「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.11.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「党派間ゲバルト」考上極めて貴重な、革マル派が文字通りの大衆的糾弾を受けた初事例がある。早大キャンパスで巻き起こった「川口君虐殺追及集会」の一部始終の経過がそうである。どなたが考察したか不明であるが、インターネット上に「川口事件」がサイト化されている。著作権等のこともありリンク紹介に留めていたが、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と 語られてしまうことへの異和感1」、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と 語られてしまうことへの異和感2」、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と語られてしまうことへの異和感・資料編」のようにいつのまにか消えてしまうこともある。そこで、れんだいこが手を加えつつ取り込んでおくことにした。その後、瀬戸宏作成・管理「川口大三郎君追悼資料室」、「早稲田という病 - 2」、事件当時の一文自治会再建派の委員長にしてその後朝日新聞記者、ジャーナリストの/樋田毅・氏著「彼は早稲田で死んだ  大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文藝春秋、2021年11月8日発刊)、川口大三郎リンチ殺害事件の全貌」等々が登場しており参照した。その他今後も検証し続けていこうと思う。2022年晩秋、突き動かされるものがあり大幅に加筆書き換えした。

 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝


【事件の発端】
リンチ殺害された川口大三郎君 1972(昭和47).11.9日付け毎日新聞、東大に遺棄された事件の最初の報道
 翌日の9日、毎日新聞が次のように報じている。
 1972.11.8日、早稲田祭が終わった二日後、東大病院に一人の死体が遺棄された。9日朝、東京文京区本郷の東大付属病院構内の外来診察病棟と内科研究棟の間にあるアーケード下の歩道で、パジャマ姿の若い男が死んでいた。病院に氷を届けにきた配達人が発見、直ちに警察に通報された。入院患者に該当者がなく、全身に棒で殴られたような傷跡があった。本富士署は裸足(はだし)の足の裏がきれいであることなどから、別の場所で殺されて運ばれた疑いが強いとして、警視庁の応援を求め捜査を開始した。男は25、6歳、身長170センチぐらい、鼻が高く、髪が長い。真新しい紺と薄緑の縦縞のパジャマを着ていた。胸、腹、背中に20数カ所の擦過傷、内出血があり、首に6カ所、右腕にも1カ所同じような傷があった。

 この遺体の身元は直ぐに判明し、中核派のシンパであった早大文学部2年生の川口大三郎(20歳)氏が早大文学部キャンパスで革マル派の防衛隊のパトロールで捕まり、8時間にも及ぶ集団リンチ致死されたことがキャンパスに伝わった。その詳報として、「中核派シンパとして捕捉され、革マル派の自治会室である文学部の教室へ連れ込まれ、タオルで目隠しされた上、針金で両手首を縛られてイスに座らされ、角材、バット、竹ざおなどでめちゃくちゃに強打され、7時間以上リンチを受けた挙げ句ショック死」したことが伝わってきた。

 11.9日、警視庁公安一課は本富士署に捜査本部を設置した。昼過ぎ、2J級友により遺体が川口大三郎であることが確定された。また、殺害場所が文学部構内であることも確認された。


 同日午後、東大法医学教室で遺体の解剖検証がなされる。検視によると、「体の打撲傷の跡は四十カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。丸太棒か角材で殴られたものと制定された。外傷の一部に先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や上腕、太もも、腰、首にはヒモでしばったような跡もあった」という凄惨なものであった。胃の内容物の分析から8日21時から23時の間に殺されたと推定された。

 朝日新聞朝刊が、東大医学教室による司法解剖の結果を次のように報じている。
 死因は、丸太や角材でめちゃくちゃにされ、体全体が細胞破壊を起してショック死していることがわかった。死亡時間は八日夜九時から九日午前零時までの間とみられる。体の打撲傷の跡は四十カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった。

 同日24時より翌朝5時まで文学部構内105教室、127-130教室で現場検証が行われた。128室はコンクリート床が畳2枚分程きれいに洗い流されていたが、床や机、椅子など10カ所からルミノール反応があり、かなり大量の出血があった様子がうかがえた。127教室にもルミノール反応があり、押収品は13件、86点で角材やバット、衣類など(後に衣類は川口大三郎のものではないと判明した)。

 
11.12日付け毎日新聞記事/見出し「三班編成でリンチ」は次の通り。
 早大生、川口大三郎君(20)リンチ殺人事件の元富士署捜査本部は11日夜までにリンチに加わった革マル派防衛隊約20人は“身柄拘束”“リンチ”“死体処理”の3班を編成して行動していたことをつきとめた。(中略)身柄拘束班は同文学部三年、G(24)ら4人で(中略)自己批判を迫るねらいで、8日、文学部校庭でGが川口君を呼びとめ、他の3人が前から引っ張って127番教室に連れ込んだ。つぎにK(24)らリンチ班10数人が、イスに川口君をしばりつけたうえ鉄パイプ、角材などでなぐった。その間、身柄拘束班のGらは一般学生に犯行を気づかれないよう、教室入口で見張りをしていた。ところが、川口君が仮死状態になったので、そのころ同構内で開催中の米軍戦車輸送阻止集会に参加していたA(19)ら3人で新たに処理班を編成した。このためAらは当初の予定の同夜の相模原闘争には参加せず、G、Kら身柄拘束、リンチ班のメンバーが横浜市内のノースピア入口の集会に加わった。Aらは川口君の死がはっきりしたため、同派の茶色っぽい乗用車で、都内のアジトに連れて行き、遺体を裸にして傷跡をふいたあと、パジャマと真新しいパンツをはかせ東大付属病院前で捨てた。

 1973.12.21日、拉致・殺害当日の深夜に目撃された、遺体の搬送に使われたと思われるオレンジ色の自動車は、革マル派活動家が所有する46年式のマツダ・ロータリークーペと特定された。(読売新聞12.21日付夕刊)

 没後50周年の日、戸山キャンパス32号館128教室は今もその教室番号は同じで、一文の仲間で献花された。


(私論.私見) 川口君の死体はなぜ東大付属病院構内に置かれたのか
 「川口君の死体はなぜ東大付属病院構内に置かれたのか」。こう問われることはない。しかし私のアンテナが作動する。川口君は蘇生の可能性があって東大付属病院構内に置かれたのなら分かる。しかしそうではなかろう。ならばなぜ東大付属病院構内なのか。それは、本件をわざわざに東大一帯を管轄する本富士署に委ね、仕切るべくセットされたことを意味する。こう述べてもピンと来ない者が殆どだろう。しかし左派運動史研究家なら、「本富士署」と云えばそれだけでピンと来るものがある。この線の繋がりを問うのが本稿の趣意ではないので、ここではこれ以上は言及しないことにする。
 と記していたが、このことに関する簡潔文が出て来たのでこれを記しておく。
 本富士署は本郷所管で、戦前より帝大の取締りを主任務とする他、左翼学生対策、左翼運動のスパイ対策の元締め所轄のようなところとしてつとに知られている。『見境なしに掴まえてヤキを入れるので有名であった』ところでもある。

 川口君の死体がそういう特質を持つ「本富士署管内」の東大付属病院構内に置かれた理由が詮索を要する。れんだいこ見解は、「後をあんじょう頼む」のメッセイジ付きの本富士署預けだったのではないのか。これを指示したのは誰か。下部官僚如きでできる芸ではないことだけは確かであろう。
 ちなみに川口事件(1972年11.8日)の約2年2ケ月前の1970年8.3日、中核派が東京教育大学生で革マル派の活動家であった海老原俊夫を拉致、自派が支配する法政大学の校舎の地下室で集団リンチにより殺害し、遺体を東京厚生年金病院の玄関前に遺棄されている。この意味は分からない。

【事件直後の革マル派の対応】
 1970年8月3日に発生した海老原俊夫虐殺について、中核派は沈黙した。中核派の機関紙前進にも事件に関する一切の報道がなかった。この点、革マル派は事件の翌日、党派声明を発表している。その中身が問題ではあったが、党派声明発表したそのこと自体が、発表しなかった(できなかった)中核派に比して優位性が認められるというべきだろう。
 11.9日午前12時半、馬場素明(24)革マル派全学連委員長(一文4年)が新大久保の三福会館で記者会見を開き、「米軍戦車搬出阻止集会へのスパイ活動を追及するなかで突然ショック的状況を起こし死に至った。川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」と事実上、殺害への関与を示唆する内容の声明を発表した。これにより、川口君は、内ゲバ殺人に巻き込まれて殺されたことが判明した。

 声明はチラシとして活字印刷され、学内で大量に撒かれた。声明文の冒頭は以下の通り。 
 11月8日、中核派学生・川口大三郎君の死去という事態が発生した。この事態は、彼のスパイ活動に対するわれわれの自己批判要求の過程で生じたものであった。それゆえわが全学連は、この不幸かつ遺憾な事態にたいし、全労働者階級人民の前にわれわれの責任ある態度を明らかにすることが階級的義務であると考える。

 11月8日、全学連は、政府支配階級が強行した相模補給廠(神奈川県相模原市にある在日アメリカ陸軍の補給施設=筆者)からの戦車搬出にたいして断固たる緊急阻止行動を展開するために、早稲田大学に結集し総決起集会を実現した。
ところがこの過程で、われわれは、早大構内における中核派学生・川口大三郎君のスパイ活動を摘発した。『革マル殲滅』を呼号しつつ姑息な敵対をつづけてきた中核派の一員としてスパイ活動を担った彼川口君にたいし、われわれは、当然にも原則的な自己批判を求めた。そして彼はスパイ活動の事実を認めた。それゆえわれわれは、さらに、彼のスパイ行為そのものへの誠実な自己反省を追及した。ところがこの過程でわれわれの意図せざる事態が生じた。彼は、われわれの追及の過程で突然ショック的状況を起し死に至ったのである

 機関紙「解放」251号は次のように述べている。(1972.11.23日付け「戦旗」315号「カクマルカクメイの創価学会的本質を全階級戦線に暴露せよ」参照)
 彼は中核派活動家の一人として一貫して中核派の活動を担い、また当日は総決起集会の周辺においてスパイ行為を行っていたのである。
 われわれが確認して来た党派闘争の原則に基づいていると確信しながらも、そこから実質的にははみ出す行為に走ったと云わざるをえない一部の未熟な部分によって、今回の事態は生み出されたのであった。

