「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その2

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.11.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「れんだいこの川口大三郎君虐殺事件考その2」を記しておく。

 2022年.11.22日 れんだいこ拝


 「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その1」へ続く。
 (「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その1
」) 


1973(昭和48)年

【革マル派が再びキャンパスの支配権を確立する】
 9月末頃、「早大行動委」の奮戦もここで力尽きた。以降、キャンパスに革マル派が再度支配権を確立することになった。
(私論.私見) 革マル派が再度支配権を確立考
 「革マル派が再度支配権を確立」が大学当局と機動隊に守られてのなりふり構わぬ制圧であったことは、当時の一連の史実であろう。早大総長が一貫して反革マル共同戦線派により結成された自治会の承認を渋り、団交への出席も最終的に拒否し、革マル派の肩を持ち続けた。早稲田大学と革マル派の癒着、蜜月関係が長く続いて行くことになった。この関係が、「平成6年、奥島孝康が早大総長に就任するまで大学当局と革マル派の蜜月は続く」ことになる。

【一文の樋田委員長/山田書記長連名の反革マル自衛武装批判ビラが播かれる】
 10.3日、一文再建自治会委員長/樋田、書記長/山田の連名による反革マル自衛武装批判の「一文四千の学友諸君!」ビラが播かれる。文面の一部は次の通り。
 「一連の内ゲバ事件をしつかりと、とらえ返し、『革マル』の『暴力』、そして諸セクトの武装介入をいかに克服していくのかをこの手でしっかりと掴みとろうではないか!」。

 その次のビラのタイトルは、「神奈川大学『内ゲバ殺人』事件を口実とした早大闘争のすり替えを許さない」で、武装路線への批判をさらに強めていた。文面の一部は次の通り。
 「中核派、解放派、叛旗派などは、当初から革マルとのゲバルトを主張しつつ早大闘争に介入し、とりわけ行動委員会を中心に一定の影響力を持って来た。革マルのテロ攻勢が激化するにつれ、彼らの主張が正当であるかのような幻影が僕たちの一部に焦りから生じ、それが彼らとの共同行動、あるいは“自衛武装”を主張する諸君を生み出したのである。(中略)『武装路線』は闘争の歪曲であり、学生から運動への主体的関りを奪い去るものとして厳しく批判せざるを得ない」。
(私論.私見)
 樋田毅・氏著「彼は早稲田で死んだ  大学構内リンチ殺人事件の永遠」で知らされることになったが、「一文の樋田委員長/山田書記長連名の反革マル自衛武装批判ビラ」がかの局面で適切だったのかどうか、私には疑問がある。革マル派の暴力テロ再燃に対する有効な手立てを編み出してヒューマニスト足らんとするのなら分かるが、編み出さぬままの「反革マル自衛武装批判」は利敵理論になりかねないものではなかろうか。

 10.10日頃、5・17被告団第3回公判。裁判官、起訴理由の釈明求む。


【革マル派が全国12箇所で中核派拠点襲撃(第2次中核村襲撃)】
 10.20日未明、革マル派が、全国12箇所で中核派拠点を襲撃する(第2次中核村襲撃)。この際、襲撃側の若林民生(二文自治会元委員長、11/13処分対象者/除籍)が逮捕、勾留される。但し、この時点では若林の川口大三郎殺害への関与は判明していない。(1974年4月22日参照)

【警視庁公安部と本富士署が川口君リンチ殺人事件で革マル5名逮捕】
 10.21日、国際反戦デーのこの日、警視庁公安部と本富士署が、川口君リンチ殺人事件での川口大三郎監禁致死の容疑で革マル4名を逮捕した。警察が早大第一学生会館など革マル派の拠点を捜索し、この時の捜査で、川口君をリンチ致死せしめた革マル派の下手人の一人である二文自治会委員長/村上文男(25歳)、二文自治会副委員長/武原光志(23歳)、一文自治会書記長/佐竹実(23歳)の3名を宮下公園で再逮捕、一文自治会会計部長/阿波崎文雄(26歳)を自宅で逮捕した。服役中の全学中央自治会委員長/田中敏夫(24歳)にも逮捕状が執行され、翌22日、別件で服役中の横浜刑務所内で逮捕された。  

 10.23日、川口君リンチ殺人事件で、別件で横浜刑務所に服役中の田中敏夫が監禁致死容疑で逮捕された。逮捕されたメンバー5名が起訴され、1名(佐竹)が分離公判となる。

【革マル派の事件関係者5名が追加公開指名手配される】
 10.31日、革マル派の4名(級友への暴行で保釈中の一文学生/近藤隆史(24歳)、一文自治文化厚生部長/水津則子(23歳)、一文自治会組織部長/後藤隆洋(25歳)、矢郷順一(25歳)、緑川茂樹(22歳)、他1名の計6名(革マル自治会幹部がほとんど)にも逮捕状が出され公開指名手配された。東京新聞および産経新聞によれば、別事件で逮捕された革マル派の者の中に川口大三郎殺害に関する供述をした者がいて、逮捕・指名手配に結びついたという。

【11.8一周忌前の(続)自衛武装議論】
 11.8一周忌前の頃、一文自治会が、内部が武装の是非をめぐって分裂する中、久しぶりに執行委員会を開いた。6名の委員が出席し、川口君の一周忌追悼集会を全国の学生総決起の場にしようという提案を廻って議論が伯仲した。既に呼びかけの声明文案が用意されており、採決で「賛成3、反対2、保留1」となった。樋田委員長が「こんなに重要な問題を全執行委員15人の半数にも満たない6人の出席では決められない」と主張したところ、賛成派が欠席した執行委員2名分の委任状を見せ、「これで賛成は5名、投票参加者も過半数になる」として、採決を有効とさせた。これにより、「11.8川口君虐殺一周忌追悼集会を早大全学・全国学友の総決起で勝ちとろう」と題したビラが大量に播かれた。呼びかけ人が第一文学部自治会執行委員会、教育学部自治会執行委員会、第二文学部自治会臨時執行委員会有志の連名になっていた。

 武装問題について次のように書かれていた。
 「私達は、決して『革マルせん滅』を目的に闘っているのではない。しかし私たちの仲間である活動家たちが革マルのテロルによってせん滅され、負傷していくのを、私たちは黙って見ているわけにはいかない。その意味において私たちは『反暴力』ではないのであり、運動を保障していくものとして、われわれの運動の利害をかけて闘争破壊者に対する自衛武装を断固として主張するものである」。

 樋田委員長ほか3名の執行委員が非暴力、非武装の方針に拘り、一文自治会の執行委員会としてでなく「川口君一周忌追悼集会一文実行委員会」を新たに作り活動を始めた。岩間氏らの日本文学専修4年の有志が「11.8集会参加決議と題したビラを配布した。文面の一部は次のように記されている。
 「私達は一部の武装路線には断固反対する。(中略)全く不本意ながら集会は分裂して行われようとしている。分裂は避けねばならないが、彼ら一部武装闘争路線派があくまでも学外セクトの導入に固執するならば、私たちは共に集会を持つことを拒否せねばならない」。
(私論.私見)
 「私達は一部の武装路線には断固反対する」は一見、正論のように聞こえる。しかし、この時の「暴力反対」、「学外セクトの導入反対」は闘う学友を見殺しにする結果になったのではないのか。闘う者が助けられないのなら、闘う者が寄ってこなくなるのは当然である。それを思えば、当時のキャンパス事情の正義としては革マル暴力に対峙する自衛能力を持つ方向にリードするのが自然であり、「暴力」であれ「学外セクトの導入」であれ足らずのところを補うのは必要な事であり、それを逆に動いてはいかんだろう。少なくとも多数決採択された決議には従うのが筋で、議論が足りないのなら議論を続行させ意志の練り合いをせねばならない。そういう経緯を得ての決議には従うのが筋だろうし、従えないのなら辞任の方が賢明だろう。結果的に、11.8一周忌前での陣営内部の分裂で、川口君事件闘争は元の木阿弥に戻ることを運命づけられたのではなかろうか。

【第20回早稲田祭】
 大学当局と革マル派が牛耳る早稲田祭実行委員会と「早稲田祭実施にあたっての五原則」合意により「1973年第20回早稲田祭」が催された。この早稲田祭は1996年の第43回まで毎年続く。

