【提言11、戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ】 |
(最新見直し2008.9.3日)
【提言11その1、「ハト派対タカ派政治の拮抗」こそ戦後政治の本質である。戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ。戦後学生運動は戦後保守主流派の大御心で許容されていたと心得、田中角栄の眼差しを知れ。日共と如何に違うことか】 |
これを「提言11」とする。以下のことに注意を喚起されたい。日本左派運動の習性がそういうケッタイナ按配であったことに規定されて、妙なことに、日本左派運動に代わって戦後社会のプレ社会主義制を担ったのは何と保守的政権与党側であった。有能の士が早々に日本左派運動に見切りをつけ、体制側に入り込み、政府与党系のハト派に位置し、戦後日本のプレ社会主義的秩序を牽引していくことになった。ここに戦後日本政治の大きな捩れを見て取ることができよう。 政権与党はやがて1955年に自由民主党を創出するが、党内は様々なハト派と様々なタカ派が混淆する寄り合い世帯であった。その中で、最大勢力化していったのは、吉田茂を開祖とし、池田隼人を牽引車とし、ハトタカやじろべえ的な佐藤栄作を巻き込み、田中角栄を総帥とし、この時同盟軍に位置していた大平正芳−鈴木善幸まで至るいわゆる吉田学校派であった。これを戦後日本政治史上のハト派と云う。 戦後日本政治史上のハト派とは、戦後憲法を概ね遵守し、その大綱の中で主として内治に励み、外交は現代世界を牛耳る国際金融資本の枠内に納まる欠陥を見せながらも、他方でその枠を食い破り戦後憲法的国際協調にも精を出すというかなり高等な政治芸路線を云う。かく規定できると思う。 このハト派が戦後から1970年代までの戦後保守本流つまり主流派を形成し、党内のタカ派と表面的には相和しながら、底流で激しく対立抗争しつつ政権を担って行った。ハト派は、戦前来の国家主義的日本的官僚制度と云う国家頭脳を政治主導的に操作し、官僚も叉これに能く応えたと云う史実を刻んでいる。この期間、戦後日本は内治に成功し、高度経済成長を呼び込み、世界史上に稀なる発展を遂げ、日米安保の枠組内ながらも等距離的な国際協調にも貢献しアジア、中近東、アフリカ諸国からの賛辞も得た。今から思えば大いなる善政時代であった。 戦後日本左派運動は、戦後権力当局者のこのような独特の政治流動と局面を分析し、陰に陽にハト派と提携すべきであった。ところが実際には、ハト派もタカ派も十把ひとからげにマルクス主義的字面教条に従って打倒されるべき保守反動的体制派と断じ、図式公式主義的な政府自民党批判運動に終始してきた。時に政権打倒を呼号するが、代わって政権を引き受ける意思も能力もない口先運動に没頭してきたに過ぎない。 |
Re:れんだいこのカンテラ時評361 | れんだいこ | 2008/01/22 |
【提言11その2、戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ】 | ||
ここで「提言11その2、戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 日本左派運動は、戦後日本の立役者となった政府自民党内のハト派的運動に対して余りにもお粗末な対応をしてきたのではなかろうか。今、政府自民党内のタカ派的運動が、ハト派時代が築いてきた国富を国際金融資本帝国主義に譲り渡し、売国奴政治にうつつを抜かしている時、両者を識別し是々非々すべきではなかろうか。政府自民党に対する万年一本槍批判ほど実際にそぐわないことはない。 情けないことに、日本左派運動は、政府自民党内のハト派が政権を掌握機動させていた時にもっとも盛んに反政府反体制運動を繰り広げ、タカ派が掌握機動している現在逼塞させられ、口先三寸の批判運動に終始しつつ裏協力するという経緯を見せている。これが偶然か故意なのかは分からないが、そういう悪しき対応をしている。社共運動特に宮顕−不破系日共運動が真に批判されねばならないのは、この犯罪性に於いてである。 