第8期その1後半期 1968 全共闘運動の盛り上がり期(2)

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.4.7日

 これより前は、「全共闘運動の盛り上がり期(1)」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「第8期その1後半期/1968/全共闘運動の盛り上がり期(2)」を記しておく。戦後学生運動の歴史(1968年7月-9月)」、「戦後学生運動の歴史(1968年10月-12月)」その他参照。

 2007.2.17日 れんだいこ拝


 7.1日、東大薬学部は賛成76票、反対31票で無期限ストライキ権を確立した。翌2日、経済学部と理学部の学生大会では無期限ストライキが否決された。日共系学生の主張が受け入れられた。7.1日の夜、安田講堂再占拠方針をめぐって学生たちは議論した。大学当局に封鎖戦術を突きつけて、闘争拠点を確保する必要があるとの意見が大勢を占めた。「ここがロードスだ、さあ跳べ!」。

 7.1日、交通違反者にその場で罰金額記入した青キップを渡す「交通反則通告制度」スタート。10.1日、交通違反点数制(ポイント・システム)もスタート。


 7.1日、郵便番号制スタート。当初の番号記載率は56%だったが、昭和63年には96%に達する。


 7.2日、東大全学闘争連合(全闘連)250名が安田講堂を再占拠、バリケード封鎖する。封鎖後の記者会見で、「大学と学生の対決点を明確にし、闘争の方向性を決める意図で行った」と説明、大衆団交、機動隊導入自己批判を要求した7項目要求を表明した。以後、大学当局は打開を図ったが、更に学生の反発を招き、東大全学部の学生ストライキへと発展し、主要な建物多数の封鎖が行われることになる。


 7.3日、東大工学部の学生大会は、安田講堂封鎖支持を決議した。同日、教養学部代議員大会で無期限ストライキ案が可決された。安田講堂封鎖の意義につき、大学院を中心とした全学闘争連合(全闘連)1968.7.3日付けビラは次のように主張している(山本義隆「理性の錯乱」情況編集委員会編「大学叛乱の軌跡――論文集成」239頁)。

 封鎖、それは連帯のしるし!……せっかく立ち上りかけた学友が本部封鎖の事実によって離反してしまうとの批判の声があがっている。しかしそうだろうか?……諸君たちと、闘いの勝利、高度な運動の発展との間を結ぶ掛け橋として、時計台封鎖が真に有効なものであることを主張する。それは何故にか?これまでの闘いで我々は自己の存在そのものを全力をあげて大学当局につきつけてきた。これ以外に我々が得るものは何一つ無いことをいやというほど思い知らされる中で、まさしく本部封鎖はこの我々の全力をかけた闘いの象徴として行われたものだからである。すべての学友の心の中にわだかまっている自己の変革を通した闘いへのおそれ、そして傷つくことのおそれが、この本部封鎖実現によってあとかたもなく消し飛んだからである。我々の封鎖によってもたらされた全学的状況は、我々と諸君の運動における離反としてあるのではなく、かえってこの封鎖の実現によって解き放たれたところの限りない闘いの可能性、そして自由な行動の発議が保証されたのだ。……我々の本部封鎖は、封鎖により我々自身を、そして諸君を閉じ込め固定化するものでは決してない。我々は逆に、封鎖により、自らを大衆的に解放し、全学友の闘う本当の具体的行動を要請しているのだ。諸君、我々は、封鎖により、そしてその封鎖を、我々のこれまでの統一スローガンの勝利まで、徹底的に守りぬき、かち取ることを、あらためて決意する。

 法学部は、「安田講堂封鎖反対、大衆団交要求」の48時間ストを始めた。


 7.4日、新聞研無期限スト突入。


7.4日、日大文理学部では、文闘委主催の学生大会が開かれた。その後の全学総決起集会には、11学部すべて総数1万人の学生が集まり、デモ行進を行い、神田周辺を埋めつくした。ジグザグデモ、フランスデモと大衆的なデモを貫徹した。


【東大全共闘結成】
 7.5日、閉ざされた講堂の門が初めて一般学生に“開放”され、3000名を越す学生を集めて全東大集会が開かれた。封鎖反対の声がカゲをひそめ、「打開策もとらず。雲がくれした当局者を交渉の場に引出すためにはやむを得ない手段」という声が圧倒的となった。席上、学生たちは「東大全学共闘会議」を結成した。

 東大教養学部全学投票の結果、賛成2632票、反対1904票、保留333票で、無期限ストライキを決定した。安田講堂のまわりには「テント村」ができた。彼らは「ノンポリ」を自称して、講堂占拠には参加できないが、占拠は支持するという姿勢を示していた。学生は、大衆団交、機動隊導入自己批判の7項目要求を表明した。医学連委員長逮捕される。
 7.5日、日大全共闘結成約一ヶ月後、東大安田講堂内集会において東大全学共闘会議(東大全共闘、代表・山本義隆)が結成された。こうして、日大に続いて全く新しい運動体が出現した。初の決起集会には3000名が結集している。医学部不当処分撤回や機動隊導入自己批判など7項目を要求することで闘うことを表明。東大全共闘は、各学部の代表者や各党派の代表の集まりだった。それぞれの党派のうるさい主張をまとめる役割を大学院生組織の「全学闘争連合(全闘連)」が担い、議長として理学系大学院の山本義隆が選ばれた。

 東大教養学部生物教室助手共闘会議のリーダー・最首悟(さいしゅさとる、32歳)氏は次のようの述べている。

 「すべてに異議を申し立て、バリケードを組んで閉じこもり、中で漫画を読みギターを弾き寝転がっていたのです。身をもって、働かざる者食うべからず、勉強せざる者就職すべからずの規範に対抗し、土俵から滑り落ちようとしました。カウンターカルチャー、サブカルチャーの芽が渦巻き、未来は見えなかった。思想的に価値は相対化され入り交じり、まさに価値の紊乱(びんらん)が起きました。やはり70年は1つのルネッサンスであり、それは今でも続いているということです」。(その後「障害」児をもつ父親となる。最首塾主宰、水俣フォーラムの評議員)

 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/8570
/archive0133.htm

 7.5日、慶応大教養学部自治会、無期限スト突入。


 7.6日、国連事務総長ウ・タント、パリで米・北ベトナム両国主席代表と会談。


 7.7日、第8回参議院議員選挙。


 7.8日、日大全共闘百名が理工学部で古田を追及、大衆団交を前提とする予備折衝を確約させる。7.18日、予備折衝に古田不参加で流会する。


 7.10日、大学立法粉砕闘争。早大に8千名を結集して国会へデモ。早大で革マル派を除く諸派が早大全共闘結成、全学バリスト突入。


【革マル派全学連第25回大会開催】

 7.11-14日、革マル派全学連第25回大会開催。80大学・150自治会・146代議員・2000名参加。この数字が正確であるとすれば、革マル派の空前の著 しい台頭が見て取れる。都学連等地方学連の再建、八月国際反戦集会、 10.21国際反戦デーに全国九大学で拠点スト等の運動方針を決定。


【中核派全学連の誕生、三派全学連の分裂】

 この時期中核派は、大衆運動の高揚期には組織をかけてでも闘争をやり抜くという旧ブント的方針で闘争を指導し、支持を獲得していった。この手法は勇ましく人気も出たが、一方逮捕など組織的な消耗が避けられなかった。こうした中核派の闘争指導に対して、革マル派は、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想と批判した。革マル派は「革マル体操」と揶揄されながらも、ゲバ棒はかついでも機動隊との衝突は極力避けつつ組織温存を重視した。こうした革マル派の闘争指導に対して、中核派は、革命的組織作りはそのような真空中でつくられるのではなく、革命的激動の中で攻撃的に対応することを通じて勝ち取られるものだと批判し武闘路線に邁進した。既述したが私には、どちらの言い分が正しいと言うよりは、このやり方の方が自分にとってしっくり合うという気質の差のように思われる。

 7.14-16日、中核派全学連大会が開催される。こうして中核派は、中核派全学連(委員長・秋山勝行)として単独大会を開催して正式に三派全学連から離脱することになった。101大学・157自治会・127代議員・1500名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派の進出もまた凄まじいものがあったということになる。してみれば、ブント−社学同系の分立抗争ぶりとは対照的に元革共同勢が大幅に組織を伸ばしていることが分かる。12.10日、中核派全学連臨時全国大会、委員長に金山克巳氏を選出した。10.21武装闘争、社学同・反帝学評とは個別闘争で共闘等の方針を決定。


 7.15-16日、全国自治会代表者会議〔神戸大〕、構改系中心に21大学39自治会代表250名参加、自治会共闘運動の推進を確認。


 7.15-17日、全国反帝学評連合第2回大会〔早大〕、64の単位評議会から550名参加。


【1968年度の民青同の後退】
 この年度の民青系自治会数の発表が川上氏「学生運動」には記されていないので想像する以外にはないが、大きく後退を余儀なくされていたのではないかと思われる。一般に都合の良い数字は語られるが悪い方に至ると伏せられるという悪しき左翼の性癖が認められる。事実を正確に伝え、そこから工夫を大衆的に討議するという整風化がなぜなされないのだろうか、と私は思う。ちなみに、この時期の民青同の活動の重点は、大学民主化闘争とこの頃より党が重視させていた革新自治体づくりの応援活動にかなりの比重を割いていたのではないかと思われる。革新自治体の流れは、67.3−4月の全国一斉地方選挙で首都東京における美濃部亮吉革新知事の誕生、68.7月参議院選挙での前進、68.11月革新系候補屋良朝苗氏の沖縄首席選挙勝利、69.7月革新都政のもとでの最初の都議選での勝利等々に見て取れる。

 こうした選挙戦活動の背景に、党より「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」方針が掲げられ、これに呼応しようとした民青同の活動があったものと思われるが、「日本共産党の65年」を見る限りこの辺りの記述が欠落させられている。これは一体どうしたことなんだろう、私には不自然不可解現象である。また最近「21世紀の早い時期に民主連合政権をつくる」という闘争方針がリバイバルしているようであるが、これも挫折すると同じように呼び掛けそのものさえ無かったことにするつもりであろうか。

 7.16日、東大全共闘が、安田講堂で開かれた代表者会議で、7項目要求を確認した。1・医学部不当処分白紙撤回! 2・機動隊導入を自己批判し、声明を撤回せよ! 3・青医連を公認し、当局との協約団体として認めよ! 4・文学部不当処分撤回! 5・一切の捜査協力(証人、証拠等を拒否せよ!6・1.29日よりの全学の事態に関する一切の処分を行うな!7・以上を大衆団交の場において文書をもって確約し、責任者は責任をとって辞職せよ!の要求であった。


 7.17日、社学同第八回全国大会〔中央大〕、二百名参加、”組織された暴力“路線を確認(委員長・久保井拓三)。


 7.18日、都学連第17回大会〔早大〕で、社学同・反帝学評・ML・第四インターの各派8百名参加、社学同と反帝学評・ MLの間で乱闘(委員長・ 森田英雄)。


【反帝全学連大会創出を廻って社学同と解放・ML派衝突】
 7.19日、中核派全学連の旗揚げに抗して、三派全学連内反中核派連合の第二次ブント統一派(社学同)、ML派、社青同解放派、第4インターなどが反帝全学連大会を開催予定したが、冒頭から主流の社学同と反主流の反帝学評・MLが対立し、社青同解放派とML派が壇上を占拠し社学同と衝突、乱闘し、流会。社学同は中大学館に、反帝学評・MLは明大学館に立てこもる。

