「党派間ゲバルト」の論理とその虚妄について |
更新日/2016.12.23日
(れんだいこのショートメッセージ) |
まだまだ緒についたばかりであるが、とりあえず要点整理しておく。まだ漠然としているが、「党派間ゲバルト」に向かう際の理論づけはお粗末この上ないままにいきなり実践に突入したような気がしている。その後は、憎悪が憎悪を生む循環に入った。さすがに理論の革マル派と云われるだけあって、同派が逸早く「革命的暴力とは何か」を世に問うた記憶がある。但し、その中身たるや、「教育的措置」などと称する論理で、他派活動家の生命から身体機能の不具化にまで及ぶことを正当化する噴飯ものであったような記憶がある。 これに対して、中核派、社青同解放派がどのような論を対置したのか記憶がない。相手が許しがたい党派であると云う理由づけだけでは、互いが互いをそう見なしあっている際には根拠不十分であろう。おっつけ後づけで理論化されたのであろうが、考えてみれば左翼党派の見識としてはオカシなことではなかろうか。とにかく、「やられたらやり返す」報復戦にいきなり突入して、のっぴきならぬところまで行き着いた史実が刻まれている、ようにれんだいこは了解している。しかして現在、そのジハードの理論的総括が為されているのだろうか。ほぼ終息過程に入っているように思われる現在、今更意味がないと云われればそれまでのことではあるが、歴史は繰り返すことを思えば少し違うと思う。 久しぶりに「中核VS革マル」を読み直してみた。気づいたことは、「党派間ゲバルト」に至るには論理的水路があり、中核・革マルが組織分裂する以前の革共同全国委時代に影響を受けた「黒寛式党派組織論」によって仕掛けが作られ、その帰結として「敵対党派の絶滅戦争」が生み出されているのではなかろうか、という思いである。その下地故に、これを信奉する革共同両派が、偶然か必然かとにかく、歴史的に生起した事件を契機に一挙に「無限定無制限の党派闘争」へ突き進んでいくことになったのではなかろうか。それを思えば、「黒寛式党派組織論」の検討からこそ始めねばならないように思われる。「「内ゲバ」とは何だったのか」、「『電脳ブント』の蔵田計成論文」、「今井公雄の左翼考」その他を参照する。れんだいこ見解は「れんだいこの「党派間ゲバルト」理論について」に記す。 2005.3.2日、2008.2.10日再編集 れんだいこ拝 |
【鎌田見解考】 | |||||||
「諸階級、諸階層、諸団体の存在自体に基礎を置いたイデオロギー的反映の組織形態」の故かどうか、党派は綱領、戦略、戦術を廻って幾つもの潮流に分裂分断化されることになる。このような分断状態のなかで、新左翼諸党派は場所的・時間的同一空間のなかで、組織上の利害、政治路線、戦術を巡る対立抗争を深め、党派闘争を展開していくことになる。この党派闘争が切磋琢磨的競合へと向かった最後の闘争が全共闘運動であった。 しかし、丁度この頃から革マル派のテロルが襲い掛かり始めた。それまでにも他党派鉄槌的なゲバルトが行使されていたが、情況が激化すればするほどより本質的な他党派解体論理による公然ゲバルトがお見舞いされる具合であった。このゲバルトは当初社青同解放派、次に中核派へと向かった。当然、両派もこれに反発し、こうして党派間ゲバルトは次第に激化の一途をたどり泥沼化していった。挙げ句の果ては、「敵か味方か」、「革命か反革命か」の二項対立へと煎じ詰まり、阿鼻叫喚の修羅を演じることになった。 この経過に対して、鎌田氏は次のように云う。
鎌田氏は次のようにも云う。
|
【中核派の見解】 |
中核派は、革マル派に対し、「K=K連合論」(革マル派と国家権力との間には有無通じた補完関係があるとする論)、「革マル反革命論」(権力と通じて革命的左翼に対する白色襲撃を行うテロ分子論)、「革マル=ファシスト論」で位置付け、「党派間ゲバルト」を「一個の戦争」として捉え、「非和解的な戦争・殲滅戦」を目指し、「絶対戦争」として認識する。この観点から「二重対峙・対カクマル戦論」を生み出し、「やるかやられるか絶対矛盾的殲滅戦」に突入していった。 1971.12.4日の革マル派のテロによる辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)虐殺事件後の時点から、革マル派を「カクマル」と呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出しているとみなし、「K=K連合によるカクマル反革命」と認識し始めた。「K=K連合論」の中身について、「カクマルの襲撃が敵権力の『警察政治』の掌中でその手厚い庇護のもとに行われている点において、さらにカクマル自身もまたその庇護を前提に、時には自ら進んで権力に通謀する形で襲撃を企んでいる点において」と説明している。後に、「カクマル自身の弁明による『首根っこ急所論』」を引き合いに出して説明している。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「党派闘争としての党派闘争」に対する見解は次の通り。
「内ゲバ」批判者に対しての弁明は次の通り。
このような論理において党派間戦争を担ったのは、「人民革命軍・武装遊撃隊」であった。この組織が中軸となって、組織的計画的にゲバルトを敢行している。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
立花隆と本多書記長の対談は次の通り。「内ゲバで死者が出ること。その際の誤爆問題」について次のようなやり取りをしている(「中核対革マル」より)。
|
【中核派の見解と思われる見解】 | |||||||||||||||||||||
以下は「内ゲバ批判論の批判」の貴重な論考であり、これを確認しておく。
|
【革マル派の見解】 |
革マル派の暴力論としてはその見解は次の通り。
