「川口大三郎君虐殺事件」資料

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元、栄和3)年.4.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「川口大三郎君虐殺事件資料」をものしておく。瀬戸宏作成・管理「川口大三郎君追悼資料室」その他を参照する。

 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝


 (関連資料1)
 早大に革マル派を跋扈させた責任が早大当局自身にもあることは、知っている人なら知っていることだ。そのことを記した岸沼秀樹氏の文章が「彼方」というミニコミ誌に掲載されているので、その一部を引用させていただく。時代は1972年から73年、大学を舞台にした内ゲバ闘争が激しく行なわれていた頃のことである。(岸沼秀樹「左翼名鑑」~「彼方」編集部発行「彼方」5号所収
 「(一九七二年)十一月八日、中核派シンパの早大生川口大三郎が革マル派の防衛隊につかまり、リンチによって殺害された。早大構内では常に革マル派の防衛隊が、他党派の活動を封じるためにパトロールしていた。中核派は報復を宣言した。長年の革マル派の暴力支配に対し一般学生も立ち上がり、革マル派活動家への大衆的追及は翌朝にまで及んだ。(当時、革マル派と良好な関係にあった早大当局は、機動隊を導入して革マル派活動家を救出した)」。
 「一九七三年五月七・八日WAC(注・早大行動委。早大生の反革マル大衆組織で黒ヘルメットを着用。ノンセクトが主体であったが、解放派や中核派などセクトも加わっていた)を中心とした反革マル系部隊は、革マル派を打ち破り、村井早大総長を引き出して大衆団交し、五月十七日の再団交を確約させ、一時、反革マル系が勝利するかと思われた。だが、十七日当日、総長は団交の約束を破棄し、集まっていた反革マル系学生は導入された機動隊によって多数の負傷者を出して追い散らされた。この日をもって早大での革マル派の勝利は確定した」。

 (関連資料2)
 「僕らが生まれる前に起こったことについて、当事者でない、しかも学園闘争に対する知識に乏しい僕が、『もしあのとき…ならば』といったような無神経な発言をすることは慎むべきだろう。また、当時の大学当局が行なった選択に対する判断を、ここで下すことも僕にはできない。だが、これだけは大学当局に対して主張したい。革マル派の存在を30年も許してきた自らの責任に対する反省のないまま、ただ革マル派という”負の遺産”を精算するため、一般学生を学内政治に巻き込み、さらに早稲田祭不開催をはじめとする”ツケ”をわれわれ学生に支払わせるのは、全く間違ったことである。もう大学と革マル派の、醜い争いに振りまわされるのはうんざりだ。この状況を変えられるのは、大学の主役である学生の、爆発的なエネルギーしかない!

 (なお、大学と革マル派(系学生)との間には、73年以降90年代初頭まで密接な関係があったと言われているが、僕には詳しいことはわからない。まあ、そのような過去の問題は大学当局の偽善性を知るのに役立つだけで、新しい早稲田祭作りを目指す新時代の学生はもはや気にする必要のないことかも知れないなあ)」。


 (関連資料3)
 「命の重さ(おぞましき事件)」。
 ●命の重さ(おぞましき事件)

 ★僕の学校嫌いに拍車をかけた事件が起こった。大学1年生の早稲田祭で、川口大三郎君という学生が革マルの手によって文学部のキャンパスで殺されたのだ。革マルは「川口君が中核派のシンパ」とし、「スパイ行為をとがめて、詰問しているうちに死んでしまった。だからあくまでも事故」という釈明をしたが、多数の男たちがリンチを加えて、死に至らしめたことは動かせない事実で、川口君が中核派だとかそんなことで殺される理由は微塵もないのである。

 事件が明らかになると、破廉恥にも語学の授業に革マルのメンバーがやってきて事件の正当性を説いていく。無論、彼らは総スカンを食うわけだが、何を勘違いしてか、今度は事件を利用した反革マルのセクトが早稲田に徘徊して、内ゲバはエスカレート、毎日のようにキャンパスで血が流された。反革マルといわれるセクトは川口君事件を利用して、革マルの後退と自分たちの勢力拡張を図っただけ。命の重さなど、彼らにはまったく関係のないことだった。あいつらは反戦という言葉をよく口に出す。しかし、反戦って何だろう。イデオロギーが違うという理由で、同世代の人間同士がいがみ合い殺し合うことなのだろうか。人一人殺してはいけない、これが反戦の精神ではないだろうか。僕は革マル派のシンパにこの質問を叩きつけたが、無論、答は返ってこなかった。それどころか、数日後、差出人不明の、しかも切手を貼っていない脅迫状が送られてきた。

 ★早稲田が内ゲバの巣になってから機動隊が常駐するようになった。時として、およそ学生には見えない私服警官がキャンパスの溜まり場を巡回している。もともと授業の半分くらいしか出ていなかった僕は、出席をとる授業しか出ないようになっていった。学校に行っても、喫茶店か雀荘でたむろしているだけ。暇を見てはアルバイトに精を出すようになった。現実逃避、そのための放浪資金を貯めたかったからである。

 (関連資料4)
 瀬戸宏・氏の「2013年川口大三郎さんを偲ぶ会に参加して」を転載しておく。
 *ツィッターなどに発表した文章を書き直したものです。このHPが初出です。
 
 11月8日夜、「2013年川口大三郎さんを偲ぶ会」が東京都・自由が丘・オカランズでありました。川口大三郎さんといっても知っている人は、今ではわずかでしょう。川口大三郎さんは、1972年11月8日、革マル派という集団が支配していた早大一文(第一文学部)学生自治会執行部によってリンチ殺害された早大一文学生です。当時、自治会執行部が自治会員を殺したということで、非常に大規模な自治会再建運動が起こり、多くの学生が反革マル自治会再建に立ち上がりました。しかし、内部対立や革マルの反撃などで、運動は約一年後に収束しました。
 
 昨年は逝去40年で全早大規模での偲ぶ会が開かれたそうですが、これには私は参加していません。昨年の会は人数も多く、必ずしも参加者の話をじっくり聞く雰囲気では無かったので、今年は一文だけの会を企画したとのことです。当時、私も運動に参加していたので、案内が届きました。
 
 参加者は当時の再建自治会委員長樋田毅さんはじめ20名あまりでした。会は午後6時から始まり、全員がそれぞれの思い、その後の人生を語りました。20数名全員が語り終わったところで午後9時になり、会は終わりました。(樋田さんの名前を出すことは、本人の了承を得ています)
 
 多くの人が、川口君事件は自己の一生を決めたでき事だと語りました。私にとってもそうです。さまざまな思いが参加者から語られました。あれはプラハの春のような民主化運動だった、四十年たっても、まだあの運動の意味を総括しきれない、総括しきれなくてもいい、一生思い続けていきたい等々。
 
 会では、さまざまな人の消息も伝えられました。事件当時私と親しかったK君が昨年12月うつ病で自殺したことを知って、衝撃を受けました。会自体はたいへんよかったと思います。幹事さんご苦労様でした。
 
 次は、当日の私の発言の一部。
 川口君事件は私にとってもその後の人生を決定した出来事でした。私の政治的立場は、その後あまり変わっていない。事件との問題意識でいうと、辻元清美代議士が2003年に不当逮捕されたことがありました。その時、「辻元清美さんら四人の不当逮捕に抗議する有志の会」というHPをK君(自殺したK君とは別人)らと立ち上げました。HPに管理者名はないが、作成・管理は私です。当時の同種のHPはほとんど消滅しましたが、このHPは記録のため今も残してあります。
 http://homepage3.nifty.com/tujimoto/
 
 川口君事件の経過などは、正しく伝えられていないと思います。鴻上尚史という劇作家が数年前に『ヘルメットをかぶった君に会いたい』という事件と関連する小説を書きました。内容は、川口君事件で指名手配された革マル女性活動家の初々しかった頃の映像を彼がみて、その女性を探すというものです。鴻上尚史自身が匿名で2ちゃんねるにスレッドを立ち上げ、情報集めをしました鴻上尚史が川口君事件にあまりに無知で、その態度にも安易さが感じられたため、私も彼のスレッドに多少書き込みをしました。『ヘルメットをかぶった君に会いたい』に、このスレッドの書き込みが一つだけ載っていますが、あれは私が書いたものです。
 
 事件当時、私を一番殴ったのは(革マル)一文自治会副委員長のO(会では実名)でした。そのOはいまでは×××(会では名を言う)の筆名で少しは知られた評論家です。暴露してやろうかとも思いましたが、本人が言うべきことだからと思いとどまっています。(Oのことはかなりの参加者も知っていて、彼のことで会は盛り上がりました。)
 
 ここから後は、私のその後の感想です。川口君事件の総括をする前に、まず事実関係の資料集めをしなければならないと思います。事件の資料集を作りたいが、そのためにはまず川口君の墓参りをしてから、という気持ちがありました。しかし、お墓の場所がわかりません。幸い、当日川口君と同じクラスの参加者がいて、お墓の正確な場所を教えて貰えることになりました。虐殺反対という運動の初心を失わないためにも、墓参りから始めなければならないと思っています。
 
 会では、参加者の多くが、今でも革マルは絶対に許せない、と語りました。私も、1990年代ぐらいまではそういう気持ちでした。しかしここ数年は変わってきました。
 
 私は中国研究が職業ですが、殴られたから、殺されたから絶対許せない、では日中関係は成り立たちません。中国研究では私は殺した側(の子孫)だから許す許さないの問題は日本側から言い出すことではないと思い触れませんが、事件について言えば、ある一定の段階で革マルもある種の犠牲者だったと許すことは必要だと思います。しかしそのためには何をしなければならないでしょうか。
 
 私は現在、社会主義理論学会の役員もしています。研究集会などに革マル系の出版社こぶし書房が時々出店に来ます。友好的に対応しているつもりです。厳しい出版事情の中彼らも苦労していると思い、意味があると私が思うこぶしの本は摂南大学の図書館に入れています。私なりのささやかな実践です。

