補足 三里塚闘争史

 (最新見直し2008.9.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ウィキペディア成田空港問題」その他を参照する。

 2008.9.12日 れんだいこ拝



【1962−64年、羽田に代わる新空港構想】
 1960年代、日本経済は高度経済成長策による発展により航空運輸の需要増大が見込まれた。羽田空港だけでは手狭になり、その打開策策として東京国際空港(羽田空港)に代わるハブ空港としての「新東京国際空港」を模索し始めた。運輸省は、首都圏内の好適場所に新空港を建設する為の検討に入った。 1962.11.16日、:池田内閣政府が新国際空港建設の方針を閣議決定。

【各案が飛び交う】
 次のように推移する。

 1963.6.10日、運輸省航空局が「新東京国際空港」(いわゆる「青本」)を発行。立地箇所は特定せず。6月中旬、:綾部運輸相(当時)が「浦安沖案」、河野建設相(当時)が「木更津沖案」を発表する。7.4日、:綾部運輸相、河野建設相、川島国務大臣(当時)、友納千葉県知事(当時)が初の四者会談で、新空港立地を「東京湾沖千葉県側」とすることで合意。8.27日、第2回四者会談で、綾部運輸相が「東京湾案」に加えて、「霞ヶ浦案」、「富里村付近案」を追加提案。

 9.12日、:友納千葉県知事が「運輸省は富里村案を検討中」と県議会全員協議会で報告。9.18日、この日から富里村、八街町の推進派と賛成派の双方が陳情を開始する。12.11日、:空港審議会が第一候補・富里村付近、第二候補・霞ヶ浦と答申する。

 12月、霞ヶ浦、千葉県富里村が候補地として選定された。
 1964.3.22日、日本社会党千葉県委員会が「新空港設置反対」を決議。5.26日、:閣議で「浦安案」を推す河野建設相と「富里案」を推す綾部運輸相が激しく議論する。8.17日、友納千葉県知事が「木更津沖なら積極的に誘致、内陸なら消極的にならざるを得ない」と立場表明。9.15日、新空港建設について「関係閣僚懇談会」(関係閣僚懇)発足。11.13日、:河野国務相が「富里・木更津・霞ヶ浦・羽田沖の四候補地を白紙に戻し、再検討を考慮中。5百戸以上の移転は不可能」と発言。12.18日、:閣議で、「新空港建設に関する基本的態度」を確認。「新空港は1970年完成を目標とする」、「候補地についてはさらに検討」など。12.23日、:富里村の空港反対派が「血判状」を佐藤栄作首相(当時)に提出する。

【1965年、富里案から三里塚案へ変更】
 当初、浦安沖案、木更津沖案の二案が出され、続いて東京湾案、霞ヶ浦案、富里村付近案が浮上した。空港審議会が第一候補・富里村付近、第二候補・霞ヶ浦と答申する。ところが、富里村の空港反対派が強硬に抵抗する。政府は次第に冨里以外の候補地も検討するようになる。

【富里闘争】

 次のように推移する。

 1965.4.5日、:霞ヶ浦沿岸の漁民らが「空港設置反対集会」を開催。6.2日、新東京国際空港公団法を公布(施行は'66年7月7日)。11月、ボーリング調査の結果、霞ヶ浦は「不適当」となる。11.15日、:富里村空港反対派がトラクター50台で千葉県庁までデモを展開。知事室に乱入する騒ぎとなる。

 11.18日、:関係閣僚懇が新空港を冨里に内定、と発表。冨里は現空港の4km南にあり、農場経営のモデルケースだったことから激しい反対運動が勃発する。

 11.19日、友納・千葉県知事が「富里案内定」の発表に、「事前連絡不充分」と不満を表明。11.25日、:富里村議会と八街町議会が、それぞれ「空港設置絶対反対」を満場一致で決議。11.27日、:富里・八街・山武の「空港建設同盟連合会」が、運輸省に「建設促進」を陳情。12.21日、酒々井町議会が「空港建設反対」を決議。12.24日、芝山町議会が「空港建設反対」を決議。


【1966年、富里案から三里塚案へ変更。成田闘争始まる】
 当初は千葉県富里村(現・富里市)を建設予定地としていたが、地元住民の反対に遭い地元自治体との調整が難航した。その結果、富里案が撤回され三里塚案が浮上した。しかし、政府の一方的発表が住民を硬化させ直ちに反対運動が組織される。

【富里案断念】

 次のように推移する。

 1966.2.7日、:富里・八街新空港反対同盟のデモ隊1500名が千葉県庁に乱入する。2.28日、:友納千葉県知事が「政府に条件を提示しない。地元住民に説得もしない。事態の推移を見守る」と態度表明する。3.4日、:閣議で「臨時新東京国際空港関係閣僚協議会」を決定。3.11日、自民党新東京国際空港推進本部が「閣議協の決定に拘らず富里案を基本的に検討する。冨里以外の候補地も検討する」と表明。5.18日、:富里・八街空港反対同盟が農地不買運動(一坪マンモス登記運動)を開始する。内定していた千葉県富里村(現・富里市)案は地元住民の反対に遭い地元自治体との調整が難航した。

 6月、自民党の空港問題協議会は、木更津沖の新空港建設を促進。しかし中村運輸大臣は「富里案」に拘った。中村大臣は「木更津案」は航空管制上困難であることを説明した。


【成田案が発表される】
 6.8日、:千葉県空港調査室が「三里塚案」について検討。6.17日、:富里案に地元の反対運動が激化し、自民党政調会が三里塚案を提出する。6.21日、:中村運輸相(当時)が「新空港は富里・八街しかない」と発言。この頃、成田市三里塚−芝山地区が新たな候補地として浮上、川島副総裁は友納知事にこの案を提示した。

 6.22日、:佐藤栄作首相が友納千葉県知事に、原案の二分の一に圧縮した三里塚御料牧場での空港建設案を提示。6.25日、:友納千葉県知事が、藤倉成田市長に新空港建設の協力を要請。ところが、千葉県議会と成田市議会は「三里塚空港建設反対決議」を可決する。 

【「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」結成】
 この時、三里塚の住民には事前に何の打診、事前説明、協議、代替地もなかった。 農民は土地を失うことや騒音問題への懸念もあり、これらが以降の闘争の発端となる。政府は閣議決定であることを盾にして一切の交渉行為を行わなかった。三里塚・芝山地区には戦後入植して農民となった人が多く、そうした入植者は元満蒙開拓団員の引揚者が主体となっており、農民としての再起をかけて行った開拓がようやく軌道に乗り始めた時期に当たっていた。農民は、この歴史要因を無視して強硬に政府決定を押し付ける理不尽に加え、土地を失うことや騒音問題への懸念もあり、これらが以降の闘争の発端となった。当然の如く、三里塚でも反対運動が組織される。