つまり、革マル派は、自らの内ゲバ論を、「向自的党派闘争論」による「イデオロギー的=組織的闘い」の一貫であると規定し、実際に「他党派解体路線」を志向するなどまさに「向自的」に取り組んできた。「倫理的に一点の曇りもない」と豪語し、その過程での「ゲバルト行使」を「教育的措置的お仕置き論」で正当化してきた。その「教育的措置的お仕置き論」とは、「まぁ、平たく言えば、一週間なり一ヶ月なり己の肉体的痛みを噛み締めながら己の犯した誤りを、悪業を、ベッドの中で反省する機会を与えてやるということですよ」(前川委員長のNET・TVインタビュー「中核VS革マル」より)と云い為されている。「この暴力の行使はあくまでも、暴力を補助手段とした、駄々っ子に対する母親のお仕置きに過ぎない」(解放374号「お仕置き党派闘争論」)とも説明されている。
|
||||||||||
革マル派は、海老原事件の7ケ月後、400ページを超す「革命的暴力とは何か」を著し、「海老原事件は、前代未聞の無原則的な集団リンチ、政治組織としての目的意識性を欠如した非組織的殺人」(「革命的暴力とは何か」)として海老原事件を引き起こした中核派に対して次のように批判している。その論理構成を確認する。
このような論理において党派間戦争を担ったのは、「特別行動隊(特行)」であった。この組織が中軸となって、組織的、計画的にゲバルトを敢行している。 |
||||||||||
|
||||||||||
革マル派の「革命的暴力とは何か論」に対する「中核vs革マル」著者の立花見解は、概要「革命性・思想性が真のマルクス・レーニン主義でつらぬかれているのは革マル派のみであり、革マル派の暴力行使は倫理的に一点のくもりもない$ウ義であり、その他の暴力行使は不正義なものであるとする内ゲバ理論である」として独善的宗派性を解析している。補足すれば、問題は「革命的暴力とは何か」が、海老原事件を「好機」として党派間ゲバルトを礼賛し、その後の水路を造ったことに意味があり、これを書き上げたものは誰か、その意図は奈辺にあるのかを推測する必要があると云うことである。これが解析されていない。 | ||||||||||
その後、中核派の「KK連合論」、「革マル反革命論」に対置される論として「権力の謀略論」を編み出した。革マル派はその新しい事態に対応するために、仕掛けられた内ゲバは全て権力による謀略であるという「謀略論」を展開した。この「謀略論」に対しては、厳しい批判が加えられている。或る推論と分析によると、「内ゲバ一方的停止宣言は中核派壊滅・勝利宣言」のつもりであった。ところが、その後反撃の体制を建て直した中核派による逆襲の前に、その勝利宣言は破綻した。謀略論はこの破綻の彌縫策として考え出された理屈に過ぎない。そして「一度出した謀略論を撤回するわけにもいかず、証拠はないが、自作自演と思しき謀略論まで登場し、謀略論にしがみついている」という説までまで流布されて、現在に至っている。 | ||||||||||
立花氏は、「中核対革マル」の文中で、「自分の殺人(あるいは暴力)は倫理的だが、自分が殺されること(あるいは暴力をふるわれること)は倫理的でないと叫ぶ人間は、いかなる意味においても倫理的では無い」と指摘している。
革マル派の特徴は、「唯一前衛党を目指す党派闘争」と「他党派の暴力的解体路線」にあり、「革マル派の場合、『権力に向けない暴力を他派に向ける』、つまり、党派闘争のみに暴力を行使するのであるから、心ある大衆から嫌悪されるのは必然である」(「検証内ゲバ」)というところにある。 |
【社青同解放派の見解】 |
今日インターネットで「社青同解放派の党派闘争論」を知ることができるので、これを解析する。まず、1968年12月「何故に闘うのか――現在の闘いの意味と方向」で民青と革マル派批判を、次に、1972年1月「プロレタリア革命運動における党派闘争の論理と倫理」で革マル派と中核派の両革共同批判を、1972年5月「七〇年代ソヴィエト運動と党派闘争―革マル派との闘いを軸として―」で革マル派批判を、1974年から75年にかけて発表された「革命期におけるプロレタリア革命(派)の戦略問題――解体戦はいかに展開されるべきか」で革マル派との死闘戦の確認、その際の中核派との差異について述べる、という格好になっている。
次第に論理化され、テーマが絞られていっているのが分かる。 革労協派の内ゲバの論理は、革マル派は「白色武装襲撃を最大の存在理由」としており、「武装せる社民化した反スターリニスト」であり、この「反革命的黒田教思想集団」との党派闘争は「革マル解体・絶滅戦である」と規定している。 2003.9.2日 れんだいこ拝 |
【社青同解放派の党派闘争論第一論文】 | |
最初の論考に1968年12月、機関誌「革命」(23号)「何故に闘うのか――現在の闘いの意味と方向」がある。この時はまだ漠然と、「一方では民青と闘い、同時に、他方では革マルと闘っている。何のためにか? 何故こうした連中と闘わなければならぬのか? この闘争は一体何を意味し、この闘争は現在の時代的意味をいかなるものとして指し示しているのか?」と問い掛け、更に「民青の法政大における戒厳令と、革マル派の現になしている戒厳令と、何と完全に一致してしまっていることか!」ともあり、「右からの民青、左からの革マルによる左派運動の絞殺運動」を凝視していることである。つまり、原初的認識において、「民青と革マルを併置」して問いを為していることが分かる。 特に、革マル派に対して次のように不退転の決意を示している。
しかし、この時点では、「厳重な警戒をよびかけることは、われわれ自身の階級的責務である」とあるように防御的な立場を表明している。その延長線上で、「我々にとって泣き言などはあり得ない。それどころか、歴史と人民の与えたすばらしい機会としてただ闘いぬくのみである」と宣言している。そのように読み取れる。 |