 (関連資料5)
 2014.2.2、瀬戸宏「川口大三郎君の墓参り」。
 2014年1月30日、川口大三郎君の墓参りをおこなうことができました。川口大三郎君は元早稲田大学第一文学部(一文)学生で、1972年11月8日に当時一文自治会執行部を支配していた革マル派に対立党派メンバーの疑いをかけられ殺された人です。これを機に激しい自治会再建・反革マル派運動が起きました。その概略について興味のある人は、私と意見の違うところもありますが、「『川口大三郎君虐殺』事件考」(れんだいこ作成)というページをみてください。現在までのところ、事件についての一番詳しいページです。
 昨年11月8日に「2013年川口大三郎さんを偲ぶ会」に参加した後、 「『2013年川口大三郎さんを偲ぶ会』に参加して」と題する文章を書き、私の個人HPに発表しました。
 この文章は、私が実名・公開で事件・運動について語った最初のものです。運動が収束した後、私を含めて関係者のほぼ全員が運動について沈黙してきました。語らない理由は人それぞれでしょうが、あえて整理すると、負けた運動であること、内部対立などあまり振り返りたくない内容がいくつもあること、左翼性の強い運動のため1980年代以降の日本では公然と語ることがはばかられたこと、公開の場で語ると革マル派のいやがらせを受けかねないという危惧があったこと、などになるでしょう。しかし、私も60歳を越え、やはり歴史は語らなければならないと思い返し、少しずつ事実と思いを述べていくことにしたものです。
 先の文章で、私は「川口君事件の総括をする前に、まず事実関係の資料集めをしなければならない と思います。事件の資料集を作りたいが、そのためにはまず川口君の墓参りを してから、という気持ちがありました。しかし、お墓の場所がわかりません。
 幸い、当日川口君と同じクラスの参加者がいて、お墓の正確な場所を教えて貰えることになりました。虐殺反対という運動の初心を失わないためにも、墓参りから始めなければならないと思っています。」と書きました。2Jクラスメンバーより、約束通りお墓の所在地がまもなく届きました。2Jとは川口君が所属していたクラスで、中国語です。1971年入学の早大一文学生は、今日では想像しにくいのですが、全20クラス中中国語は2クラスしかありませんでした。私はもう一つのTクラスでした。
 お墓の所在地はわかったものの年末年始の繁忙期もあり、すぐには墓参を実行できませんでした。当初は一人で行く予定でしたが、私の考えを知った樋田毅君(1J、再建自治会委員長)、菊地原博君(1T)も参加を希望し、三人で墓参をすることにしました。三人で日程を調整して1月30日になったのです。お墓は、静岡県伊豆市地蔵堂218法蓮寺にあります。
 当日は正午にJR新幹線三島駅改札口で集合。菊地原君および東京出張中の樋田君は東京方面から、私は大阪方面から三島駅に向かいました。そのあと、三島から伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換え、終点の修善寺へ。約四十分かかります。修善寺駅近くの食堂で名物というわさび丼を食べた後、お墓に供える花などを買い、それからタクシーで法蓮寺まで向かいました。バスもあるのですが、私が事前に法蓮寺に電話したところ、本数が非常に少ないとのことで、タクシーで行くのが一番効率的だということになったのです。タクシーは駅で簡単に拾えましたが、帰りは拾いにくいので、寺で待って貰い、帰りもそのタクシーに乗りました。事前に片道3000円以上と聞いていましたが、待ち時間代500円も含めて、往復で約7000円でした。今後お墓参りをする人の参考に書いておきます。
 法蓮寺は、駅からタクシーで片道約二十分の山中にあります。お寺に着くと、居住部分の玄関に、「法務で外出しています」「1/30川口家墓所をお参りをする方へ 略図を書いておきます、本堂の右側を通ってください」という張り紙がしてありました。二十日ほど前に、事前確認の電話で30日に川口家のお墓参りに行く、と言ったことを覚えていてくれたのです。お寺の人の心遣いに心動かされました。樋田君が用意してきたお菓子に簡単な文面を添えて置いてきました。
 
 法蓮寺にあるお墓は30から40とのことで、ほどなく川口家の墓はみつかりました。もともとは出身地の伊東にあったのですが、川口家の事情で平成19(2007)年に法蓮寺にお墓を移したのです。そのため、お墓はまだ新しく川口家之墓という金文字も色あせていませんでした。
 お墓には川口大三郎という名前はなく、戒名が四つ刻まれているだけでした。後ろには木製の卒塔婆が何本か立てられており、そのうちの一つに釈善然信士第五十回忌追悼供養と書かれていたので、釈善然信士が川口君の戒名だろうと推定しました。1972年逝去ですから五十回忌には少し間がありますが、他の卒塔婆もすべて裏に平成廿五年四月十四日とあるので、まとめて法事をおこなったのでしょう。戒名はふつう本名(俗名)の一部を取り込むものですが、なぜこのような戒名になったのかはわかりません。お墓になぜ本名が記されていないのかもわかりません。
 あいにくかなり激しい雨が降っていたので、お花は供えましたが、菊地原君が用意した線香は焚くことができませんでした。お墓に向かって、それぞれの思いを込めて手を合わせました。五十回忌という時間の長さだけでなく、私は五十回忌が「 弔上げ」といわれる最後の法事であることに思うところがありました。もうこれからは川口大三郎君のご親族も川口君を偲ぶ行事をすることはありません。魯迅は「死者が生きている人間の心の中に存在していなかったら、本当に死んでしまったのだ」(「空談」)と言いましたが、私たちが川口君を思い出さなかったら、川口君は永遠に死んでしまうと思いました。
 三島駅まで戻った後、近くの居酒屋で少し三人で雑談しました。かつて毎日のように顔をあわせ共に運動していたのに、事件や運動の記憶にかなり大きな違いがあることに驚きました。四十数年の時間の経過の中で、それぞれの記憶が変形しています。川口君を死に至らしめた実際の経過や具体的な主犯も、実はほとんど明らかになっていません。少なくとも墓参をした三人は知りません。川口大三郎君を巡る事件・運動を記録に残すことの意味を、改めて確認させられました。(樋田君、菊地原君の名前を出すことは、両君の承諾を得ています。)

 (関連資料6)
 村上春樹は、「海辺のカフカ(上) 」(新潮文庫、2002.9.12)、「海辺のカフカ(下) 」(新潮文庫、2002/09/12) の中で川口氏をモデルにした人物を登場させている。直木賞作家の松井今朝子の「師父の遺言」(NHK出版、2014.3.22)にも関連の記述がある。ともに事件当時、文学部に在籍していた。
  瀬戸宏・氏の2014年11月10日付けブログ「川口君事件の記憶-松井今朝子『師父の遺言』と村上春樹『海辺のカフカ』」を転載しておく。
  (一) 

 最近、川口君事件に触れた文芸作品を二つ読みました。そこで感じたことを、メモにまとめておきます。

 一つは松井今朝子『師父の遺言』(NHK出版 2014.3.20)です。松井今朝子は1953年生、1972年早稲田大学第一文学部入学同大学院演劇専攻修士課程修了で、直木賞作家です。『師父の遺言』は、武智鉄二との交流を中心とした長編自伝エッセイですが、そこに川口君事件が出てきます。ある人からこの事を教えられ、通読しました。該当部分の全文を引用します(ネット上で読みやすいように空き行を入れます)

 「もちろん私はノンポリ学生で通したが、デモには一度だけ参加している。それは川口君という文学部の二年生が構内で革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)のリンチによって虐殺された際に、一般のノンポリ学生が革マルの追放を呼びかけて立ちあがった学内デモである。川口君の死にざまは立て看やチラシに無惨な図入りで訴えられて、それはいくらノンポリでも学内にいて見過ごすわけにはいかない事件だった。近年、私は村上春樹の『海辺のカフカ』*3を読んで、ある部分の描写が明らかに川口君事件をモデルにしていると直観したくらい、心に深く刻まれた事件なのである。

 男子学生と肩を並べてスクラムを組むと、小柄な私は足が宙に浮いてしまう。その状態でキャンパスのスロープをかなりのスピードで行進されると、まるで絶叫マシーンに振りまわされるような感じになった。背後からの将棋倒しで大勢の男子学生の下敷きになった時は、胸が強く圧迫されて呼吸ができず一瞬目の前が真っ暗になり、それはこのまま死んでしまうかもしれないと恐怖した数少ない体験の一つである。

 当時の早稲田は大学当局と革マル派との癒着が取りざたされており。大学祭の運営が革マル派の資金源となっているのを当局は黙認しているかたちだった。その理由は、共産党系の民青(日本民主青年同盟)に学内が牛耳られることを恐れるあまり、革マル派と手を結んだほうか得策とするのだろうと、ノンポリ学生は冷ややかに推測していた。事の当否はともかく、当局が機動隊の学内導入によって早期解決を図った結果、一般学生による革マル派の追放はついに成らず、三十人ばかりの私のクラスでは、この紛争による犠牲者が何人も出てしまった。一般学生の代表を務めたり、民青との関係があるとみられた学生は革マル派に狙われる恐れがあるため、自主退学を余儀なくされたのだ。今では考えられないような話だが、実際に川口君が構内で殺された直後だっただけに、学内に留まれば彼らも命が危険にさらされると感じたのだろうし、当時の私たちにもそう思えたのである。

 ポスト団塊の私たちは世の中でシラケ世代と呼ばれたが、個人的にはこの事件によって早稲田大学というものに心底しらけてしまった。それは敵の敵は味方といった功利的な手の結び方をするオトナ社会全体に対するしらけ方であったのかもしれない」。(同書九 政治の季節の終焉 p69-p71)

 松井今朝子にこういう体験があることは、『師父の遺言』を読んで初めて知りました。川口君虐殺糾弾運動の広がりを示す一つの資料になると思います。ここで紹介した所以です。ただ、引用した文章には、私からみて松井今朝子の事実誤認ないし記憶違いと思われる部分が二つあります。それを記しておきます。

 一つは、「(早大当局は)共産党系の民青(日本民主青年同盟)に学内が牛耳られることを恐れるあまり、革マル派と手を結んだほうか得策とするのだろうと、・・・推測していた」という部分です。虐殺発覚後の糾弾・自治会再建運動で民青は大きな役割は果たしていません。川口君事件の半年前に起きた新日和見主義事件で民青の活力は大きく削がれ、当時の学生の中の反民青感情も非常に強いものがありました。早大当局がある時点で革マル派を温存した方が得策だと判断したのはその通りだと私も思いますが、それは対民青よりも事件を機に早大にも姿を現した中核派・解放派・黒ヘルノンセクト・ラジカルなど新左翼諸派が学内で公然と活動すれば、革マル派が支配する以上に学内が混乱すると当局が考えたからだと思われます。これには私なりの根拠があるのですが、現在はまだ資料収集・整理の途上ですので、ここでは詳細を述べるのは控えます。