 翌7.20日も前日に続き反帝全学連主流の社学同統一派(ブント)と反主流の社青同解放、ML両派が乱闘し、全学連大会が流産した。 

【日大古田会頭の硬直的対応に学生の反発強まる】

7.20日、日大本部ででようやく予備折衝がもたれた。その場で8.4日に大衆団交を行うこと、全共闘を唯一の代表であること等を確認した誓約書をかわした。その後、経済学部のデモ隊が校舎にひきかえそうとしたとき、第一方面機動隊が突然介入し、それに抗議する学生21名が検挙された。この不当検挙にたいする抗議行動をおこし、深夜、300余人のデモ隊が神田署に向かいシュプレヒコールを行ったところ、またも機動隊が襲いかかり65名の検挙者がでるにいたった。この不当弾圧による検束者は86名、重軽傷者は50余人にのぼった。ところが、古田会頭は、予備折衝において全共闘と確約したにもかかわらず、8.4日の大衆団交の約束を、一方的に無期延期にしたことが、学生の怒りをさらに高めた。この頃から、学生の意識も次第に変化してきた。文理学部情宣紙「変革のパトス」は次のように記している。

 「大学における危機、矛盾の根底的解決は学園民主主義の次元での改良闘争ではその糸口が見出せず資本主義社会そのものに対する正面からの闘いにいどまなければならない」。

今や、古田体制を打倒し、日大の根底的変革をかちとることは、日本における反動的文教政策の重要な一角を切りくずすことであるとの認識に至り始めた。日大当局の危機は同時に、国家教育行政体制の基軸大学の危機であり動揺となった。

 7.24日、大学当局が団交無期延期を申入れ。


【反帝全学連結成される】
 7.21-22日、反帝全学連第19回全国大会が開催された。79大学・131自治会・170代議員が参加。これだけのセクトが寄り集まって元革共同両派のそれぞれに匹敵しているという勢力関係が知れる。藤本敏夫(同志社大学文学部新聞学科中退、ブント社学同)氏が委員長、久保井氏が副委員長に選出された。これで4つ目の全学連が誕生することとなった。しかし、反帝全学連は結成当初よりのゴタゴタが付きまとい、社学同と社青同解放派の対立が激化していくことになり、翌69.3月、社学同側が単独で大会を開催し社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派が単独大会を開き、解放派全学連として独立することになる。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。

【中核派全学連、反帝全学連の誕生考】
 こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67〜69年の学生運動の流れとなる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。

 れんだいこが見立てるのに、全学連の革マル派化、民青同の自前全学連創出は、運動全体の利益を考えるより党派的な利益を優先する体質的なそれであるから是非に及ばずとして、中核派の自前全学連創出はいかがなものであっただろうか。むしろ、共同戦線型の全学連を良しとして引き続き主力となって三派全学連を担い続けるべきであったのではなかろうか。少なくとも中核派の方から自前全学連を創る必要は無かったのではあるまいか。

 中核派が安直に革マル派、民青同型を踏襲した事を惜しいと思う。この指摘は、中核派を非難しようとして述べているのではない。日本左派運動の共同戦線型運動に対する軽視ないしは不見識が高揚期の場面になるや現われ、それがやがて運動の衰微を用意していく下地になるという法理を確認したい為である。

 こうして、三派全学連から中核派が抜け、反中核派連合の第二次ブント統一派−社学同、ML派、社青同解放派、第4インターなどが反帝全学連を創出する。これで4つ目の全学連が誕生することとなった。その反帝全学連もそれぞれの全学連を創出していく事になる。

 れんだいこが思うに、全共闘運動は元々革マル派、民青同のロゴス派運動とは質の違うカオス派の共同戦線運動として進められたが故に昂揚したのではなかったか。ならば、この昂揚を醸成発展せしめる為にも、引き続きあくまでも共同戦線運動として保持されていくべきではなかったか。思えば、第1次ブント運動の功績も、この共同戦線型の構えであったが故に空前の盛り上がりをみせてたのではなかろうか。第1次ブントが解体されたのは、これを担う連中のカオス型共同戦線運動に対する軽視ないしは不見識によってではなかったか。

 日本左派運動のカオス型共同戦線運動に対する見識不足が、この時の中核派全学連、反帝全学連創出に見て取る事ができ、やがてこのツケが自家撞着していくことを見る事になるであろう。

 7.21日、山田弾薬庫・板付基地撤去・築城移転反対福岡県大会〔北九州市南小倉中央公園〕。北九州・福岡地区反戦、労組員、べ平連、全学連(中核系・革マル系) など1500名参加。中核派30名が北九州市小倉の米軍山田弾薬庫(現・山田緑地)に突入。逮捕者11名。


 7.23日、東大全共闘を支持する全学助手共闘会議結成される。


 7.25-28日、民青同全学連(委員長・田熊和貴)が第19回大会開催。参院選・東大・京大教養自治会選挙の敗北等で一週間延期して開催、”闘う”姿勢の回復等を決議。


 7.26日、8月反戦国際会議日本実行委主催・キューバ革命十周年記念集会〔日比谷公会堂〕に反帝四派(社学同・反帝学評・ML・第四インター)8百名が参加、のちデモで7名逮捕。


 7.27日、アスパック粉砕・三木渡濛実力阻止闘争。東京地区反戦・全学連(反帝)共催の集会・デモは不許可。反戦150名、清水谷集会・新橋までデモ、のち蒲田駅東口広場へ。反帝学評・四トロ系百名、日比谷公園から外務省へ向かおうとして機動隊と衝突・6名逮捕。社学同系250名、新宿駅へ結集、うち150名が蒲田駅から空港へ、穴守橋で機動隊と衝突・65名逮捕。


 7月、労働者革命派から、レーニン主義協議会派分裂。


 7月、核拡散防止条約調印。


 8.1日、国鉄米軍タンク車輸送反対集会〔鶴見線安善駅構内〕に革マル系230名参加、タンク車前坐り込み集会で69名逮捕される。


【国際反戦会議が中央大学の講堂開催】

 8.3日2時10分、国際反戦会議が中央大学の講堂で開催された。日本実行委員会委員長松本礼二が開会の挨拶と経過報告を行った。「国際反戦会議日本実行委員会」として6団体(共産主義者同盟、社会主義労働者同盟、社会主義労働者同盟ML派、社会主義青年同盟解放派、社会主義青年同盟国際主義派、第四インター日本支部)の反帝全学連各派千名参加、米SDS・SWP、仏JCR等海外十団体代表参加、三日目、NATO・安保粉砕を訴える″東京アピール”採択。

 8.4日、国際反戦関西集会も共産同関西地方委員会、日本共産党解放戦線(上田等ら)、社青同国際主義派、第四インター、解放派、ML派、毛沢東思想学院などの共同行動で大阪厚生年金会館に約1千名を集めて開催された。海外からの参加者らは、ヒロシマ8・6の原水禁集会や、ベ平連の京都ティーチイン集会にも参加した。

 海外からの参加者は次の通リ。
SWP 米国 (米国の社会主義労働者党)
委員長のブレッド・ハルテット
彼は7月28日羽田空港に到着した折、日本の通関当局より「原水禁、べ平連への参加はかまわないが、8月国際反戦集会への参加は認められない。参加の場合には強制退去を命ずる」と、入国時に条件付の書類に署名させられた。この事実は、8・3国際反戦集会の中大講堂の席上、ハルデットさん自身が暴露し抗議した。それほど三派系のラジカルな闘いと米国のラジカルな運動の接触に公安関係者は神経質になっていた。
SNCC 米国 (米国・学生非暴力調整委員会)前委員長のカーマイケル。
米国 ブラック・パンサー党
当時黒人の間に絶大な人気があり、黒人の権利を闘いによってかちとっていた団体。
OLAS 米国 (ラテン米人民連帯機構)
この組織は、67年7月にキューバを中心に創設され、チェ・ゲバラが当初名誉総裁で、ハバナに本部がある。
SDS 米国 (米国・民主社会学生同盟)
SNCCが黒人中心の組織なのに対し、SDSは白人組織で、反戦反徴兵、ベトナム反戦闘争を中心に学生パワーを発揮し、カリフォルニア・バークレー校が拠点で、本部は、シカゴのイリノイ大学といわれていた。
JCR (仏・革命的共産主義青年同盟)
1966年4月に創設。JCRは50年代のアルジェリア解放闘争支援、キューバ革命支援を行い、65年大統領選時に、仏共産党の共産主義学生同盟を除名されたメンバーの他、トロッキストのメンバーを含む組織で、5月パリ革命の先頭で闘った組織。その結果、ドゴール政権によって非合法化されたため、ブリュッセルに本部を置き地下活動を続けていた。
SDS (西独・社会主義学生同盟)
西ドイツの社会民主党の学生組織。ドイツ社民の大連立に反対し、中央に従わずベルリンで1万5千人のベトナム反戦集会を開いた。北大西洋条約機構(NATO)の粉砕を訴えている。理論的には、マルクーゼ、ローザルクセンブルグ、ルカーチの影響が強いといわれていて委員長のドチュケは銃撃被害に遭っている。
 この時のブントの呼びかけた「8・3集会論文」(「世界プロレタリア統一戦線・世界赤軍・世界党建設の第一歩をー8・3国際反帝反戦集会への我々の主張」というタイトルの論文)は、プロレタリア国際主義を掲げるブントの新しい旗印となった。第一章はのちの赤軍派議長塩見孝也執筆「現代過渡期世界と世界革命の展望」、第二章はのちのブント議長仏(さらぎ)徳二執筆「70年安保・NATO粉砕の戦略的意義」、第三章はのちの共産同神奈川左派の旭凡太郎「8月国際反戦集会と世界党建設への道」で、8月5日の機関紙「戦旗」に発表された。

 8.5日、新宿駅西口広場でカンパ活動中の中核派学生30名のうち1名が指名手配中で公安一課員に逮捕され、学生・フーテン・通行人など千名が西口交番に押しかけ機動隊が出動・ 規制、8名逮捕される。


 8.5日、八・五青年学生政治集会〔日比谷野音〕に中核系労学3千名参加、広島でも政治集会、3百名参加。


【第二次ブントの「8.3論文」】
 8.5日、第二次ブントが、8.3国際反帝反戦集会に向けて「戦旗」141.142合併号、1968.8.5日号「8.3論文」(「現代過渡期世界と世界革命の展望−8.3国際反戦集会への我々の主張」)を発表した。全体が三章から成り、同盟を代表していた3名の理論家が各省を分担、執筆した(第1章を塩見孝也、第2章を仏徳二、第3三章を旭凡太郎)。各章とも過渡期世界論を踏まえつつも、理論的な共有性と対立を見せている。来るべき分裂を予兆させた。

 8.6日、中国学連再建準備会結成大会〔広島大〕、中核系の3大学3自治会代表参加(委員長・ 滝川満夫)。


【マル戦派が前衛派、怒涛派に分裂】
 8月、第二次ブントから離脱したマル戦派は、幹部間の対立から、「レーニン主義協議会」(前衛派)と「労働者共産主義委員会」(怒濤派)怒濤派に分裂した。戦略戦術 の総括、岩田理論の評価の対立から、岩田理論の正統継承派を主張する前衛派と、学生活動家を擁し多数派の怒濤派に分裂した。