 この辺りは「佐倉惣五郎伝説」(「佐倉惣五郎」)で知られる百姓一揆義民譚が語り継がれる土地柄であった。早速反対運動の狼煙が上がった。

 6.28日、三里塚新国際空港反対同盟が3千名の参加で結成される。三里塚の農機商店を営むクリスチャンにして画家彫刻家のの戸村一作を委員長とする。遠山中学校にて「新空港反対総決起集会」を開催。以降、富里村農民にも勝る反対運動を組織して行く。

【その後の成田闘争の経緯】

 次のように推移する。 

 6.29日、:運輸省が三里塚での新空港設置計画を発表。友納知事、即日「三里塚案」の受け入れを表明。

 6.30日、:芝山町空港反対同盟が結成される。

 7.4日、佐藤内閣が突然、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近に閣議決定した。この地域には国有地である宮内庁下総御料牧場があり予定地の4割弱を占めていた。用地買収がより容易に進むと考えたからであると思われる。千葉県議会と成田市議会は「三里塚空港建設反対決議」を可決。

 7.20日、芝山町議会が「成田空港建設に強く反対する決議」を可決。7.30日、新東京国際空港公団 (NAA) が設立された。初代総裁に成田努が就任。 新国際空港の開港予定を1971.6月とした。

 8.2日、:成田市議会が、7月4日の「建設反対決議」を白紙撤回。8.25日、:条件派団体の「成田空港対策部落協議会」が発足。8.27日、:反対同盟が「一坪共有化運動」を開始。8.31日、:反対同盟、最初の行動として運輸省に800名で抗議行動を行う。9.12日、公団は用地買収価格を畑地10アールあたり110〜60万円」と正式決定。

 9月、成田空港反対同盟の初総決起集会が三里塚公園で開かれ、農民千五百名が参加した。老人行動隊も組織された。9月、「条件付き賛成派」131名は、「成田空港対策部落協議会」を発足させる。9.30日、:空港公団が、地元住民に対する第1回説明会を開催。土地買収価格などについて説明。


【「三里塚.芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成される】

 10.2日、:三里塚地区と芝山町の反対派農民、住民の1千世帯、3千名の参加で、「三里塚.芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成され、結成後初の総決起集会「三里塚新国際空港撤回・公団撃退総決起大会」を開催。委員長には三里塚の戸村一作が就任する。以降、富里村農民にも勝る反対運動を組織して行く。

 「われわれは、あらゆる困難や不当弾圧に屈せず、政府・県・公団が空港建設を破棄するまで闘い抜く」。

 11.16日、佐倉簡易裁判所は、一坪運動に対して、即決和解手続きを認可。農繁期、農閑期ともに闘争は続いた。「老人決死隊」、「婦人行動隊」、「少年行動隊」も結成され、高齢者、女性、少年らも闘争に加わった。

 12.12日、大橋運輸相(当時)が、空港公団に「平行滑走路2本、横風用滑走路1本」の基本計画を指示。12.16日、:反対同盟が天神峰に最初の団結小屋(現地闘争本部)を建設。以後、駒井野、天浪、東峰、木の根などに逐次建設。12.27日、:芝山町議会が、町民の傍聴を排して「富里案」時代の「空港設置反対決議」の白紙撤回を決議。


【1967年、成田闘争】
 :空港反対同盟が孤高の闘争を切り開く。当初、空港反対同盟の運動を支援したのは社会党、日共らの三里塚国際空港反対千葉県共闘会議であった。しかし、社共の支援は条件闘争に誘導するものであったところから、空港反対同盟は次第に徹底抗戦を叫ぶ新左翼系と共闘関係に入る。 :

 新左翼の登場と共に社共が反対同盟の成田闘争から離脱していくことになった。日共は例によって、「トロツキスト」批判を展開して反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒きや、反対同盟切り崩しのオルグ活動を行っていた。社会党もいつのまにか「条件派」に鞍替えし、地元代議士が千葉県知事と「紳士協定」を結び、農民に条件派への参加をすすめるなど、闘争から脱落した。

【社共の支援】
 1967.3.2日、:富里村議会が、1966.11.25日の「空港反対決議」を白紙撤回。これにより、行政単位の反対は皆無となる。6.26日、:条件派二団体との会談のために成田を訪れた大橋運輸大臣(当時)に対して、反対同盟が抗議行動を展開。一時京成成田駅が占拠され、運輸相らは缶詰め状態となる。

 8.15日、:空港反対同盟と三里塚国際空港反対千葉県共闘会議(社会党、日共らの旧左翼共闘組織)が「三里塚空港粉砕・強制測量実力阻止平和集会」を千葉市内で共催。集会後、反対派農民が千葉県庁に座りこんだ。この日に、反対派農家の子どもたちによる「少年行動隊」が結成され、少年行動隊が副知事に作文を読み上げ、婦人行動隊も「戦災に遭い、夫に死なれた三里塚にやっと土地を見つけたんだ」と叫んだ。

【新左翼の参入】

 次のように推移する。

 翌8.16日、反対同盟は「あらゆる民主勢力との共闘」を確認する声明を発表。新左翼諸党派の支援が開始される。
9.15日、反対同盟等共催「成田空港粉砕・強制測量阻止決起集会」が三里塚公園で開かれ、全学連(三派系)50名が参加。

 10.10日、空港公団が、機動隊2千名を動員して測量の為の三里塚空港杭打ちを実施。反対同盟農民1万2千名が座り込みなどで対抗し、最初の実力闘争となる。逮捕者2名、負傷者数十名、重傷1名。日共−民青同の支援部隊は、衝突の最中に座り込みを解除して合唱を始めるとともに、農民に「挑発に乗るな」という名目で実力行使の中止を求める。農民は反発し、反対同盟と日共が訣別する直接の原因となる。

 10.16日、10日に打った杭が何者かに引き抜かれ、空港公団は再び、1トンのセメントで固めた杭を打ち直す。抗議した婦人行動隊員1名が、機動隊員に下腹を蹴られ重傷を負う。翌朝4時にも衝突が起こり、公団は作業を中止するが、反対派農民2名逮捕される。10.21日、:芝山町の条件派7団体が「芝山町空港対策連絡協議会」を結成。

 11.2日、全学連(三派系)主催「沖縄返還ゼネスト連帯・成田空港建設阻止・佐藤訪米実力阻止決起集会」が早大で開かれ4百名参加。

 11.3日、千葉県反戦青年委等共催「三里塚空港粉砕・べトナム反戦青年総決起集会」が三里塚で開催され、三派系全学連と反戦青年委員会の部隊7百名が初めて組織的に参加、空港予定地をデモ。この日、沖縄で祖国復帰総決起大会、18万名参加。