 11.5日、「対立とけぬ早稲田大学。『追悼』と『祭』が立ち並ぶ」。

 11.6日、早大また緊張。川口君死亡一周年でロックアウト。


【田中敏夫前委員長が自己批判書提出】
 「田中敏夫自己批判書」を知る前、次のようにコメントしていた。
 「続いて、早大全学中央自治会委員長・田中敏夫も自己批判し、11.13日、『田中敏男の自己批判書』が提出されている。佐竹自己批判書に続いて田中自己批判書をも確認しておこうと思うのだがネット検索で出てこない。これは偶然だろうか。れんだいこは、他にも重要な文書に限り却って出てこない例を知っているので驚きはしないけれども」。

 「
1973年11月11日(日) 供述により明らかになった事件の経緯。監禁致死罪で革マル派4人起訴 」によると、11.7日、田中前委員長が佐竹に先立って自己批判書「川口君事件に対する私の態度と反省」を書き、転向を表明している。 してみれば田中前委員長の自己批判書が口火を切ったことになる。1973.11.12日付読売新聞は次の記事を発信している。
 「田中の自己批判書はさる7日『川口君事件に対する私の態度と反省』と題して書いたもので『暴力の行使は人間性を腐敗させる』など、佐竹とほぼ同じ内容。田中は事件当時の早大革マル派の最高幹部だが、組織との関係について『学生運動から足を洗う』と述べているという」。

【川口君虐殺一周年闘争前夜の情勢】
 11.7日、川口君虐殺一周年前夜、早大が緊迫する。革マル派は全国から約1200名を動員して本部キャンパスで総決起集会を開催し、高田馬場駅までデモ行進した。

 11.8日、早大当局がロックアウトを強行し本部キャンパス内での集会が不能にされた。大学当局は革マル派の正門向かい側の大隈講堂前での集会を許可していた。同派の「川口君追悼集会」がヘルメット姿の約500名で開催され、その周囲をジュラルミン盾の持つ機動隊が囲んでいた。反革マル各派が学内突入狙ったが、機動隊が立ちはだかり、抵抗、投石、警官ともみ合うが構内に入ることができなかった。以降、機動隊が常駐化した。この日、警視庁が先制の革マル派書記局を捜索している。

【川口君虐殺一周年闘争】
 11.8日、樋田委員長らの「川口君一周忌追悼集会一文実行委員会」は正門前に集まろうとしたものの機動隊の規制に押しやられるようにして近くの鶴巻公園に向かい約300名で集会を始めた。午後、新宿体育館に場所を移して約600名で追悼集会を再開した。政経学部自治会、法学部自治会との共催となった。

 分裂した側は、「一文自治会執行委員会」を名乗って約300名が一文キャンパス北側の通称「箱根山」の空き地で追悼集会を開催した。日本文学専修グループは独自に大学近くのキリスト教施設/早稲田奉仕園で集会した。新聞は、革マル派が復権した早稲田の情況を伝えている。

【早稲田における革マル派による暴力支配追放運動が頓挫する】
 以降、早稲田大学全学行動委員会などは、まだ闘う姿勢を見せ、図書館占拠をおこなったものの、早稲田大学と機動隊に守られた革マル支配を打ち破ることはできず、この時の「早稲田における革マル派による暴力支配追放運動」は頓挫する。

【佐竹が犯行を自供、自己批判書を発表】
 11.8日、元一文自治会書記長・佐竹が犯行の一部を自供し始める。「川口大三郎の撲殺遺体のカラー写真を眼前に突き付けて自白を迫った」と云われる。

 11.9日、取調官に提出し、自供に至る心境の変化を明らかにするとともに、党派間の暴力行使の中止を訴える自己批判書が発表された。その自己批判書が、「
左翼」に開示されているのでこれを転載しておく。
 自己批判書

 川口君を死に追いやった本人として、そして当時一文自治会の書記長をやっていた責任ある者として、私が完黙をやめ私の社会的責任を明らかにする心境になったのは、以下の理由によるものです。

 それは彼の死に直接関係した私が、自己の社会的責任を明らかにすることによって、故川口君の冥福を心から祈ると同時に、川口君のお母さんに深く謝罪したいと考えたからです。さらに、現在の党派関係の異常性とそこにおける暴力的衝突を見るにつけ、かかる現状を深く憂い、二度とこのような不幸な事態がおこらないよう強く切望しているためでもあります。私は川口君の問題を真剣に考えている全ての人々に次のことを強く訴えたいのです。現段階の党派関係は明らかに異常といえます。このような現状の中で、党派闘争に暴力を持ち込むことに関して、真剣に慎重に再検討して欲しいのです。暴力の行使に際限はありません。そしてその結果は予測をはるかに越えるものがあります。

 現に私は川口君を死に追いやろうなどとは、もちろん夢にも考えていませんでした。しかし結果はあまりにも悲惨なものでした。私は、私と同世代の人間的にも未熟な若い人々が暴力を行使することになれてしまうことが最も恐ろしいのです。傷つけ、傷つけられることを厭わない人間になることが真の勇気ではないと思います。人間の生の尊厳なくして人間の解放はないはずです。今こそ、この原点に立ち帰るべきです。

 確かに、現在の党派関係と党派闘争を正常に戻すことは非常に困難なことでしょう。容易にできる問題ではないと思います。それは大きな努力が必要でしょう。しかし誰かがやらなければなりません。私はそのことを、川口君の問題を真剣に考えている全ての人々にやり遂げて欲しいのです。私の冒したような重大な過ちが再びおこらないことを強く切望するからです。社会の矛盾を変革するために自己犠牲的な活動を展開している人々が、お互いを傷つけあうことほど不幸なことはないと考えるからです。

 現在、私は川口君という将来ある一人の青年を死に追いやってしまった自己の人間的未熟を痛切に反省し、あわせて川口君の霊が安らからんことを祈っています。川口君、そして川口君のお母さん、ほんとうにすみませんでした。

 昭和48年11月9日 佐竹実 ㊞
(私論.私見) 佐竹自己批判書考
 佐竹自己批判書はそれなりのものであったが当時の情勢には何らの意味も持たぬ「何をいまさら弁」でしかなかった。

 2015.6.20日 れんだいこ拝
 監禁致死容疑で逮捕、取り調べを受けていた佐竹実が川口君殺害を自供した。自供によると、革マル派は対立する中核派とのセクト争いから、昨年11月8日午後2時頃、文学部構内で友人と立話をしていた川口君を「お前は中核派のスパイだろう」と佐竹ら5人が文学部127番教室に連行、村上らの指導でイスにしばりつけたうえ鉄パイプで殴るけるのリンチを加え死亡させた。佐竹は、10.21日に逮捕されて以来完黙を続けてきたが、8日を前にした週明けに革マル派の弁護士を解任、8日の東京地裁での拘留理由開示の公判も辞退して自供を始めた。これによってすでに逮捕されている二文自治会委員長の村上文男ら4人の起訴もほぼ確実になり、指名手配中の元一文自治会組織部長の後藤隆洋ら6人の逮捕に捜査の的が絞られることとなった。自供に至る経緯については滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」に詳しい。次のように解説されている。
 「自己批判書の日付けが、死者・川口の一周忌の翌日ということは、警視庁公安部(あるいは東京地検公安部)が“一周忌”のチャンスをとらえ、加害者・佐竹に精神的攻めを加えた結果とも見られる。佐竹をはじめ川口君事件被疑者に対し警視庁公安部は、カラーの遺体写真をも眼前に突きつけ、日夜の調べ(攻め)を強行した」。

 佐竹は自己批判書を取調官に提出。リンチの模様について絵をかいて説明するなど詳しく自供したが、遺体の運搬については「自分は関係しなかった」と主張した。
 佐竹自己批判書に対し、革マル派の「共産主義者」32号、木曾淳士(黒田寛一)は次のように批判している。
 「公安当局の弾圧のもとで、暴力一切を否定するというブルジョア的人間観を注入されこれを粉砕し得ず、そうすることによって裏切り者となった」。

 1974.6.28日付読売新聞記事は次の通り。

【川口君1周年闘争】
 11.9日、「もう争いはやめて!」。川口君の母が1周忌の訴え。川口君追悼デモで犠牲者。大阪の中核派の元学生死ぬ。「機動隊に殴られた」。

【事件関係者の自供相次ぐ】
 11.10日、川口君リンチ殺人事件で、革マル幹部が自供「イスに縛りメッタ打ち」。
 11.11日、東京地検が、先に逮捕していた革マル派4名(二文自治会委員長/村上文男(25)、武原光志(23)、佐竹実(23)、阿波崎文雄(26))を監禁致死罪で起訴した。

