補足 三里塚闘争史その2、開港後の闘い

 (最新見直し2008.9.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ウィキペディア成田空港問題」その他を参照する。

 2008.9.12日 れんだいこ拝



【1978年、成田闘争開港後の動き】
 

【成田新空港開港】
 5.20日午前0時、反対派と機動隊の衝突とゲリラ活動が続く中、開港される。開港のセレモニーは一切とりやめ、ターミナルビル内で関係者52人だけの簡素な式典を行って祝った。 

 ところがこの日、所沢市の東京航空交通管制部に通じる電電公社の地下ケーブルが3ヶ所にわたって切断され、同管制部の対空通信や管制用レーダーなどの通信機能がストップ。被害は他の空港にまで及び、国内の主要空港は午前中いっぱい発着不可能となった。反対派の集会は、2万2千名が結集した。反対同盟は「百日戦闘宣言」を発した。第5ゲート前の反対派と機動隊の衝突で、48名が逮捕され、反対派の負傷者25名。

【開港後の抵抗闘争】
 成田空港開港。開港後も反対同盟は「百日戦闘宣言」を発し、ゲリラや滑走路の延長線上にアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やしての航空妨害が続き、警察は厳重な警備を敷いた。政府は「この暴挙が単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦であり、徹底的検挙、取締りのため断固たる措置をとる」と声明を出し、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」(いわゆる「成田治安時限立法」)を制定した。この時限立法には、国会で青島幸男ただ一人が反対した。この管制塔襲撃事件を契機に、空港の安全確保のため、千葉県警察本部警備部に新東京国際空港警備隊が発足し、現在の成田国際空港警備隊に至っている。 

 5.21日午前8時34分、成田空港にロサンゼルス発日航貨物便が無事着陸し、航空機運航開始。旅客一番機はフランクフルト発日航便で、午後0時4分に到着した。出発一番機は22日のサイパン・グアム行きであった。京成電鉄空港線(京成成田駅〜成田空港駅(現:東成田駅))が開業。京成上野駅からの特急スカイライナーが運行開始。成田空港は当初予定されていた3本の滑走路のうち、完成していたのは4000m滑走路だけ。2500mの平行滑走路と3200mの横風用滑走路は土地の買収が進まなかった。ただこの4000m滑走路もアプローチエリア750mを含むため、実際は3250mしかなかった。しかも首都圏から66km離れているという立地の悪さに、一部では評判が悪かった。

 6.4日、成田市は市内48ヶ所で行なった騒音測定の結果をまとめる。最高103ホンを記録した。6.10日、空港反対派を支援した過激派が妨害用気球3個を打ち上げたため、空港当局は約20分空港を閉鎖。

 6.13日、3.26日の空港突入闘争で全身火傷を負った反対派支援の新山幸男が死亡する。

 6.15日、成田関連。島寛征のいわゆる6.15協定。9.16日、反対派約8百名が、「たいまつデモ」を行ない、着陸体勢に入った航空機に花火を命中させる。9.17日、反対同盟が7200名(うち新左翼活動家4700名)を集めて集会を開く。

 7月、新東京国際空港警備を目的として千葉県警察に新東京国際空港警備隊が創設される。7.2日、:反対同盟が「飛行阻止現地大集会」を開催。1万5千名が結集。第九ゲートから突入しようとした6名が逮捕され、デモ全体で44名の逮捕者。反対派の負傷者14名。9.16日、:反対派約800名が、「たいまつデモ」を行ない、着陸体勢に入った航空機に花火を命中させる。9.26日、空港突入闘争で全身火傷を負った反対派支援の新山幸男が死亡する。


【1979年、成田闘争】
 

【成田闘争がゲリラ化し始める】

 1979.3.2日、成東署員が、地元の14歳の少女を反対派支援者と誤認して、暴行を加えた後に連行。3時間に渡って拘置した。

 8月、政府が「第四次空港整備六ヵ年計画」を発表。これは成田二期工事を中心に、関西新空港の建設、羽田空港の拡張、全国17空港のジェット空港化などに3兆2千億円の巨費を投じるというものであり、成田空港二期工事強行の意図を明白に内外に宣言した。


 9.16日、反対同盟は、成田市第一公園に反対同盟が「三里塚空港廃港、二期工事阻止全国総決起集会」を開催、1万9465名を結集した。反対同盟はこの集会で前年同様政府の対話路線を拒否するとともに、二期工事実力阻止態勢を固めるべく従来の「百日闘争」にかえて、「連月連日闘争」方針および二期工事強行に反対する100万人署名運動を実施する方針を採択し、徹底抗戦の構えを再確認した。集会後参加者は、8千名の機動隊の厳重な警戒体制のなかでデモ行進をおこなった。この行進中近くの山林から妨害気球七個が打ち上げられたり、岩山地区で燃えるゴムタイヤの黒煙がまい上がったり、夕刻には花火・照明弾などが30〇発以上断続的に打ち上げられた。

 10.10日、、国鉄成田線のジェット燃料輸送電車が、千葉県下総町で過激派に襲われ、機関車の計器が破損して運転不能となる。

 10.21日、国際反戦デーのこの日、反対同盟は二期工区・B滑走路北端の十余三の反対派農民所有地と三里塚第一公園との二ヵ所で「二期工事粉砕全国総決起集会」を開催した。集会には反対派農民をはじめとして、動労千葉、関西新空港建設反対期成同盟、北富士忍草母の会、日本原農民、部落解放同盟ならびに支援労働者・学生など2万864名が結集した。集会では、病床にある戸村一作反対同盟委員長にかわって石橋政治副委員長が「鉄路を武器に備蓄ゼロ化の闘いをいどむ動労千葉と、農民の真髄を発揮し、農地を武器に闘うわれわれが共闘し、いかなる苦難ものりこえ二期工事を阻止し、軍事空港をこの地から葬る」と決意表明をおこなった。ついで北原鉱治事務局長は戸村委員長のメッセージを読み上げ、「反対同盟は基本どおり対話路線を拒否し、さらに廃港まで闘い抜く」と表明するとともに、ジェット燃料輸送を阻止すべく、近く燃料輸送鹿島ルート沿線でデモ行進すると述べた。集会後参加者は十余三−天神峰−東峰を旗やノボリを立ててデモ行進した。途中三里塚闘争会館付近で古タイヤ数十本が燃やされたり、妨害気球やタコが十数個上げられた。また第二・第三ゲート間の第七監視塔に火炎ビン十数本が投げられ、第三ゲート近くの国道二九六号で機動隊に火炎ピン三〇数本が投げつけられた。夕刻には空港ガードマン詰め所とポンプ小屋が火炎ビンによって全焼、また県警前線指揮所にまで進出してきたデモ隊に機動隊が投石するなど、三里塚は一日中騒然とした雰囲気につつまれた。