 岩田理論とは、立正大学教授岩田弘の主張するマルクス主義理論及び運動指南理論とでもいうもので、それまでマル戦派の機関紙「マルクス主義戦線」誌上で「革命綱領とは何か」、「唯物史観の成立と資本論体系」、「統一戦線とは何か」、特に63年6月「経済評論」に発表した「現代資本主義と国家独占資本主義」で明らかにされた「体制的危機論」を眼目にしていた。岩田は、「現代の危機」について、概要「現代資本主義は、第二次大戦後の資本主義の戦後世界体制の崩壊が引き起こすであろう世界危機=史上4番目の『世界的な革命的危機』に当面しており、この現代資本主義の危機が革命と反革命の階級決戦の原動力である」としていた。この理論の受容と批判の仕方を廻って前衛派と怒濤派に分裂することとなった。

 前衛派は、後に党名を共産主義者党と改称し、青年・学生組織として青年共産同盟を発足させる。 岩田理論に基づき、概要「68年のフランスの五月危機を契機に世界は不可避的な経済危機に入った」、「資本主義の末期的危機」、「この危機が『階級決戦の原動力』になる」等の主張を基礎理論とし、「工場占拠、ゼネストによる二重権力の創出」、「反合反帝の工場闘争をプロレタリア日本革命へ」と闘争を 指針させていた。基本的には議会主義を否定しながらも、手段としての議会進出を認め、労働運動を重視した。更に、国際・国内情勢について、それぞれの時点での問題点を分析し、その都度、闘争の在り方を明らかにしていることが注目される。指導下にある組織としては「首都圏行動委員会連合」(首行連)があり、機関紙としては「前衛」を発行した。

 一方、怒濤派は、後に労働者共産主義委員会(労共委)と改称し機関紙「怒濤」を発行、下部組織として共産主義戦線(共戦)を結成することになる。

 8月、東大全共闘の学生たちは、泊り込み体制を作って、テント村とともに夏休み中の砦を維持した。


 8.10日、東大当局(大河内総長)は、緊急評議会を開き、大学側最終案をまとめた「8.10告示」を出した。被処分者の取り消しという形をとって学生をなだめようとした。機動隊の導入について、学生の自粛と暴力行為の抑止を説教していた。医学部ではこの告示を受けて、学部長、付属病院長が交替した。小林新医学部長は、総長名で告示を医学部学生宅に郵送し、対話とストライキ終結を呼びかけ、事態解決のための提案を行った。また、機動隊導入についての、今後の慎重な姿勢などを訴えた。また、機動隊導入についての、今後の慎重な姿勢などを訴えた。が、告示郵送というやり方がかえって学生側の反発をあおった。


 8.11-13日、べ平連主催・反戦と変革に関する国際会議〔京都国際会館〕、3百名参加、のち市内デモ。


 8.16日、べ平連クループ、嘉手納基地前で坐りこ み。27名全員が逮捕され、翌日コザ警察は全員を送検。


【「チェコ事件」発生】
 「人間の顔をした社会主義を求めるプラハの春」と呼ばれた党民主化・社会主義国家体制民主化運動が1968年に爆発的に高揚した。

 8.20日、ソ連などワルシャワ条約機構5カ国軍隊(ソ連・ポーランド・東ドイツ・ハンガリー・ブルガリア)がチェコスロバキアに侵入し、全土を占領するというチェコ事件が発生した(「プラハの春弾圧」)。ドブチェク第一書記、チェル二ーク首相ら党・政府の最高指導者たちはいきなり手錠をかけられ、翌8.21日、モスクワに連行された。


 この時ブレジネフは、「制限主権論」を唱え、冷戦下の社会主義世界体制で、チェコ共産党・国家の独自の改革権限・主権は制限されると主張し、この闘争を指導したドプチェク氏と「プラハの春」指導者らに「反革命」レッテルを貼り、チェコ傀儡政権に命令して、50万人の改革派党員を除名し、職場から追放した。

 ジョンソン米大統領がソ連軍のチェコ即時撤退を要求、仏・伊共産党はソ連を非難、 ハノイ放送はソ連支持を示唆。人民日報が「ソ連修正主義者集団」は「社会帝国主義」に成り下がったと非難、周恩来首相はチェコ人民の抵抗を支持すると演説。 ロンドンでベトナム反戦、ビアフラ支援の大デモ。全米動員委員会が民主党大会へ反戦デモ、大量逮捕される。

 8.21日、ソ連軍のチェコ武力介入に緊急抗議集会。

8.22日午後4時、医学部当局の提案を受けて、医学部学生118名がストライキ終結宣言を貼り出した。


8.22日、三多摩反戦主催・米軍ガソリンタンク輸送拒否・国鉄5万人合理化粉砕総決起集会〔高砂公園〕に反戦・国労・べ平連・全学連(革マル系)・反帝学評・自治会共闘など1500名参加。


8.23日、沖繩から帰京の沖繩闘争学生委(準)ら17名、晴海埠頭で身分証明書を焼き上陸強行、岸壁で中核派学生・べ平連など5百名が支援。


8.24日、東大医学部当局は、9月に異例の卒業試験を行うと掲示した。対象は、春に受験していたものを除く医学部4年生109人だった。


 8.24日、三里塚闘争。成田空港阻止地元反対同盟千名がポーリング阻止で竹槍デモ。


8.25日、法学部1号館で、夏季闘争最後の全学総決起集会がひらかれた。古田理事会は、夏休み期間中の運動の自然消滅をもくろんでいたが、この間、スト貫徹によって策動を粉砕して闘いぬいた3千余人の学友が、闘争の連帯と確信をもって結集した。要求項目として、1・全理事の総退陣、2・検閲制度の廃止ろ、3・B経理の全面公開、4・C集会の自由を認めよ、5・D不当処分白紙撤回のスローガンをかかげた。しかし、同日、大学当局の手で商学部のバリケードが解除された。


8.28日、東大で、さらに9名がストライキ終結宣言をした。この日安田講堂で総決起集会を開いていた東大全共闘300名は、小林新医学部長が記者会見をしているということで団交を要求したが、拒否したので、彼らは、午後5時から医学部本館を封鎖した。小林新医学部長が、夜の7時すぎ学生との話し合いに応じると述べ、翌日、午前零時10分まで話し合いが続いた。結局もの別れに終わった。翌日、灘尾弘吉文部大臣が介入した。島泰三著「安田講堂1968−1969」は「武装した大勢の学生が医学部長をつるしあげたのは暴行、脅迫とも言ってよい」と述べている。


【東大全共闘と民青同の対立激化】

 8.28日、東大医学部の学生が医学部本館を封鎖、研究や実験が停止した。この頃から民青同との抗争が激化し始めた。


 8.28日、アメリカのシカゴで、約2万人の反戦デモが州兵、警官隊と衝突。


 8.29日、東大全共闘が医学部図書館で読売新聞谷川記者に歪曲記事を追及。谷川記者が暴行をうげたと本富士署にころがり込む。9.1日、医学部三吉君に逮捕状。


 8.31-9.1日、民青同系都学連第7回大会〔法政大〕、10.21を中心とする秋期闘争方針を決定。


 8月、ベトナムの米軍54万人に達する。


 9.3日、早大闘争。機動隊導入。5000名学生が学生会館奪還集会。


9.3日、夏休みが明け、駒場での東大全共闘の全学総決起集会に千人あまりの学生たちが集まった。10.7日、教養学部代議員大会。教養学部では学生10人に1人の代議員が選ばれるところ、総数852人のうち432人が集まり、ストライキ中止提案を含む全提案を否決し無期限ストライキを続行させた。


9.4日、日大で、東京地裁が認めたバリケードを非合法とする「占有排除仮処分」によって500人の機動隊が、経、法、本部学部のバリケード封鎖を解除し、132人全員が逮捕された。抗議集会に3千人が結集した。抗議集会は、「古田理事会は学園を国家権力に売りわたした」、「われわれ学生の力で国家権力の手から学園を解放しよう」と、怒りのシュプレヒコールに包まれデモ行進に移った。校舎内にいた職員と右翼学生は追い出された。警官1人死亡(日大の封鎖解除警備にあたっていた第5機動隊西条秀雄巡査部長が、学生が屋上から放った大きなコンクリートを頭に受け殉職)。日大全共闘の闘いは国家権力との直接対峙となり、秋田議長は全国に指名手配された。


9.4日−12日、日大経済、法学部奪還の闘争は、6日35名、7日129名、12日154名総計318名に及ぶ検束者をだしながらも、全共闘に結集した2万余の学友が、白山通りを中心に三崎町一体を埋めつくした。9.12日、経済、法学部は、紙吹雪の舞う歓喜の中で奪還された。


9.7日、東大教養学部代議員大会には、6千人の学生が登校し、教養学部では学生10人に1人の代議員が選ばれるが、総数852人のうち432人が集まり、ストライキ中止提案を含む全提案が否決されて、無期限ストライキが続行されることになった。


9.7-8日、医学連第15回全国大会〔東大安田講堂〕。30大学代表220名参加。臨床研修制粉砕・健保改悪阻止等を決定。入場を阻止された民青同系26大学2百名は八日”医学連の正常な機能回復をめざす全国医学生集会“開催、全国医学系自治会連絡会議発足。


 9.9日、東大医学部卒業試験が極秘に都内数カ所で。


【法政大で中核派と民育系が乱闘】
 9.9―11日、法政大で中核派と民育系が乱闘。
 「9/11 3日間、中核派と民育系が乱闘した法大で1000人超す一般学生が両派を学内から追い出し事態収拾」(毎日新聞社 1998)。

 9.10日、東京地評主催・国鉄合理化粉砕・米軍事物資輪送拒否・10.21ストをめざす全都青年労働者総決起集会〔日比谷野音〕に反戦・全学連(反帝・革マル) など4千名参加、デモで学生5名逮捕。


 9.11日、日米安保小委員会抗議集会〔芝公園〕に社学同系250名参加、のち外務省デモ、大阪では社学同系2百名、集会〔扇町公園〕・大阪中郵までデモ。構改系60名、集会〔中之島公園〕・中郵までデモ。民青同系代表5名、米領事館に抗議文手交。


 9.11日、名古屋反帝学評の集会場〔日本福祉大〕に愛知県学連(民青同系)百名、ヘルメット・ 角材でピケ、集会参加の反帝学評系学生に投石し2名を同大自治会室に軟禁、集会は流会。


9.11日、東大教養学部基礎科学科(147人)も無期限ストライキに入った。


 9.11日、 日大全共闘大衆団交。これに対し学生課右翼グループが襲撃をかけ学生側に200名以上の負傷者が出た。


 9.12日、日大全共闘総決起集会。数万名結集し、法学部、経済学部を再封鎖した。逮捕者154名。この頃東大闘争が拡大していくことになった。


9.16日、東大本郷構内の五つの学部で学生大会、学部集会。医学部の学部集会には教官、学生約1300名が参加。教養学部では反日共系学生が教養学部長との団交決裂の後、駒場全共闘の手で学部長室、事務室を封鎖した。翌日、日共系部隊がこの封鎖を一時解除したが、全共闘側が再封鎖した。


 9.18日、東大教養学部代議員大会で、日共系議長がリコールされ、全共闘系学生が議長になった。「しかし、全提案は否決され」(?)無期限ストライキが全学に拡がって行くことになった。


