1967年 戦後学生運動史第7期その2
ベトナム反戦闘争と学生運動の激化

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 これより前は、「第7期その1、全学連の転回点到来」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第7期その2は、1967年から始まった。この期の特徴は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという分かりやすい正邪の構図があり、この闘争に全学連運動各派が互いの勢力拡大をかけて鎬を削っていくことに認められる。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。

 こうした情況と世論を背景にして、この時期これに学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。民青同系全学連は主として学園民主化闘争を、新三派系全学連は主として反戦政治闘争を、革マル派系全学連 は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。特に新三派系全学連による砂川基地拡張阻止闘争・羽田闘争・佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争・王子野戦病院建設阻止闘争・三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が耳目を引きつけていくことになった。この経過で、全学連急進主義派の闘争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり、過激派と言われるようになった。 

 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1967年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。「戦後学生運動の歴史(1967年1月-3月)」その他参照。


【文化大革命の伝播】
 この頃、中国の文化大革命が本格化し、紅衛兵を巻き込んで毛沢東-江青-林彪の文革派による劉少奇-鄧小平の実権派に対する一大奪権闘争の様相を見せ始めていた。 「造反有理」を訴える大字報 (壁新聞)が登場し、紅衛兵たちが毛語録をかざして連日、町に繰り出してデモを行い始めた。中国全土が内戦化し、止まるところを知らなかった。詳論は「文革考」に記す。

 筆者は、この花粉が日本の青年学生運動に影響を与え、日本版紅衛兵とも云うべきノンセクトラディカル、新左翼活動家を生み出して行くことになったと理解している。

 1.10日、琉球大学生ら二百名、琉球立法院教公二法審議に抗議して議場内に突入、坐り込み。


 1.15日、 医学連中央委員会〔京都府立医大〕、全学連(三派系)を支持し医学連から中執を派遣、三月国家試験ボイコットを通してインターン制完廃をかちとる等運動方針を決定。


 1.19日、大阪学生平和集会(大阪府学連・平連協)がジョーン・バエズを迎えて3000名参加(民旗No38)。


 1.19日、高崎経済大生百五十名、昨年の私学化反対闘争で起訴された学生一名の初公判に抗議デモ、全員傍聴するが三分で閉廷。


 1.20日、全学連(三派系)、ベトナム侵略反対・エンプラ入港阻止全都決起集会〔清水谷公園〕に四百名結集、日比谷公園までデモ、三名逮捕。


 1月初旬、前年からの再建の試みの末、教育大共青十数名を中心に共産主義学生同盟結成。


【明大学費値上げ阻止闘争】

 1.20日、明大学費値上げ大衆団交に1万5000名。

 1.28日、明大和泉校舎で、明大全学闘、理事会との大衆団交に七千名参加。理事会、妥協案を提出するが全学闘拒否。その後、スト収束をはかろうとする全学闘書記局と闘争継続を叫ぶ闘争委員が対立するという事態が発生している。以降泥沼化し、右翼的体育会系、機動隊の乱入と闘争委側との抗争が続き、2.2日大内委員長及び介添え役としての斎藤全学連委員長立会いの下で当局と妥結調印が為された。こうして明大闘争はボス交によって敗北的に決着したが、おってこの経過が問題とされ斎藤全学連委員長の失脚へと向かうことになる。


 1.20-21日、高崎経済大学生大会、不正大量入学反対で受験者の公表、入試判定会議に学生オブザーバーの参加等を要求して試験ボイコット決議。1.22日、高崎経済大で「有力者の口添えと地元優先を理由に無試験入学」させる大学当局の遣り方に反発した学生が、不正入学反対バリストに再度突入している。2.6日から6.24日までの4次にわたる処分で、退学・13名、無期停学11名、3ヶ月停学24名、戒告12名、訓告9名という処分が為されている。ところが、闘争の過程で逮捕された学生数名が自治会役員選挙に獄中から立候補して全員当選という快挙を為している。

 1.25日、東大医学部学生大会、インターン制完全廃止を要求してスト決議(26日無期限スト突入)。


 1.28日、明大で、スト収束をはかろうとする全学闘書記局と闘争継続を叫ぶ闘争委員が対立するという事態が発生している。以降泥沼化し、右翼的体育会系、機動隊の乱入と闘争委側との抗争が続き、2.2日、大内委員長及び介添え役としての斎藤全学連委員長立会いの下で当局と妥結調印した。かく明大闘争はボス交によって敗北的に決着したが、追ってこの経過が問題とされ斎藤全学連委員長の失脚へと向かうことになる。


 1.29日、第31回総選挙(自民得票率初めて五十%を割る)。


 1月、元社革の統一反対派中村らが社会主義労働者同盟を結成。

 2.1日、全学連(三派系)、明大闘争支援・学園奪還決起集会〔中大〕、のち明大までデモ。


 2.2日、明大闘争で、新三派系全学連委員長の斎藤克彦と学校側が突如、スト終結の裏取引を行なう。これを「2.2協定の裏切り」と云う。



 この年、ベトナムでの南ベトナム解放民族戦線とアメリカ軍との戦闘が一層泥沼化した。アメリカ国防省は、ベトナム参戦のアメリカ兵が朝鮮戦争の最盛期をこえ47万3千人と発表した。アメリカは、ベトナムが共産化すればアジア全体が将棋倒しのように共産化するといういわゆる「ドミノ理論」を強調した。2月の初め、アメリカ軍はベトナムで枯れ葉作戦を開始する。


 2.4-5日、後期結党大会開催。社革、日本のこえ派多数、統社同内の社会主義統一有志会、その他無党派が合同して共産主義労働者党結成。中央常任委員には内藤知周、家坂哲男、一柳茂次、由井誓(以上社革)、いいだもも、戸原駿二、原宏、樋口篤三(以上こえ派)、武藤一羊、栗原幸二、大塚正立(以上無党派)を選出。後に内藤が議長、いいだが書記長。共労党結成とともに民学同内に共労党(旧日本のこえ派多数)系と日本のこえ(志賀ら少数派)系の二潮流が形成。共労党系を民学同左派、日本のこえ系を民学同右派と呼ぶ。
 10月、構改派学生組織の民学同左派(共労党)、民学同右派(こえ派)、共学同(社労同)社会主義学生戦線(統社同)らが結集して全国自治会共同闘争会議を結成。
 10月、神山、中野らがこえ派から脱退。こえ派が志賀を中心とする少数派になる。

 2.10日、全学連(三派系)・明大全二部共闘等共催・全都全明治総決起、二・二協定粉粋で集会〔明大和泉〕に三百名結集、のち構内突入で三名逮捕。


 2.10日、国際基督教大学で、能研を入試に適用することに反対して学生約60名がバリケードを築き篭城(ろうじょう)。4.10日に機動隊が導入され、その騒ぎは12月まで続くことになる。学生運動そのものを認めない大学当局は、除籍11名、無期停学42名、運動参加者全員の処分を発表している。


 2.15日、全学連(三派系)主催・紀元節復活反対全都総決起集会〔清水谷公園〕に八百名結集、雪の中を文部省に抗議デモ、四名逮捕。


【三派系全学連委員長に中核派の秋山氏が就任、以降更に激烈化していく】

 2.19日、全学連(三派系)拡大中央委〔早大〕で、斎藤克彦委員長(明大.社学同)が罷免され、秋山勝行(横浜国大.中核派)が新委員長となり新執行部を選出した。当時の全学連中執のメンバーは、どの時点かはっきりしないが中核派11、社学同9、解放派5、第四インター2。


 2.20日、全学連(三派系)・明大全二部共闘、学費値上げ阻止・入試粉粋決起集会〔御茶の水駅〕に四百名結集、改札口坐り込み集会の後、明大までデモ、九名逮捕。


 2.23日、社会党・総評系の原潜寄港阻止決起集会〔横須賀〕に三派系三百五十名結集、基地正門ゲートにデモ、八名逮捕。


【三派系全学連が砂川基地拡張阻止集会に労学1500名結集】
 2.26日、秋山新委員長による三派系全学連が、砂川基地拡張阻止青年総決起集会に労学1500名結集、基地ゲート前で機動隊と衝突。反戦青年委員会約1千名が共闘していた。この時のデモは、「基地突入」を目指す三派系全学連がゲート前に待機する機動隊に突っ込み大乱闘戦になった。多数の負傷者を出し、10数人が逮捕されている。重軽傷者25名、のち立川駅までデモ。これが秋山委員長時代の闘争の幕きりとなった。

【「善隣学生会館事件」発生】

 3.2日、「善隣学生会館事件」が発生している。善隣会館で日中友好協会をめぐり日共党員と中国人留学生が衝突。日共系が棍棒部隊を動員したため中国人留学生に負傷者が多数発生した。社学同ML派系学生らが支援闘争展開した。これにつき詳論は「善隣学生会館事件考」に記す。

 「善隣学生会館事件」とは、1965年頃までは友好関係を維持していた日本共産党と中国共産党の関係が、1966年の中国での文化大革命の発生と共に急速に悪化し、断絶状態に至ったのに伴い、日中友好運動に大きな混乱が発生し、善隣会館の争奪戦となった事件を云う。


 3.6日、都学連(三派系)五十名、原潜横須賀寄港に反対して基地正門にデモ、三名逮捕。


 3.8日、慶大医学部・青医連支部学生大会、インターン制廃止・医局改善を要求してスト突入。


 3.11-13日、第二回全国学生ゼミ〔東京〕、民青同系学生千五百名参加。


 3.12日、青医連・医学連全国統一行動、全国十カ所での医師免許国家試験受験はわずか四百余名、九割がボイコット、全国で反対デモ行なわれ十一名逮捕。


 3.12日、高崎経済大全学無期限スト突入。


 3.19-21日、全学連(民青同系)第七回中央奏〔法政大〕、学園闘争の高揚のなかで、教授会との共闘路線を一部修正。


 3.27日、民学同第七回全国大会〔大阪〕、全国四十大学代表参加してベトナム反戦闘争・核拡散防止条約の評価等を討議。


 3.27日、無期限スト中の東大医学部、当局が青医連東大支部を認めたためスト解除。


 3.29日、全学連(三派系)第二回中央委〔法政大〕、三百五十名参加してベトナム反戦・砂川闘争を軸とした春季闘争方針を決定、都知事選の方針でほ各派意見異なり統一見解出ず。


 4.2日、全学連(革マル系)第46回中央委〔早大〕、春期闘争方針を決定。


 4.11日、ベトナム反戦共闘(構改系)主催・全都ベトナム反戦集会、二百五十名参加。


4月、ニューヨークで40万人のベトナム反戦デモ。アメリカではベトナム戦争への徴兵拒否や脱走兵が激増していた。


 4.15日、大阪反戦青年委等共催・四・一五国際連帯デー、ベトナム反戦・金東希を守る大阪集会〔電電会館〕、★大阪府学連(構改系)等参加、雨中市内デモ。


 4.15日、べ平連主催・ベトナム反戦・日米共同デモ 〔清水谷公園〕、市民・学生ら六百名参加、のち米大使館にデモ。


 4.17日、善隣会館に張られた〝日共修正主義グループの殺人行為を糾弾する″の幕に、日共の撤去強制執行申請で、富坂署員坐り込みの学生を排除して横断幕撤去。


 4.18日、共青中心に共産主義学生同盟結成大会〔教育大〕。


 4.24日、全学連(三派系)主催・新入生歓迎集会〔明大〕、三百名参加、羽仁五郎講演。


 4.27-28日、全学連(三派系)主催・四・二八沖縄デー決起集会〔芝公園〕に千5百名結集、のち総評主催の中央集会〔日比谷野音〕に合流、全学連(革マル系)4百名結集、新橋までデモ・17名逮捕、京都府学連(三派系)千5百名結集、市内デモで2名逮捕、兵庫県学連450名結集、市内デモで2名逮捕。