【社青同解放派の党派闘争論第二論文】 | ||||||
次に、1972年1月、機関紙・解放(87号)、機関誌・解放(第3号)「プロレタリア革命運動における党派闘争の論理と倫理」が発表されている。党派闘争について次のような認識を披瀝している。
「先の「何故に闘うのか――現在の闘いの意味と方向」に比べて向自的なスタンスへの転換が読み取れる。但し、今度は、「革共同革マル・中核派両派を横並びで批判」しているところに特徴がある。「社・共を批判しつつ、実は『ソヴィエト運動の否定』という点で革共同革マル・中核派は共通のものを持っている」と指摘し、順次革マル派、中核派への批判に向っている。 革マル派に対しては次のように批判している。
この後急遽、日共批判に入り、次のように見立てている。
続いて、「中核派と革マル派はともに『小プル個人的自己否定』を自らのエネルギーの起源としている」と見立て、中核派批判に入っている。
|
【「革マル派の『革命的暴力とは何か』論」批判】 | |||
終章で、革マル派の「革命的暴力とは何か」の論理を解析し、次のように述べている。「ほとんど中核派と同じ思想構造を、革マル派はもっている。ただ、革マル派は、それを思想的という外観をもって行なう」と、革マル派の理論性を認め、その上でその理論内容を次のようには批判している。これが興味深い。 革マル派の「革命的暴力とは何か」で、梅本克己、高橋和巳氏が「革マル派の左派圏内への『革命的暴力論』」に対する危惧を表明したのに触れて次のように反論している。梅本氏が、「革マルの中核への復讐に対して、党派闘争が単なる復讐の論理をこえてそれを止揚するものをもっていなくてはならないのではないか」、と提起したのに対して、革マル派は、「キリストになることはできない」、「政治を止揚するにはやはり政治が必要なのだ」、「中核派は非組織的にやっているので悪い。われわれは思想闘争を行ない組織的にやる」と答えている。高橋氏が、「内ゲバは内部矛盾の転化である。それを越えていくためには、プロレタリアを前にして党派闘争をやらねばならぬ」、と提起したのに対して、革マル派の解答は、「党派闘争を正しく判断できるプロレタリア大衆などどこにもいない、そういう労働者は自分たちが創造していくしかない」と答えている。 革マル派のこの対応に対して次のように見立てている。
結論として次のように述べている。
|
【社青同解放派のこの頃の「革命的テロ」見解】 | |||||
以上を踏まえて、「革命的テロ」について次のように自制した見解を披瀝している。
つまり、中核派の対革マル絶対戦争化に対して、それを「かれら全体の破産と、思想の荒廃」という見地を披瀝している。そして、次のように結ぶ。
つまり、社青同の党派的特色を出そうとして種々考察していることになる。 |
【社青同解放派の党派闘争論第三論文】 | ||||||
次に、1972年5月、機関紙・解放(94号)、機関誌・解放(第3号)「七〇年代ソヴィエト運動と党派闘争―革マル派との闘いを軸として―」が発表されている。この段階で、革マル派との本格的な暴力的党派闘争に踏み込む上での理論的位置付け、次に革マル派の本質規定に入っている。この論考で、「新たな質への転換」が為されていることになる。 社青同解放派の暴力的党派闘争論について次のように述べている。れんだいこなりに要約し論を組み立ててみる。
ここの論理は興味深いのでそのまま記す。
次に、「労働組合のソヴィエト運動としての発展を目指すべき七〇年代階級闘争にとって、革マル派との闘いは、とりわけ重要な意味をもって来ている。そういう中で三月三〇日以降、我々と革共同革マル派との間に生まれている党派闘争の事実経過とその背景の本質を明らかにしなくてならない」として、次のように述べている。社青同解放派の暴力的党派闘争論について次のように述べている。(以下、略) |
||||||
![]() |
||||||
党派間戦争という事態を迎え、その実践を是認する聖戦論を如何に生み出すのか、これに社青同解放派的に応えたのが第三論文である。ここで、「生と死」を、ブルジョア的なるものとプロレタリア革命運動とi識別し、「類的共同性に依拠する大目的の為に殉ずる論」として言いきかせようとしている。しかし、この構図は、戦前の八紘一宇論、靖国御霊論と通底しているようにも見える。つまり、理論として何ら目新しいものはない、というか陳腐でさえあるように思われる。しかし、この感性こそよきにせよ悪しきにせよ土着左派的な面を持つ社青同解放派的なところかも知れない。ちなみに、聖戦論のメンタリティー面の論理は今日でも未消化であるので、これでもって社青同解放派の論理を貶めようとは思わない。 |
【社青同解放派の革マル派批判の構図】 | ||||
「革マル派の路線の本質について」次のように述べている。
|
【社青同解放派の党派闘争論第四論文】 | |||||||||||||||||
次に、1974年から75年にかけて発表された「革命期におけるプロレタリア革命(派)の戦略問題――解体戦はいかに展開されるべきか」(全文はこちら)について。非常に多角的にして長大饒舌な論文となっている。このうちより「党派闘争に関する部分」を抜粋し、吟味する。この段階で、革マル派と如何に闘うのかの究明に入っているが、「七〇年代ソヴィエト運動と党派闘争―革マル派との闘いを軸として―」を継承して中核派との論理の差異を弁明している、という格好になっている。
「革マルとの戦略的対峙下における死闘への突入」について次のように述べている。
しかし、これを「重大な任務」と為しつつも、「我々の戦線の中にも現下の党派闘争に対する批判的見解が出ていることは、決して軽視してはならないものである。出されている問題を正面からみつめ、プロレタリア革命の戦略戦術を全組織的に強化しなくてはならない」ともあり、「現下の党派闘争に対する批判的見解」の存在を窺うことができる。こうしたことから「組織的討論を!」要請している。次のように述べている。