 9.18日、中核派の埼玉大経済学部生滝沢紀昭氏が芝浦工大の大宮校舎内でテロられ、二階の窓から転落死亡。


 9.18日、東大医学部緊急教授総会で、卒業試験を一時延期、当分休講。この頃東大闘争が拡大していくことになる。


 9.19日、工学部もストに突入。東大工が無期限ストライキに突入した。以降、9.27日に経済学部、9.28日に教育学部、10.2日に理学部、10.3日に薬学部と農学部、10.12日に法学部が無期限ストライキに入り、すでにストライキにはいっていた医学部、文学部と併せて、東大の全10学部が無期限ストライキに入った。


9.19日、日大医学部もストを決定して、9.20日、日大11学部すべてがストライキに入った(日大全学ストに突入)。


 9.20日、日大全学ストに突入。


9.21日、日大の古田会頭は、「大学の定款を改正した後に全理事が総退陣する」と発表した。


9.21日、東大都市工学大学院の学生が、10.2日、基礎医学・社会医学若手研究者の会(56人)が無期限ストライキを始めた。


10.21日、国際反戦デーには新宿事件が発生した[16]


9.21-23日、社青同第8回大会〔全専売会館〕、36地本百62代議員参加、反戦の評価をめぐり激論。


 9.22日、東大全共闘の学生約250名が医学部付属病院の外科系医局・研究棟にバリケードを築き、封鎖。

 9.22日、東京地区反戰・三多摩実行委共催・米タン輸送拒否・国鉄合理化粉砕集会〔立川高砂公園〕。各派4千名が立川基地周辺で集会とデモ。111名逮捕。中核派350名が立川駅から基地南端へデモ、11名が基地内に突入し機動隊と乱闘、83名逮捕。


9.24日、日大全共闘は、法学部一号館前の2千人の集会。9.30団交要求を決議のあと、午後7時、大学本部を再封鎖し、27日には郡山市の工学部校舎も再封鎖した。


9.26日、政府、水俣病と阿賀野川水銀中毒を公害病に正式認定。


 9.27日、東大医学部赤レンガ館を研究者が自主封鎖。民青同との対立が抜き差しならない方向で進んだ。


 9.28日、東京教育大学が全学バリケード封鎖に突入。


9.29日、9.4攻防戦で日大バリケード解除の際に、学生が落とした石塊を受けた西条第五機分隊長が死亡したと伝えられた。


【大学運営措置法上程される】
 この間「大学の運営に関する臨時措置法案」(大学運営措置法)が政府から押しつけられることになった。「戦後民主主義」が獲得していた「大学の自治と学問の自由」に対する大きな制限を伴ったものであった。

 民青同系全学連は、 「大学の自治と自由を擁護」する観点からこの新大管法との闘争を組織しつつ、他方で「政府・自民党に泳がされたトロツキスト、ニセ左翼暴力集団を孤立」させようとして全共闘運動と敵対していくことになった。


【日大大衆団交】
 9.29日、緊急理事学部長会議で、9.30日に大学主催の全学集会開催・全理事出席を決定。

 9.30日、学生側の勢いに、ついに日本大学側は、学生との大衆団交要求に応じ、日大緊急理事会が開かれ、この日午後3時、両国講堂で、学生側が要求した「大衆団交」が開かれることになった。全共闘先発隊百五十名、右翼学生を粉砕。

その日、両国講堂には、3万5千人の学生が集まり、古田重二良会頭以下の全理事を壇上にすえて、大衆団交が開かれた。団交は、翌日の午前3時まで約12時間続けられ、全理事が、6.11日の弾圧、8.4日の大衆団交破棄、9.4日の仮処分執行、機動隊導入への自己批判書を読み上げて全理事退陣を含む十二項日要求を確認させられたうえで署名捺印した。また、大学側は、学生に全面屈服する形で、検閲制度の廃止、思想、集会、表現の自由の承認、指導委員会制・顧問制の廃止、本部体育会の解散、学生会館の設立、ヤミ給与問題の全容解明、経理の全面公開、全理事の即時退陣、大衆団交の継続を理事の総退陣を前提として、10.3日開催するなどの確認書に全理事が署名した。両国講堂は、学生たちの拍手と大歓声にわき、紙吹雪が舞った。古田体制打倒をめざした全共闘側の大勝利であった。


9.30日、当時、全国で51大学が紛争中だった。東洋大では9.7日から校舎占拠が始まっていたがこの日、理事長が退任した。同日、京大医学部では、87人全員に卒業を認定し、闘争を終結させていた。


【日大闘争裏面考】
 初代の全国連合大学原理研究会会長で初期の理論的指導者であった小宮山嘉一氏は、164年頃から日本大学の精神文化研究所長を務めた東(あずま)節夫・氏の薫陶を受け、1967−8年頃には原理運動から身を退き、次第にカタカムナ相似象学に接近して行き、エコロジストとして浮上する。その小宮山氏が1974年発行した「天然文明の黎明に向けて」で次のように語っている。(阿基米得「謎のカタカムナ文明」34P)
 「かって小宮山氏は武田洋一氏(「地球ロマン」、「迷宮」誌編集長)の取材に対して、次のように語ったことがある。日大闘争の背後には、古田派と反古田派の理事レベルの暗闘があった。この反古田派の背後には児玉誉士夫が控え、教職員組合も反古田だったのだが、この反古田派が学生の闘争に火をつけたのである。私は古田の悪行の数々に関する証拠書類を日大全共闘の委員長であった秋田明大に手渡してやった。古田サイドから入って来た機動隊が包囲するという情報を提供したこともある。私は古田、反古田をひっくるめて腐り切った大学管理者たちに引導を渡さねばと思ってやったまでで、秋田君と一緒に『スパルタクスの反乱』という映画を見に行って、中途半端じゃダメだ。やるならスパルタクスのように最後まで闘えといった記憶がある。そして秋田君のアジ演説の原稿まで書いた。ただ私はセクトが共闘会議を牛耳るのを阻止したくて、要するにノンセクト・ラディカルといわれる部分を応援したんだ」

 10月、ロンドンで4万人の反戦デモ。


 10.1日、佐藤首相が閣僚懇談会で、日大の大衆団交に激怒し、集団暴力はゆるせない、「大学問題を政治問題としてとりあげる」と発言、政治問題化する。佐藤首相は、全理事を居座らせた上で強権弾圧に乗り出すよう指示した。


 10.1日、東大の理・農・法学部も無期限ストライキ突入。


 10.1日、神奈川大学で、使途不明金問題による学長、理事の総退陣に伴って学園紛争が勃発した。同日、東京外国語大学が無期限ストライキに入った。


 10.2日、メキシコで、集会中の学生、市民に軍隊が発砲、死者200名以上。


 10.2日、大学問題閣僚懇談会で佐藤首相、日大の大衆団交は認められぬ、政治問題として対策と発言。


10.3日、日大で、大衆団交での確認書も白紙撤回して、全理事がそのまま居座った。そして、理事会側が攻勢に出るという反転現象がおこっていた。政治や警察の権力をむきだしにしての大弾圧がはじまった。すでに大学闘争は、日大や東大だけの問題でなくなっていた。全共闘一万名で抗議集会〔両国講堂〕、のち経済学部前で集会・ デモ。


10.4日、社会党大会再開、成田委員長・江田書記長を選出。


 1 0.4日、大阪市大機動隊導入封鎖解除。


 10.4日、東京医科歯科大学ではこの日の全学大会で、1.19日以来のストライキを解除するとともに、5月末からの病院外来の封鎖も解除した。


 10.4日、医局生を含む二百名が東大医学部一・三号館を封鎖。


 10.4日、日大全共闘秋田議長ら7名に9.4以降の無届デモ指揮を理由に逮捕状出る。10.5日、大学側は機動隊の力で次々とバリケードを解除しはじめた。「大衆団交によって、大学側を全面屈服まで追い込み、大学闘争に金字塔をきずいた日大闘争」は燃え尽きつつあった。秋田議長が、闘争半年後の69年3月、東京都内の潜伏先で逮捕されるなど多くの全共闘活動家が逮捕された。


【МL同盟結成される】

 10.3−4日、第二次ブントの統合に反対して加わらなかった毛沢東派グループがМL(マルクスレーニン主義)同盟を結成(議長/牧村淳夫)し、その傘下に学生解放戦線・労働者解放戦線を組織した。ML派は、毛沢東思想に基づく「帝国主義打倒の人民革命」式武力闘争を公然と主張し、かっての「球根栽培法」 等を再刊し火炎瓶闘争を指導し始めた。

 10.10日、ML同盟が、機関紙赤光に「日本マルクス・レーニン者同盟(МL同盟)結成宣言」を発表。


 10.7日、東大全共闘、 全学総決起集会〔駒場〕に2千名参加。10.8日、東大の精神神経科医局が医局の解散決議をした。医局制度が、研究、医療と人事を束ねる教授専制支配の根源としていたからであった。10.9日、全学院生研究生総決起集会。


10.8日、政府、 10.8デモで騒乱罪適用を検討。10.11日、適用見送り。


【10.8日、羽田闘争1周年集会】
 10.8日、羽田闘争1周年記念、山崎君追悼10.8集会〔日比谷野音〕が開催され、中核派、社学同、ML派、反戦青年委員会約1万名が参加。米タン輸送阻止・合理化粉砕・10.21スト勝利青年総決起集会〔明治公園〕に反戦・動労・国労および学生(革マル・社青同・構改)の2400名が結集。両集会後、構造改革派系が新宿駅で合流。その後新宿駅で米軍燃料タンク車(米タン)阻止闘争、新宿駅を占拠した。144名が逮捕される。このため列車、電車計23本が運休、153本に遅れがでた。この学生の行動には、膨大な群集も参加して、10.21の反戦闘争に向けてもりあがる契機となった。「10.8新宿駅デモ事件」と云われる。

 全国16都道府県30ヵ所で集会・デモ。京都集会〔円山公園〕に2千名参加・ 20名逮捕。大阪集会〔扇町公園〕に1800名参加、15名逮捕される。
 革マル派と社青同解放派は別個に10.21に向けての総決起集会を明治公園で開催した。

 10.9日、政府は、学生デモに対する警察の対応が手ぬるいとして、首相官邸で緊急治安会議をひらき、法務省、警察庁などと対策を協議、「騒乱罪」適用を警察側に強く要請した。


 10.11日、福島大学全学スト突入。

10.12日、東大医学部と病院の青年たちは、「全医学部共闘会議」を結成し、若手医師を含む組織が誕生した。翌日、10.22日、診療科の教授、助教授からなる「医学部臨床教授会」は、「青医連」を認める方向を打ち出した。