【反対同盟委員長・戸村一作氏が逝去】

 11.2日、成田闘争のまとめ役であった反対同盟委員長・戸村一作氏が悪性リンパ腫のため死去。享年70歳。戸村氏は国立ガンセンターに移る10日前にも「根底から空港をぶち壊していくまで、三里塚闘争は決して消え去りませんよ」と闘志を見せていたという。11.13日、三里塚第一公園での追悼集会に3千名が参加。石橋政治副委員長は「戸村氏の意志をひきつぎ二期工事阻止・廃港にむけて闘い抜く」と決意表明した。


【その後の成田闘争の経緯】

 12.5−6日、全日農は第19回定期全国大会において、農地取り上げにたいするたたかいのひとつとしてはじめて三里塚闘争支援問題を討議し、千葉県農民組合のとりくみを支援して、つぎにかかげる支援決議を採択するとともに、たたかいの具体化の検討にはいることを決定した。

 【三里塚空港反対闘争支援に関する決議】

 自民党政府は今回行われた総選挙で敗北し混乱と動揺をくりかえしているが、一方においては米の生産調整地域農業政策等にみられるように、強権にしてファッショ的な農業政策をおしすすめてきている。このような独占資本の工業化政策に従属する農業政策のために外国農産物がわが国の市場を支配し、日本農業は根底から破壊しつくされ、食糧の自給率は低下の一途をたどり農民の生活はなおいっそう困難になってきている。このなかにあって、三里塚空港反対同盟に結集する農民は十四年のながきにわたって政府の空港建設に反対し、強権による土地収奪実力阻止の厳しい戦いをつづけ「飛行阻止・二期工事着工阻止・三里塚空港廃港」の闘争方針を断乎堅持し全国の広汎な諸階層の人々を結集し大衆的実力闘争を果敢に展開している。三里塚空港反対同盟は戸村委員長の死の悲しみを闘いの力にかえて決意も新たに当面の闘争目標を現地三里塚で飛行阻止行動を毎月実施し政府をおいつめる。成田用水事業・地域農業振興計画については戦う農業建設委員会をつくり、騒音問題については騒音対策班をつくりこれに対処する。中央行動として運輸省をはじめとする政府各関係機関に連続抗議闘争を行う。それと平行して二期工事着工阻止百万人署名・不当弾圧反対救援活動十万人署名の全国運動を展開する。さらに事業認定の期限が切れる十二月十六日には全国総決起行動を行うことをすでに決定している。全日本農民組合連合会は地元千葉県農民組合のたたかいを支援するために次の活動を全力をあげてとりくむ。

一、全日農中央常任委員会は、二期工事を中止せよとの声明をだすこと。
一、全日農中央常任委員会、および全日農国会議員団は内閣総理大臣に会談を求め二期工事中止を申し入れること。
一、全日農国会議員団は、事業認定期限切れ問題について国会において政府を追及すること。
一、全日農は三里塚空港反対同盟及び千葉県農民組合連合会が全国に協力を呼びかけている二期工事阻止百万人署名をとりくむこと。
  右決議する
 一九七九年十二月六日 全日本農民組合連合会第十九回定期全国大会

 12.17日、事業認定が切れた翌日、成田空港の「事業認定切れ・二期工事阻止」をメインスローガンとする全国総決起集会が反対同盟主催で開催され、反対派農民をふくめ1万6523名が参集した。集会後参加者はパトカーに火炎ビンを投げつけたり(火炎ビン処罰法違反で六人逮捕)、また岩山付近では活動家約70名が火炎ビンを満載したトラック3台に分乗し空港公団用地に突入をはかった。これにたいして機動隊はガス銃を発射して応戦した。

【1980年、成田闘争】
 

【反対同盟の「連月連日闘争」続く】

 反対同盟の「連月連日闘争」は80年にはいっても果敢に展開された。3.30日、1979.3.26日の管制塔乱入二周年記念に全国から1万8537名)が結集。5.11日、1979.11.30日に閣議決定された「立川基地跡地利用計画大綱」(全長一二〇〇mの新滑走路建設をふくむ)に端を発する砂川現地闘争集会(主催・砂川基地拡張反対同盟)にも三里塚から支援参加がおこなわれた。

 5.25日、空港開港二周年記念のこの日、8655名が結集。6.15日、「パイプライン阻止・ジェット燃料貨車輸送阻止闘争」(主催東京実行委員会、協賛反対同盟)。7.13日、「関西新空港粉砕・八〇年閣議決定阻止・三里塚二期工事粉砕・七・一三中央闘争」(主催・淡路国際空港淡路町反対期成同盟・三里塚芝山連合空港反対同盟、協賛国鉄千葉動力車労組)のための集会が開催された。関西地方から反対期成同盟員を中心に6百名が参加し、東京・明治公園で開催された、4300名。この集会には前都知事の美濃部亮吉参院議員が激励にかけつけ注目されたが、参加者は散会後デモ行進に移り、運輸省前で両空港粉砕のシュプレヒコールをくりかえした。

 翌7.14日、代表団は運輸省にたいして抗議行動を展開した。7.28日、灌漑用「風車塔付き井戸」について空港公団は土地収用法をたてに工事を中止するよう警告していたが、北原鉱治同盟事務局長および木の根地区農民八名は連盟でつぎのような確認書を提出した。(1)この灌漑施設は営農に必要な用水を目的としたものである、(2)二期工事に支障ある場合は自主的に撤去する、(3)当該地域に同種の施設を設置しない。