思うに、政府自民党内のハト派政治を良質のそれであったと見直し、その限界を突破し更なる左からの政治運動を生み出すために弁証法的に検証し直すべきではなかろうか。ハト派政治を体現したのは吉田茂を開祖とする池田隼人及び田中角栄、大平正芳、鈴木善幸政権であるからして、この時代の政治を検証し直し、復権せしめるべきところは復権し再興すべきではなかろうか。 筆者は、戦後保守本流派を一時期形成していたハト派の中でも田中角栄政治を偽装保守実は真正の左派政治ではなかったかと推定している。実際には、古代出雲王朝の大国主的政治であったとみなしている。スサノウとみなす向きもあるがオオク二ヌシ的であったと解するのがより近いと思われる。国譲り前の善政政治であり、陰に陽にその後の日本政治に影響を与えている。 それ故に、そのことを嗅ぎ取ったネオシオニズムがロッキード事件を用意周到に仕掛け、政治的に葬ったのではないのか。ネオシオニズムがこぞって呼応し、その際宮顕−不破系日共が異常にはしゃいだ裏には臭いものがあるとの仮説を持っている。日本左派運動は新旧左翼ともども、この観点をからきし持っていない。むしろ、金権政治の元凶として共に最悪視している。果たしてどちらの受け止め方が正しいのだろうか。 角栄については、「田中角栄論」(jinsei/kakuei/tanakakakuei.htm)で総合研究しているので参照されたし。筆者が特に触れておきたい事があるので記しておく。それは、角栄がロッキード裁判で羽交い絞めされた折、公判闘争の途中より新左翼系弁護士に依頼したことである。角栄は何ゆえ見得も外聞もなくよりによって新左翼系弁護士に依頼したのだろうか。これが解ける者があるだろうか。 れんだいこ史観によれば容易である。筆者の「角栄=偽装保守実は真正の左派」説に立てば、窮した時に本性表われるで、角栄が日共とは違う真性左翼の系譜であろうと仮定して新左翼系に必至の思いで助け舟を求めたと解することができる。 であるとするなら、新左翼は、角栄が藁をも掴む思いで差し伸べた手をしっかりと受け止めるべきであった。新左翼系弁護士は全精力で角栄救済に向うべきだった。実際にはその有能性を最大限発揮して角栄冤罪説を主張した形跡がない。恐らく、左翼圏全体が日共式の角栄観に禍いされて熱心とならなかったのではなかろうか。返す返すも残念なことであった。 それにしても、角栄退治に鉄腕を振るった宮顕−不破系のおぞましさよ。彼らは、ロッキード事件摘発最中の1976(昭和51).7.28日、秋に予定していた定期党大会を翌52年に延期し、異例にも党史上初めての臨時党大会を開き、宮顕・幹部会委員長が、大会の冒頭の挨拶と基調報告をし、前日の田中前首相の逮捕を誇らしげに伝え、対角栄闘争の徹底推進をぶちあげ異例の並々ならぬ意思統一をした。この時の様子についての詳しい記録が発表されておらず、秘密性の濃いものとなっている。 角栄のその後は日共の願う通りのものとなり、政治的に絞殺された。こうなるや不破は、かって角栄を金権政治の元凶としてさんざん悪し様に指弾しながら、今になって云うことに概要「よほど貧乏していたのだろう。今日から見てさほどの額でもない僅か5億円の金欲しさに外国からの汚い金に手を出していた」などと角栄死してなお侮辱しており、ご丁寧な事に党員の拍手拍手と云うおまけつきである。共に語り得ずの面々ではなかろうか。 しかし、冷静になって考えれば次のことが明らかになる。今現在、自民、民主のタカ派系が構造改革と称して次から次へと改悪策動している諸制度は、ハト派時代に築かれた善政の産物ばかりである。タカ派系は何を急いで改悪に狂奔しているのだろうか。ここが詮索されねばならないだろう。国際金融資本のシナリオ論を媒介せずして解けるだろうか。 筆者は既に「戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動を展望せよ」で述べたが、戦後保守本流のハト派政治こそ、戦後日本のプレ社会主義性を良しとして在地土着型の左派運動を展開した稀有なものであった。彼らは一度としてマルクスのマの字さえ口にしなかったが、マルクスを呼号し続けるマルクス主義者よりもよほどマルクス主義的で、世界に冠たる親方日の丸式在地土着型社会主義政策を創造し敷設していった。