 10.12日、東大法学部が無期限スト突入。バリケードを築く。これで開校以来初の10学部全学部が「無期限スト」に突入。


 10.13日、九大機動隊導入封鎖解除。


 10.13日、第19回オリンピック・メキシコ大会。日本は215名参加。


 10.13日、べ平連事務所を、先の新宿デモとの関連で警視庁が初捜索。


 10.13−31日、中共十二中全会、劉少奇を除名、正式に国家主席罷免を確認。


 10.16日、早大機動隊導入、全学ロックアウト。


 10.16日、教育闘争勝利全都総決起集会〔東大安田講堂前〕に反帝学評・フロント系学生7百名参加、日比谷公園から文部省へ無届デモ、機動隊に規制され七名逮捕。


 10.17日、東京都教育委員長が、高校生の政治活動の禁止の通達を出した。


 10.17日、東大で、全学総決起集会を駒場で開催して3千人を集めた。


 10.17日、厚生省が、カネミ倉庫製米ぬか油中毒事件で販売停止通達(カネミ油症事件)。


 10.17日、川端康成がノーベル文学賞受賞。


 10.18日、東大医学部神経内科の医局員15名全員が無給医診療拒否。


 10.19日、反帝学評70名、国会構内突入、17名逮補。


 10.20日、東大医学部教授会は、医学部紛争の発端となった青年医師連合(青医連)東大支部を交渉相手の一つとして認めることに決定。


 10.20日、立大・国際基督大・東京農大機動隊導入封鎖解除。


 10.20日午後9時過ぎ、社学同の学生26名が東京六本木の防衛庁に突入。防衛庁1号館を占拠。通信施設を一時占拠し、26名全員が逮捕された。


 10.20日、「10月反戦行動」実行委による市民デモ。明治公園→新宿駅西口、3000名結集。9名逮捕される。そのあと新宿駅東口でべ平連街頭演説会。石田郁夫、小田実、小中陽太郎、日高六郎ら発言、1万名結集。


 10月、東大の精神科医局が自主解散。新左翼系の医師達が「東大精神科医師連合」を結成する。翌1969(昭和44)年、守旧派が「教室会議」を結成し、「東大精神科医師連合」と対立する。「精神科医師連合」は病棟を自主管理し、一方「教室会議」は外来に廻った。東大精神科の外来と病棟は以降長期化する。この年の精神神経学会は、新左翼系若手医師と執行部の間で激しい討論が交わされ紛糾する。


【10.21国際反戦デー、新宿騒乱】
 10.21日、国際反戦デー闘争。総評は「きたる70年安保闘争の本格化への第一歩とする」、新左翼系各派も「突破口とする」と位置づけ全国で46都道府県560ケ所30万名参加、都内43ケ所での統一行動日集会デモとなった。全共闘系全学は31大学60自治会スト決行、スト参加学生数6万名、中央集会に1万余を結集。東大全共闘が3千人の総決起集会を開いた。新宿・国会・防衛庁等で2万人デモ。機動隊と激突。
 東京での闘争は、三派それぞれ分裂した行動になった。このことが結果的に同時多発闘争を展開することになった。
 ブント社学同統一派系は、日本の軍事・外交路線攻撃の焦点にして1000名で中央大集結後、総評・中立労連の集会場である明治公園で角材、丸太で完全武装して青山通りをデモ、5時過ぎ、防衛庁の正門と東門から同庁内に突入を図った(防衛庁突入闘争)。全学連委員長だった藤本敏夫が検挙された。反戦青年委員会の8百名もこれに続くが、催涙ガスと放水で警官隊が応戦し、さらに約1時間の激突の末、警察側がおこなった一斉検挙で214人が逮捕された。
 社青同解放派系は、反戦・反政府闘争と位置づけ、学生、反戦青年委の1200名が早大集結後、午後8時20分頃、政府中枢機関たる国会とアメ リカ大使館に突入闘争。100名以上が逮捕された。10.21闘争後、解放派の早稲田における動員力が急速に低下した(高原峻)。
 革マル派と構造改革派(フロント)900名(1700名ともある)は、反戦・反政府闘争と位置づけ、東大で集結後国会へ向かう途中の麹町警察署前で午後7時頃機動隊と衝突。50名が逮捕された。
 中核派、ML派、 第4インターは、ベトナム反戦のための米軍タンク輸送車実力阻止を目指し、1500名は明大集結後、お茶の水駅前で決起集会を開き、5時過ぎ電車で代々木駅下車、隊列を整えて石をポケットにつめこみながら線路づたいに新宿駅にむかって駆けだした。午後8時頃、国会、防衛庁、アメリカ大使館などへ突入をはかった部隊と合流して4千数百人となり、新宿駅東口駅前に集まった労働者・市民の群衆約2万人を巻きこんで、新宿駅を占拠、包囲する形となった。学生部隊は、駅舎、電車、信号機などを破壊、駅前では警備車を横倒しにして放火、さらに南口階段付近にも放火し10.21闘争最大の激戦を演出した。深夜になっても万を超す群衆が去らなかった。

 
No 321-2  ある「元中核派活動家」の回想 1967−1969 その2」の「68.10.21国際反戦デー」が次のように証言している。
 68年の10・21がすごかった。この日、午後2時頃、我々は法政大学に集まった。「今日は反戦デーだから中核派は新宿に行く。新宿騒乱を起こす」ということで、法政大で決起集会を開いた。ブントは前の日に丸太を持って防衛庁に突っ込んでいた。夕方4時頃、「いよいよ出発だ」ということで、飯田橋の駅から中核派が200人位、総武線に乗った。我々兵隊は闘争方針なんか言われていない。どういう闘争をするのかも知らされていない。そんな状況で中核派の1員として総武線に乗り込んだ。総武線に乗って、代々木の手前で「全員降りろ」という指示があり、線路に降りた。それで線路づたいに新宿に行った。電車はストップした。電車を降りて新宿まで500メートルくらい、線路の石を拾って投げながら線路の上を走って、機動隊が来たが全部粉砕しました。新宿駅は解放区になりました。それで完全に駅を占拠して、その後東口に出て群衆と合流した。それで伊勢丹のあたりまでずっとデモをやって、もう何万というデモ隊です。我々200名の部隊が新宿駅に突撃したことによって、群衆が我々を守って、警察は全然手を付けられない。我々は東口から伊勢丹前まで何回も往復して、その都度、デモ隊の数が膨れ上がる。そんな中で他党派なども駆けつけてくる。深夜になって、騒乱罪が適用になった。ところが、我々は夕方5時から闘っているので、「今日の闘いは勝利だった」として夜10時には解散した。中核派の中心部隊は夜10時頃には帰路についた。ところが群衆は収まらない。騒乱罪が適用された時間帯には中核派は本当はいないはずです。
 民青同系6千名、文部省デモ・ 坐り込み。
 大阪では各派集会後、学生・ 反戦4200名、御堂筋で機動隊と激突、93名逮捕、全国逮捕者1012名。

【騒乱罪適用】

 政府は、翌22日未明、1952(昭和27)のメーデ−事件以来の16年ぶりの騒乱罪を適用指令、深夜の午前零時15分、警視庁が「騒乱罪」の適用を指令、一斉検挙に踏みきった。午前3時頃ようやく治安を回復した。769名逮捕される。 警察官の負傷者は重傷者7名を含む744名で「正直なところ機動隊の負け戦(いくさ)だった」(佐々淳行「東大落城」)。その後、騒乱罪の指揮容疑で中核派全学連委員長秋山勝行委員長ら幹部が逮捕された。

 「新宿騒乱事件」に、陸自調査学校(東京都小平市、現・小平学校)が調査学校の副校長で陸将補山本舜勝(きよかつ)の指揮で、三島と「楯の会」会メンバー計数十人を学生らのデモ隊の中に潜入させ、組織リーダーが誰かなどを調査する訓練を行っていた。訓練は安保闘争の高まりを受けて、自衛隊の治安出動を想定したもので、調査学校の教育課程は増強され、訓練に参加する三島らの食費などが公費でまかなわれたこともあるという。

10.21日、国際反戦デーには、東大全共闘も3千人の総決起集会を開いた。


 10.23日、政府が、日本武道館で明治百年記念式典を開催。


 10.29日、革マル派と解放派が日比谷公園で騒乱罪適用反対総決起集会開催。


 10.30日、騒乱罪粉砕・安保粉砕・沖繩闘争勝利労働者学生全都総決起集会〔日比谷野音〕に革マル・ 反帝学評を除く各派二千名参加、のちデモ。


【アメリカ大統領ジョンソンが北ベトナム爆撃・艦砲射撃・地上砲撃停止発表】
 10.31日、アメリカ大統領ジョンソンは、11.1日以降北ベトナムに対するいっさいの爆撃・艦砲 射撃・地上砲撃を停止すると発表した。それはベトナム戦争の終結がまじかであり、力をもってしては、ベトナムを屈服させることができないことを知ったアメリカの世界戦略の転換点であった。日本で反戦運動を闘っている学生、労働者が、全共闘運動を含め、勝利のかすかな予感を感じた瞬間であった。

【「新大管法」反対闘争】
 この間「大学の運営に関する臨時措置法案」(大学運営措置法)が政府から押しつけられることになった。「戦後民主主義」が獲得していた「大学の自治と学問の自由」に対する大きな制限を伴ったものであった。民青同系全学連は、 「大学の自治と自由を擁護」する観点からこの新大管法との闘争を組織しつつ、他方で「政府・自民党に泳がされたトロッキスト、ニセ左翼暴力集団を孤立」させようとして全共闘運動と敵対していくことになった。

【東大・大河内総長、全学部長、評議員が紛争の責任をとって辞任】

 11.1日、東大、大河内一男総長が学内混乱の責任を取って辞任。10学部の現学部長全員も辞任。東大総長が任期を全うせず辞任するのは戦後初めてのことであり、東大90年の歴史にも前例がない。大河内総長の辞任声明には、教師と学生との間に人間的な信頼関係が欠けていたとして医学部教授会、教官を批判するような文面があったが、自分自身に対する責任の所在は何ら明らかにされていなかった。逆に「大学の自治」を盾にとって学生の側の自重を垂れていた。学生から見ると勘所がちがっており納得できるものではなかつた。

 11.4日、加藤一郎法学部教授を総長代行とする新執行部が発足した。そして、医学部学生の処分撤回が決定された。

 11.1日、騒乱罪適用粉砕・ 沖繩闘争勝利全学連(中核系) 統一行動、京大・同志社大・竜谷大等学生百名、集会〔立命館大〕・市内デモ。


11.3日、東大経済学部の大学院生が、学部長室と研究室を封鎖した。


11.4日、文学部ストライキ実行委員会が、林健太郎文学部長との団交を始め、それが無期限団交となり1週間にわたって監禁状態におくという事件が発生した。全共闘は教職員会館を封鎖した。


この頃、東大には東大生だけではなく、全国から学生が集結していた。加藤代行は東大生との全学集会を試みるも、反代々木系学生の罵声でもみ消される。この闘争の中で、大学の正常化に協力的だった代々木系と、断固解体を支持する反代々木系が激しく対立。学生内紛争がおこる。年の瀬も迫り、文部省は授業再開のメドのたたない大学は入試を中止との意向を発表。加藤代行に渡された猶予は翌年1.15日であった。


 この頃、こうした全共闘側のエスカレートに対抗して民青同学生が反全共闘的に対立してくることとなった。


 11.6日、琉球政府主席選挙で屋良朝苗当選。


 11.6日、米国大統領選で、共和党のR・ニクソンが当選。この年、米国での兵役拒否をめぐる裁判は2427件。


【沖縄闘争】
 11.7日、沖縄闘争。中核派、ML派、社学同、第4インターの学生・反戦青年委員会約5千名が首相官邸デモを仕掛け安保粉砕・沖縄闘争勝利を叫び首相官邸乱入。この闘いで中核派全学連委員長・秋山、反帝全学連委員長・藤本ら474名が逮捕される。のち東京地区反戦主催の全都集会〔日比谷野音〕に合流。革マル・反帝学評・フロント系学生・ 反戦1500名、労学決起集会〔明治公園〕の後、デモで国会に向かおうとして機動隊と衝突、全国10都道府県13ヵ所で民青同系もふくめ5500名が決起。