 もう一つは、「一般学生の代表を務めたり、民青との関係があるとみられた学生は革マル派に狙われる恐れがあるため、自主退学を余儀なくされたのだ」という部分です。当時の活動家のかなりが中退したのは事実ですが、私の認識ではその主要な理由は「革マル派に狙われる恐れ」ではありません。確かに1973年に入って革マル派の巻き返しが始まると、活動家に対する公然たる狙い撃ちの暴行も始まり、特にキャンパスが独立している文学部では活動家は登校できなくなりました。しかし、1973年秋以降は、戦争とも言われる革マル派対中核派、解放派の文字通りの殺し合い内ゲバが激化し、革マル派は民青も含めた比較的穏健な他セクトや一般学生活動家どころではなくなり、時々顔見知りの革マルからいやがらせを受けることはあっても、キャンパス内にまた入れるようになっていました。

 更に、文学部は川口君の所属学部だけあって教員は革マルの横暴を理解しており(教員の中にも革マル派に日常的に暴行される者がいた)、運動に対してもある程度は同情的でした。そのため、公開されていることではありませんが、確かに革マル派のために登校が困難な学生に対しては、試験のレポート代替、喫茶店など学外の安全な場所での面談・試験実施などの救済措置を取ったのです。(政経学部など本部キャンパスの学部ではそのような措置はなかったとのことです)だからどうしても卒業するという強い意志があれば卒業は可能でしたし、実際に、運動のリーダーであった再建一文自治会委員長樋田毅君をはじめ活動家の相当数は無事に卒業しています。活動家中退の主要な理由は、早大での勉学意欲喪失だと思われます。もちろん、これは「早稲田大学というものに心底しらけてしまった」という松井今朝子の当時の心情と相通じるものです。当時の早大には中退を善しとする風潮もありました。大学当局をさんざん批判しておいて、救済措置申請というある意味では大学当局への屈服行為をするくらいなら中退を選ぶ、という活動家もまたいたことでしょう。

  (二)

 松井今朝子の上述の引用文には村上春樹『海辺のカフカ』の書名があり、文末の注釈には、次のようにあります。

「*3 『海辺のカフカ』作中に登場する佐伯さんという図書館の管理をする女性は過去に恋人を亡くしているという設定だが、その恋人が殺された経緯と様子は実際の事件に酷似している。」(同注釈 p261)『海辺のカフカ』川口大三郎で検索してみると、似た内容を書いているブログ、ツイッターも散見されます。

 私は村上春樹の良い読者ではありませんが、川口君事件が出てくるというので『海辺のカフカ』を読んでみました。2002年刊行でぶ厚い文庫本上下二冊の長編小説ですが、さすがにベストセラーになっただけあって読みやすく読者を引きつける魅力もあり、あっという間に完読してしまいました。作中には確かに川口君事件を連想させる箇所があります。その部分を引用します。

 「20歳のときに佐伯さんの恋人は死んだ。『海辺のカフカ』が大ヒットしている最中のことだ。彼の通っている大学はストライキで封鎖中だった。そこに泊まりこんでいる友人に差し入れをするために、彼はバリケードをくぐった。夜の10時前だった。建物を占拠している学生たちは、彼を対立セクトの幹部とまちがえて捕まえ(顔がよく似ていたのだ)、椅子に縛りつけて、スパイ容疑で『尋問』した。彼は人違いであることを相手に説明しようとしたが、そのたびに鉄パイプや角棒で殴りつけられた。床に倒れると、ブーツの底で蹴りあげられた。夜明け前には彼は死んでいた。頭蓋骨が陥没し、肋骨が折れ、肺が破裂していた。死体は犬の死骸みたいに道ばたに放りだされた。2日後に大学の要請があって機動隊が構内に突入し、数時間であっさりと封鎖を解除し、何人かの学生を殺人容疑で逮捕した。学生達は犯行を認め、裁判にかけられ、もともとの殺意はなかったということで、二人が傷害致死罪で、短い懲役刑を宣告された。誰にとっても意味のない死だった。」(『海辺のカフカ』第17章 新潮文庫版上p336-p337)

 『師父の遺言』注釈には「実際の事件に酷似している」とありますが、両者の間には対立セクト活動家と間違われて捕まって殺された、という共通点はあるものの、事実関係では両者は相当に異なっており、表面上は決して酷似していません。このHPは川口君事件の事実を伝えることも大きな目的ですから、煩をいとわず『海辺のカフカ』(以下、『カフカ』と略記)と実際の川口君事件との相違を指摘することにしましょう。

1.『カフカ』では、事件が起きた時大学はストライキで封鎖中でしたが、川口君事件が起きた時早大は平常に授業が行われていました。川口君も、体育の授業を受けた後、自治会室に拉致されたのです。
2.『カフカ』では、夜の十時頃に佐伯さんの恋人は捕まりましたが、川口君が拉致されたのは午後二時過ぎです。(1.とあわせて、川口君はキャンパスの日常の中で白昼公然と拉致されリンチされ殺された、ということが、虐殺糾弾運動があんなにも盛り上がった大きな理由の一つだと思われます。)
3.『カフカ』では、恋人は対立セクトの幹部とまちがわれて捕まりましたが、川口君は特定の個人と似ていたのではなく、対立セクトメンバーだとされて捕まりました。
4.『カフカ』では、恋人は夜明け前に死にますが、川口君の推定死亡時刻は午後十時頃とされています。
5.『カフカ』では、恋人は頭蓋骨陥没していますが、川口君の死因は全身打撲で体の細胞が破壊されたことによるショック死です。打撲は全身におよび、特に背中と両腕の打撲の傷は深いところまで達していたといいますが、私の知る限り、頭蓋骨陥没していたという資料はありません。頭を強打するという、即死につながりかねない殴り方は、革マルもしなかったということです。(それだけに、川口君の死は革マルの当事者にとっても予想外だったと思われます。)
6.『カフカ』では、恋人の遺体は道ばたに捨てられますが、川口君の遺体は大学(東大)構内に捨てられました。 
7.『カフカ』では、二日後に機動隊が学内に入って何人かの学生を殺人容疑で逮捕しましたが、川口君事件では捜査はなかなか進まず、犯人によっては一年近くたってから逮捕されています。(当時私は、糾弾運動が静まるのを待って逮捕したのでは、と疑いました)
8.『カフカ』では、「二人が傷害致死罪で、短い懲役刑を宣告された」とありますが、川口君事件では、起訴された犯人は五名(うち一人は分離裁判)で、最も重い者は八年の懲役刑(実刑)を宣告されています。八年は、決して短いものではありません。(ただし、判決が出た時には、虐殺糾弾運動はもはや影も形もなくなっていました。)
9.川口君事件では、自治会執行部が自治会員を殺したということで、川口君の死を契機に『師父の遺言』にも記述されているように広範な革マル糾弾・自治会再建運動が起こりましたが、『カフカ』にはそのような言及はありません。
10.川口君には、これまで知られている限り、『カフカ』の佐伯さんのような恋人の存在はありませんでした。

 些末にこだわりすぎたかもしれませんが、事実関係を確認しました。(川口君の死の事実関係については、当HP掲載『声なき絶叫』収録「『11.8』事実経過」を参照してください。)

 しかし、私は『海辺のカフカ』をもう少し読んで、村上春樹はやはり川口君事件から深い着想を得て佐伯さんの恋人殺人事件を創作したのだと思いました。事件の記述から少し先で、大島さんという佐伯さんの同僚の青年は、次のように語ります。
「佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。」(同第19章 新潮文庫版上p385)

 ここに書かれている内容は、まさに川口君事件を引き起こした原因そのものです。村上春樹は、川口君事件当時まだ早大に在籍していましたので(大学にはもうほとんど登校していなかったようですが)、事件から衝撃を受け事件に関心を持っても不思議ではありません。『海辺のカフカ』は小説ですから、現実の事件の細部を忠実に再現する必要もありません。


 『海辺のカフカ』を読んだ人はおわかりだと思いますが、佐伯さんの恋人が殺された事件は、記述はごく短いが『海辺のカフカ』という作品の中で極めて重要な位置を占めています。佐伯さんは事件の衝撃で、20歳の時から時間がとまってしまいます。恋人の死後、佐伯さんは故郷の高松から離れ、25年後に突然高松に帰ってきて、恋人の実家を改造した図書館の館長になります。25年の間、佐伯さんが何をしていたか、知る人は誰もいません。

 ネタバレになるかもしれませんが、佐伯さんは、田村カフカと自称する小説の主人公である15歳の「僕」の母親「かもしれない」女性で、謎の25年間に「僕」の父親と結婚し、「僕」と姉を産んで、その後「僕」が4歳の時父親と離婚し家から去った「らしい」のです。佐伯さんの恋人の死がなければ、「僕」は存在せず、また佐伯さんは高松で「僕」と関わりを持つこともなかったのです。そう考えると、川口大三郎君の死にモチーフを得て創作された佐伯さんの恋人の死は、『海辺のカフカ』という物語の隠された根源と言えるかも知れません。


 残念ながら、現在の私は村上春樹や『海辺のカフカ』について突き詰めて考える余裕が無く、このメモもここで打ち切らざるを得ません。このメモが、村上春樹研究の専門家・批評家や愛読者が村上春樹や『海辺のカフカ』について考える一つの手かがりになり、さらに川口君事件の風化を押しとどめる一助になれば幸いです。

 (関連資料7)
 第一文学部2年T組H.S.(瀬戸宏)「運動の中・後期を振り返って考える」。
*初出は元早大一文学生有志サイト「1972年11月8日-川口大三郎の死と早稲田大学」(2017.5.18)。転載にあたって、初出では他の書き込みとのバランス上Sなど頭文字にしたものを、筆者の名のみ実名に改めた。
 1.はじめに

 私が川口君の死を最初に知ったのは、自宅アパートで1972年11月9日夕刊社会面トップに掲載された川口君遺体発見記事を読んだ時だった。あり得ないことが起きた、と、ついに起きたか、という二つの矛盾する思いを同時に抱いた。早大文学部では11月8日以前から革マル派の反対派学生さらには一部教員への暴行が相次いでおり、暴行リンチはすでに日常の風景だった。それでも、死という現実は感情の許容範囲を超えていた。マンモス大学のため生前の川口君には一面識もなかったが、こうして私は川口君虐殺糾弾運動に飛び込んでいく。

 私見では、川口君虐殺糾弾運動は大きく初期(1972年11月8日-1972年11月28日一文学生大会、一文自治会革マル執行部リコール、臨執選出)、中期(1972年11月29日-1973年3月末)、後期(1973年4月1日-1973年11月8日)に分けられると思う。初期にも鮮烈な記憶はあるが、ここでは余り人に語られない中・後期を振り返り、私なりに考えたことを記してみたい。