以上の観点から、「蜂起―革命戦争に向かって、敵に打撃を与えつつ、いかに敵の本質的矛盾を拡大し、味方の闘争力・組織力を発達させるかという戦略の下における戦術」を提起しつつも、次のような自制を促そうとしている。つまり中核派のそれとは違うという観点を披瀝しようとしている。
興味深いことは、中核派の「革マル派=ファシスト」規定に対し、これを斥け、「革マル派=左派運動圏内の反革命的変種宗派」として位置付けているかの如くなところである。しかし、このような規定で何ゆえ、「革マルとの戦略的対峙下における死闘戦」を闘い抜けるのだろうか。論理的に折衷であるような気がしないでもない。 |
【「革マル=小ブル反革命規定について」】 | ||||||||
「革マル=小ブル反革命規定について」別章を立てて再度考察している。これが、中核派の「革マル派=ファシスト」規定に対応する社青同解放派の理論付けとなる。
|
【藤野武・氏の反革命革マル解体戦論】 |
「石井同志虐殺報復=反革命革マル解体戦の烈火に、対ファシスト戦――本格的権力闘争の着手と単一プロレタリア革命党建設を戦取せよ!(1975年11月 藤野武「赤砦」2号/1976年9月)」を転載しておく。 |
1974.6.24日、伊東山中に於いて、革マル派により解放派の石井真作氏が虐殺された。解放派は「6.24反革命として血の完全報復戦」に踏み込むことになる。「10.8日遂に本格的な報復の狼火が敵戦闘カ=秋本の頭上に深深と打ち込まれた。革命的赤色テロルを我が英雄的同志が貫徹。この闘いこそは、白色テロには赤色テロをもって報復を貫徹するという革命的原則を、全プロレタリアート、人民に明示したという当然の意味にとどまるものではない」云々。 この論文の意義は、遊撃戦論、ゲリラ戦に対するマルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーの言説による位置付けを為しているところにある。プロレタリア共産主義革命運動に占める党派闘争の位置と意義を論及し、「内乱的・内戦的な(あるいは蜂起的な場合すら)戦闘」の不可避性に言及している。 |
「中でも『左共』反革命に純化した党派の解体を通して実現すること」。「革マル解体戦が全体の中に占める位置・比重・意義を明確にし、総力戦への決意と体制を一層打ち固めねばならない」。 |
「例えば四トロの如く、党派闘争それ自体を否定することは論外」、「従って、反帝(反権力)闘争を理由にした党派闘争へのネガティブな対応は、党派としては、四トロに端的に示される如く、単なる党派闘争からの召還の口実と卑屈な自己合理化にすぎない。しかもそれにとどまらず、当の反帝闘争そのものが革命期以前的水準にあることに他ならないのだ。いいかえれば、革マルの経済主義、組合主義と大同小異でしかなく、革マルが彼ら(の組鼓・団結)を暴力的に解体する必要を感じない地平にしかないことをも示しているのは明白である」。 |
「プロレタリア革命派にとって、この反革命革マルとの闘いは、権力の非合法化弾圧及び、それと一体呼応した革マルの白色襲撃との対抗という二重の性格を有するが故に、組織の非公然・非合法体制への移行を本格化させていく。そしてその闘いは、政権カの殲滅を戦闘目的とした戦争の質を特珠に内包する軍事闘争として遂行する経験を蓄積させ、全党・全組織の恒常的武装と武装組織建設を不可避の課題とさせていくのである。対革マル戦の烈火を通し鍛え抜かれる闘争と組織の質は、更に飛躍した内容と形態においてであれ、権力闘争に転化しうるものとして積極的な意義を有していることをくり返し確認しておかねばならない」。 |
概要「革マルは、今や満天下に反武装蜂起主義、反暴力革命主義を宜言し、反革命的徒党と化した。情勢を呪文によって『超越』し、社民・スターリニスト以上にプロレタリア人民の闘いの発展に規定されることのない永遠の主体形成主義に起因した従党の拡大に応じて情勢をみるという転倒の徹底性の分だけ、しかも革命的左翼を偽装しようとする分だけ、しかも革命的左翼にはかなく偽装しようとする分だけ、どこまでも決戦を彼岸化し得る最悪の日和見主義である。のみならず、階級情勢の革命的醸成に恐怖し、革命党と革命的プロレタリア人民への破壊・虐殺を唯一の存在理由とする反革命革マルは蜂起の系統的準備と闘いを否定するプロレタリア革命の敵対者である。(死の影におびえ、眠れぬ日々を送りながら、『革命は五〇〇年後ぐらいだよな』などと自分に言い聞かせ、その時点で『死復活』した『あみだ様』(黒田のこと)が『お告げをたれる』のを待ち続ける下部革マルは、将に労働者革マルは、その間転崩し切った唯一の『生動牲』と言い得るクロカン・イデー=教典の暗誦能力に応じた位階性の中で『出世』することすらできず、我々としても『もののあわれ』を感じずにはいられず、一刻も早く解放してやりたいと思うのである)」。 |