【本多延嘉・中核派書記長の日共批判】
 本多延嘉・中核派の書記長の「三 日本共産党の卑劣な攻撃は何を告白しているか」を転載しておく。
 わが革共同・中核派の台頭を軸とする日本階級闘争のあらたな激動的発展のなかで、日帝国家権力、カクマルとともに言いしれぬ危機意識を強めた日本共産党・官本指導部は、六七年四月の統一地方選――杉並選挙の過程をめぐってあからさまな反革共同攻撃にのりだしてきた。本稿は、そうした日共スターリニストの卑劣な策動の政治的・思想的根拠を白日のもとにあばきだし、反帝・反スターリン主義革命的左糞のたたかいの重大な意義を明らかにしたものである。

 (一)
 
 統一地方選挙を転機として、日本共産党は、いわゆるトロツキスト攻撃をふたたび強めはじめた。すでに、統一地方選挙の直前、日本共産党は、「美濃部氏の知らぬ間に美濃部支持をうちだした」という妙な非難をくりかえしたばかりか、杉並区内に「トロツキスト北小路敏、長谷川英憲は日本共産党とは関係ありません」という笑止千万な号外を一〇万枚も撒き散らすなど、卑劣な反トロツキスト宣伝を展開した。選挙中は当然のこと、選挙後もますますわが同盟にたいする攻撃を強めている。すなわち、かれらは『赤旗』紙上に「北小路らトロツキストの危険な正体」(四月二五日)、「反党対外盲従分子と接近呼応するトロツキスト」(四月二八目)、「極左日和見主義者の中傷と挑発」(四月二九日)という論文をつぎつぎと発表し、「反党分子の地方議会潜入の策謀を粉砕」せよ(四月二五日「主張」)とか「トロツキストに市民権をもたせないたたかいが必要」とか、口ぎたない非難をくり返している。
 ところで、日本共産党による、このような的はずれな「トロツキスト非難」がなぜふたたび強められたのであろうか。卒直にいって、われわれ革命的左翼は、日本共産党のトロツキスト攻撃など痛くもかゆくもない。安保闘争以来の八年の経験のなかで、われわれは、日共がトロツキスト非難を強めるのは、外ならぬ日共が党派的危機に直面しているときだ、ということを知りすぎている。だから、われわれにとっての主要な課題は、(1)日本共産党がなぜこんにちふたたびトロツキスト攻撃を強めはじめたのか、を冷静に検討するとともに、(2)トロツキスト攻撃をとおして日本共産党指導部が何を党内外に提起しているのか、を正確に解明し、これにたいする正しい解答をもって日本共産党のセクト主義的言動を封じこめ粉砕していくことである。

 (二)
 
 日本共産党がふたたびトロツキスト非難を強めはじめた第一の理由は、七〇年問題、すなわち核武装、参戦国化をめぐる階級的対決が接近してきたことである。従来、日本共産党指導部は、七〇年を口実に右翼的な党勢拡大と議席増加を提起してきたが、七〇年の接近のなかで当然その成果を示さなくてはならない。六〇年安保闘争の主役は日本共産党であった、という代々木神話の崩壊は日に日に迫ってくる。しかも、戦後世界体制の動揺の深化と、日本資本主義の構造的不況とは、七〇年安保闘争にたいし六〇年安保闘争とは比較にならない厳しさを条件づけることとなろう。
 したがって、日本共産党指導部にとってゆいいつの脱出路は、いわゆる唐牛伝説をもって六〇年安保闘争の真実を徹底的に歪曲するとともに、来たるべき七〇年安保闘争を可能なかぎり平和的な性格のものにすることである。そのためには、まずもって実力闘争の階級姿勢を空洞化することが必要となる。日本共産党の反トロ宣伝の本当の狙いは砂川、沖縄、空母をめぐる階級的激突を事前に抑制しようとするものであり、日帝へのより露骨な屈服をもって日共の官僚的延命をはかろうとするところにある。

 日本共産党がふたたびトロツキスト非難を強めはじめた第二の理由は、国際スターリン主義運動の分解と没落がいっそう深刻化していることである。一〇年前、われわれが国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲を弾劾し、第四インター=トロツキー教条主義の限界をのりこえて反帝・反スターリン主義の革命的共産主義運動を開始したとき、日本共産党の指導者たちは、共産主義運動は一枚岩であり、中ソ共産党を批判することは中ソの革命を侮辱することだ、という対外追従主義的な態度をもって脅迫した。当然、われわれは、このような脅迫に屈服することなく、共産主義者としての主体的立場を貫徹して安保――四・一七――日韓を基軸とした一〇年の歴史を一歩一歩前進してきた。「離合集散」という日共の決まり文句とは正反対に、階級闘争の奥深いところで、より確かな、より巨大な、より広範な共産主義者の革命的結集にむかって、われわれの努力と準備は進んでいる。
 だが、日本共産党はどうか。六一年、六四年、六六年というたび重なる日本共産党の分裂と口汚ない反対派狩りの歴史は、国際スターリン主義運動の分解と没落の波の間に間に右往左往する日本共産党指導部の動揺そのものの歴史ではなかったか。ソ連と対立して中国に接近し、中国と分裂してふたたびソ連と内通する、そしてその度に日本の革新陣営の根深い分裂と混乱を促進する――こんな日本共産党指導部の態度のどこに「自主独立」が存在するというのであろうか。

 日本共産党は、国際スターリン主義運動の分解と没落、その原因と克服の道を、共産主義者としての主体性にかけて対決するのではなく、鎖国的な「自主独立」に逃避しながら、帝国主義へのよりいっそうの屈服と、新しい分裂の道を歩みはじめた。日本共産党の宮本指導部にとっての最大の恐怖は、構改派、ソ連派、中国派、日共派というスターリン主義的定式を超えて事態が発展すること、すなわち<日本における共産主義者の真の革命的総結集>という現実的課題が<スターリン主義との対決>という方向に発展することである。

 日本共産党がふたたびトロツキスト非難を強めはじめた第三の理由は、わが同盟を中核とする日本革命的共産主義運動の前進にある。従来、日本共産党指導部は、構改派・ソ連派・中国派をタタキ台にすることで党の動揺を最小限にとどめてきたが、全学連の再建、統一地方選挙におけるわが同盟の大衆的登場は、トロツキストの分散消滅という虚構をうち砕くとともに、日本革命運動の分裂と混乱の革命的止揚の道がどこにあるか、を明らかにしている。

 安保以後七年、われわれは労働者階級の深部に革命的指導部を形成するために営々たる努力をつつけてきた。<戦闘的労働運動の防衛>という方向をうちだした六二年秋の三全総以来五年、われわれは、労働戦線において巨大な前進をかちとってきた。六五年都政刷新運動を起点とする都市住民闘争の着実な展開、そして杉並を拠点とした選挙闘争の飛躍的な前進はまさに、首都労働者の深部におけるわが同盟の組織的強化を基礎としてはじめて可能となったのである。

 東日本最大の日共地域拠点・杉並におけるわれわれの勝利は、もはやわが同盟を中核とする革命的左翼の前進について沈黙をつづけることを不可能にした。『赤旗』は四月二五日付主張で「東京で区議会議員に立候補した志賀一派、内藤一派に属する反党修正主義者と都議補選に立候補した反党トロツキストはすべて落選した」(ゴヂ筆者)などとうすぎたない総括を発表しているが、この表現のなかに長谷川新区議および北小路候補への四万を超える支持にかんする日共指導部の根深い恐怖を読みとることができよう。

 しかも、都知事選におけるわれわれの大胆な戦術提起は、首都の労働者、学生、知識人のあいだにきわめて有効な反響と共感をよびさますとともに、美濃部勝利を左からつくりだす巨大な力を形成していく重要な転機となった。こんにち、日共指導部は都知事選について甲高くわめきたてているが、それは、わが同盟の卒直な戦術提起が、美濃部勝利をかちとった力の内部でもった影響力と有効性を裏から立証する以外のなにものでもない。

 (三)
 ではつぎに、トロツキスト非難の仮面にかくれて日本共産党は何を主張しているか、について『赤旗』四月二五日の論文(「北小路らトロツキストの危険な正体」)に即して検討し、その反労働者的な「正体」を明らかにしよう。日本共産党によるトロツキスト非難の第一の危険な正体は、日本共産党が<自民党都政打倒・美濃部勝利>のためにすべての都民が力をあわせることに反対していることである。
 もともと、今回の都知事選挙の意義は、戦後二一年間の自民党都政のもとでゆきづまった都民の生活を打開し、あわせて佐藤自民党支配打倒の突破口をつくりだすために、松下打倒・美濃部当選の一点ですべての都民の力を結集しうるかどうか、にかかっていた。だからこそ、社会党、共産党はもとより、市川房枝女史のように原則的には共産主義に反対の人も、また、われわれのように共産主義の立場から美濃部候補の政治信条に批判的なものも、ともに力をあわせてたたかったのである。

 ところが、「赤旗』によると「美濃部氏と社、共両党に敵対する立場を公然と表明しながら」(「美濃部支持」をうちだし)都政にくいこもうとするのは「危険」だというのである。だが、これほど危険な主張がはたしてあるだろうか。〔事実、選挙戦の当初、日本共産党は社共協定をタテに「明るい革新都政の会」の入会にかんして某々は反党分子、某々は修正主義者、某々は対外追従分子などという愚劣なレッテルでつぎつぎと制限を加え、ほとんどの知識人が参加できない、という横車を押したが、後半戦にいたって日共のこうしたセクト主義が通用しなくなったことが美濃部勝利の決定的要因であるとはこんにちでは「会」の内部で常識である。それなのに、相も変らず日共指導部は「美濃部氏の知らぬ間に支持を決め……」などという思想にとりつかれている。いったい選挙における候補者と有権者との関係をどう理解しているのであろうか。〕

 つまり、日本共産党は、美濃部氏や社共両党に異論をもつものは美濃部候補を応援したり、投票したりしてはいけない、と主張しているわけであるが、もし日本共産党のこのような民主的主張が都民に「正しく理解」されていたならば、美濃部候補は社共支持票の一六〇万をどれほど上まわることができたであろう。まさに、このような日共的セクト主義を超えたところに美濃部勝利の力が生まれたのである。〔なお、メーデーで日共野坂議長は松下支持の民社党西村書記長と腕を組んで行進したが、第二保守党の「市民権」は粉砕しようともしないらしい。〕

 日本共産党によるトロツキスト非難の第二の危険な正体は、日本共産党が美濃部都政の直面する困難をおしかくし、都労連を先頭とする首都労働者の戦闘的前進に反対していることである。美濃部都政が革新都政としての実をあげるためには、当然、(1)佐藤自民党政府――中央官庁――独占資本、(2)自民党都連――警視庁――都庁高級官僚、(3)民社党――同盟幹部――新宗連という三つの反対勢力の抵抗をはねのけていかねばならない。東交合理化、砂川基地拡張、公安条例撤廃は、まさに美濃部都政の試金石であるが、こうした試練に耐えぬくためは、まずもって美濃部知事が「蛮勇をふるって事に当る姿勢」を示すとともに、都労連を先頭とする首都労働者の戦闘的前進に決定的に依拠することが重要である。

 首都の戦闘的労働者部隊は、美濃部都政にたいして微視的に対応することなく、帝国主義との全面的対決という戦略的観点のうちに美濃部都政の位置を正しく設定していくこと、「革新都政擁護」のスローガンを、職場労働者の要求および闘争の抑制の方向ではなく、要求貫徹・闘争強化の方向に転移しながら、一歩一歩前進し、戦闘的陣地を拡大強化していくであろう。改良的要求の部分的実現をつみあげながら、具体的要求をはばむ壁を帝国主義支配との関連のもとに一つひとつ明確化し、それと対決する方向に労働者・都民全体の動員を準備することこそ、北九州市や横浜市の革新市政の失敗をのりこえる現実的な道である。

 ところが、日本共産党にとって問題の中心は、社共協定を守るかどうか、つまり都政にたいする日共の発言権をどう強化するか、という一点に逆転されてしまうのである。かれらは、トロツキスト非難にかくれて首都労働者の実力闘争に統制を加え、東交合理化攻撃・砂川基地拡張・公安条例存続に道をひらこうとしている。まさに、首都労働者の実力闘争に反対することは、都庁高級官僚と結託した都労連右翼幹部に降服することであり、美濃部都政の日帝への屈従を準備することである。