 2.運動中・後期の武装化-暴力性肯定をどう考えるか

 運動初期と中・後期の大きな相違は、運動内部の分裂が露わになったことである。クラスに基礎を置いた真の学生自治会を樹立することを運動の目的とした部分と、川口君の死は早大管理支配体制がもたらしたとみなしその打破を目的とする部分の対立である。後者は、単なる自治会再建ではこの目的は達成できないとし、主に行動委員会という組織形態で武装化を実行し暴力性を肯定したのである。

 1973年5月8日の村井総長強制拉致は、この暴力性肯定の端的な現れであり、運動の敗北を導くものとなった。この総長拉致は当事者以外には秘密裏に準備され、私は事前にまったく知らなかった。当日居合わさなかったこともあり、誰によってどのように企画・準備され、誰が実行したか、その詳細を私は今でも知らない。

 川口君虐殺を引き起こした大学管理運営の責任者として、総長団交自体は運動の初期からの目標の一つであったが、教員として理工学部(当時)で授業中だった村井総長の教室に乱入し、暴力行使で本部キャンパス8号館に拉致して総長団交を迫るという運動形態が、運動の当初の目的や学生総体の思いと合致していたのか。村井総長は8日の段階では総長団交に応じることを約束したが、学生総体に依拠しない暴力と代行主義による団交確約は、早大当局によってあっさりと反古にされた。

 運動敗北の最大の要因が、革マルを温存した方が学内が安定するという早大当局の方針決定にあるのは、大方の一致するところだろう。早大当局がこの方針を最終決定したのは、経過からみて5月8日総長拉致を契機とした可能性が極めて強いのである。

 
暴力性の肯定とその実行は、当時とその後の学生・一般社会に、川口君虐殺糾弾運動は新左翼内ゲバ対立の一部という印象をも形成させた。暴力性を肯定した部分は、運動の中・後期には実際にヘルメット姿で角材や鉄パイプを持って革マルと対峙したから、当人の意向とは関係なく外部からそう見られたのはやむを得まい。武装化を実行した部分は革マルのテロに対抗するためだ、と主張したが、武装襲撃のセミプロの革マルに急ごしらえ学生集団が武装したところで勝てる筈がないことは、当時でも明らかだった。

 虐殺糾弾運動総体が暴力性を肯定したわけでは決してないのだが、見た目に派手な部分に外部の目が集中するのは仕方が無い。私は、1973年前半には川口君虐殺糾弾運動の記事が新聞各紙にまだかなり出ていたのに、年末の年間回顧記事ではほぼ完全に無視されたことに衝撃を受けた記憶がある。73年後期から革マルと中核・解放派の殺し合い内ゲバが激化し、川口君虐殺糾弾運動もその一部の特記する必要の無い出来事とみなされてしまったのであろう。

 3.運動中・後期での分裂局面と敗北

 後期に入ると革マルのテロも始まり、運動は困難さを増し、内部対立は深刻化していった。今思い返してもおぞましい思いがするのは、運動の内部で面罵恫喝、陰口中傷、運動のヘゲモニーや進め方をめぐる陰謀・権謀術数など、分裂に付随しがちな悪しき人間関係が、直接的暴力を除いてすべて現れたことである。当然ながら、運動は先細りしていった。

 更に私を驚かせたのは、それまで比較的「穏健」な立場の運動参加者を激しく罵倒・批判していたのに、ある日を機に突然姿を見せなくなり運動から消えた者が何人もいたことである。それまでの大言壮語と相容れないこの行動に、私は強烈な無責任さを感じた。

 運動は1973年11月8日の11.8一周年集会が分裂集会となり、事実上収束した。第一文学部学生自治会という形態でいつまで会合がもたれていたか、私は記憶が定かでないが、最後は数人だったことは記憶している。

 こうして運動は敗北した。運動の目的は、何も達成できなかった。逆に、かえって悪くなった。運動に関わった者ほぼ全員が長く沈黙し、運動の経験も次の世代に継承できなかった。

 川口君虐殺糾弾運動を思う時、「私たちは正しいことをしました。頑張りました。しかし相手が強すぎたので負けました」でいいのか、と常に思う。運動の内部にも、敗北の原因は明らかに存在している。

 ただし、運動に関わった者すべてが負けたのだ。現時点で特定の個人やグループに対して四十数年前の敗北の責任追及をしても何の意味も無い。思想状況が大きく変化した今日の日本では、四十数年前の歪んだ左翼運動がもたらした一人の死者と結果を出せなかった運動に関心を持つ人はほとんどいないに違いない。それは仕方のないことである。だが、川口君の死が完全に忘れられてもいいのだろうか。運動に参加した者に必要なことは、運動参加の初心を振り返りつつ、川口君の死と運動の意味をそれぞれの場で問い続け、それぞれの形でささやかでも語り続けることではなかろうか。

 4.川口君の死の意味

 虐殺糾弾運動を思う時、心が痛むことが一つある。川口大三郎君のお母さんが一時期勝共連合に絡め取られてしまったことである。川口大三郎君の人柄を知るという点では、行動委系の追悼集『声なき絶叫』より勝共連合系の『早稲田文化』四号の方が役に立つ。川口家から資料が出ているからである。なぜお母さんに最後まで運動の側に寄り添ってもらえなかったのか。私も含めて運動に参加した者は、川口君の死を一番悲しむ立場のお母さんやご親族のことは案外忘れていたのではないだろうか。

 虐殺糾弾運動のかなり有力な部分が暴力を肯定し実行した結果、川口君も、百人以上いる新左翼内ゲバ死者の一人に過ぎないと見なされることになった。川口君を知っている人たちがいくら川口君は中核派ではなかった、内ゲバ死者ではないと叫んでも、効果は薄いのである。

 私もかつては川口君の死は、内ゲバ死者とは別だ、と考えていた。今でも区別したい気持ちは残っている。その死を糾弾する運動に広範な学生が立ち上がり、曲がりなりにも一年間続いたのは、川口君しかいないのである。

 しかし、今は川口君の死を内ゲバ殺人の一部とみなしてもかまわない、とも考える。革マルの行為を肯定するのでは決してない。川口君がもし中核のシンパだったら、授業を終えた学生を自治会室に強制連行してリンチ殺害する行為が許されるのだろうか。内ゲバ死者とされる者の中には、川口君と裏返しで、革マルとは無関係だったのに中核派によって革マルと誤認され殺された者も何人もいる。更には革マル・中核など党派所属者の死も、当人を直接知っている親族やその友人にとっては理不尽な悲しむべき出来事であるに違いない。

 川口君は不幸な死者の代表である。私たちは、川口君の死を弔うと同時に、内ゲバ死者全体を弔わなければならないと思う。それは、歪んだ暴力行為の肯定とは別のことである。
 
 5.2Tクラスについて

 11.8当時の在籍クラス2Tについても、語っておきたい。中期以降の分裂局面は、2Tにも現れた。私は暴力性肯定傾向には反対の立場だったが、暴力性を肯定する同学からは「瀬戸は川口君の死を政治的に利用している」などの批判罵倒を浴びせかけられた。その他にもいろいろあるが、今は書かない。一文自治会執行委員会が正式に選出された73年1月27日自治委員総会の後に金城庵で開かれたクラス会で、私は悔しさで号泣した記憶がある。これが在学中の最後のクラス会になった。

 批判罵倒されたのは私だけではなく、クラスの人間関係はズタズタになった。四〇年間クラス会が開かれなかったことが、そのことを如実に示している。四〇年ぶりのクラス会の中心になったI君によれば、当時の傷がまだ癒えていないと出席を断ったり、本人確認すら拒否した同学がいたという。

 ともかくI君らの努力で2012年7月にクラス会は開かれ、約二〇名が出席した。さすがに皆大人になったのか、和やかに会は進み終わった。私が驚いたのは、私が自己紹介で簡単に川口君事件について話したほかは、誰一人として川口君について触れなかったことだった。川口君という人物も虐殺糾弾運動も、そんなものは存在しなかったかのようであった。

 運動の渦中にいた人たちが川口君を語らなかったら、誰が川口君を語るのか。このままでは川口君は永遠に忘れられてしまう。私が2014年に川口大三郎君追悼資料室を開設したのは、この時の驚きが大きな理由であったことは確かである。

 四年後の2016年7月、2Tクラス会が再び開かれた。私はこの時、資料室に書いた二編の文章と2Tプラカードが映った1972年11月28日一文学生大会を報じる新聞記事コピーを配布し、魯迅の「死者が生きている人間の心の中に存在していなかったら、本当に死んでしまったのだ」(「空談」)を引いて、四年前の会での驚きを述べ、川口君を忘れないで欲しい、と訴えた。私の話の後、ある同学が「瀬戸君は体は二倍になったけど(肥ったということ)、話していることは学生時代と少しも変わっていない。感銘を受けた」と挨拶で語ってくれて嬉しかった。

 (関連資料5)
 「私の回想~会うことのなかったO先輩に捧ぐ  第一文学部1年J組 T・H」。
 早稲田大学時代の友人から「Oさんという先輩を知っているか。急死され、追悼集を出すことになり、出版社が君に連絡を取りたいと言っている」とのメールが来た。了承すると、出版社の経営者兼編集者から資料が届いた。Oさんは旭丘高校20期で、私の3年先輩。早稲田に私は一浪して入学したので、高校、大学のいずれでも、同じ時間を共有したわけではない。しかし、編集者から届いた資料の中に、旭丘で大変お世話になった恩師・H先生が書かれた原稿があった。デモ、全校集会、制服制度廃止……1960年代後半の旭丘を覆った「政治の季節」に教師集団がどう対処したのか詳細に描かれていた。半世紀近く前の高校時代のことが鮮烈に蘇り、心が湧き立つ思いだったが、生徒側であった私の見方とは異なる部分も含まれている。

 さらに、私が入学した72年当時の早稲田大学は、新左翼系セクトの革マル派(革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)がキャンパスを文字通り暴力支配していた。第一文学部の同じ語学クラスの先輩が革マル派にリンチされ、殺された事件が起きたのを機に、キャンパスに自由を取り戻す闘いに否応なく参加したものの、鉄パイプで襲われ、心身ともに傷ついた。奥村先輩もまた旭丘高校、早稲田大一文の両キャンパスで青春を生き、早大闘争で傷ついたという。やがて詩人・俳優となり、2年前、突然の死を迎えられたと聞く。この拙稿が天国のO先輩の追悼につながればと願う。(中略)

