党史3、本多虐殺から「五月テーゼ」まで

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日

 これより以前は、「党史2、「1973戦略的対峙段階」突入宣言から本多虐殺まで」で確認する。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「中核派党史2、本多虐殺以降」をものしておく。「ウィキペディア中核派」その他を参照する。ゲバルト史につき、日本共産党/諫山博の「昭和50年11月19日 衆議院法務委員会質疑」その他を参照する。たちまちは資料として書き込み追々に編集し直すつもりである。 

 2007.10.20日 れんだいこ拝


【革マル派の中核派テロ、中核派最高指導者・本多延嘉書記長虐殺】
 3.14日未明午前6時過ぎ、「中核派書記長内ゲバ殺人事件/革マル派-中核派」(中核派書記長内ゲバ殺人事件)。埼玉県川口市にあるアパートで、中核派最高指導者本多延嘉書記長(41歳)が革マル派にテロられ、斧、ハンマー、鉄パイプなどで全身をメッタ打ちにされ殺害された。(中核派9人目の死者)。中核派の主張によると、傷のほとんどは手斧によるもので、即死に近い状態での虐殺であった。別章【本多延嘉著作選】遺族は夫人・恵子さん、長男・力(ちから)君。

 「本多延嘉書記長の略歴」は次の評で結んでいる。
 「豊かな人間的感性にささえられたまれにみる理論家であり実践家であり、葬れてなおやむことのない不世出の革命の首領である本多書記長。われわれは、勝利をこの手ににぎりしめる日まで、本多書記長を先頭にたたかうであろう」。
 同日夕方、革マル派は解放社(公然拠点)で記者会見を開き、革マル派全学連委員長土門肇が次の声明を読み上げた。
 「今朝、わが全学連戦士たちは、反革命の頭目、本多延嘉に対して、階級的怒りの鉄槌を振りおろしました。これは、産別戦争と称して、無差別無制限のテロを労働者に加えるという、世界革命史上、前古未曽有の反革命集団に対して振りおろした怒りの鉄槌であります。

 わが全学連の戦士たちは、午前0時40分に本多が東川口の戸塚荘というアパートに、防衛隊と車で帰ってくるところから捕捉していました。そして、わが戦士たちに本多が面と向かったときに、彼が発した唯一のことばは、“人殺し、人殺し”と叫ぶことでしかないという、革命家として未熟な態度を示したのです。“完全せん滅”のことばのもとに、殺人を賞揚していた男が、本質的には小心者で、自分では殺人なんかできない男であることを、わが戦士に対する対応の中でバクロしたのです。我々は血を血であがなう戦いをよしとするものではありません。本多に対して鉄槌を加えたのも、殺害が目的ではありませんでした。彼が死に至ったのは、全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが、鉄槌の一ふり一ふりにおいて表現されたことの結果であるということです」

 犯人側が警視庁の記者クラブに電話をしている。その内容は次の通り(3.14日の朝日新聞記事)。

 「今朝3時22分、東川口のアパートで中核派の本多を撃沈した。われわれの同志難波力が撃沈されたことへの報復であり、権力とゆ着している中核へのみせしめだ」。
 同日の読売新聞夕刊に本多書記長が住んでいた野原の中の一軒家のアパートの写真が載っていて、“内ゲバ”としてはかなり大きな記事となっている。「頭の傷は数か所あったが、骨膜に達するほどの深い傷で部屋中は血の海」と記されている。
 革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。
 概要「今朝3月14日午前3時22分、わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目、現代版黒百人組の殺戮の最高責任者書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした。これは、産別戦争と称して、無差別無制限のテロを労働者に加えるという、世界革命史上、前古未曾有の反革命集団に対して振り下ろした怒りの鉄槌であります。我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめでもある。殺害を目的としたものではなかった。わが全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが鉄槌の一振り一振りに於いて表現されたことの結果として死亡ということになった」。
 「東京アウトローズWEB速報版」は、2007.12.31日付の「【取材メモ】本多延嘉・中核派書記長「暗殺事件」」の中で次のように記している。
 「〝事件取材〟を長くやっていると、まったく別件の思い掛けない話が飛び込んでくる。都内でも有名な地上げ物件の取材をするため、関係者に会っていた際のことだ。この人は地上げについては肝心なことは何も言わなかったが、何故か急に、俺は学生の頃、中核派だったんだ、と話し始めた。71年11月の『渋谷暴動』(沖縄返還協定批准阻止闘争)で逮捕されたこともあったようだ。この時は、機動隊に攻撃を仕掛ける部隊に配属されたという。『たまたま、俺は寝過ごして、〝早朝召集〟に遅れてしまったことがある。これは後から知ったことだが、革マルがその時、死んでいる。地下に潜っていた当時の仲間と30年ぶりに最近会ったよ』。

 周知のように、中核派と革マル派は長期にわたる『内ゲバ』を繰り広げ、その死傷者は1000人に及ぶとされている(現在、両派は公式に表明していないが、実質上、内ゲバを停止した模様)。そうした内ゲバの中でも、『暗殺』と位置付けられているのが、75年3月14日に埼玉県川口市でおきた中核派・本多延嘉書記長に対するテロである。『犯行声明』を出した革マル派が、最初から本多書記長の殺人を目的としていたことは明らかで、このテロは革マル派が組織の総力をあげて実行したものであるとされる。

 『革マルは警察を装って本多さんが交通事故にあった、と夫人に電話した。当然、夫人は防衛上の観点から前進社(中核派の公然拠点)などに事実確認の電話をしている。ところが、夫人の電話はすべて革マルのアジトに繋がるように工作してあったのだ。本多さんの身の回りの物を持って出掛けた夫人を、革マルの別動隊が数時間にわたって追尾した結果、本多さんのアジトがわれてしまった』(前同)。この時、本多書記長の所在を知らされていたのは、夫人と極く限られた中核派最高幹部だけだったという」。
(私論.私見)
 この話が何処まで本当か分かりはしない。真相が明らかになる日を待つしかなかろう。

【本多虐殺テロに関する立花隆証言】
 「月刊現代2009.1月号(最終号)」で、立花隆が「田中金脈追及『引越し』の顛末」の中で次のように記している。貴重と思われるので関係のくだりを引用しておく。
 「『現代』との仕事で、記憶に鮮明に残っている仕事としては、前記の『中核・革マル』がある。両派が展開した殺し合い戦争の記録は、両派の機関紙誌、パンフレットのたぐいを克明に読み込むところからはじめたが、最後に両派の指導者を直接インタビューした。そのときインタビューした中核派の本多延嘉書記長が、しばらくして、潜伏先の埼玉県下で革マル派のテロ部隊に惨殺されたとの報道を新聞で読んだときは、言葉を失うくらい驚いた。

 なぜその潜伏先が革マル派につかまれたのか。中核派の内部点検で、可能性の有る経路が逐一調べられた。そのときのインタビュー経緯も調べられ、担当編集者は相当厳しい追及を受けたと聞く。あのインタビューの日、東京郊外の街道筋で、中核派の防衛隊員に車で拾われ、それから延々と車で走りながら、何度も尾行の可能性を確認しつつ、埼玉県の奥へ奥へと入っていった。最後にたどりついたある田舎町の外れにある日本料理店の奥座敷に入ると、しばらくしてから本多書記長が防衛隊とともに入ってきた。数時間の取材をした後、我々はまた防衛隊の車に乗せられ、また延々と走ったあと、東京郊外の駅で降ろされた。途中、防衛隊は再び尾行の可能性を何度もチェックしていた」。
(私論.私見) 立花隆の本多虐殺事件証言に対するれんだいこの重大推理考
 これを仮に「中核派書記長本多テロ事件に関する立花証言(略称「立花証言」)」と命名する。「立花証言」は貴重なことを伝えている。即ち、流布されている「夫人の電話盗聴によるアジト突き止め説」にも拘わらず、「担当編集者が相当厳しい追及を受けた」ことを明らかにしている。ということは、中核派は「夫人の電話盗聴によるアジト突き止め説」を納得していないことを窺わせよう。

 そういうセンテンスで「立花証言」を読むと、文中の「しばらくして」が気になる。インタビュー後の同日なのか数日後なのかはっきりしないが、「インタビュー後の同日」のようにも受け取れる。仮に同日的に理解すると、「立花インタビューのその日」に本多氏がテロられたことになる。しかし、防衛隊員は綿密周到な尾行チェックをしているからして、この線から追跡されたとは考えにくい。とすると、当時では知られていなかった発信機が付着されるなりしたことが考えられる。こうなると、防衛隊がいくら厳重に尾行対策していたとしてもお手上げであり、念入りな尾行逃れ証言は立花に暗にからかわれていることになる。「担当編集者が相当厳しい追及を受けた」について云えば、「立花インタビュー」に立ち会ったのが担当編集者と立花の二名だったのか他にも居たのか判明しない。いずれにせよ、れんだいこ式発信機付着説に従えば、「立花インタビューのお膳立てそのもの」が臭い話になろう。推定の話でしかないが疑念は消えない。

 「立花証言」の「しばらくして」を普通に読めば「インタビューの数日後」と理解すべきだろう。そうすると、上述の推測は成り立たない。が、れんだいこがなぜこういうことを問題するかと云うと「立花の胡散臭さ」を思う故である。この御仁には何かと「裏」が付き纏っている気がしてならない。典型的にはロッキード事件での立ち回りがそうだが極めて政治主義的な動きをしている。その他宮顕リンチ事件における機密資料の入手も然りで、「特別待遇」の臭いがしてならない。「立花のトップシークレットとの繋がり」が透けて見えてくることになる。以上、補足しておくことにする。 

 2009.1.4日、2014.10.05日再編集 れんだいこ拝
 2023.3.14日、BLOG-C全国委員会政治局「防備録」が次のように証言している。
 そうした内ゲバの中でも、『暗殺』と位置付けられているのが、75年3月14日に埼玉県川口市でおきた中核派・本多延嘉書記長に対するテロである。『犯行声明』を出した革マル派が、最初から本多書記長の殺人を目的としていたことは明らかで、このテロは革マル派が組織の総力をあげて実行したものであるとされる。『革マルは警察を装って本多さんが交通事故にあった、と夫人に電話した。当然、夫人は防衛上の観点から前進社(中核派の公然拠点)などに事実確認の電話をしている。ところが、夫人の電話はすべて革マルのアジトに繋がるように工作してあったのだ。本多さんの身の回りの物を持って出掛けた夫人を、革マルの別動隊が数時間にわたって追尾した結果、本多さんのアジトがわれてしまった』(前同)。この時、本多書記長の所在を知らされていたのは、夫人と極く限られた中核派最高幹部だけだったという」。
(私論.私見)
 上記の「防備録」の「夫人活用説」の通りであれば、本多暗殺経緯はこれで確定だろう。但し、れんだいこは、ならば本多暗殺は同様手法でいつでもできる「籠の中」に居たことになり、なぜ3.14になったのかの説明がいると思う。「出掛けた夫人を、革マルの別動隊が数時間にわたって追尾した結果、本多さんのアジトがわれてしまった」と云うのであれば、夫人は一人で出かけ、無警戒のまま本多のいるアパ-トに向かったと云うことになるが、それもなんだかなぁ。れんだいこ推理の「立花インタビューのその日の犯行」が妙に気になっている。なにか繋がりがあるという疑惑が氷解せず依然として燻り続けるのは致し方ない。