エンゲルスにおける「遊撃戦論」をみていこう。エンゲルスは、1870−71年の普仏戦争を論評した『戦況時評』をロンドンの夕刊新聞「ザ・ベル・メル・ガゼット」紙に連載寄稿し、1870.11.11日付で次のように言う。「戦争の性格はいちじるしい変化をとげている。フランスの正規軍は消滅した。戦争をつづけているのは新徴集兵たちであり、かれらは、無経験のため、多かれ小なかれ不正規的な諸部隊をなしている。かれらは集団をなし開濶地で野戦を試みる場合には、つねにやすやすとうち破られる。しかし、新徴集兵たちがバリケードでまもられた村落や都市で、家屋内から射撃しつつたたかう場合、かれらはまともな抵抗をおこないうることが証明されている。かれらは、自分たちが行動している地域の住民をも指揮している政府の布告や命令によって、この戦闘方式に、夜襲その他の小戦闘の奇襲に奮起させられている。‥‥あらゆるドイツ軍陣地の周辺には、空隙地帯がひろがっており、まさにそこでこそ人民の抵抗が激烈をきわめている」(鹿砦社版『マルクス主義軍事論』「通則としての不正規戦」、大月版『マル・エン全集』十七巻「フランス国内の戦闘」参照)。 このように、普仏戦争でのフランス正規軍の消滅と、その後に展開された遊撃戦の評価をしている。だがこの際、エンゲルスの国民主義・民族主義的限界については留意しておかねばならない。それは当時のマルクスも同様ではあったが、例えばこの普仏戦争について、最初はドイツの国民国家の統一は進歩であるから戦争には道義性があり、しかしフランス軍の敗北後ドイツがフランスに侵入すれば、今度はフランスに正義があるとしている点である。国民国家それ自体への本質的批判としてではなく、他の国を併合したり侵略するかどうかに正義・不正義をみるということがそれである。 エンゲルスはこの枠内ではあるが、絶対主義時代の軍隊の原則=正規軍ではないあらゆる人間は即時殺害されるべし、を今や「適法」ではないと批判している。そして、人民の「不正規戦」的抵抗を「完全に適法な戦争行為」とする。「北アメリカのイギリス諸植民地の独立戦争(1775−82)では、植民者の義勇民兵は人民大衆のパルチザン運動にたすけられて、散兵隊形をもってイギリス軍の鈍重な横隊戦術を撃破した」(鹿砦社版、編者訳出)。人民の不正規的抵抗、あるいは反ナポレオン戦争としてのスペイン解放戦争(1808−14)についても、「正規軍の敗北後、全人民的なゲリラ形態をうみ出し、フランス軍を苦しめた」(同、訳注)こと、更に一八四八年のイタリア、ハンガリアの対オーストリア戦争についてもこの人民の抵抗戦が闘われていった。そしてこの戦闘形態は、敵にとって「彼ら自身の捕虜への報復を恐れたからではあるが、人民の抵抗を完全に適法な戦争行為としてあつかうことをただちによぎなくされた」と実例を出し定立している。 そしてエンゲルスは、1813三年にプロイセン軍隊の組織者・シャルンホルストによって起草された「国民軍条令」に示された人民の抵抗組織=国民軍を評価し、ブルジョア国家・国民レベルでの全人民の全国民的武装に賛成するものとして、国民軍を位置づけている。しかしこの点について、全人民武装あるいはプロレタリア総武装として純化されている訳ではなく、フランツ・メーリングが「エンゲルスも民兵問題におけるブルジョア的観念に二、三譲歩している」(メーリング、『民兵と常備軍』参照)と批判しているのは当っている。 エンゲルスは、この国民軍の任務と展開構造を次のように言う。「敵の背面および側面で蜂起し、敵の運動を撹乱し、敵の補給路と伝令網を切断すべきものがあった。そのさい国民軍は、みいだすことのできるあらゆる武器を利用し、侵入軍を悩ますものならどんな手段でもおかまいなしに駆使すべきであり−「この手段は効果的であればある程良い』−」、「『国民軍はいつでも非戦闘員の性格をとりもどし、敵に知られずにすますことができるために、どのような種類の制服をも着用しない』‥…いっさいの手段が正当であり、もっとも有効な手段が最良の手段であるこの非妥協的な国民的抵抗の精進において」貫ぬかれているとする。 人民の抵抗の手段が、「効果的であればある程良い」ということを我々からとらえ返せば、これまで以前の支配階級間の戦争や小ブル的な戦争とは異なり、階級戦争がより絶滅戦争に極限的に接近していくものとしてある以上、我々にとって重要である。また、11.26日付『戦況時評』では、パリ要塞を評価し、近代的生産力と武器の関係について述べていることは注目すべきであろう。「軍隊創出のための組織機関は、フランスではいまのところは、かなりよく機能しているようにみえる。必要とされる以上の人間はいるし、近代的工業能力と近代的輸送手段の速度のおかげで、武器は意外に大量が調達され、……フランス内で製造されている」(鹿砦社版、「必要なのは時間のみ」 大月版全集十七巻、「フランスにおける軍事情勢」参照)。 更に、12.8日付『戦況時評』においてエンゲルスは、クラウゼヴィッツの「決戦延期の戦略」を適用し、部隊の数的劣勢のため敗れ、古強者との対決にさらされた若い新編部隊にとっての遊撃戦がもつ意義を述べている。「殲滅的敗北を回避しつつ臨機に戦闘する一か月間は、かれらすべてを優秀な兵士に仕立てあげるであろう。よりよい戦略のなかでは、かれらはいまですら、成功をおさめていたかもしれない。といっても、この瞬間に必要な全戦略は、あらゆる決定的戦闘を延期することにある。そして、そのことは可能であるとわれわれは考える」(鹿砦社版、「決戦延期の戦略」 大月版全集十七巻「戦争の形勢」参照)。 そしてこの「決戦延期の戦略」の下に、かつて対ナポレオン戦争でプロセイン軍総司令官ブリュッヒャーがフランス軍の側面に送った遊撃隊の例をあげ、フランスを制圧するプロシア軍に対抗し、敗北局面から反撃するフランス軍の戦闘方針を提起する。「遊撃隊は、それがドイツ軍連絡線の切断にもちいられるときは、きわめて効果的であったであろう」。具体的な攻撃対象としてある「この連絡線に殺到し、鉄道線路、トンネル、橋梁を破壊し、列車を攻撃するなどして、ドイツ騎兵をきわめて危険な前線からひきあげさせることに成功するであろう……」。 12.9日付『戦況時評』では、「義勇兵戦闘の理論家」グナイゼナウを評価し、遊撃戦理論の体系的整理への一端をみることができる。「制服は着用せず、軍帽と黒白の帯革、それにおそらくは軍隊用の外套をまとった民兵、すなわち現在のフランス義勇軽歩兵の制服にほぼそっくりの民兵が、組織されるはずであった。『敵が優勢な兵力であらわれたら、武器、軍帽、帯革はかくされて、民兵はただの地域住民の姿をとる』」(鹿砦社版、「遊撃戦理論の体系」 大月版全集十七巻、「プロセインの義勇兵」参照)。 