 旭丘高校の「政治の季節」の思い出に紙数を費やしてしまったので、早稲田大学第一文学部での話は手短にまとめたい。私が早大一文に入学したのは1972年。J組という中国語の語学クラスで、担任の教授が挨拶をしていると、自治会でJクラス担当だというHと名乗る学生が入ってきた。「大学の講義は90分とされているが、後半の30分は我々が長年の闘いで勝ち取った自治会の時間です」と言い、教授を外に追い出して、第一文学部学生自治会の現状や歴史などを語り始めた。キャンパスの周辺のあちこちで革マル派のヘルメットをかぶった、いかつい表情の学生らが警戒しながらチラシを配っているのも異常だったが、連日の授業に介入し、新入生に思想調査さながらの質問を繰り返す姿に、クラスメートから激しい反発の気持ちが芽生えた。  やがて、「第一文学部自治会選挙闘争委員会」という「組織」がつくられ、この闘争委員会の指導で、革マル派に親近感を持つクラス委員の選出を促された。我々1年J組は、この指導に抗って温厚な人柄の対立候補を立て、投票によって、この対立候補をクラス委員に選んだ。この時、私は闘争員会のメンバーから文字通り睨まれ、「自治会室へ来るか」とすごむような声音で言われたのを覚えている。

 5月の連休明けに開催された学生大会の異様さも忘れられない。体育館の会場の様子を見に行った級友が血相を変えて戻ってきて、「大変だ。1年J組の座席のプラカードが会場の最前列の真ん中に用意されている」と伝えた。危険を感じて、クラス委員の出席は断念してもらうことにし、しばらく様子を見たあと、私を含めた級友たちはばらばらに会場に入った。会場では革マル派独特の長文の大会決議案を読み上げたあと、決議案への賛否を問う投票となった。この時、賛成票を入れる投票箱は普通の箱だったのに対し、反対票を入れる投票箱として使われたのは、「ゲバマル」(ゲバルト=暴力を振るう革マル派の活動家)と呼ばれた学生が手にする革マル派のヘルメットだった。私たちは反対票を投じる気持ちをそがれ、黙って会場を出るしかなかった。

 6月末、私たち1年J組の有志は『群稲』という同人誌をつくった。小説、詩、随筆、評論など一切自由な内容で、15人がペンネームで原稿を書いた。私は「我がミスターZ氏を解剖する」というタイトルのノンフィクション小説?を書いた。今読み返しても赤面する稚拙な内容だが、上記の革マル派のHのことを「ミスターZ氏」=「月光仮面氏」として、皮肉を込めて描いた。「本物の月光仮面は毎週日曜日の30分間だけだったが、我が無名の月光仮面氏は週に3回から4回、我々の教室に現れて、『私は正義の味方』と演説をぶつ。しかも我々の意志でチャンネルを切ることなど認めてくれやしないのだ」「月光仮面氏とその仲間が最近、主要な目標としているのは、彼らの敵であるマンモスコングを残らず叩き出すことと、この早稲田大学に『月世界』=理想郷を創ることのようだ。そのために彼らはこの大学から汚染源である空気を一生懸命抜こうとしているように私には思える。空気を抜けば、地球人である私たちは生きてゆけない。……」。級友たちは、この原稿を別冊として本体から切り離し、目次からもはずして、「この作品の存在はクラスの中だけにとどめてほしい」との注意書きを書いて、発行した。そうした配慮がなければ、このあまりにも無防備な作品は革マル派による弾圧の対象になっていた可能性があると思う。

 早稲田祭が終わって間もなくの11月8日、決して忘れることができない事件が起きた。この日午後、私たちの語学クラスの1年先輩、2年J組の川口大三郎さんが革マル派の活動家らに文学部キャンパス内で拉致され、自治会室と彼らが称していた教室に連れ込まれた。拉致される際、たまたま一緒にいた2Jのクラスメートらが救出しようとしたが、阻まれ、翌日朝、凄惨な暴行の跡を残した川口さんの遺体が東京大学本郷キャンパスの正門前で発見された。川口さんは革マル派と対立していた中核派の活動家と疑われ(事実は異なっている)、その追及の過程で集団リンチを受け、絶命したのだ。

 革マル派の思想・主張がどうであれ、こんな殺人事件を起こし、キャンパスを暴力支配する体制は絶対に許せない。少なくとも、私はそう考えた。事件の3日後の11日に1年J組の仲間たちと一緒に、文学部キャンパスの入口のスロープわきに立ち、「革マル派自治会を糾弾するため、立ち上がろう」と呼びかけた。賛同の輪が次々に広がった。最初のころ、そのほとんどは1年生のクラス単位での参加だった。A、B、C、D、E、F、G、H、I、K、L、M……。それぞれのクラスの代表らの名前、顔を今でも思い浮かべることができる。入学して初めて立て看板を書き、プラカードをつくり、ハンドマイクを入手して、「これまで早稲田には自由がなかった」「自由なキャンパスを取り戻すために、革マル派の自治会をリコールしよう」と口ぐちに訴えた。私たちは、暴力の恐怖で上から押し付けられた自治会ではなく、クラス討論をもとにした手作りの自治会をつくる。そんな思いを込めて、「第一文学部クラス討論連絡会議」と名乗ることを決めた。そのさなか、私は川口さんと同じ2年J組の知り合いに喫茶店に呼び出された。「そんなことをしていると、間違いなく革マル派に襲われるぞ。俺たちは革マル派に見つからないように、こうして喫茶店を転々としながら横の連絡をつくっている。身の安全をもっと考えろ」とまくし立てられた。そうか、2年生以上がなかなか集まらないのは、革マル派への恐怖心が身にしみついていたためだったのか、と納得した。しかし、文学部スロープ下の集会は、約500メートル離れた本部キャンパスでの学生集会とも呼応して、数千人単位、さらに1万人以上の規模に膨れ上がり、連日続いた。両キャンパスを埋め尽くす学生たちの歓声、拍手、マイクを通して響き渡る訴え。その盛り上がりは、11月17日に大隈講堂で開催された川口君の学生葬で頂点に達した。川口君を女手一つで育てた母親、さとさんが出席し、無念の思いを語ると、会場は涙で包まれた。学生葬には、革マル派の文学部自治会の田中委員長も途中から押し入るように出席した。2Jの川口君の級友たちが号泣しながら、「川口を生きて返せ」と田中委員長に詰め寄っていた光景が忘れられない。  

 11月28日、全学の学生らの支援を受けて、第一文学部学生大会を開催した。大歓声の中で、革マル派自治会執行部のリコールを可決したあと、自治会の再建を担う臨時執行部を選出。私はその臨時執行部の委員長に選ばれた。「川口君が殺された事件を機に、怖い物知らずの1年生が動き出した。たまたま最初に『この指止まれ』と指を差し出したところ、その上に何千もの仲間たちが重なってくれた。今は、その重みにつぶれそうだが、最初に指を出した者の責任を自覚し、早稲田に自由を取り戻すため、最後までやり抜きたい」。当時、私はこんなことを集会などで話していた。しかし、発足した臨時執行部はさまざまな考え方、背景を持つ者の寄り合い所帯だった。私を含めた1年生グループは、地道なクラス討論を踏まえた手作り自治会を志向していた。これに対し、かつての全共闘運動、あるいは革マル派と敵対する諸セクトにシンパシーを持つ上級生の執行部メンバーも多く、共産党の下部組織である民主青年同盟に所属する者もいた。革マル派の自治会リコールでは一致していても、その後の闘い方、自治会再建のあり方をめぐってとめどなく議論が続いた。

 その一方で、学生大会を終え、冬休みをまたいだ時期から、集会などの動員力が次第に衰えてきた。革マル派は、それを待っていたかのように、さまざまな形の暴力を使い始めた。たとえば、私たち臨時執行部側の集会を集団で妨害し、発言者を取り囲んでつるし上げる。個別の恫喝によって自己批判を強いるのだ。その被害にあった1年生の仲間の何人かが、運動から離れていった。私自身も、革マル派の学生に捕まって壇上に立たされ、両手を後ろ手に締め上げられながら、様々な追及を受けた。彼らは私に、中国の文革で紅衛兵の追及を受ける走資派といった役回りを演じさせようとしたのだと思う。
 政経、法、教育学部などがある本部キャンパスでは、革マル派と中核派の鉄パイプ部隊が激突する「戦争」も起きた。深夜、私たちのデモ隊が政経学部の学生ラウンジに閉じ込められた後、私たちの面前で両グループの精鋭部隊が鉄パイプを揃えて対峙し、「戦闘」が始まった。「ヒュー」「ヒュー」と投石が宙を飛ぶ音が響き渡り、双方の活動家(主に中核派の活動家)が倒れ込む。「戦争という表現は決して大げさではない」と思った。  キャンパスの学生が少なくなった春休みになると、革マル派の凶暴性がさらに増した。本部キャンパスの教育学部校舎の教室で開いた小さな集会が革マル派の襲撃を受け、多数の負傷者が出てしまった。革マル派の男たちが無防備な私たちを教室の隅に追い詰め、一人ずつ鉄パイプで襲った。私の脳裏には今も、その光景がスローモーションの映画の場面のように焼きついている。最初は傘や竹竿でめった打ちにしたあと、男が「鉄パイプ」とつぶやく。わきで控えていた部下が鉄パイプを差し出すと、黙って受け取り、おもむろに鉄パイプを振り下ろす。男は口を半開きにし、終始、不気味なほど無表情だった。悲鳴をあげる仲間の苦しげな顔。鉄パイプが額にあたる時の「ビシッ」「ビシッ」という無機質な音。ほとばしる鮮血。大学を卒業し、社会人になってからも、ひどく疲れた夜などに、そうした場面の夢でうなされ、思わず飛び起きたことが何度かあった。

 こうした革マル派のむき出しの暴力、テロに、どのように立ち向かうのかをめぐり、自治会執行部内の意見は割れた。「暴力に対抗するには、われわれも自衛のため武装するしかない」「ヘルメット、竹竿は全共闘運動のスタイルだ」などの主張に、私は反対した。「革マル派がもし、日本全国をくまなく暴力支配している状態なら、私も武装に賛成するかもしれない。しかし、彼らが暴力支配しているのは早稲田のキャンパスの内側だけで、キャンパスから一歩外で出れば、平和な日常がある。そんな中で武装しても、われわれが依拠すべき学生の支持は得られない」。私の持論はなかなか受け入れられず、激しい議論が何日も続くだけで、どこまでも平行線のままだった。