 2015年に刊行された「革マル派五十年の軌跡(第2巻)」は次のように記している。(中央学生組織委員会による1972.11.11日付とされる文章引用)
 総決起集会の会場に結集しつつある過程で川口大三郎君のスパイ活動が摘発されたのであった。彼は中核派学生活動家の一人として一貫して中核派の活動を現実に担い、また当日は総決起集会の周辺において結集過程のスパイ行為をおこなっていたのである。

 かく、川口大三郎スパイ説を喧伝し続けている
(私論.私見) 「川口君はスパイ活動などしていない」考
 革マル派は、 一文構内で行われた相模原補給廠からの戦車搬出阻止集会へのスパイ活動を自己批判させるためと発表したが、集会が開かれたのは18時過ぎだった。川口君が拉致されたのは14時過ぎであるから、川口君リンチテロ致死せしめた後で集会をしていたことになる。この経緯を糊塗して「川口君の戦車搬出阻止集会へのスパイ活動」をでっち上げ、正当化していることになる。義憤を禁じ得ない。

【川口君の早大入学前までのプロフィール考】
 川口君の早大入学前までのプロフィールは次の通り。「ウィキペディア(Wikipedia)川口大三郎事件」(2022.11.27日現在)は次のように記している。
 1952(昭和27)年、静岡県伊東市に生まれ。三人兄姉の次男で小学校五年生の時に父親が病死し、以後母親に育てられる。伊東市立東小学校、同南中学校、静岡県立伊東高校を卒業。

【川口君の早大入学後からのプロフィール考】
 川口君の早大入学後からのプロフィールは次の通り。「ウィキペディア(Wikipedia)川口大三郎事件」(2022.11.27日現在)は次のように記している。
 「1971年4月、早稲田大学第一文学部入学。部落解放運動などに参加していた。第一文学部自治会執行部を握る革マル派に失望し、1972年頃、中核派に近づき同派の集会などに参加するが、まもなく中核派にも失望し、その感想を級友に語っていた。早稲田学生新聞(勝共連合系学内新聞、現在は廃刊)、早稲田精神昂揚会など右派系学生団体とも接触があった。中核派は、『全学連戦士・川口大三郎同志』などと述べたが、実際には中核派とはほとんど関係なかった」。

 この記述に信を置けば、中核派の「全学連戦士・川口大三郎同志」としての追悼は党派的利用であろう。判明するのは、当時の早稲田中核派のキャップ証言「革マルの諜報活動」によると、「中核派機関紙『前進』の読み合わせ会議参加のために、新宿区の中核派アジトに(一、二度程度?)出入りしたことがある」程度のようである。当然のことながら、ヘルメットを被りビラ播き等の公然活動は確認されていない。だとすれば、川口君の中核派活動家履歴は確認できないと見做すべきだろう。結論として、「ノンポリよりは政治的で、且つ中核派シンパであり、中核派全学連戦士未満の段階にあった」と受け止めるのがより適切ではなかろうか。

 これをもう少し確認すると、川口君は、事件の1週間ほど前、革マルの牙城の第一文学部に於ける2年J組のクラス討論会で、「革マル派の運動方針は日和見的でおかしい。中核派の方がいい」などと発言している。時は、本事件の2年前の1970(昭和45)年8.4日、革マル派の東京教育大生・海老原俊夫(21歳)君が中核派により法政大構内で殺害され、そのことに対する革マル派の報復があり、その報復が中核派の報復を呼び込むと云う悪循環に陥りつつあるさ中である。川口君が中核派の真正の活動家であれば、両党派の対立の厳しさが分かる訳で、早大文学部構内で革マル派と中核派の運動方針を比較して「中核派の方がいい」なる発言をすることは無鉄砲過ぎよう。この感覚からすれば、川口君は当時、この発言の重みが分からないほどの気軽発言ができる立場にあったと云うことになるのではなかろうか。

 なお、川口君が友人との会話の中で、「中核派もいまいちだなあ」的発言をしていたことがあるとの証言もされている(読み流したので出典が分からない。分かり次第に取り込もうと思う)。川口君は、丁度れんだいこがそうであったように、東大安田講堂攻防戦時の直前逃亡劇等で革マル派のマイナー評判程度のことは知っており、そういう訳で文学部自治会を牛耳る革マル派の活動家になろうとはしなかった。むしろ革マル派と対立する中核派に興味を持ち学習会に参加している。ところが、そこでも若干の異和感を抱いたようだ。このことを、「川口大三郎事件」は次のように記している。
 1972年(昭和47年)頃、中核派に近づき同派の集会などに参加するようになるが、まもなく中核派にも失望し、その感想を級友や母親に語っていた。また、早稲田学生新聞(勝共連合系学内新聞、現在は廃刊)など右派系学生団体や早稲田精神昂揚会とも接触があったという。

 「川口大三郎リンチ殺害事件の全貌」は次のように記している。
 川口は72年4月以降、ごく短期間早稲田の中核派フラクションで行われていた学習会に参加していたが、夏には連絡を拒否していたという。72年11月当時、川口が中核派と繋がりがなかったことは、家族や級友、そして中核派フラクションの責任者によって証言されている。また、後日の事実確認によって、11.8当日に関する革マルの主張が時間的に矛盾することが明らかになっている。 それにも関わらず、11.8以降中核派は、機関紙前進で『川口君はこの春以降、わが全学連の戦列で一貫して戦闘的に闘い抜いてきた』(1972年11月20日付第610号)と、川口の死を自派の党利党略に利用した。革マルもまた『川口君の死を深く反省し、直ちに自己批判したわれわれこそ追悼の資格がある』と一周忌に声明を出すなど、川口の死を他党派排除の口実にすることをためらわなかった。

 してみれば、「川口発言」自体が川口君の学生運動活動家未満的立ち位置を証左しており、中核派活動家と断定するのは早計であり、そういう風に決めつけるのはデッチ上げと推理すべきではなかろうか。

 革マル派は、「われわれの調査で彼が新宿区のアジトに出入りし、一定の人とも接触していたことがはっきりしている」として、中核派活動家として位置づけることでリンチテロの正当性を得ようとしたが、中核派が或る時には「全学連戦士・川口大三郎同志」、或る時には「川口君はシンパだが構成員ではない」と述べているうちの後者が真相なのではなかろうか。要するに、公然であれ隠然であれ中核派に所属していた訳ではなかった、云うなればノンセクト状態の政治意識の高い系の「特定のセクトの活動家未満」であったように思われる。

 と云うことは、理論的に云えば、どの党派にも、敵対する党派及びその活動家をどう見做し、どう待遇すべきかと云う課題が課せられている。ましてやシンパ層の者に対してはなおさらで、左派運動用語の「自己批判」と「総括」を求める場合、どの程度抑制せねばならないのか、その兼ね合いは理論的にもっと吟味され解析されるべきだろう。少なくとも、早稲田の伝統は、1950年代も60年代も多くの党派を共存させ党派のるつぼの観のある運動を許容しており、それを誉れとしてきた歴史を持つ。革マル派の暴力的且つ諜報支配はこの伝統を著しく踏みにじっていた。このことに対する怒りが、万余の早大生が決起した川口君虐殺糾弾闘争の下地にあるのではなかろうか。

 もとへ。この「川口発言」が、学内に諜報網を敷いていた革マル派にすぐさま伝わる。かくて川口君は「危険分子」としてマークされ付け狙われるようになった。その川口君がなぜかの時に強制連行され虐殺されるに至ったのか、その必然性又は偶然性までは分からない。れんだいこ検証によると、リンチを通じても、革マル派党中央が指弾するような川口君が中核派活動家であることを証明できなかったのではないのか。こういう場合、さらにどう詰問していくべきか、現場は党中央の指導を仰ぐのが筋である。してみれば、寸止めテロの予定であったところ、「一部の未熟者のはみ出し」によって引き起こされた「ヘマな事件」となったと釈明しているが、というようなものではなく、革マル派党中央の指導を仰ぎながらのレンチテロだったことが明らかなように思われる。革マル派党中央が、これをどう弁明したのか引き続き検証していくことにする。

【革マル派のキャンパス暴力支配情況考】
 当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、社会科学部も同様の対応だった。大学当局は、革マル派のキャンパス暴力支配を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための暴力装置として「番犬」の役割を期待していた節が認められる。

 私の検証によれば、公安のさらにその奥の院当局は、共産党系の民青同に穏和系左派運動に対する統制を、革マル派に急進系左派運動に対するキャンパスからの追放的役割を与えていた節がある。他に勝共連合&統一教会系原理研究会に反共運動任務を与えキャンパス内に左右の中和を図っていた節がある。この三者関係は、革マル派と民青で云えば「民青がはびこるぐらいなら革マル派の方がまし」とする後押しにより革マル派優位、革マル派と勝共連合&統一教会系原理研究会で云えば「ウマが合う橋渡し関係」にあった。こういう「三本立て治安体制」が8代総長/阿部賢一(1966年-1968年)、9代総長/時子山常三郎(1968年-1970年)、10代総長/村井資長(1970年-1978年)のどこかの頃にでき上っていたのではないかと思われる。この奸計が殊の外首尾良く進展し、私大の学生運動メッカであった早稲田キャンパスを鎮静化させるのに成功していた。

 「三本立て」の中でも、革マル派は突出して凶暴で学内憲兵隊的任務を自らに課し、「管理され組織された暴力」を常習し、川口君事件当時に於いては早稲田キャンパス全体を睥睨(へいげい)していた。革マル派は、敵対党派ないしは個人の反革マルを見つけては特高並みの暴力を振るっていた。この暴力は大学当局の後押しがあってこそ成り立っていたが、大学当局のそういう在り方が革マル派をますます増長させるという「負の遺産」が蓄積されつつあった。革マル派のリンチテロで重大な肉体的不具者にされた左翼系活動家は諸派総数で数百名に上る。さらに退学を余儀なくされた者、登校できなくされている学生も相当数に上る。本稿は「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考なので、ここではこれ以上の言及を控えることにするが、この辺りも検証されるべきだろう。