ここに、世界の奇蹟と云われる戦後の高度経済成長式発展があり、イスラム世界ともよく親交し賛辞されていた、と看做している。してみれば、戦後保守本流ハト派の政治、特に角栄政治の功績を見直し、継承すべき面を継承し、新在地土着型のハト派政治を再興していくことこそ現代政治のテーマとなっているのではなかろうか。このことを指摘しておきたかった。この観点に異論があれば、筆者ははいつでも応ずる意思がある。堂々と議論しようではないか。 2008.1.22日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評225 | れんだいこ | 2006/10/21 | ||||
【提言11その3、戦後保守主流派の大御心で許容されていた戦後学生運動考】 | ||||||
今日は10.21である。筆者の若い頃は、10.21と云えば反戦デーだった。筆者はあいにく民青同だったので面白くもないデモに参加して流れ解散した経験しかない。或る時の10.21日、新橋駅辺りで解散したところ、脛と膝を大怪我し両肩を抱えられながらのメットの連中と遭遇した。党派が違うので当然話すこともなかったが、筆者は、あっちの方が闘ったという気がする思いがしたことを思い出した。機動隊とやりあうことが意味があったとは思えないが、単なるデモすることで闘ったことにはならないという微妙な気持ちになったことを覚えている。それにしても、ゲバ棒スタイルのメットデモが盛んだった。当時は今より規制が少なく許容されていたのだろう。そうした「戦後学生運動の1960年代昂揚」の凋落原因を愚考してみたい。筆者は、1・民青同の右翼的敵対、2・連合赤軍による同志リンチ殺害事件、3・中核対革マル派を基軸とする党派間テロの3要因を挙げることができる。しかし、それらは真因ではなくて、もっと大きな要因があるとして次のように考えている。 戦後学生運動は、ある意味で社会的に尊重され、それを背景として多少の無理が通っていたのではなかろうか。それを許容していたのは何と、戦後学生運動がことごとく批判して止まなかった政府自民党の当時政権を担っていたハト派の識見であった。ところが、その「政府自民党の変質」によってタカ派が権力を奪取することにより次第に許容されなくなり、学生運動にはそれを跳ね返す力がなく、ズルズルと封殺され今日に至っているのではなかろうか。凡そ背理のような答えになるが、今だから見えてくることである。 思えば、「戦後学生運動の1960年代昂揚」は、60年安保闘争で、戦後タカ派の頭脳足りえていた岸政権が打倒され、以来タカ派政権は雌伏を余儀なくされ、代わりに台頭した戦後ハト派の主流化の時代に照応している。このことは示唆的である。60年代学生運動は、諸党派の競合により自力発展したかのように錯覚されているが、事実はさにあらず。彼らが批判して止まなかった政府自民党の実は戦後ハト派が、自らのハト派政権が60年安保闘争の成果である岸政権打倒により棚からボタモチしてきたことを知るが故に、学生運動を取り締まる裏腹で跳ね上がりを許容する政策を「大御心」で採ったことにより、昂揚が可能になったのではなかろうか。これが学生運動昂揚の客観的背景事情であり、筆者は、「戦後学生運動の1960年代昂揚」はこの基盤上に花開いただけのことではなかろうか、という仮説を提供したい。この仮説に立つならば、1960年代学生運動時代の指導者は、己の能力を過信しない方が良い。もっと大きな社会的「大御心」に目を向けるべきではなかろうか。 今日、かの時代の戦後ハト派は消滅しているので懐旧するしかできないが、戦後ハト派は、その政策基準を「戦後憲法的秩序の擁護、軽武装たがはめ、経済成長優先、日米同盟下での国際協調」に求めていた。その際、「左バネ」の存在は、彼らの政策遂行上有効なカードとして機能していた。彼らは、社共ないし新左翼の「左バネ」を上手くあやしながらタカ派掣肘に利用し、政権足固めに利用し、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国との駆け引きにも活用していたのではなかろうか。それはかなり高度な政治能力であった。 筆者は、論をもう一歩進めて、戦後ハト派政権を在地型プレ社会主義権力と見立てている。