 量刑につき次のように解説されている。
 「東京地検は当初殺人罪の適用を検討したが、川口君の死に慌てていたという証言があったことから、川口君を殺すつもりはなかったと判断し、監禁致死罪を適用した。また、警視庁は逮捕監禁致死罪で逮捕したが、東京地検は川口君を長時間におよび教室に閉じ込めたことから監禁致死罪に当たるとして逮捕罪を省いた。なお、逮捕罪とは、他人の両手両足を捕らえた場合など、短時間の拘束に対して適用される」。
 田中敏夫前委員長は、「一人の命を奪ってしまったことを一生かけて償っていく。二度と学生運動はしない」と転向表明をしており、犯行への参加や指示・命令した証拠がないため処分保留になった。佐竹は自己批判書を取調官に提出。リンチの模様について絵をかいて説明するなど詳しく自供したが、遺体の運搬については「自分は関係しなかった」と言っている。
 11.12日、川口君リンチ殺人事件で、Sら2人が自己批判・ 「転向声明」。佐竹はその後「分離公判」となり、報道関係にも非公開で審理が進められた。
 川口サトさんのコメントは次の通り。
 「被告たちが遅まきながらでも、自分たちがやったことが間違っていたと自己批判したことはうれしい。これをきっかけに、ほかの活動家の人たちも、運動の中から暴力を締め出すよう努力してほしい。大三郎が死んでまる一年たった今は、被告たちに対して憎しみより、むしろ被告たちの母親に対する同情の念の方が強い」(1973年11月12日付読売新聞)。
 11.12日、警視庁公安部は、村上文男、武原光志、若林民生を暴力行為と傷害の疑いで再逮捕する。容疑は1972年10月17日21:00、早大文学部34号館253教室に早大社会科学部3年A君(21)を連れ込み「おまえも共青(日本共産主義青年同盟)だろう。自己批判しろ」と言って、殴る傘で突くなどして15日間のケガをさせたというもの。
 11.13日、東京地検公安部が、田中前委員長(24)は川口君リンチ殺人事件で事件現場にいなかったとして処分保留した。次のように報じられている。
 「東京地検は、監禁致死容疑で警視庁が逮捕した元早大一文自治会委員長・田中敏夫(24)を12日夕、処分保留のまま釈放した。田中は川口君事件の指揮、命令をした疑いがあるとされ、10月22日に逮捕されたが、事件に関与しなかったという見方が強くなったため釈放となった。田中は、別の内ゲバ事件で横浜刑務所に服役中を逮捕されたので、釈放と同時に身柄は再び同刑務所に移された」(1973.11.13日付け毎日新聞)。
 二文自治会委員長/村上文男氏は、「BLOG-C 第293号=『彼は早稲田で死んだ』」によれば、獄中で、「一部の未熟な分子の仕わざ」呼ばわりで切り捨てることで党派の責任を逃れるべく弁明した革マル派党中央の姿勢に憤慨し、「僕を疎外した組織を僕は絶対に許すことができない」、「革マル派に革命などやらせてはならないと思う」と記しているとのことである(「梯明秀との対決」(こぶし書房、1979年刊))。

【相次ぐ自己批判声明に対する革マル派、中核派の対応】
 こうした自己批判への革マル派の対応は、滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」に詳しい。それによると革マル派は次のように声明し批判している。
 「公安当局の弾圧のもとで、暴力一般を否定するというブルジョア的人間観を注入されこれを粉砕しえず、そうすることによって裏切り者となった」(革マル派機関紙「共産主義者」32号)

 中核派は次のように論評している。
 「佐竹・田中は留置場以外に安全なところはないと観念し警察に保護を申し出た。だがこれは転向でも何でもない。佐竹の脱落にさいしての論理は革マルの“党派闘争の論理と倫理”なるものと寸分違わない」(中核派機関紙「前進」660号)。

【村上文男、武原光志、若林民生が別件の暴力行為と傷害の疑いで再逮捕される】
 11.12日、警視庁公安部は、村上文男、武原光志、若林民生を暴力行為と傷害の疑いで再逮捕する。容疑は1972.10.17日21:00、早大文学部34号館253教室に早大社会科学部3年A君(21)を連れ込み「おまえも共青(日本共産主義青年同盟)だろう。自己批判しろ」と言って、殴る傘で突くなどして15日間のケガをさせたというもの。

【黒ヘルが早大図書館占拠闘争】
 11.19日午後8時頃、第一文学部と政経学部からなる早大黒ヘル十数名が本部キャンパス正門脇の早大図書館に乱入し、屋上からマイクで、大学に対し早稲田祭の中止と総長団交を要求し立てこもった。大学側は「学外へ出なさい」とマイクで再三にわたり警告、警視庁機動隊と戸塚署員約百名が学内外に待機した。学生らは屋上から図書館内の書籍を投げたりして抵抗し、攻防4時間の末に不退去罪で逮捕された。

 翌日、行動委委員会系グループが本部キャンパスでデモと集会を開き、村井総長の「5.17日団交再開確約」違反を批判する図書館占拠闘争を支持声明した。その後、叛旗派などのセクトと合流し、革マル派が準備中の看板を破壊するなどした。行動委員会系の表立った集会は、この日が最後となった。

 11.21~26日、革マル系の早稲田祭開催さる。民青同系の法学部祭開かれる。


 この頃、5・17被告団第四回公判。結審近し。検察側曖昧な態度に終始す。
 11.24日、火炎びん11本 大学祭の早大で見つかり押収される。
 11.26日、大隈講堂でボヤ。早稲田祭に反革マル派いやがらせ。
 11.27日、川口君リンチ殺人事件に関わる鉄パイプ乱入で捜索/東京都渋谷区。
 12.16-17日、警視庁公安部は、佐竹の自供などから、小石中也(22)(一文)ら6名を監禁致死容疑で全国に指名手配した(指名手配者は計12名に)。
 12.21日、川口君リンチ殺人事件で、拉致・殺害当日の深夜に目撃された、遺体の搬送に使われたと思われるオレンジ色の自動車は、革マル派活動家が所有する46年式のマツダ・ロータリークーペと特定された(読売新聞12月21日付夕刊)

1974(昭和49)年

【警視庁特捜本部は、監禁致死容疑でさらに4名を公開指名手配】
 1.29日、警視庁特捜本部が、監禁致死容疑でさらに革マル派4名(内堀真也 、田中公郎、桶谷成行、柘植隆治)を公開指名手配した。

【警視庁特捜本部が阿波崎に懲役1年、村上に懲役10ヵ月、武原に懲役8ヵ月判決】
 3.19日、東京地裁(荻原昌三郎裁判長)は、2J級友への暴行事件で、阿波崎文雄に懲役1年、村上文男に懲役10ヵ月、武原光志に懲役8ヵ月(求刑:各懲役1年)の判決を下し、3名は控訴した。

 公判では、傍聴席を他大学生と思われる革マル多数が占拠し、刺すような目つきで証言する被害者を睨んだという。堪らずに級友の一人は、加害者の特定をする際に「知りません。忘れました」と証言した。なお、近藤隆史は公判に出廷せず、逃亡を続けている。

【警視庁公安部は、二文自治会元委員長/若林を逮捕監禁、傷害致死の容疑で逮捕】
 4.22日、警視庁公安部は、若林民生(27、二文自治会元委員長)を川口大三郎への逮捕監禁、傷害致死の疑いにより東京拘置所内で逮捕した。5.10日、若林は監禁致死罪で起訴される。

【警視庁公安部が、池松、緑川、新井の3名を指名手配】
 また同じ監禁 傷害致死容疑で、池松恒美(23、一文自治会元情宣部長)、緑川茂樹(23、一文自治会元常任委員)、新井直樹(27、元日大文理学部生)の3名を指名手配した。(なお、緑川には前年10月21日に逮捕状が執行されている)。

 3.20日、川口君リンチ殺人事件で、救出の友人に乱暴の元早大生3人に有罪。
 4.23日、川口君リンチ殺人事件で革マル幹部を逮捕、3人手配。
 5.10日、川口君リンチ殺人事件で執行委員長を起訴。