 11.28日、全学連(三派系)・成田空港反対同盟主催・同盟員傷害事件抗議集会〔県庁前〕に百名参加、デモ。反対同盟は、条件闘争に持ち込もうとする穏和系社共と袂を分かち、次第にこの頃よりムーブメントを創り出しつつあった新左翼と共同し始めた。新左翼各派は、労農学連帯を求め、新空港の軍事基地化を危ぶみ、全国住民運動の頂上決戦と位置づけて反対派農民の支援活動に向かった。

 11.29日、:初の用地買収契約締結。


【反対同盟が共産党の排除を組織決定する】
 12.15日、反対同盟が総会を開いて、日共支援と介入を排除することを組織決定する。この間日共は、反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒きや、反対同盟切り崩しのオルグ活動を行っていたことから、決定的な決裂に至った。

 当初、空港反対同盟の運動を支援したのは社会党、日共らの三里塚国際空港反対千葉県共闘会議であった。しかし、社共の支援は条件闘争に誘導するものであったところから、空港反対同盟は次第に徹底抗戦を叫ぶ新左翼系と共闘関係に入る。

【1968年、成田闘争】
 1968年段階に入ると、反対同盟と三派全学連が公然と共闘し始め、これにより三里塚闘争が一挙に全国レベルの政治課題に昇格する。三派全学連は、成田空港を「日帝の海外侵略基地」、「軍事空港」等と捉え、反日帝闘争の一環として成田を「革命の砦」と位置付け闘争に参加し始めた。現地に団結小屋を建設し、「援農(えんのう)」による反対同盟との絆を固めた。これにより、伝統的百姓一揆の流れを汲む義民闘争と新左翼運動の結合と云う新しい型が生まれた。

【成田闘争が全国レベルの政治闘争化する】
 次のように推移する。

 1968.2.26日、三里塚・芝山連合空港反対同盟と三派全学連、砂川基地拡張反対同盟の初共闘で、成田市営グランドで「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止2・26現地総決起集会」を共催。反対同盟の共闘要請を受けて中核派系、反戦青年委員会を主力として約1600名が結集、デモ行進した。全学連が「空港公団分室粉砕」をスローガンに市役所に隣接する新空港公団分室突入を図り、機動隊と衝突。戸村一作反対同盟委員長ら4百名が重軽傷、逮捕者17名。

 2.27日、中核派が三里塚で集会。社学同.社青同などは王子駅前で機動隊と衝突。

 3.10日、空港反対同盟と全国反戦青年委員会共催で「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を成田市営グランドで開催。反対同盟の1300名をはじめ、三派全学連、反戦青年委員会、べ平連など全国から労.学.農・市民1万人参加。集会後再び全学連2千名が機動隊と衝突。衝突後の解散集会に、機動隊5千名が"全員検挙"で突入し198名が検挙される。空港反対派に3百名以上の負傷者を出す。

 3.20日、三里塚空港粉砕成田集会。労.農.学5000名が集会とデモ。

 3.31日、反対同盟と新左翼運動が連帯した三度目の全国結集の大集会を開催。成田市営グランドが使用禁止され、三里塚第二公園で開催。集会後、公団分室に向けてデモ行進。機動隊と衝突し、逮捕者235名、空港反対派に3百名以上の負傷者を出す。

 4.6日、公団と、空港用地買収の条件賛成派4団体の調印式が行なわれ、中曾根運輸相もこれに立ち会った。これで用地の86%が買収可能となった。

 4.21日、一連の衝突の件で、農民4人を事後逮捕する。5.12日、ボーリング調査に抗議していた青年行動隊員・島寛征が逮捕され、機動隊に激しいリンチを受ける。反対同盟は成田警察署に大挙して押しかけ、即日釈放される。

 5.27日、天神峰と駒井野への立ち入り測量に抗議した反対派が、機動隊3百名と衝突。逮捕者2名。負傷者2名。6.5日、木の根部落で、反対派農民3百名が立ち入り測量の職員を蹴散らすが、機動隊との衝突で反対派2名が入院する重傷を負う。6.15日、ふたたび、木の根部落への立ち入り測量で衝突。婦人行動隊員1名が逮捕される。反対派に8名の負傷者。

 6.30日、三里塚第二公園で「全国総決起集会」を開催し5千名の結集。7.12日、芝山町千代田で立ち入り測量に対して、老人行動隊が、はじめて人糞を用いた抗議行動を行う。老人行動隊1名が逮捕される。7.15日、横堀部落で、反対同盟の投石などの抵抗で、立ち入り測量の公団職員と機動隊が立ち往生する。7.17日、反対同盟が測量地点にバリケードを築いて、終日阻止行動を展開。逮捕者1名。7.18日、空港公団、立ち入り測量の終了を宣言。

 11.24日、反対同盟が「三里塚空港粉砕・ボーリング調査阻止全国総決起集会」を開催。それまでの最大規模の8千名が結集。空港公団は「年内のボーリングと調査の工事開始は困難」と発表する。

 12.19日、パトロール中の青年行動隊2名が、公団職員を発見して叩き出す。2名は同日夜に逮捕される。12.29日、反対同盟の連日3百名の成田警察署への抗議行動により逮捕されていた2名が釈放される。

【1969年、成田闘争】

【反対同盟の抵抗と弾圧続く】
 1969.3.30日、:反対同盟が「公団の『四月着工』声明粉砕・事業認定申請粉砕全国集会」を開催。1万2千名の結集。

 4.18日、老人行動隊が、空港予定地の御料牧場の存続を宮内庁に請願。7月、公団が手紙による説得作戦を開始。8.18日、御料牧場閉場式に、反対同盟2百名が抗議行動。青年行動隊が乱入し、翌9.8日に青行隊8名が事後逮捕されるが、萩原進行動隊長の行方が知れず、萩原は指名手配となる。9.28日、:事業認定粉砕全国集会開催。1万3千名が結集した。10.5日、反対同盟が、ボーリング調査阻止の連続闘争を11.12日まで展開する。10.14日、成田警察署員が、指名手配中の萩原宅にいた青行隊員・柳川秀夫を萩原と誤認してリンチの末逮捕する。反対同盟百名が成田警察署で抗議行動を展開、即日釈放となる。10.24日、空港建設工事にブルドーザーが搬入された。11月、ブルドーザー阻止で戸村委員長ら13名が逮捕された。11.6日、萩原進が、自宅で作業中に逮捕される。11.12日、反対同盟が、工事用道路に座り込みブルドーザーを阻止する。反対同盟戸村委員長ら13名が逮捕される。12.16日、:建設大臣が土地収用法に基づく「事業認定」を承認。

