28章  【三里塚闘争概略】

 (最新見直し2008.9.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ウィキペディア成田空港問題」その他を参照する。詳論は「三里塚闘争史その1、開港までの闘い」、「三里塚闘争史その2、開港後の闘い」に記し、ここでは概略する。

 2008.9.12日 れんだいこ拝


【三里塚闘争に至る経緯概要】
 1962.11.16日、政府は、年々増大する航空運輸の将来像から東京国際空港(羽田空港)に代わるハブ空港としての「新東京国際空港」を模索し始め閣議決定した。運輸省は、首都圏内の他の場所に新空港を建設する為の検討に入った。

 1963.6月中旬:、綾部運輸相(当時)が「浦安沖案」、河野建設相(当時)が「木更津沖案」を発表。7.4日、:綾部運輸相、河野建設相、川島国務大臣(当時)、友納千葉県知事(当時)が初の四者会談を開き、新空港立地を「東京湾沖千葉県側」とすることで合意。

 8.27日、第2回四者会談で、綾部運輸相が「東京湾案」に加えて、「霞ヶ浦案」、「富里村付近案」を追加提案。9.12日、:友納千葉県知事が「運輸省は富里村案を検討中」と県議会全員協議会で報告。12.11日、:空港審議会が第一候補・富里村付近、第二候補・霞ヶ浦と答申。俄然、「富里村付近案」が浮上し始めた。富里村、八街町の推進派と賛成派の双方が陳情を開始。


 1965.11月、当初は千葉県富里村(現・富里市)を建設予定地としていたが、地元住民の反対に遭い地元自治体との調整が難航した。  

 1966.6.22日、:佐藤栄作首相が友納千葉県知事に、原案の二分の一に圧縮した三里塚御料牧場での空港建設案を提示。6.25日、:友納千葉県知事が、藤倉成田市長に新空港建設の協力を要請。

 1966.7.4日、佐藤内閣が、新東京国際空港り建設地を千葉県成田市三里塚と隣接する芝山町に閣議決定する。国有地である宮内庁下総御料牧場が予定地の4割弱を占めており、用地買収がより容易に進むと考えたからであると思われる。

【「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」結成】
 佐藤内閣の閣議決定は、地元の三里塚住民には事前に何の打診、事前説明、協議も無く寝耳に水であった。農民は、保障、代替地、騒音問題への懸念もあり、富里村の反対運動に負けぬ闘争を指針させて行くことになった。

 1966.6.28日、三里塚新国際空港反対同盟が3千名の参加で結成される。三里塚の農機商店を営むクリスチャンにして画家彫刻家の戸村一作を委員長とする。遠山中学校にて「新空港反対総決起集会」を開催。以降、富里村農民にも勝る反対運動を組織して行く。

 7.20日、三里塚・芝山の約千戸3千名の農民・住民によって、「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」(委員長・戸村一作)が結成され、本格的な三里塚闘争が始まった。
 「われわれは、あらゆる困難や不当弾圧に屈せず、政府・県・公団が空港建設を破棄するまで闘い抜く」。

 9月、成田空港反対同盟の初総決起集会が三里塚公園で開かれ、農民千五百名が参加した。老人行動隊も組織された。10.2日、成田空港反対同盟−三里塚.芝山連合新東京国際空港反対同盟結成後初の総決起集会を開催した。当初は日本社会党や日本共産党などが支援した。

【三里塚闘争と新三派全学連運動との結合】

 1967.9.15日、「成田空港粉砕・強制測量阻止決起集会」が三里塚公園で開催され、新三派系全学連50名が参加した。これを嚆矢として新三派系全学連と反戦青年委員会の支援活動が常態化する。反対同盟は、条件闘争に持ち込もうとする穏和系社共と袂を分かち、次第にこの頃よりムーブメントを創り出しつつあった新左翼と共同し始めた。新左翼各派は、労農学連帯を求め、新空港の軍事基地化を危ぶみ、全国住民運動の頂上決戦と位置づけて反対派農民の支援活動に向かった。 

 12.15日、反対同盟が総会を開いて、日共支援と介入を排除することを組織決定する。この間日共は、反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒きや、反対同盟切り崩しのオルグ活動を行っていたことから、決定的な決裂に至った。

 1968年以降、反対同盟と三派全学連が公然と共闘し始め、これにより三里塚闘争が一挙に全国レベルの政治課題に昇格する。三派全学連は、成田空港を「日帝の海外侵略基地」、「軍事空港」等と捉え、反日帝闘争の一環として成田を「革命の砦」と位置付け闘争に参加し始めた。現地に団結小屋を建設し、「援農(えんのう)」による反対同盟との絆を固めた。これにより、義民闘争と新左翼運動の結合と云う新しい型が生まれた。