 私自身が革マル派に鉄パイプで襲われたのは、キャンパスに新入生を迎えた5月初めだった。学生集会を開くため、文学部キャンパスの大教室の前でマイクを持って新入生に呼びかけていたところ、突然、見覚えのある革マル派の学生が現れ、「こいつがHだ」と指さして叫んだ。すると、見知らぬ数人の男たちが私を羽交い絞めにし、押し倒した。「足を狙え」という声とともに、私の両足などをめがけて鉄パイプが何度も振り下ろされた。「学館へ連れていけ」という声も聞こえた。私は近くの鉄柱にしがみつき、身体をエビのように横たえていた。鉄パイプは腕と頭部にも振り下ろされた。男たちが去ったあと、私は救急車で広尾の日赤病院に運ばれ、入院した。両目は内出血で真っ赤になっており、両足の足首ははれ上がり、看護師さんから「ゾウさんの足みたいですね」と言われた。  退院後の約1カ月後、私はやっと歩けるようになり、級友たちに守られて登校し、授業を受けようとしたが、革マル派の学生らに見つかり、級友たちとともに教室に長時間閉じ込められた。救出にかけつけてくれた別の仲間の先導で、なんとかキャンパス外に逃れたが、もう大学には通えず、その後3年間、社会学ゼミの農村調査以外のほとんどの課目をリポート提出でしのぎ、やっとの思いで卒業した。

 私たちがキャンパスに入れなくなるとともに、第一文学部自治会の活動は停止状態となった。「武装」を主張した仲間たちは一度、ヘルメットと竹竿の姿で文学部キャンパスに並び、日常生活に戻っていた学生たちに「もう一度立ち上がろう」とハンドマイクで呼びかけたという。「最後の闘いの場」として本部キャンパスの図書館に立てこもり、機動隊に排除され、逮捕された者もいる。闘いの結末は、決して誇れるものではない。しかし、自由を求めてセクトの暴力支配に「ノー」と言い、クラスの討論をもとにした手作り自治会を目指した私たちの闘いは、間違っていなかったと思う。私は、早稲田の私たちの運動を、自由を求めて立ち上がり、ソ連の戦車に押しつぶされた『プラハの春』になぞらえて考えている。私は大学卒業後、1978年に朝日新聞社に入った。記者生活の大半を事件記者としてすごしてきた。87年5月3日に兵庫県西宮市の阪神支局で後輩記者が「赤報隊」を名乗る右翼とみられる犯人に散弾銃で射殺される事件が起きた後は、取材班のキャップとして時効成立まで16年間にわたって犯人を追いかける取材を続けてきた。取材の途中で脅されたことも度々あるが、「反日朝日の社員を死刑にした」「赤い朝日は50年前(戦前)に返れ」という赤報隊の主張を認めてはならない。右翼への取材は、定年で契約社員となった今も続けている。私は、社内でのいわゆる出世コースには乗らなかった。残る人生も、自分らしく生きたいと思っている。

 (関連資料8)
 「川口大三郎君追悼資料室目次へ」の樋田毅「会うことのなかった奥村真先輩に捧ぐ(後半) 」。
 追悼集出版の会編著『繚乱の春はるかなりとも 奥村真とオールドフェローズ』(ウェイツ 2014年8月1日初版第1刷 1800円+税)収録。同書p126~p142。同書は愛知県立旭丘高校生徒、早稲田大学第一文学部学生であった奥村真氏(1949年~2009年)の追悼文集。

 樋田毅氏は1972年早稲田大学第一文学部入学。早稲田大学第一文学部(再建)学生自治会臨執委員長、同執行委員長であった。樋田毅氏の同意を得て、転載する。この文の前半は愛知県立旭丘高校生徒運動の回想のため割愛し、後半のみ転載する。前半を読みたい方は『繚乱の春はるかなりとも』を購入していただきたい。
 私が早大一文に入学したのは72年。J組という中国語の語学クラスで、担任の教授が挨拶をしていると、自治会でJクラス担当だというHと名乗る学生が入ってきた。「大学の講義は90分とされているが、後半の30分は我々が長年の闘いで勝ち取った自治会の時間です」と言い、教授を外に追い出して、第一文学部学生自治会の現状や歴史などを語り始めた。キャンパスの周辺のあちこちで革マル派のヘルメットをかぶった、いかつい表情の学生らが警戒しながらチラシを配っているのも異常だったが、連日の授業に介入し、新入生に思想調査さながらの質問を繰り返す姿に、級友たちから激しい反発がめばえた。  

 やがて、「第一文学部自治会選挙闘争委員会」という「組織」が立ち現れ、この闘争委員会の指導で、革マル派に親近感を持つクラス委員の選出を促された。我々1年J組は、この指導に抗って温厚な人柄の対立候補を立て、投票によって、彼をクラス委員に選んだ。この時、私は闘争員会のメンバー(革マル派)から文字通り睨まれ、「自治会室へ来るか」とすごむような声音で言われたのを覚えている。5月の連休明けに開催された学生大会の異様さも忘れられない。体育館の会場の様子を見に行った級友が血相を変えて戻ってきて、「大変だ。1年J組の座席を示すプラカードが会場の最前列の真ん中に用意されている」と伝えた。危険を感じて、クラス委員の出席は断念してもらうことにし、しばらく様子を見たあと、私を含めた級友たちはばらばらに会場に入った。会場では革マル派独特の長文の大会決議案を読み上げたあと、決議案への賛否を問う投票となった。この時、賛成票を入れる投票箱は普通の箱だったのに対し、反対票を入れる投票箱として使われたのは、「ゲバマル」(ゲバルト=暴力を振るう革マル派の活動家)と呼ばれた学生が手にする革マル派のヘルメットだった。私たちは反対票を投じる気持ちが失せ、黙って会場を出るしかなかった。

 早稲田祭が終わって間もなくの11月8日、決して忘れることができない事件が起きた。この日午後、私たちの語学クラスの1年先輩、2年J組の川口大三郎さんが革マル派の活動家らに文学部キャンパス内で拉致され、自治会室と彼らが称していた教室に連れ込まれた。拉致される際、たまたま一緒にいた2Jのクラスメートらが救出しようとしたが、阻まれ、翌日朝、凄惨な暴行の跡を残した川口さんの遺体が東京大学本郷キャンパスの正門前で発見された。川口さんは革マル派と対立していた中核派の活動家と疑われ(事実は異なっている)、その追及の過程で集団リンチを受け、絶命したのだ。

 革マル派の思想・主張がどうであれ、こんな殺人事件を起こし、キャンパスを暴力支配する体制は絶対に許せない。少なくとも、私はそう考えた。事件の3日後の11日に1年J組の仲間たちと一緒に、文学部キャンパスの入口のスロープわきに立ち、「革マル派自治会を糾弾するため、立ち上がろう」と呼びかけた。賛同の輪が次々に広がった。最初のころ、そのほとんどは1年生のクラス単位での参加だった。A、B、C、D、E、F、G、H、I、K、L、M……。それぞれのクラスの代表らの名前、顔を今でも思い浮かべることができる。入学して初めて(あるいは、生まれて初めて)立て看板を書き、プラカードをつくり、ハンドマイクを入手して、「これまで早稲田には自由がなかった」「自由なキャンパスを取り戻すために、革マル派の自治会をリコールしよう」と口ぐちに訴えた。私たちは、暴力の恐怖で上から押し付けられた自治会ではなく、クラス討論をもとにした手作りの自治会をつくる。そんな思いを込めて、「第一文学部クラス討論連絡会議」と名乗ることを決めた。そのさなか、私は川口さんと同じ2年J組の知り合いのNさんに喫茶店に呼び出された。「樋田、そんなことをしていると、間違いなく革マル派に襲われるぞ。俺たちは革マル派に見つからないように、こうして喫茶店を転々としながら横の連絡網をつくっている。身の安全をもっと考えろ」とまくし立てられた。そうか、2年生以上がなかなか集まらないのは、革マル派への恐怖心が身にしみついていたためだったのか、と納得した。しかし、文学部スロープ下の集会は、約500メートル離れた本部キャンパスでの学生集会とも呼応して、日に日に膨れあがり、大学全体では数千人単位、さらに1万人以上の規模となって、連日続いた。両キャンパスを埋め尽くす学生たちの歓声、拍手、マイクを通して響き渡る訴え。その盛り上がりは、11月17日に大隈講堂で開催された川口君の学生葬で頂点に達した。川口君を女手一つで育てた母親、さとさんが出席し、無念の思いを語ると、会場は涙で包まれた。学生葬には、革マル派の文学部自治会の田中委員長も途中から押し入るように出席した。2Jの川口君の級友たちが号泣しながら、「川口を生きて返せ」と田中委員長に詰め寄っていた光景が忘れられない。11月28日、全学の学生らの支援を受けて、第一文学部学生大会を開催した。大歓声の中で、革マル派自治会執行部のリコールを可決したあと、自治会の再建を担う臨時執行部を選出。私はその臨時執行部の委員長に選ばれた。「川口君が殺された事件を機に、怖い物知らずの1年生が動き出した。私たちが、たまたま最初に『この指止まれ』と指を差し出したところ、その上に何千もの仲間たちが重なってくれた。今は、その重みにつぶれそうだが、最初に指を出した者の責任を自覚し、早稲田に自由を取り戻すため、最後までやり抜きたい」。当時、私はこんなことを集会などで話していた。

 しかし、発足した臨時執行部はさまざまな考え方、背景を持つ者の寄り合い所帯だった。私を含めた1年生グループは、地道なクラス討論を踏まえた手作り自治会を志向していた。これに対し、かつての全共闘運動、あるいは革マル派と敵対する諸セクトにシンパシーを持つ上級生の執行部メンバーも多く、共産党の下部組織である民主青年同盟に所属する者もいた。革マル派の自治会リコールでは一致していても、その後の闘い方、自治会再建のあり方をめぐってとめどなく議論が続いた。その一方で、学生大会を終え、冬休みをまたいだ時期から、集会などの動員力が次第に衰えてきた。革マル派は、それを待っていたかのように、さまざまな形の暴力を使い始めた。たとえば、私たち臨時執行部側の集会を集団で妨害し、発言者を取り囲んでつるし上げる。個別の恫喝によって自己批判を強いるのだ。その被害にあった1年生の仲間の何人かが、運動から離れていった。政経、法、教育学部などがある本部キャンパスでは、革マル派と中核派の鉄パイプ部隊が激突し、投石が飛び交う「戦争」も起きた。さらに学生が少なくなった春休みになると、本部キャンパスの教育学部校舎の教室で開いた私たちの小さな集会が革マル派の襲撃を受け、多数の負傷者が出てしまった。革マル派の学生たちが無防備な私たちを教室の隅に追い詰め、一人ずつ指さしながら、鉄パイプなどで襲った。私の脳裏には今も、その光景がスローモーションの映画の場面のように焼きついている。鉄パイプを振り下ろす革マル派の学生は、口を半開きにしたままで、不気味なほど無表情だった。悲鳴をあげる仲間の苦しげな顔。鉄パイプが額にあたる時の低い、無機質な音。ほとばしる血。大学を卒業し、社会人になってからも、ひどく疲れた夜などに、そうした場面の夢でうなされ、思わず飛び起きたことが何度かあった。