【革マル派の中核派テロ】
 3.14日、革マル派が、中核派の京大生1名鉄槌。

【中核派が「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言】
 中核派の怒りは凄まじく、3日後、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。警視庁は19日に専従員配置を決定したが、報復は続いた。革マル派は「一方的テロ停止宣言」。しかし内ゲバを完全にやめたわけではなく、また中核派側の攻撃はおさまらず、死者は増えていくばかりとなる。この年だけで15人もの革マル派活動家が殺害された。

【中核派の革マル派テロ】
 3.15日、中核派が、革マル派の宮崎県委員長を殲滅。全身骨折の重体。

【中核派が復讐全面戦争突入宣言】
 1975.3.16日、中核派が記者会見。革マル派幹部である黒田寛一松崎明土門肇の「革命的処刑」を宣言するなど、革マル派への全面復讐を宣言。中核派の怒りは凄まじく、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。「先制的内戦戦略」を確立。警視庁は19日に専従員配置を決定したが、報復は続いた。革マル派は「一方的テロ停止宣言」。しかし内ゲバを完全にやめたわけではなく、また中核派側の攻撃はおさまらず、死者は増えていくばかりとなる。この年だけで15人もの革マル派活動家が殺害された。中核派の「軍事部門」を指揮してきた清水丈夫氏がまとめた統計によると「1973年9.211以来の中核派の対革マル派『赤色テロ』は件数で436戦闘、『完全殲滅』(死亡)43人、そのうち、75年3.14(革マル派による本多殺害)以後の革マル派の死亡は31人」。革マル派と解放派の抗争の死者を併せて「内ゲバ戦争」は百名近くの死者を出した。しかし、現在に至るまで3氏の「革命的処刑」は実現していない(黒田は2006年に80歳で病気で死去。中核派は「恥多き死を強制した」と称している)。
 北小路敏が、カクマルによる本多延嘉書記長虐殺をのりこえ、70~80年代を通して、権力・カクマルとの二重の内戦を革共同の前面に立って指導し抜く。革共同政治集会での基調報告は少なくとも70年代に30回、80年代に20回に及ぶ。

【中核派の革マル派テロ】
 3.18日、中核派が、革マル派の全逓鶴見郵便局オルグ殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 3.18日、革マル派が、中核派の北大生1名撃沈。

【革マル派の中核派テロ】
 3.19日、革マル派が、豊中で中核派の1名鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 3.20日、中核派が、荒川区東日暮里今村のマンションの全逓東部アジトを襲撃。鉄製の三段式のはしごで侵入し郵便局員2名(岡本良治、25歳)(中島章、28歳)をバールで殴打し虐殺した(革マル派11~12人目の死者となる)。他の1名が重傷。 「元信州大キャップを殲滅」。
 「3.24日付け前進」が「本多書記長虐殺に復讐の巨弾 全逓カクマル東京東部アジト爆砕 岡本、中島を完全せん滅」の見出しで次のように報じている。
 「3月20日午前0時すぎ、わが革命的部隊は、全党・全軍、全人民の先頭にたち、本多書記長虐殺にたいする復讐の第一弾を放つべく、荒川区東日暮里今村マンション2階207号室にある全逓カクマル東部アジトに攻撃を開始した。(中略)断末魔のあがきとはよく言ったものである。正しくも『完全せん滅される!』と直観した岡本は、往生際悪く部屋中を逃げまわり、しまいには隣りの6帖間にころげこみ、ぶざまにもフトンの中に頭をつっこんで何とか助かろうとしたのである。わが部隊は、このごにおよんで醜悪な岡本を有無を言わせずフトンの中からひきずりだし、その頭上に大上段にかまえたバールを渾身の力を込めてふりおろした。完全せん滅の決意も固くうちおろされたこの一撃で岡本ははやくもいっさいの抵抗をやめた。だが、わが部隊の怒りはとどまるところを知らない。こいつが、このカクマルが、本多書記長を殺したんだ!こいつが万一反革命として再生したら本多書記長に顔むけができない!完全せん滅し新しい完全赤色テロの時代をひらくんだ!わが部隊は、休むことなく、岡本の脳天にバールを連続的にうちおろし地獄の底の底までつきおとしてやったのである。あたり一帯は文字どおり岡本の血の海となった」。

【中核派の革マル派テロ】
 3.24日、中核派が、革マル派の全逓東部アジト爆砕。

【中核派の革マル派テロ】
 3.25日、中核派が、革マル派の中央からの送り込みJAC8名粉砕。

【革マル派の中核派テロ】
 3.25日、革マル派が、中核派の九州前進社襲撃4名撃沈。

【中核派の革マル派テロ】
 3.26日、中核派が、革マル派の全逓重要幹部殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 3.26日、革マル派が、中核派の九州教労委キャップ制裁。

【中核派の革マル派テロ】
 3.27日、「川崎市女子職員内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。午後4時頃、中核派の3人組が、革マル派の川崎市役所職員・西田はるみ(26歳)を神奈川県川崎市役所裏で鉄パイプ襲撃し虐殺する。(初めての女性犠牲者、革マル派13人目の死者)。3人組の1人はその場で市職員らにより取り押さえられ、川崎署員が殺人の現行犯でその男を逮捕した。 川崎市役所では約40人の反戦系労働者がおり、内訳として半分が中核派、6人が革マル派、残りが他セクトだったという。
 前進3.31日付け報で「反革命白色テロ分子を完全せん滅(中略)、教育大カクマル出身、白色襲撃態勢基幹部と直結する札つきの反革命、川崎市職潜入分子Nに復讐の階級的鉄槌」の見出しで報じている。
 Nは都立日比谷高校卒業後、1967.4月、現役で東京教育大学文学部ドイツ文学専攻に入学。学内の演劇研究会に入会。このサークルは革マル派の拠点だった。1971年春、大学内サークル「教育大学新聞会」に入会。教育大学新聞は1973年4.10日号を最後に彼女の卒業とともに廃刊になっている。このことからNがひとりで教育大学新聞を支えていたのではないかとの見方がある。1973年3月、卒業。川崎市で初めての大学出身の女性事務職員として採用され、市民局広報課第二係に配属。市政だより、ポスター製作などを担当していた。この頃のNは革マル派幹部と親密な関係にあり同派の集会によく参加していた。事件の1か月ほど前から若い男から市役所のN宛に電話がかかり、その都度Nは「人違いでしょう」、「忙しいから失礼します」と電話を切っていた。事件当日午後3時頃、市役所にN宛ての電話があり、4時過ぎにNが職場から急に居なくなり事件に遭っている。Nの父によると、Nは高校在学中から学生運動を始め、大学は活動のために進級が遅れ6年間在籍した。就職後もNは活動を続け「身辺に危険があるから」という理由で実家近くのアパートで一人暮らしをしていた。東京教育大学の学生・卒業生が内ゲバの被害者となった事件としては、この他に「東京教育大学生リンチ殺人事件」がある。(「ウィキペディア(Wikipedia)川崎市女子職員内ゲバ殺人事件」その他参照)

【中核派の革マル派テロ】
 3.27日、中核派が、革マル派の広島県職員を殲滅。

【革マル派関連】
 3.28日、革マル派は、中核派に対し一方的に「内ゲバ停止宣言」(3.28声明)を発表。「敵対派との激烈な党派闘争に圧倒的な勝利をかちとった。残る任務は小ブル雑派の残務整理のみ」と高言している。しかし、中核派の怒りは凄まじく、「復讐の全面戦争への突入、全面無制限戦争」を宣言し、直後から革マル派の「革マル派一人残らずの完全殲滅」を開始した。

 これに対し、革マル派は「権力の謀略論」を強め、概要「(以後の中核派、革労協による攻撃に対し、)権力が、瓦解した中核派、革労協にテコ入れして、わが派に対する盲動を活用し最後的に双方を一掃しようとするものである」との見解を披瀝している。その後、この論法をエスカレートさせて、「ブクロ派(中核派)と青解派(革労協)は,自己組織の政治的延命をもくろんで国家権力の懐ふかくとびこみ,権力内謀略グループに助けをもとめた。このふたつの集団を権力の走狗にしたてあげた権力内謀略グループは,彼らを謀略追認役者としてあやつりつつわが革命的左翼の組織を破壊するための攻撃をくりかえし兇行してきた」、「(中核派や革労協が)明白に反革命として権力の走狗へと転落した以上、それらとの闘争はもはや党派闘争ではなく,対権力の闘いの一環となる」(昭和50年3月機関誌「共産主義者」)と捉え,両派との党派闘争を国家権力と対決する階級闘争の一環とみなすようになり、今日に至っている。

【中核派の革マル派テロ】
 3.29日、中核派が、革マル派の千葉県職員産別キャップを徹底殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 3.31日、中核派が、革マル派の関西全逓都島郵便局支部書記長を徹底殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 4.1日、「東京元革マル派全学連幹部内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、東京・墨田区の喫茶店で、千葉県委員長・船崎新(元革マル派全学連中央執行委員、27歳)を襲撃し虐殺する。(革マル派14人目の死者)。
 「*.**日付け前進」が「白色襲撃態勢に壊滅的打撃」「前川、清水撃沈に続く大戦果」の見出しで次のように報じている。
 「この日夜10時すぎ、わが革命的部隊は、東京墨田区向島の喫茶店「ナイル」で、白色襲撃のための活動を統括・指揮しているまっさい中の船崎をがっちり捕捉した。(中略)カモフラージュのためビールを飲みつつ自分で人目をはばかりながら某所に電話をしたり、その直後「イワタ」というコールネームで再三電話口に立ってヒソヒソ小声で会話をしたり、白色襲撃隊との連絡をたえずとっていたのである。わが革命的部隊は一気に突入し、本多書記長虐殺という未曽有の反革命的悪業をはたらいた下手人の一人である船崎に津身の怒りを込めた鉄槌をうちおろし、せん滅したのである。わが部隊は、権力の厳戒体制を破り、全員生還した」。

【中核派の革マル派テロ】
 4.5日、中核派が、革マル派の九州キングの新キャップを殲滅。広島県教労最後の県委員を撃沈。

【中核派の革マル派テロ】
 4.6日、中核派が、金沢で、革マル派の北陸JAC幹部を殲滅。

【中核派対革マル派の日比谷公園集団会戦】
 4.6日、日比谷公園での全共闘1500名の集会に500名の革マル派が乱入。竹竿や投石による乱闘となり、両派30名が負傷。

【中核派の革マル派テロ】
 4.8日、中核派が、革マル派の名古屋で東海自治労を殲滅1ヶ月の重傷。

【中核派の革マル派テロ】
 4.9日、中核派が、革マル派の鹿児島教労2名を殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 4.11日、革マル派が、中核派のレポ1名鉄槌。(革マル派が東京都内で元中核派全学連幹部を襲撃)