【1970年、成田闘争】
 社共の離脱に続いて革マル派が排除されることになった。三里塚・芝山連合空港反対同盟は、いわゆる新左翼系急進主義派と共同戦線を構築していくことになった。中でも中核派の支援を受けることになる。

【革マル派排除される】
 1970.1.10日、三里塚の反対同盟が幹部会を開き、 この間、「成田闘争は、小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄し続けていた革マル派を排除することを組織決定する。次のような決議をしている。

 「革マル派はこれまで一貫して三里塚現地闘争に主体的に参加せず、二度にわたる集会参加時も、同盟の指示に従わず、反対闘争の推進ではなく、他派に対する誹謗のみを目的とした。今後、革マル派の参加を拒否し、もしくる場合には排除する」。


【強制測量阻止闘争】
 1970.1.15日、:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が開催される。2.14日、新東京国際空港公団は、空港建設に反対し続けている三里塚・芝山連合空港反対同盟農民の土地に対し、土地収用法に基づく立ち入り調査の通告書を電報で送ると発表した。なんとか1973.4月開港にこぎつけようとする強制的な手段であった。対象となった土地は4千m滑走路予定地北側の約1500u。この土地は一坪運動共有地で、前年12月26日の県の土地収用委員会から権利取得、明け渡し採決が出ていた。2.19日、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)。

 2.22日、強制測量が午後0時55分に開始された。約200人のガードマンに守られた県と国際空港公団職員の行進。警視庁、千葉県警、神奈川、埼玉の関東管区の各隊計2900人が調査守護に動員された。反対同盟は丸太でバリケードを築き、もんぺ姿の婦人行動隊は「公団が木を倒すなら人間も一緒に」と、立ち木に2人ずつ抱き合う様に鎖で身体を縛りつけて死守していた。代執行は3.25日に終了。この間に警官含め1千名以上が負傷、487名が逮捕された。

 3.13日、:反対同盟が「事業認定取消請求訴訟」を起す。5.14日、:「第二次強制測量阻止闘争」。6.12日、:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請に係る審理を開始。反対同盟は1千名で傍聴。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加した。反対派の抗議などで会場は混乱した。8.26日、:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる。反対同盟が1千名で阻止闘争を展開。3名逮捕。1名が手錠のまま逃走する。9.11日、:空港公団委託の業者2名が横堀部落に入るが、現地農民が抗議行動を展開。9.16日、9.:11日の抗議行動の件で、千葉県警が反対同盟瀬利副委員長宅を家宅捜査。9.17日、9.:11日の抗議行動の件で、千葉県警が支援学生1名を誤認逮捕。

 9.30 −10.3日、「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)。反対同盟と支援学生が公団側と激闘。反対同盟は、落とし穴、「白兵戦」、糞尿などを駆使して徹底抗戦する。この日、岩山、天神峰などの攻防で16名が逮捕される。10.1日、:十余三、東峰などの攻防で22名が逮捕される。10.2日、木の根、横堀などでの攻防で21名が逮捕される。全逮捕者59名。

 10.7日、:空港公団、用地取得に「特別措置法を適用する」と発表。12.6日、:「強制測量粉砕・全国住民運動総決起集会」が開催される。12.26日、:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請分に対する収用裁決(権利取得の時期及び明渡しの期限71年1月31日)。

【1971年、成田闘争】
 1971年、公団側が、反対派農民の土地に対する強制収用代執行に乗り出し、反対同盟の執拗な抵抗が続く。三里塚は闘争のたびに騒乱状態となる。三派系全学連は、不発に終わった70年安保闘争の鬱憤を晴らすかのように機動隊と正面激闘する。

【第1次土地強制収用阻止闘争】

 1.6日、:反対同盟、強制収用対象地に「地下壕」を掘り始める。1.13日、:反対同盟の小川明治副委員長が、心筋梗塞で死去。1.15日、同盟葬が行われた。遺言により、空港予定地内の共同墓地に埋葬された。1.23日、反対同盟と友納知事が第1回会談を行なう。

 1.31日、反対同盟と全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に:「強制代執行反対」を掲げて三里塚強制収用阻止、千葉市内の友納糾弾集会に2千名結集(千本町公園)。知事公舎のデモで5名が逮捕される。

 2.11日、:少年行動隊が、150名で「強制代執行の中止」を求めて公団分室にデモ。機動隊と衝突になり、少行隊員1名負傷。2.14日、:「強制代執行反対」を掲げて、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、ふたたび知事公舎に向けて千葉市内をデモ。2500名が結集し、28名が逮捕され、デモ隊20数人が負傷する。

 この間、反対同盟は、来る強制代執行に備え、地下10mから数mの地下壕を1カ月かけて30本近く掘り、地下要塞のような迷路上の地下壕網を作り上げ、その出口六カ所に小屋を建て、周囲に杭を張り廻らし、その外側には堀を掘って糞尿を入れておくと云う砦を築きあげた。

 2.22−3.25日、千葉県・公団が、三里塚の建設予定地で第一次土地強制収用代執行に乗り出した。空港建設第一期工事内の4千m滑走路北端にある一坪運動共有地6筆、1500uについて行われた。2万5200名の機動隊員が動員され、ブルドーザーやシャベルドーザーを使って櫓(やぐら)、地下壕の撤去に乗り出した。

 2.22日、反対同盟と支援者3千名と機動隊が衝突した。三里塚農民は、決死隊が立木に自らの体を鎖で縛り付けて抵抗した。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加。実に、三週間にわたって機動隊との闘いが続けられた。逮捕者は487名、負傷者も重傷者41名を含む千名に及んだ。千葉地裁は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。


 2.24日、:少年行動隊80名が、公団職員らと衝突。公団は代執行を停止するが、少年行動隊3名が負傷。午後に、ガードマンが少年行動隊に暴行を加え、多数の負傷者が出る。間に入りガードマンを制止しようとした「監視団」の社会党議員にも暴行を加える。2.25日、:「駒井野砦」で反対派が集会中に、機動隊が突入。支援者49名が逮捕される。その際に「地下壕」が落盤。農民1名が重傷を負う。この日の逮捕者141名。反対派の負傷者253名。5名が成田日赤病院に緊急搬送される。

 2.26日、:友納千葉県知事が、27日から3.1日までの代執行の停止(”休戦”)を表明する。3.2日、:代執行再開。機動隊2300名に増強。反対同盟、支援者と周辺住民3千名が対峙。「野次馬」が投石を開始し、機動隊が撤収する。故小川明治副委員長の49日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日逮捕者13名。反対派の負傷者20名。成田日赤病院への緊急搬送3名。3.3日、:機動隊3千名にさらに増強。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19名。反対派の負傷者213名。