【第4インターの三里塚現闘内で複数幹部による女性活動家レイプ事件発生】
 この頃、第4インターの三里塚現闘内で、幹部による支援の女性活動家に対する「性的接触」レイプ事件が発生している。実行者は複数いたことから「ABCD問題」とも云われる。

 但し、この事件が発覚するのは1982年で、被害女性メンバーが告発した。告発当時、加害者の行為の定義をめぐって議論が紛糾したが、議論の末、「女性の望まない性的接触はすべてレイプである」というフェミニズムの立場を明らかにし、加害者の行為を「レイプ」と規定した。組織内調査の結果、複数の「女性の望まない性的接触」および「女性差別的な組織対応」が発覚し、1983年、組織として問題を公表し、「自己批判」した上で関係者を除名した。

 1987年、女性メンバーによって第四インター女性解放グループが結成される(1995年、結集軸であった社会主義婦人会議が解散し、それとともに女性解放グループの活動も停止した)。これへの対応をめぐって「女性メンバーの組織内独自結集」に反対した第4インターナショナル日本支部再建準備グループ(MELT)が分裂した。1989年、第四インターナショナル日本支部全国協議会(労働者の力)が分裂した。

 1991年、第4インター日本支部は、第4インターナショナル統一書記局派の第13回世界大会で「日本小委員会の報告と提案」が報告され、この事件に於ける「性差別問題」を理由に「第四インターナショナル支部としての資格欠如」と宣告され支部資格を剥奪されている。

 現在、日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)と国際主義労働者全国協議会(労働者の力)の二つのグループが「支部」ではなく「パーマネント・オブザーバー・グループ」として第四インターナショナル統一書記局に参加している。

【反対同盟内で北原派と熱田派の対立始まる】

 1980年。反対運動は一定の力を維持し、二期工事の着工をしばらく阻んでいたが、三里塚・芝山空港反対同盟は、主に「一坪再共有化運動」(空港予定地となっている農家の土地を多くの支援者で共有することで、空港公団の土地取得を困難にさせようとする運動。沖縄の反米軍基地運動の「一坪反戦地主運動」からヒントを得ている)の是非をめぐって分裂した。

 「一坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」、「金儲け運動」として反対した中核派らは北原鉱治事務局長を擁立し「北原派」を、「再共有化」を推進する第四インター派らは熱田一行動隊長を擁立し「熱田派」を支持した。中核派の「再共有化」反対論は「再共有化運動」に対する「空港用地内農民」の反発を背景にし「北原派」の中心部分は「用地内農民」だったが、石井武のように「用地内農民」で「熱田派」に加わった者もいる。逆に「一坪再共有化」を推進した「用地外騒音地域農民・住民」の多くは「熱田派」についたが、「北原派」についた「騒音地域農民・住民」(故戸村一作夫人など)も存在する。 


【その後の成田闘争の経緯】

 9.1日午前、成田空港内の給油タンク近くの駐車場で、車4台が燃えているのが見つかった。発見直前の9時45分頃、空港に「空港中心部に爆弾をしかけた。1時間後に爆発する。すべての航空機の発着を中止しろ」という電話があった。空港内でのゲリラはこれで3件目。


【1981年、成田闘争】
 1981.5.1日、:芝山鉄道株式会社が設立される。6.7日、:この日投票の芝山町長選挙に反対同盟は石井新二を擁立したが、落選。

【1982年、成田闘争】
 1982.2月、成田関連。石橋委員長代行、内田行動隊長辞任(話し合い問題で)。3.28日、、総決起集会に6500人と最大の参加者。開港しても闘争は鎮まるどころか、新たな盛り上がりを見せた。だが政府側の裏交渉や、運輸省、空港公団との接触の表面化で、2月に石橋政次委員長代行、内田寛一行動隊長、石井英祐事務局長、11月には島寛政事務局次長がそれぞれ役職を辞任している。いずれも反対同盟を代表する農民のリーダーだった。この役職辞任の問題をめぐり、反対同盟と支援党派、とくに青年行動隊と中核派の対立が深刻なものとなった。

 5月、成田関連。パイプライン工事完成。7月、成田関連。「成田用水菱田工区」結成、用水問題はじまる。9月、第四インターが一坪再共有化提案?。四インター滝沢、一坪再共有化を島村良助に提案。11.30日、成田関連。石井新二、実役に1億5千万を集める一坪再共有化提案。12.16日、成田関連。実役、敷地内の反対で一坪再共有化案きまらず。12月、千葉港石油ターミナル完成。12月、実役、敷地内の反対で一坪再共有化案きまらず。12月、成田関連。査問側のA、B、Cもレイプで告発される。

【1983年、成田闘争】

【反対同盟が北原派と熱田派に分裂】
 1983.1.9日、成田関連。同盟旗開き、石井新二ら「共有運動取り組みのお願い」配布。1.27日、実役、敷地内,「お願い」配布を批判。2.12日、石井新二ら「反対同盟大地共有委員会」名で全国に募集開始。

 2.27日、成田空港反対同盟(三里塚芝山連合空港反対同盟)が北原派と熱田派に分裂。支援党派も系列化される。中核派が北原派を、第四インターは熱田派を支援。2.28日、実役、議題は再共有化、石井の北原解任動議で流会。 

 3.8日、:「一坪再共有化運動」の是非から、空港反対同盟が用地内農民を中心とした「北原派」と騒音地域農民を中心とした「熱田派」に分裂。熱田派、北原派を排除した同盟総会召集(反対同盟分裂)。熱田派は第四インター、戦旗・共産同、プロ青同などが支援、北原派は中核派、解放・狭間派など支援。

【その後の成田闘争の経緯】
 3.8日午後11時20分頃、葛飾区高砂、京成電鉄高砂車庫脇の跡地で、トラックが燃えているのをパトロール中の警官が見つけた。まもなく火はけしとめられたが、車庫のスカイライナー前面ガラスが3枚割れた。燃えたトラックのホロには「中核」と切りぬかれたトタン板があり、管制塔事件から毎年開かれる「3.27〜」におけるゲリラと見られた。13日、警視庁公安部は本拠「前進社」を家宅捜索。