【馬場素明が、中核派の前迫殺害容疑で指名手配される】
 5.13日、革マル派前委員長の馬場素明が、革マル派非公然軍事組織「特別行動隊」を率いて法政大学前に中核派を急襲し、前迫勝士(革共同東京東部地区委員長)を殺害する。指名手配されるも4年後の1978.5.18日現在、逃亡中(その後も不明)。

【川口君リンチ殺人事件の“極秘公判”で注目の佐竹に7年求刑】
 5.10日付け早稲田大学新聞191号「5.17裁判判決下る 拘留二十日 未決勾留期間と相殺」。
 6.28日、川口君リンチ殺人事件の“極秘公判”で注目の佐竹に7年求刑。6.28日付読売新聞夕刊が見出し「川口大三郎リンチ殺人“極秘公判”で求刑 注目の佐竹七年 転向声明の“報復”恐れ」で次のように報じている。
 「(前略)監禁、傷害致死、傷害罪に問われた早大第一文学部自治会書記長、佐竹実(23)の論告求刑公判(第3回公判)が28日、東京地裁刑事13部(石田穣一裁判長)で開かれ、検察側から懲役7年の求刑があった。ところが、この日、公判が開かれたことは外部には一切秘密。佐竹が革マル派から転向したためで、佐竹自身も、同派の報復を恐れ「自分はどうなってもいい。家族にだけは危害を加えないでほしい」と訴えているという。この事件は犯行現場が“密室”状態の教室だったため、捜査が難航。事件から約1年後の昨年10月になって、警視庁に逮捕された佐竹が転向を表明、その供述からようやく事件の全容が解明され、佐竹ら5名が起訴に持ち込まれた。佐竹は、この時、「川口大三郎のめい福を祈るとともに、川口大三郎のお母さんに深く謝罪したい。暴力の行使には際限がなく、その結果は予測をはるかに越える」と内ゲバ横行を憎む自己批判書を書き、裁判も一人だけ分離を希望して、初公判から起訴事実をほぼ全面的に認めた」。
 「しかし、革マル派から見れば、佐竹は裏切り者。山形県の親元や佐竹の弁護を受け持った大山英雄弁護士のもとにはいやがらせの電話が続いた。このため、裁判所側も佐竹の身の安全を考え、公判期日や使用法廷は報道関係者にも“完全黙秘”という気のつかいよう。万一に備えて法廷の看守を増やし、本来なら法廷で当事者と打ち合わせて決める次回期日も『追って指定』に切り替えたほか、両親など情状証人4人の尋問も公判期日外に非公開で行った。それでもさる3月の初公判の時には、どこで察知したか、東京拘置所から佐竹を乗せた護送車が東京地裁に着くと、学生風の男が3人つきまとい、法廷にも10数人が現れ、被告席の佐竹をヤジリ倒した」。

 そうした措置にもかかわらず、初公判の時には、東京拘置所から護送車が着くと学生風の男3人がつきまとい、法廷にも十数人が現れて、被告席の佐竹をやじり倒したという。 (資料:滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」)
 7.31日、東京地裁(石田穣一裁判長)が川口君リンチ殺人判決1号として一文自治会書記長(事件当時)の佐竹被告に懲役5年(求刑/7年)を言い渡した。。反省認め情状酌量された。「判決文に事実誤認がある」として控訴したが、控訴審判決でも量刑が変わらず服役した。
 判決文は大学当局の責任にも触れており、各紙も見出しに「早大の責任も指摘」(毎日新聞)、「大学の事なかれ主義もしかる」(読売新聞)とそれぞれ記している。

 
☆朝日新聞7月31日付夕刊「佐竹実 監禁・傷害致死 懲役5年」
 「本件は被害者を中核派と思いこみ、一方的に大勢で暴行の限りをつくしたせい惨なリンチであり、暴力にマヒした革マル派の組織的な犯行というべきだ。いわば、起こるべくして起こった事件で、単なる偶発的な犯行とみることはできない。しかし、被告はその後、心境に変化をきたし、捜査当局に犯行を自供するとともに革マル派と手を切り、続発する内ゲバに歯止めをかけたいとの気持になっていること、大学当局が事後に適切な措置をとっていれば、被害者の死は防げたと思われること、など情状を考慮して懲役5年の刑を決めた」。

 ☆毎日新聞7月31日付夕刊
 「川口君が中核派に関係していないのに、関係していると誤認し密室に監禁し、自分の思いどおりの返答がえられないとみるや、川口君の弁解には一切耳を傾けず、大勢で暴行し死に至らしめたものである。これは討論に名を借りたリンチにほかならなかった。川口君には落度はなく学内で起こったこの事件は戦りつを感じさせる。」しかし「被告は現在、暴力行為を反省し革マル派から離脱した。内ゲバ事件に歯止めをかけたいとし川口君事件の全容を捜査当局に供述した。川口君事件にも積極的に関与したのでなく幹部の指示に従ったものだ」、「大学当局が適切な措置をしていれば川口君の死という事態は防げたのではないか」。

 ☆読売新聞7月31日付夕刊
 「暴力にマヒし切った革マル派の組織的犯罪であり、自派を絶対視して反対勢力に対しては、暴力に訴えていくかぎり起こるべくして起こった事件といえる」、「事件を早くから察知していた大学当局が適切な措置をとっていれば、川口君の死は防げたかもしれない」。

 秋、佐竹に遅れて数カ月後、他の4人への判決が下され、全員が控訴した。


1975(昭和50)年

【革マル派の金子(二文元副委員長)が再逮捕される】
 2.12日、原宿署が、革マル派の金子賢治(二文元副委員長、11.13三役被処分者)を殺人未遂、凶器準備集合罪などで再逮捕する。1973.11.26日、渋谷区代々木で中核派活動家とその妻を5人で鉄パイプ襲撃し、1カ月の重傷を負わせて逃げた疑い。

【東京高裁が、革マル派の佐竹の控訴棄却】
 2.19日、東京高裁刑事4部で佐竹実の控訴審判決。寺尾正二裁判長が控訴を棄却、刑が確定した。同刑事2部で阿波崎、村上、武原の川口君の級友への暴力事件控訴審判決があり、横川敏雄裁判長がそれぞれを減刑に処した。阿波崎文雄に懲役8ヵ月、村上文男に懲役6ヵ月、武原光志に懲役6ヵ月。

【革マル派が、中核派の最高指導者/本多延嘉書記長を虐殺】
 3.14日、革マル派が、埼玉県川口市にあるアパートで、中核派の最高指導者/本多延嘉書記長(41歳)をテロで殺害した。革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。
 概要「今朝、わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目・書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした。これは、産別戦争と称して、無差別無制限のテロを労働者に加えるという、世界革命史上、前古未曾有の反革命集団に対して振り下ろした怒りの鉄槌であります。我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめでもある。殺害を目的としたものではなかった。わが全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが鉄槌の一振り一振りに於いて表現されたことの結果として死亡ということになった」。

 中核派の怒りは凄まじく、3日後、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。


 3.19日、川口大三郎への監禁、傷害致死などの罪に問われていた早大第一・第二文学部自治会元幹部4名に対する判決公判が東京地裁刑事10部で開かれ、佐々木史朗裁判長は以下の判決を言い渡した。
村上文男 (27) 元二文自治会委員長 懲役8年(求刑:懲役10年)
若林民生 (28) 懲役6年(求刑:懲役8年)
武原光志 (25) 元同自治会副委員長 監禁と傷害致死幇助で懲役3年6ヵ月(求刑:懲役5年)
阿波崎文雄 (28) 元一文自治会会計部長 監禁罪(傷害致死を除く)で懲役2年(求刑:懲役5年)

 武原、阿波崎は川口大三郎殺害には直接関与せずと判断された。また、村上、若林、武原には72年10月17日の共青学生への暴行が併審されたが、いずれも控訴した。

【中核派と革マル派が新橋駅ホームで会戦】
 7.17日、中核派と革マル派が新橋駅ホームで会戦。皇太子夫妻の沖縄訪問に反対して国電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派約400名、中核派約400名が新橋駅山手線内回りホームで衝突。投石などを行い、同駅を通る京浜東北線など各線がストップした。この衝突で革マル派の立命館大経済学部の甲斐栄一郎(20歳)が死亡、革マル22人目の死者となる。44名が重軽傷。321名(うち女性53名)が逮捕される。