【中核派の革マル派テロ】
 4.12日、中核派が、革マル派の京王電鉄労働者ナンバー2を徹底殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 4.13日、革マル派が、中核派の立命館大生1名鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 4.15日、中核派が、革マル派の仙台産別サブキャップを殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 4.16日、中核派が、大阪で革マル派の関西教労中枢を殲滅。

【革マル派の中核派テロ】
 4.17日、革マル派が、中核派の東海襲撃隊員鉄槌。福岡NHK職員鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 4.21日、中核派が、革マル派の静岡教労1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 4.22日、中核派が、革マル派の秘密印刷所襲撃解放社最高責任者殲滅。東京で都職労1名殲滅

【革マル派の中核派テロ】
 4.23日、革マル派が、中核派の救殺隊長ら3人鉄槌。

【中核派の革マル派テロ】
 4.25日、 中核派の四人組が、広島市内の喫茶店で白昼、県職労書記の山浦陸夫を襲撃する(中国地方委議長殲滅)。襲撃過程の写真が新聞に公表される 。

【中核派の革マル派テロ】
 4.26日午後2時35分ごろ、、「東京元革マル派幹部内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、革マル派政治局員ら2名(解放社事務局員・芦野豊(服部多々夫、32歳)、早大生・鈴木和弘(23歳))を新宿区西新宿の喫茶店で襲撃し虐殺。(解放社責任者・JAC隊長完全殲滅、革マル15~16人目死者)。
 「*.**日付け前進」が「3・14反革命虐殺の首謀者、下手人 カクマル政治局員服部、白色テロ隊長鈴木完全殱滅」の見出しで次のように報じている。
 「4月26日昼すぎ、わが革命的部隊は、新宿駅西口前の喫茶店で、真昼間から白色襲撃の謀議をしていたカクマル政治局員、解放社責任者であり、なによりも憎むべき3・14虐殺首謀者の1人である服部多々夫と3・14下手人であり、JAC白色殺人テロ隊長である早大社会科学部4年鈴木和弘を捕捉し、本多書記長暗殺への煮えたぎる怒りの制裁を加え完全せん滅した。このたたかいは3・20反革命武装アジト爆砕・全逓潜入カクマル岡本、中島完全せん滅、3・27川崎市職潜入の札つき白色テロリスト西田完全せん滅、4・1虐殺下手人船崎完全せん滅につづく3・14反革命突破=4月全面大攻勢の白眉をなす決定的な大戦果である」。

 「2時20分、服部と鈴木が連れだってダフネに入る。服部が入口近くの席に坐り鈴木はしばらく服部と話してから奥へ、さらにもう1人の反革命分子が入ってきて服部と話して奥に行く。かわるがわる地図を広げた服部の席に訪れ、頭をつき合わせてヒソヒソと小声で白色襲撃のための謀議と指令を行う。鈴木らは、白色テロ隊長として服部から指令をうけまさに出撃せんとしていたところなのだ。その何よりのあかしとして、鈴木は、ふところに60センチのつなぎの鉄パイプをひそませていたのである。わが革命的部隊は、一気にこのダフネに突入、真一文字に狙い定めた服部と鈴木へと殺到し、怒りの鉄槌を全身の力をこめてうちおろした。本多書記長虐殺へのにえたぎる怒りをこめて、うちのめし、せん減したのである。わが部隊は、権力の非常戒厳体制をうち破り全員堂々帰還したのである」。

 慶応病院職員殲滅。


 関西全逓最高幹部殲滅。


【中核派の革マル派テロ】
 4.27日、中核派が、革マル派の中央送り込み九州JAC隊長殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 4.28日、中核派が、革マル派の神奈川湖北教労1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.1日、中核派が、革マル派の富士通社員2名・千葉大最後の支柱を殲滅

【中核派の革マル派テロ】
 5.7日、「鹿児島高校教諭内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、鹿児島県内の革マル派アジトを襲撃し3名殲滅。革マル派の教労キャップ・高校教諭の竹原寿(41歳)を虐殺。(革マル派17人目の死者となる)
  「5.12日付け前進」が「」の見出しで次のように報じている。
 「5月7日午前4時、わが革命的部隊は、鹿児島市冷水町にある鹿児島カクマル幹部の本拠アジトに突入、中にいた県委員長梯、竹原ら最高幹部4名を全員せん滅した。岩谷アパート1階2号室のアジトは、梯らが5月になってからつかいだしたばかりで、われわれに知られていないと信じて疑わず安心してぐっすりとねこんでいたというわけである。わが部隊は、一挙せん滅のチャンス到来に意気あがり、正面から堂々と突入、怒りの革命的鉄槌をうちおろしたのである。(中略)わが部隊は全員無事帰還した」。

【中核派の革マル派テロ】
 5.12日、中核派が、革マル派の日大JAC隊長撃沈。

【中核派の革マル派テロ】
 5.13日、中核派が、法政大で革マル派のレポ1名粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 5.14日午後0時15分ごろ、中核派が、金沢大学教養部校舎南側道路北端付近で、革マル派の金沢大5・15上京団集会襲撃した。「5名殲滅」とあるが、中核系の学生3名が負傷し2名が逮捕されている。

【中核派の革マル派テロ】
 5.16日、中核派が、革マル派の日本油脂サブキャップ殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.19日、中核派が、法政大で革マル派のJAC60名の襲撃に逆襲。法政大川崎分校でビラまき中4名殲滅、隊長徹底殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.20日、中核派が、革マル派の横浜国立大JAC1名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.21日、中核派が、革マル派の江戸川区役所職員を殲滅。全学連関西共闘議長ら3名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.22日、中核派が、革マル派の全逓西北地区重要幹部殲滅。

【マル青同の一般学生轢死】
 5.25日、「岡山大学の大沢真殺人事件」。岡山大で、マル青同がマイクロバス突入によりノンセクトの岡山大生(18歳)を轢死殺害。

【中核派の革マル派テロ】
 5.28日、中核派が、法政大で革マル派のJAC100名の襲撃を爆砕。神奈川JAC最高幹部ら2名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 5.31日、中核派が、東京で集会帰りの革マル派20名粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 6.3日、中核派が、革マル派の横浜国立大1名、西南ブロック最高幹部ら3名撃沈。

【中核派対革マル派の大阪市立大教養学部前集団会戦】
 6.4日、「大阪経済大生等内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、大阪市立大教養学部前で、革マル派35名の集会中、鉄パイプを持って10数名が乱入、革マル派の元大阪経大2部革マル派副委員長・碓井規義(25歳)、藤井陽一、米田真章の3名が死亡した。(革マル派18~20人目の死者となった) 4名が重傷。逮捕者は5名、うち女性4名だった。

【中核派の革マル派テロ】
 6.7日、中核派が、大阪産業大の革マル派シンパの一般学生(軍事責任者ともある)・小野正裕(武司)を虐殺、とある。浜国立大生を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 6.10日、中核派が、東大で革マル派の東京大幹部を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 6.18日、中核派が、大阪経済大自治会書記長を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 6.18日、中核派が、革マル派の法政大会戦JAC60名を完全粉砕。千葉大最高幹部ら1名を徹底殲滅。中国地方委を徹底殲滅。大阪経済JAC幹部4名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 6.19日、「東京郵便局員内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、東京・品川区の路上で、革マル派の郵便局員全逓労働者・藤盛広之(22歳)を衆人環視の下で鉄パイプで殴打、虐殺した。本人が自宅から出勤しようとした際に襲撃された事件で、通勤のために駐車中の自己所有のオートバイに近づいたところをやられた。(革マル派21人目の死者)
 6.16日付の「前進」に「白色襲撃の手引き者、高輪の金綱と残り少ないとりまき山本、藤盛は覚悟しておくがいい」と予告していた。

【中核派の革マル派テロ】
 6.20日、中核派が、横浜国立大で革マル派のJAC8名粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 6.21日、中核派が、東京・品川区の路上で、革マル派の郵便局員全逓労働者・蒲田藤盛(22歳)を衆人環視の下で虐殺。革マル派21人目の死者となる。

【中核派の革マル派テロ】
 6.24日、中核派が、革マル派の解放社を襲撃。

【革マル派の革労協反帝学評(青解派)テロ】
 6.24日、「静岡別荘内ゲバ殺人事件/革マル派-革労協反帝学評(青解派)」。革マル派が、静岡県伊東市内の宇佐美「緑の村」にある歌手・加藤登紀子の別荘に泊まって武闘訓練をしていたとみられる反帝学評を襲撃。元九大生で革労協福岡県委員会のリーダー、石井真作(26歳)が死亡、9名が重軽傷。狭間嘉明が瀕死の重傷を負う(狭間の口元に手をあててきたので、咄嗟に息を止めたとの事)。加藤夫妻は「無関係」と記者会見を開いた。正午、革マル派の上位組織の解放社が「防衛のために反撃した」と声明。

【中核派の革マル派テロ】
 6.26日、中核派が、革マル派の横浜国立大サブキャップを徹底殲滅。愛知大でビラまき中東海JAC10名粉砕、1名殲滅。

【中核派対革マル派の法大構内集団会戦】
 6.26日、法大構内でヘルメット姿の両派約100名が鉄パイプ、旗竿で乱闘。機動隊が導入され、97名が逮捕された。負傷者は機動隊に保護された。

【革マル派関連】
 6.27日、「革共同両派への提言-内ゲバ終結を訴える」(「6・27提言」)による内ゲバの停止声明が出される。埴谷雄高、対馬忠行、藤本進治、色川大吉、井上光晴、もののべながおきら12名の発起人、11名の賛同人による。革マル派の随伴文化人高知聡氏の働きかけが大きかった。革マル派は声明「左翼知識人諸氏の決起を評価し権力の暴虐に共に闘うことを訴える」を発表、 前向きだったのに対して、中核派は「100%拒否」を声明。 「検証内ゲバ」は次のように記している。(「別章2」に記す)
 「この提言に対し、革マル派は一部については不満を述べるものの、『我々の巨大な勝利を画するもの』と大きく評価し、一大キャンペーンに乗り出した。だが中核派は『怒りを込めてきっばりと拒否する』として、提言を弾劾する声明を発表した」。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 6.27日、革労協反帝学評(青解派)十数名が、東大教養学部生協食堂前で情宣活動中の革マル派東大生(22歳)を鉄パイプ等で殴打し、同日死亡した。殺害された学生は後の仏文学者石田英敬の駒場寮同室。石田英敬は、この2年前に目の前でやはり革マル派の友人を殺害されている。「石田は私の知らなかったいくつかの事実を教えてくれた。駒場寮では同室にもう一人、梅田順彦という学生がいたが、彼もまた1975年10月に大学の学生会館の前で社青同の手で頭蓋骨を割られ、惨殺されたこと」(四方田犬彦 2009)。後に劇作家となる野田秀樹はこの事件を至近距離で目撃しており、後の NODA・MAP 「贋作・罪と罰」などに大きな影響を与えている。

【中核派の革マル派テロ】
 6.28日、中核派が、革マル派の東京西南JAC4名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 6.30日、中核派が、東京外語大でビラまき中応援の革マル派のJAC20名撃破。3名殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 7.1日、東京・北区の東京外国語大学の1号館1階廊下で、革マル派の学生が、女性1人を含む数人の学生に囲まれ、鉄パイプで殴られ、全治1か月の怪我を負った。襲撃した男女は生協門から逃走した。置きビラ中の東京西南JAC1名殲滅。大阪市立大で40名粉砕。関西JAC殲滅。