 6.7日、四街道市のパイプライン関連工事を請け負う東鉄工業千葉支店物井営業所事務所が時限放火装置により全焼。作業員2人が焼死、1人やけど。一般人の巻き添えは初めてだった。この会社は航空燃料用パイプライン敷設工事中だった。中核派が放火。6.18日、反対同盟(熱田派)が、四街道の放火テロを「労働者への虐殺糾弾」と非難する声明を発表する。8.8日、航空燃料パイプライン供用開始(航空燃料暫定輸送終了)。9月、成田関連。第四インターA、B、C、Dを除名し、自己批判。

【1984年、成田闘争】
 1984.1月、:「一坪再共有化運動」をめぐる対立から、中核派が第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定して全国一斉に第四インターの五ヶ所のメンバー宅を一斉に襲撃、一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせた。3.14日、芝山町議会の「二期工事早期着工要請決議」に、反対同盟両派が抗議行動を展開。4名が逮捕される。4月、中核派が、成田空港と羽田空港に迫撃砲弾を撃ちこむ。弾は重さ6kg、飛距離1km以上あり、弾道を安定させるための羽が4〜8枚つけられていた。

 6.23日、開港以来の国際旅客5千万人達成。

 7月、中核派が再び一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に片足切断の重傷を負わせた。他にも「熱田派」農民や第四インター派メンバー、あるいは「一坪共有者」の自宅や職場を「訪問」または電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を行った。9.10日未明、成田空港改稿の見かえり事業である成田用水事業の施行業者3社の事務所、資材置場に放火、汚物が撒かれる事件があった。八日市場市の建設会社資材置場が放火され全焼。佐原市の建設会社にはバキュームカーが乗りつけられ、ホースで汚物がまかれた。また残る1社の資材置場でも放火があり、報道機関に「共産同 戦旗派」を名乗る男から犯行声明があった。

 9.13日、芝山町の土建会社倉庫に不審なリュックが置かれているのが見つかる。名かには乾電池と布きれがはいっていた。また佐原市の別の会社にもショベルカー、ブルドーザーの運転台に時限発火装置のようなものが置かれているのが見つかった。9.19日、自民党本部炎上事件。二期工事開始発言に対しての攻撃であったとされる。10.1日、:中核派が、佐原市にある成田用水事業の請負業者社長宅を放火。社長宅のほかに無関係の近接した住宅二棟も全焼。

【中核派の反論】
 「週刊『前進』(2380号5面2)(2009/02/23 )」を転載する。

 塩川一派の敵対粉砕を

 第4インターに「自己批判」し三里塚闘争の原則解体に走る

 革命情勢の到来に、革命家としての人生をかけて勇躍立ち上がるのではなく、階級的労働運動路線から脱落し、党を分裂させ、革共同への妨害と敵対を「党是」とする転向スパイ集団に成り下がった塩川一派。彼らの機関紙『革共同通信』25号(1月20日付)に「1984年の第四インターに対する軍事的せん滅戦にかんする自己批判」と題する文章が掲載された。これは、転向を深める塩川一派の国家権力と反革命に向けた「二度と刃向かいません」との屈服表明であり、さらに三里塚闘争が43年にわたって必死で守り貫いてきた「農地死守・実力闘争」の原則の否定と解体である。われわれは怒りを込めて徹底的に断罪する。
(写真 第4インターの犯罪を暴く本紙1177号【84年3月19日付】)

 「革共同」かたり反革命的脱落を権力に売り込む

 塩川一派は今、自らの運動と組織のあり方の一切の「見直し」を進め、わが革共同と別の組織へと変質し、別の路線を歩んでいることを内外に吹聴している。革共同がこれまで国家権力と反革命諸勢力に対して厳しく対決し、命をかけ、時に流血や逮捕・投獄を辞さず、非妥協的に原則的に闘いぬいてきたあり方から、自分たちが決定的に脱落したことを積極的に売り込み、体制内勢力の一員として迎え承認してほしいと懇願しているのだ。

 60年安保闘争、70年安保沖縄決戦、二重対峙・対カクマル戦、三里塚を主戦場とした大衆的実力闘争と革命的武装闘争、90年天皇決戦、そして今日の階級的労働運動路線のもとでの職場からの決起、体制内指導部らとの党派闘争――これらの闘いに貫かれている本質は、革命党、革命家としての、不屈の敢闘精神とその実践である。

 それは昨年において5・28―29法大デモ、6・29G8サミット粉砕決戦として大爆発し、全国・全世界の労働者人民の魂を揺さぶり、革命的決起のアピールとなった。

 塩川一派は、スクラムによる実力デモにさえおじ気づき、「弾圧を招くだけだ」「責任がとれない」などと非難し、一目散に逃げ出した。洞爺湖サミットの北海道現地では諸潮流のデモに埋没して遊歩していた。「暴力革命論がない」「国会に突入すべきだった」など、革共同をなじってきた彼らの一連の威勢のいい言動も今はむなしく響く。「完黙するかどうかはケースバイケース」という一昨年の主張は、まさに彼らが進む方向を示唆していたと言える。

 そんな連中が「自己批判」だと? ふざけるのもいい加減にしろ! 革命的でもなく、共産主義者でもない転向集団が、「革共同」の名をかたって屈服・転向文書を出す資格など一ミリもない。

 そしてこの文章の狙いは、自分たちの転向表明だけではない。脱落派と同じ陣地に立って三里塚闘争に敵対し、革共同への国家権力の弾圧や反革命・反動勢力の襲撃を期待しけしかけている。
 「自己批判」文章は何と言っているのか。

 「84年に第四インターに対して行った軍事的せん滅戦は、明らかな誤りであり、そのことによって階級闘争全体に少なからぬダメージを与えた」、「労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線的対立を、相手を『反革命』とまで規定し、組織的な暴力を行使することによって、決着をつけようとするものだった」、「労働者階級・人民大衆自身による壮大な事業を、『軍事的せん滅戦』によって代行しようとした誤りを率直に認める」、「(第4インターらに対し)圧倒的な弾劾の声で包囲し、広汎かつ強固な大衆闘争陣形を形成するという闘い方をするべきであった」