正規軍だけではなく、人民蜂起をも準備することに倦まずにつとめた。ついに戦端がひらかれたとき、それはたちまち蜂起、農民の抵抗、および義勇軽歩兵をともなっておこなわれた」。また、「人民戦争」という言葉を用いて、「この人民戦争の公式承認(として)国民軍条例があらわれた。その中では、現役または後備役のどの隊伍にも入っていないすべての武装能力のある男子は、あらゆる手段を是認する神聖な自衛戦にそなえるために、かれの国民軍大隊に参加することが義者づけられている。国民軍は、敵の前進および退却をともに撹乱し、敵をつねに不安な状態におき、その弾薬縦列や糧秣輸送、伝令、補充隊および病院を襲撃し、敵を夜襲し、その落伍者と分遣隊を全滅させ、敵のあらゆる運動を妨害し、不安定にさせるとともに、他方ではプロセイン軍を援助し、金銭、糧食、弾薬、捕虜などを護送することが命じられている。この法令は事実上、模範的な義勇兵必携と呼ぶことができるものである」。 かくしてエンゲルスは、クラウゼヴィッツ、グナイゼナウを評価し、彼らの規定した「国民戦」を「人民戦争」として把え返し定立した。そして、これまでブルジョア軍隊によって「不正規な、卑劣なもの」といわれてきた遊撃戦の戦闘様式と戦闘を「人民戦争」として評価し、まさに階級戦争としての革命戦争に有する普遍的形態として定立する突破口を築きあげたと言えるのである。 次にレーニンについてみていくが、彼がマルクス主義兵学に接近するに際し影響を少なからず与えたといわれるフランツ・メーリングに触れておこう。メーリングは、『民兵と常備軍』の中で、民兵とその兵役制度がプロレタリア革命の基本的なものであり、「革命的原理」であるとしている.この点について、いくらかの引用をし紹介をしておくことは無駄ではないと思われる。「民兵か常備軍かという問いは、兵役制度の問題である。そして、あらゆる兵役制度の魂は軍紀である。純粋に思想的にみれば民兵の軍紀は、せまい労働および生活共同体に由来する規律であり、教育と訓練をつうじて生みだされる規律である常備軍の軍紀には無限にまさっている。生活そのものが学校よりもすぐれているのと同じである。学校ではなく、生活が戦士をきたえるのだ。しかしあらゆる民兵の前提は、まさしく労働と生活の共同体であり、それは歴史的発展によってのみつくりだされるのである」、「さて、原始的社会状態を分解し、破壊し、競争によって内部からひき裂かれた大衆へと解体するのが、資本主義的生産様式の歴史的任務である。それとともに、この社会状態の軍隊組織は崩壊する。しかし、資本主義的生産様式をうみだした近代階級国家は、みずからが後がまにすわったもとの社会状態よりも、ずっと高い程度に軍隊を必要とする。なぜなら、対外的には侵略の原理対内的には抑圧の原理に依拠しているからである。‥‥常備軍は、‥‥諸国民にたいするおそるべきむちとなった。それに応じて、……自らの胎内に近代文明を孵化していた‥‥」、「いいかえれば、資本主義的生産様式が近代労働運動のなかでさえ、民兵の第一の前提条件を作りだしているのであり、この民兵は、はてもなく高度な段階で、原始的な社会状態の規律を改新し、常備軍の軍紀をはるかに凌駕する保証をすべておのれの内部にはらんでいるということである」。全体としては、非実践的であり、把え返した評価が必要であるが、とくにこの最後の箇所については、注目し検討する必要のあるものであるといえる。 さて、レーニンについてみていこう。ロシアにおける本格的な軍事闘争、武装闘争は、パルチザン戦闘として一九〇五年革命の只中で展開されていった。そしてレーニンは、この戦闘をプロレタリアートの武装闘争の発展過程の中に正当に位置づけていた。彼は、この時点までにはクラウゼヴィッツを直接読んではいなかったと言われているが、この戦闘の経験を通しクラウゼヴィッツやエンゲルスが国民戦、遊撃戦論で説いたような、その戦闘を正親軍の敗北のあとのものとか、補完的な戦闘であるということをそのままロシア階級闘争に適用する愚は初めからのがれていた。 このことは、『モスクワ蜂起の教訓』の中でも示されるように、「数日にわたって軍隊を相手に革命隊員の頑強なパルチザン闘争が展開された。この間争は軍隊を疲労させ、ドゥババゾフは、増援隊の要請をせざるをえなかった」ほどのものであり、単なる流賊的・匪賊的な部隊の戦闘ではなく、「革命隊員の頑強なパルチザン闘争」という表現からも明らかであろう。モスクワ蜂起の第三の教訓として述べている箇所では、更にはっきりと示されている。「第三の偉大な教訓は、戦術と蜂起のための勢力の組織とにかんするものである。軍事上の戦術は、軍事技術の水準にかかっている」。 バリケード攻防に関してモスクワが「新しいバリケード戦術」を提起し、エンゲルスが指摘した「将来の市街戦」におけるバリケード闘争の限界と新たな内容を補添することをしなければならないという問題提起(エンゲルス、『フランスにおける階級闘争』一八九五年版序文)を継承した「その戦術とは、パルチザン戦争の戦術であった」。「この戦術の要求する組織は、機動的な、ごく小人数の小部隊である。すなわち一〇人組、三人組、ときには二人組でさえある」、「‥‥『五人組』が『新しいバリケード戦術』の問題とどんな結びつきをもっているか・・‥パルチザン隊の性格は、あまりにも一律で、その武器と闘争方法は不十分であり、群集指導の能力もほとんど育成していなかった.……そして、一二月以後ほとんどたえまなくロシアのいたるところでおこなわれているあのパルチザン戦争、大衆的テロルは、蜂起のさいの正しい戦術を大衆におしえることを、うたがいもなく助けるであろう。社会民主党は、この大衆的テロルを承認し、それを自分の戦術にとりいれなければならない。