 第一文学部の元教授は匿名を条件に、こう打ち明ける。
 当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。だから、川口大三郎君の事件が起きて、我々は痛切に責任を感じた。革マル派の自治会の歴代委員長は、他のセクトの学生たちと比べると、約束したことは守った。田中敏夫君も、その前の委員長たちも、我々に対する時は言葉遣いも紳士的で、つまり、話が通じた。大学を管理する側にとって、好都合な面があった。しかし、事件後は、革マル派との癒着状態から脱することに奔走した。革マル派との縁を切ることは、文学部教授会の歴代執行部の共通した認識となった。民青の学生たちについても、共産党員の教授たちと通じている面があるため、別の意味で警戒の対象となっていた。
 革マル派が早稲田大学で台頭し、第一文学部自治会の主導権を握ったのは1962年頃だったとされる。それ以前、つまり、60年安保で社会が大きく揺れた時代までは、第一文学部の学生自治会は、構造改革派と呼ばれたグループが多数派を占めていた。暴力革命による権力奪取ではなく、構造的な改良の積み重ねによる社会主義実現を目指すグループで、当初は日本共産党内の分派的な存在だった。全盛期には第一文学部だけでなく政経学部、教育学部の各学生自治会、早稲田祭実行委員会などでも主導権を握っていたが、60年安保闘争が敗北に終わった後の衰退期に、その空白を埋めるように革マル派が急速に勢力を伸ばしていった。
 ちなみに、早大学内で革マル派が嫌悪されていた理由として「数多の組織的・計画的なテロ」、しかも「他党派解体論を標榜しつつ、権力と闘う他党派を背後から襲撃する数々の実例」が挙げられる。川口事件前の、早大内での他党派・無党派活動家への数々のリンチ、東大安田講堂防衛戦からの敵前逃亡、三里塚野戦病院車への襲撃等々。川口事件後も、破防法弁護団への襲撃、東京・杉並区民へのナーバス作戦、国鉄当局と結託した動労革マル派の暴力支配等々がある。「権力は中核派の首根っこを押さえているが、わが革マル派は下の急所を握っている」と警察カクマル連合の公言もある。

【当時の早稲田中核派のキャップ証言「革マルの諜報活動」考】
 「1973年10月21日監禁致死の容疑で革マル派4人を逮捕」末尾の当時の早稲田中核派のキャップ証言「革マルの諜報活動」を転載しておく。
 僕らのフラクションに当時、漫画研究会の1年生が来ていたんです。その学生から連絡をとってきて、北新宿の柏木の部屋で行っていた機関紙の読み合わせ会議に参加させていた。その学生が川口君と同席していた。72年の11月か12月に出された革マルの社会科学部学生大会議案書に『川口は柏木の中核派アジトで会議に参加していた』と書いてありました。ここまでわかっているということは、あの学生が革マルに密告したということ、それ以外に考えられない訳です。

 (「
川口大三郎リンチ殺害事件の全貌」が次のように補足している。
 川口が早稲田の中核派フラクションに顔を見せていた当時、同じく一文ロシア語クラスの1年生がフラクションに参加していた。革マル系文連傘下の漫画研究会に属していたこの人物は、後に革マル派のスパイであったことが中核派によって明らかになった。
 過去にも何回かあって、70年の3月でしたか、前進社に二文の女子学生が『中核派の合宿に参加したい』と電話してきました。我々は信用して、筑波山麓で行った合宿に参加させました。そこから帰って4月に僕が学校に行ったら、革マルに捕まって教育学部の自治会室に連れ込まれた。もう一人、反戦会議のメンバーも捕まった。私は第二学館の死守闘争で逮捕されて拘置所に入っていますから調べれば中核派とわかるんだけれども、なぜもう一人の彼までがと不思議でしたが、革マルの機関紙解放に合宿の帰りのバスで我々が歌った唄まで描いてあったんで、その後連絡がつかなくなった女子学生がスパイだったとわかりました。

(私論.私見)

 革マル派が張り巡らしていた諜報網には驚嘆すべきものがある。学内に、一文キャンパスにはなおさらいわゆる革マルシンパ層が形成されており、彼らからの克明な諜報が汲み上げられていた。川口君事件との絡みで、このことが指摘されていないのはオカシナことであると思うので記しておく。

 これにつき、ネット検索で出くわした「BLOG-C 第293号=『彼は早稲田で死んだ』」が革マル派機関紙「解放」139号(1969.6.15日)の党派的重要指導論文の意味を持つ無署名論文「ブン=ブク連合の革命的解体のために」の「ブン=ブク連合解体そのものの独自的追及に関して」の項の次のような記述を伝えている。(ブン=ブクのブンはブント、ブクはブクロの略で中核派を意味する。カクマル特有の言い回しである)
 概要「他党派への加入戦術の駆使を通じた組織的内情の把握が必要であり、その具体的戦術として、他党派解体のための組織戦術の具体的解明とその貫徹の闘いを組織的に一段と強化していかねばならない」。

 「6.15日」は、ブントにとって60年安保闘争での樺美智子女史圧死の追悼日として神聖な日である。よりによってこの日に、このような指導をするところが革マル派総帥らしいところであるが、見て取るべきは、1969年の段階でこのようなスパイ活動、諜報活動を組織決定していることである。川口君事件は、この延長線上で発生していると窺うべきであろう。 

【川口君の拉致前後の様子】
 内ゲバの時代」、「内ゲバ殺人の時代」に、川口君が捕捉される状況につき貴重な情報が開示されている。これをれんだいこ風に纏め紹介する。
 1972(昭和47).11.8日昼頃、早稲田構内で革マル派の集会が開かれていた。午後2時頃、川口君は体育の授業を終え、テレビ研究会の部室から友人3名と教室へ向かっていた。話しながら文学部前の校庭を通リ抜けようとしていたところへ革マル派の学生5名が駆けつけ、「話があるから来てくれ」と川口君を取り囲んだ。川口君が断ると両腕を掴んで127教室に連れ込んだ。

 友人3名が連れ戻そうとして教室前に駆けつけると、革マル派学生3名が立ちはだかり、「これは階級闘争のレベルの問題だ。階級闘争を担っていないお前達には関係ない」などと怒鳴り押し問答となった。革マル派学生10名が援軍に駆けつけ、「がたがた言うな」と川口君の友人に殴りかかった。この様子は多くの学生や教授に目撃されていたが、係わり合いになるのを恐れて眺めるだけだった。その後、テレビ研究会の部室にまで革マル派が押しかけてきて、「二文自治会はテレビ研を認めない、自己批判しろ」と脅迫している。暴力と諜報でキャンパスを支配する革マル派に一般学生が手出しできる訳もなかった。

 午前7時20分頃、早大生が、牛込署に「友人の川口君がいなくなった。8日夜、早大構内でトラブルがあったようで、このトラブルに関係したらしい」と110番通報している。川口君と親しいクラスメイトの中には自分も革マル派に殺されるのではないかと帰郷する者もいた。


 この間、川口君と一緒にいた友人が午後3時頃、文学部教授に連絡し、久米助教授と学生副部長が127教室を訪れたが同教室入口で革マル系学生4、5人がピケ(ピケット、人間の盾)を張り入れなかった。午後5時、午後10時の2回にわたり第一文学部教授らが同教室に近づいたが、ピケ隊の一人は「11時半頃に車が来たらピケはやめる」といい、9日午前零時半頃、四度目に同教室に行ってみると学生らの姿は消えていた。同教室内は机などが乱れて格闘したあとがあり、隣の128番教室ではタタミ2枚分ぐらいにわたりコンクリートの床を水で洗った形跡があった。この間、大学側から警察への届け出はなく、9日朝も警察が問合わせるまで大学側は連絡していない。

 犯行に関与したとみられる革マル派は7名で、ほかにカローラ運転の1名を加えた8人が関わっていたとされる。川口君は127教室とつながっている128教室で縛られて角材などで殴打され続けられ、推定時間午後9時から午後11時の間に絶命した。翌11.9日午前0時半、127教室の前にカローラが止まり、ようやく教室の不法占拠が解除されたが、誰も残っていなかった。

 警察の実況見分で、川口君がリンチを受け絶命したのは、最初に連れ込まれた127番教室ではなく、隣の128番教室だったことがわかった。128番教室は革マル派が普段から自治会室として使用しており、そこから大量の血痕などが検出された。同本部は川崎市に住む川口君の姉に死体の写真をみせたところ「本人だと思う」といっており、同本部は川口君に間違いないとしている。川口君は8日昼ごろ、セーターにGパン姿で下宿先を出たままだった、という。
 「***」が次のように記述している。
 川口君の虐殺は、革マル派中枢の根本仁と藤原隆義の指示、同意のもと、村上文男(二文)を現場責任者とした。同派はそれを隠し、一部の未熟分子の行為にすり替えた。
 川口君の親友、二葉幸三氏による証言は次の通り。
 概要「翌11.9日午前10時頃、下宿先に『本富士警察署の者です』と名乗る電話があった。川口君の遺体はこの日の早朝、東大病院の前で見つかっていたので、東大病院を管内に持つ本富士署からの電話だった。本富士署刑事は『二葉さんですね。ちょっと警察に来てもらわないといけないので連絡を待ってください』と言った。その直後、牛込署からも電話がかかってきた。『すぐに牛込署へ来てくれるか』と言われた。川口のことですか?と尋ねると、『来てくれたら話す』と言うことだった。胸が締め付けられるような思いで下宿を出て、電車とバスを乗り継いで牛込署へ向かった。牛込署に着くと、取調室のような部屋に案内された。そこで、刑事に聞かれるまま僕の前日の行動を話した。その後、刑事が『ちょっと確認してほしい人がいる』と告げ別室に連れて行かれた。その部屋の片隅に、白っぽいシーツに覆われベッドに寝かされている人がいた。遺体だと直感した。刑事が顔の部分のシーツの覆いを取り、『この人は川口大三郎さんですか?』と尋ねた。頬に赤紫になった傷があったけれど、その他の部分はきれいだった。僕は間違いなく川口ですと答えた。