 この年、早大革マル派の田中前委員長が横浜刑務所で刑期を終え、帰郷する。


1976(昭和51)年

【東京地裁が革マル統一裁判組の4名全員に懲役判決】
 3.18日、 監禁、傷害致死などの罪に問われていた「早大生リンチ裁判」の革マル統一裁判組に対する判決公判が東京地裁刑事10部で開かれ、東京地裁(佐々木史朗裁判長)が元自治会幹部ら4名全員に減刑懲役判決を下した。
村上文男 監禁、傷害致死 求刑:懲役10年 懲役8年
若林民生 監禁、傷害致死 求刑:懲役8年 懲役6年
武原光志 監禁と傷害致死幇助 求刑:懲役5年 懲役3年6ヵ月
阿波崎文雄 監禁(傷害致死を除く) 求刑:懲役5年 懲役2年

 武原、阿波崎は川口大三郎殺害には直接関与せずと判断された。また、村上、若林、武原には72年10月17日の共青学生への暴行が併審されたが、いずれも控訴した。
(私論.私見)
 「各々の罪名と刑期については公表されていない、それを誰も訝らない。不思議なことである」としていたが、「川口大三郎リンチ殺害事件の全貌」に掲載されていた。

【事件関係者のその後の動向】
【村上文男】
 革マル組織から“一部の未熟な仲間”と切り捨てられた当事者の一人であり、「梯明秀との対決」(1979年7月1日、こぶし書房)を刊行する。革マル組織から“一部の未熟な仲間”と切り捨てられた当事者の村上文男の弁明。府中刑務所内での心情を綴った「あとがきにかえて」部分にも川口大三郎殺害への反省の記述はない。黒田寛一は「共産主義者」23号で “未熟な部分”を「同時に指導部の未熟性の一表現でもある」と擁護した。殺害の直後には組織から“未熟”と否定された者が、こぶし書房から著書を刊行できたのは、これが理由ではないだろうか。川口大三郎リンチ殺人は決して未熟な“部分”が引き起こしたものではなく、革マル派という組織そのものによる犯罪だったということが判明しよう。
【竹内政行】
 1998年1月7日、非公然アジト「豊玉アジト」が摘発され、「神戸連続児童殺傷(酒鬼薔薇聖斗)事件」に関して検事調書を盗んだ事件他で革マル派活動家1名逮捕、17名が指名手配された中に竹内政行(元二文書記長で11.13被処分者)が含まれる。彼は2005年11月30日、警視庁に出頭し、窃盗と建造物侵入容疑で逮捕される。
【桶谷成行】
 桶谷成行もこの事件に関与したようで、2004年に裁判にかけられた記録が残されている。
【水津則子】
 2000年2月8日、水津則子(49)は他4名とともに警察無線傍受の疑いで指名手配される。「浦安アジト」で警視庁無線を傍受し、交信内容を練馬アジトに通報していた疑い。
【大岩圭之介】
 第一文学部自治会副委員長として11.13に無期停学の処分を受けるも、革マル派として活動を継続。その後は海外に逃亡し、帰国して「辻 信一」の名前で表現活動を続けている。
◆川口事件絡みで指名手配・逮捕・起訴された者の氏名
 ×は実刑、△は指名手配(逮捕状執行)されるも逃亡
以上、直接関与した者としてわかっているのは22もしくは23名。うち逮捕・起訴・判決・収監された者は5名のみ。他の動向は不明。以上が「事件」に関与した全員とは思われない。佐竹の供述には、遺体の処理・運搬に携わった者の氏名は含まれていない。上掲の20数名の以外にも、拉致から遺体破棄までには、革マル派上部団体の幹部等が関わっていたことは想像に難くない。
× 村上文男 二文
×  若林民生 二文 (11.13三役被処分者)
×  佐竹実 一文  (11.13三役被処分者)
×  武原光志 二文 (11.13三役被処分者)
× 阿波崎文雄 一文
処分保留 田中敏夫 一文 (11.13三役被処分者)
近藤隆史 二文
後藤隆洋 一文
池松恒美 一文
緑川茂樹 一文
矢郷順一 一文
水津則子 一文
田中公郎 一文
小石中也 一文
桶谷成行
内堀真也 政経
新井直樹 日大
柘植隆治 明学
(氏名不明4or5名)

【村井総長と統一教会系早大原理研究会の蜜月と反目】
 裁判記録で明らかにされることは、川口君リンチ事件の12日後、原理研&「早大学生新聞会」の学生が川口君の母親サト(以下、単に「サト」と記す)宅を訪問し、ほぼ一か月後、早大学生の憩いの場としての民宿を建てたいで始まったサトの話をセミナーハウス建設へと大きくし、村井総長宛てに要望書を提出させている。(サトがこのように取り込まれている話は最近知った。私がそれまで知らなかったということは、この問題が隠蔽されていたことを意味する。同時に、自治会再建運動派がその後のサトに無関心だったことを意味するのではなかろうか。その後の活動を定期的に報告して連絡して居れば、原理研&「早大学生新聞会」のサト取り込みが見え救出したはずと思う)

 サトは、大学からの見舞金600万円を建設資金として提供する旨、意思表明している。他方、当時全国大学原理研究の会長であつた藤井道雄が、村井総長の妻の禎子に対し直々に″原理″講義を始め、以後二か月にわたる週一度の講義を続けている。当時の早大・神沢学生担当理事が、禎子にサトの意志を汲むよう橋渡ししている云々。夏休み(昭和48年)、原理研の学生たちが総工費約6千万円のセミナーハウス建設のための街頭募金活動を全国展開し、4200万円の募金を集め資金問題を解決させた。この流れで、村山総長夫妻が、大学とは無関係の個人協力として、広く一般に開放する公的施設にする趣旨でのセミナーハウス建設用地として、個人資産として所有していた韮山の別荘地を無償提供した。ところが、建設発起人の選定の段になると、原理研側が出してきた人数は6名で、サトと村井夫人を除く4名は全部″原理関係者″だった。村井夫妻が示した早大元総長の大浜信泉、阿部賢一の両夫人の名はかたくなに拒否された。最大のトラブルとなったのは、「暴力を排除し平和な社会を建設するため広く一般社会にも場を提供することを目的とする」ものとして建てられたものであったにも拘わらず統一教会の修練場となっていた約束違反であった。調査したところ他にも「私文書偽造」、「印鑑偽造捺印」等々が発覚した。
 この情報を週刊誌「週刊ポスト」がキャッチし取材班を組織した。1978(昭和53).6月頃、評論家の茶本繁正に執筆と取材の助言を依頼し、編集部デスクである編集員山本進を指揮者として、その下に編集部記者の歳川隆雄を班長とし、田島洋、二木啓孝らを取材記者とする取材班を編成して取材を開始した。こうして週刊ポスト誌上に「問題摘出レポート 茶本繁正と本誌取材班」と題する記事をシリーズで4回にわたり連載した。中でも、「週刊ポスト」同年9.1日号で、「問題摘出レポート第三弾!茶本繁正と本誌取材班」と題して、「『原理』対『反原理』問題で村井・早大総長夫妻が告白!」、「私たちは地獄の底で統一教会の正体を知つた』」との大見出しのもとに5頁もの記事を掲載した。これに対し、統一教会が名誉棄損で訴え十数年にわたって係争することになった云々。
(私論.私見) 村井総長と統一教会系早大原理研究会の蜜月と反目考
 村井総長と統一教会系早大原理研究会の蜜月と反目は興味深い。これまでの川口君事件考で触れられていない盲点になっているように思われる。実は、当時のキャンパス情勢に於いて、統一教会系早大原理研究会と革マル派は阿吽の呼吸で親和的関係にあった。確かどちらにも顔が利く教授が居たはずである。且つ早大原理研究会と村井総長は上記の流れで判明するように一時期までは蜜月関係にあった。他方で、早大原理研究会は、再建自治会運動にも要員を送り込んでいた。こういう関係で捉えれば、当時の川口君虐殺糾弾闘争は、学内の唯一の援軍党派は民青同だけであり、その共同戦線が切断されて以降は四面楚歌の中での孤軍奮闘になっていたことになる。こういう厳しい現実を思えば、敗北を余儀なくされたとはいえ能く闘ったのであって、誇って良い史実を歴史に刻んでいると思う。こう確認するのが正調ではなかろうか。
 2021.11.18日付け「大脇準一郎/川口大三郎君事件とは、何であったのか?」を参照する。