 三里塚闘争は、折からの砂川基地拡張反対闘争、エンタープライズの寄港阻止闘争、王子野戦病院設置阻止闘争、沖縄闘争、ベトナム反戦闘争、70年安保闘争と結合し、権力の暴力には暴力で立ち向かう抵抗闘争を繰り広げていくことになった。

 1970.1.10日、三里塚の反対同盟が、幹部会を開き、次のような決議をしている。

 「革マル派はこれまで一貫して三里塚現地闘争に主体的に参加せず、二度にわたる集会参加時も、同盟の指示に従わず、反対闘争の推進ではなく、他派に対する誹謗のみを目的とした。今後、革マル派の参加を拒否し、もしくる場合には排除する」。


 これにより、社共に続いて革マル派が脱落させられた。これにより、いわゆる新三派系新左翼と反対同盟の共同戦線運動としての成田闘争と云う特質が確定する。 

【三里塚闘争が、70年安保闘争後の最大の政治闘争化する】
 1970年に入って、新東京国際空港公団は、建設予定地の測量を開始することを明らかにした。新三派系新左翼と反対同盟は、1970.1.15日、:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」を開催し、以降「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む。しかし、公団側は強行し、反対同盟側は丸太でバリケードを築き、もんぺ姿の婦人行動隊は「公団が木を倒すなら人間も一緒に」と立ち木に二人ずつ抱き合う様に鎖で身体を縛りつけて死守して抵抗する。或いは、落とし穴、「白兵戦」、糞尿などを駆使して徹底抗戦する。木の根、横堀などの砦攻防が続く。

 1971.2.22日、公団側が三里塚第一次土地収用強制代執行を強行する。この時も、反対同盟側は立木に自らの体を鎖で縛り付けて抵抗した。実に、三週間にわたって機動隊との闘いが続けられた。9.16日、第二次強制代執行が行われ、反対同盟側はヤグラや鉄塔に立てこもって抵抗した。東峰十字路での学生集団と機動隊の衝突で機動隊堀田大隊が全滅し、隊員3名が火炎瓶や角材による攻撃で死亡、、全員負傷という事件が発生した。これを「東峰十字路事件」と云う。

 9.20日、:空港公団は突如、それまでの「住居への代執行はしない」との約束を反故にして、第一期工事内に残る大木よね宅を強制収用、解体した。民家住居への代執行は、初めてのことである。大木よねは機動隊員の盾で前歯四本を折られる負傷を負い連れ出された。

【三里塚闘争開港前の抵抗闘争】
 政府は、ようやく一期工事の用地を取得したが、反対同盟の抵抗は予想を上回るものとなって続けられた。1973. 11.6日、反対同盟委員長である戸村一作が、翌年の参議院議員選挙全国区への立候補することを表明した。12.17日、1971年の代執行で自宅を強制収用された大木よねが、「家に帰りたいよ」と言い残して死去した(享年66歳)。1974.7.7日、この日投票の参議院議員選挙で、「世直し一揆」を掲げて全国区に立候補した戸村一作は33万票を獲得したが落選した。

 成田空港開港が近づく中、:反対同盟側の闘争は続いた。
1977.5.6日、反対派が航空妨害を目的とした鉄塔を建てて対抗していた「岩山鉄塔」が撤去された。1978.2.6日、三里塚、横堀の要塞攻防戦が二日間にわたる激闘を演じている。

 3.26日、開港予定日を4日後に控えた成田空港の管制塔に第四インターなどのゲリラ部隊が地下排水溝から侵入、管制塔内部を破壊した。叉、空港の各所から反対派農民を支援する新左翼党派活動家四千名が乱入し、警官隊がピストルを乱射する「騒乱状態」となる。これを「管制塔占拠事件」と云う。これにより開港が二ヶ月近く遅れることになった。この管制塔襲撃事件を契機に、空港の安全確保のため、千葉県警察本部警備部に新東京国際空港警備隊が発足し、現在の成田国際空港警備隊に至っている。

【成田空港開港、その後の抵抗闘争】

 5.20日、成田空港が開港した。反対同盟は「百日戦闘宣言」を発し、ゲリラ活動を続けた。政府は、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」(いわゆる「成田治安時限立法」)を制定し更なる強権的対応を明らかにした。8月、政府が「第四次空港整備六ヵ年計画」を発表。成田二期工事構想が明らかにされた。政府が対話路線を呼びかけるようになった。

 反対同盟側の抵抗はひるむことなく続けられた。9.16日、反対同盟は「三里塚空港廃港、二期工事阻止全国総決起集会」を開催、1万9465名を結集した。反対同盟はこの大会で、政府の対話路線を拒否し、従来の「百日闘争」にかえて「連月連日闘争」方針及び100万人署名運動を実施する方針を採択し、徹底抗戦の構えを再確認した。