 3.5日、:機動隊さらに3500名に増強。「野次馬」を閉め出す検問を開始。この日から立ち木に鎖で身体を括りつけた農民を木ごと切り倒す。逮捕者65名。反対派の負傷者259名。3.6日、:機動隊は高圧放水や「目つぶし」として消化剤を反対派に吹きかけるなどの攻撃で、「地下壕」を除き砦などの反対派拠点を撤去。千葉県は「代執行終了」を宣言。

 3.7日、:反対同盟が「緊急抗議集会」を1500名で開催。反対同盟は、「負傷者続出」の事態に友納千葉県知事、今井空港公団総裁、本庄千葉県警本部長を告発することを決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461名、負傷者841名うち重傷43名。3.8日、:公団と機動隊が「地下壕」を攻撃。一部撤去し、8名を逮捕。

 3.25日、:機動隊4千名を動員して「地下壕」撤去に向けて攻撃。反対派19名逮捕。

 3.28日、:革マル派が、機動隊との戦闘で負傷した者の救護にあたる「三里塚野戦病院」の車両を襲撃し、2名を負傷させる。5.2日、:武装したガードマンが突如、各所の反対派の団結小屋を襲撃して回った。反対派に48名の負傷者を出し、うち17名が重傷を負った。止めに入った反対派農民1名が逮捕。


 5.25日、:千葉県警が反対派農民の大木よね宅を家宅捜索。6.6日、:「強制代執行土地収奪粉砕全国総決起集会」開催。6.12日、:千葉県収用委員会が、期限を9月にした第二次収用裁決を下す。7.15日、:千葉地裁が、反対同盟申請の「占有権妨害禁止等仮処分」の申請を却下する。

 7.26、三里塚の農民放送塔撤去などの強制執行。反対同盟は、この日から30日まで仮処分阻止闘争を取り組む。午前4時55分に千葉地裁執行官が機動隊に守られながら「執行通告」。激しい衝突となる。「地下壕」には手をつけられないまま夜11時に「仮処分終了」を宣言。5日間にわたって死守戦が闘われ、逮捕者292名、負傷者500名を越えた。

 7.27日、:早朝5時30分から公団・機動隊が「地下壕」を攻撃。攻防戦で反対同盟の瀬利副委員長ら106名が逮捕、反対派の負傷者158名。7.28日、:「地下壕」を撤去できないまま、今井空港公団総裁が「執行は終わった。地下壕撤去作業は中止する」と記者会見で語った。実質的な「敗北宣言」。この日の反対派の負傷者36名。7.29日、:反対同盟が「駒井野砦」で「地下壕戦110時間勝利集会」を開催。7.30日、:反対派拠点や各所の団結小屋に家宅捜索。抗議した秋葉哲反対同盟救援対策部長ら5名逮捕、4百名が負傷。

 8.3日、:「地下壕」に最後まで立て篭もっていた北原鉱治反対同盟事務局長、石井武反対同盟実行役員が令状逮捕される。9.15日、:翌日の第二次代執行阻止闘争に向かおうとしていた活動家を白昼茨城大付近で、私服公安刑事が木刀で襲撃する事件が起きる。活動家は23日に私服刑事を告訴・告発した。


【第2次土地強制収用阻止闘争、「東峰十字路事件」発生】

 9.16日、政府は、機動隊員5300名を動員、ブルドーザー、大型溝堀の機、クレーン車などを繰り出して、一期工事の用地を取得せんとして建設予定地で第二次行政代執行に乗り出す。一期工事内に残る駒井野、天浪、木の根の各団結小屋、社会党の一坪運動共有地の4ヵ所に対して行われた。反対派3200名がシンボルだったヤグラや駒井野鉄塔に決死隊が立てこもって抵抗した。「日大」「BUND(ブント)」などと書かれた旗、垂れ幕、看板の立てられた砦にブルドーザーが迫った。鉄塔が倒されて1名が肺が潰れて一時重体に陥った。

 反対同盟は、籠城組とゲリラ部隊に分かれて抵抗闘争を繰り広げた。中核派は、この闘争を「北総20万農民の暴動的決起へ」というスローガンを打ち出した。地の利を心得た数百の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。火炎瓶や角材による攻撃で、千葉県へ応援派遣されていた神奈川県警察特別機動隊員3名(福島誠一警部補(47歳)、柏村信治巡査部長(35歳)、森井信行巡査(24歳))が死亡した。この日の逮捕者375名。反対派の負傷者150名以上うち全身火傷、右眼失明などで重傷14名。これを「東峰十字路事件」と云う。

 この事件について戸村委員長は次のように言明した。

 「きょうの学生たちの行動は、決してわれわれ反対同盟の方針から跳ね上がったものではなく、われわれと一体となって戦ったものである」。

 中核派は、三里塚9月決戦を次のように総括した。
 「三里塚第二次決戦は、民衆の権力との暴力的闘いの歴史に於ける画期的事態を切り拓いたのである。機動隊権力に対する完膚無きまでの勝利は闘う人民を勇気づけ、圧倒的自信を与えた。『死んでもアッタリマエダ』『もっとブッ殺してやりてぇぐらいだ』と吐き捨てるようにいう農民、寄せられた全国からの熱狂的支持−民衆の機動隊に対する憎悪。足りないのは革命的左翼の怒りであり、暴力的闘いである。もっともっと暴力的闘いを展開しなければならない。我々は余りにおとなしやかに過ぎるのだ」。

 9.17日、千葉県は強制代執行を継続し、千葉県警は、反対同盟戸村委員長宅や各団結小屋などの反対派拠点、都内13ヶ所の党派事務所を「殺人、殺人未遂、公務執行妨害、兇器準備集合罪、爆発物取締法違反」の容疑で一斉に家宅捜索を行う。

 立花隆の「中核VS革マル」は次のように記している。
 「中核派はあらゆるセクトの中で、この三里塚闘争にもっとも深くコミットし、数年前から活動家を常駐させていた。そして、一連の闘争においても、一大支援部隊を繰り出して、農民と一体になって闘ってきた」。

【大木よね宅を強制収用、解体】

 9.20日、:空港公団は、第一期工事内に残る大木よね宅を強制収用、解体した。大木よねは、戸村一作委員長と並ぶ三里塚闘争の戦うシンボルであった。空港公団は突如、「住居への代執行はしない」との約束を反故にし、初となる民家住居への代執行を強行した。大木よねは機動隊員の盾で前歯四本を折られる負傷を負い連れ出された。抗議した支援者ら90名が逮捕され、負傷者27名。