 大脇氏は、1968年から9年にかけて原研組織部長のかたわら世界学生新聞を創刊し、初代編集長。池野一義、渡辺雄一郎、大矢らの編集スタッフと共に喧々諤々、編集した。その後勝共連合事務総局、教育、総部部長、次長、WACL大会総企画室長を務めている。その大脇氏が次のように記している。
 「川口君の死を悼む学生有志のカンパ活動と村井資長総長による土地の提供により、川口記念伊豆セミナーハウスとして結実した。大学総長と学生、キャンパスの師弟の愛の結実であり、その麗しい伝統は今も花日和(百鶴苑)に受け継がれている。大脇氏は、2016年7月から2019年3月まで2年6ヶ月間、伊豆修善寺ニュータウンの百鶴苑(現、花日和)で暮らし、その間修善寺にある川口君の墓参りを関係者と共にしている」。

 2021.11月7日、八木秀雄・七々子夫妻の主宰による川口大三郎君死去50周年記念追悼「川口大三郎君を偲ぶ会」が伊豆修善寺ので花日和(百鶴苑)開催された。翌日、お寺で法要があった。川口君を偲ぶ人々が全国から集った。

1977(昭和52)年

【革マル派が、社青同解放派の最高指導者/中原一書記局長を虐殺】
 2.11日、革マル派が、革労協反帝学評(青解派)筆頭総務委員の「中原一」こと笠原正義書記局長を、茨城県取手駅付近で車に乗っていたところを乗用車に挟み撃ちにし鉄パイプで頭などをメッタ打ちにされて死亡した。

 最高指導者を殺された社青同解放派の怒りは凄まじく、「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と声明し、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の全面に踊り出て、中核派に代わって「対革マル」の前線に立つことになった。

【革マル派対中核派、革マル派対社青同解放派の党派間死闘戦に突入する】
 戦前戦後の学生運動を官立の東大、私立の早稲田が牽引していた観があったが、その学生運動が次第に党派化し始め、1969年の時点で、革マル派が第一文学部、第二文学部、商学部、教育学部、社会科学部の自治会、社青同解放派が政経学部、民青同が法学部の自治会を掌握し拠点校していた。

 ところが、発端理由ははっきりしないが、革マル派がそれまでの共存状態に決別すべく、凄惨なリンチテロを含めて社青同解放派を追い詰め追い出し、同派は学内立ち入り不能に追いやられた。この経緯の凄惨さによって革マル派と社青同解放派の党派間抗争が不可逆的なものとして定向深化していった。以来、キャンパス内には「常軌を逸した暴力支配」が日常化した。そこへ、1970年、中核派が革マル派の東教大生リンチテロ致死事件を起し、革マル派と中核派がこれまた不可逆の党派間抗争に突入した。この抗争の初期の数年間は、中核派が負い目を持っていたかのように劣勢を強いられていた。そこへ、1972年、今度は革マル派が中核派シンパと思われる早大生リンチテロ致死事件を起し、以来、中核派の負い目が払拭された観のある両派の真っ向抗争となり定向深化していった。そこへ、1974年頃から社青同解放派が対革マル派ゲバルト戦に加わった。革マル派は、中核派と社青同解放派の両派との党派間抗争を引き受けつつ、戦況をやや優位に戦っていた。その流れで、革マル派が、1975年に中核派最高指導者の本多氏を、1976年に社青同解放派最高指導者の中原氏をテロ虐殺し機関紙で戦果を誇った。

 最高指導者をテロられた両派は党派のメンツにかけて不退転の報復戦に乗り出して行く。これにより革マル派の活動家の相当数が犠牲になった。革マル派も反撃するので、中核派と社青同解放派の被害も甚大なものになった。これを詳述するのは別稿にするが、川口君事件はこういう流れで掴むこともできる。私には、川口君は当人が望まずして学生運動史上の人身御供になったの観が禁じ得ない。

以降のキャンパス事情

【大学当局と革マル派の蜜月関係が続く】
 その後も、大学当局と革マル派の間には90年代初頭まで密接な関係が続いた。

【その後の早稲田大学総長史】
 村井総長から奥島総長までの総長史を確認しておく。(正鵠は他日に期す)
初代 大隈重信 1907年~1922年
名誉 大隈信常 1923年~1947年
2代 塩沢昌貞 1923年 政経学部
3代 高田早苗 1923年~1931年 8年 政経学部
4代 田中穂積 1931年~1944年 13年 商学部
5代 中野登美雄 1944年~1946年 2年 政経学部
6代 島田孝一 1946年~1954年 8年 商学部
7代 大濱信泉 1954年~1966年 12年 商学部
8代 阿部賢一 1966年~1968年 2年 政経学部
9代 時子山常三郎 1968年~1970年 2年 政経学部
10代 村井 資長 1970年~1978年 8年 理工学部
11代 清水 司 1978年~1982年 4年 理工学部
12代 西原 春夫 1982年~1990年 8年 法学部
13代 小山 宙丸 1990年~1994年 4年 文学部
14代 奥島 孝康 1994年~2002年 8年 法学部
15代 白井克彦 2002年~2010年 8年 理工学部
16代 鎌田薫 2010年~2018年 8年 法学部
17代 田中愛治 2018年~ 政経学部

【奥島総長体制が確立し革マル派との蜜月関係終焉に舵を切る】
 1994(平成6)年、14代早稲田大学総長に法学部系の奥島孝康が就任し、早稲田大学と革マル派の蜜月関係終焉に舵をきった。就任後に次のように表明している。
 「革マル派が早稲田の自由を奪っている。事なかれ主義で続けて来た体制を変える」。

 奥島総長は、「法学部長として4年、総長として8年の計12年間にわたった革マル派との12年戦争」に立ち向かった。

 1995年、奥田総長体制下の大学当局が、商学部自治会の公認を取り消した。これにより、約6千名の学生から毎年一人2千円の自治会費を授業料に上乗せして集め、革マル派の自治会に渡していた年間約1200万円の自治会費代行徴収の慣行が崩れた。

【「早稲田祭」の開催主体を巡って早稲田大学と革マル派が対立】
 1996(平成8)年、早稲田大学の学園祭「早稲田祭」(第43回)で不正な資金流用の疑いがあることが判明し、この問題で早稲田大学と革マル派が早稲田祭の開催を巡って対立した。大学当局は、学園祭の運営を健全なものとするための改革に乗り出したが、早稲田祭実行委員会が大学当局の要求に応じないため、1973年に締結された「早稲田祭実施にあたっての五原則」を持ち出して1997(平成9)年の早稲田祭を中止した。更に1998(平成10)年の早稲田祭も中止した。大学当局は、早稲田祭の中止決定について、「早稲田祭が新しく生まれ変わるための「痛み」である」と訴えた。

 1996.10月、革共同(革マル派)議長黒田寛一が辞任。2006年に死去した(享年78)。


【革マル派の抵抗と反撃】
 革マル派は、警察無線すら傍受できる盗聴技術を持っており、その技術を駆使して、革マル派に批判的な姿勢を見せた早大関係者の金銭問題や女性問題などのスキャンダルを次々と暴露した。

【革マル派の早稲田大学学生部長宅盗聴事件】
 1997(平成9)年、革マル派が、早稲田大学の奥島総長体制派にして早稲田祭を担当していた学生部長(法学部教授)の自宅に盗聴器を仕掛けて8月-10月にわたり11回の通話を録音、盗聴し早稲田大学側の動きを探った。これを「早稲田大学学生部長宅盗聴事件」と云う。

 1998(平成10)年、警察は革マル派の非公然活動家10名を指名手配し、内5名を逮捕した。被告は電気通信事業法違反で起訴され、懲役10ヶ月の実刑判決が言い渡された。

 この事件を契機に早稲田大学は革マル派に対して厳しい姿勢で臨み、早稲田祭の1997年から2001年までの中止を決定、早稲田祭実行委員会を活動禁止処分した。1998年、「文連(文化団体連合会)」常任委員会への便宜供与を中止。1999年、早稲田大学新聞会を大学公認サークルとしての公認取り消し。2000年、文連加盟サークルへの補助金(1サークル当たり年間35万円)の支給中止。2005.3月、社会科学部自治会の公認および便宜供与廃止。この間、革マル派の関係者を大学内から次々に排除していった。