もちろん、このテロルを組織化し、統制し、労働運動と全般的な革命闘争の利益と条件に従属させ、モスクワの人びとが蜂起のときに、またラトヴィア人たちが有名なラトヴィア共和国事件のときに、実に立派にまた実に容赦なく始末したように、このパルチザン戦争の『浮浪人的』歪曲を容赦なく排除し、きりすてなければならないことはいうまでもない」。 そして、このパルチザン戦闘それ自体の党による統制や労働運動と全般的な革命闘争の利益と条件にそったものとして再編・展開し、単に大衆的な抵抗闘争ということのみならず、むしろ党自らがそれを推進すべきものとして定立しているのである。「プロレタリー」紙第五号(一九〇六年九月三〇日付)に掲載した『パルチザン戦争』でマルクス主義における闘争形態の問題について言っている。「……すべてのマルクス主義者は、闘争形態を検討するにあたって、……第一に、マルクス主義は、運動をなにか一つの特定の闘争形態にしばりつけない点で、すべての原始的な形態の社会主義とはちがう。……第二に、マルクス主義は、闘争形態の問題を、かならず歴史的に考察することを要求する」(傍点はレーニン)。 闘争形態に対するこの二つの基本的な理論的命題に基づき、モスクワの経験した新しいバリケード戦術=パルチザン戦闘を承認し、それを非難する「書斎の組織屋」を批判する。「……マルクス主義は、どんな闘争形態をも拒否するなどとは絶対に誓わない。マルクス主義は、ある場合だけ実行可能で、その時機だけおこなわれる闘争形態にとどまることはけっしてなく、そのときの社会情勢の変化にともなって、その時代の活動家のしらない、新しい闘争形態が不可避となることをみとめるものである」(傍点はレーニン)。「ある運動のある発展段階における具体的な情勢をこまかく考慮せずに、特定の闘争手段の問題にイエスかノーかをこたえようとするのは、マルクス主義の基盤をまったくなおざりにすることを意味する」。 そしてレーニンは、ロシアにおける闘争形態の歴史的発展の中でこの武装闘争の任務と目的について次のように提起する。「(この)武装闘争は、厳格に区別しなければならない二つのちがった目的をもとめている。つまりこの闘争は、第一には、個個の人間、軍隊や警察の長官や下役の殺害、第二には、政府や個人からの資金の没収、を目標としている。没収した資金は、一部は党にいき、一部は特別に武装と蜂起の準備にあてられ、一部はいまここで述べている人びとの維持にあてられる」(傍点はレーニン)。 この戦闘についていえば、これのみが唯一の本格的なプロレタリア軍事闘争だとされる意味での遊撃戦・パルチザン戦・ゲリラ戦としてあるのではなく、ロシアにおける闘争形態の発展と将来の正規軍形成を展望し、正規軍戦と呼応したパルチザン戦およびパルチザソ組織の任務との関係で把握されるべき内容としてこのことはある。 このパルチザン戦闘に加えられたあらゆる罵倒と非難、「それは無政府主義、ブランキズム、旧式のテロルであり、大衆から切りはなされた孤立者たちの行動、労働者の堕落、労働者からの広範な住民層の離反、運動の撹乱、革命の害、だという」あらゆる誹謗中傷と闘い、レーニンは反批判を尽していく。ただ、彼のこの戦闘の擁護と反批判の内容は、パルチザン的戦闘形態が占める階級闘争での位置、とりわけ蜂起時における戦闘の一環であるとの評価に限られており、蜂起に至るまでの本格的武装闘争との関係において把握する点についてはなされていない点は指摘できるであろう。 彼は、この戦闘への非難に対し、「蜂起との結びつきが明瞭だ」(傍点はレーニン)として答えて言う。「『パルチザン』闘争の普及は、まさに一二月以後のことであり、それが経済的危機の激化だけでなく、政治的危機の激化とも結びついていることは疑いをいれない。ロシアの旧来のテロリズムは、インテリゲンツィアの陰謀家の仕事であった。しかしいま、パルチザン闘争をやっているのは、労働者の武装隊員、あるいは単なる失業労働者である」。 経済的・政治的危機の激化と蜂起の情勢との関連の中でこの戦闘をとらえかえし深化すべき内容ではあるが、蜂起の条件の中にもみている。 「パルチザン闘争は、大衆運動がすでに実際に蜂起に到達したとき、内戦における『大会戦』の多少とも長い中休みがおとずれるときに、不可避的となる闘争形態である」。更につづけて言う。「パルチザン行動はわれわれの活動を解体させる、というものもいる。……運動を解体させるのは、パルチザン行動ではなくて、パルチザン行動を掌握することのできない党の弱さである」、「解体について述べたことは、士気沮喪させるのはパルチザン戦争ではなくて、バルチザン的出現の非組織性、無秩序牲、無党派性である。……なぜなら、内戦またはその一形態としてのパルチザン戦争を、総じて異常な、士気を沮喪させるものと考えることは、マルクス主義者にはできないからである」、「鋭い経済的および政治的危機が生じたある時機には、階級闘争は、直接的内戦、すなわち人民の二つの部分の武装闘争に発展する。そういう時期には、マルクス主義者は、内戦の見地に立つ義務がある」(傍点はレーニン)。 更に、新しい闘争形態の移行にともなう犠牲と危険についてもふれている。「パルチザン戦争の運動を解体させるための口実には、批判的な態度をとらなければならない。あらゆる新しい闘争形態は、新しい危険と新しい犠牲とをともなうものであり、この新しい闘争形態の準備ができていない組織を、かならず『解体させる』。われわれの旧宣伝家グループを扇動への移行が解体させた。われわれの各委員会を、その後のデモンストレーションへの移行が解体させた。どんな戦争のさいにも、軍事行動はすべて、戦闘員の隊列にある種の解体をもちこむ。このことから、戦うべきでないという結論をひきだしてはならない。このことからひきださなければならない結論は、戦い方を習得しなければならないということである。ただ、それだけのことである」(傍点はレーニン)。 このことについて我々は、レーニンと共に断乎として銘記しなければならない。