 「三里塚闘争」は次のように記している。

 「1971年9月、大木よね宅への代執行は千葉県友納知事の「代執行はやらない」という記者会見での発言を反古にしただまし打ちだった。その日の朝、大木よねは庭に脱穀機、発動機を出して作業にかかろうとしていた。突然工事現場の土手から機動隊が大木よねの家に突入してきた。一瞬の出来事である。反対同盟の緊急動員を告げるドラムかんの早打ちの音が轟くも間に合わない。機動隊が突入してきて、大木よねは脱穀機の下にひきずり倒された。機動隊の盾が大木よねの顔に命中して前歯が4本折れ、口から血が吹き出した。大木よねの白髪は乱れ、顔は鬼のような凄まじい形相であった。目をカッと開いて機動隊を睨みつけた。余りの形相に、機動隊が一瞬ひるんだ。

 大木よねの聞き書きの闘争宣言は次の通り。『みなさん御苦労さまです。今度はおらが地所と家がかかるので、おら一生けんめい頑張ります。…略…おら、七つのとき子守りに出されて、なにやるったってひとりでやるには無我夢中だった。おもしろいこと、ほがらかにくらしたってのなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ。もう、おらの身はおらの身であっておらの身でねえだから、おら反対同盟さ身預けてあるだから、6年間も反対同盟や支援の人達と反対闘争やってきたんだから、誰がなんといっても、こぎつけるときまで頑張ります。みなさんも一緒に頑張りましょう』」。

【その後の成田闘争経緯】

 9.21日、:最後まで「地下壕」に立て篭もっていた農民3名が、機動隊に排除されたのちに公団の事務所に連れ込まれてリンチを受ける。うち農民1名が逮捕される。機動隊3千名が山狩りをしていたところ、帰途につく丸腰の反対派支援者と遭遇。機動隊員は支援者を襲撃してリンチを加えた。そのまま容疑不明のまま60数名を逮捕。その夜、大清水に設営された「野戦病院」を機動隊約百名が襲撃。周辺の街灯を叩き割って、電線を切ってから侵入して「野戦病院」内部を徹底的に破壊、その場にいた「野戦病院」スタッフ7名に機動隊指揮官が使う「指揮棒」で頭部を乱打するなど、リンチを加えた。医師を含む7名が負傷うち1名が緊急搬送されて入院した。深夜、機動隊5百名が包囲する中、飯場作業員が無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。

 9.27日、:反対同盟が、友納知事、川上副知事(当時)らを9.16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で千葉地検に告発する。


【青年行動隊員・三ノ宮文男が抗議の首吊り自殺】

 10.1日青年行動隊員・三ノ宮文男(22歳)が「空港をこの地にもってきた者を憎む」と遺書を残して自宅近くの山林で首吊り自殺する。遺書は次の通り(「三里塚闘争」)。

 (母ちゃんへ)
 長い間苦労をかけました。俺がつかまるたびに、いろいろ心配して、さぞかしたいへんだったでしょう。俺はすまないと思いながら口に出せませんでした。今でも本当に苦労かけたと思っています。空港問題などなかったら、俺も今ごろ嫁さんなんかもらって、りっぱに百姓やっていけたと思います。しかし考えれば考えるほど、俺達の所へ空港なんぞもってきたやつがにくいです。ほんとうに、母ちゃんにはすまないです。俺がいなくなってもけっして力をおとさず、広といっしょにくらして下さい。いつも口げんかばっかりしていたけど、本当は俺もいいやつなんだよ。かあちゃん、それじゃあ元気で。俺いくよ。母ちゃん、絶対に元気でな。力おとさず広がいっから。広がいっからな。

 (父ちゃん)
 俺あんまり仕事やらずに青行ばっかりやってで、すまなかった。それでも、青行ねえ時にはまじめに仕事やったつもりだよ。俺いままで何にも父ちゃんや、母ちゃんにしてあげられなかったな。心配ばかりかけてすまなかった。しかたなかったんだよ。空港などこんな所にもってきたから、まじめにやれば闘わざるをえなかったんだよ。しかし、俺は線が細いから、闘いにたえられなかったんだな。人間なんて弱いもんだな。なんかの本に書いてあったけど、もっとも人間らしく生きようと思っている人間が、なんで非人間的にあつかわれるのかな。本当に、国家権力ていうものは恐ろしいな。生きようとする百姓の生をとりあげ、たたきつぶすのだからな。

 いいたいことは山ほどあるが、なかなか出てこない。さっきまで、いらいらしていたが、なんだかさっぱりした気持ちだ。俺が行ったら、あのやぶれた青行の旗で、くるんでくれや。できたら、みんなでみおくってくれ。俺だけ、ずるやってもうしわけない。

 三里塚空港粉砕!
 最後まで、三里塚に生きつづけて下さい。
 みんな、元気で。
   1971年9月30日  三ノ宮文男


【千葉県警の「東峰十字路事件」関連弾圧始まる】

 12.8日、:千葉県警三警官殺害事件特別捜査本部が、青年行動隊員11名を逮捕(罪状は別件)。いわゆる「東峰第1次弾圧」。12.24日、:釈放された1名が再逮捕される。12.29日、青年行動隊員8名が逮捕。いわゆる「東峰第2次弾圧」。


【1972年、成田闘争】
 1972年、反対同盟の戦意はますます昂揚し、「岩山鉄塔」を構築する。

【弾圧相次ぐ】
 1972.1.5日、東峰十字路の件で、青年行動隊員3名、三里塚高校生協議会(反対同盟の高校生グループ-三高協)3名、支援者1名が別件逮捕。いわゆる「第3次弾圧」。 1.9日、:青年行動隊員3名、三高協2名が別件逮捕。いわゆる「東峰第4次弾圧」。1.14日、:青年行動隊員4名、支援者1名が逮捕。いわゆる「東峰第5次弾圧」。1.18日、:青年行動隊員4名、支援者1名が逮捕。いわゆる「東峰第6次弾圧」。

 1.26日、:今井空港公団総裁(当時)が「6月中の開港の見通しがついた」と発表。2.2日、青年行動隊員4名、支援者13名が逮捕。いわゆる「東峰第7次弾圧」。

【反対同盟が「岩山鉄塔」を構築】
 3.12日、:反対同盟が、芝山町岩山に航空妨害を目的にした高さ約100mの大鉄塔を建設(いわゆる「岩山鉄塔」)。

【その後の成田闘争の経緯】
 3.15日、:鉄塔建設によって、この日予定していたフライト・チェックが中止される。3.31日、:空港管理ビルが完成する。4月、4千m滑走路が完成。

 6.6日、支援者16名が一斉に逮捕される。いわゆる「東峰第8次弾圧」。6.22日、:青年行動隊員5名が逮捕される。いわゆる「東峰第9次弾圧」。7.5日、:青年行動隊員12名が傷害致死罪で逮捕される。以降、同罪状での逮捕が続く。いわゆる「東峰第10次弾圧」。7.14日、:青年行動隊員5名が逮捕される。いわゆる「東峰第11次弾圧」。7.28日、:青年行動隊員5名が逮捕される。いわゆる「東峰第12次弾圧」。8.1日、青年行動隊員5名が逮捕される。いわゆる「東峰第13次弾圧」。