 これらの文章の一語一語を怒りなしに読むことはできない。結論から言えば、第4インターの「内ゲバ主義反対」論とまったく同じだ。「せん滅戦は階級闘争にダメージを与える」「路線対立に組織的暴力で決着を着けようとした」「軍事による代行」「大衆的に包囲すればよかった」…… 階級闘争のリアリズムから完全逃亡した地点からの、無内容で反革命的な主張にほかならない。

 3・8分裂強行の歴史的大罪

 83年当時、三里塚闘争において支援党派の中で一定の組織的実体と影響力をもっていた第4インター。その彼らが主導して「一坪再共有化運動」推進=反対同盟所有地の不特定多数への切り売りという形で三里塚闘争破壊、「農地死守・実力闘争」の原則破壊が強行されようとした。

 北原鉱治事務局長や市東東市さん(孝雄さんの父)ら2期敷地内農民が猛然と反対したにもかかわらず、それを踏みにじって暴力的に進められたこの「一坪再共有化」によって、反対同盟が「北原派」と「熱田派」に分裂した(3・8分裂)。前者が現在の反対同盟であり、後者は脱落・屈服、条件派化し衰滅した。

 階級闘争にダメージを与えたのは誰だ。三里塚闘争を危機に追い込んだのは誰だ。大衆的に包囲すればよかっただと?  言われるまでもない。われわれは一坪再共有化推進運動を、三里塚現地でも全国においても大衆的に包囲し、説得し、追及し、弾劾し、その中止と三里塚の原点「農地死守・実力闘争」への復帰を全力で求めたのだ。

 第4インターが「一坪再共有化」で行使した暴力

 第4インターは当時「農地死守だけが三里塚闘争ではない」「敷地内の考え方が間違っている」「3・8分裂は当然」と公然と吹聴していた。そして83年に全国各地で「再共有化推進」集会を開催した。そこでいったい何が起きたか。

 5・29仙台集会では、参加者の中から発せられた「再共有化」についての正当な討論の呼びかけに対して、脱落派農民の石井新二がビール瓶を片手に殴る蹴るの暴行を加え、第4インターがこの暴行に加わり、額を割られるなどの多数の重傷者が出た。

 7・1関西集会では、参加者の中から「再共有化」への質問と批判が続出したことに逆上した彼らは、第4インターらの「会場警備」部隊が先頭に立って、無抵抗の多数の参加者に対して凄惨(せいさん)な暴行を加えた。気絶するまで後頭部を打ち続けられた人、血みどろになるまで袋だたきにあった人、一人の女性は腎臓破裂の重傷を負った。しかもこの重軽傷を負った参加者を第4インターは会場前に次々とほうり出し、大阪府警機動隊に28人もの労働者・学生を「建造物侵入」で逮捕させた。

 この後、警察が現場検証と称してぞろぞろと会場内に入ってきた時にも誰一人として阻止も抗議もせず、脱落派事務局長・菅沢昌平はそのまま平然と「基調報告」を続け、会場内を警察が動き回るにまかせた。

 さらに11月20日夜三里塚現地で、酒気を帯びた菅沢昌平は支援党派「首都社研」のメンバー2人とともに岩山記念館を襲撃し破壊の限りを尽くした。そこで当番に当たっていたわが現闘メンバーの同志に「ぶっ殺してやる」と叫びながら頭めがけて電話機本体を力いっぱい投げつけるなどして、頭蓋骨損傷・頭部裂傷の重傷を負わせた。菅沢は首都社研2人が馬乗りになって押さえるまで暴れ回った。第4インター機関紙『世界革命』はこの菅沢事件を「当然の制裁」「今後も実行する」と宣言した。ほかにも現地と全国での暴力事件や警察への通報などの行為と言動は、枚挙にいとまがない。

 われわれはこのような過程を経て第4インターメンバーに対するせん滅戦を決断し、84年1月、7月に敢行するに至ったのだ。

 この戦闘を契機に、第4インターが以前から三里塚闘争からの組織的逃亡を画策していたこと、ABCD問題(第4インター現闘メンバー4人の男が三里塚現地で数々の女性に対して強姦、強姦未遂を繰り返していた事件)での組織的危機をのりきるため「一坪再共有化」にすがりついたこと――などの腐敗が一挙に明るみに出たのである。

 反革命との戦いの完全放棄へと行きつく大転向

 これが「労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線的対立」「だから暴力を使うな」などと言える事態なのか。まさに成田空港2期工事着工攻撃が迫る中、日帝国家権力、空港公団が反対同盟を破壊するために、反対運動を内部から変質・解体させるものとしてかけられた攻撃がその本質だったのだ。

 そして当時から20年以上の歳月が過ぎたことをいいことに、すでに党派としては実体を失った第4インター関係者らは「中核派のテロ」の一方的被害者であるかのような宣伝を好き放題やってきた。だが事実を覆い隠すことはできない。

 もちろん塩川一派はこれらの事態を「知らなかった」わけでも「忘れていた」わけでもない。重々承知の上で、「われわれはもうやらない」という結論を出すために口をつぐんでいるのだ。

 彼らはこの文章の中で「反革命分子に対して赤色テロルを行使する権利を、断じて放棄するものではない」と弁明しているが、実際には反革命との戦いを一切合切放棄し否定するための布石である。さらに最後の方では「スターリン主義の粛正の論理をのりこえていない」とスターリン主義を持ち出して自らの「テロ反対」主張を正当化する。ここまでくると第4インター「内ゲバ主義反対」論と寸分の差異もない。だがトロツキーがスターリン主義との死闘の中で残した教訓は、せん滅戦をも辞さぬ対峙を貫けなかったことで喫した血の敗北にこそある。塩川一派はそのことに一言半句も言及せず、自らの転向を合理化するのだ。