11.8日、東大駒場で大衆団交が100時間を超え、決裂。全共闘は教職員会館を封鎖した。


【日大で、右翼系が日大全共闘襲撃】
 11.8日、日大で、職業右翼に率いられた体育会系学生「関東軍」400名が黒のヘルメット、マスクをつけ、日本刀、樫の木刀、熊手、鉄棒、ライフル銃で武装し、日大芸術学部のバリケードを襲撃した。この時、バリケードの中には約40名の日大芸術学部闘争委員会(芸斗委)のメンバーしかいなかった。彼らは次々にバリケードを破って全共闘を追い詰め、午前2時には屋上に通じるバリケードだけになった。急報を受けた日大全共闘の行動隊200名が朝一番の電車にのってやってきた。日大全共闘は体育会系学生62名を捕捉し、積年の恨みつらみを晴らす糾弾により自己批判させた。この事件で、芸斗委側も重傷者4名が入院した。日大全共闘はこの後、神田三崎町で全学抗議集会を開いた。

 この襲撃事件にたいして、警視庁は1225名の機動隊を動員し、芸術学部バリケードを攻撃し、芸斗委46名を全員逮捕した。だが、日大全共闘は、同じ日、午後4時にはバリケードを再建した。

11.9日、東大全共闘の機関紙「進撃」が創刊された。この日、日共が「大学闘争テーゼ」を発表した。


11.10日、東大全共闘が工学部7号館、11.11日、駒場の第一研究室と第二本館を封鎖し、同日、農学部グランドでの全学教官集会を解散させた。


 11.11日、静岡大法経短大学部で、民青系(代々木系)と反代々木系学生が乱闘、40人が負傷。


 11.12日、東大、林学部長は173時間ぶりにドクター・ストップで解放され、ただちに入院。「大衆団交」貫徹を要求する全共闘は全学バリケード封鎖を予告した。


 11.12日、理学部の学生大会が開催されたが、日共系も全共闘系も提案が通らなかった。午前1時すぎ、全共闘方針を否定する「全学バリケード封鎖反対決議」が可決された(賛成134、反対60、保留21、棄権4)。


 11.12日午後4時すぎ、安田講堂内で東大全共闘の総決起集会「全学封鎖貫徹総決起集会」 が(1,500人)行われた。集会後、総合図書館前に繰り出した。そこには宮崎学らが指揮する日共民青の“あかつき部隊”500人が待ちかまえていた。午後8時45分頃、ぶつかり合いが始まった。はじめ日共系の黄色のヘルメットの集団が、角材で殴りかかってくる全共闘諸派連合の攻撃を受け止めていた。ところが、指揮官の笛がなり、“あかつき部隊”の黄色いヘルメットは、一斉に細い棒を振り上げて全共闘部隊に襲いかかった。樫の木刀である。伸びきった態勢の全共闘部隊の最前線はたちまち総崩れになり、日共民青の見事な反撃が印象づけられた。


 11.12日夜、全共闘の全学封鎖方針を廻って対立していた全共闘と民青同学生が東大総合図書館前で衝突。約70名が負傷。双方他大学学生の支援も加わり、東大構内はアナーキー化していくこととなった。1000名のうち500名が解放派及び、革マル派。ことに革マル派の攻撃は執拗であった。全共闘は工学部などを実力封鎖。


同日、東大理学部の学生大会が開催されていた。日共系も全共闘系も提案が通らなかった。午前1時すぎになって、全共闘方針を否定する「全学バリケード封鎖反対決議」が可決された(賛成134、反対60、保留21、棄権4)。


【革マル派と解放派の党派間抗争のゴング鳴る】
 11.12−14日、早大で滝口弘人連続講演会が開催されたが、革マル派の高島忠正をリーダーとする革マル派学生が押しかけ、滝口氏らに暴力を加えるとともに、解放派の4名に対して東大図書館封鎖を口実にリンチを行う。口実は民青との対決を日和ったというもの。

11.14日、東大法学部で「全学封鎖阻止決議」が通った(賛成371、反対126)。全学封鎖戦術は全共闘にとって不利な風向きになってきた。連日、赤旗が、「団結の力によって、学園民主化を妨害するトロツキスト暴力集団の暴挙を粉砕し、かれらの狂暴な暴力を学園から一掃することこそ東大闘争の真の解決の保障である」といったキャンペーンを流した。


 11.14日、駒場第三・第六本館封鎖をめぐり再び全共闘と民青同学生が衝突。東大教養学部で代々木系と反代々木系の学生の衝突を、教官がスクラム組み割り込んで拡大を阻止。


11.16日、政府が介入の姿勢をみせ始めた。文部省が、東大、東京教育大、東京外語大、日大に「授業を再開せよ」との通達を出した。全共闘は、18日に全都総決起集会、22日に日大全共闘が総力をあげて結集する「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」を予定し、この力を背景に、全学バリケード封鎖を実行することを宣言した。自治会の決議は、闘う学生の個々の意思まで規制することはできない。これに対して日共系学生は「全学封鎖断固阻止」を掲げ、全面対決になった。


11.17日、東大山本全共闘代表・ 日大秋田全共闘議長が11.22全国総決起大会開催の共同声明発表。


11.18日、安田講堂前は、全共闘の全都総決起集会と「公開予備折衝」に集まった8千人の人並みで埋まった。午後2時10分前、3人の教授を引き連れて、加藤代行が安田講堂に現れた。加藤代行は巧みな弁舌を披露したが、学生の要求した7項目の要求を黙殺しようとした為、「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールの中午後7時20分退場した。この頃、本郷の各学部では次々に学生大会が開かれ、全学バリケード封鎖否決が続いた。


 11.19日、東大、工学生大会、全学バリ封鎖反対可決。


 11.19日、加藤総長代行が民青同派と公開予備折衝に入る。


 11.21日、総合図書館前で全共闘と民青衝突。


 11.22日、「『大衆団交』貫徹を要求する全共闘は全学バリケード封鎖を予告し、これに反対する白共系学生と乱闘となり、約70人が負傷」、「図書館封鎖で全学封鎖めざす全共闘と代々木系が角材で乱闘」(毎日新聞社 1998)。東大が図書館封鎖。学生側は「自主管理」で駒場祭開催。


【日大・東大闘争勝利全国総決起集会】
 11.22日、全共闘が、東大構内安田講堂前で「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」を開催した。全国動員となり、午後2時頃から安田講堂前、銀杏並木と正門前が約2万名の学生でうずめられた。安田講堂前の広場は、赤、白、青、緑、黒、銀色のヘルメットで埋めつくされ、その周囲に報道、一般学生が隙間なく立ち並んでいた。講堂正門には、各派と各大学の旗が立ち並び、それを背景に各派のマイクアジテーションが続いた。

 午後4時前、東大全共闘の一人がマイクで叫んだ。日大全共闘の無届デモの学生3千名が神田三崎町の日大経済学部バリケードを出発し、2千人の機動隊の壁をはねのけて正門前に到着した。どよめきがおこった。日大全共闘のために正面の席があけられた。秋田明大日大全共闘議長が演壇に姿を現し、数万の学生たちの前で演説をした。午後8時全共闘の集会が終わって、学内デモが始まった。ここに、東大全共闘と日大全共闘の共闘が勝ち取られた。

 No 322-1  ある「元中核派活動家」の回想 1967−1969その3」の「東大闘争への関わり」が次のように証言している。
 その頃から東大闘争が始まってくる訳です。11・22は感動しましたね。全国総決起集会ということで、各大学は全共闘として出ているので、明大も全共闘として出た。明大から500名位来ていた。夕方4時、5時頃から東大の安田講堂前で座り込んでいた。集会が始まる前は、各党派のアジテーションばかりやっていた。いつ始まるかと思っていたら、まだ日大が来ていないということだった。日大の三崎校舎から東大まで距離がある。その間に機動隊とやりあって、夜の8時頃「ようやく日大が到着しました」とアナウンスがあり、3,000名位の日大部隊が無事に到着した。安田講堂前の中央部分を開けて、皆が拍手して迎入れた。そのシーンが感動的で今でも忘れられない。ようやく集会が始まり、1万人くらいの全共闘系学生が揃った。集会終了後、東大では民青が教育学部を中心に陣取っているから、「今から教育学部の民青をたたき出す」ということで、教育学部周辺を8千から1万人が取り囲んだ。民青は待ち構えている。デモを何回も繰り返したが、東大の外には機動隊がいる。内ゲバが始まったら介入する構えだったが、その日は内ゲバはなかった。
 全共闘に反発する民青同系は約7千名を動員し、教育学部前に集結した。東大構内の外では4千人の機動隊が待機していた。夜遅くまで7千人の学生が東大構内にとどまっていた。
 「11.22 東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会に結集せよ」。
 全国のすべての学友諸君!
 東京大学ならびに日本大学の闘う両全学共闘会議は、日本の戦闘的学生運動の歴史的総決起大会への結集を呼びかける。現代世界の根本的矛盾は、今日、人民の血みどろの闘いの展開をつうじて明らかに激化している。人民の未来をかけた解放の闘いは、疑いもなく、全世界学生の力によってより広く、より深くつき進んでいる。フランスの「五月革命」を、或いは、オリンピックを前にしたメキシコの反政府闘争を、そして、日本における10・21反戦・反安保闘争を赤い糸のように貫いている階級闘争の必然性は、いま、日本全国学生の一大総決起をますます強く要請しているのだ。 激化する全国学園闘争の両天王山「東大・日大闘争勝利」の旗のもとに、全国学生の総力を一点に結集し、圧倒的銀杏並木集会に三万人の大結集をかちとり、この要請に勇躍として応えようではないか。いうまでもなく、東大・日大闘争は日本帝国主義の根幹を大きく揺り動かし、支配と抑圧の重大なる危機をもたらしている。 ブルジョア支配権力の大学における象徴であり、官僚・エリート育成の場である東大と、独占資本と癒着し、中堅労働力育成のために、営利主義を貢きつつ、徹底して恐怖政治的学生自治弾圧をなしてきた日大において、実に空前のストライキ闘争が展開されていることこそ、帝国主義者の危機でなくて何であろう。日大闘争は、150日間の全過程のなかで、学園闘争史上全く未曽有の権力の大弾圧によって逮捕者総数700余名と深く傷をうけている。だが、9月30日の大衆団交は「日大方式―人民裁判」といわしめ、輝やかしい金字塔をうちたてた。しかも、右翼暴力集団の度重なる襲撃を断固撃退しつつ、日大体制の「破壊」にむけて、武装ストライキの非妥協的闘いを前進させている。敗北や後退や躊躇は日大闘争にはない。あるのは勝利と前進と決断なのだ。

 1月29日、医学部が決起して以来、295日経た現在、東大闘争は全10学部の無期限ストという巨大な闘いに成長した。かくて資本制日本百年の歴史において常に中枢に位置していた東大の反人民的過去の一切が裁かれようとしている。「処分白紙撤回」に始まる七項目要求を掲げて戦い抜かれてきた東大闘争は今日、決定的な局面を迎えている。実に東大の「革命」が果せるか否かの決定的岐路に到達している。この時点で、共闘会議の闘いの前に敗北し、破産を宣告された日共=民青は、全国よりゲバルト部隊を導入し、先進的学生の武装解除とバリケード破壊を行なうことにより、東大闘争を流産させ、党派的利益を貫檄せんとしている。東大闘争の勝利はかかる困難な現局面を全学バリケード封鎖闘争をもって断固として闘い抜くことによってのみ勝ち取りうるのだ。 