 日本共産党によるトロツキスト非難の第三の危険な正体は、日本共産党が公安条例の撤廃のためには権力と独占資本にたいする「実力闘争」をなくさねばならない、と主張していることである。

 自民党は、今回の東京都知事選挙の眼目を、明らかに七〇年問題の対策においていた。七〇年安保改定を機会に核武装・参戦国化の道を策謀する佐藤自民党政府は、当然予想される労働者人民の反対運動を暴力的に鎮圧するために、都知事を安保支持の反動的治安実行者の手に確保せんとし、従来の予定候補をさげてまで民社との連合を追求するという恥知らずな暴挙をあえてした。それは、都政のゆきづまりをどう打開するか、という一千万都民の願いを踏みにじるものであった。

 だが同時に確認しておかねばならないことは、七〇年に向かっての反動攻撃はすでにはじまっている、ということである。砂川・沖縄・空母をめぐる政治的対決は日に日に切迫している。これらの諸攻撃を具体的にはねかえす階梯をとおして七〇年安保闘争は現実に準備されていくのである。一一年前の砂川闘争のように、一〇年前の国鉄新潟闘争のように、九年前の勤評・警職法闘争のように、そして八年――七年前の安保闘争のように、いまこそ実力闘争をもって反撃を開始せねばならない。

 ところが『赤旗』では問題はまったく逆にたてられている。「とくに、トロツキストらの策動で警戒を要するのは、かれらが「一九七〇年決戦説』を唱え、砂川基地拡張反対闘争や東交の合理化反対闘争に『実力闘争』というスローガンをもちこみ、暴力行為を扇動して、自民党の『社共は公安条例を撤廃して七〇年暴力革命を準備しようとしている』というデマ宣伝におあつらえむきの口実をあたえようとしていることです」。
 カラスをサギといいくるめるとはこのことではないか。そのうえ、さらにかれらは、実力闘争の弾圧には刑法を適用すべし、とつぎのように権力に進言している。「トロツキストの暴力行為を取締るためには、公安条例などなくても、別に刑法の『住居侵入』(第百三十条)、『器物損壊』(第二百六十一条)など十分すぎるほど法律があります」。権力と相呼応した実力闘争弾圧の道! これが七〇年安保闘争にたいする日本共産党の真実のプログラムである。ストがなくなればスト規制がなくなる、いやストは鉄道営業法でも取締ることができる――これが、日本共産党の「民主革命」の本質である。このような反動的主張にたいする労働者人民の解答はいわずとも明らかであろう。われわれのまえにはただ前進あるのみである。(『前進』三三三号、一九六七年五月八日 に掲載)

 5.12日、青医連・医学連共催・医師法改正案国会上程阻止決起集会〔清水谷公園〕に八百名参加、国会前坐り込み闘争展開。

 5.16日、全学連(三派系)主催・砂川基地拡張実力阻止決起集会〔中央大〕に四百名参加。


 5.17日、大阪府学連(民学同系)主催・日米学生ベトナム反戦統一行動に七百名参加、のち市内デモ。


 5.25日、ベ平連主催・:ユーヨーク・沖縄・南ベトナムの報告を聞く集会〔全電通会館〕に四百名参加、べ平連の行動方針を討論。


 5.26日、三派系全学連が、砂川基地拡張阻止、公安条例撤廃の学生総決起集会〔日比谷公会堂前〕、 2千名を結集し、機動隊と衝突。革マル派250名(500名ともある)が野音で独自集会。革マル系学生が三派系の集会粉粋を叫び衝突。のち四谷、清水谷公園まで各々デモ、11名逮捕。


 5.28日、現地砂川で砂川基地拡張阻止青年学生総決起集会。この日は主催団体の揉め事で、共産党系の安保破捨中央実行委及び民青系全学連と、反戦青年委と反代々木系全学連の分裂集会となった。社会党は集会を中止した。三派系3千名、革マル系5百名・民青同系3万名が参加。このあと反代々木系全学連.反戦青年委700名が激しいジグザグデモで江ノ島ゲート前で機動隊と衝突し、岡山大生一名頭蓋骨陥没の重傷を含む4百名負傷、学生48名逮捕されている。


【社会主義協会第8回大会、太田派と向坂派に分裂する】

 6月、社会主義協会第8回大会。この大会で、規約第二条の修正をめぐって、太田派と向坂派に分裂する。当時多数派は太田派であり、大会は、少数派としての向坂派の戦術-規約第ニ条の修正にともなう向坂、大内両代表の辞任ーによって、休会となり、事実上分裂した。「向坂派、太田派の分裂は、前者が協会の理論集団化への回帰をはかり、後者が完全な政治集団化への転化をはかったというものではなく、太田派、とくに当時の社青同協会派が、より完全な党派化をめざし、その主導権を向坂派はじめ学者グループから活動家グループヘ奪還しようとしたところにあったと正確に理解することが必要である」とある。「規約第ニ条の修正は、社会主義協会を党内派閥化、あるいは別党化させようとする一部組織破壊分子の策謀によるものであり、社会主義協会の伝統を杏疋し、社会主義協会の正しい発展を妨げるものであった。したがって、われわれの統一のための努力もついに結実せず、八月にいたって社会主義協会は分裂のやむなさにいたったのである。しかし、この分裂によって、われわれはマルクス・レーニン主義の理論の重要性を忘却し、社会主義協会の伝統に反する分子を除去することに成功した」。

 社会主義協会向坂派(以下向坂派という)は以降別党コースを執り、党派化を非難しながら、自らもまた一つのセクト性のつよい党派として成長、発展していくことになった。向坂派は、労農派系学者グループの再結集をはかるとともに、当時社会党内の主流派であった鈴木・佐々木派に協力と援助をもとめ、また総評民同のなかでは、太田氏と対立していた岩井章氏の全面的協力を得て再建をはかったのである。社研(佐々木派)は、その前身である五月会以来社会党内左派の統一的政治派閥として、協会との間に、歴史的に不分律としての分業体制が確立していた。それは、社会党内においては、社研が具体的な政治指導の任務を果し、協会は理論団体として、理論、学習の任務を果すというものであった。

 向坂派は、一九六六年、協会テーゼ「勝利の展望」の討論をはじめて、この期に分党、十一月に再建第一回大会をひらき、翌年九月の第二回大会で「向坂派テーゼ」を決定決定した。ここで、向坂派の党派的再建と登場が出現することになった。向坂派は、自らをマルクス・レーニン主義の集団と規定する。それはソ連共産党二〇回大会およびモスクワ八一ヶ国共産党・労働者党宣言の方向性を色濃く反映し、その後ソ連、東独などとの具体的な交流をふかめながら、ソ連型社会主義(実は修正主義から社会帝国主義に転落)を目標とする政治党派となっていく道をたどる。「平和革命必然論の立場にたつ向坂氏が、一九六〇年のモスクワ宣言によって、平和移行(平和革命)、平和共存、平和競争のフルシチョフ路線が一つの戦略方針として国際共産主義運動のなかで公認されたことに由来する。向坂氏と同派は、これに涙を流し、彼らの長年の主張が酬われたと考えた。以後、向坂派は、「わが祖国ソ連」にたいする絶対服従の方向をとることになる。彼らは、レーニン主義とは似て非なる宗派主義組織論のうえに、カウツキー主義とスターリン主義を同居、混在させ、自らソ連共産党の下僕とたりはてたのである」とある。

 〈3〉まなぶ-労大-社青同-向坂派協会-社会党という図式のなかで、まず社青同を向坂派が独占し、労働組合のなかに浸透、介入し、さらに党への介入、支配、占拠を強めるなかで、自らの組織を強化、拡大していく組織路線を着々実行し、④社研からもぎとった三月会という社会党内派閥をかくれみのとして、全野党共闘の名のもとに、実は日本共産党との統一政治戦線を結成しようとする方向性を明らかにしてきた時期である。

 「国際革命文庫」「日本革命的共産主義同盟小史」。

 6月、社青同第七回全国大会。東京地本の官僚的組織処分にようやく成功した協会派にとって、新しい全国分派闘争の再開を思いしらせることになった。新しい反対派が宮城―福岡連合、大阪―埼玉連合という二つの方角から登場した。前者は協会派系自らの内部から、後者は、第四回大会で一度はほうむりさられたかにみえた構造改革派の戦闘的再建として。

 宮城地本意見書は、第一に反戦闘争の強化、第二に「改憲阻止・反合理化」の基調の全面的再検討、第三に組織の民主的運営を要求するものであり、それは反対派全体に共通する意見でもあった。そして、協会派のメッカとされていた福岡地本が中央に反逆したことは、全国協会派に大きな打撃となり、反対派にとっては全国展望を与えるものとなった。


 6.5日、第三次中東戦争(六日戦争)開戦。


 6.9日、反日共系各派による砂川基地拡張阻止・ベトナム侵略反対統一行動、三派系八百名、集会〔清水谷公園〕・国会デモ、十一名逮捕、革マル系三百名、別個集会・国会デモ、構改系百五十名、米大使館デモ、関西三府県学連統一行動に二千名結集、集会〔円山公園〕・市内デモ。


 6.11日、青医連主催・全国無給医局員対策会議〔大阪大〕、文部・厚生両省の諮問機関〝卒業生研修に関する懇談会〟の答申に反対を決議、闘争方針を検討。


 6.14日、東京教育大、筑波移転問題をめぐりスト突入。


 6.15日、民青同系千名、ベトナム反戦・砂川基地拡張抗議・大学の戦争協力反対中央集会〔日比谷野音〕に参加、のち米大使館にデモ。


 6.15日、社学同系七百名、安保六・一五記念・砂川基地拡張阻止集会〔日比谷野音〕に結集、公安条例撤廃・都収用委員罷免を要求して都庁に突入、五名逮捕、のち全電通会館までデモ。


【「第7回6.15記念集会」】
 6.15日、60年安保闘争から7年目を迎え「第7回6.15記念集会」。ブントが電通会館に800名、中核派が九段会館に2000名、社青同解放派が両国公会堂に400名参加。ほかに社学同ML派が明大、革マル派が早大、アナーキスト系が各派が豊島振興会館に都内六カ所で六党派が独自集会。総参加者は約5千名。

 6.17-18日、医学連第十四回全国大会〔東京医歯大〕、インターン闘争を総括、登録医制反対等闘争方針を決定、社学同系執行部を選出。
【人民日報の「第7回6.15記念集会」論評】

 6.18日、「人民日報」は、次のような談話を発表している。

 「樺美智子は日本の反動派に殺害されたが、彼女は今なお日本人民の心の中に生きている。それにしても憤慨に堪えないのは、一握りの日本共産党修正主義分子が、意識敵に事実をねじまげて再三流言蜚語を飛ばし、恥知らずにもこの民族的英雄を『トロツキスト』であると侮辱したことである。現代修正主義者は、自ら革命をおそれる一方、他人にも許さない。彼らは、革命の原則を堅持し、敢然と革命をやる者には誰でも『トロツキスト』のレッテルを貼り付け、革命者を『反革命』に仕立てる恥知らずな腕前を持っている」。

 6.20日、4度目の原潜横須賀港寄港阻止闘争に各派の学生が参加。三派系はここでも機動隊と激しくぶつかった。


 6.19日、革マル系百五十名、中国水爆実験緊急抗議集会〔早大〕、のち華僑会館に無届デモで一名逮描、中核系八十名も抗議デモ。


 6.20日、三派系百五十名、原潜横須賀寄港阻止緊急抗議行動、三名逮捕。


 6.20日、大阪反戦青年委等共催・ベトナム反戦大阪府民集会〔扇町公園〕に大阪府学連・兵庫県学連二千名参加、市内デモ。


 6.23日、全国実行委等共催・外国人学校制度改悪反対集会〔日比谷野音〕に三派系二百名参加、文部省に抗議デモ、民青同系二百五十名も参加。


 6.25日、原潜横須賀寄港抗議行動、三派系九百名、市内デモで機動隊と衝突、革マル系四百名、別個集会・市内デモで双方五名逮捕、民青同系三百名参加。


 6.27日、全国反戦青年委全国代表者会議〔名古屋〕、過去一年間の反戦闘争を総括、五・二八闘争を高く評価、秋の闘争方針等を決定。


 6.27日、中央大学自治会が、連合委員会総会を開き、三派系全学連への加盟を決議。


 6.29日、青医連・医学連統一行動、登録医制反対を要求して千名で厚生省にデモ、五名逮捕。


 6.29日、大阪府学連平和連絡会議(構改系)主催・ハノイ・ハイフォン爆撃一周年抗議集会〔扇町公園〕に二百名参加、市内デモ。


 6.30日、反日共系各派300名が、佐藤訪韓阻止闘争に早朝から羽田街道周辺で機動隊と衝突。羽田消防署横で機動隊と衝突、サンドイッチ規制を振り切って闘ったが空港まで達せず。