「内戦の時期には、プロレタリア−トの党の理想は、たたかう党である」と革命党たる立場を鮮明にし、パルチザン戦闘に対するあらゆる非難、敵対をはねのけ、この戦闘を党の指導と闘争全体の中での位置を正しく示している。「プロレタリアートの党は、パルチザン戦争を唯一の闘争手段、あるいは主要な闘争手段とさえみなすことはけっしてできないということ、この闘争手段は、他のいろいろな闘争手段に従属していなければならず、もろもろの主要な闘争手段とつりあっていなければならず、社会主義の啓蒙し、組織する影響力によって純化されていなければならないということ、それだけである。そしてこの最後の条件なしには、ブルジョア社会でのあらゆる、いわゆるあらゆる闘争手段は、プロレタリアートを、その上または下にあるいろいろな非プロレタリア層に近づけることになり、また自然発生的な成りゆきにまかされて、消耗し、変質し、けがされてしまう。自然発生的な成りゆきにまかされるストライキは、消費に対抗する労働者と雇い主の協定に変質してしまう」。 このことは、議会についても、新聞についてもその変質は同様であるという。「社会民主党は、いろいろな手段を適用するが、ただつねにその適用に、厳格に規定された思想上および組織上の条件をつけておくのである」。 続いてトロッキーについて触れていこう。彼は、一九一七年のロシア革命およびその後の内戦において、軍事理論−軍事綱領−軍事指導をレーニンの承諾を基にして、ほぼその中軸を唯一彼が成してきたが、革命勝利後の軍事組織建設および戦術論ではパルチザン主義に反対し正規軍を強調していった。しかし、彼は、決して正規軍戦万能主義ではなく、また正規軍戦か遊撃戦か、陣地戦か機動戦かとして単純に一方を切り捨てるということはしなかった。このことを一九一九年七月二四日付『軍事問題』誌に所載された『ゲリラ戦と正規軍』よりみていこう。この場合、我々が前提的におさえておくべきことは、権力奪取以前と以後との区別が必要であること、また権力闘争以前において−それが初期であればあるほど、ロシアでの戦闘形態は遊撃戦的・パルチザン戦的なものであり、戦闘組織も遊撃隊ないしはゲリラ的・パルチザン的組織であったことである。トロッキーもその点に関して、一九〇五年のパルチザン戦闘と、そこで形成された組織とくに黒百人組に対抗して形成されてきた赤衛隊の中から、一九一七年二月革命以降のソヴィエトの武装と武装組織はひきついでいるということを述べている。 さて、ゲリラ戦、遊撃戦についてのトロッキーのたて方を『ゲリラ戦と正規軍』よりみていこう。彼は、まずゲリラ戦に関する概念の混乱をあげ、概念規定を定義づける。「……この概余は一般的に無規律、強盗行為、流賊生活等々と同義語とされてしまった。しかし、多くの場合『遊撃戦』として定義されるゲリラ戦は、これまでも正式な軍事論の一部であり、そうでなくてもその適法の子供、すくなくとも認知された私生児としてとりあつかわれてきた。一般的にいうと、普通の戦闘が敵を殲滅することを目的とすれば、遊撃戦は、敵に障害や損害をあたえるためにおこなわれるのである。組織と作戦の立場からすれば、遊撃戦は部隊の独自行動の範囲の広いことを特徴としている」、「しかしながら、このことは『ゲリラ戦』とはつねに組織と武器を欠いた集団の自然発生的行動を意味する、ということではないのである。ゲリラはまた、その完全な行動の独立にもかかわらず、参謀部に厳格に従属した部隊による、きめこまかに立案された機動という行動形態をとることもありうるのである。こんにち、われわれは、あたかも共産主義的であるかの形態をとるものであれ、いっさいの流賊生活とたたかってはいるが、それはパルチザン運動の必要性、有用性を否認していいということではない。それどころか、戦争のこれらの展開のなかで、ゲリラ戦がますます重大になっていくだろうと、確信をもって宣言することができるのである」 更に、この遊撃戦が赤軍によってのみではなく、白軍によっても竜騎兵を主力とした機動戦として展開されていることを指し、その普遍的性格について言っている。「こうした経験は、これまでのべた意味での『遊撃戦』あるいはゲリラ戦は、ある条件のもとでは内戦の過程であり、たたかう階級のいずれによってもきわめて有効な武器となりうることをしめしている」。 そしてトロッキーは「支配的なタイプとしての遊撃戦は、もっとも強い者にたいするもっとも弱い者のたたかいの武器である」として、劣者の強者に対する普遍的・必然的な戦闘形態であることを正しく看破している。「強い者は弱い者を虐殺し、粉砕しようとこころみる。これにたいし、弱いが、たたかいを放棄しない意識的分子は、将来力関係が変わる見通しのうえにたって、気長に強力な敵を弱体化し、解体させるよう努力する」。このうえにたって、彼はゲリラ戦を単なる流賊主義、匪賊主義あるいは非組織性と結びつける傾向に対しては、きびしく批判する。「ゲリラ戦とは、急速で軽快な機動、不意の待伏せといった戦闘方法をさすとすれば、戦闘員や指揮官の幼稚と未熟を特徴とする反逆者の集団が、真のゲリラ戦にもっとも不適当であることは、明白である」と。 |
このような論理において党派間戦争を担ったのは、「プロレタリア統一戦線戦闘団」であった。この組織が中軸となって、組織的、計画的にゲバルトを敢行している。 |
【「内ゲバ」反対党派の見解】 |
暴力行使に否定的な党派も存在はしているが、多くの新左翼諸党派は、濃淡の差はあるが、「内ゲバは、階級闘争の過程で派生する人民内部の矛盾の一止揚形態である」、「党派闘争における暴力は不可避であり、非暴力主義を貫くことはきわめて困難である」とする基本的認識においてはほぼ横並びである。 |
津村洋(『国際主義』編集会議IEG)の二〇〇二年七月三一日日付け論文「問題提起:「内ゲバ」を一掃するために Ver.2」を転載しておく。
|
(私論.私見)