 こうした革マル派のむき出しの暴力、テロに、どのように立ち向かうのかをめぐり、自治会執行部内の意見は割れた。「暴力に対抗するには、われわれも自衛のため武装するしかない」「ヘルメット、竹竿は全共闘運動のスタイルだ」などの主張に、私は反対した。「革マル派がもし、日本全国をくまなく暴力支配している状態なら、私も武装に賛成するかもしれない。しかし、彼らが暴力支配しているのは早稲田のキャンパスの内側だけで、キャンパスから一歩外に出れば、平和な日常がある。そんな中で武装しても、われわれが依拠すべき学生の支持は得られない」。私は繰り返し、こう主張したが、受け入れられなかった。激しい議論が何日も続き、平行線のまま、互いに消耗していった。

 私自身が革マル派に鉄パイプで襲われたのは、キャンパスに新入生を迎えた5月初めだった。学生集会を開くため、文学部キャンパスの大教室の前でマイクを持って新入生に参加を呼びかけていたところ、突然、見覚えのある革マル派の学生が現れ、「こいつが樋田だ」と指さして叫んだ。すると、見知らぬ数人の男たちが私を羽交い絞めにし、押し倒した。「足を狙え」という声とともに、私の両足などをめがけて鉄パイプが何度も振り下ろされた。「学館(革マル派が拠点としていた施設)へ連れていけ」という声も聞こえた。私は近くの鉄柱にしがみつき、身体をエビのように丸めて、痛みに耐えていた。鉄パイプは腕と頭部にも振り下ろされた。男たちが去ったあと、私は救急車で日赤病院に運ばれ、入院した。両目は内出血で真っ赤になっており、両足の足首ははれ上がり、看護師さんから「ゾウさんの足のようだね」と言われた。

 退院後の約1カ月後、私はやっと歩けるようになり、級友たちに守られて一度だけ登校し、授業を受けようとした。が、途中で革マル派の学生らに見つかり、級友たちとともに教室に長時間閉じ込められた。救出にかけつけてくれた別の仲間の先導で、なんとかキャンパス外に逃れたが、その途中、級友たちも含めて殴る蹴るの暴行を受けた。もう大学には通えず、その後3年間、社会学ゼミのフィールドワーク(農村調査)以外のほとんどの課目をリポート提出でしのぎ、やっとの思いで卒業した。

 私たちがキャンパスに入れなくなるとともに、第一文学部自治会の活動は停止状態となった。「武装」を主張した仲間たちは一度、ヘルメットと竹竿の姿で文学部キャンパスに並び、日常生活に戻っていた学生たちに「もう一度立ち上がってほしい」とハンドマイクなどで呼びかけたという。彼らの一部は「最後の闘いの場」として本部キャンパスの図書館を選び、立てこもった。機動隊に排除され、逮捕者も出て、その裁判闘争が長く続いた。

 私たちの闘いの結末は、決して誇れるものではない。しかし、自由を求めてセクトの暴力支配に「ノー」と言い、クラスの討論をもとにした手作り自治会を目指した私たちの闘いは、間違っていなかったと思う。私は、早稲田の私たちの運動を、市民が自由を求めて立ち上がり、ソ連の戦車に押しつぶされた1968年の『プラハの春』になぞらえて、その意味を今も考え続けている。

 あの早稲田のキャンパスで、奥村先輩に出会った記憶は、私にはない。しかし、奥村先輩の親友だった松崎重利さんとは当時、何度も顔を合わせ、議論していた。松崎さんの紹介で、かつての第二次早大闘争を担った先輩たちに会い、革マル派の実態について話をうかがったこともある。そのどこかで、奥村先輩とつながっていたようにも思う。

 大学卒業後、1978年に朝日新聞社に入った。記者生活の大半を事件記者としてすごしてきた。87年5月3日に兵庫県西宮市の阪神支局で後輩記者が「赤報隊」を名乗る右翼とみられる犯人に散弾銃で射殺される事件が起きた後は、取材班のキャップとして時効成立まで16年間にわたって犯人をひたすら追いかける取材を続けてきた。取材の途中で右翼に脅されたことも度々あるが、「反日朝日の社員を死刑にした」「赤い朝日は60年前(戦前)へ返れ」という赤報隊の主張を認めるわけにはいかない。事件の真相を求めての右翼取材は、定年で契約社員となった今も続けている。私は社内で、いわゆる出世コースには乗らなかった。残る人生も、ジャーナリストとして自分らしく生きたいと思っている。

 (関連資料9)
 2021年11月2日、瀬戸宏「樋田毅『彼は早稲田で死んだ』紹介」。
 樋田毅氏の『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋、奥付上は2021年11月10日刊行、1800円+税。以下本書と略記)がついに刊行される。11月5日出版社から書店配本とのこと。題名の「彼は早稲田で死んだ」は、樋田氏や私が関わった虐殺糾弾運動の中で形成された再建自治会が1973年4月に当時の新入生向けに発行した同名のパンフレットから採られている。

  樋田毅氏は、この資料室の読者には改めて紹介する必要はないかもしれない。1972年11月8日早稲田大学文学部キャンパスで当時早大第一文学部(以下、一文と略記)二年学生川口大三郎君が一文自治会執行部を牛耳る革マル派によってリンチ殺害されたことから、広範な虐殺糾弾自治会再建運動が起きた。樋田毅氏はその運動の中で、一文自治会臨時執行部、一文自治会執行委員長だった人物である。私は本書原稿作成の時期から資料面など多少お手伝いしたので、本書見本が市販に先駆けて送られてきた。その内容を紹介したい。

 手伝いの過程で、本書出版の困難さは聞いていた。樋田毅氏は2019年3月に『最後の社主』を講談社から出版し、この種の本としてはかなりの売れ行きを示した。そこで樋田氏は『彼は早稲田で死んだ』の原型原稿を形にして、『最後の社主』担当編集者に持ち込んだ。ところが、編集者から返ってきたのは、この種の闘争回想記は売れない、という断りの返事だった。川口君事件から三、四年前の1968、69年に全国の大学で起きた学園闘争の回想録はかなり出版されているが、揃って売れていないという。樋田氏からその話を聞き、運動の当事者だった私たちは事件や糾弾運動を昨日のことのように脳裏に刻みつけているけれども、川口君事件や学園闘争は約50年前の出来事であるのを、改めて思い起こした。私や樋田氏が学生だった時期の50年前といえば、大正時代である。1972年当時、大正時代の忘れられた社会運動の回想記が出版されても、当時の私たちはほとんど関心を示さなかっただろう。“売れない”というのは、その通りだろう、と思わざるを得なかった。

  しかし樋田氏は諦めなかった。断られながらもいくつも出版社にあたり、遂に出版を引き受ける出版社を見つけ出した。文藝春秋社である。自費出版やそれに準ずる形態なら、もっと早く出版することは可能だったろうが、樋田氏は商業出版にこだわった。確かに商業出版か否かでは、普及度がまったく違う。

  同時に樋田氏は、原稿内容を単なる回想録ではなく現在に通じる内容にしようと、運動関係者との面談を続け、原稿を補強していった。事件当時、一文自治会副委員長だった大岩圭之助(辻信一)氏との面談を実現させたのも、その努力の一環である。大岩氏との面談の記録は、本書最終章に40ページにわたって収録されている。ただしこのために、元の原稿にあった運動関係者の現在を描いた部分がほとんどカットされてしまったのは残念であるが、やむをえまい。

 本書の細目を含めた目次は、次の通りである。(各章のあとの数字はページ)

  プロローグ 6

 第一章 恐怖の記憶  10
 元・自治会委員長の消息/最後まで、心を開くことはなかった

 第二章 大学構内で起きた虐殺事件  17
 入学式に出没したヘルメット姿の男たち/一年J組の自治委員選挙/投票箱はヘルメット/キャンパスで頻発する暴力/山村政明さんの遺稿集/暴力を黙認していた文学部当局/マクドナルドでのアルバイト/体育会漕艇部に入部/川口大三郎君虐殺事件/川口君の拉致現場にいた親友の証言/リンチ殺人を他人事のように語った早大総長/革マル派の声明文に対する反発/「落とし前をつけたる」/学生だちの怒りが一気に爆発/機動隊への救出要請/川口君追悼学生葬

 第三章 決起   72
 初めて主催した私たちの抗議集会/ユマニスムとの出会い/クラス討論連絡会議/反故にされた確約書/一〇〇〇人を超えるリコール署名/「俺はあんたを許せない。殴つてもいいか?」/紛糾した候補者選び/新自治会臨時執行部の委員長に就任/司令塔がいるに違いない/「H君は変わった」/武装を是とした行動委員会/鍛え抜かれた「戦士集団」/ヘルメットをかぶるという「哲学」/私たちの運動の「九原則」/団交実行委員会という「鬼っ子」/新自治会に好意的になった教授会/軋み始めたクラスの連帯/入学式での黒ヘル乱入騒動

 第四章 牙をむく暴力 129
 管理された暴力/新入生たちの反応/政治セクトに利用された執行委員会/総長を拉致しての団交/鉄パイプでメッタ打ちにされる恐怖/母と一緒に故郷に帰りたい/団交の確約を破棄した総長/仲間たちが開催した武装集会/急襲された二連協/心情的には理解できるが……/武装化をめぐっての対立/「内ゲバ」が激化した影響/「非暴力」「非武装」を堅持/川口君一周忌追悼集会/図書館占拠事件/闘いを終える決断/新聞記者を志望

 第五章 赤報隊事件  183
 正義感の「空回り」/阪神支局への転勤/阪神支局襲撃事件/右でも、左でも、起きること

 第六章 転向した二人 193
 獄中で書かれた「自己批判書」/「密室殺人」全容解明/実行犯Sさんの思い/川口君の無念
 第七章  半世紀を経ての対話  205
 暴力支配を象徴した人物の転身/半世紀ぶりの再会/自分にとっての原点/学生運動に関わることになったきっかけ/入学前にスカウトされて大学の組織へ/事件後の声明への違和感/誰にも気を許してはいけないという緊張感/自分が逃げたら組織が崩れるような気がした/中核派に襲われた恐怖/理屈で説明したら嘘になる/鶴見俊輔さんとの出会い/責任を取ることはできない/人にはそれぞれの物語がある/不寛容を押し返す力/立ち疎む君に