 次のように評されている。
 「奥島総長は、革マル派から脅迫、吊るし上げ、尾行、盗聴など様々な妨害を受けたが、これに屈することなく、所期の方針を貫いた。川口君の虐殺事件から実に25年の歳月を経て、早稲田大学は革マル派との腐れ縁を断つことができた。あまりにも遅かったが、奥島総長の決断と覚悟がなければ、癒着体制は今も続いていたに違いない」。

 奥島総長自身が次のように述懐している(「【さらば革命的世代】第4部キャンパスはいま(3)早大当局VS革マル派 元総長の12年戦争」参照)。
 概要「大学の歴代執行部は、あえて対決を避ける事なかれ主義に陥っていた。革マル派との対決は、いろんな人の協力があってこそできたこと。ただ、革マル派と手を組む人が学内に大勢いたことは我慢できなかった。例えば、教授の中にも、清廉潔白を売り物にして常々『不正は良くない』という割に、革マル派の不正は容認するという人、保守的な主張を繰り返す一方で、裏では革マル派と結託していた人もいた。彼らとの対決を通じて、思想的な立場よりも、その組織や個人が実際にどんな行動を取っているのかを見極めることができた。『世の中を変える』と口先では言いながら、実際には『変わらないほうがいい』と内心では思っている人が大勢いることも知りました」。
 「早稲田大学と革マル派の関係の終焉」には次のように記されている。
 「革マル派を排除した後、新左翼などの団体が再び早稲田大学に復活することはなかった。なぜなら、その頃の日本は全国的に学生運動が衰退し、その運動の意味すら知らない多くの学生が学生運動に興味を持つのは無理だったからだ。こうして、早稲田大学は革マル派の掃討・追放に成功したのだった」。

【革マル派が「神戸A少年事件」の冤罪運動を組織する】
 1997(平成9)年5.24日午後、兵庫県神戸市須磨区で、被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれたり、地元新聞社に「挑戦状」が郵送される等の特異な連続殺傷事件が発生した。別名「酒鬼薔薇聖斗事件」とも云う。警察は聞き込み捜査の結果、当時14歳の中学生(以下「A少年」と記す)を逮捕し犯人とされ今日に至っているが、革マル派が逸早く「A少年」の「声明文」の執筆能力を疑い、警察の報告書に対する疑問点や、捜査の手法を批判し冤罪運動に乗り出した。革マル派は、その過程で、兵庫県立光風病院に侵入して保管されていた神戸事件検事調書を記録したフロッピーディスク等窃盗事件、室内盗聴録音事件、神戸事件被疑少年両親宅侵入事件、神戸大学医学部侵入事件、神戸事件被疑少年が入院している関東医療少年院侵入事件等々を引き起こして行く。
(私論.私見) 革マル派が神戸連続児童殺傷事件被告「A少年」の冤罪運動組織考
 革マル派が何故に神戸連続児童殺傷事件被告「A少年」の冤罪運動を組織したのか分からない。恐らくトップダウン指令によるのだろうが、それまでの党派間ゲバルトの権力謀略論吹聴と相俟って不評だった。抗争相手の中核派、社青同解放派は「カクマルのまたかよウソ論」と見做して揶揄し続け今日に至っている。

 ところが私はこの問題に限って「A少年冤罪説」に与しており、革マル派の冤罪運動を評価している。本来は他の党派も検証すべきで、「A少年冤罪」の推断ができ次第に取り組むべきであり、革マル派の一手専売にさせてはならないと思っている。更に言えば、革マル派が「A少年」の冤罪運動に踏み込んだ経緯に関心がある。どういう情報を得て逸早い冤罪運動に乗り出し得たのだろうか。という疑問を持っていたところ、次の一文に出くわした。転載しておく。やはりクロカン直々の指導による「神戸A少年冤罪事件告発運動」だったことになる。
 「革マル分子の中には、さすがに、冤罪とは考えられないと意見した者もいたようだ。ところが、黒田自ら、疑問を出す革マル分子に『非合理的で非対象的なモメントをも導入しながら予測や展望をうちだすことが必要だ』、『“事実”に拘泥するのは、クソ・リアリズムだ』、『政治判断と認識』と罵倒したそうだ」。

【革マル派の非公然アジト「豊玉アジト」摘発】
 1998(平成10).1月、警察は、革マル派の非公然アジト「豊玉アジト」(東京都練馬区)を摘発した。アジトから偽造した警察手帳や公安調査官証票のほか、14,000本にものぼる合鍵(その中には奥島総長宅の玄関ドアの鍵も含まれていたという)、約400本の印鑑、大量の工具類や文書類、さらに1997(平成9).5月、神戸市須磨区で発生した小学生殺人及び死体遺棄事件(以下、「神戸事件」と言う)の検事調書を写しとったと思われる文書を記録したフロッピーディスク、室内を盗聴して録音したと思われるカセットテープ等同派による違法行為を証明する品々が大量に発見された。警察は、これらの押収品をもとに、・兵庫県立光風病院に侵入して保管されていた神戸事件検事調書等を盗んだ事件、・神戸事件被疑少年の両親宅侵入事件、・神戸大学医学部侵入事件、・神戸事件被疑少年が入院している関東医療少年院侵入事件、・早稲田大学法学部教授宅の電話盗聴事件、・国労本部書記長宅侵入事件等を解明して、同派活動家17名を指名手配し、このうち関東医療少年院侵入事件で手配していた女性活動家1名を逮捕した(平成10年12.31日現在)。

【革マル派の非公然アジト「浦安アジト」摘発される】
 1998(平成10).4月、警察は、革マル派の非公然アジト「浦安アジト」(千葉県浦安市)を摘発した。アジトから警察無線傍受無線機12台、再生機(暗号解読機)11台及び録音機20台が設置されていたほか、無線の内容を録音したカセットテープ約5,000本や多数の資料が発見された。このアジトで、同派女性活動家が、日夜、警察無線を傍受していた。これにより警察情報や対立する団体、個人等に対する非合法手段による調査活動を組織的に行っていたものとみられる。

 革マル派は、警察の一連の摘発、取締りに対して、「国家権力の打倒を目指す革命党が、国家権力の動向・動態を分析し、把握することは絶対不可欠である」などと機関紙で開き直りの主張を展開したほか、アジトの摘発や指名手配を受けた際に、マスコミ各社を呼びつけて、「権力謀略論」に立脚した記者会見、あるいは「緊急声明」の表明を行った。

【10代総長/村井資長が「早稲田の杜は生きている――村井資長の証言」を出版】
 1998年、10代総長/村井資長が自伝ともいえる「早稲田の杜は生きている――村井資長の証言」を出版した。その中で学生運動について次のように述べている。
 「強い同志的結束を持つ学生集団間で仇敵のように憎しみあい、傷つけあうことは断じて許されることではありません。ガンジーの〈霊の力、真理の力に立つ非暴力、不服従〉こそ大学に相応しい学生運動の一つの指針ではないでしょうか」。
 「ところが、昭和47年(1972)年11月、文学部の学生、川口大三郎君がセクト間抗争の巻き添えにあって、学内で虐殺されるという事件が起きた。これを機に各学部の自治会再建運動が沸き起こり、学内は再び紛争の嵐の中にたたきこまれたのである。講義中の私が、突然教室に入ってきた黒ヘルの集団に拉致され、断交を要求されるということもあった。私は、学生たちと対決する姿勢では問題は少しも解決しないことに確信を持っていたので、できる限り話し合おうとした。学生たちが、自らの学内の平静を求めた結果、川口君事件に端を発した学内の嵐は、翌年秋には静かになったのである。この頃の教授会、学部長会はいつもまるで眠っているようなものであった。何を提案しても賛成もしなければ、反対もしない。長い紛争に学内全体が疲れ切っていたのだ」。

 2002年、早稲田祭が復活した。但し、大学当局からの資金提供は一切受けず、学生が完全に主催・自主運営する形態を取っている。他の多くの大学祭は、主催は大学で、運営主体である学生は大学から運営資金を提供してもらう形をとっているので早稲田祭の方が異例形式になっている。但し、自由自主自律的運営の為にはヒモ付きでない方が良いかもしれない。
 「90年代には年間2億円もの金が大学から革マルに流れていたとのことだが、ようやく革マルとの腐れ縁が切れたのは、実に川口大三郎の死から31年4ヵ月の時が経過した後のことだった」。