 朝、警察から電話があった時点で、川口は殺されたのだと思っていたので、川口の死に顔を見せられた時も、自分は冷静だと思い込もうとしていたはずだった。それから2時間ほど僕の記憶は飛んでいる。たぶん牛込署を出た後、茫然自失の状態で早稲田大学の方へ歩き、文学部の前を通って、さらに歩き続けていたのだと思う。川口君がお姉さんの嫁ぎ先の川崎市の家に下宿し、彼女の夫が経営している建設業の会社でアルバイトもしていたことを思い出し公衆電話から電話すると、お姉さんが『母もここへ来ています。母に代わります』と言った。すでに警察から連絡が入っていて、お母さんは伊東市の自宅から出てきていた。お母さんに今からそちらへお伺いしてもいいですか?と聞くと、お母さんは『ぜひ、来てください』と言ってくれ、新宿から小田急線に乗り、登戸駅で降りて電話し、その案内に従って初めてお姉さんの家を訪ねた。お姉さんのご主人もいた」。
(私論.私見)
 「二葉幸三氏証言」の「(川口君の遺体には)頬に赤紫になった傷があったけれど、その他の部分はきれいだった」との下りは解せない。どういう意味なんだろう。

【本部キャンパス前で革マル派糾弾集会始まる】
 当時の早大学生の大勢が、文学部構内では特に、キャンパスを我が物顔で支配してきた革マル派に嫌気がさしていた。川口君事件が導火線となり、革マル派糾弾の嵐が全学で巻き起こった。以下、その次第を見ていくことにする。
 11.10日、事件が伝えられるや、早大生は「もはや我慢ならない」と立ち上がった。急遽設営された本部キャンパス前での革マル派糾弾集会に続々と集まり始めた。積年の怨みが堰を切ったかのような動きが巻き起こった。それほど一般学生をも含めた怒りが凄まじかった。それまでの革マル派の暴力支配が音を立てて崩れる瞬間であった。一文では15の授業が休講となり2Jなどでは真剣なクラス討論が行われる。以降、連日糾弾集会が続いて行くことになる。

【村井資長総長が川口君の通夜に5分間出席】
 11.10日早朝、大学当局が、構内11カ所に「再びこのような事件が発生しないよう全力をあげる決意」を示した告示を掲示。その中で昭和44年以来初めて「革マル派の者の行為によって」と、特定のセクト名をあげて非難した。

 夕刻、村井資長総長は文部省を訪れて事件の経過と大学の対応を報告。夜遅くになって、村井総長が渡辺真一学生部長と2J担任の長谷川良一教授を伴って川口君の通夜に赴く。村井総長は、ありきたりなお悔やみの言葉を述べた後、「文学部だから、こんなことが起こった。文学部はひどい状態だった」と話し始めた。まるで他人事のような評論的な口ぶりに対して、二葉君が、「そんなこと、言っちゃいけないでしょ。あなた大学の責任者だろ。大学の責任者として、学生の命を守れなかったんだ。無責任なことを言っちゃいけない」と詰問したところ、村井総長は黙ったまま辞去したと云う。その間凡そ5分の退出となった。

【革マル派の馬場委員長が辞任表明】
 11.11日午後、革マル派全学連緊急中央執行委員会が招集され、馬場素明マル学同委員長が、「全学連の歴史に汚点を残した」と述べ辞任表明。しかし、「権力側の裁きを受けるようなことはしない。(殺害犯を)絶対に権力側には渡さない」と述べ司直の手にかかることを拒否した。前川健(23歳、北大農学部4年)が委員長代行に就任する(翌日、記者会見をして公表)。

 同日、革マル派は、いかにも同派らしい対応であるが、大隈講堂前に「川口君追悼」の立て看板を出し、「川口の死を追悼する」のアジ演説する中、ビラ配りを敢行した。
 革マル派全学連/馬場委員長の辞任の際の特別声明は次の通り。
 左翼戦線内部での党派的闘いにおいても―まさに中核派の同志海老原・水山虐殺にたいしてわが全学連が断固たる反撃行動をくりひろげたことに示されるように―ある特殊な政治力学関係のもとでは、他党派の組織を革命的に解体していくために、イデオロギー的・組織的闘いを基軸としつつも、時に暴力的形態をも伴うかたちで党派闘争を推進する場合があることを、単純に否定することはできない。
 こうした特殊な暴力をあえて行使しなければならない場合には、対国家権力との緊張関係のもとに、かつ〈何のために・いかなる条件の下で・どのように〉という明確な理論的基礎づけのもとに、まさに組織の責任の下に組織的に遂行されねばならない。そしてその際にも、マルクス主義の原則=プロレタリアート自己解放の理念から逸脱するような行為は決してとりえないのである。
 このような確認にもかかわらず、川口君の死はひき起された。この具体的な結果からするならば、これに携わった全学連の一部の仲間たちは、このような原則にのっとっているという固い確信にたちながらもその思想性・組織性の未熟さのゆえに、事実上、原則からはみ出すような行為をおかしたものといわざるをえない。たとえそれがわれわれ自身が全く予期しなかった突発的なショック的状況のなかでの死であったとしても、この死がわれわれによる自己批判要求の過程で起きたものである以上、その責任を回避することはできないのである。
 20155年に刊行された革マル派五十年の軌跡(第2巻)は、中央学生組織委員会による1972.11.11日付とされる文章「総決起集会の会場に結集しつつある過程で川口大三郎君のスパイ活動が摘発されたのであった。彼は中核派学生活動家の一人として一貫して中核派の活動を現実に担い、また当日は総決起集会の周辺において結集過程のスパイ行為をおこなっていたのである」を引用し、川口大三郎スパイ説を喧伝し続けている。

【一般学生が革マル派に責任追及始める】
 11.11日午前10時頃、民青同系法学部自治会執行部委員らが、大隈銅像前で、ハンドマイクで「革マル派による川口君虐殺を許さない」演説を始めた。革マル派は少し離れている大隈講堂前広場で「川口君追悼」と大書した数枚の立て看板を並べ「我々は川口君の死を追悼する」演説をしていた。

 正午頃、民青同系法学部自治会執行部委員らが再び大隈銅像前で演説を始めたところ、革マル派学生20名が現れこれに抗議し始めた。その革マル派学生を取り囲むように一般学生が集まり始めた。その数300名がどんどん膨らんでいった。一般学生が革マル派学生の胸ぐらを掴んで、「お前たち、どのツラ下げて追悼しているんだ。川口君を殺しておいて追悼とは図々しいにもほどがある」と涙声で怒り始めた。次第に革マル派の連中を次第に小突き始め、革マル派はその剣幕に圧倒され為すすべなしの事態となった。そのうち革マル派が逃げ出し、学生たちが追いかけ、その内の一人を捕まえ、校舎から長机などを運び出し急遽の即席演台を作り、捕まえた革マル派学生を立たせ、糾弾集会が始まった。革マル派糾弾集会が延々と続いた。

 早大革マル派の最高責任者・田中敏夫全学中央自治会委員長(一文自治会委員長兼務、以下単に「田中委員長」と記す)が約40名のデモ隊列を率いて、壇上に立たされている革マル派学生の救出に来た。1500名以上に膨れ上がっていた学生たちは、逆に田中委員長らを壇上に上げて追及し始めた。その後、革マル派は新たな応援隊を繰り出し、隊列を組んで集会に突入し、田中委員長らを救出して彼らの拠点となっていた学生会館に逃げ込んだ。ところが、一般学生たちは学生会館のラウンジになだれ込み、そこでまた集会を続けた。夕刻、ラウンジを埋め尽くした学生たちは「13日以降も糾弾集会を続けること」を確認し、集会議長団の4名を決めてやっと解散した。(「彼は早稲田で死んだ」P62-63参照)

【川口君の葬儀】
 11.11日、川口君の姉の家で川口の葬儀があった。川口君の級友10名近くが出席した。葬儀が終わると、川口君の母が涙ぐみながら挨拶された。

【川口君の在籍クラス2J有志が高田馬場駅頭でビラを配布】
 11.13日早朝、2J有志が高田馬場駅頭でビラを配布。一文、教育でも、革マル批判、集会結集への呼び掛け等のビラが登場。一文では朝から数クラスで討論が行われ、当局は14時以降を休講にした。

【大学当局の対応】
 11.13日、一・二文連合臨時教授会・教員会が開催され、自治会執行機関の活動停止、自治会室の使用禁止、自治会三役7名の処分(革マル派学生2人除籍、5人停学処分)を決定した。大学当局は一・二文自治会三役7名の処分を決定した他、村井資長総長名で「不祥事に関する総長声明」(「11.13声明」)を公表した。

 革マル派学生の処分は次の通り。
田中敏夫 24 第一文学部自治会委員長 除籍 
若林民生 第二文学部自治会委員長 除籍
大岩圭之介 第一文学部自治会副委員長 停学(無期)
金子賢治 第二文学部自治会副委員長 停学(無期)
武原光志 23 第二文学部自治会副委員長 停学(無期)
佐竹 実 23 第一文学部自治会書記長  停学(無期)
竹内政行 第二文学部自治会書記長 復籍を認めない (学費未納で抹籍済)

【川口君虐殺に関与した革マル派の顔ぶれ考】
 大学当局は上記の革マル派学生を処分したが、田中敏夫第一文学部自治会委員長は現場にいなかったことが判明している。他に何人が関与し、どういう役割をしたのか全く明らかにされていない。分かり次第に書きつけておくことにする。 

 事件1ケ月後の頃、警視庁公安部と本富士署が、事件当日、組織部長だった後藤が川口君を見つけ、阿波崎等と自治会室に連れ込んだとして各人の役割解明を進めた結果、5名の革マル派学生(田中敏夫、武原光志、佐竹実、村上文男、阿波崎文雄)が逮捕されている。但し、川口君を助けに行った級友等への暴力行為は立証できたものの、リンチ殺人については自供を得られなかったとして村上、武原、阿波崎の3名が暴力行為で起訴され、佐竹は処分保留となっている。

 事件翌年の1973.10.21日、警視庁公安部と本富士署が、革マル派5名を監禁致死の容疑で再逮捕している。その後、順次に革マル自治会幹部7名が追加逮捕されているようである。これを確認しておく。
氏名/年齢 自治会との関り、学部学年 容疑 刑期
近藤隆史(24) (二文4年)自治会委員長
全中自中執
暴力行為
監禁致死
武原光志(23) (二文2年)自治会副委員長
(11.13三役被処分者)
暴力行為
監禁致死
求刑/懲役5年
懲役3年6ヵ月
佐竹実(23) (一文3年)自治会書記長
(11.13三役被処分者)
暴力行為
監禁致死
村上文男(25) (二文)自治会委員長
(1971年除籍)
暴力行為
監禁致死
阿波崎文雄(26) (一文4年)自治会会計部長
傷害
暴力行為
求刑/懲役5年
懲役2年
田中敏夫(24) (一文)自治会委員長
全学中央自治会委員長
(11.13三役被処分者)
監禁致死
若林民生(26) (二文)自治会委員長 監禁
傷害致死幇助
求刑/懲役8年
懲役6年
後藤隆洋(25) (一文)自治会組織部長 監禁致死
水津則子(23) (一文)自治会文化厚生部長 監禁致死
矢郷順一(25) (一文) 監禁致死
緑川茂樹(22) (一文) 監禁致死
他1人(?)
小石中也(22) (一文)
池松恒美 (一文)
田中公郎 (一文)
桶谷成行 (法)
内堀真也 (政経)
新井直樹 日大
柘植隆治 明学