 階級闘争の戦場からの組織的脱落・逃亡は、つねに「革命的、戦闘的」装いをこらして行われる。62年の黒田・カクマルの分裂しかり、3・8分裂しかり。それらと比べても塩川一派のこの転向声明はあまりにも力無くお粗末だ。三里塚闘争の原則を解体する「自己批判」を怒りをもって粉砕せよ。転向を深める塩川一派を打倒し、階級的労働運動路線を力強く進撃しよう。三里塚闘争の発展をかちとろう。
 (田宮龍一)

【1985年、成田闘争】

 1985(昭和60).4.12日午後8時ごろ、成田空港の西側農道に駐車中の普通貨物自動車の2台から空港に向けて、10発の爆発物が発射され、約1km離れた旧工事局駐車場に発射して、駐車中の車両が大破した。5.7日、戦旗・共産同、千葉県山田町の運輸省航空局のレーザーサイトに約五十メートル離れた山中から時限式発射装置により火炎ビン三発を発射、二発が防護壁に命中。埼玉県所沢市の運輸省東京航空交通管制部ビルに約九十メートル先から火炎ビン二発発射、敷地内の樹木をこがした。
 
 9.29日、芝山町で成田空港反対のデモ隊が機動隊と衝突。女性15人を含む75人が逮捕された。10.4日、警官3名が死亡した東峰十字路事件で、千葉地裁は傷害致死、凶器準備集合、公務執行妨害などに問われていた反対同盟55名のうち52人に執行猶予付の2〜3年の有罪判決を言い渡し、2人を「当日の行動を認める証拠がない」と無罪にした。 被告も反対同盟分裂を受けて、北原派3人、熱田派52人にわかれていた。北原派は控訴したが、熱田派は控訴を取りやめた。

 10.20日、空港反対同盟(北原派)支援の中核派、戦旗・両川派などが、三里塚第一公園に「10.20全国総決起集会」を開き、約4千名が参加した。当初は集会後にデモ行進するだけであったが、海上内にはダンプカー3台分の火炎瓶などの凶器が運び込まれた。その後、中核派約6百名が、鉄パイプ、丸太棒などで武装し、三里塚十字路で警戒に当たっていた警視庁機動隊と衝突。過激派活動家241名が逮捕された。これは開港後では最も激しい武装闘争となった。(10.20成田現地闘争)。成田空港反対運動終期の大規模な反対派と警察部隊の衝突であった。 

 11.4日付の中核派機関紙「前進」には次のような文が掲載された。「10.20決戦の勝利によって労働者階級人民の総決起を機軸に、革命軍の革命的ゲリラ・パルチザン戦争と大衆的武装闘争を相乗的に発展させるたたかい、先制的内戦戦略の高次段階(フェーズU)の真価を発揮する過程に突入したということである」。


【1986年、成田闘争】
 1986.10.20日、成田空港反対同盟北原派の集会。逮捕者241名。11.26日、建設予定のもう1本の滑走路の第二期工事に着工。

【1987年、成田闘争】
 1987.3.14日、千葉、埼玉、茨城各県と東京都内の成田空港工事請負会社の事務所や作業員宿舎など5か所で時限式爆発物による同時爆破事件が起こり、建物、窓ガラスを破壊した。中核派が犯行声明を出す。新型飯盒を使った爆発物だった。5.22日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の大成建設機材センターの更衣室ロッカーで爆発。天井などを壊した。時限式爆発物によるもので、中核派が犯行声明を出した。

 9.4日、反対同盟の北原派から用地内農民を中心に離脱、新たに「小川派」が結成される。最終的に反対派は三派に分かれたことになる。11.27日、木の根団結砦、撤去される。成田新法、初の適用だった。

【1988年、成田闘争】
 1988. 3.17日午後8時7分ごろ、千葉県千葉市の新東京国際空港燃料パイプライン第4バルブ保安設備室南側金網フェンスに消火器爆弾が仕掛けられ爆発。金網フェンスや、簡易トイレなどを破壊した。この事件について革労協(挟間派)が、「わが革命軍は成田ジェット燃料輸送パイプライン保安設備室に対して革命的攻撃を敢行し、徹底爆破した。ジェット燃料輸送パイプラインは、成田空港機能の維持にとって、決定的戦略的生命線である。日帝・公団による三里塚二期強硬攻撃に対する本格的武装による革命的回答である」というビラを配り、犯行を自認した。

 3.19日、開港以来の国際旅客1億人達成。9.21日、:千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長で、弁護士の小川彰がフルフェイスのヘルメットをかぶった数人に襲われる。小川弁護士は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折する重傷を負う(小川は、このテロの後遺症を苦に2003年7月に自殺する)。二日後、中核派は犯行声明「デモ、手紙、電話を集中し、辞任させよう。収用委を実力で解体せよ!」を出し、 この後、中核派の機関紙「前進」に「収用委員会解体闘争」と称して収用委員全員の住所と電話番号を掲載して、「家族ともども死刑台に乗っていると思え」と組織的に脅迫じみた手紙、電話などを送り続け、翌月には収用委員全員が辞任して千葉県収用委員会は完全な機能停止に追い込まれた。県知事も新たな委員を任命する意思のないことを表明し、収用委は事務局だけとなった。

 10.7日、:空港公団内に「用地交渉推進本部」が発足する。 

【1989年、成田闘争】
 1989.2.28日、第1旅客ターミナルビル南ウイング附属棟完成 。6.11日、:この日投票の芝山町長選挙に反対同盟(熱田派)は相川勝重を擁立したが、落選。7月、収用委事務局員の自宅が放火される。7月、成田空港反対同盟熱田派の最大支援党派の戦旗共産同が熱田派と決別。