【革マル派関連】
 7.2日、中核派を殺人罪で告訴・告発。同日、革マル派は声明「左翼知識人諸氏の決起を評価し権力の暴虐に共に闘うことを訴える」を発表。

【中核派の革マル派テロ】
 7.3日、港区芝公園の区営グラウンドで野球をしていた都営地下鉄車掌(当時28歳)が、突然4人組の男に鉄パイプでメッタ打ちにされ重傷を負う(東交幹部を殲滅)。この車掌は革マル派のシンパで、現場に残された鉄パイプは中核派のものだった。

【中核派の革マル派テロ】
 7.4日、中核派が、革マル派の国学院大JAC幹部ら3名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 7.5日、千代田区神田駿河台の中央大学二号館前中庭で、学生2人がビラを配っていたところ、鉄パイプを持った8名に殴られた。この乱闘で、ビラ配付の1人が頭を殴られ重態(中央大で中央大JAC隊長を徹底殲滅)。襲ったグループは全員スーツ姿だった。金沢大JAC幹部3名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 7.8日、中核派が、革マル派の広島で中央JAC2名殲滅。1名重体。

【中核派対革マル派の上智大学構内集団会戦】
  7.9日、千代田区紀尾井町の上智大学構内で、革マル派系の学生約30名が機関紙を配ったり演説をしていたところ、約15名が鉄パイプで殴りかかった。この乱闘で3人が重軽傷を負った。中核派は「上智大で中部千葉ブロック軍団の15名粉砕2名殲滅」、革マル派は「智大で襲撃隊7名粉砕3名鉄槌」と主張。大阪教労他2名を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 7.11日、中核派が、革マル派の科学技術省職員を殲滅。3ヶ月の重傷。

【革マル派の中核派テロ】
 7.11日午後0時10分頃、早稲田大戦争。新宿区西早稲田の早稲田大学の13号館(生協)と14号館(社会科学部)の通路付近で、学生と見られる3名が負傷して倒れているのが発見され病院に運ばれた。1人が意識不明の重態。目撃者の話によると、鉄パイプを持ったグループがあらわれ、乱闘をおこない逃走したという。さらにこの直後、10号館付近でも学生同士の乱闘事件が発生している。警視庁公安部と戸塚署は革マル派による中核派襲撃と断定した。革マル派は「襲撃部隊30名を先制的粉砕」と主張。

【中核派の革マル派テロ】
 7.14日、中核派が、革マル派の全学連大会帰路の国学院大ゲバ隊長ら4名を撃沈。東海教労委議長撃沈。

 7.15日午前8時20分頃、東京・小金井市本町の小金井公会堂2階ドア付近に、茶色の紙に包まれた不審物があるのを用務員の女性が見つけ、出勤してきた責任者に知らせた。通報を受けた小金井署員が駆けつけ、不審物を公会堂南側の空地に移し、警視庁爆弾処理班に出動を要請、様子を見ていたところ9時23分に爆発した。付近には鉄クギなどが飛んだが、怪我人は出なかった。公会堂では、この日の朝に革マル派全学連の第38回全国大会が開かれることになっており、爆弾の時限装置はこの時間にセットされていたらしい。内ゲバに爆発物が使われたのは初めてだった。


【中核派の革マル派テロ】
 7.17日、中核派が、革マル派の広島県委員長を4度目の殲滅。

【中核派対革マル派の新橋駅集団会戦】
 7.17日、新橋駅内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派。中核派と革マル派が新橋駅ホームで会戦。皇太子夫妻の沖縄訪問に反対して国電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派約400名、中核派の約400名が、新橋駅山手線内回りホームで衝突。投石などを行い、同駅を通る京浜東北線など各線がストップした。この衝突で革マル派の立命館大経済学部の甲斐栄一郎(20歳)が死亡、革マル22人目の死者となる。44名が重軽傷。321名(うち女性53名)が逮捕される。
 中核派の機関紙「前進744号」は、「空前の大勝利、カクマル反革命本隊350名を完全にせん滅、ついに爆発した中核派魂」という見出しで「ファシストの墓場と化す駅構内」、「JACを死の谷」へ等々と報じている。玉川信明編著「内ゲバに見る警備公安警察の犯罪」は次のように記している。
 「全学連の仲間を大量逮捕し全学連を組織的に壊滅させることを目的として、警察権力が一から十まで周到に計画し、瀕死のウジ虫=中核派や、さらには右翼・ヤクザゴロツキ分子などを総動員しつつ、大がかりに仕組んだ空前の大謀略」。

【革マル派関連】
 7.21日、埴谷雄高氏らが「革共同両派への提言」に続いて再提言「殺しを止めよ」が出される。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 7月、革労協反帝学評(青解派)が福教大革マルせん滅。「総攻勢の狼煙をあげる」。

【中核派の革マル派テロ】
 7.22日、静岡県下田市の路上を歩いていた東京・昭島市の小学校職員の男性(当時34歳)が、3人組に鉄パイプで襲われ、重傷を負った。この男性は研修旅行中で、以前にも内ゲバ事件で襲われたことがあった。「教労幹部を徹底殲滅。3ヶ月の重傷」。電通社員を殲滅。

【中核派の革マル派テロ】
 9.4日、中核派活動家が、 横須賀緑荘アジトで爆弾製造中に誤爆。中核派活動家3名と同アパート住人2名(24歳の主婦、3歳の幼児)を巻き込み5名が死亡する。

【中核派の革マル派テロ】
 9.12日、「埼玉国学院生/田中玲彦内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、革マル派の国学院大生田中玲彦(21歳)を帰宅途中に鉄パイプで殴打、虐殺。
 「*.**日付け前進」が「断末魔のカクマルに容赦なき猛攻撃 国学院田中を完全殱滅」の見出しで次のように報じている。

 9月、二審判決で無期懲役を言い渡した東京高裁の寺尾判事が車で出勤途中に過激派と見られる5人組にバットで襲われて負傷するという事件が起こっている。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 10.8(4?)日、「立正大内ゲバ殺人事件/革労協反帝学評(青解派)-革マル派」。革労協反帝学評(青解派)が、「静岡別荘内ゲバ殺人事件/革マル派-革労協反帝学評(青解派)」の報復として革マル派の立正大生・秋本雅治(21歳) が立正大構内で情宣中に鉄パイプで殴打、火炎瓶を投てき、虐殺。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 10.27日、「東京大内ゲバ殺人事件/革労協反帝学評(青解派)-革マル派)」。東京大学教養学部構内で発生いたしました梅田順彦殺人事件。

【革マル派の中核派テロ】
 10.27日、 革マル派が千葉県下の中核派「中央武装勢力」の調査=出撃拠点四方所を一挙に壊滅し、入手した資料を暴露する。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 11・9日、反帝学評(青解派)の女性同志が、東京女子大革マルを構内奥深くで捕捉・せん滅。

【中核派の革マル派テロ】
 12.14日、「金沢大生内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が、革マル派の金沢大生・関谷隆(25歳)をアパートで就寝中に鉄パイプ・バール等で殴打、虐殺。

【革マル派の中核派テロ】
 12.14日、 革マル派が中核派「中央武装勢力」官僚・大島忠一らを捕捉し極秘資料を入手。翌15日に台東区入谷の調査=出撃拠点を摘発。スト権スト最中の全逓労働者襲撃計画が判明。

 機関紙「解放」。「この一瞬をとらえ、待機していたわが戦士たちは一挙に大沢目がけて突進した。泡をくった大沢は、うろたえながら助けを求める。だが十全の体制をとって待ち構えていたわが部隊の存在にすら気づかない防衛隊に何ができよう。大沢がタックルされ、叩き伏せられるのを眼のあたりにして「カクマルだあー、110番だ、110番だ、すぐ電話しろ!」と叫び、悲鳴をあげながらつんのめりうろたえる防衛隊を、わが戦士たちは大沢もろとも粉砕しさったのである」。


【中核派の革マル派テロ】
 12.20日、中核派が全逓の革マル/金綱新二郎を襲撃する。
 「前進」が、「全逓高輪金綱に鉄槌」の見出しのもとに次のように報じている。
 「わが革命派は捕捉した獲物をむざむざ逃がすほど甘くはない。よたつきながら逃げようとする金綱のえり首をつかみ、骨も砕けよとばかり鉄槌をふりおろしたのである。(中略)この憎むべき反革命分子の両手、両足、そして全身に、怒りをこめた鉄パイプの乱打をあびせかけ、血の海に沈めたのである」。

 【1975(昭和50)年】 
 この年の内ゲバは全国で229件と前年に引き続いて多発した。中核派による革マル派幹部H殺害事件(3月6日・東京)、革マル派による前進派書記長I殺害事件(3月14日・埼玉)を契機に、中核、革マ ル両派の激しい報復戦的内ゲバ事件が相次いだ。内ゲバ殺人事件が年間で16件(死者20名)と多発し、前年の10件(死者11名)を大きく上回った。内ゲバ事件をセクト別にみると、中核派対革マル派の抗争が162件(88.0%)と圧倒的に多く、殺人事件についても、12件、16名と両派の抗争によるものが最も多い。こうしたなかで、中核派が昭和50年2月から、「産別全面戦争」と称して全逓、日教組、自治労等の革マル派労働者に攻撃を指向したことが注目される。

 9.4日、中核派活動家が横須賀緑荘アジトで爆弾を製造しているところ、誤って爆発させ、同アパート住人2名が死亡(中核派活動家も3名死亡)した(「横須賀緑荘誤爆事件」)。

 【1976(昭和51)年】 
 この年の内ゲバ発生件数は全国で91件、死者3名、負傷者192名、検挙152名となった。中核派対革マル派が46件(50.5%)とその半数以上を占め、2件の殺人事件も、この両セクト間で行われたものであった。主要セクトは、「人民革命軍・武装遊撃隊」(中核派)、「特別行動隊」(革マル派)、「プロレタリア統一戦線戦闘団」(革労協)等の非公然軍事組織を持ち、これがいわゆる「内ゲバ」部隊の中軸となって組織的、計画的に内ゲバを敢行している。

【中核派の革マル派テロ】
 1.13日、 中核派が、 横浜国立大から下校途中の学生を襲撃する。一遇間後に中核派が追認。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 1.13日、革労協反帝学評(青解派)が、横浜市立大構内で学生を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 2.6日、中核派が、 革マル派の大東文化大生を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 2.12日、中核派が、 革マル派の都教組南多摩支部組合員を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 2.13日、中核派が、 革マル派の三菱原子力工業の労働者を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 2.26日、中核派が、広島で 革マル派の女性自治体労働者を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 2.28 日、中核派が、仙台市の郵政アパートの革マル派の郵便局員方に侵入、寝室で寝ていた郵便局員、妻、長男(当時2歳)を鉄パイプで殴り、重軽傷を負わせた。あらかじめフキンの電話線を切断し、折りたたみ式ハシゴでベランダから侵入していた。