 この時点では関与は立証されていなかったが、早大二文自治会委員長/若林民生(26)(11/13処分対象者/除籍)が、後日別件で取り調べられた革マル派活動家の供述に若林の名前があり川口君殺害容疑で逮捕されている。大学当局から処分されていた大岩圭之介、金子賢治、竹内政行については不詳。

 1973.12.16日、警視庁公安部は、佐竹の自供などから、小石中也(一文)ら6名を監禁致死容疑で全国に指名手配した(指名手配者は計12名に)。
 以上、直接関与した者としてわかっているのは22-23名。うち逮捕・起訴・判決・収監された者は5名のみ。以上が「事件」に関与した全員とは思われない。遺体の処理・運搬に携わった者の氏名は含まれていない。拉致から遺体破棄までに革マル派上部団体の幹部等が関わっていたことは想像に難くない。

【革マル派が事件後初めて「11.13反省集会」開催】
 11.13日正午頃、革マル派系の第一文学部自治会、全学中央自治会が文学部校舎中庭で、事件後初めて「11.13反省集会」(「11.8の事態に関する態度表明全学集会」)を開いた。ヘルメットを脱いだ長髪の学生が「川口君の死に深く反省し、自己批判する」と何度もスピーカーで繰り返す。事件の責任をとって革マル全学連委員長を辞任した馬場素明(第一文学部4年)が、「徹底的に自己批判し深く反省する」と訴えた。約100名の同派系学生が黙ったまま耳を傾けていた。
 同時刻、本部大隈銅像前キャンパスで、民青系の「革マル糾弾、暴力追放集会」が開かれていた。

【一般学生が文学部構内で革マル派糾弾開始】
 11.13日午後1時頃、「正義派一般学生」(まさに一般学生であった!)約300名が、文学部構内で行っていた革マル派の集会になだれ込み、革マル派幹部に本部校舎で集会を開くべきだと要求した。革マル側はそれを拒否し文学部構内の記念会堂前広場なら応ずると回答した為、やむなく記念会堂前広場で「川口君追悼、事件謝罪集会」が始まった。この時、約2000名が集まっていた。事件への関心の高さが分かる。

 次第に、「これは全学的問題であり本部キャンパスで集会を開くべきだ」との声が出始め、これに対し、早大革マル派の最高責任者の田中全学委員長が「その必要はない」と拒否したため押し問答となった。一般学生の怒りは凄まじく、革マル派幹部をムリヤリ連れ出そうとし始めた。革マル派はキャンパスを逃げ回り始めた。一般学生がこれを追い駆け捕捉、取り押さえるという事態となった。
 この頃既に、一般学生が早稲田通り馬場下交差点まであふれだしており、その中を、自然発生的な一般学生の代表らが、革マル派幹部6名の両脇を押さえたまま本部キャンパスに連行した。文学部の一般学生は革マル派の拠点・文学部構内での「11.13反省集会」を許なかったことになる。この過程で、吉本孝男など革マル派学生2名が3週間のけがをしている、と云う。
(私論.私見)
 「革マル派幹部6名連行者グループ」の中に、かって同じアパートに住んでいたれんだいこ顔見知りの文学部の方が居た。私がそのアパートを退去するまでの間、何度か居酒屋で食事をした仲で大抵はスポーツ中心のよもやま話をしていた。その彼が異常な興奮で牽引していた。忘れられないエピソードの一つである。

【早大生万余の決起。一般学生が革マル派を捕捉し大衆糾弾集会】
 (「内ゲバの時代」、1.14日付け毎日新聞等を参照する)
 11.13日午後2時過ぎ、一文から田中委員長等6名の革マルを連行、急遽本部キャンパス大隈銅像前(図書館前)で革マル派に対する前代未聞の大衆的糾弾「川口君追悼、革マル糾弾集会」が始まった。約3000名の早大生が取り囲み更に増えていった。革マル派幹部6名が壇上に立たされ、自己批判せよの罵声が浴びせられていった。日頃の怒りが爆発した吊るし上げ集会となった。革マル派学生の胸ぐらを掴んで涙声で怒る者も現れた。
 怒号が一段落したことにより、議長団が選出され、順序立てて責任追及していくことになった。議長団が、「川口君をスパイだとする証拠の提示」、「自治会執行部、文連常任委、早稲田祭実行委の辞任」を求めて回答を迫った。手始めに川口君を殺したことの釈明を求めると、田中委員長が代表して答弁し、しどろもどろになりながら「川口君の死は意図しないものだった。二度とこのようなことはしない。今はこれだけしか言えない」と答えた。これに対し、「その程度の反省で済むか」、「二度と一般学生を殺さないとの確約書を書け」、「人殺しと革命にナンの関係があるのか」などヤジが飛び交う。「証拠があるなら、それを見せろ!」と追及する声に対して、概要「スパイ行為の事実を完全に立証、川口君の手になるメモを証拠物件として把握しているが、権力との緊張関係と高度な政治力学における特殊な問題が介在するので川口君のスパイ行為に関する事実の内容は明かせない」と居直った。この時、「党派抗争なら人を殺してもいいのか」との糾弾の声が上がると、「我々の町田君、海老原君も殺された」と応答した。一般学生が、「問題をすり替えるな」、「川口君は中核派ではなかったというではないか」、「してみれば、自治会委員が自治会員を殺したということになる。その責任をどうとるのか」等々と詰め寄った。議長団は、日頃の革マル派による暴力支配を縷々糾弾し始め、「川口殺害の責任を取ると言った以上、革マル派は自治会、文連すべての役職を辞任すべきだ」と迫った。革マル派が「こういう形で責任を取る事を拒否する」などとしたため、更に激しく罵声を浴びることになった。
 マイクを突きつけられ発言を求められる革マル派幹部は頭をたれたまま青ざめ、マイクに手も出さなくなった。催促されてしゃべり始めるや、たちまちヤジに包まれた。革マル派6名は、党派的な反論は却って火に油を注ぐことになると承知してか、もはや発言もならず沈黙戦術にシフトしたまま壇上に無言の棒立ちを余儀なくされる事態となった。その後、次々と一般学生が発言を求め、日頃の革マル派の暴力支配の実態を批判していった。

【革マル派糾弾集会が夜を徹して続行される】
 夕方になっても学生の数はますます増え、図書館の屋上や教室の窓にも鈴なりとなった。大学当局は21:00以降、集会解散・閉門の警告を繰り返したが、「革マル派糾弾集会」は鎮まらず、夜を徹して続行された。各党派の代表による革マル派批判があり、日頃の鬱憤を晴らそうとする一般学生の発言が引きも切らず相次ぎ、同感の拍手がうねりだした。警視庁機動隊員200人が待機する中、抗議集会は夜を徹して続いた。革マルは黙りこくるばかりとなった。結局、革マル派糾弾、責任追及集会は14日朝まで延々18時間続いた。徹夜組約500名その他入替わりの者も含め約1000名が取り囲んでいた。その中には女性も相当数いた。れんだいこもこの中の一人として夜を明かした。
 徹夜糾弾集会の日、大学当局は夜明けに機動隊を入れて革マルを救出した。あの朝、機動隊が革マル数人を救出して帰った後もずっとその朝までそこに残った最後の約300名が、夜明けの大隈銅像の脇で校歌を歌った。怒りの中心に居たのは早大を愛する早稲田民族主義者達だった。
 集会は、川口君のスパイ活動とされる根拠を示すこと、各学部自治会、文連、早稲田祭実行委員会の執行部辞任を要求して革マルとの押し問答が続くなかで、事実経過の究明、執行部のリコールなど「六項目決議」を確認した。

【大学当局―警察連合が革マル派を救出】
 この間大学側は、「6人の生命に危険がある」として機動隊の出動を再三要請している。初めは「学生を刺激するだけ」としてしぶっていた警察当局も、大学側の4度目の要請に応え、14日午前8時、50名ほどの機動隊が早大構内に入り、「寒夜に17時間の追及」を受けていた革マル幹部学生6名と一般学生にまじっていた1名の計7名を“救出”した。警察当局は6名を取り囲んでの徹夜集会は不法監禁の疑いがあるとして捜査を始めた。

 「毎日11.14」は次のように報じている。
 集会に参加した学生は大学当局が学生を遠巻きにするだけであっさり機動隊導入に踏み切ったことに強く反発、続々とつめかけた約1000人の一般学生が徹夜組の500人に加わり、今度は大学に対する抗議集会を続けた。
(私論.私見) 「KKT連合」考
 ここに、警察当局が、学生運動内政治党派の一セクトを「救出」するという珍芸が刻印された。この「栄誉」にあずかった第1号として革マル派が刻まれた。これは長い学生運動の歴史の中で初めての出来事ではなかったか。積年の暴力支配の元凶革マル派、あっさり機動隊導入に踏み切った大学当局、これを援軍する警察という相互関係が露呈した。以降、キャンパス内に「KKT連合」(革マルのK、権力のK、大学当局のT)の認識が広がっていった。「この言葉は中核や解放が作ったんじゃないよ。早稲田解放闘争当時、早稲田のノンセクトや一般学生から自然と出た言葉だよ」のコメントがある。