【ベトナム反戦闘争と学生運動の激化】

 この時期は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという 分かりやすい正邪の構図があった。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国 アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。

 こうした情況と世論を背景にして、この時期これに 学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。民青同系全学連は主として学園民主化闘争を、新三派系全学連は主として反戦政治闘争を、革マル派系全学連は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。特に新三派系全学連による砂川基地拡張阻止闘争・羽田闘争・佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争・王子野戦病院建設阻止闘争・三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が耳目を引きつけていくことになった。この経過で、全学連急進主義派の闘 争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり、過激派と言われるようになった。


 7.7-9日、全寮連第九回大会〔大阪外大〕、民青同系の執行部選出。


 7.9日、社共両党主催のベトナム侵略反対・砂川基地拡張阻止集会(砂川滑走路前)に労.学3万人。新しい戦闘的組織として誕生した三派全学連は反戦青年委員会と共に5千名の隊列で別行動をとり、基地正門前に座り込んだ。激しいジグザグデモで気勢を挙げる中、6時ごろから機動隊との激しい乱闘となり、100名以上が負傷、労働者数人を含む43名が逮捕された。商店街はシャッターを下ろし、市民が退避するほどの激しさだった。「流血の砂川」が再現することになった。この時民青系全学連は2000名を結集し、整然デモ。革マル派は約250名で別行動となった。


 7.10日、青医連・医学連共催・医師法改正案国会上程阻止決起集会〔清水谷公園〕に千名参加して国会デモ、衆院議面前坐り込み、四名逮捕。


【新三派系全学連定期全国大会開催される】

 7.12日から3日間、新三派系全学連定期全国大会。44大学(結成時35大学)85自治会(結成時71自治会)・275代議員(結成時178代議員)、他に168評議員.21オブザーバーの1500名が参加。新三派系が勢力を扶植しつつあったことが分かる。主な演説は各派が分担し、運動総括は中核派の秋山委員長、状勢分析は社学同の成島忠夫、運動方針は社青同の高橋幸吉が行い、秋山委員長を再選した。副委員長は、成島忠夫(静岡大.社学同).蒲池裕治(同志社大.社学同)、書記長に高橋幸吉(早大.社青大)、情宣部長に青木忠(広島大、中核派)、共闘部長に渡木繁(早大、社青同)、組織部長に久保井択三(中大、社学同)を選出した。中大連合自治会の加盟承認、都交通局合理化反対・佐藤訪ベト阻止等を決議。

 ただし、新三派系全学連の蜜時代はここまでであり、これ以降中核派の台頭が著しくなっていくことによってかどうか、翌68.7月、中核派は自前の全学連結成大会を開催し分岐独立することになる。同月反中核派連合の社学同「統一派」、ML派、社青同解放派、第 4インターなども又反帝全学連第19回全国大会を開催し、反帝全学連を発足させることになった。ところが、この反帝全学連も社学同と社青同解放派間の対立が激化し、翌69.3月社学同側が単独で大会を開催し社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派が単独大会を開き、解放派全学連として独立することになる。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。

 こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67~69年の学生運動の流れ となる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。12月、社青同解放派が「反帝学生評議会」(反帝学評)を結成する。


 7.13日、革マル派全学連が第24回大会開催。43大学66自治会(25大学、45自治会代表参加ともある)、107代議員のほか750人のオブザーバーと発表されている。委員長・成岡庸治(早大.一文)、副委員長根本仁(北教大)、佐々木通知(愛知大.豊橋)、書記長木下宏(東大.経)を選出した。ベトナム侵略戦争反対・砂川基地拡張阻止・中国核実験弾劾等を決議、反戦闘争強化を決定。


 7.13日、民青系全学連が第18回大会開催。75大学156自治会から354代議員と255評議員、オブザーバー122大学の192名と発表されている。「学生運動.民主運動から暴力学生集団.分裂主義者を一掃しよう」などのスローガンを採択している。委員長田熊和貴(東経大)、副委員長岩村智文(東北大)らを選出。


 7.13-16日、全学連(民青同系)第十八回全国大会(委員長・田熊和貴)、七十五大学百五十六自治会代表参加、〝明るく豊かな学園生活をめざして″をスローガンに〝一部暴力学生集団の追放″を強調。


 7.16日、在本土沖縄県学生連絡会議(民青同系)結成。


 7.17日、中核派系五十名、都交通局再建案阻止で都議会に突入、機動隊に規制され一名逮捕。


 7.20日、中核派系学生、都議会全員傍聴を要求して都庁前坐り込み、傍聴中止に抗議して都議会に突入、機動隊導入で四十二名逮捕、再建案強行採決。


 7.28日、東京地裁、日韓闘争で国吉毅被告ら九名に公安条例違反で有罪判決。


 8.4日、大阪府学連(構改系)等共催・広島反戦集会に二百五十名参加、国民会議の大会に参加を決定。


 8.8日、全国反戦青年委主催・八・六広島青年学生反戦集会に全学連(三派系)等二千五百名参加、五会場で分散会。


 8.6日、全学連(革マル系)等共催の第5回8.6国際反戦集会が早大で開かれ800名参加。


 8.8日、新宿駅構内で、米軍タンク車が貨物列車と衝突、爆発炎上する。この事故で、軍用機の燃料が、1日4回、東京のど真ん中を縦断し、米軍横田基地へ輸送されていることが判明した。


 8.15日、三派系80名が、原潜横須賀寄港抗議デモ。


 8.23日、全国・中央実行委共催・原括スキヤップ・バーブ入港抗議横須賀集会に三派系等学生二百名参加、基地正門前坐り込み、四名逮捕。


 8.23日、全学連(三派系)書記局会議、三里塚・芝山連合空港反対同盟へ調査団派遣を決定。


 8.26-27日、都学連(民青同系)第五回大会〔法政大〕。


 8.28日、べ反委、日特金反戦闘争の初公判で東京地裁内裁判拒否集会、機動隊導入で実力排除、公判は流れる(9月7日地裁、被告七名を監置処分、制裁裁判を強行)。


 9.1日、民学同第八回臨時大会、秋のベトナム反戦闘争方針を採択、〝同盟内ネオ・トロツキズム的偏向″の批判が行なわれる。


 9.1-2日、全学連(革マル系)第四十七回中央委〔早大〕、当面の行動方針を決定。


 9.6日、野党四党書記長会談、沖縄・小笠原早期返還要求で合意(12月2日民社党脱退、6日三党書記長、政府に要求中入れ)。


 9.6日、都公安委、べ平連に七日の米大使館デモを許可。


 9.7日、 9.7日、佐藤訪台阻止闘争。佐藤訪台に対して三派系全学連500名が羽田空港付近で機動隊と衝突。羽田空港前駅から数回にわたり突入を図るも機動隊の規制で分散、並列規制で六郷河原まで引き回される、革マル系200名が空港突入を図り投石戦。この日の闘争で双方12名が逮捕される。


 この頃、オズボーン駐日大使が、外務省に原子力空母エンタープライズなどの原子力艦船を乗務員の休養及び艦艇の兵站補給の目的のため、日本に寄港させたいへいたいと申し入れた。


 9.9日、「エンプラ寄港阻止1.17実行委」が発足。


 9.10日、青医連・医学連共催・九月医師国家試験拒否闘争、東京〔小泉公園〕に百五十名結集して駒沢大にデモ、五名逮捕、大阪〔藤井寺駅前〕、百名結集して四天王寺女子大にデモ、広島・福岡で集会・デモ等全国で一割ボイコット。


 9.12日、三派全学連が東京.清水谷公園で集会を開き日比谷までデモ、エンプラ寄港阻止闘争の口火を切った。


【法政大事件】
 9.14日、「法政大事件」が発生している。これは民青系と反代々木系が法学部の自治会執行部の正統を争い、前年より決着がつけられないままに至っていた。この状況から学部当局が自治会費を「凍結」していたことに端を発する。民青系と反代々木系の間に暴力事件が発生し「制止に入った教職員を含め、民青同側に約30名の重軽傷者を出すに至った」。9.8日、処分が発表された。反代々木系はただちに「不当処分撤回全学共闘会議」を結成し大衆団交に入った。これがこじれて機動隊が導入され、居合わせた学生全員285名が「全員検挙」された。三派全学連委員長の秋山氏も逮捕されていた。この時の機動隊の殴る蹴るが後々重要な意味を持つことになった。なお、総長以下が「監禁の事実はなかった」と答えたため全員釈放された。

 9.15日、反対同盟等共催・成田空港粉砕・強制測量阻止決起集会〔三里塚公園〕に全学連(三派系)五十名参加。


 9.20日、第一次佐藤東南アジア訪問阻止闘争、三派系三百名、革マル系百五十名結集、デモ不許可の下、機動隊の並列規制で引き回される。


 9.21日、べ反委、日特金反戦闘争公判で被告九名、罪状認否に黙秘貫徹、傍聴でコショウをまき一名逮捕。


 9.21日、大阪府学連・兵庫県学連、一〇・八佐藤訪ベト阻止に一切の組織問題を保留して共同行動に決起を全国にアピール。


 9.26日、全学連(三派系)中執、一〇・八佐藤訪ベト阻止羽田闘争に決起をアピール。


 9.27日、全国反戦青年委、各県反戦青年委に一〇・八佐藤訪ベト阻止で羽田現地に結集するよう緊急指令。


 9.30日、全都ベトナム反戦共闘主催・ベトナム反戦討論集会〔全日通会館〕に二百五十名参加。


 10.2日、大阪府学連・兵庫県学連共催・全国自治会代表者会議(構改系)〔東京〕、全国自治会の課題別現地共闘方針確認、一〇・八闘争方針を決定。


 10.3日、 法政大当局、処分問題で全学説明会を設定するも共闘会議、一方的説明会阻止で演壇占拠、当局の団交拒否に千五首名で抗議集会。佐賀大試験ボイコットでバリケード構築、機動隊導入され実力排除(4~6日大学側連日試験ボイコットのピケに機動隊十三回導入、試験を強行するも受験者わずか二割)。10.6日、東洋大、校舎川越移転・学則改悪反対で理事長室前に大衆団交を要求して坐り込み(13日当局、団交の約束を一方的に破棄)。


【法政大闘争をめぐり社青同解放派の全学連書記局員が、中核派の書記局員を殴打する】
 10.6日、全学連(三派系)佐藤訪ベト阻止統一集会〔日比谷野音〕、法政大闘争をめぐり社青同解放派の全学連書記局員、中核派の書記局員/丸山淳太郎を殴打する事件が発生している。

【三派全学連が中核派と社学同.社青同解放派の二派に分かれて集会】
 10.7日、中核派と反中核連合の対立で全学連(三派系)総決起集会が流会し、三派全学連は中核派と社学同.社青同解放派の二派に分かれて集会を開いている。中核派1000名は法政大、社学同・社青同解放・ML派900名は中大に陣取った。革マル派は早大、構政派は社会文化会館に各々泊り込み。この時、中核派と社青同解放派の二派があわや衝突寸前の動きをも見せている。

【羽田闘争前夜の法政大学で、中核派が解放派の高橋幸吉などへリンチ】
 10.7日、羽田前夜、中核派拠点キャンパスの法政大学で、中核派が、社青同解放派が中核派書記局員に暴力をふるった仕返しとして、社青同解放派の全学連書記局員2名(渡木繁と高橋孝吉)(三派全学連書記長T、都学連委員長K。両氏とも社青同解放派)にリンチする事件が発生している。凄惨なリンチを受け、膨れ上がった顔とボロボロになった体を引きずり、抱えられて全国から結集した学生が明日の10・8羽田闘争に向け、総決起集会を開いていた中央大学講堂に現れた。その反動として、革マル派と並んで解放派が優勢な東大駒場で中核派がラチ・テロの対象になった。東Cの中核派はしばらく後に、駒場寮からも追われて「亡命生活」に入る。