 8.3日、:今井空港公団総裁が、佐々木運輸大臣に「パイプラインの工事の遅れで年内開港は困難」と報告。8.3日、:反対同盟が「傷害致死罪攻撃粉砕集会」を開催。8.31日、:千葉県警が1971.9.16日の「駒井野鉄塔」撤去に関連して公団職員ら6名を書類送検。反対同盟は「殺人未遂での告訴を無視している」と反発した。9.4日、:支援者6名が逮捕。いわゆる「東峰第14次弾圧」。9.6日、三高協2名が逮捕。いわゆる「東峰第15次弾圧」。

 9.16日、:「第二次代執行阻止闘争一周年・青行隊奪還人民大集会」を開催。6千名結集。10.3日、:青年行動隊20名が保釈。11.12日、:東峰十字路事件第1回公判。この間、反対同盟からの逮捕者のべ139名、保釈金1350万円。12.21日、:今井総裁、年度内開港の断念を発表。

【1973年、成田闘争】
 1972年、反対同盟の戦意はますます昂揚し、「岩山鉄塔」を構築する。

【1973成田闘争の経緯】
 1973.3.23日、成田空港近くの吉倉橋梁が爆破され、付近の民家も被害。6.24日、空港反対派の小原子団結小屋で、盗聴器が発見される。そのコードは条件派の家につながっていた。10.5日、反対同盟主催の「三里塚大政治集会」を日比谷公会堂で開催。「岩山鉄塔十万人共有化運動」を提起する。10.29日、:「岩山鉄塔」付近の農道で、鉄塔防衛隊員の山口義人が機動隊に囲まれてリンチを受け、一時重体に陥る。山口は、のちに千葉県警に対して国賠訴訟を起こし、勝訴する。

【反対同盟委員長・戸村が参議院選全国区に立候補】
 11.6日、反対同盟委員長である戸村一作が、翌年の参議院議員選挙全国区への立候補を表明。
戸村一作(無所属)

全国区  戸村一作 (65歳、三里塚芝山連合空港反対同盟委員長)

 政府が成田空港の建設をきめてから九年、私たちは、いまも一機の飛行機も飛ぶことをゆるしていません。三里塚の空は青く、人間の生きる糧である大地と水は守られています。共産党は闘わないで逃げさりましたが、農民は、機動隊の暴力にも札束の誘惑にも屈せず、団結して闘いつづけてきました。

 「高度成長」と「列島改造」は、農業の荒廃と過密過疎を、そして公害とインフレを日本全土にまきちらし、世の中はゆきづまりました。もはや、労働者、農民、市民、学生が、老若男女が、自分で立ち上がって、世直しの奔流をつくりだすのみです。

 九州水俣の患者たちが東京で抗議行動をしたとき、私たちが三里塚の野菜をもってかけつけ、一緒に坐りこんだのも、この春、広範な職場労働者が既成労組幹部をのりこえてゼネストを決行したとき、まっさきに支援したのも、すべて、心は一つだったからです。議会や既成政党にあいそをつかしている皆さん みんな、決起しましょう。私は、一キリスト者として、その歯車の一つとなって闘います。

 三里塚空港粉砕

 世直しのむしろ旗を国じゅうに すべての権力を労働者人民へ


【大木よね逝去】
 12.17日、1971年の代執行で自宅を強制収用された大木よねが、「家に帰りたいよ」と言い残して死去。享年66歳。

【1974年、成田闘争】

【戸村氏落選】
 1974.7.7日、この日投票の参議院議員選挙で、「世直し一揆」を掲げて全国区に立候補した戸村一作は33万票を獲得したが落選。この「選挙闘争」で、戸村陣営の運動員のべ11名が逮捕される。

【その後の成田闘争の経緯】
 10.10日、反対同盟主催で「空港粉砕全国総決起集会」を三里塚第二公園で開催。5千名が結集。第四インター系の「共青同(準)武装行動隊」がデモの途中で第5ゲートから空港に突入を図り、国道296線にバリケードを構築して機動隊と衝突した。一部が空港に侵入。全体のデモとあわせて9名の逮捕者。

 10.12日、反対同盟が「三里塚空港粉砕全国総決起集会」を7千名の結集で開催。デモで逮捕者5名、反対派に数十人の負傷者。

【1975年、成田闘争】
 1975.10.12日、:反対同盟が「空港粉砕全国総決起集会」を7千名の結集で開催。デモで逮捕者5名、反対派に数十人の負傷者。

【1976年、成田闘争】
 1976.10.9日、三里塚空港粉砕、ジェット燃料阻止集会。

【1977年、成田闘争】

【「岩山鉄塔撤去」の動き】

 1977.1.11日、福田内閣が、閣議で「年内開港」を指示。これにより、空港建設と阻止の攻防の緊張が一挙に高まる。

 1.19日、1.11日の指示により、「岩山鉄塔」撤去のための道路工事が再開される。この日抗議した2名が逮捕。2.4日:パトロールをしていた青年行動隊2名が「道交法違反」で逮捕される。2.6日、:「鉄塔防衛全国総決起集会」開催。機動隊が、バス運転手にリンチを加える。2.20日、:千葉市内での三里塚集会でデモの際3名逮捕。2.21日、:「岩山鉄塔」の周囲を公団が鉄条網で封鎖する工事を開始。抗議した1名が逮捕。3.8日、:「岩山鉄塔」防衛隊員1名が逮捕。3.27日、:「鉄塔防衛」第三波総決起集会に4500名結集。1名逮捕。3.26日、「三里塚闘争に連帯する会」が設営したテント村に機動隊が乱入。2名逮捕。反対派2名負傷。4.9日、:1971年の東峰十字路事件で指名手配されていた1名が逮捕。4.16日、:翌17日の総決起集会の前段デモで1名逮捕。

 4.17日、:鉄塔死守を呼号して「鉄塔防衛全国総決起集会」が三里塚第一公園で開催され最大の2万3千名が結集。デモで逮捕者7名。反対派の負傷者100名以上。警察がバス会社各社に「過激派に車を出すな」と圧力をかける。4.18日、:17日のデモの件で団結小屋4ヶ所に家宅捜索。機動隊が木刀で反対派を骨折させ、電話機などを破壊するリンチ行為に及ぶ。反対同盟は、4.21日に告訴を発表。