【1990年、成田闘争】
 1990.1.30日、:江藤運輸大臣(当時)と反対同盟熱田派農民が現地で公開会談を行う。4.2日、神奈川県鎌倉市の「日本飛行機梶v専務宅が放火され、夫人が死亡。未解決。5.2日、成田市内の有料駐車場で車両が放火される。5.15日、反対同盟熱田派がパンフレット『20年が過ぎた成田事業認定-私たちは政府と公開論争を続けています』を発行。8.22日、:政府・公団は成田新法に基づき「三里塚闘争会館」を撤去。9.28日、開港以来の国際旅客1億5000万人達成。10.15日、政府・公団は成田新法に基づき「大清水団結小屋」を撤去。11.1日、:「地域振興連絡協議会」が発足。11.6日、開港以来の離発着数が100万回達成。11.27日、:政府・公団は成田新法に基づき「横堀団結の砦」を撤去。12.20日、:東京高裁は77年5月8日の衝突で東山薫の死因を一審判決を破棄して機動隊によるガス弾と認定する判決を下す。千葉県は不服として27日に最高裁に上告。

【1991年、成田闘争】
 1991(平成3年).1.18日、開港以来の航空貨物取扱量1000万トン達成。3.19日、成田線成田駅〜成田空港駅、京成本線京成成田駅〜成田空港駅が開業。4.9日、地域振興連絡協議会が空港公団、千葉県、ならびに反対同盟三派に、公開シンポジウム参加を申し入れる。熱田派は「強制収用放棄の再確認」を含む五条件を提示。翌日、北原派は「シンポに協力する脱落派を徹底糾弾する」と声明を発表。小川派は20日にシンポ不参加を声明。8.1日、二期区域エプロン一部供用開始。8.10日、:二期用地内で、地元有志企画による『三里塚・都はるみ・星空コンサート』が開催される。11.21日、政府と反対派がはじめて話し合う。第1回成田空港問題シンポジウム開催(以後15回開催)。こうした状況では正常な運営、あるいは二期工事の着工もおぼつかず、隅谷三喜男東京大学名誉教授ほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰のもと成田空港問題シンポジウムが15回にわたって開催された。

【1992年、成田闘争】
 1992.2.20日、情報通信センター、北オペレーションセンター供用開始。2月、元収用委員宅に時限発火装置。8.1日、南側エプロン供用開始。10.31日、:北側エプロン供用開始。12.3日、第2旅客ターミナルビル地下駅「空港第2ビル駅」供用開始。12.6日、第2旅客ターミナルビル供用開始、第1旅客ターミナルビル北ウイング、第1及び第2サテライト閉鎖。

【1993年、成田闘争】
 1993(平成5).2.2日、新管制塔供用開始(全高92,3m)。2.5日、開港以来の国際旅客2億人達成。5.24日、第15回成田空港問題シンポジウム開催(終了)。9.20日、第1回成田空港問題円卓会議開催(以後12回開催)。以降12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」で今後の成田空港の整備を民主的手続きで進めていくことが確認された。

【1994年、成田闘争】
 1994.9.15日、A滑走路16(北側)進入方式フルカテゴリーII運用開始。10.11日、成田空港問題解決の為の第12回成田空港問題円卓会議で、国と反対派が学識経験者による調停案を受入れ(円卓会議終了)。

【1995年、成田闘争】

 1995年、円卓会議の結論を受け、最終的に当時の村山首相が日本政府を代表して、それまでの政府の強権的な姿勢を謝罪した。これにより、この謝罪は地元の一定の評価を得、その後二期工事への用地買収と集団移転に応じる農民・地主が出てきて、菱田地区など反対派の多くの農家が集団移転に応じることになった。しかし、現在でも新滑走路予定とされている東峰地区の農家や一坪地主などを中心に用地買収に応じていない活動家も存在する。

 4.8日、開港以来の国際旅客2億5000万人達成、第2サテライト供用開始、第1旅客ターミナル改修開始。4月、一坪運動での国会議員最後の地主、小川国彦氏が「空港建設推進」を掲げて成田市長選に出馬、当選した。


【1996年、成田闘争】
 1996.3.28日、ILSカテゴリーIIIa運用開始、及びストップ・バーシステム供用開始。7.1日、新東京国際空港公団(NAA)本社が成田空港内に移転。

【1997年、成田闘争】
 1997.4.3日、開港以来の国際旅客3億人達成。4.8日日午前3時20分頃、習志野市の運輸省航空局技術部運航課長(当時50歳)方で爆発が起こる。乗用車と車庫の天井が破損したが、怪我人などはなかった。中核派が犯行声明。10.13日、開港以来の航空貨物取扱量2000万トン達成。 97年2月25日、千葉県八千代市の芝山鉄道社長宅で爆発音。怪我人はなし。社長は公団の元審議役だった。中核派が犯行声明。

【1998年、成田闘争】
 1998.1.22日、芝山鉄道線建設工事起工。1.22日、芝山町長の相川勝重町長は、全国約1250人の空港の拡張予定地1坪共有者に対し、共有解消を訴える声明を発表。相川町長は、元反対同盟熱田派の中心メンバーである。2.1日、第1旅客ターミナルビル第1サテライトの供用開始。4.25日、1日の発着枠を360回から370回へと改定。5.10日、運輸省は目標の00年度平行滑走路完成の断念を正式発表。5.27日、「エコ・エアポート基本構想」を発表。7.15日、「地域と共生する空港づくり大綱」発表。11.10日、NAAとニューヨーク・ニュージャージーポートオーソリティの間で姉妹空港の締結を調印。11.18日、成田空港-羽田空港間直通列車運転開始。12.3日、平行滑走路の暫定滑走路工事に着手。12.23日、開港以来の航空機発着回数200万回達成。

【1999年、成田闘争】
 1999.3.16日、第1旅客ターミナルビル北ウイング・中央ビル新館供用開始(南ウイング閉鎖)。4.27日、新消音施設(ノイズリダクションハンガー)竣工。5.10日、平行滑走路2000年度完成目標断念を発表。9.3日、平行滑走路等の整備に関する工事実施計画の変更認可申請。9.12日、太陽光発電システム運用開始。12.3日、平行滑走路工事着工。

【2000年以降の成田闘争】
 2000.4.1日、コージェネレーションシステム導入・運用開始。7.7日、第1ターミナルビル第2サテライト供用開始。12月、扇千景運輸・建設大臣は、「国際線は成田、国内線は羽田という原則は国民もおかしいと思っている」と発言、これに対し千葉県側は「死者も出した成田の歴史をどう思っているのか」と猛反発した。