 全国の学友諸君!
 東大・日大闘争を天王山とする全国学園闘争の勝利か敗北かの中に、日本全国学生の、そして、全日本人の未来がかかっている。 「大学問題は政治問題である」という10月1日の佐藤発言が雄弁に立証している。 東大・日大闘争を、文字通り、闘う全国学生の全カ量をあげて勝利させるならば、うち続く全国50数大学の学園闘争の勝利と、反戦・反安保の諸闘争の展望を大きく切り拓くだろう。 来るべき、人民・学生の総反撃をめざして、東大銀杏並木の総決起集会によって、全く画期的な学生戦線の大統一が実現されようとしている。国家権力の弾圧、右翼権力の跳梁、日共=民青の反革命的台頭のもとで、闘いは困難きわまりないし、安易な連帯は許されない。真の結合は、闘う中に存在する。いま、闘いを通じて、大統一集会がかちとられんとしている。 「東大・日大闘争勝利」の旗のもとに、全国学生は総決起せよ! 東大ならびに日大両全学共闘会議は、重大なる決意と誇りをもって、「11・22東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会」への総結集を呼びかける。

【革マル派内異変発生】
 11.22日、東大安田講堂前にて「日大=東大闘争勝利・全国学生総決起大会」につき夕方まで待機指令が出る。革マル派の洞田は事情を知らず。その後、洞田は一時、活動停止処分を革マル派から受ける。(高島は93年に査問中投身自殺)

 11.23日、東大駒場祭に「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」(描いたのは文科III類2年の橋本治)とのポスターが登場→流行語。

 11.24日、地元反対同盟主催/三里塚空港粉砕・ボーリング実力阻止全国総決起大会(三里塚第二公園)。中核・社学同・ML・反帝学評・各大学全共闘・反戦などの労.農.学8千名が実力デモ。地元反対同盟が竹槍・ 草刈鎌で武装デモ 。


 11.26日、東京教育大で反代々木と代々木系学生が乱闘。


 11.26日、革マル派が、早大文連常任委員Kに対してテロとリンチを加える。11.27日から30日にかけて散発的暴行。


 11.28日、B52墜落抗議・沖細ゼネスト支援・沖繩奪還労学総決起集会〔日比谷野音〕に中核系反戦・学生千名参加、のち八重洲口までデモ。


 11.29日、東大図書館前(本郷)で全共闘と日共系が衝突を繰り返す。

 図書館前(本郷)で学生5000人と教官800人による提案集会が3時間余開かれるが、加藤総長代行の発言はたった3回、しかも『なぜ、私のいうことを聞いてから議論しようとしないのですか』がただ1回ハッキリ聞こえただけ。大学当局の『提案集会』に対して全共闘は『粉砕』、日共系は『阻止』集会で対抗し加藤代行を奪い合ったため。流会後、両派が衝突を繰り返した。(毎日新聞社 1998)

 12.1日、東大全共闘が、駒場の教養学部第8号館を占拠、バリケード封鎖する。


【革マル派による解放派追い出し策動始まる】

 11月下旬、早大で、革マル派が解放派にテロ、早大を追われた解放派は東大駒場へ移動し革マル派と武装対峙する。後に戦争状態となる解放派と革マル派の内ゲバの始まり。高原駿の「沈黙と軌跡」は次のように記している。

 解放派の動員力低下を、革マル派は解放派を叩き潰すチャンスと見た。一九六八年十一月もおしつまったある日、「党派折衝」に名を借りて革マルは早稲田の解放派の主だったメンバーを呼び出してテロを加える計画をたてた。組織性に欠ける解放派は全学のキャップだった浜口竜太(りゅうた)ひとりがのこのことあらわれ、テロでやられたのは浜口一人だった。早稲田の解放派メンバーは早稲田構内に入れない状態になり、東大駒場の教職員会館を拠点にして全国動員で革マルとの武装対峙に入った。
 12.1日、革マル派が、早大文連常任委員Nを商学部地下自治会室に拉致。同日常任委員Sに対して暴行。眼球負傷。浜口竜太に対する暴行(高原峻)。
 12.2日、文連常任委員会をでっち上げて、早稲田祭ブロック会議に参加したS、Kの2名に暴行。
 12.3日、H,Yに暴行。

 12.4日、早大で解放派と革マル派が乱闘。

  12.5日、東大駒場寮で解放派と革マル派がお互いの拠点を襲撃しあう。
 12.5日、林文連委員長にテロとリンチ、眼球破裂。これにより、解放派は早稲田撤退し東Cに集結した。
 12.6日、東大駒場で解放派と革マル派が流血の内ゲバ。革マル派50名が外部から侵入、東大駒場寮(明寮)を襲撃し7名に重傷を負わせる。以降、駒場では、日共系学生ばかりでなく二重の内ゲバ状態が現出した。
 12.7日、早稲田革マル40名が中寮に入ろうとして、拒絶される。その後、解放派150名が教職員会館に泊まり込み。
 12.8日、乱闘。「12・8緑会のビラ」は次の通り。
 革マルと社青同解政派は、一昨夜早大で乱闘を行なった。これをめぐり5 日夜 10時頃 東C社青同解放派約70名は駒場寮マル研の(革マル派の部屋)を襲い、洞田某を監禁し、立て看に油をかけて燃やした。急をきいた革マル(早大・東大etc)約50人は完全武装でかけつけ、社思研(社青同解放派の部屋)を襲った。この襲撃で白形、松本ら10人近くが負傷し、うちひとりが脳内出血の重傷を負った。(毎日新聞社 1998)
 12.9日、早大で革マル派集会。
 12.10日、東大教養学部(駒場)で革マル派と解放派の対立が激化、7:40より教職員会館を攻撃。 駒場寮前で約200人が衝突、45名が負傷。
 12.11日、警視庁が東大学側に警告書。
 警視庁は、田村二郎教養学部長に対し、『今後、衝突があった場合、大学側の要請がなくても警官を学内に立ち入らせることもある』との警告書を渡す。(毎日新聞社 1998)
 12.11日、解放派と革マル派が衝突。10数名が重傷うち2名が意識不明。累計で70名の重軽傷者が出ていた。
 12.13日、東大教養学部で全共闘と代々木系学生・有志学生が衝突乱闘。
 東大教養学部で全学集会への学生代表団を選ぶ代議員大会を開こうとした全学連行動委員会(代々木系)、一般学生有志とこの大会に反対する全共闘が構内で衝突、乱闘で教官ら23人けが。午後代々木系が他大生含む角材持った500人の行動隊で守りを固め大会を強行し代表選ぶ。法学部学生大会でスト解除案否決」「6日からの争いで重軽傷者は計128人を超えた。(毎日新聞社 1998)
 12.16日、社青同と反帝学評による労学討論集会を革マル派が襲撃。東大駒場と、一部は井の頭線駒場東大駅ホームで乱闘。機動隊が出動し13人逮捕。
 12.17日、東大駒場で反代々木系学生間でリンチ。
 反代々木系学生聞の乱闘が続く東大駒場で翌未明にかけてリンチ事件があり、2人重体、12人けが。(毎日新聞社 1998)
 12.19日、反帝学評臨時全国大会(東大駒場教職員会館)150名参加。ベトナム反戦・ 全国学園闘争推進等を決議、70年闘争の方針決定。解放派の追及により各大学で革マル派の自己批判が出る。
 (2019.9.2日、「1968年11月から12月における革マル派の解放派に対する暴力的攻撃について」参照)
 12.24日、九大構内で革マルと反帝学評が投石・角材で乱闘。12.25日、両派衝突、深夜まで対時。

【1968社青同政変】

 (「国際革命文庫」「日本革命的共産主義同盟小史」参照) 

 1968年の社青同第八回大会は、前年末の社会主義協会の向坂派、太田派への分裂によって、三派鼎立の大会となった。この大会で成立した連合反対派としての反戦派は大会代議員の三分の一をかぞえ、どの派も単独過半数をとることができなかった。協会両派の妥協が成立し、両派による中執を選出することで社青同は辛じて統一組織の体裁を保つことができたとはいえ、社青同の政治的分解はもはや明らかだった。中央委員会を開いても何も決定できない状況が続いた。

 10月、10.21新宿騒乱を機に総評青対部、社青同中央によって全国反戦が凍結された。しかし、青年労働者、学生の闘いはさらに発展していった。

 12月、社青同全国青年党員会議が150名の青年党員により、神奈川県下の金沢八景で、一泊二日の激論をくりひろげた。反戦青年委員会と七〇年闘争論をめぐって討論となり、圧倒的多数が中央の方針を支持し、協会派は完全に浮き上った。

 高見圭司が「七〇年闘争と青年労働者の任務」なる討議資料を提案していたが、協会本部の方針と著しく違っているということで批判が集中した。とりわけ「七〇年闘争は六〇年闘争の幅広統一戦線を追憶するものではない。平和と民主主義の破産。一国社会主義路線としての平和共存路線の誤り。政府危機ではなく政治危機をつくり出さねばならぬ、等々」という下りが、社会党の「平和と民主主義を守る」路線と抵触し過ぎていた。高見圭司はこの頃、新たな労働者反戦派の小ブル左翼と区別された運動を推進する決意をもって月刊雑誌「根拠地」を発刊し、その運動を進めはじめていた。それは、構造改革路線の桎梏からの飛躍を意味していた。この飛躍は、第一期反戦、第二期反戦を経て、労働者反戦派との共同の闘いの中で遂げられていった。


12.2日、東大加藤代行が、8.10告示撤回、 医学部処分・機導隊導入反省等の「紛争解決案」なるものを学内に配布した。


 12.9日、文部省大学問題委員会は、「年末までに授業再開の見通しがつかない大学では入試の中止もやむを得ない」と東大、東京教育大、東京外語大を恫喝した。


 東大構内は、さまざまな色のヘルメットをかぶり、ゲバ棒を手にした全国から集まった学生たちの乱闘で明け暮れていた。東大生は、全員参加の会議を開いて、無期限ストライキを解除するか、封鎖を拡大するか、代表団を出して東大当局と交渉するか繰り返して討議して、結論をだそうとしていた。


【民青同・右翼グループがバリケード封鎖解除に向い始める】

 12月、この頃より東大のみならず各大学で民青同・右翼グループがバリケード封鎖解除の動きを強めた。 1969年の入試が迫っていたる医学部と教養学部では、全共闘の方針を覆すため、日共系学生は全国動員をかけ、医学部学生大会と教養学部代議員大会を強引に開こうとした。これが暴力的激突を招くことになった。学生たちにとって、卒業中止、留年が目前に迫っており、切実さも増して、学生大会が立て続けに開催された。東大構内は、さまざまな色のヘルメットをかぶり、ゲバ棒を手にした全国から集まった学生たちが集結していた。東大生は、全員参加の会議を開いて、無期限ストライキを解除するか、封鎖を拡大するか、代表団を出して東大当局と交渉するか繰り返して討議して、結論をだそうとしていた。ギリギリの練り合いが始まっていた。

