった第一生命ビルから無事に外に出られた三人は「有楽町駅に向かって脱
兎のごとく走った」とある(第1号)。
早稲田の中核自衛隊は,朝鮮戦争勃発二周年に当たって,理工学部の学生を加えてテルミット使
用法を研究し,市ヶ谷の在日米軍司令部攻撃を「テルミドール」作戦と称して実行した。しかし,
鉄条網ごしに狙った山積みのドラム缶に中身が入っていなかったので大事に至らなかったという。
「野天に山積みするドラムカンに中身のないのは当然だった」が,それをやるまで気がつかない
「間抜けさ」であった,と本人たちによって「自己批判」されている(第1号,p.120)。
『史料と証言』で語られているのは活動家たちだけではなかった。澤地久枝さんは「いわばノン
ポリの学生も真剣に参加した五十年代の学生運動だった」と回顧している(別冊・資料編,
p.158)。室井滋さんが「フラリの父」を回顧している例があるが,そこで語られているのは典型
的な早大仏文生であった。「早稲田1950年」で「レッドパージ反対闘争」に結集し集会やデモに参
加していた数千の学生の情景を如実に示しているのは澤地さんの言う「ノンポリの学生」であり室
井さんの思い出にある「フラリの父」であったと思われる。
(よしだ・よしきよ 元・早稲田大学全学自治会委員長)
(たかはし・ひこひろ 大原社会問題研究所嘱託研究員)




(私論.私見)