戦後ハト派の政治は、1・戦後憲法秩序下で、2・日米同盟体制下で、3・在地型プレ社会主義政治を行い、4・国際協調平和を手助けしていた。してみれば、戦後ハト派の政治は、国際情勢を英明に見極めつつ、政治史上稀有な善政を敷いていたことになる。実際には、政府自民党はハト派タカ派の混交政治であり続けたので純粋化はできないが、政治のヘゲモニーを誰が握っていたのかという意味で、ハト派主流の時代は在地型プレ社会主義政治であったと見立てることができると思っている。 今は逆で、タカ派主流の時代である。そのタカ派政治は、戦後ハト派政権が扶植した在地型プレ社会主義の諸制度解体に狂奔している。小泉政権5年有余の政治と現在の安倍政権は、間違いなくこのシナリオの請負人である。この観点に立たない限り、小泉ー安倍政治の批判は的を射ないだろう。この観点がないから有象無象の政治評論が場当たり的に成り下がっているのではなかろうか。 そういう意味で、世にも稀なる善政を敷いた戦後ハト派の撲滅指令人と請負人を確認することが必要であろう。筆者は、指令塔をキッシンジャー権力であったと見立てている。キッシンジャーを動かした者は誰かまでは、ここでは考察しない。このキッシンジャー権力に呼応した政・官・財・学・報、司、警、軍の八者機関の請負人を暴き立てれば、日本左派運動が真に闘うべき敵が見えてくると思っている。 このリトマス試験紙で判定すれば、世に左派であるものが左派であるという訳ではなく、世に体制派と云われる者が右派という訳ではないということが見えてくる。むしろ、左右が逆転している捩れを見ることができる。世に左派として自称しているいわゆるサヨ者が、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国イデオロギーの代弁者でしかかないという姿が見えてくる。この問題については、ここではこれ以上言及しないことにする。 1976年のロッキード事件は、戦後日本政治史上画期的な意味を持つ。このことが認識されていない。れんだいこ史観によれば、ロッキード事件は、戦後日本の世にも稀なハト派政治の全盛時代を創出した田中ー大平同盟に対する鉄槌であった。ロッキード事件はここに大きな意味がある。ここでは戦後学生運動について述べているので、これにのみ関連させて言及するが、「戦後学生運動の1960年代昂揚」にとって、ロッキード事件は陰のスポンサーの失脚を意味した。この事件を契機に与党政治はハト派主流派からタカ派主流派へと転じ、それと共に戦後学生運動は逆風下に置かれることになった。 その結果、1980年代の中曽根政権の登場から始まる本格的なタカ派政権の登場、そのタカ派と捩れハト派の混交による政争を経て、2001年の小泉政権、そして現在の安倍政権によってタカ派全盛時代を迎えるに至った。彼らは、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の御用聞き政治から始まり、今では言いなり政治、更に丸投げ政治を敷いている。現下の政治の貧困はここに真因があると見立てるべきであろう。ここでは戦後学生運動について述べているので、これにのみ関連させて言及するが、彼らにあっては、戦後学生運動は無用のものである。故に、断固鎮圧するに如かずとして、もし飛び跳ねるなら即座に逮捕策を講じている。今ではビラ配りさえ規制を受けつつある。この強権政治により、うって変わって要らん子扱いされ始めた学生運動は封殺させられ、現にある如くある。 れんだいこ史観では、「戦後学生運動の1960年代昂揚の衰退」はもとより、社会党及び日共宮顕ー不破系の協力あっての賜物であった。彼らは、その党派の指導部を掌握し、口先ではあれこれ云うものの本質は「左バネ潰し」を任務としてきた。こう見立てない者は、口先のあれこれ言辞に騙される政治的おぼこ者でしかない。これらの政策が殊のほか成功しているのが今日の日本の政治事情なのではなかろうか。成功し過ぎて気味が悪いほどである。 このように考えるならば、戦後左派運動は、その理論を根底から練り直さねばならないだろう。結論的に申せば、宮顕ー不破ー志位系日共理論は特に有害教説であり、彼らは思想的には左派内極限右翼であり、「左からの左潰し屋」である。