 「
荒岱介 2008」が次のように記している。
 「10月6日に日比谷公園でおこなわれた全学連の統一行動で、やっかいな問題が起こったのだった。法大処分闘争に関する中核派のビラの中で、ブントと解放派が批判されていたのだが、これに怒った解放派の全学連書記局員が中核派の書記局員・丸山淳太郎さんを殴ってしまったのである。その場はなんとかおさまったが、明くる7日のこと。8日の行動の打ち合わせで法政大学に行った解放派の書記局員・渡木繁さんと高橋孝吉さんを中核派が拉致し、長時間のリンチをくわえる事態になってしまったのである。大闘争の前日に、三派全学連はとんでもないことになったわけだ。中央大学に集まっていた社学同や解放派は堂の長椅子を解体してゲパ棒を作ると、法大に押しかけて抗議し、解放派の書記局員を救出した。双方がゲパ棒を押し立てての対峠だったけれども、さいわい直接の衝突はなかった」。

 65年東大文Ⅲ入学(現役)の中核派活動家/加納明弘「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」(ポット出版、2010年刊)は、「なんていうかな、三派全学連が持っていたある種の明るさを、打ち砕かれるような事件だった」と述懐している。
 三派全学連内内ゲバの背景に、10・8羽田闘争の全学連総指揮者をめぐる対立があった。委員長A.Kは「自分はできない。しかし、総指揮者は中核派から出す」とし、具体的には、広島大学A.Tを提案した。これに対して、「委員長ができないなら書記長か副委員長が指揮をとるのが筋」と解放派・ブンドは主張した。この時、全学連副委員長はN(静岡大・ブント)、書記長はT.(早大・社青同解放派)であった。この時、書記長のTが「Aがやれないなら、俺が指揮をとる」と名乗り出ていた。10・8で逮捕されれば長期拘留を覚悟せざるを得ず、中核派にとってAの不在は、ようやく手に入れた三派全学連のイニシアティブを失いかねない―このリスクは回避したい。更に、総指揮も手にすることによって、中核派のヘゲモニーを目に見える形にしたいという党派利害を主張していた。

 10.7日午前10時より全学連書記局会議が中央大学学館で予定されていた。議題は、①10・8の総指揮者について、②10・8の闘争戦術についての二点だった。当日、定刻を過ぎても中核派は現れないし、連絡もなかった。全学連書記長Tと都学連委員長K(いずれも解放派)が、「A、Yを迎えに行ってくる」といって法政大学に向かった。ところが法政大学では、深刻な「事態」が起きていた。ことの始まりは、10月6日、日比谷野音でのある出来事に発する。「10・6ベトナム戦争反対集会」(社・共共闘)の現場で、中核派Mと解放派Kが論争した。その中味は、例の「総評民同と癒着した改良主義者―解放派」という批判をめぐってであった。頭にきた解放派KがMをぶん殴った。これに対しデモを終えて法政に戻った中核派が法政大解放派メンバーに暴力をふるった。この暴力行為を聞きつけた早大の解放派が法政大に乗り込み中核派をぶん殴るということがあり、10月7日、その仕返し・報復として法政大解放派の学生が中核派に拉致され、リンチされるという事態に発展した。10月7日、中核派政治局(H・S.T・S.K・K)は法政大学に腰を据えていた。それは、中核派政治局の10・8羽田闘争にかける並々ならぬ決意を示すと同時に、解放派の振る舞いに対する重大な決意の現れでもあった。法政大解放派メンバーを密室でリンチしながら、「このメンバーを解放したければ指導部が身代わりに法大に出向いて来いと通告した」らしい。(水谷保孝・岸宏一著「革共同政治局の敗北」)こんなことが起きているとはつゆ知らず(Tは、全く知らなかったと私に語った)、T、Kは全学連書記局会議への出席を促すために法政大に向かった。法政大構内に入るや否や中核派に拘束、T、Kは拉致され、その代償に法政大解放派学生は解放された。中核派政治局(S.T,H,K)指導による全学連書記長T、都学連委員長K等解放派学生指導部に対する今まであり得なかった陰惨なリンチが行われた。Tによれば、現場にいたY(Aもいた)が耐えられなくて、「もうやめてくれ!」とS.Tに願い出たらしい。かくしてT、K等解放派指導部は解放された。10・8羽田闘争を指揮するはずだったTはリンチされ、傷を負い、総指揮は不可能となった。さらに、当日の戦術は全学連として意志統一されることはなかった。かくして、三派全学連の分裂は確定した。中大講堂に全国から結集した学生は、顔が膨れあがり、ボロボロになり、抱えられて壇上に登場したT、Kの姿を見て目を疑い、間もなくにして何が起きたかを理解した。中大講堂を埋め尽くしていたすべての学生は、直ちに法政大学に向かい、すべての門を閉ざした法政大前で、明日の闘争の指揮をとる三名が抗議のアジテーションをし、明日の闘いへの決意を述べた。かくして、10・8羽田闘争は分裂した。そして、三派全学連として復元することはなかった。

 10.8当日、中核派を除く全学連部隊は、中大から御茶ノ水―東京―品川を経て、京急大森海岸駅で非常用コックを開け、電車を緊急停止させ線路の石を拾い、角材をもって鈴ヶ森ランプを突破した。これを見届けた全学連副委員長Nと*は萩中公園に向かった。Nは萩中公園に結集していた反戦青年委員会の労働者に向かって、「わが全学連は首都高速鈴ヶ森ランプを突破し一路羽田空港に向かって前進している」とアジった。この時丁度、中核派部隊が萩中公園に到着した。角材に小さなプラカードをつけて登場した中核派は、昨日の今日、萩中公園で中核派以外の全学連部隊との衝突を予測していたかのような構えで登場した。しかし、全学連副委員長Nのアジテーションを聞くや否や、「遅れてはならじ!」と踵を返して弁天橋に向かった。この時、鈴ヶ森ランプを突破した全学連部隊は、道を間違え羽田空港と逆方向に向かっていた。誤りは、鈴ヶ森ランプ「入口」を突破し進入したことであった。この「入口」は、本線につながっているが、本線は「羽田」ではなく「東京方面」に向かっていた。全学連部隊はで前進したが、「どうも逆ではないか?」という不安がよぎる。前方を走って逃げる警官に「羽田はどっちだ」と訊くと「あっちだ!」と逆方向を指す。「警察を信用するわけにはいかない」と前進するが、「どうも景色がおかしい。向かっている方向は東京方面で、羽田とは逆方向ではないか?!」という声が学生の中から聞こえてきた。指揮者陣は立ち止まり決断した。「逆だ。方向転換!」。羽田へ向かって部隊は前進した。方向転換し進む先に間もなく機動隊が現れた。この日の警備体制は、「羽田空港に反対派部隊は一歩も入れない」という警備方針で、穴守橋、稲荷橋、弁天橋に阻止線を敷いた。ここが最重要阻止線であると。高速道路から全学連部隊が来るとは全く考えていなかったのである。「全学連部隊、鈴ヶ森ランプ突破!」の報を聞いた警視庁はあわてた。予想外の報に急遽機動隊を高速に向かわせた。彼らが、間一髪で全学連部隊の羽田空港突入を阻止しえたのは、わが部隊が方向を間違え、羽田空港突入までに時間を要したからであった。高速道路「平和島出口」付近でかろうじて阻止線を敷くことに間に合った警視庁機動隊と全学連部隊は衝突した。この衝突の中で逮捕者を出し、全学連部隊は一般道へと押し出された。*部隊は第一京浜を走り、再結集して穴守橋で闘うことになった。

 二つに分裂した全学連部隊は、それぞれが10・8羽田闘争を全力を挙げて闘いぬいた。昨日あったことなど忘れ「佐藤訪ベト阻止・ベトナム人民との連帯」を掲げて闘いぬいた。そして、山﨑君の死を知り、それぞれの闘いを終えて萩中公園に集まった学生部隊は反戦青年委員会の労働者とともに黙祷を捧げた。山﨑博昭君を追悼する統一集会が持たれたのである。


 反戦青年委員会主催の決起集会も、日比谷野外音楽堂に5千人を集めて行われた。革マル派は東粕谷中学校に結集、穴守橋へと向かったが、機動隊のサンドイッチ規制で平和島までひきかえした。民学同・フロントなどの構造改革派系学生も別行動で参加しデモ。民青同系も約200名がゲート前で「佐藤訪米反対」を唱えている。

 この時の特徴として、機動隊側の装備の格段の充実が為され、検問強化.催涙ガス弾の容赦ない発射を浴びせられている。しかし、三派系は第一次、二次羽田闘争を高く評価し、ゲバルト闘争に自信をもたらし、「守りの運動から攻めの闘争へ移行し、定着した」と総括している。
(私論.私見)
 この時の中核派のテロ理由が分からないが、後々の中核派対革マル&解放派連合への展開、革マルの解放派追い出しへの流れを考えると、このテロが重要な意味を持っていることになる。この辺りの情報が欲しい。
 中核派活動家/加納明弘「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」(ポット出版、2010年刊)
 内容紹介


 末期の肺がんであることが発覚した親父に、息子がとことんインタビュー。1960年代後半、元東大全共闘・駒場共闘会議のリーダーであった親父が息子に全共闘という時代を語る。
 目次
第一章 とにかく死ぬ前にしゃべっとけ/親父、裁判に10年以上費やす/親父、佐世保エンプラ事件で逮捕・起訴される/親父、『南回帰線』と苦闘する/当時の大人もわかっていた、ベトナム戦争はアメリカに勝ち目がない/アジア人、ベトナム、冷戦、パワーバランス/ベトナム戦争とイラク、アフガン戦争の共通点/親父の両親、脱走米兵を匿う/親父、米軍病院に突入す/息子、三派全学連理解に困惑す/親父、内ゲバ最初期にテロられる/想定外だった内ゲバという暴力
第二章 抜け出したかった故郷の町/大学入学直後、日韓条約反対運動に参加する/ある野心とその敗退/1親等か2親等かの選択/フィクサー登場/帰化問題の解決/青年はアイデンティティを問う/息子、結局は俺は俺だとアメリカで発見/出社初日、ジーンズ出勤した男の運命/息子の受けたエチオピアン・ショック
第三章 息子、世界規模での軍事費削減を力説/ナチドイツ打倒の主力はソ連軍/親父、冷戦期の核戦略史を語る/日本だけが核攻撃を受けた単純な理由/日本の防衛予算はムダ多すぎ/アメリカは大成功した軍事国家/凡庸が支配した国、ソ連/ソ連システムの自壊/親父の大風呂敷、1789年、1917年、1989年理性と欲望の戦い、そして欲望の勝利/親父がアングロサクソンを高く評価する理由/良心的兵役拒否を認めたアングロサクソンの強さ/大英帝国、海軍による世界支配/日露戦争の本質は英国のアウトソーシング/1960年代後半は、1917年と1989年の交差点/ノンセクトでLⅢ闘争委員会を組織/バリケードの中でマージャンを/親父、大学を中退、ヒッピー村へ/極「左」トロツキストと極左暴力学生/現場か管理者か、それが問題だ
第四章 青年がコミュニズムに向かった時代があった/コミュニズムの残照、1960年代/全共闘の仮想敵は統治のシステム/異議を受け付けない権力は腐敗する/1968年3月、赤坂警察署の夜は更けゆく/若き警察官と若き親父の問答/階層差を映し出す、全共闘、機動隊、民青/強大な敵を前に権力を争う、それが政治/スーパーキャピタリズムは新しい中世か?/誰がセーフティネットを張るのか
第五章 親父、全共闘の国際的背景を語る/ドント・トラスト・オーバー・サーティ/ガキの運動としての全共闘/バリケードのなかで読んだハイデガーと般若心経/カトリックのカテキズムの厳密さ/あまりにもチープだった統一教会の合宿/振り込め詐欺は世代間の所得移転か?/家庭崩壊かつ遵法精神のない被害者/脳死のフリをしていると脳死する/事あれかし主義/親父に似てきて俺はやばい
あとがき
 著者プロフィール
 加納 明弘(カノウ アキヒロ)
1946年 岐阜県生まれ/1965年 県立岐阜高校卒業/1965年 東京大学教養学部文科3類入学/1969年 同大学中退、その後主として文筆関連業に従事して今日に至る/2008年8月 肺がん手術で右肺上葉を切除。腫瘍の大きさは長径68ミリと大きかったが、浸潤・転移なし/2010年7月現在転移・再発せず。生存中。
 加納 建太(カノウ ケンタ)
1974年 東京都生まれ/1993年 東京都立国立高校卒業/1994年 米国ウェストバージニア州立大学入学/1998年 米国ニューヨーク州立大学卒業/1998年 日系企業に現地採用で入社、米国CPA資格を取得/2003年 帰国、米国系IT関連企業に就職/2005年 フランス系化学関連企業に転職/2007年 米国系ヘッジファンドに転職/2009年1月以降、日系企業の欧州法人に勤務。ドイツ在住。