 エピローグ 254
 あとがき 258

  プロローグは、本書の趣旨の簡単な説明である。「あの時代の本当の恐ろしさを伝え、今の世界にも通じる危うさを考えるため」と本書執筆・刊行の意図が記されている。第一章は、事件当時(革マル)一文自治会委員長だった故・田中敏夫氏夫人との面談記。第二章~第四章は事件と運動の経過、第五章は早大卒業後の新聞記者時代の回想、第六章は事件当時(革マル)一文自治会書記長で川口君リンチの実行犯だったS氏との面談記、第七章は上述の大岩氏との対談記録、エピローグはその後1997年に至って早大が革マル派と完全に絶縁した短い記録である。

 本書を改めて通読して、運動の基本経過や暴力・武装や学生自治会の在り方に対する認識など、多くの部分で私の記憶とほぼ一致していることを確認した。運動の崩壊期の記述など一部に私の認識と違う部分もあるが、それは個人著作として当然のことであろう。私は樋田氏から本書の内容について意見を求められるたびに、「これは樋田さんの本だから、樋田さんの思うように書いて欲しい」と言ってきた。


 本書を貫いているのは、不条理で暴力的な抑圧の恐ろしさとそれへの反抗、暴力的抑圧は暴力を振るう人間をも蝕むということである。暴力に反抗した側だけでなく、暴力を振るう側だった(革マル派)一文自治会三役との面談記録が、本書を単純な闘争回想記とは異なる重厚な内容の書物にしている。あの時代と運動を記憶している人だけでなく、時代・運動をまったく知らない人たちにも、本書は広く読まれてほしい。

 なお文末の《参考文献・資料》でこの川口大三郎君追悼資料室が(早大一文の旧2J組で中国演劇研究者の瀬戸宏氏が作成管理するウエッヴサイト)とあるが、これは旧2T組の誤記である。私はこの資料室の別のページに書いたように、2J(川口大三郎君在籍クラス)ではなく、川口君と生前面識はなかった。この点はすでに樋田氏に連絡し、増刷の際に訂正していただくことになっている。本書の中で私と認識が違う部分やより深い感想については、本書が正式に刊行されてから、おいおい書いていきたい。

 (関連資料8)
 「No.0079 川口大三郎の死と早稲田大学」。
 40年を経た現在も「11月8日」は人生の中に重く、忘れることのできない「あの日」である。あの日、私たちはどこで何をしていたか。授業に出ていたのだろうか、アルバイトに精を出していたのだろうか・・・川口大三郎にとっても、いつものように目覚めたに違いないあの日。学校へ行き、久しぶりに体育の授業に出て「ケツが痛くてさ」とクラスメイトと言葉を交わしたいつもと変わらぬ一日。けれども、その一日に次の日は来なかった。11月8日、私たちは川口大三郎を失った。40年の年月を経て60歳という節目を迎えた時、これまでの人生のさまざまな事柄が心に浮かび、可も不可も越えながら命を長らえたことに深い感慨を覚える。そして思う。この人生に起こったことは、もし彼が生きていたなら川口大三郎にも起こりえたことなのだと。20歳という、まだ何も始まらない、あるいは始まりへの期待に満ちた時に断たれた彼の命、その命には、多くの可能性があったのだ。毎年やってくる11月8日に彼を思う時、川口大三郎は私たちと共に生きている。私たちが彼の死を思うことで、彼はつねに私たちと共にいる。同じ時代を早稲田に過ごした私たちにとって、「11・8」は深く記憶に刻まれ、けっして忘れることはできない「あの日」である。11・8以降の学内の出来事を「運動」と呼ぶとしたら、それは「なぜ川口大三郎が殺されなければいけなかったのか」という2Jの問いかけに始まった。川口大三郎は狭山事件の集会などに顔を出してはいたが、どこの党派にも属していなかった。にもかかわらず自治会は、川口大三郎を反革マルと決めつけ、拉致監禁して、暴行によって死に至らしめた。さらに破廉恥なことに、自分たちの行為を正当化する発言を文学部構内で声高に繰り返そうとした。そのあまりの理不尽さに、抑えきれない怒りが2Jを突き動かし「2J行動委員会」として結束し、川口大三郎の死の真相を明らかにする活動へと導いた。何ができるか、何をすべきか2Jが討論を重ねる一方で、一文校内では1Jがマイクで学友に呼びかけ、2Tの名前で「自治会糾弾」の立て看が立った。呼びかけに集まる学生の輪は日に日に大きくなり、殺害の首謀者である自治会とそれを容認した大学当局を糾弾する集会が開かれるようになった。そして、ついには学部を越えて、全学的な運動へと発展したのだった。それが私たちの「11・8」の始まりだった。私たちがやろうとしたことは何だったのか、それはどこへ向かおうとしていたのか。「11・8」はまだ終わっていない。川口大三郎の死を機に立ち上がった学友よ、今ふたたび「11・8」を語らないか。そしてお互いの言葉に耳を傾けようではないか。共に語る時間を持つことで、自分の生きた人生の中で見失った何かを見つけ出せるかもしれない。あの日どこにいて、何をしていたか、あの日から、どんな道をたどって生きてきたのか・・・。一人ひとりの足跡をたどることで、より鮮明な「11・8」を残そうではないか。川口大三郎と同じ時代を生きた一人として、あなたの言葉を発してほしい。そして、その言葉を記録することで、私たちの心の中で共に40数年を生きた川口大三郎へのオマージュとしようではないか。

 出典: 川口大三郎君関係資料1号室 
 母系社会研究会(準)
 2017年09月23日

 (関連資料10)【桐野夏生「抱く女」考】
 2015.7.2日、瀬戸宏「川口君事件の記憶(2)-桐野夏生『抱く女』」参照。

 直木賞作家桐野夏生(1951年生、成蹊大学卒)の「抱く女」(新潮社、2015.6.30)に川口君事件の描写がある。単行本のオビには「恋愛も闘いだよ 毎日が戦争 1972年、吉祥寺、ジャズ喫茶、学生運動 女性が生きずらかった時代に、切実に自分の居場所を探し求め続ける20歳の直子」とある。三浦直子という吉祥寺にあるS大学(おそらく成蹊大学)三年生の1972年9月から12月までが描かれ各一章が宛がわれている。そこに川口君事件が出てくる。直子の兄の和樹が早大革マル派幹部活動家という設定で、彼が事件の関係者と疑われ、直子の自宅に刑事が訪れて両親に事件について尋ねる場面が「第三章 一九七二年十一月」にある。作中、川口君事件に関係する部分はこれだけで、次のようにエピソード的に語られている。
 刑事が笑ったようだった。「あんたら、よくそんな息子に高い学費を払ってるね。悪いけど、そんなに儲かってないでしょう?」。厭味を言われた父親が、むっとした様子で言い返している。「それはうちの勝手でしょ。人様にとやかく言われることじゃない」。「とやかくって言うけど、お父さん、あんたの息子さん、人殺しかもしれないんですよ。ただのノンポリ学生をね、ちょっとした言葉尻捉えて、中核のシンパじゃないかって、どこかに連れ込んでさ。皆で殴り殺したんですよ。可哀相に、その学生がどんな死に方したか知ってますか?全身青アザだらけで、粉砕骨折数力所。一部は骨が見えていたほどの重傷を負っていたんですよ。あんた、棒で殴られて死ぬって、どんなに辛いかわかりますか」。母親の悲鳴が聞こえた。「やめてください。まだ和樹だと決まったわけじゃないでしょう。あの子はそんな子じゃないですよ」。「もちろん、決まったわけじゃない。現場にいたかどうかもわからないですよ。でも、あんたの息子さんは、指導的立場なんですよ。その時どこにいて、どんなことをしていたか。手を下したのか、下してないのか。下してないのなら、命令したのは誰で、どこのどいつが実行部隊か。我々、あんたの息子さんが言うところの『国家権力』に説明する義務があるんですよ。もうちょっと聞き込みしたら、おそらく逮捕状出ますんで、わかってることは何でも正直に言ってください。よろしくお願いします」。
 
 もう一人の刑事らしい声がした。「殺された学生はね、ただ批判的なこと言っただけなんだよ。完全なノンポリで、ケルンパでも何でもない。それだけでどこかに連れて行かれて、嬲り殺されて。東大病院前にポイ棄てですよ。殺したり殺されたり、いい加減にしたらどうです」。「ですから、うちの息子が関与したという証拠はありません。あるなら、見せてください。私たちは息子を信じています」。父親が必死に言い返したが、泣いているような声だった。母観も衝撃を受けたように沈黙している。 
 
 ああ、あれか、と直子は思った。一週間ほど前、新聞に小さく内ゲバの犠牲者のことが載っていた。早稲田の学生が、革マル派に拉致されて殺されたと小さくあった。学生運動をしていたわけではなく、批判的なことを言っただけらしいと。和樹が関与してなきゃいいと密かに願っていたが、現実は甘くはない。ハムを丸ごと一本、コンバットジャケッ卜に隠して、アルマイトの弁当箱に白飯を詰めて行った兄は、そんな惨たらしいことが平気でできるようになったのだろうか。死は最強。この命題がまた現れ出て、直子を苦しめる。(新潮社版単行本p128-130)
 川口君の名は出てこないが内容はあきらかに川口君事件である。細部では現実の事件と違う点もあるが、作者の桐野が、「『抱く女』刊行記念インタビュー いま何故1972年なのか」(聞き手:佐久間文子、web版『波』)で、「『抱く女』は私小説ではないし、本当にあったことを書いているわけでもありません」と言っているので細部の齟齬にこだわる必要はない。多少事実とは違うにしても、川口君虐殺が早稲田大学以外の学生にも記憶に残る事件であったことを示している点と、川口君をテロった側の早大革マル派の指導者の妹の立場から事件の裏逸話が記されている点で貴重な作品となっている。作者は同じインタビューで「セクトに入っている友人もいて、私自身、近いところをうろうろしていました」とも述べている云々。
(私論.私見)
 桐野夏生「抱く女」は、川口君事件に対し、テロった側の革マル派の活動家の彼女としての目線で、その生態を批判的に検証するというのではなく、革マル派活動家にシンパシーを寄せる心情をそのままに叙述しているようである。本書の意味は、川口君事件を取り扱った小説の一書として、それをテロった側の革マル派サイドに立つ小説に仕立てたという立ち位置の珍しさにあるのだろう。私は未だ読んでいないし読む気にもなれない。批評する気持ちになれた時に読めるかもしれない。





(私論.私見)