【革マル派の自己批判声明。そのマヌーバーに学生が更に怒る】
 革マル派が自己批判声明を発表した。しかし、その内容が更にキャンパスに怒りを呼んだ。声明の内容(『』部分が怒りを呼んだ)は次のようなものであった。
 概要/我が全学連の諸君の川口君に対する自己批判要求は正しかった。が、この追及過程で『我々の意図せぬ事態』が現出した。川口君は『ショック的症状』を突然起こし、死亡した。『一部の未熟な部分』によって、今回の事態は生み出された。『このような意味において』、我が全学連は率直な自己批判を行う。その責任の一端を『全学連委員長の辞任』をもって示し、革命的学生運動の前進に向けて闘い続けることを表明する。
 「『一部の未熟な部分』によって、今回の事態は生み出された」につき、「No.0601 映画『ゲバルトの杜』資料蒐集」によれば、「川口君の虐殺は、革マル派中枢の根本仁と藤原隆義の指示・同意のもと、村上文男(二文)を現場責任者とした。同派はそれを隠し、『一部の未熟分子の行為』にすり替えた」、「未だに革マル派組織および佐竹、水津則子、村上ら虐殺実行者は、誰も早稲田の暴力支配と川口君虐殺への自己批判も謝罪もしていないのだ」と記述している。検証する術をもたないが、そういう事かも知れんと思う。
(私論.私見) 「この時の革マル派の弁明について」
 この弁明は、それまで革マル派が口にしていた「革命的暴力論」とも整合しておらず、というかそのご都合主義をあからさまにしており、自派のゲバルトは聖であるが、今回はヘマをやったのでその限りで反省する(裏意味は、今後はもっと上手にやる)という論理でのトカゲの尻尾切り総括にしか過ぎなかった。学生大衆はそのペテン性を見破り、更に怒り、追及していった。
 ところで、下手人がその行為を明らかにせず、被害者が突如「ショック的症状」を起こし死亡したなる論はどこかで聞いたことがある。宮顕の戦前のリンチ査問事件での小畑中央委員死亡に纏わる見解と瓜二つである。革マル派と宮顕との直接関係はなかろうが、小林多喜二を暴行死せしめた特高当局の弁明とも酷似していることを考えれば、何やら納得させられるものもある、というのがれんだいこ見解だ。そういう意味でも、「宮顕の戦前の小畑中央委員査問致死事件」は徹底的に解明され、我々は宮顕論法批判に習熟しておかねばならない、とつくづく思う。

 ちなみに、11.23日付け朝日新聞は、革マル派の最高幹部・土門肇の記者質問に答えての次の談話を記事にしている。

 こうした我々に対する暴力的敵対に対し我々の自己武装は不可避である。イデオロギー闘争を補助するために暴力的行使は存在する。相手に自分の行為の犯罪性を自覚させ、反省させるための補助的方法である。
(私論.私見) 後のボア理論に繋がる嫌らしい論法考
 この嫌らしい論法を見よ。次のような論理構造とお見受けする。1・我々(革マル派)は正しい。2・故に、敵対党派に対する武装反撃は是認される。3・我々の暴力はイデオロギー闘争を補助するためのものである。4・我々の暴力は相手を反省させるための補助的方法である。5・この論法を他の党派が使うことは許されない。6・なぜなら、他の党派は正しくないからである云々。この論法に辟易しない者がいるとしたら相当オツムがヤラレテイル。しかしそれにしても左翼運動には異筋な権力論法であり過ぎる。

 2005.3.30日再編集 れんだいこ拝

【各党派が続々入り込む】
 この頃、早大キャンパスには久々に各党派が現われ、一般学生と見受けられていた学生の一部が歓呼の声でこれを迎える場面が見られた。特に、それまで政経学部を拠点とし、1969年のゲバルトで敗退して以来革マル派の暴力支配の前にキャンパスを追われていた社青同解放派の登場を歓迎する動きが目立った。中核派、ブント諸派のレポとおぼしき学生も相当数入り込んできていた。以降、革マル支配を崩そうとする党派闘争も絡み、三つ巴、四つ巴の死闘が演じられていくことになる。
 れんだいこは、「社青同解放派の登場を歓迎する動き」について、「検証学生運動下巻」の131Pで次のように記している。
 筆者がこう云い切れるのは『川口大三郎リンチ致死事件闘争』の際の体験から生れている。あの時の鮮烈な印象を伝えておく。革マル糾弾の嵐が吹き交うことにより、キャンパスから追放されていた諸セクトが次々と姿を現した。中でも政経学部を牛耳っていた社青同解放派が久しぶりに登場した時、それまでいつもアロハシャツを着てジャズ音楽にでも凝っていた風をして、筆者が立看板を出し入れしているのをいつも一瞥して通り過ぎていた顔馴染みが俄かに興奮し、口から泡を飛ばす勢いで歓喜乱舞しつつ迎えた。この時の様子が筆者のまぶたに焼き付けられている。とにかく青解派の人気は凄かった。数百名が歓び迎えた。彼らがキャンパスに登場できなかった仕掛けをこそ思うべきである。

【再々度「革マル派糾弾集会」が開かれる】
 11.15日、糾弾集会。午後2時から事件後3回目の革マル糾弾集会を民青系および一般学生約1000名で行う。革マル派の田中前委員長は、「ある特定の政治力学上の条件下では暴力もやむえをえない」と述べ、政治的に利用されるとして、学生側の要求する「暴力をふるわない」との確約書にサインすることを拒否し続けたまま翌日の集会に必ず出ることを確約させて集会を終わる。田中前委員長は、「川口君の両親にあやまれ」と男女学生4人に涙声で詰め寄られ、壇上にひざまづいて深々と頭を下げる一幕もあった。

【第一文学部クラス討論連絡会議が正式に発足する】
 11.16日、第一文学部クラス討論連絡会議が正式に発足する。その日の集会で、「自分たちの手で学生大会を開き、革マル派の自治会をリコールし、新たな自治会を作る」方針を決めた(「11.16文学部学生集会決議」)。革マル派の暴力支配を根絶させて、将来にわたって復活させないための制度的な保障を確立したいと願って、この目標に向けて、学生大会開催署名と革マル派自治会リコール署名を開始した。

【革マル派が「党派間ゲバルト不行使確認書」にサインさせられる】
 11.16日、全学世話人会議が「川口君虐殺を糾弾する6項目の一致点と4つの行動原則」を確認。本部前で暴力糾弾集会が開かれ、田中委員長が次のような内容の確認書にサインを余儀なくされた。
 自治会活動を進める上で意見の対立は、イデオロギー闘争によって解決し、異なった意見に対して暴力による解決は認められない。現在の学生運動にありがちな暴力行為は使わず、正常な自治会活動をすすめるよう努力したい。しかし、支配階級と被支配階級の間における国家権力の暴力には対決していく。

 学生は拍手で受けとめた。

【11.17川口君追悼集会】
 11.17日午後2時、一文2Jクラス主催で川口君追悼集会(於:大隈講堂)が開かれた。壇上には笑顔の川口君の遺影が置かれ、献花する5千人の学生の列が続いた。式が始まる直前、左腕に喪章を巻いた田中委員長が参列を申し入れ、葬儀委員長の林勝昭が級友たちと協議の上、発言しないことを条件に参列を認め、最前列右側の席に着席させた。1分間の黙祷の後、2J代表が声明文を読む。村井総長は欠席、浜田健三理事が村井総長名の弔辞を代読。大学側からの参列者は担任の長谷川教授と浜田理事ら少数。

 午後4時、伊東から川口君の母親・サトさんが到着。会場からあがった「お母さんに謝れ!」の声に田中委員長が前に立ってうなだれた。サトさんは、ハンカチで顔を覆い泣き崩れた。サトさんが登壇し、時折涙で声を詰まらせながら会場を埋めた学生に次のように話しかけた。
 今日は、大三郎のために本当にありがとう。(中略)私は大三郎という宝を失った。その宝をなくした今となっては、余生に希望もなにもありません。しかし、残る余生を、大学当局の怠慢と革マルの暴力をなくすために皆さんといっしょに終生闘っていきます。大三郎が惚れに惚れぬいたワセダ精神を一日も早く取り戻して下さい。二度と暴力のないワセダを。

 学生葬の最後、生前「俺は早稲田が好きだ」と語っていた川口君を「都の西北」の大合唱で送った。
 「川口大三郎君追悼学生葬に集まられた皆さんに」と題する「学生葬における一文2年J組のクラス統一声明」は次の通り。
 私たちの級友、川口大三郎君は革マル派によってリンチの末殺害された。11月8日、川口君は12時過ぎに登校し、体育実技を受けた後、午後2時過ぎ、文学部キャンパスに戻ってきた。その直後、級友とスロープ下において談笑している時、革マル二名が川口君をとり囲み、討論することを理由に自治会室へ連れて行こうとした。それに対し川口君は『討論ならここでもできるじゃないか』と答えた。すると更に数人が来て、いやがる川口君をむりやりに自治会室へ連れて行った。その後、川口君を助けようと駆けつけた級友に対して暴行・脅迫が加えられた。級友数人は川口君の安否を気づかい、9時まで構内で川口君を待っていたが、大学当局のロックアウト体制のため下校せざるを得ず、各自の家で川口君からの連絡を待つことにした。しかし連絡はなく、翌朝川口君はパジャマ姿の死体となって本郷東大病院前で発見された。川口君の身体は鉄パイプ、バット等で殴られたと思われる痕跡が50カ所以上見られ、全身の細胞が破壊され、ただれているという悲惨なものであった。

 私たちは、級友川口君がこのような卑劣なりンチをうけ、20年の喜怒哀楽、思い定めた志、そして何か素晴しいことがあるかも知れず、無いかも知れない未来を断ち切られたことに痛憤と悲憤、何とも名状し難い怒りを覚えている。私たちの知っていた川口君、あの明るさと人一倍の正義感をもった彼が殺されていった。この不条理!そして、私たちが今まで革マルの暴挙を許してきており、その結果、川口君が拉致された時点において、抗議に行くことのみでその他のあらゆる手段を講じ得なかったために、川口君を見殺し同然にしてしまった。このことは、生命のいとおしさに対する感覚すら麻痺させてしまっている私たちの内部にこそ問い返えさなければならない問題である。私たちは、彼の死に対してたとえようもないほどの負債を負っているのである

 ここで私たちは、川口君を知っていた身近な者として、川口君が中核派のスパイであったという何の根拠もないレッテル貼りをされ、殺されていったことに怒りとともに口惜しさを覚えずにはいられない。革マル派は事件直後、「川口君が中核派のスバイ行為をやりそれを我々は集会中に摘発し、自己批判を迫ったが、その過程で突然ショック死してしまった」という、馬場革マル全学連委員長声明なるものを出している。しかしながら、彼らのいう集会は、5時30分から行なわれたという事実と、川口君が連れて行かれたのが、同日午後2時すぎで、集会場の文学部中庭には、当時いかなる集会も開かれていなかったことに着目すれば、 彼らのスパイ行為なるものは全く根拠のないものだということがわかる。そして、私たちは、私たちの知っている川口君がスパイ行為を行なうような人間ではなかったことを改めて断言する。