【革マル派の中核派テロ】
 2月、「所沢の内ゲバ殺人事件/革マル派-中核派」。所沢市の喫茶店にいた中核派系活動家が襲われて1人が死亡。後日、革マル派系の機関紙で襲撃状況が詳報された。この事件に関連して「女性活動家に逮捕状」(朝日新聞1976.4.2日夕刊3版11面)。

【中核派の革マル派テロ】
 3.4日、中核派が、革マル派の全金大阪地本書記を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 3.11日、中核派が、革マル派の愛知県教育労者を襲撃する。

【中核派の革マル派テロ】
 3.12日、中核派が、革マル派の東京国分寺市職員を襲撃する。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 3.19日、革労協反帝学評(青解派)が、総評青年協集会で青解派が動労青年部を武装襲撃。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 5.21日、革労協反帝学評(青解派)が、大東文化大文連本部を襲撃し、学生4名が負傷(うち一名は一時危焉)。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 5.29日、革労協反帝学評(青解派)が、福岡教育大で集会中の学生を襲撃。

【中核派の革マル派テロ】
 6.3日、中核派が、大阪守口市で学生2名を襲撃。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 6.3日、革労協反帝学評(青解派)が、上智大で情宣中の学生15名を襲撃。

【中核派の革マル派テロ】
 6.11日、中核派が、世田各区内の路上で横国大にむかう全学連学生の車を襲撃。

【革マル派の革労協反帝学評(青解派)テロ】
 6・27日、革マル派が、革労協反帝学評(青解派)の自治体・教育労働者に対する白色襲撃を凶行した。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 10.27日、革労協反帝学評(青解派)が、革マル派東大生(22歳)を東京で殺害。

【中核派の革マル派テロ】
 12.5日、「山口県防府市内襲撃事件/中核派-革マル派」。山口県防府市で、中核派による革マル派襲撃事件が発生している。革マル派は、「犯人は山口県警の現職警察官」と宣伝し、大々的に「権力謀略論」を展開している。

 【1977(昭和52)年】
 この年の内ゲバは、全国で41件発生し、死者10名、負傷者47名。これは1969(昭和44)年以来最低を示した1976(昭和51)の発生91件、死者3名、負傷者192名に比べ、発生件数及び負傷者数で更に大幅に減少し、これまでの最低となった。しかし、このような内ゲバの総体的な減少のなかで、殺人事件による死者は、前年の3名に比べ10名と逆に増加した。内ゲバ事件をセクト別に分析すると、革マル派対中核派が14件(34.1%)、革マル派対革労協が10件(24.4%)であり、この33セクトで全体の半数以上(58.5%)を占め、殺人事件もこの3セクトの間で発生している。内ゲバセクトは、「糾察隊」(中核派)、「特別行動隊」(革マル派)、「プロレタリア統一戦線戦闘団」(革労協)等の訓練された非公然軍事部門を擁し、これらが中心となって組織的、計画的に内ゲバを敢行している。
 1977年、北小路敏が、三里塚開港阻止の決戦を反対同盟・戸村一作委員長とともに闘う。動労千葉のジェット燃料輸送阻止闘争を全力で支援し、ともに闘う。

【革マル派関連】
 1.6日、「水本事件」」。千葉県下の江戸川で革マル派活動家の日大生・水本潔氏が水死体で発見されている。革マル派はこれを「権力による謀殺、死体スリカエ事件」と大々的に喧伝している。(れんだいこサイト「革マル派系活動家・水本潔(日本大学生)変死事件考」)

【革マル派の革労協反帝学評(青解派)テロ/革労協反帝学評(青解派)最高指導者・中原一虐殺】
 2.11日、「革労協書記長内ゲバ殺人事件/革マル派-革労協反帝学評(青解派)」。革労協反帝学評(青解派)書記局長で筆頭総務委員の「中原一」こと笠原正義が、茨城県取手駅付近で車に乗っていたところを、乗用車に挟み撃ちにされ、革マル派6名に鉄パイプで頭などをメッタ打ちにされて死亡した。
 
 革マル派のコメントは次の通り。
 「革労協の最高責任者である中原一に対して、革命的鉄ついを下した。これはあくまでも、われわれ労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的闘いである」。

 革マル派の機関紙「解放」(77.2.21日付け)は次のように報じている。
 「中原一派の盲動を未然に粉砕」の見出しで、「『人殺し、助けてくれ』という消え入りそうな萎えきった声がお前の最後の言葉となった」。

 最高指導者を殺された社青同解放派の怒りは凄まじく、「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と声明し、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の全面に踊り出て、中核派に代わって「対革マル」の前線に立つことになった。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 3・7日、革労協反帝学評(青解派)が早稲田大マル同渡辺殲滅。「2・11報復戦に敢然と決起」。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 3・9日、革労協反帝学評(青解派)が九州大革マル菊池せん滅。「2・11報復戦に敢然と決起」。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 4.15日、「浦和車両放火内ゲバ殺人事件/革労協反帝学評(青解派)-革マル派」。革労協反帝学評(青解派)が、埼玉県戸田市の機関紙印刷所「こだま印刷」を出発した革マル派のワゴン車を浦和市内の新興住宅街で挟み撃ち襲撃(走行中に前方の空き地に停まっていた大型トラックが進路をふさぐように飛び出してきて、さらに後方から追尾していた幌付トラックが追突し、2台に挟まれるように停車させられた)し、車から飛び出してきたヘルメットに覆面姿の約10人は、鉄パイプやツルハシでワゴン車を乱打し、ワゴン車は鉄板や金網が張られた装甲車のようなものだった為、ドアを変形させて中から開けられないようにしてからガソリンを流し込んで放火し、車が炎上するのを確認した犯人は幌付トラックの後方にあった車で逃走した。これにより、革マル政治組織局(POB)常任(実質的書記長、黒田につぐ革マル中枢のナンバー2)・藤原隆義(34歳)、「こだま印刷」指導者関口誠司、防衛隊の金沢大革マル伊東亘、岐阜大革マル伊藤修の4名が全員焼死した。犯人の作業衣や凶器などは翌日に市内の荒川土手で、逃走に使った車は朝霞市内の路上で17日夜に発見された。4.16日、革マル派は事件の存在を明らかにし、死亡した構成員の氏名を公表した。解放派の革マル派反撃テロ第一弾となった。
 4.17日、革労協活動家が犯行声明を出す。成田空港問題の集会で犯行を自認するビラを配布している。
 「革マル政治局員藤原隆義ら4人を打倒!2.11中原同志暗殺に対する怒りの革命的テロル炸裂!更に、すさまじい革命的テロルの猛攻を黒田ら反革命頭目の頭上に」。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 5・13日、革労協反帝学評(青解派)が、革マル東北地方委議長城の完全打倒。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 5・30日、革労協反帝学評(青解派)が、独協大革マルせん滅。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 7・4日、革労協反帝学評(青解派)が、千葉大マル同―学生革マル中枢矢萩完全打倒。

【中核派の革マル派テロ】
 9.12日、中核派が、革マル派の国学院大サークル員・田中玲彦が自宅付近で虐殺する。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 10.8日、革労協反帝学評(青解派)が、革マル派の立正大生・秋本雅治を、大学構内で火炎ビンを用いて虐殺する。

【革マル派の中核派テロ】
 10.27日、革マル派が、千葉県下の中核派「中央武装勢力」の調査=出撃拠点四方所を一挙に壊滅し、入手した資料を暴露。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 10.27日、革労協反帝学評(青解派)が、革マル派の東大生梅田順彦を駒場構内で虐殺する。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 12・9日、革労協反帝学評(青解派)が、東京大革マル兵頭を完全打倒。

  【1978(昭和53)年】
 この年の内ゲバ事件は、全国で32件、死者7名、負傷者45名、検挙31名であり、前年(発生41件、死者10名人、負傷者47名)に比べ件数、死傷者ともそれぞれ減少し、これまでの最低となった。革マル派対中核派が12件(37.5%)、革マル派対革労協が8件(25%)と、この3セクトで全体の半数以上(62.5%)を占めている。の未然防止に努めている。
 1978年、車両基地に停車していた京成電鉄のスカイライナーAE型に時限発火装置を仕掛けて全焼させるテロ事件を起こす(京成スカイライナー放火事件)。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 革労協反帝学評(青解派)は、「2.11反革命一周年決戦へ全党全軍総決起」をうたう。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 1.27日、「水戸市、勝田市内ゲバ殺人事件/革労協反帝学評(青解派)-革マル派」。解放派は、勝田市.水戸市などの茨城県下で同時多発的に革マル派のアジト4箇所を襲撃、中武、古橋、高井の3名を殺害、中島、嶋野、堀切3名に重症を負わせた。

【中核派が大阪、神戸、岡山、鳥取で同時多発ゲリラ】
 9.2-3日、中核派が大阪、神戸、岡山、鳥取で同時多発ゲリラ。

 9月、革マル派の動労中央本部教育宣伝部長・小谷昌幸氏がテロられ重傷。

 【1979(昭和54)年】
 1978年以降、党派間ゲバは中核、解放両派の革マル派への熾烈な復讐戦として、一方的に、革マル派の死者が増加する。が、81年以降、次第にそれも減少の方向に向かってきた。それまでの死者の合計80人のうち中核派による革マル派の殺害43名、解放派の革マル派殺害22名、革マル派の中核、解放両派殺害14名、その他1名である。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 1.27日、革労協反帝学評(青解派)が、茨城県下の勝田市、水戸市などで革マル派3名を殺害し、3名に重傷を負わせた。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 3・16日、革労協反帝学評(青解派)が、革マル派のこぶし書房防衛隊/角田を完全打倒。

【中核派関連】
 3月、動労千葉が動労本部から分離独立。北小路敏が、動労千葉の分離・独立に際し、動労本部カクマルの襲撃から動労千葉を防衛するために闘う。

【革マル派-革労協反帝学評(青解派)が「全国青年労働者層決起集会」会場で集団会戦】
 4.11日、革マル派280名と革労協反帝学評(青解派)260名が、総評主催の「全国青年労働者層決起集会」会場でゲバルト。4・11総評青年協集会でのエセ「全学連」部隊の敵対を粉砕。

【中核派の革マル派テロ】
 5月、「津市内内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。中核派が革マル派襲撃。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 6.9日、革労協反帝学評(青解派)が、専修大革マル大岡・越塚を完全打倒し3名を重せん滅。

【革マル派関連】
 11.21日、革マル派が、東京、神奈川の革労協反帝学評(青解派)アジト3箇所を襲撃。「果敢な反撃で撃退したとはいえ、権力と革マルとの結託を物語るように、襲撃された側が逆に凶器準備集合罪で弾圧された」。

【革労協反帝学評(青解派)の革マル派テロ】
 11.16日、「新宿区外苑東通り路上内ゲバ殺人事件/革労協反帝学評(青解派)-革マル派」。午後7時10分頃、新宿区愛住町の外苑東通り路上で、若い男2名が10数人のグループに取り囲まれ、大型ハンマーや鉄パイプで全身メッタ打ちにされ、1人が死亡、もう1人も翌日病院で亡くなった。襲ったグループはトラックで逃走、トラックは2km離れた新宿6丁目(丸の内線四谷3丁目)に乗り捨てられていた。これは10月に横浜市内で盗まれた車両だった。死亡したのは横浜国大教育学部・佐藤修平(26歳)、北大生・小林智(26歳)、所持品などから革マル派の活動家と判明した。