(私論.私観) 民青同のオカシナ役割について
 この運動に民青同が如何に対置したか。この時の民青同の党指導による 「オカシナ」役割を見て取ることは難しくはない。単に運動を競りあい的に対置したのではない。ただし、私は、個々の運動現場においてトロ系によりテロられた民青同の事実を加減しようとは思わない。実際には相当程度暴力行為が日常化していたと見ている。全共闘系の暴力癖は、諸セクトのそれも含めた指導部の規律指導と教育能力の欠如であり、運動に対する不真面目さであり、 偏狭さであったし、一部分においては「反共的」でさえあったと思う。史上、運動主体側がこの辺りの規律を厳格にしえない闘争で成功した例はない、と私は見ている。

 ただし、別稿で考察する予定であるが、そういう事を踏まえてもなお見過ごせない民青同による躍起とした全共闘運動つぶしがあったことも事実である。ここに宮顕執行部が牛耳る党に指導され続けた民青同の反動的役割を見て取ることは難しくはない。単に運動の競りあい的に対置したのではない。「突破者」の著者キツネ目の男宮崎氏が明らかにしているあかつき行動隊は誇張でも何でもない。今日この時の闘争を指導した川上氏や宮崎氏によっ て、この時民青同が、「宮顕の直接指令!」により、共産党提供資金で、全国から1万人の民青・学生を動員し、1万本の鉄パイプ、ヘルメットを用意し、 いわゆる“ゲバ民”(鉄パイプ、ゲバ棒で武装したゲバルト民青)を組織し、68年から69年にかけて全国の大学で闘われた全共闘運動に対してゲバルトで対抗した史実とその論理は解明されねばならない課題として残されていると思う。それが全共闘運動をも上回る指針・信念に支えられた行動であればまだしも、事実は単に全共闘運動潰しであったのではないか、ということを私は疑惑している。先の「4.17スト」においても考察したが、宮顕執行部による党運動は、平時においては運動の必要を説き、いざ実際に運動が昂揚し始めると 運動の盛り揚げに党が指導力を発揮するのではなく、「左」から闘争の鎮静化に乗り出すという癖があり、この時の“ゲバ民”をその好例の史実として考察 してみたい、というのが私の観点となっている。

 12.10日、東京府中市で、白バイ警官に変装した男が現金輸送車を奪い3億円強奪される。(1975.12.10日、時効成立)


 12.10−12日、中核派全学連臨時全国大会、委員長に金山克巳氏選出。基地闘争・沖繩奪還闘争を総括、全国学園闘争の非妥協的闘い推進等を決議。


12.11日、東大で、ストライキを中止するための代議員大会の開催要求を、今村自治会委員長がはねつけたため、代議員大会を強行しようとする日共系学生と、ストライキ解除派学生が、委員長がたてこもる第八本館のバリケードを攻撃した。東大全共闘は、革マル派、解放派を含めて全力でこれに抵抗し、乱闘騒ぎになり入院した者が18人もの惨事になった。


12.11日、瞥視庁が東大学側に轡告書。


12.13日午後5時頃、全共闘と反全共闘との乱闘の中で、教養学部代議員大会は、全学集会のための代表を選出したとした。これは代議員大会を、日共系部隊の公然たる暴力のなかで実現した会議決定を「民主的」と呼ぶような流れをつくりだした。同じ手法は医学部でも使われた。(『安田講堂1968−1969』島泰三著)


 12.13日、B52墜落抗議・ 沖繩ゼネスト支援労学総決起集会〔日比谷野音〕に全学連(中核系)・ 反戦など千二百名参加、のち八重洲口までデモ。


 12.13日、東大教養学部で全共闘と代々木系学生・有志学生が衝突乱闘。


 12.14日、上智大で、バリケードを撤去しようとする一般学生・代々木系学生と、これを阻止しようとする反代々木系学生が乱闘。


 12.15日、日大闘争報告集会〔東大安田講堂〕に日大全共闘中心に3千名参加、授業再開阻止・ 越冬態勢確立等を決議。


 12.16日、法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200名が投石、殴り合いの乱闘。 反代々木系50人が飯田橋駅に逃げ込み、国電ダイヤ乱れる。


 12.16日、東大闘争勝利全国労学総決起集会〔東大安田講堂前〕に東大・日大全共闘、反日共系各派学生、反戦、三里塚・ 砂川反対同盟など4千名参加。


 12.18日、全国実行委主催・原港寄港抗議集会〔佐世保市松浦公園〕に一万名参加、日共の反戦青年委排除を否認、反日共系学生・ 反戦も参加、のちデモ。12.19日、全国実行委主催・ 原港寄港抗議三万人集会〔松浦公園〕に反日共各派学生・ 反戦参加、のちデモ、機動隊に完全に規制さる。


 12.21日、機動隊が、大学当局の正式な機動隊出動要請に基づく上智大学封鎖に着手した。同大学は11.7日、上智大全共闘によってバリケード封鎖されていた。同日から長期休業に入る(上智方式


 12.23日、日大・中大統一総決起集会〔中大〕に日大全共闘5百名がデモで合流、中大全共闘と統一集会、のち″オールナイト映画”。


12.24日、日共系学生のヘゲモニーで東大医学部学生大会が開かれ、「全共闘が殴り込み代々木系の民主化行動委の学生と乱闘」あるもスト解除が決まった。経済学部は12.26日、ストライキ実行委員会自身がストライキ解除を提案し、266票を集めて、可決された。教養学科では12.27日の学生大会で無期限ストライキが解除された。こうして、年末、次々に、ストライキは解除されていった。ストライキが越年したのは、教育学部、農学部、工学部、薬学部、文学部、理学部だけだった。


 12.24日、東大で全共闘と民青系(代々木系)の学生が乱闘。


 12.24日、東大医学部で日共系学生のヘゲモニーによる学生大会が開かれ、スト解除が決まった。


12.25日、東大法学部の学生大会が開かれ、ストライキ解除提案が431票を集め、無期限ストライキの解除が決まった。日共系の無期限ストライキ継続提案を支持してきた学生たちがストライキ破りに転じたからである。


12.26日、東大経済学部でも、ストライキ実行委員会自身がストライキ解除を提案し、266票を集めてスト解除案を可決した。


12.27日、東大教養学科でも学生大会が開かれ無期限ストライキが解除された。こうして、年末、次々に、ストライキは解除されていった。ストライキが越年したのは教育学部、農学部、工学部、薬学部、文学部、理学部となった。


 12月、青学全共闘が「三公示」撤回を要求して大学をバリケード封鎖(翌年「三公示」撤回)


日大では、新大学定款が文部省に認可されて、来年の入学試験ができることになった。


東大で、入試実施をめぐって最終の局面に入っており、学生は、決戦が近いことを感じていた。安田講堂の防衛隊の問題がでてきつつあった。青医連は今井澄がなり、学部の守備隊長は、理学部のストライキ実行委員長の島泰三に決まった。そして、各学部で防衛隊のメンバーが決まっていった。


【ブント第八回大会】
 12月、共産同第8回大会を開催した。第二次ブント主流のブント統一派(戦旗派)も、軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。中央大学学費値上げ白紙撤回を獲得した中央大学独立社学同(後に叛旗派結成)との兼ね合いで、「軍事」力学主義の関西派は後景に退き、統一委員会派のさらぎ徳二が議長となった。
(私論.私見)
 一体全体このブント系の組織論はどうなっているんだろうか。趣味の世界ならご随意にと言いたいところだが、政治闘争となるとそうばかりも言えない気がするのは私だけだろうか。

【東大が入試中止を決定】

 12.29日、東大紛争は年内の解決の見通しが立たず、加藤代行は坂田文相と会い、坂田文相が、69年度の東大全学部の入試中止を決定した。「現時点においては東大入試は中止、但し、1.15日までに事態収拾の場合は再協議する」という条件が付されていた。スト解除による正常化をして入試を実施したい大学側は、事態収拾を急いだ。

 こうして68年末から翌69年にかけて全共闘運動は決戦気運に突入して行 くことになった。卒業−就職期を控えて大学当局も全共闘側も年度中に何らかの解決が計られねばならないという事情があった。こうして翌69年1月の東大時計台闘争(安田講堂攻防戦)に向けて全共闘運動はセレモニーに向かうことになった。この間新大管法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大等々の封鎖解除も並行的に進行した。


 バリケード封鎖で越年した大学は、全国で15校だった。東大、日大、東京教育大、東京外語大、電通大、中央大、明学大、青学大、芝浦工大、山梨大、富山大、大阪大、神戸大、関西学院大、長崎大だった。

 この68年の特徴として、以上のような動きの他にべ平連支部が各地域ごとの他に各大学にも急速に結成されていったことも注目される。既に66年には 東大ベ トナム反戦会議、 京都府立大、三重大等。67年には帝塚山学院高等部、神戸大、沖縄大学、 広島大、 立命館大、一橋大等で支部結成されていたが、6 8年になると信大、同志社大、北大、小樽商大、大阪工大、竜谷大、東工大、 芝浦工大、東工大、慶応医学部、東大、青山学院、国立音大、農工大、世田 工、東京水産大、東京外語大、大阪芸大、工学院大、神戸商大等が発足した。

 68年の紛争校120校、うち封鎖・占拠されたもの39校。69年には、紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校となる。当時の全国の大学総数は379校であったから、その37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。大学当局は管理能力を失い、学生側は代々木系と反代々木系の対立、過激派各派の衝突や内ゲバも繰り返されていくことになり、全くアナーキーな状態が現出した。


【べ平連運動の盛り上がり】

 この68年の特徴として、以上のような動きの他にべ平連支部が各地域ごとの他に各大学にも急速に結成されていったことも注目される。既に66年には 東大ベ トナム反戦会議、 京都府立大、三重大等。67年には帝塚山学院高等部、神戸大、沖縄大学、 広島大、 立命館大、一橋大等で支部結成されていたが、6 8年になると信大、同志社大、北大、小樽商大、大阪工大、竜谷大、東工大、 芝浦工大、東工大、慶応医学部、東大、青山学院、国立音大、農工大、世田 工、東京水産大、東京外語大、大阪芸大、工学院大、神戸商大等が発足した。


 68年の国際国内情勢は以上のような流れで推移した。日本の学生運動が世界の動きと連動し、前例のない闘争昂揚期を現出することになった。


 68年、日本のGNPが西ドイツをぬいて自由圏でアメリカに次ぐ第二位となり、経済的地歩が飛躍的に向上した。


 1968(昭和43)年のゲバルト事犯による負傷者数は700人にのぼった。内ゲバの当初の形態は偶然的な遭遇に起因する集会・デモ等における主導権争いからの抗争が大部分であったが、凶器もプラカードの柄、竹竿、角材などのいわゆるゲバ棒であったが、この頃には襲撃専門の特別部隊を編成し、綿密な計画を練ったうえでの計画的・組織的な襲撃となり、犯行場所も大学、アジトだけでなく駅のホーム、百貨店、喫茶店などでも行われるようになった。凶器も鉄パイプバールまさかり、とび口(先端に金属)、掛け矢など殺傷能力の強いものへと変貌し、攻撃の方法も頭部をねらう事案が多くなるなど凶悪化した

 これより後は、「第8期その2、東大闘争クライマックス、全国全共闘結成と内部溶解の兆し現出」に記す。





(私論.私見)