 10.21日、国際反戦デーのこの日、反対同盟は「二期工事粉砕全国総決起集会」を開催した。集会には反対派農民をはじめとして、動労千葉、関西新空港建設反対期成同盟、北富士忍草母の会、日本原農民、部落解放同盟ならびに支援労働者・学生など2万864名が結集した。集会では、病床にある戸村一作反対同盟委員長にかわって石橋政治副委員長が次のように決意表明した。

 「鉄路を武器に備蓄ゼロ化の闘いをいどむ動労千葉と、農民の真髄を発揮し、農地を武器に闘うわれわれが共闘し、いかなる苦難ものりこえ二期工事を阻止し、軍事空港をこの地から葬る」。

 北原鉱治事務局長は戸村委員長のメッセージを読み上げた。

 「反対同盟は基本どおり対話路線を拒否し、さらに廃港まで闘い抜く」。

 1979.11.2日、戸村一作成田空港反対同盟委員長が死亡した(享年70歳)。戸村氏は国立ガンセンターに移る10日前にも「根底から空港をぶち壊していくまで、三里塚闘争は決して消え去りませんよ」と闘志を見せていたという。


【公団側の話合い路線を廻る反対同盟内の対立発生】

 1980年代に入って、長期化する三里塚闘争に疲弊の影が見え始めた。反対同盟の「連月連日闘争」は80年にはいっても果敢に展開されていたが、他方で地下交渉が進行した。この経緯については別途検証する。

 この頃、反対同盟は、「一坪再共有化運動」(空港予定地となっている農家の土地を多くの支援者で共有することで、空港公団の土地取得を困難にさせようとする運動。沖縄の反米軍基地運動の「一坪反戦地主運動」からヒントを得ている)の是非をめぐって対立し始めた。「一坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対した中核派らは「北原派」を、「再共有化」を推進する第四インター派らは「熱田派」を支持した。


【三里塚芝山連合空港反対同盟が北原派と熱田派に分裂】

 1983.2.27日、三里塚芝山連合空港反対同盟が北原派と熱田派に分裂した。支援党派も分裂し、中核派が北原派を、第四インターが熱田派を支援した。3.8日、熱田派が北原派を排除した同盟総会召集し、「反対同盟分裂」が確定した。


【中核派が第四インター派を襲撃】

 1984.1月、中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定して全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせた。

 7月、ふたたび一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に片足切断の重傷を負わせた。あるいは中核派は「熱田派」農民や第四インター派メンバー、あるいは「一坪共有者」の自宅や職場を「訪問」または電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を行った。


【過激派各派がゲリラ型闘争に傾斜し始める】

 1985(昭和60).5.7日、戦旗・共産同、千葉県山田町の運輸省航空局のレーザーサイトに約五十メートル離れた山中から時限式発射装置により火炎ビン三発を発射、二発が防護壁に命中。埼玉県所沢市の運輸省東京航空交通管制部ビルに約九十メートル先から火炎ビン二発発射、敷地内の樹木をこがした。この頃より、成田闘争がゲリラ型闘争に傾斜して行くことになった。

 10.20日、千葉県成田市の三里塚交差点で空港反対同盟(北原派)支援の新左翼党派と警視庁機動隊が衝突した事件が発生した。これを「10.20成田現地闘争」と云う。1986.10.20日、成田空港反対同盟北原派の集会。

 1988.9.21日、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰氏が襲われ、両足と左腕を骨折するという重傷を負った(小川氏は、このテロの後遺症を苦に2003.7月自殺する)。中核派が犯行声明を出し、以降「収用委員会解体闘争」と称して収用委員全員に「家族ともども処刑台に乗っていると思え」などと記した手紙、電話などを送り続け収用委員全員が辞任する事態に陥る。千葉県収用委員会は完全に機能停止に追い込まれた。


【政府が初めて強権姿勢を謝罪】

 1991(平成3年).11月、こうした状況では正常な運営、あるいは二期工事の着工もおぼつかず、隅谷三喜男東京大学名誉教授ほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰のもと成田空港問題シンポジウムが15回にわたって開催された。

 1993(平成5).9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」で今後の成田空港の整備を民主的手続きで進めていくことが確認された。

 1995年、円卓会議の結論を受け、最終的に当時の村山首相が日本政府を代表して、それまでの政府の強権的な姿勢を謝罪した。ちなみに、中核派はこれまでのテロを現在に至るまで、一切の謝罪をしていない。この謝罪は地元の一定の評価を得、その後二期工事への用地買収と集団移転に応じる農民・地主が出てきた。


【成田闘争のその後】
 1996年、懸案の二期工事のうち平行滑走路(B滑走路)について、暫定滑走路を建設する案が計画され、2002年に暫定滑走路として供用開始した。この新滑走路は、反対派農家の未買収地を残したまま建設され、農家の軒先数十メートルの誘導路をジェット機が通過するという状況が続いている。また未買収地を迂回して建設されたため、誘導路は「く」の字形となっている。

 2002.12.1日、誘導路上で航空機同士の接触事故が発生している。




(私論.私見)