【革マル派の革労協反帝学評(青解派)テロ】
 11.21日、革マル派による3件の内ゲバ事件があった。午前4時40分頃、藤沢市大鋸のアパートで、学生2人が黒ヘルをかぶった11人の男に襲われ大怪我。寝こみを襲われたもので、逃げようとして下着姿のまま階段や庭先に倒れていた。また同じ時刻、平塚市南原で、8人の男がはしごをかけてビルに侵入し、中にいた人をメッタ打ちにした。そして午前7時過ぎ、八王子市椚田町でも2人が重傷を負う事件があった。この一連の事件で、革マル派は「革労協の軍事アジトを摘発した」という声明を出した。

【革マル派の革労協反帝学評(青解派)テロ】
 12・10日、革マル派が、関西大において「障害者」に対する差別主義白色テロを凶行した。

1980年代

  【1980(昭和55)年】
 革マル派との内ゲバも、80年代に入ると国鉄分割民営化をめぐる対立で動労幹部などを殺害するなど激しく続いた。
 中核派は、80年代に入ってテロ・ゲリラにその活路を見出していくようになった。同派はこれまでに、建設省(現・国土交通省)幹部宅や新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)職員宅などに対する放火・放火未遂ゲリラ事件、自由民主党本部や鉄道施設などを狙った火炎瓶や火炎放射器を用いた放火ゲリラ事件などを引き起こしている。
 この年の内ゲバ事件は、発生件数15件、死者8名、負傷者32名、検挙16名で、前年(発生件数22件、死者8名、負傷者32名)に比べると、件数は7件減少、死者、負傷者は変わらなかった。内ゲバ事件をセクト別にみると、中核派が革マル派を攻撃したとする事件が5件、革労協が革マル派を攻撃したとする事件が5件で、これらが全体の3分の2を占めている。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 1.7 日、駒場の東大教養学部、北寮の一室で、寮生10人が懲罰委員会を開いていたが、革労協反帝学評(青解派)と見られる12、3人の学生が室内と廊下にいた計100人に殴りかかり、11人が負傷した。襲った学生は逃げたが、うち3人は逮捕された。大学の拠点化をめぐり、対立セクトの革マル派とにらみ合う反帝学評は、前年末、他大学の学生を呼ぶなどして、東大の一部を占拠し立てこもった。このことで、寮生から「不法占拠だ」との批判を浴び、反帝学評を懲罰にかけることとなった。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 2.5日、文京区向ヶ丘のアパートで、この部屋の東大文学部4年の男性(当時24歳)が寝ていたところ、ヘルメットをかぶった4人組の男が窓ガラスを割って押し入ってきた。男性は鉄パイプで全身を殴られ重傷、一緒にいた女友達(当時21歳)も頭に大怪我を負った。男性は革マル派の集会に出たことがあった。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 2・15政治集会の当日に東京大革マル箕田の重撃沈。

【革マル派関連】
 80年3月、革マルが党派闘争の「完勝宣言」開陳。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 5.5日、「千葉県旅館「権兵衛」内ゲバ殺人事件/革労協-革マル派もしくは誤認」。千葉県安房の旅館「権兵衛」で、西洋史研究会の合宿中、「トミオカはいるか」と入ってきた6人の男におそわれ、助教授が死亡、学生2人が重傷、1人が軽傷。メンバーの17人に「トミオカ」という名字の人はおらず、また死亡した助教授も東大在学中に学生運動をしていたことはあったが、近頃はどのセクトにも繋がりを持っていなかった。革労協は「革マルの秘密メンバーを殲滅」という声明。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 5月攻勢―東西2連打。5・5日、「非常任POB」桑原完全打倒―駒澤大「特行」10余名を粉砕。5・27日、大経大Ⅱ部学友会委員長3浦を重撃沈。

【革マル派が革労協反帝学評(青解派)テロ】
 7・3日、革マル派が革労協反帝学評(青解派)労働者テロ。

【中核派が革マル派テロ】
 7.20日、「練馬区郵便局員内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派」。夜、練馬区高野台の路上で、豊島郵便局に勤める男性F(37歳)が、覆面の7、8人の男に鉄パイプで殴られ、28日に病院で死亡した。中核派の「革マルの活動家を殲滅した」という声明があった。

【中核派が革マル派テロ】
 9月、動労中央本部教育宣伝部長・小谷昌幸氏がテロられ重傷。

【革労協反帝学評(青解派)関連】
 9.15日、かねてから党内闘争が継続されていたが、ついにこの日三里塚において狭間に与するグループが滝口に与するグループを武装襲撃。これによって、革労協反帝学評(青解派)の組織的分裂が決定的となる。この後も狭間派は後の解放派全協に結集する活動家に対して武装襲撃を繰り返し、拉致・監禁という事態も発生し、負傷者まで出した。

【革労協反帝学評(青解派)関連】
 9月、「革労協による東成区路上内ゲバ事件」。盗難車両を使って相手車両を前後からはさみ撃ちにして停車させた上、鉄パイプの先端に出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃した。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 9.22日、動労本部革マル小谷の頭上に炸裂。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 9.25日、関西全金革マル吉岡の頭上に炸裂。

【中核派が革マル派テロ】
 10.30日午前10時45分頃、中核派が、大田区南千束の区立洗足池図書館前の路上で、革マル派の5名(元千葉大生・渡辺28歳、元明大生・益田30歳、元東工大生・清水29歳、元明大生・深山29歳、東工大生の楠24歳)を襲撃し虐殺した(大田区南千束路上内ゲバ殺人事件/中核派-革マル派)。69年から続く内ゲバ事件で80人目の被害者。1度の内ゲバで5人が死亡というのは最多であった。襲ったのは7、8人のグループ。白ヘルに黒マスクで、作業着やジーンズなどを身に着けていた。あらかじめ現場付近の電話線が切断され、警官が来る前に二台のトラック(盗難車)に分乗して逃走したという。事件について、中核派は、「我が革命軍は…カクマルジャックの集団を捕捉し…壊滅的打撃を与えた」、「5人は3・14本多書記長殺害の下手人である。反革命革マル派に対しては、さらに第二、第三の”10・30”を敢行する」などと犯行声明した。翌年に中核派活動家が指名手配されたが時効が成立した。指名手配された男とその母親が、「えん罪だったのに潜伏生活を強いられた」と都に損害賠償を求める訴訟を起こし、2004.3月に東京地裁で300万円を支払いを命じる判決が下されたが、2005.10月の二審では一審を破棄、請求を棄却している。

【革労協反帝学評(青解派)関連】
 10.30日、革労協が、10.31狭山集会の前段闘争で検察庁合同庁舎へ火炎放射器でゲリラ攻撃。

【中核派関連/上口孝夫が試練派立ち上げ】
 1980年、対革マル戦争を担いロンドンに亡命していた上口孝夫が帰国し、正統本多派と称して「『勝利に向っての試練』編集委員会」(試練派)を立ち上げ、中核派から分裂する。(後に試練派は1983年、第四インターに近づくが失敗し、86年に「第四インターナショナル・ボルシェヴィキ派(準備委員会)」(ボル派)を結成し、機関誌『ボルシェヴィキ』を創刊した) 

  【1981(昭和56)年】
 1981年、日帝の三里塚二期開港攻撃と国鉄分割・民営化攻撃の切迫にたいして、革共同は先制的内戦戦略フェーズⅡ(第2段階)への転換をもって対権力闘争の飛躍をかちとっていった。国鉄・三里塚決戦に全面的に突入。
 この年の内ゲバ事件は、発生件数9件、死者2名、負傷者6名、検挙20名で、前年に比べ発生件数は6件、死者は6名、負傷者は26名それぞれ減少した。内ゲバ事件をセクト別にみると、中核派が革マル派を攻撃したとする事件が3件、革労協が革マル派を攻撃したとする事件が1件、革労協の組織分裂に伴う内ゲバが4件それぞれ発生し、これらが全体の5分の4以上を占めている。

 6.8日、地下軍事組織である「人民革命軍」が、火炎放射器で霞が関中央合同庁舎第3号館(運輸省、建設省)を襲撃。外壁を焼き、1階から8階までの窓やブラインドを破壊する。

【革労協反帝学評(青解派)関連】
 6月、革労協では77年に書記長を殺害されてから「徹底報復を主張する軍事路線の狭間嘉明らの学生活動家出身グループ「狭間派」と、大衆闘争・労働運動を重視する佐々木慶明率いる労働者グループ「反狭間派」(滝口弘人、高見圭司ら。後の革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会、通称解放派全協)が対立していたが、この頃分裂した。分裂を機に解放派社青同は事実上機能を停止する。三里塚闘争で、狭間派は反対同盟・北原派を、労対派は反対同盟・熱田派を支援する。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 7.11日、「革労協による渋谷区本町内ゲバ殺人事件」。革労協反帝学評(青解派)が國學院大革マル「特行」高橋殲滅。綿密、周到な事前調査の後、被害者が居住するアパート付近の電話線を切断の上、被害者の居室のドアや窓を破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部、顔面等を鉄パイプで乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。

 【1982(昭和57)年】
 この年の内ゲバ事件の発生件数は6件、死者数は1名、負傷者数は7名、検挙7名であった。これをセクト別にみると、中核派が革マル派を攻撃したとする事件が2件、革労協が革マル派を攻撃したとする事件が1件、革労協の組織分裂に伴う事件が2件、その他が1件となっている。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 2.24日、「2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件/革労協-革マル派」。革労協が革マル派の國學院「特行」荻原1名を殺害。事前に調査した上、付近の電話線を切断した後、ドアを破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部を鉄パイプ様の物で乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。

 【1983(昭和58)年】 
 この年の内ゲバ事件は3件発生したが、昭和44年以来続いていた殺害事件の発生はなかった。中核派が、「成田闘争」の取組をめぐって戦旗派(荒派)と第4インター日本支部に「党派闘争宣言」を発していることなど内ゲバの兆候は増大した。

 3.8日、主に「一坪再共有化運動」の是非をめぐって三里塚・芝山連合空港反対同盟が分裂。1980年代に入ると、三里塚闘争で、「一坪再共有化運動」の是非をめぐって反対同盟内部での対立が激化し反対・賛成両派が分裂した。共有化運動を推進したのは熱田派と呼ばれ、第四インター派らが支持。共有化運動を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対したのは北原派で、中核派・革労協狭間派らが支持した。反対同盟内部の対立はそれぞれの支援党派の対立に発展してゆく。中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定した。

【中核派が成田空港関連のパイプライン敷設工事現場の飯場に放火して労働者2名を焼死】
 6.7日、千葉県四街道市の成田空港関連の航空燃料用パイプライン敷設工事現場の飯場に放火して労働者2名を焼死させている(「東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件」)。このような一般人の巻き添えについて、中核派は未だ一つとして被害者遺族らに謝罪も賠償もしていない。