一体全体、野坂、宮顕、不破の指導で、日本左派運動に有益なものがあったというのならその例を挙げてみればよい。筆者はことごとくそれを否定してみよう。しかし、一つも事例がないなどということが有り得て良いことだろうか。 それに比べ、新左翼は心情的にはよく闘ってきた。しかし、闘う対象を焦点化できずにのべつくまなく体制批判とその先鋭化に終始し過ぎてきた。政府自民党批判の水準に於いては日共のそれとさして代わらない代物でしかなく、それは無能を証している。為に、その戦闘性が悪利用された面もあるのではなかろうか。あるいは消耗戦を強いてきただけのことなのではなかろうか。 れんだいこ史観で付言しておけば、日共系が左翼内右派系運動を抑圧したとするなら、革マル派のそれは左翼内左派系運動を葬送する為に使われてきたのではなかろうか。宮顕の「排除の論理」、黒寛の「諸雑派解体路線」は何やら似て過ぎやしないか。この連中の二元支配により、早大の赫々たる学生運動の歴史が鎮圧された。早大の鎮圧は学生運動の貯水池を枯らし、負の影響を及ぼしていくことになった。日本左派運動に於いて、「早大に於ける民青と革マルの二元支配による共存」を許したことは、そういう意味で重責であるが、民青と革マルにとっては成功事例なのだろう。 筆者がこう云い切れるのは「川口大三郎リンチ致死事件闘争」の際の体験から生まれている。事件については、「「川口大三郎君虐殺」事件考」で考察している。あの時の鮮烈な印象は、革マル糾弾の流れでキャンパスから追放されていた諸セクトが次々と姿を現し、中でも政経学部を牛耳っていた社青同解放派が久しぶりに登場した時、それまでアロハシャツ着てジャズ音楽にでも凝っていた風をしていた顔馴染みが、我が意を得たりと興奮していた様子を焼きつけているからである。とにかく青解派の人気は凄かった。数百名が喜び迎えた。彼らがキャンパスに登場できなかった仕掛けをこそ思うべきである。 もとへ、結論。いずれの側であれ、くれぐれも、在地型プレ社会主義政治の最高指導者.田中角栄を悪く罵倒すればするほど左派的なぞと思うなかれ。もしそういう御仁が居るなら、歴史の見立てと真相が掴めない不明を恥じよ。このことが分かるまで蟄居し沈思黙考せよ。しかる後出でて述べよ。簡単ながらスケッチ風に覚書しておく。 最後に、その角栄の学生運動論と観点を記しておく。角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代、全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。付言しておけば、早坂は戦後共産党運動の徳球−伊藤律系である。後の国際派は宮顕−野坂系である。1963(昭和38).12.2日、その早坂氏を田中が秘書になってくれないかとスカウトしている。この時の言葉が次のような角栄節であった。
斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元全共闘闘士で、一転田中イズムのとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。 早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で次のように記している。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。「あの学生達を同思うか」。この問いに、角栄は次のように答えている。
早坂は続いて次のように記している。
この見識こそ角栄政治の真骨頂であろう。立花や日共によって逆に描き続けられているが、それは取りも直さず連中が現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の下僕として立ち働いている事を証左しているだけのことである。我々はこの投網から抜け出さねばならない。 2006.10.21日 れんだいこ拝 |
【田中角栄のまなざし考】 | ||||||
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(私論.私見)