 私たちが参加した、11月13、14日早朝にかけて夜を徹して行なわれた糾弾集会においても「一切の事実は国家権力との力関係で話せない」と繰り返すのみで革マル派はダンマリ戦法をもって逃げきろうとした。更に私たちの級友が、深夜の寒さ厳しい集会場において命をかけ、あるいは土下座までして『真実を言って川口君の汚名を晴らしてくれ』という誠実な要求に対しても、全く反応を見せず、逆に居直るという革マルの態度を私たちは断乎ゆるすことはできない。

 そして、私たち早大生は、学内において思想・信条の違う人間をテロ・リンチによって排除、抑圧してきた革マルの姿勢を黙認し続けたのである。それと同時に、事件当日級友から電話で川口君救出の要請があったにもかかわらず、何らの誠意も示さぬまま放置しておいた当局には私たちと同じ責任があるといえよう。ましてその責任を回避し、当然行なうべき 真相究明を怠り、逆に隠蔽していこうとしている当局の姿勢とは一体何物であるのか。その当局は、11月13、14日にかけての糾弾集会において、革マル派の人間の生命の危険を理由に機動隊を導入した。革マルの人間を救出する過程において2Jの級友にも暴行が加えられたという事実を大学当局はどう釈明するのか。以上の点に基づき、私たちは、今回、級友川口大三郎君がリンチ殺害された事件に対し、今までの私たちの態度そのものを痛苦にとらえ返すとともに、革マル派の思想・信条の違う人間をテロ・リンチによって排除・抑圧するという姿勢、及び大学当局の一貫した責任回避を断乎糾弾するものである。


 私たちは、川口君の死に心からの哀悼の意を表するとともに、異なる思想・信条の持ち主をテロ・リンチなどの行為によって排除・抑圧することのない学園を築くことが我々に与えられた課題である。川口君の死をムダにすることなく、今この早大学内で盛り上がろうとしている気運をさらに発展させ、 真の自治会運動とは 何かを追求する運動へ。今こそ全学的に転化させることを決意するものである。

 川口君が生前口癖のようにいっていた言葉『オレは早稲田が好きだ。早稲田をどんなことでも自由に話せるような広場にしていきたい』との言葉を私たち早稲田大学の学生はもう一度、自分の心に問い、新たな力としていかねばならない(1972・11・17)。

【大学当局が処罰基準「11.17告示」を打ち出す】
 学生葬と時を同じくして臨時学部長会議と理事会を開いた当局は、管理強化を内容とする「11.17告示」を発表した。それによると、暴力追放、人身保護のため「学内での一切の過激な行動には除籍、停学を含む断固たる処置をとるとともに、告訴、告発など法的手段にも訴える」、「不法占拠の場所は、閉鎖する」、「緊急事態発生の場合の通報網を設ける」などの学内の秩序回復策を講じている。翌11.18日、告示された。

 大学当局は、「11.17告示」の補足として、教職員が要求している全学集会などを行う意思はない、学生自治会の再建は学生自身の問題だとして関知しないとの方針を明らかにした。

【各学部自治会で革マル派のリコール運動始まる】
 11.18日、文学部181教室での糾弾集会で、馬場全学連前委員長らが「リコール運動には暴力的敵対はしない。リコールされれば辞任する」旨の「暴力非行使」確約書にサインした。
 11.18日、各学部自治会で革マル派のリコール運動始まった。第一文学部では、クラス討論連絡会議主催の学生集会を181番教室で開催した。千人近い学生が詰めかけていた。この集会に前革マル派全学連委員長/馬場素明が参加した。先の11.17日、川口君の学生葬当日、革マル派全学連から馬場前委員長を第一文学部クラス討論連絡会議主催の集会に出席させ、事件について改めて謝罪したいとの申し入れがあり、主催者側は半信半疑ながら了承していた。馬場氏は70-71年に一文自治会委員長を務めており、早稲田大学文学部はいわば出身母体であった。当日、馬場前委員長は文学部キャンパスの中庭でチラシ配りをした後、主催者側の学生に促されて入場した。会場全体が異様な緊張感に覆われる中で、少し高くなった壇上に立ち、まず事件について謝罪した。一通りの謝罪と弁明を聞いた後、主催者は馬場氏を壇上に立たせたまま、自分たちの不満をぶつけ、新自治会を立ち上げる取り組みに対して暴力的な妨害をしない旨の確約を迫った。馬場氏は意外にもあっさりと「確約する」と答え、さらに「確約書の文面は私に書かせてほしい。川口君の問題への自己批判の文言を入れたいからだ」と言い出し了承された。「1972.11.18日付けの馬場素明確約書」の文面は次の通り。
 「(川口君殺害を反省し、革マル派系全学連の一員である)私は、現在の自治会執行部及び全自治委員罷免のための運動に対して、一切の脅迫及び暴力的妨害をしない。今度開かれる学生大会に於いて、リコールが成立した場合、直ちにそれを認める。又、新執行部及び全自治委員の活動に関し、(私個人としても、革マル派系全学連の一員としても、)何らの暴力的干渉をしないことを確約する」。

 第一文学部クラス討論連絡会議は11.28日に学生大会を開催することを決定した。各学部でもリコール署名がスタートする。

【革マル派全学連が反攻活動を開始する】
 11.20日、「馬場確約書」の翌日、革マル派が、確約書で禊を終えたとばかりに文学部キャンパスに活動家を動員し、大量のビラ撒きを開始し始めた。ビラには、クラス討論連絡会議の背後に民青がいるとして、「民青による第二自治会策動は許さない」と書かれていた。

【川口君の在籍クラス2年J組が「二J11.8行動委員会」結成】
 11.20日、川口君の在籍クラス2年J組が、クラス討論の場で、「二J11.8行動委員会」結成を決議した(「1972.11.21クラス討論を深化し、更なる意思一致を!2J11.8行動委員会 決議31/33(クラスの33人の内31名の賛成で決議)」)。最初の配布ビラは「川口大三郎君虐殺の真相を究明し、革マルを断固糾弾する!」、「当局-革マルの癒着体制を糾弾する!」の二点の確認事項が記されていた。この「二J行動委員会」が「行動委員会」結成の水路となった。

【第一、第二の両文学部長辞任】
 11.22日、早大の第一、第二の両文学部長辞任。

【田中委員長のその後の事件見解】
 11.22日付け毎日新聞朝刊が、田中委員長が取材に応じ次のように語っている記事を載せている。
記者 川口君は君らに自己批判を要求されるようなことを本当にやっていたのか。  
田中 われわれの調査で彼が新宿区のアジトに出入りし、一定の人とも接触していたことがはっきりしている。(中略)しかし母親の心情を考え、また“左翼仁義”からも、これ以上明らかにするのは控えたい。
記者 川口君のお母さんにあやまったといったが、その具体的な誠意として殺害犯人を自首させるつもりはないか。
田中 考えていない。自首は権力との闘いに敗れたことになり、自己批判をした意味がなくなるので、犯人を自首させることは考えていない。
 新自治会債券運動について、次のように断じている。
田中 正式な手続きが必要だ。学生大会は委員長の私に招集権がある。無原則にやると、第二自治会が生れないとも限らない。(中略)学生大会開催要求に必要な学生総数の十分の一の署名を僕に出せば、招集することになろう。(現在の自治会規約には執行部リコールの手続きに関する条項がないことに鑑み)規約改正はクラス委員総会で決めることになっている。現執行部を無視した学生大会でリコール決議があった場合、どうするのがいいか、今考えている。

【革マル派の反攻作戦が始動する】
 11.22日、革マル派数十名が「民青の自治会乗っ取り策動粉砕」、「三役処分粉砕、自治会室奪還」を叫んで文学部に乱入する。

【革マル派幹部の土門肇(根本仁)が革マル派暴力正義論を開陳】
 11.23日付け朝日新聞朝刊で、革共同革マル派学生組織委員会の責任者で最高幹部の一人の土門肇こと根本仁がインタビューに答えて、「言うことをきかない子どものおしりをたたいて誤りをさとらせるのと同じだ」と暴力行使の不可避を述べている。

【反革マル派と革マル派のせめぎ合いが始まる】
 11.24日、革マル派約70名が「当局処分撤回、民青による自治会乗っ取り粉砕、自治会室奪還」の集会を開く。一方革マル派の居座りを糾弾する決起集会を開いていた学生が革マル派の集会を取り囲み、牛蒡抜きにして排除、その際田中前委員長がけがをしたほか数名の負傷者を出した。
 11.24日、クラス討論連絡会議が「学生大会開催・リコール運動推進に向けて!」を決議し情宣活動する。
 この頃、3・4年行動委員会が「革マル派による川口君虐殺糾弾・学校当局弾劾 学生大会勝利集会へ」を決議し情宣活動する。  
 11.25日、革マル派250名(全都動員)が、田中前委員長のけがを口実に反撃。
 11.25日、六学部で自主的自治会運動をめざすことを申し合わせする臨時執行部選出。
 11.26日、各学部の代表者たちで作る「全学議長団」と「全学部連絡会議」が、全早大生に向けて「緊急アピール」を発表した。文面は次の通り。
 「我々はあくまで非暴力で革マル派に対抗、大衆の手で学生大会を成功させる。各学部の学生大会を革マル派の破壊活動から“死守”するため、全学部の学生数千人を本部キャンパスに結集させる。そのための協力を求める」。

 11.27日、革マル派全都動員の300名が本部前で集会。


 11.28日、大学当局が全学ロックアウト措置。革マル派は文学部181教室を占拠し続けた。


【各学部自治会で次々と革マル執行部がリコールされる】
 11.28日、一文学生大会を文学部181教室で開く予定にして居たところ、革マル派が事前占拠し続ける事態の中で、革マル派や大学当局の妨害をはねのけ、教育学部15号館402番大教室で1410名を集めて開催された。他学部学生4000名が対革マル派警戒にあたり支援した。大会は、1369名の支持で革マル執行部リコール、自治会からの革マル派追放を決議し、自治会再建をめざす臨時執行部9名を選出、暫定規約を採択した。1年J組の樋田毅/氏が委員長に選出された。大学側は「認めぬ」と水を差す。