 【1984(昭和59)年】
 この年の内ゲバ事件は11件発生し、前年の3件を上回ったが、前年に引き続いて殺害事件の発生はなかった。中核派が成田闘争での反目から第4インター日本支部活動家に対して行ったものが多かった。

【中核派が第四インターテロ】
 1984年に入ると、中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定した。これによる第四インターへの内ゲバ事件が全国的に起こる。これは成田空港反対同盟の分裂に関係するもので、中核派は反対同盟北原派ではなく熱田派を支援する第四インターを「脱落派」と決めつけて攻撃したものである。
 1984.1月、全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせる。7月、ふたたび一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃した。一人に片足切断の重傷を負わせる。

 前進紙上でこのテロの「戦果」を発表した際には、襲撃した第四インター派メンバーの本名と職場、そして地番までの住所を掲載した。さらに中核派は、第四インター派のメンバーや「熱田派」所属の空港反対派農家、あるいは「一坪共有者」の自宅や勤務先に押しかけたり、脅迫電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を展開する。

 このテロに対しては激しい批判が集中した。のちに中核派を離脱した小西誠によると中核派組織内においてすら批判的な声は少なくなかったが、指導部の「批判するものは組織を去れ」という統制によって中核派内部の批判が公然化することはなかったという。


【中核派が全国一斉にふたたび三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃】
 7月、全国一斉にふたたび三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃。一人に片足切断の重傷を負わせる。

【中核派関連/自由民主党本部を無人トラック襲撃】
 9.19日、中核派の地下軍事組織である「人民革命軍」が、火炎放射器で自由民主党の本部を無人トラック襲撃。本部ビルの一部を焼失させる(「自由民主党本部放火襲撃事件」)。 実行犯として中核派活動家1人が逮捕されたが、後の裁判で無罪が確定している。1985年頃からは圧力釜爆弾や飛距離数キロメートルに及ぶ迫撃弾も使用するようになった。

 10.1日、佐原市にある成田用水事業の請負業者社長宅を放火(「成田用水工事事業者連続放火事件」)。社長宅のほかに成田空港問題とは無関係の近接した住宅2棟も全焼させた。中核派は未だ被害者遺族らに謝罪も賠償もしていない。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 10.30日朝、マスク、帽子等を着用した革労協反帝学評(青解派)が、JR東日本赤羽駅構内において、出勤途上のJR東日本の職員をハンマーや鉄パイプ等で乱打し、頭がい骨や両足を骨折するなどの重傷を負わせた。目立たない服装で人込みに紛れて逃走した。革労協狭間派が、「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと声明した。

【中核派関連】
 11.27日、中核派が、時限発火装置で千葉県知事、浜田幸一代議士らの事務所攻撃。

 【1985(昭和60)年】
 この年の内ゲバ事件は12件発生し、前年の11件を上回ったが、3年連続して殺害事件の発生はなかった。検挙28名。中核派が「新たな対カクマル10年戦争」を標ぼうしていることや、革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたことから、すべて両派の間で引き起こされ、そのうち4件は革マル派が攻撃したものであった。

【革マル派が中核派テロ】
 2.5日、「和光大事件/革マル派-中核派」。午後2時過ぎ頃、革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じ、和光大学構内で中核派活動家を襲撃。竹竿・鉄パイプ等の凶器を用いて暴行を加え、中核派8人、革マル派1人が負傷した。凶器集合準備・傷害などの罪で逮捕・起訴される。
 兇器準備集合および傷害の罪で逮捕起訴された革マル派被告人A・B・C3名が逮捕手続に違法性があるとして裁判で争っている。第1審は、準現行犯が違法であるなどとして、これによって得られた証拠の証拠能力を否定して無罪としたが、控訴審では、これらの捜査は適法であるとして被告人らを有罪とした。

 1985.10-11月、三里塚二期決戦と国鉄分割・民営化阻止決戦を武装闘争として貫徹した。 北小路敏が、中曽根政権による三里塚二期攻撃の激化と国鉄分割・民営化攻撃に対し、全国の学生・労働者の力を結集して一大決戦を爆発させる。その後も一貫して、日帝の戦争・改憲攻撃との対決、とりわけ三里塚・沖縄闘争と国鉄闘争の前進と勝利のために心血を注ぐ。10月、三里塚2期着工阻止決戦。11月、国鉄分割・民営化反対で動労千葉がスト突入。

 10.20日、 革労協などと共に10.20成田現地闘争。三里塚第一公園での集会後、三里塚交差点付近で、丸太、鉄パイプ、火炎瓶などを武器に機動隊と大規模衝突を起こす。機動隊員数人に重軽傷を負わせたほか、活動家らが多数逮捕される(「10.20成田現地闘争」)。

 11.29日、首都圏・大阪地区の国電運転線区で同時多発的に通信ケーブルを切断。さらに、浅草橋駅を占拠し、放火(「国電同時多発ゲリラ事件」)。以降、街頭実力闘争は行っていない。1985年頃からは圧力釜爆弾や飛距離数キロメートルに及ぶ迫撃弾も使用するようになった。以降、街頭実力闘争は行っていない。

  【1986(昭和61)年】
 この年の内ゲバ事件は9件発生し、前年に比べ3件減少したが、57年以来4年ぶりに内ゲバ殺人事件が2件発生した。警察は、非公然活動家の検挙、非公然アジトの摘発に総力を挙げて取り組み、非公然活動家20人を含む活動家310人を検挙したほか11箇所の非公然アジトを摘発して多数の資料等を押収した。

【革マル派が中核派テロ】
 1.20日白昼、「京都大学教養部構内内ゲバ殺人事件/革マル派-中核派」。京都大学教養部構内でオルグ中だった中核派の全学連副委員長代行・福島慎一郎(25歳)が、一般学生に扮して待ち伏せしていた集団に鉄パイプで頭部を殴られ、脳挫傷等により死亡した。革マル派は「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認した。

 京都大学新聞1986年2月1日号は次のように報じている。
 「1月20日午前10時30分頃、教養部A1号館廊下で教育学部3回生で、中核派の活動家、 福嶋慎一郎さん(25)が、革マル派に襲われ殺害された。福嶋さんはC代大の情宣でクラス入りに向かう途中であった。これに対し、学生からの糾弾の声が上がっている。中核派は、声明を出し「反革命カクマル、この憎しみで余りある日帝・中曽根の手先ファシストどもは、わが中核派のほこる京大生、全学連副委員長代行の福嶋慎一郎同志を虐殺するという、絶対に許すことのできない凶行をおかした。わが、革共同中核派は、満身に燃えたぎる憤怒と憎悪を持って、この白色テロルを徹底弾劾し、血の復讐を徹底的に全面的に貫徹することを宣言する」また、同学会、文学部学友会、経済学部同好会など11団体連名で、「革マル派による1.20福嶋君殺害を糾弾する」という声明を出している。民学同もビラで「殺人行為を満身の怒りを持って糾弾する。殺人グループは、自治会運動内部の自治破壊者として追放されねばならない」と述べた。一方、民青系学生諸君は、「内ゲバ殺人」キャンペーンを展開。「大学の内ゲバの戦場化を許すな」「暴力学生は大学から出てゆけ」「大学当局は責任ある態度をとれ」と主張して、弾圧を要請している。警察は、事件を口実に、1月20日に尚賢館、21日に熊野寮を不当捜査した」。

 中核派の声明は次の通り。
 「反革命カクマル、この憎しみで余りある日帝・中曽根の手先ファシストどもは、わが中核派のほこる京大生、全学連副委員長代行の福嶋慎一郎同志を虐殺するという、絶対に許すことのできない凶行をおかした。わが、革共同中核派は、満身に燃えたぎる憤怒と憎悪を持って、この白色テロルを徹底弾劾し、血の復讐を徹底的に全面的に貫徹することを宣言する」。

【中核派関連/「松本アジト」摘発される】
 3.4日、警察が、中核派の長野県松本市内の非公然アジトを摘発し、内ゲバ事件で指名手配中の幹部活動家を逮捕するとともに、「ゲリラ」対象施設や数百人に上る内ゲバ対象者の調査報告等多数の資料を押収した。

 4.15日、中核派活動家の福嶋昌男らが、在日米軍の横田飛行場を狙って、車の荷台から「迫撃弾」と称した発射物5発を射ち込む。

【中核派関連/「春日井アジト」摘発される】
 4.20日、警察が、中核派愛知県春日井市内の非公然アジトを摘発し、内ゲバ事件で指名手配中の幹部活動家を公務執行妨害で逮捕(5月2日、手配事実で再逮捕)するとともに、約47キログラムの黒色火薬、時限装置等を押収した(愛知)。

【中核派が迎賓館ロケット弾戦闘】
 5.4日、 中核派活動家の福嶋昌男らが、第12回東京サミット(先進国首脳会議)の式典会場となっていた迎賓館などを狙って、近くのマンションから迫撃弾5発と飛翔弾(ロケット弾)を発射(「迎賓館ロケット弾事件」)。皇居の爆破未遂事件も起こした。建設省(現・国土交通省)幹部宅や新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)職員宅などに対する放火・放火未遂ゲリラ事件も起こしている。現在、数名のメンバーが殺人・放火・爆発物製造などの被疑者として指名手配されている。中核派活動家4名が逮捕・起訴される。「5・7宣言」体制発動される。

【中核派が革マル派テロ】
 9.1日、「真国労大阪地本書記長内ゲバ殺人事件-中核派-革マル派」。未明、中核派が、大阪、兵庫、埼玉の3府県6ヶ所で、真国労幹部宅を襲撃した。この同時多発襲撃事件で、革マル派且つ真国労大阪地本書記長・前田正明(37歳)が兵庫県伊丹市で就寝中を襲われ虐殺された。夫人も全身打撲の重傷を負った。他8人の組合幹部とその家族が重軽傷を負った。当時、国鉄では、「分割・民営化」を支持する真国労・勤労・鉄労・全施労と、これに反対する中核派の対立が続いていた。中核派は5月に襲撃を予告していた。9.2日、警察は中核派の関西拠点を殺人未遂容疑で家宅捜索し、犯行を認めるビラや鉄パイプを押収した。
 機関紙で「9月1日、…反革命カクマル分子を…徹底せん滅した」などと犯行を自認している。

【中核派関連/「盛岡アジト」摘発される】
 10.12日、警察が、中核派の岩手県盛岡市郊外の都南村の非公然アジトを摘発し、活動家5名を公務執行妨害及び火薬類取締法違反で逮捕(23日、爆発物取締罰則違反で再逮捕)するとともに火薬類、爆弾製造工具類等多数を押収した。このアジトは、「圧力釜爆弾」を製造する大掛かりな武器製造工場であることが判明した(岩手)。非公然活動家の男女2人が夫婦を装って偽名で一戸建ての賃貸住宅に入居していた。その引っ越しに際しては隣近所に石けんを配ってあいさつしたほか、「夫」の方は毎日定時に出勤、帰宅し、「妻」の方も買物に出たり、道路等で顔見知りに会えば笑顔で会釈するなど、ごく一般的なサラリーマン家庭を装っていた。その裏で、この「夫婦」以外の3人の男が住居の2階に黒色ビニールで内張りした爆弾製造室を造り、ほとんど住居の外に出ずに専ら爆弾造りに従事していた。