 10.7日、沖縄大学生大会、学園分離を要求して全学スト決議、学生本部封鎖に突入(31日数度にわたり機動隊を学内に導入しながら理事長、本土へ高飛び)。


【「激動の7ヶ月」】
 67.10月からの7ヶ月は、後に「激動の7ヶ月」と言われ、三派全学連の特に中核派の行動が目立った。この頃からヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という闘争スタイルが定着した。これは65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾 などが登場していたという背景と関連していたようである。この間の機動隊によるデモ隊の「先制的並列サンドイッチ規制」がデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方明白になっていた。学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット・タオル覆面・ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。
(私論.私見)
 この闘争スタイルは、当時の法規制すれすれの自衛武装戦術であり、これを牧歌的といって了解することが 適正であるかどうか疑問も残るが、この頃の警察警備隊指揮者にはこれを許容するなにがしかの思いがあり、そう言う意味では取締り側にものどかさの度量があったのかも知れない。そういう時代が許容した範囲において、秋山勝行委員長の下新三派系全学連は機動隊に突進していく闘争を展開していくことになった。これに対して、警察はこれを実地訓練と見、またどんどん逮捕して保釈金で財政的にも締め上げ弾圧していく。しかし、それでも闘争が活動家を生みだし、新三派系全学連が急速に力を増していくことになった。中でも中核派の伸張が著しく、反代々木系の最大セクトに成長していくことになった。

【佐藤訪ベト阻止羽田現地闘争へ】
 佐藤首相の南ベトナム訪問が発表された。佐藤首相は、67年の夏から秋にかけて、韓国、台湾、東南アジア諸国を歴訪し、10.8日のベトナム訪問を、その最後の仕上げとして打ちあげていた。この時点で、新左翼運動は、ベトナム戦争参戦国化へ傾斜しつつある砂糖政権に対し、ベトナム反戦闘争をどう対置するのかが問われていた。

 今や、ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府に対する怒りの抗議を突きつける必要があった。中核派、社学同、解放派からなる三派全学連は、反戦青年委員会を巻き込みながら「労学提携による実力阻止」の強硬方針を打ち出した。この時、中核派は「ゲバルトで闘う」という方針を提起している。これをめぐって社青同解放派は「中核派の玉砕主義」と野次り、中核派は「社青同の日和見主義」とやり返したと伝えられている。しかし、この方針が受け入れられていくことになる。当時の朝日新聞記者高木正氏の「全学連と全共闘」が羽田闘争を克明に記述している。

 この時の様子が国会質疑で次のように語られている(「衆議院会議録情報 第056回国会 地方行政委員会 第3号」
 (http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/056/0320/05610110320003c.htm)。
 後藤田説明員曰く、「当日の25百名の学生のうち、都内の学生は大体15百名程度、地方からの上京者は約千名程度と見ております。都内では早稲田、中央、法政、明大、東大教養学部、東京工大などの各大学、地方では立命館、京都大学、専修大学、横浜国立大学、埼玉大学、大阪市立大学、同志社大学、広島大学、岡山大学等の学生が目立っておりますけれども、参加した出身学校は、北は北海道大学から南は九州大学にまで及んでおります。

 さようにいたしまして、大学別の数でございますが、私どもが現認をいたしておりますのは、比較的多いのを申し上げてみますと、専修大学が64名、神奈川大学が17名、埼玉大学が60名、群馬大学が22名、静岡大学が23名、山梨大学が32名、大阪経大が25名、大阪市立大学が57名、大阪大学が40名、京都大学が78名、同志社大学が55名、立命館大学が111名、広島大学が55名、岡山大学が41名。なお、都内の大学は、それぞれ早稲田大学、明治大学、中央大学、法政大学、これら各大学相当数出ておるわけでございます。

 なお、これらの学生は、前日の七日総決起集会を開きましてからそれぞれ宿泊をいたしておりますが、法政大学にマル学同中核派を中心とした学生6百名、中央大学と明治大学に社学同と社青同解放派を中心といたしまして6百名程度、早稲田大学に革マル系全学連を中心とした3百名前後、社会文化会館に構革派学生を中心とした3百名程度が宿泊をいたしております」。

 明けて10.8日、佐藤首相の南ベトナム訪問日を迎えた。佐藤首相は、午前10時25分羽田発の日航特別機で、南ベトナムなどへ第2次東南アジア・太平洋諸国訪問の旅に出発しようとしていた。ヘルメット.角材で武装した両派は数を増やしながら別個に羽田空港へと向かった。

 10.8日午前7時30分頃、前夜から中央大に泊りこんでいた社学同、解放派部隊1500名が、国電御茶ノ水駅から羽田へ向かった。午前8時、京浜急行大森海岸駅で下車した部隊は、佐藤首相が通過する予定の高速1号線の鈴ケ森ランプから柵を乗り越えて乱入、高速道路上を進撃していった。待ち受ける機動隊は学生が角材で武装してくることを知らず、乱闘になるや数で圧倒し、60年安保闘争以来はじめて機動隊の阻止線を撃破し実力で突破した。羽田闘争はこれでフタ開けした。.

 この闘い以後、いわゆる三派全学連は勇名をはせ。ヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化していくことになる。部隊は空港へと向かった。そして、穴守橋付近で、萩中公園からデモしてきた反戦青年委員会グループと合流、同橋を固める機動隊と衝突して角材、投石でぶつかってゆき、これに対し、機動隊は激しい放水で防戦した。

 早大から革マル派400名、 社会党本部のある社会文化会館から構造改革派300名も 穴守橋下流の稲荷橋に向かった。まず、革マル派が機動隊と衝突した後穴守橋下流の稲荷橋で集会を始めた。両橋上で警察の警備車が炎上する煙が、遠くからみえるほど高くあがった。

 次に法政大学に結集した千名の中核派が萩中公園で総決起集会ののち、直線道路を突進してやって来た。社学同.社青同解放派は穴守橋で投石.乱闘し始めた。装甲車が放火され燃え上がり始めた。迂回した機動隊は革マル派が陣取る稲荷橋に突っ込む形になりここでも乱闘となった。中核派は、弁天橋から迎えうった200人の警官隊を、勢いのまま完全に圧倒して四散させ、弁天橋を固める警官隊と対峙していた。角材と投石で進んでくる学生たちを阻止し、放水車で追いかえそうとする警官隊、その激しい放水で川の中へたたき落とされる学生も多数いた。

 その間、10時半すぎ、佐藤首相の乗った特別機は、羽田空港を飛びたった。

 「67.10.8第一次羽田闘争」が次のように証言している。
 10月8日は、朝6時頃、飯田橋駅からプラカードみたいなものを持って電車に乗って、羽田に向かった。中核派の部隊600名が駅に着いたら、「走れ!」ということで、プラカードを外した。プラカードはもう角材になっている。すぐに機動隊が来たけれど一瞬にして粉砕、機動隊を叩きのめした。それまでは素手でスクラムを組んで突撃していたんだけど、10月8日に初めて機動隊を叩きのめした。すごい解放感、勝利感があった。

 それでまっしぐらに羽田の弁天橋に向かった。弁天橋を渡れば羽田空港に行ける。いろいろ羽田空港に行く橋があって、ブントは稲荷橋、革マルは穴森橋。この弁天橋の闘いが一番有名なんだけど、この闘いに参加した訳です。前哨戦で機動隊をたたき潰して弁天橋まで行った。橋のところに装甲車がずらりと置いてある。その装甲車を突破しないことには中に入れないから、装甲車に一挙に押し寄せた訳です。中核派部隊は泊まり込みも含めて1,000名以上いた。装甲車を巡る攻防が始まった。その中でとうとう装甲車を奪った。警官は装甲車の鍵を付けたまま逃げたんです。1台の装甲車を中核派が押さえた。その装甲車を利用してバックでほかの装甲車にぶつけた。我々はそれに付いて行った。向こうは放水車で対抗していた。僕も装甲車の下で一進一退でごちゃごちゃやっていた。そのうちに「闘い止め!」という号令がかかった。「仲間が死んだ」ということだった。それが山崎博昭だった。それで一瞬、闘いを止めた。Kが放水車の上から、「今、仲間が死んだ」と言って黙とうした。それ以上我々は弁天橋から先には行けなかった。
そんな中、佐藤はベトナムに飛び立った。昼くらいには闘いは終った。その時はほとん逮捕者は出ていない。
 「No 521 重信房子 「1960年代と私」第二部第4回(1967年)」が次のように記している。関連するカ所をれんだいこ文法に従い抜き書きする。
 67年10月8日、この日の闘いによって、学生運動が転換したと言っても過言では。砂川基地拡張反対闘争を闘いながら、三派全学連は矛盾や対立は続いていた。中核派のヘゲモニーに対して、他の党派もそうだったが特にブントが対抗意識を露わにしていた。中核派の「反帝反スターリン主義戦略」と「反帝戦略」のブントは、闘いの位置づけ、分析において常に対立し、全学連の基調報告や政策にどう反映させるか、7月の全学連大会でも争っていた。67年は、ベトナム反戦闘争が国際的な高揚を背景に学生運動、ベ平連をはじめとする市民運動も広がっていた。学生運動は、学費闘争、砂川米軍基地拡張反対闘争を闘い、ラジカルさを競うように各党派の街頭活動を先鋭化させて行った。10月8日、佐藤首相は南ベトナム傀儡政権の招きによって、ベトナム訪問が行われようとしていた。佐藤首相のベトナム訪問には、ベ平連も社共の既成政党も、連日、街頭抗議活動を行っている。10月8日、全学連と反戦青年委員会5千余名は激しい弾圧に抗して闘い実力闘争街頭戦に向かった。「大森海岸」駅での緊急集会で、「我々は決死の覚悟をもって羽田空港へ突入し、佐藤訪ベトを阻止する。我々こそがその使命をやりとげるのだ!」と成島全学連副委員長の短いアジテーションが終わると、シュプレヒコールで景気付けながら旗棹を持った部隊に続いて角材部隊が続き、ジグザグデモで出発した。鈴ヶ森ランプの高速道路に乗るインターチェンジの入口の坂道の下までくると笛が鳴り「羽田へ突入するぞーッ!」、「走れーッ!羽田はすぐそこだぞーッ!」と激がとんだ。高速道路に上がると、佐藤訪ベトに向けて一般車両の通行を禁止していたらしく車は見当たらなかった。何十メートルおきくらいに配置されていた機動隊員は、学生たちに殴られ倒された。しばらく行くうちに、先頭集団を走っていた早稲田の荒らが道を間違えたようだと言い始めた。出口を逆走すれば羽田に向かうが、入口をそのまま走ると東京方面に向かってしまうこと知らず逆走したことになる。そのうち機動隊が羽田方面からと大森方面から追いかけて百余名の集団を挟み撃ちにしようとする。装甲車から降りてきて、負傷した機動隊仲間を収容する部隊と、学生デモ隊を攻撃する部隊に分かれ、学生たちを警棒で乱打、蹴ったり激しい暴力をふるった。追い詰められて学生が何人か飛び降りた。機動隊は何故か逮捕せず蹴散らす方針をとった。(以下略)
 当時、新聞記者であった高木正幸の「全学連と全共闘」が次のように記している。
 当日早朝、まず前夜から中央大に泊りこんでいた社学同、解放派系の学生900人が、全員「ヘルメットと角材」で武装、国電御茶ノ水駅から羽田へ向かった。午前8時、京浜急行大森海岸駅で下車した部隊は、柵を乗り越えて鈴ヶ森ランプへ進撃、学生が角材で武装してくることを知らなかった機動隊は、不意打ちをくらって混乱して敗走、部隊は空港へと向かった。そして、穴守橋付近で、萩中公園からデモしてきた反戦青年委員会グループと合流、同橋を固める機動隊と衝突して角材、投石でぶつかってゆき、これにたいし、機動隊は激しい放水で防戦した。穴守橋下流の稲荷橋では、早大からきた400人の革マル派が、機動隊と衝突をくりかえした。両橋上で警察の警備車が炎上する煙が、遠くからみえるほど高くあがった。