 2012.11月、川口君事件から40年ぶりで、「川口大三郎さんを偲ぶ会」が大学近くで開かれ、旧2Jの人達中心に集まり散じた。


 2019.3.1日、早大革マル派の田中前委員長が急性心筋梗塞で急死している。


【樋田毅・氏の「彼は早稲田で死んだ」が第53回大宅壮一ノンフィクション賞受賞】
 2022.5.13日、第53回大宅壮一ノンフィクション賞が決定し、鈴木忠平さん(45)の「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」(文芸春秋)と、樋田毅さん(70)の「彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文芸春秋)が選ばれた。

 樋田氏は、「革マル派の川口大三郎君リンチ虐殺事件糾弾闘争」に参加した一人で、当時
第一文学部に在籍、在学中の1972年に川口大三郎事件に遭遇。自治会再建運動の先頭に立ち、一年生ながら一文学生自治会再建派の臨時執行部委員長、再建以降の執行部委員長を務めた経歴を持つ。卒業後は朝日新聞記者となり、2017.12月退社。2018.2月、朝日新聞阪神支局襲撃事件を描いた「記者襲撃」を岩波書店から刊行。2020.3月、村山美知子の伝記『最後の社主』を村山美知子の生前の委嘱により講談社から刊行した。2021.11月、川口大三郎事件を扱った「彼は早稲田で死んだ」を文藝春秋から刊行する。

【代島治彦監督の映画「ゲバルトの森-彼は早稲田で死んだ」上映】
 2024.5月末、代島治彦監督の映画「ゲバルトの森-彼は早稲田で死んだ」が「内ゲバの真相に迫る」の触れ込みで上映された。元朝日新聞記者・樋口毅「君は早稲田で死んだ」原作を、鴻上尚史が脚本を書き、池上彰、佐藤優、内田樹ら多くの識者、関係者が出演し、重信房子もメッセ-ジをよせている。

 未完(つづく)


* 革マル派の事件関係者が警察の取り調べの際に事件を自己批判し、「謝罪声明」したはずであるが、該当資料が入手できない。どなたかご教示いただければ追加致します。

【サークル・他学部関係の日付なしビラ】
部落問題研究会「11.8サークル連絡会議に結集し、カクマル糾弾、文連解放、新たなる大衆運動の地平を切り拓け!」。
ベトナム解放戦争の映画をみる会「革マルの敵対を粉砕し学生大会に勝利せよ」。
早稲田大学歌謡曲研究会「都の西北が唄えない」。
早稲田大学歌謡曲研究会「思い出すのさ去年の事を-一九七二年デヴューヒット特集」。*先生(森昌子)、男の子女の子(郷ひろみ)、芽ばえ(麻丘めぐみ)の替え歌で革マル、民青を皮肉る。
無署名「抗議嘆願書-とりわけ二文当局およびすべての二文学友に訴える」(*山村政明(梁政明)君の抗議嘆願書をビラにしたもの)
政経3年15組有志「我々は訴える!」。
法11.8行動委「早稲田を総点検せよ」。
(*民青系 )早稲田大学全学連連絡会議、法学部学生自治会、教育学部学生自治会、社会科学部学生自治会、政経学部学友会「殺人者革マルによる早稲田の殺人大学化を許すな!今こそとり戻さん!自由の学府早稲田を!!」

【「早稲田キャンパス新聞」考】
 「川口大三郎君追悼資料室」の「早稲田キャンパス新聞川口君事件記事タイトル一覧」を参照する。
 「早稲田キャンパス新聞」は、早稲田大学キャンパス新聞会によって、昭和37(1962)年6月25日から昭和55(1980)年7月1日まで、当初は月二回刊、後に月一回刊で240号まで発行された学生新聞である。川口君事件当時、早大内の学生新聞として、革マル派色の濃い早稲田大学新聞、勝共連合系の早稲田学生新聞があったが、「早稲田キャンパス」は無党派、リベラルの立場であった。「早稲田キャンパス」終刊を記念して刊行された同紙縮刷版編集後記に次の一文がある。
 「図書館でバック・ナンパーを閲覧した。ノンブル打ちの都合で、号数、発行年月日、ページ数を一号ずつチェックしていくと、 七二年から三年にかけて何号かが抜け落ちていた。調べてみると、いずれも <川口君事件>を扱った新聞だった。当時、倉庫に保存されている新聞が何者かによって盗まれたそうだ。中には刷り上がったばかりのものも含まれていたと聞く。歴史は偽造され歪曲される。川口君事件を自称「反スタ」党派は葬り去ろうとしたのだ。単にアイロニーではすまされない問題である」。
 川口君事件関連記事は次の通り。
167号 1972.11.10 連日糾弾集会続く
川口君リンチ殺害事件ルポ/川口君事件をめぐって
168号 1972.11.25 六学部で臨時執行部選出
自主的自治会運動をめざして
論説/いま、問題の<根> 反ブロック主義の立場 
11/17大学当局告示を発表 学生大会にはロックアウト攻勢
一文当局学生大会を認めず
169号 1972.12.10 (第四回キャンパス文芸賞特集)
関連記事なし
170号 1972.12.25 (受験特集号)
川口君事件から-発言二つ
171号 1973.1.10 (受験特集号)
172号 1973.1.25 (船上大学特集) 
関連記事なし
173号 1973.2.10 更に混迷続く学内状況 武装衝突、機動隊常駐さる
視点/混迷に抗して 負性を照射する視点
174号 1973.3.10
座談会/川口君虐殺問題 11.8のつきだしたもの <虐殺糾弾>の原点
 第一文学部自治会二J行動委員会N君(原文は実名、以下同じ)、第二文学部学生自治会臨時執行部K君、政治経済学部学生自治会執行委U君、全学行動委員会(準)H君、ワセダ統一救対I君
175号 1973.3.25 座談会/川口君虐殺問題 11.8のつきだしたもの(続き)
176号 1973.4.10 4.4革マル派16号館乱入 鉄パイプで武装、負傷者出る
ルポ4.2 4.2集会実行委入学式介入 
<総長団交>追及-当局入学式中止
視点/再び他者との関わりを
座談会 川口君虐殺問題 11.8のつきだしたもの(続き)
177号 1973.4.25 総長団交実現さる 17日再団交を確約す 全理事、学部長の出席を要請
一文・二文学生大会成立 総長団交要求を決議
178号 1973.5.10 全学総長団交流れる 当局、団交確約を破棄 
5.17革マル派、学内制圧
179号 1973.5.25 法自執行部改選さる 再び民青系路線
「負けるな早稲田」集会開かる 豊島公会堂に650名 自衛武装問題、路線分岐鮮明に
教育学部の選管委結成さる
181号 1973.6.25 6.14早朝機動隊導入 当局学内管理強化を意図
社学自治会費革マル系常任委へ下る
早稲田祭を巡る動向
182号 1973.7.10 新執系、文学部で武装情宣 
7月13日革マル派、集会を襲撃
「早稲田解放集会」開かる 党派の問題全面に
7月16日、5・17被告団第一回公判開かれる
論説/早稲田祭開催を巡って 「個」を基点に文化的発現行為を
183号 1973.9.10 新学期 学生を拒絶する当局 異例の集会禁止措置 恒常化される「不測事態」
5・17被告団第二回公判開かれる 浮き彫りにされる逮捕の不当性
184号 1973.10.10 押村理事と記者会見 早稲田祭当日ロックアウトありうる
山村政明=梁政明の<死> 連帯の回路をめぐって
5・17被告団第三回公判 裁判官、起訴理由の釈明求む
視点/<現実過程>に真摯であれ 暗黒の彼方への出発
185号 1973.11.10 11.8当局ロックアウト強行 川口君虐殺一周忌 機動隊常駐化す
11.21~26 早稲田祭開催さる
法学部祭開かれる
5・17被告団第四回公判 結審近し 検察側曖昧な態度に終始す
186号 1973.12.10 (第五回キャンパス文芸賞) 
関連記事なし
187号 1974.1.10 (受験特集号)
川口君事件を契機とした大衆運動と私達-私
188号 1974.2.10 (船上大学特集)
189号 1874.3.10 関連記事なし
190号 1974.4.10 (新入生歓迎特集)
関連記事なし
191号 1974.5.10 5.17裁判判決下る 拘留二十日 未決勾留期間と相殺

 「れんだいこの川口大三郎君虐殺事件考」へ続く。
 (「れんだいこの川口大三郎君虐殺事件考」) 





(私論.私見)