 2001.1.23日午前3時25分頃、千葉市稲毛区の新東京国際空港公団職員(当時46歳)方の車庫から出火。25分後に消しとめられたが、軽乗用車が全焼した。中核派による声明があった。4.18日、流山市の県幹部(当時56歳)方の玄関から出火、ドアが焼けた。さらに近くの駐車場に止められた幹部の車も燃えた。10.31日、暫定平行滑走路が完成した。

 2002.4.18日、2本目の滑走路・暫定平行滑走路の供用開始。懸案の二期工事のうち平行滑走路(B滑走路)については1996年には暫定滑走路を建設する案が計画され、2002年に暫定滑走路として供用開始した。この新滑走路は、反対派農家の未買収地を残したまま建設され、農家の軒先数十メートルの誘導路をジェット機が通過するという状況が続いている。また未買収地を迂回して建設されたため、誘導路は「く」の字形となっている。東峰地区で空港反対同盟「熱田派」と「北原派」がそれぞれ終日抗議行動を展開。

 5.13日、回転翼航空機(ヘリコプター)の受け入れ条件を一部緩和。5.27日、第2旅客ターミナルビル出発ロビー北側増築部(Wカウンター・Yカウンター)の供用開始。9.25日、第2旅客ターミナルビルスイングゲートの供用開始。10.16日、空港南口ゲートの供用開始。10.27日、芝山鉄道の供用開始。10.27日、日本の市民団体の招きで来日したフランスの酪農家で社会運動家ジョゼ・ボヴェが、熱田一宅や石井武宅などのいくつかの空港反対派農家を訪問する。1980年代に反対同盟は、ボヴェの故郷で軍事基地反対運動が起こっていたフランス・ラルザック地方を訪問したことがある。12.1日、暫定平行滑走路の反対派農家の未買収地を残して建設された「くの字誘導路」上で航空機同士の接触事故が発生。12.16日、第1旅客ターミナル第3サテライトの供用開始。

 2003.1.20日、新東京国際空港の改称「成田国際空港」及び新会社「成田国際空港株式会社」の名称について扇国土交通大臣へ要望書を提出。1.27日、:成田空港暫定滑走路で午後9時49分に、韓国仁川国際空港発のエアージャパン908便(乗客・乗員102人、ボーイング767-300型)が滑走路南端から70メートルオーバーランし、航空灯火に激突するという重大事故が発生した。4.17日、第2旅客ターミナルビル北側及び地上通路沿いのスポットの供用開始。5.29日、開港以来の航空貨物取扱量3000万トン達成。11.17日、航空燃料輸送量1億kl達成。

 2004.4.1日、新東京国際空港公団が民営化され成田国際空港株式会社に改組。新東京国際空港から成田国際空港に改称、第2給油センター供用開始。10.19日、第1ターミナルの第1サテライトと第2サテライトを結ぶ連絡通路が開通。11.25日、第1旅客ターミナルビルの第4サテライトが開業。

 2005.6.8日、開港以来の離発着数が300万回達成。7.15日、暫定平行滑走路を本来の計画とは逆の北側延伸で、国交相と成田国際航空会社・社長が同意。11.11日、1978年に管制塔を占拠した元活動家16人が政府などから1978年の管制塔襲撃事件の損害賠償として約1億300万円の支払いを求められ、2005年になって給料を差し押さえられたが、元同志らのカンパ運動でこれを支払う。11.18日、旧新東京国際空港公団発注の成田空港電気設備工事で、空港公団主導による受注調整など官製談合の疑いが浮上、関わった電機企業各社と成田国際空港会社が東京地検の捜索を受ける。

 2006.1.15日、空港反対同盟熱田派の熱田一元代表が、空港敷地内にある自宅敷地と、所有権を持つ「横堀墓地」を売却することを表明。熱田元代表は、「若者が世界へ飛び立ち、帰ってくることによって日本の将来に役立つと考えた」とコメントし、反対運動から完全に身を引く。「横堀墓地」は他界した支援者の墓や、やぐらがあるなど、成田空港反対運動の象徴とされていた。4.13日、LSカテゴリーIIIb運用開始。6.2日、航空会社再配置、第1旅客ターミナル南ウイング(第5サテライト)・第4-第5サテライト連絡地下通路が供用開始。

 2007.4.23日、:成田国際空港会社は暫定平行滑走路の誘導路新設に伴い、滑走路南東側の「東峰の森」(約10ヘクタール)で計画していた樹木の伐採作業に着手。空港会社によると、作業は6月末まで行い、4ヘクタールの森林で伐採を行うと発表。5.22日、成田国際空港会社(NAA)の社長人事で、政府は6月下旬に任期満了を迎える黒野匡彦社長の後任として森中小三郎・住友商事特別顧問を充てる方向で最終調整に入った。民営化前の新東京国際空港公団時代も含めトップに民間人を起用するのは初めて。同社の社長人事では、民間人を起用したい首相官邸が国土交通省が打診した元運輸事務次官の黒野の再任案を拒否した一方で、自民党千葉県連や地元の成田市が黒野の続投を要請しており、首相官邸筋と地元の対立が表面化している。6.14日、:東京高裁は、暫定平行滑走路の誘導路建設に伴う樹木伐採問題で、伐採禁止を求めた東峰地区住民の主張を退けた千葉地裁決定を支持し、住民の即時抗告を棄却。

 成田闘争は30年を越える長い闘いとなった。この闘争で、1971年の「東峰十字路事件」で3名、1977年の「臨時派出所襲撃事件」で1名、1983年の「東鉄工業千葉支店」で2名、1990年の「関連業者専務宅放火事件」で1名など、計9名の反対派・警官・民間人が犠牲となっている。うち2つの事件に関しては、犯人の検挙にも至っていない。ドイツのミュンヘン空港は、成田闘争を研究、参考にして、反対派の人を充分説得したうえで作られた。他にも、新空港を建設する自由主義国では、「ノー・モア・ナリタ」を合言葉に話し合いを重点に置いているという。






(私論.私見)