 一方、法政大学に結集した千人の中核派は、萩中公園で総決起集会ののち、直線道路を突進してきたが、弁天橋から迎えうった200人の警官隊を、勢いのまま完全に圧倒して四散させ、弁天橋を固める警官隊と対峙していた。角材と投石で進んでくる学生たちを阻止し、放水車で追いかえそうとする警官隊、その激しい放水で川の中へたたき落とされる学生も多数いた。

 その間、10時半すぎ、佐藤首相の乗った特別機は、羽田空港を飛びたった。学生たちの攻撃に、1台の警備車の警官がキーを残したまま逃げ、学生がその車に乗り込んでバックして、他の警備車を押しのけようと突進させた。その周辺で乱闘していた学生や警官が、危険を避けて、川の中に自分から飛びこんで難を逃れる。学生の乗った警備車は、前進しては速度をつけてバックし、他の警備車や放水車にぶつかっていく。その運転席に、ものすごい放水車からの水があふれた。運転席の学生がマイクで叫ぶ。「こちらは全学連主流派。すべての学友は、この車に続いて空港の中へ進撃してください。」。この声に、周囲のビルの上や道に群がった野次馬の間から拍手があがった。

【「第1次羽田事件」。羽田で三派と機動隊激突、中核派系京大生・山崎博昭君死亡】
 10.8日、いわゆる「第一次羽田事件」で中核派京大生が死亡し、樺事件の再来となった。10.50分頃、中核派のいる弁天橋上でも乱闘となったが、体制を立て直して猛然と殺到した中核派は装甲車を奪取した。1台の警備車の警官がキーを残したまま逃げ、学生がその車に乗り込んで獲得したものであった。学生は、バックして他の警備車を押しのけようと突進させた。その周辺で乱闘していた学生や警官が、危険を避けて、川の中に自分から飛びこんで難を逃れる。学生の乗った警備車は、前進しては速度をつけてバックし、他の警備車や放水車にぶつかっていく。その運転席に、ものすごい放水車からの水があふれた。運転席の学生がマイクで叫ぶ。「こちらは全学連主流派。すべての学友は、この車に続いて空港の中へ進撃してください」。この声に、周囲のビルの上や道に群がった野次馬の間から拍手があがった。その後一瞬、橋上の学生と警官隊の乱闘がやんだ。「誰か死んだ」の声が、野次馬の間にもひろがった。午前11時25分、京大1年生・山崎博昭(18歳)氏の死亡事件が発生した。警察発表は、「学生が運転した車によるれき殺」であり、中核派は「機動隊員の警棒による撲殺」と解剖所見などをもとに発表し、見解が対立している。山崎氏の死の疑問は、現在にいたるまで解明されていないが、‘60年安保闘争の樺美智子に次ぐ、政治闘争史上二人目の犠牲者であった。

 いずれにせよ事件が起こった。午後1時居合わせた全員が一分間の「黙祷」を捧げ、「インターナショナル」を合唱した後、学生部隊は再び空港突入をはかろうとして突っ込んでいった。機動隊は60年安保闘争以来初めてガス弾を使用した。この日最後の大乱闘となった。しかし、警官隊の力の前に遂に後退し、結局3時頃、萩中公園に集まって解散し、10.8羽田闘争は終わった。この時、山崎氏の死のほか、重軽傷者600名以上、北小路敏元全学連委員長ら58名(計75名ともある)が逮捕された。結果として佐藤首相は羽田を離陸したが、これが第一次羽田闘争と云われているものである。

 この日、反戦青年委員会の労働者約2000名も参加している。青年部決定で組合旗を持って参加したのは、国鉄労働組合、動力車労働組合、東交等々。

 10.8羽田闘争は全世界に巨大な衝撃を与え、全米のラジオ・テレビが8日朝のトップ・ニュースで伝え、イギリスBBC放送、タイム紙、中国新華社、北京放送、パキスタン放送なども報道している。

 なお、この日民青同系全学連は、形だけの代表数十人を羽田に派遣しただけだったと云われている。あいにく「赤旗祭り」が多摩湖畔で開かれており、こちらに参加していた。10.9日、赤旗は、山崎君死亡事件に対し、「反革命分子と反動勢力とのあいだの衝突」と見解発表し、民青系全学連もこれに同調する中執声明を出した。「狂おしく悩ましく」の「第1章 横浜時代2、私の10・8羽田」は次のように記している。

 「弁天橋で山崎博昭君が死んだ。翌日の新聞は「学生の暴挙」を非難する記事でいっぱいだ。民青は早くも『山崎の死は、学生が占領した護送車に轢かれたもの』と断定している」。
 「衆議院会議録情報 第056回国会 地方行政委員会 第3号」(http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/056/0320/05610110320003c.html )で、後藤田氏は、山崎博昭氏死亡事件の様子を次のように答弁している。
 「私がそれでは現認状況を、書類を持っているので、詳しくお答えいたします。午前10時1分ごろに学生が、先ほど三井課長が説明をしました警備車の前面窓をハンマーや角材などでこわして、窓から中に入っております。学生の人相等も現認しておる者があり、黄色いヘルメット帽をかぶっていた男であります。北側の警備車の運転台の窓越しに他の学生と話をしておることも現認をしております。そうして11時ごろに北側の警備車を学生が運転をして前進をさせ、橋の西端付近まで進ませ、停止をさせておる。すると、今度はバックをさせまして、この警備車の後方に駐車しておりました放水車めがけて激突をさせる。それがために、放水車は5メートルくらい空港側に後退をいたしております。そうして11時24分ごろまでの間、同様方法で警備車を前進させては勢いをつけて後退をさせ、そうして放水車に激突をさせて、これを数回繰り返しましたので、放水車は空港内に10メートルくらい押し戻され、このために橋上には放水車がなくなり、警備車の一台が学生の手にわたって橋上の阻止線が破られた、こういう状況でございます。

 11時25分ごろにその警備車は橋の西端付近にありましたけれども、これを学生が空港内に向かってバックさせ始め、そのうしろには学生が押しかけて、投石をしながら車とともに空港内に向かって前進をしてきたわけでございます。11時27分ごろ、警備車はさらに後退をして空港内にまで進入する。橋のたもとから車首までの間大体数メートルの地点くらいまで車は中に入ってきております。学生も車のあとに続いて空港内に進入をして、投石活動を始める。この学生たちの進入を排除するために、空港内に待機をしておりました第五機動隊が、橋上に向かって一斉に学生たちの排除活動に入ったわけでございます。続いて方面機動隊赤坂大隊もそれに加わっております。

 すると、先ほど申しました警備車が、車の前及び橋の上に機動隊、学生の集団がいるにもかかわらず、橋上に向かって急発進をして機動隊のうしろから突っ込んだ、こういう形になったわけでございます。このために大部分の機動隊員と学生は避難をしておりますが、数名の警察官、学生が逃げおくれて警備車に接触をし、追突をせられる、こういうものも若干名出たわけでございます。警備車はそこで一たんとまったようでございますが、すぐにまた前進をした。そうして車と橋の北側手すりの間が大体一メートル足らずの間隔でございます。このとき倒れた警察官、学生を他の機動隊員が引き起こして助けておりますが、学生一名が警備車前部右角付近で右足を引っかけられて倒れて、前輪の右側で腹部をひかれて、機動隊員も倒れたままそこで足にけがをしております。警備車はそこで再び一たん停車をいたしましたけれども、このとき警備車の下には、車の右前輪と右後輪の間に学生と機動隊員が倒れておった。そのときの状況は、学生は橋の手すり寄りに足を向け、頭部が車の後輪近くにあって、くの字型にからだを曲げて倒れておった。警備車はさらに前進をして、右後輪が学生をひいて、機動隊員の足元近くを通っておるようですが、二、三メートル前進して、そこでまた一時停止する。また前進をして橋の西端に進んだわけですが、通過したあとには学生が頭部をまつ赤に血に染めて、ぐったりして倒れておった」。
 高木正幸氏の「全学連と全共闘」が次のように記している。
 そのあと、一瞬、橋上の学生と警官隊の乱闘がやんだ。「誰か死んだ」の声が、野次馬の間にもひろがった。午前11時25分、京大生・山崎博昭の死亡であった。

 この死にたいし、警察側は、学生の運転する警備車が轢いたとした。しかし、学生、弁護側は、死因は警棒でなぐりつけられたためで、警備車にひかれたものではない、と解剖所見などをもとに反論した。山崎の死の疑問は、現在にいたるまで解明されていないが、‘60年安保闘争の樺美智子に次ぐ、政治闘争史上二人目の犠牲者であった。山崎の死は、樺美智子とおなじく、反権力闘争における歴史的な犠牲であった。両者とも、権力側は、衝突の中での偶発的な死と主張するが、権力側の反権力闘争にたいする弾圧がうんだ犠牲者であることはまちがいない。この山崎の死で、学生と警官隊の衝突は、一時静まり、正午すぎ、萩中公園で開かれた抗議集会は、1分間の黙祷を捧げたのち「インターナショナル」を合唱、ふたたび空港突入をはかって、警官隊と衝突した。しかし、警官隊の力のまえに、ついに全学連の学生は後退し、萩中公園に集まって解散した。この間の衝突で、山崎の死のほか、重軽傷者600人以上、逮捕者58人が出た。

 この「第一次羽田闘争」には、構改派の学生300人も、社会文化会館に泊り込んだのち、現地へむかって闘争に参加したが、日共系全学連は組織として参加せず、日共がこの日、多摩湖畔でひらいた「赤旗まつり」に参加していた。

 また、羽田闘争をまえに、すでに中核派と、社学同、社青同解放派などの、反中核派グループとの間にあったあつれきが闘争後に表面化し、山崎の追悼葬をめぐって「山崎虐殺抗議のカンパニア国民葬」を主張する中核派と、「戦う人民葬」をとなえる反中核派グループとの対立がおこった。その混乱の中で、「10.17虐殺抗議、山崎君追悼中央葬」が、日比谷野外音楽堂で、全学連、反戦青年委員会の6千人を集めて開催された。

【「第1次羽田事件」で、新左翼運動が昂揚】
 この闘いが60年安保闘争後の低迷を断ち切る合図となって新左翼運動が再び盛り上がっていくこととなった。そういう意味で、第一次羽田闘争は70年安保闘争に向かう導火線として、「革命的左翼誕生の日」として新左翼史上に銘記されることとなった。

 また、ヘルメット・角材などが初めて最初から闘争の武器として用意され、「ヘルメットにゲバ棒」というゲバルト路線がその後の運動の中で定着し1960年以降のデモの形態を変えたという点でも転回点となった。「直接行動ラジカリ ズムの全面展開」、「組織された暴力の公然たる登場」とも言われている。この闘いを一つの境として、全学連急進主義派は自衛武装の時代からこの後街頭実力闘争へ、更に解放区-市街戦闘争へ、更に爆弾闘争へ、ハイジャックの時代へと突入していくことになる。