 10月、「10月の挑戦」と爆取弾圧粉砕の闘い。
  【1987(昭和62)年】
 この年の内ゲバ事件は4件発生し、前年に比べ5件減少した。事案は,いずれも国鉄分割・民営化に絡んで発生した労組幹部等に対する路上襲撃事件である。57年以来5年ぶりに革労協狭間派による革マル派に対する内ゲバ事件が発生しているのが注目される。

【中核派が革マル派テロ】
 2.23日、茨城県茎崎町の路上で、出勤途中の動労中央本部副委員長が、待ち伏せしていた白、青色ヘルメットの6人くらいの男に襲われ、鉄パイプ、バールなどで滅多打ちにされ両手両足骨折の重傷。中核派が犯行を自認。  

【中核派が革マル派テロ】
 5.18日、東京・武蔵野市内の駐車場で、動労拝島運転区渋委員長がJR武蔵境駅まで歩いて出勤中、ヘルメット姿の5、6人の男にハンマー、鉄パイプなどでおそわれ、両手両足骨折の重傷。翌日、中核派は「動労=カクマルへの正義の赤色テロである」と記載したビラを都内数カ所に巻き、犯行を自認。

【中核派が革マル派テロ】
 8.29日、千葉県船橋市の路上で、東日本鉄道労連、・千葉支部副委員長が自転車で出勤途中、ヘルメット姿の数人の男で鉄パイプで襲われ、両手、両足、顎骨折の重傷。中核派が犯行を自認。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 10.30日、「JR東日本赤羽駅構内内ゲバ事件/革労協-革マル派」。朝、革労協狭間派が、ラッシュ時の赤羽駅構内で、出勤途中の田端機関区出身のJR東日本の職員荒川一夫を鉄パイプやハンマーで襲い、両足と頭蓋骨骨折などの重傷を負わせた。革労協狭間派は「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した」云々と犯行を自認。

  【1988(昭和63)年】

【中核派が革マル派テロ】
 3.3日、中核派が、群馬県渋川市で東日本旅客鉄道労組高崎地本委員長・動労高崎地本委員長・松下勝氏が自宅で就寝中のところを襲撃、死亡(JR東日本労組高崎地本委員長内ゲバ殺人事件/中核派-鉄労幹部革マル派)。

【革マル派が中核派テロ】
 7.1日、革マル派が、京都大学教養学部構内で中核派を襲撃し8名が負傷した。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 9.6日、神戸大潜入革マル小川を血祭りに上げ、学生革マル追撃戦を叩きつける。

【中核派が千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰氏を襲撃】
 9.21日、千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰氏を千葉市内の路上で襲撃。小川弁護士は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負った(「千葉県収用委員会会長襲撃事件」)(2003.7月、小川弁護士はにこのテロの後遺症を苦に自殺する)。

 中核派が犯行声明を出し、「収用委員会解体闘争」と称して「電話と手紙を集中せよ」として、他の収用委員全員の住所と電話番号を機関紙/前進に掲載した。中核派は収用委員に組織的に脅迫じみた手紙、電話などを送り続け「家族ともども死刑台に乗っていると思え」という手紙が届いたこともあったという。その結果翌月、収用委員全員が辞任し、千葉県収用委員会の機能が完全に停止する事態となる(千葉県収用委員会は2004(平成16)年に再建される)。

【革労協反帝学評(青解派)関連/内ゲバ】
 この頃から中核派と革マル派に関する党派ゲバルト事件自体が急速に減少する。それにかわって深刻になったのが革労協の内部抗争で、これは現在まで続き、10名以上の死亡者を出している。

  【1989(昭和64、平成元)年】

【革労協反帝学評(青解派)関連/内ゲバで永井派の元軍事指導部・辻美喜殺害】
 2.5日、永井派の元軍事指導部・辻美喜が狭間派によりリンチ殺害される。革マル派は「辻は永井グループだからリンチ殺害された」と機関紙で宣伝した。警察は、「自己批判をせまられ、発作的に飛び降り自殺した」見解を発表。狭間派は機関紙で辻の追悼文を発表して警察と革マル派に反論した。

【中核派が革マル派テロ】
 2.8日、「東鉄労(現JR東労組)水戸地本組織部長殺害事件」。中核派が、茨城県那珂町の路上でJR東鉄労水戸地本組織部長を襲い死亡させた。

【革労協反帝学評(青解派)関連/内ゲバで狭間派の最高幹部№2の永井啓之殺害】
  6.25日、「革労協元幹部内ゲバ殺人事件/革労協狭間派-革労協元幹部」。狭間派が、埼玉県川口市のアパートで、狭間派の最高幹部№2の永井啓之(43歳)方に押し入り、永井を連れ去った。その後、茨城県牛久市の市道トンネル内で寝袋に入れられた永井の遺体が見つかった。殴られた跡があり、顔は判別できないほど膨れあがり、肋骨15本などが骨折する無惨な状態だった。解放派の歴史上初の同志殺しとなった。

 「反狭間派」と別れた同派は狭間・永井を中心に活動していたが、強硬な軍事路線をとる狭間と、大衆闘争で組織を拡大していこうとする永井との間で新たな対立が生まれ、永井は除名処分を受けていた。このことから当初から内ゲバによる殺人事件と見られた。

 6.28日、革労協(狭間派)は都内で記者会見。内部抗争であることを認めた。「わが党、同盟によって昨年除名、その後敵前逃亡し、加重処分の対象となっていた永井が、永井をめぐる組織防衛上の課程で肉体的に変調をきたし、放したが、その後、マスコミ報道によると死亡した」、「今回の事態の全責任は永井にある」と声明した。この事件は時効が成立している。

【中核派の長谷川英憲が東京都議会選挙で初当選】
 7.3日、東京都議会選挙で中核派系とされる長谷川英憲が当選(「杉並革新連盟」として出馬、のちに「都政を革新する会」(都革新)と改称)。北小路敏が、長谷川英憲氏の都議選勝利に杉並区民の先頭に立って奮闘する。新左翼で史上初の都道府県議員となった。

【中核派が革マル派テロ】
 9.1日、中核派が大阪、兵庫、埼玉の6ヶ所で、国鉄労組幹部宅を襲撃。この同時多発襲撃事件で、革マル派且つ真国労大阪地本書記長・前田正明(37歳)を兵庫県伊丹市で就寝中を襲い乱打死亡させた。夫人にも全身打撲の重傷を負わせた。他8人の組合幹部とその家族が重軽傷を負った。

 当時、国鉄では、「分割・民営化」を支持する真国労・勤労・鉄労・全施労と、これに反対する中核派の対立が続いていた。中核派は5月に襲撃を予告していた。9.2日、警察は中核派の関西拠点を殺人未遂容疑で家宅捜索し、犯行を認めるビラや鉄パイプを押収した。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 10.22(?)日、革労協反帝学評(青解派)が、JR総連本部革マル田中豊徳を完全打倒。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 10.30日朝、ラッシュ時の赤羽駅構内で、出勤途中のJR東日本の職員が、鉄パイプやハンマーで襲われ、両足と頭蓋骨骨折などの重傷を負った。革労協狭間派は「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認。

【革労協反帝学評(青解派)関連/狭間派の女性活動家・青田君子が腹切り自殺】
 11.7日、北海道帯広市の列車内で、狭間派の女性活動家/青田君子が、包丁で腹を切って自殺するという事件が起きている。 週刊新潮や革マル派が「彼女は永井グループで、今回の同志殺しに絶望して自殺した」と報じた。この後、樋口圭之助らの旧永井派は革労協から集団脱走した。

【革労協反帝学評(青解派)関連】
 11月、「永井殺害事件」から4ヵ月後、狭間派最高指導者・狭間嘉明が、「永井啓之殺人事件」容疑で逮捕される。警視庁公安部は、6年にも詐欺容疑で逮捕したが、永井幹部殺害事件の手掛かりを得ることはできなかった。内部対立が深刻化。

【革労協反帝学評(青解派)が革マル派テロ】
 12.2日、革労協反帝学評(青解派)が、埼玉県大宮市の路上でJR総連総務部長を革マル派だとして襲い、死亡させた。

 1989年、昭和天皇死去と現天皇の即位に関連して約2年間、「90年天皇決戦」と称して多くのテロ・ゲリラ事件を引き起こす。他にも同派は様々なテロ活動に手を染めた。

 「ウィキペディア/革命的共産主義者同盟全国委員会 」が文中で次のように記している。
 中核派は、「大嘗祭粉砕」と称して、「一切が軍事的決着として帰結する死闘戦」を行うことを宣言。大山祇神社秋田県護国神社等の旧日本軍の戦史に繋がる神社や、三千院仁和寺・青蓮院など、皇室とゆかりの深い神社仏閣に対する器物損壊・放火事件を起こした「京都寺社等同時放火事件」を皮切りに、伊勢神宮に対する迫撃弾発射未遂事件・伊勢神宮爆破未遂事件、常陸宮正仁親王襲撃未遂事件、往来妨害事件、行政対象暴力事件、企業恫喝事件、新幹線線路爆破未遂事件、造船所放火事件、成田空港襲撃未遂事件、新東京国際空港公団関係者脅迫事件、成田空港行き京成電鉄列車への放火事件など124件ものテロ・ゲリラ事件を引き起こした。

  【1990(平成2)年】

 3.14日、「3.14原子力関係団体に対する同時ゲリラ事件」。消火活動にあたった消防士が殉職する

 4月、「日本飛行機(株)専務宅放火殺人事件」について、中核派革命軍による犯行声明が出される。

 10月、判事として狭山裁判一審を担当したことのある弁護士の自宅が放火されて雨戸などが焼かれた。近藤判事は東京高裁の第四刑事部の裁判官となって狭山裁判の第二次再審請求の審理を裁判長として引き継いでいた。事件後の3.6日に都内の報道機関に対して革労協の革命軍軍報が郵送された。革労協狭間派の機関紙「解放」、平成6年の3月15日付け、この犯行を自認する内容の記事が掲載された。その中を見ますと、第二次再審棄却を策謀せんとすることに対しての革命的鉄槌である云々と書かれている。

【党派間ゲバルト死者数考】
 6月現在、70年の海老原事件以来のゲバによる死者計83名。70-1、71-5、72-2、73-2、74-11、75-20、476-3、77-10、78-7、79-8、80-8、81-2、82-1、83-0、84-0、85-0、86-2、87-0、88-1、89-3。党派別の死者は中核派による革マル派殺害46名、解放派による革マル派殺害23名、革マル派による両派殺害15名、その他2名。但し、重傷負傷者数も調査されねばならない。

 11.12日、即位の礼に合わせ都内30数か所で迫撃弾の発射や列車運行装置の破壊などの同時多発ゲリラを行う。

  【1991(平成3)年】

【革マル派が中核派テロ】
 4月、革マル派が、中核派のけしば氏を襲撃。これに対する革マル派への報復テロ(91・5)。

 5.1日、JR東労組水戸地方本部組織部長を襲撃し殺害。

 これ以降は「党史4、「1991.5五月テーゼ」以降「2004新指導路線」まで」。




(私論.私見)