【「岩山鉄塔」が撤去される】

 5.2日、空港公団が、鉄塔撤去の為の航空法違反を名目とした仮処分申請を千葉地裁に提出。5.6日、:千葉地裁が「岩山鉄塔撤去仮処分」を下す。その日のうちに反対派が航空妨害を目的として建てて対抗していた「岩山鉄塔」が機動隊の包囲の中、撤去される。これに抗議した支援者ら16名が逮捕。反対派の負傷者33名。反対同盟は、「仮処分」に対する「異議申し立て」を提出する。赤坂の空港公団総裁室に、反対派3名が乱入し逮捕される。5.7日、:「岩山鉄塔」撤去への抗議行動で、25名逮捕。反対派18名負傷。5.8日、「岩山鉄塔」が撤去されたことに対する抗議行動が、機動隊との大規模衝突となる(いわゆる「5.8戦闘」)。そのさなか、反対同盟の「野戦病院」の前でスクラムを組んでいた支援者の東山薫が機動隊からガス弾の水平撃ちを受け死亡。衝突で逮捕者33名のうち15名に殺人未遂罪。負傷者327名うち入院3名。


【その後の成田闘争の経緯】

 5.9日、:「東山君虐殺糾弾対運輸省行動」で1名が逮捕される。芝山町長宅警官詰め所を何者かが火炎瓶攻撃。機動隊員6名が重軽傷を負い、5.21日、警官1名(岡田巡査部長(30歳))が死亡。前日の「東山君虐殺」の報復と見られるが、犯行声明などはなく犯人未逮捕のまま時効が成立した。5.11日、66日から8日までの衝突の件で団結小屋9ヶ所を家宅捜索。5.13日、:東山薫の両親が警察庁長官ら5名を「殺人」などで告訴。5.14日、:三里塚現地の坂志岡・承天寺で東山薫の反対同盟葬がとり行われる。

 5.15日、沖縄米軍基地内の「反戦地主」の土地が使用期限切れになるこの日、代々木公園で「沖縄と三里塚を結ぶ中央集会」が開催される。1万5千名の結集。デモで逮捕者12名。5.28日、6日から8日までの衝突の件で団結小屋18ヶ所を家宅捜索。5.29日、:「東山君虐殺糾弾集会」に1万8千名の結集。デモで逮捕者71名。反対派の負傷者79名。6.15日、千葉地裁に「東山君虐殺」の国賠訴訟を提訴。6.19日、:「三里塚東京集会」開催。デモで5名逮捕。7.24日、:ジャンボ飛行阻止闘争に1万950名の結集。デモで5名逮捕。

 8.7日、この日から9日まで、反対同盟が三日連続で飛行阻止闘争を展開。三日間で10名の逮捕者。8.6日、茨城県守谷のボルタック(無線標識所)が時限発火装置で焼き討ちされる。8.10日、日航常務の富田宅が火炎瓶攻撃で全焼される。10.9日、:反対同盟主催の「全国総決起集会」に2万2千名の結集。

 11.25日、閣議で、「年内開港から1978.3.30日を開港日」と決定。12月、全国から集まった一億円のカンパで、航空妨害を目的とした「横堀要塞」の建設が開始される。12.21日、:反対派が騒音テスト飛行阻止闘争を展開。逮捕者6名。12.22日、:飛行阻止闘争で逮捕者4名。12.27日、第1期工区内でただ一つ残っていた小泉英政さん所有の農地を、一家の座りこみを排除して強制収容。12月、反対同盟を支援する動力車労組千葉地本(後に千葉動労として独立)がジェット燃料輸送阻止順法闘争を行う。


【1978年、成田闘争】

【「横堀要塞」死守闘争貫徹】

 1978.1.24日、第二期工区の滑走路先端にあたる横堀地区に、高さ12mの鉄筋コンクリート要塞を建設。2月、横堀要塞に成田新法適用。2.6日−7日、航空法49条違反として、機動隊が「要塞」とその上に立てられた鉄塔の撤去に着手する。横堀、要塞攻防戦となり、2.7日未明に機動隊に抗議した婦人行動隊員1名が機動隊に暴行を受けて入院。機動隊の高圧放水やガス弾などの攻撃に対して、空港反対派は火炎瓶、パチンコ弾などで応戦した。夜10時に篭城していた反対同盟農民6名を含む41名を逮捕。周辺での衝突で4名が逮捕された。

 :「横堀要塞」に残っていた4人の支援者は零下7度のなかで徹底抗戦したが、夜10時の反対同盟による「勝利宣言」の呼びかけによって投降し、逮捕された。4人全員が手足に凍傷を負っていた。二日間の衝突で逮捕者49名。反対派の負傷者10数名。3.1日、:「横堀要塞」前で現地集会が開催され、反対同盟が「3月開港阻止決戦突入」を宣言。「横堀要塞」付近の検問で反対派2名が逮捕。

 3.23日、:機動隊が、反対派の「開港阻止決戦」に備えて、1万4千人の配置をほぼ終える。反対派2名が検問で逮捕。


【「成田空港管制塔占拠事件」】

 3.26日、開港予定日を4日後に控えた成田空港の管制塔に第四インターをはじめとする戦旗・共産同、プロ青同などのゲリラ部隊20名が突入、三里塚空港内に地下排水溝から侵入、管制塔内部を破壊、10名が中央管制塔を占拠した。また、空港の各所から反対派農民を支援する新左翼党派活動家4千名が乱入し、警官隊がピストルを乱射する「騒乱状態」となる。115名が逮捕された。逮捕者の内訳は公務員・公共企業体職員25名、労働者96名、残りが高校生を含む学生だった。うち1人は火炎瓶トラックで突入した際の火傷が原因で後に死亡している。また逮捕者14名は航空危険罪を初適用となった。これを「成田空港管制塔占拠事件」と云う。


【その後の成田闘争経緯】
 3.28日、:閣議で開港の延期を決定し、開港を二ヶ月遅らせる。福田首相は「世界に申し訳ないことになった」と語った。4.2日、:川上千葉県知事(当時)が、反対同盟に対話を呼びかける。4.17日、:反対同盟が「逮捕者の全員釈放・開港延期と二期工事凍結・成田新法の撤廃と機動隊の撤退」を条件に「話し合いを拒まない」と態度を決定する。5.5日、午前3時半頃、千葉県酒々井町の京成電鉄操車場で、空港特急スカイライナー4両が放火され全半焼。5.18日、:反対同盟が「開港阻止五日間戦闘」を開始する。5.19日、中核派が千葉県八千代市の米本中継所をゲリラ活動によって破壊したが翌日には復旧した。

 5月、成田空港パイプライン工事着工。5.5日午前3時半頃、千葉県酒々井町の京成電鉄操車場で、空港特急スカイライナー4両が放火され全半焼。5.13日、「新東京国際空港の安全確保にかんする緊急措置法(成田新法)」が施行される。






(私論.私見)