 同日、1文3.4年行動委 1.2年行動委連合(準)が「《学大》を勝利して次なる闘いを準備せよ」を決議し、情宣活動する。 
 一文の学生大会に続き、理工学部を除く各学部で学生大会が開催され、革マル派自治会執行部をリコールし、自治会再建を目指す臨時執行部が選出されていった。
 この日夜、社会科学部も学生大会を開催。革マル派が400名で学大粉砕を叫ぶ中、646名中614名の賛成で自治会からの革マル派追放を決定した。
 11.29日、同じくロックアウトの中、教育学部の学生大会開催。大隈講堂前で報告集会の後、数千人規模のデモ。革マル派が鶴巻公園に500名動員。
 11.30日、本部キャンパス、文学部共に授業再開となった。検問体制のなか、政経学部学生大会、夜には二文も学生大会、川口サトさんも参加。
 11.30日、一文三、四年行動委員会が結成された。最初のビラは「我々は革マル糾弾と共に、民青諸君に対しても批判的な立場をとる」と宣言している。
 12.1日、商学部学生大会が開催され、学部当局が定めた学生大会の定足数(全学部制6000名の3分の2)を満たしていなかったが、3分の2規定は実態にそぐわないとして約1500名の参加による学生大会を有効と決議し臨時執行部を選出した。ところが、商学部当局は学生大会の成立を認めず、最後まで革マル派の商学部自治会を公認し続けることになる。
 12.1日、法学部でも学生大会が行われたが、法学部自治会の民青執行部がリコールされそうになり、10名足らずの不足を理由に学生「集」会に切り替えられたと云う(?)。私もその場にいたはずあるが、どういう流れだったのか記憶にない。
 12.1日、第一文学部臨執声明No2「クラス協議会を創設し、自治会再建への巨歩を推し進めよう!」を決議し、情宣活動する。

【「一文行動委員会」が結成される】
 12.2日、一文で各クラス代表によるクラス協議会が発足した。革マルの反撃が個人テロにエスカレートした為、これに対抗する一文行動委員会が結成された。「自律、創意、連合」をスローガンとし、個人の責任で行動し、革マル派を追求すると宣言している。 

【この頃のビラ】
 この頃、以下のビラが配布されている。
 2J11.8行動委員会「川口君は見ているぞ!」。
 12.2日、早大社会問題研究会「革マル派による川口君虐殺問題と自治会活動に関する態度表明」。
 12.2日、早稲田をナカナカ卒業できないやつの会「『落とし穴』におちないために」。
 日付なし、一文臨執声明No4「学大の成功を新たな自治会運動の息吹に!」。
 12.4日、一文2Gクラス決議。
 12.4日、2J11.8行動委員会「『T君負傷事件』について」(*原文は実名)。
 12.4日、第一文学部臨執声明No5「見出しなし」。

【川口君の両親が大学当局の責任を追及す】
 12.4日、川口サトさんらが清水・竹内両理事に対して当局の責任を追及した。川口サトさんは位牌を理事に突きつけ、次のように訴えた。
 「これまでの大学の発言には何の誠意もない。弔慰金なんか受け取らない。お金より大三郎を返して」。

 大学は村井総長への面会を拒否した。

【革マル派学生5名に逮捕状が出される】
 12.5日、「リンチ殺人」事件で川口君殺害に関与したとして革マル派学生5名に逮捕状が出され、全国手配された。殺人に直接結びつく証拠が得られなかったため、事実関係が明らかになった川口君の友人(2J級友)への暴力行為(自治会室前および「テレ研」部室に押しかけての暴力行為と「記念会堂」裏での傷害の容疑)などに絞っての指名手配となり、不法監禁のみに関与した者への逮捕状請求は見送られた。阿波崎が傷害と暴力行為、他の4人は暴力行為の容疑。
阿波崎文雄 25 一文4年 一文自治会会計部長
村上文男 24 元早大生(1971年除籍) 元二文自治会委員長
近藤隆史 24 二文4年 元二文自治会委員長、全中自中執
佐竹実 22 一文3年(無期停学中) 一文自治会書記長
武原光志 21 二文2年(無期停学中) 二文自治会副委員長
若林民生

 12.5日、第一文学部臨執「2/5へ・・全学団交へ」。
【一文自治会臨時執行部が教授会との最初の団体交渉を実現させる】
 12.5日、一文自治会臨時執行部が、文学部キャンパスの181番教室で、第一文学部長/浅井邦二、学生担当主任/新保昇一、学生担当副主任/野口洋二が出席の下で教授会との最初の団体交渉(略称「団交」)を実現させた。臨時執行部が求めていた学生大会と再建自治会の即時承認は拒否されたが、「学生諸君の今後の取り組みを見守る」とする文書の読み上げがあり前向きな姿勢の感触を得た。

【反革マル派共同戦線が総長団交総決起集会を挙行する】

 12.5日、本部前で総長団交総決起集会を1500名で開催したが、総長は出席せず。大学側はこれまで革マル派に及び腰で、むしろ「革マル派とグル」と見られる動きを繰り返していた。先の学生大会の決議も大学側は認めようとせず、革マル派の肩を持つような発言を繰り返して学生の怒りを買っており、この日の総長の対応にも批判が高まった。

 文学部では、181教室で、浅井邦二・一文学部長ら教授3名の出席で大衆団交が行われた。浅井学部長は「村井総長に団交への出席を要請する」旨の確約書にサインした。

 団交後、浅井学部長は辞任し後任に本明寛教授が「3月末まで」の任期期限を設けて就任した。その後を印南高一氏が就任するも5月に辞任する。

 12.6日、村井総長は約束していた団交を拒否した。

 12.6日、第一文学部臨執声明No7「文学部校舎内のバリケードについて」。
 12.6日、第一文学部臨執声明No8「12.5一文団交の『勝利』に踏まえ、全学団交をかちとろう!。

【政経学部で反革マル派系の新執行部が誕生する】

 12.7日、政経学部も新執行部(3役、常任委)を選出した。政経学部行動委員会結成。

 12.7日、第一文学部臨執声明No9「昨日の事態に関して明らかにし、今後の闘いへの総結 集を呼びかける」。

 12.8日、大隈講堂で、臨時執行部主催「(仮称)寒い冬を越すための大コンサート」が開かれる。あがた森魚、頭脳警察、山下洋輔トリオほか出演する。

 12.8日、第一文学部臨執声明No11「自治委員選出を通して各クラスを組織せよ!!」。
 12.8日、村井総長雲隠れ。学生乱入。会見すっぽかし。
 12.9日、村井総長が顔みせ、早大総長やっと会見。学生との対話考えている云々。
 12.9日、教職員有志が川口君に弔慰金。
 12.9日、法学部行動委員会、教育学部行動委員会が結成された。
 12.9日、一文行動委「越冬体制の組織化を開始せよ」。
 12.9日、政経自治会執行部自治委員会総会に圧倒的に勝利」ビラを情宣活動する。

【冬休みに入り反革マル運動が小休止する】
 12.9日、冬休みに入る。これと同時に川口君事件を奇禍として始まった反革マル運動も小休止となった。
 12.9日、全学非暴力推進協議会(勝共連合系?)が「冬期休暇を前にして全大学人に訴える!」。
 12.9日、中国研究会が長征5号「人民、ただ人民だけが歴史を創造する原動力である」。

【革マル派メンバー2名が警察に逮捕される】
 12.11日、事件関係者の革マル派メンバー2名(近藤隆史と武原光志)が早大前の第一学生会館から文学部への革マル派デモに参加する形で現れ、警察に現行犯逮捕される。洗面道具・着替えを入れた風呂敷包みを持っており、計画的に逮捕されたもので妨害もなし。逮捕は革マル組織からの110番通報によるものだった。 「組織守るため出現?」とある。

 12.13日、近藤と武原は完全黙秘のまま東京地検に身柄送検される。
 樋田毅・氏の「彼は早稲田で死んだ」が次のように記している。
 しかし、彼らは取り調べに対して、『完全黙秘』を貫いたため、二葉さんらへの暴力行為についてのみ起訴され、肝心の川口君が殺された事件については立件されないまま釈放されることになった。
 12.16日、警視庁公安部は、佐竹の自供などから、小石中也(22)(一文)ら6名を監禁致死容疑で全国に指名手配した(指名手配者は計12名に)。
 12.29日、拘置満了日のこの日、東京地検が、黙秘を続ける早大リンチ殺人の近藤隆史、武原光志2名に対し、級友への暴力行為で身柄拘置のまま起訴した。翌月早々には保釈決定が下りる見通しとなる。

越冬期間中のビラ】
 この頃、以下のビラが配布されている。
 12.12日、クラ討連、3・4年行動委案の対立の記録「現状分析、総括をふまえての行動方針」(日付、執筆者とも無記名)
 日文四年行動委員会「一文自治会運動のさらなる発展のために」(わら半紙5枚裏表印刷の長文)
 野口・みずき署名「クラス討論に向けて 早稲田解放 革マル粉砕」。
 仏文行動委「すべての闘う学友は行動委へ結集せよ!」。
 一文行動委員会「我々の運動にとって自治委選とは何か」。
 執筆者無記名「早大11月革命に勝利せよ!すべての学友は行動委に結集せよ!」。
 一文日本史三年行動委員会準備会「全てのクラスから行動委員会を創出し臨執を防衛し共に闘おう!」。 
 一文三・四年行動委員会「一文臨執に連帯する全ての学友は三・四年行動委に結集せよ!」。
 一文臨時執行部「革マル-当局に抗して更なる前進を!」。
 一文三年有志「専修のみなさんへ」。
 一文臨時執行委員会「当局の不当な対応を我々は許さない!」、「11.10~12.7までの経過」。 
 早大一文自治会臨時執行委員会「1.1.8総決起集会に向けて!」。
 無署名「11月8日から12月10日までの経過を整理」。
 12.17日、早稲田大学第一文学部学生自治会臨時執行部「早稲田の闘いに支援を!」。
 12.25日、「11.8サークル連絡会議からの活動報告とアッピール!」(5枚裏表印刷の長文)。

 「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その2」へ続く。
 (「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その2」) 




(私論.私見)