 ブントのもう一つの合言葉「組織された暴力」につき、高木正幸著が「全学連と全共闘」で次のように記している。

 石や角材といった闘争の“武器”がはじめて最初から用意されて登場し、暴力革命における武装と軍事の問題を、理論から実践に移したことである。それまでも米原潜寄港阻止闘争や砂川闘争などで、石や旗ザオが警官隊との衝突の際、用いられたことはあったが、それは追いつめられての抵抗の手段としてであり、権力への攻撃の武器としてあらかじめ用意されたのは、この羽田闘争がはじめてであった。
 この10.8闘争は、何よりも学生たちが、「ヘルメットと角材」で武装したことが、みえない大衆意識の間隙のなかに、新しい時空を開いた。この「ヘルメットと角材」は、ちょうど学園紛争におけるバリケード・ストライキに匹敵する価値をもった。しかも、「ヘルメットと角材」は、党派が政治的に決定したわけではなく、自然発生的に産まれたものだった。「ヘルメットと角材」の象徴したものは何だったのか。バリケードと同じように、角材による武装は、自然発生的に起こった。党派が政治技術的に考えたものでも、戦略的に考えたものでもない。誰かが思いつきのように語り、それをやってみたにすぎないのである。後ではまことしやかに、党派の戦略や思想から出てきたと言うものがでてきたが、それは明らかに違うのである。この角材による武装は、盛り上がりを欠いていたベトナム反戦闘争に、新たな息吹を持ち込んだ。日韓会談阻止闘争からベトナム反戦へという1960年代後半の流れは、飛躍の場所をここで得たのである。

 10.8日、羽田闘争に対して、46名の呼びかけ人(梅本克己、小田切秀雄、佐多稲子、杉浦明平、田中寿美子、鶴見和子、野間宏、羽二五郎、日高六郎、務台理作など)により「10.8救援活動についての要請」アピールが出されている。これにより「10.8救援会」が発足。


 10.8日以降、第二次羽田闘争、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦 病院建設阻止闘争、三里塚空港阻止闘争へと立て続けに闘争が爆発してい くことになる。


 10.8日、日共、赤旗まつり。


 10.8日、ボリビア陸軍が前キューバ工業相チェ・ゲバラの死を発表する。


 10.9日、各大学で山崎君虐殺抗議追悼集会、中核派〔法政大〕、社学同・解放派〔中大〕、革マル派〔早大〕各々集会、京都府学連も集会〔京大〕・デモに千八百名結集。戦旗社版「1967年10月8日」の記事は「わきあがる反撃の波」と題して次のように記している。

 「各大学では翌日たたちに抗議集会が開かれ、指導者を奪われ、傷つきながら、ほうたい姿の参加者を中心に反撃戦が開始された。これまで活動から脱落していた人々が戦列に復帰し、東京・京都・大阪で抗議デモが行われた。山崎君の出身校である大手前高校では、十日500人の後輩が集まり黙祷をささげた。大阪駅前では、九日夜市民を含めた800人の抗議集会がもたれた。十一日には京都市役所前で、労働者・学生の抗議集会が開かれ、京大教授井上清教授・野村修助教授らを先頭に市内デモが行われた。(後略)」。

 京大文学部・医学部・主催山崎博昭君追悼集会に千名参加、のち府学連集会に合流。


 10.9日、全学連(民青同系)中執委が〝羽田における一部暴力学生集団の挑発行動を断乎糾弾する″声明発表。


 10.9日、南米ボリビアでゲリラ活動をしていて捉えられていたキューバ革命の英雄チェ・ゲバラが処刑されたことがボリビア政府によって発表される。


 10.1 0日、空港公団が、機動隊2000名を動員して三里塚空港初の杭打ちを実施。反対同盟1000名が阻止行動。農民たちのスクラムに機動隊は襲いかかり弾圧した。10.17日、クイ引き抜きで反対同盟二名逮捕される。


 10.10日、赤旗が〝今日の毛沢東路線と国際共産主義運動〟を発表、毛一派は反革命と攻撃批判する。


 10.10日、大阪府学連等共催・山崎君追悼・国際反戦デー決起集会〔厚生会館〕に千二百名参加。


 10.11日、山崎君虐殺抗議全京都集会〔市役所前〕に労働者・学生千名参加。


 10.12日、詩人の岩田宏、黒田喜夫ら4名が発起人となり、31名の連名で、「あの日、他の誰も為さなかった佐藤訪ベト阻止の行動をとった人たちを、暴力分子に仕立て上げることによって、その陰に私たちの権利である示威表現の自由を圧殺する国家権力の暴力と、何より佐藤首相の南ベトナム訪問という我が国の実質的なベトナム侵略戦争加担のモメントを画する支配層の行動を隠そうとしている」との抗議の声明書が発表されている。


 10.13日、京都大学で学生葬が行われ、京大河野健二、井上清、野村修、同志社大鶴見俊輔各教授ら1300名が参加し、夜は反戦青年委員会の統一行動に引き継がれた。この日は全国反戦青年委員会の統一行動日として、全国各地で青年労働者の集会.デモが行われ、それがあわせて山崎君追悼.抗議の闘いとなった。

 東京では、7000名の青年労働者.学生が、全国反戦青年委主催・ベトナム反戦統一行動に全学連(三派、革マル)、自治会共闘(構改系)等二千名が参加し、日比谷野外音楽堂を埋め尽くし、激しいデモを行った。大阪では大阪総評が一割動員を指令、組合旗を掲げて3000名が参加、雨の中を弾圧をけって闘い抜いた」とある。全学連(三派系)中執委、一〇・八前後の集団的強圧行為に関して遺憾であるとの声明発表。


 10.13日、劒木文相、羽田事件で東大大河内・京大奥田総長らと懇談。10.16日、劒木文相、学生管理問題で私学関係者と懇談(17日公立大関係者とも懇談)。


 10.13日、全学連(三派系)中執委、一〇・八前後の集団的強圧行為に関して遺憾であるとの声明発表。


 10.14日、全学連(三派系)主催・山崎君追悼献花デモ〔萩中公園〕に四百名参加、弁天橋に向かうも機動隊に阻止され萩中公園で献花。


 10.14日、梅本克己、大江健三郎、小田実、鶴見俊輔、羽二五郎、日高六郎、堀田善衛氏ら21名連名で、概要「国家権力によって武装された警官の暴力と、学生の肉体的行動による抗議とは、冷静に比較するならば、その暴力性において同じ程度のものではない。学生の行動の行き過ぎを批判するだけでなく、それに百倍する力を持って、日本の政治に対して抗議したい」との声明が発表されている。


 10.16日、警視庁、法政大・中大学館・早大文学部および前進社・戦旗社・ 解放社等六カ所を捜査。


 10.16日、法政大・中大・早大で官憲乱入抗議集会。10.17日、東北大工学部、自衛官在学追放全学抗議集会に千二百名参加。


 10.16日、米三十都市で反戦デモ (21日ワシソトンで十万名のデモ)。


 10.17日、三派系全学連委員長・秋山勝行名の「全日本・全世界の闘う学生・労働者人民へ」が発表される。


【「虐殺抗議、山崎君追悼中央葬」】
 10.17日、日比谷野外音楽堂で「虐殺抗議、山崎君追悼中央葬」に1万余名の労働者、学生がが参加。全学連委員長の秋山勝行が、この集会で「全学連は必ずや、この死に報い、この虐殺の本当の張本人を摘発し、粉砕するまで闘い抜く。時が経つにつれて、羽田の正義者は誰であり、犯罪者がどちらの側であったかが、ますます明瞭なった。全学連の死闘こそ、佐藤首相の南ベトナム訪問を最も真剣に受け止め、くい止めようとした力であり、日本人民が当然やらなければならないことを、もっとも忠実に実行した」と語る。遺影・弔旗先頭に東京駅までデモ、秋山委員長逮捕される。但し、この頃三派間に中核派と反中核派の反目が生じつつあった。山崎追悼葬を廻って、「山崎虐殺抗議のカンパニア国民葬」を主張する中核派と、「闘う人民葬」を唱える反中核派グループが対立していた。  

 10.19日、国労、米軍需輸送反対の順法闘争を全国十五拠点で展開。10.20日、国鉄労働組合と動力者労働組合が、三日間米軍基地へのガソリン輸送をストップさせる実力闘争を展開している。全学連(三派・革マル)等三百名、国労のベトナム反戦・米軍タンク車輪送拒否闘争支援で立川駅構内デモ・坐り込み集会。


 10.20日、吉田茂没(89歳)。10.31日、戦後初の国葬。


 10.20日、東北福祉大、学長退陣・学園民主化で授業放棄を続けていたが、団交席上で書いた学長の辞表を当局が正式受理。


 10.21日、ベトナム反戦統一行動。全国44都道府県で140万人参加。東京中央集会〔明治公園〕昼夜で6万名参加。反戦青年委も参加。三派系全学連は7000名を動員し、警察側を驚かせている。国会に向かうも機動隊に規制され早大まで引き回される、11名逮捕、京都府学連千名、大阪府学連千五百名結集。ベトムナ反戦統一行動、法政大文、横浜国大教養・学芸学部、大阪市大スト、仙台・広島・福岡等で学内抗議集会・デモ等展開。

 この日、アメリカ、イギリス、西ドイツ、オランダその他で、ベトナム反戦統一行動が行われている。アメリカのデモは1932年以来史上最大規模の20万人デモとなり、デモ隊の一部が国防総省に突入、国防総省が休業に追い込まれている。


 10.23日、佐賀大学生大会、学寮管理規定反対、処分撤回要求のスト解除を決議。10.25日、東洋大全学闘、全教授説明会会場の医療保健会館に坐り込み、機動隊導入され実力排除さる。


 10.26日、国大協、羽田事件で〝誤まれる政治活動は大学破壊に結びつく〟と声明。


 10.30日、教育課程審議会、〝小学校教育課程改善について″答申、社会科に神話・伝承を導入。


 10.31日、関西学院大、学費値上げに反対して全学共闘会議結成。


 11.1日、原子力委、米原子力空母の寄港は安全に支障なしと結論(2日政府、寄港承認を米に通告)。


 11.2日、佐藤政府は、米国原子力艦艇エンタープライズを中心とする艦隊の日本寄港を了承。


 11.2日、那覇市で沖縄即時無条件返還要求県民大会に十万名参加(4日琉球立法院、七〇年までに施政権返還要求を決議。


 11.2日、全学連(三派系)主催・沖縄返還ゼネスト連帯・成田空港建設阻止・佐藤訪米実力阻止決起集会〔早大〕に四百名参加。


 11.2日、全都自治会共闘(構改系)主催・沖縄即時全面返還沖縄連帯集会〔芝公園〕に四百名参加、米大使館・首相官邸にデモ、坐り込みで九名逮捕。


三派全学連と反戦青年委が反対同盟との三里塚闘争の共闘を確認
 11.3日、三里塚で、三派系全学連や千葉県の反戦青年委員会の共催による「11.3三里塚空港粉砕・べトナム反戦青年総決起集会」開催。三派系7百名参加。三派全学連と反戦青年委員会の部隊が三里塚闘争に初めて組織的に参加し反対同盟との共闘を確認した。第二次羽田闘争前の、10.8羽田闘争以降の盛り上がりの中で集会は行われた。空港予定地をデモ。

 その後、中核派は千葉県の国鉄労働者や学生たちを動員して、三里塚闘争にいち早く常駐体制を取り始めた。ブントは有力な大学や労働組合を持っていなかったせいで出遅れた。中央大学出身の反対同盟の行動隊長/島の常駐要請もあったのに支援体制が遅れた。ブントが千葉県委員会を結成して常駐体制を取るのは67年の11.3集会の後の年末か68年に入ってから。

 11.3日、沖縄で祖国復帰総決起大会、18万名参加。


 11.4日、東大文学部学友会、学生ホールの管理運営をめぐり教授会と団交、物別れ。


 11.5日、中央実行委主催・ベトナム人民支援・佐藤訪米反対等諸要求中央大集会〔代々木公園〕に民青同系三千五百名参加。


 11.8日、警視庁、佐藤訪米阻止の学生を泊めぬよう法政大・中大・明大・早大等に異例の申入れ。


 11.9日、沖縄三団体共催・沖縄返還中央集会〔日比谷野音〕に三派・革マル系千名参加、日共の排除要求で流会、三派系、首相官邸デモで十一名逮捕。


 11.9日、羽田一〇・八救援会結成、〝救援活動についての要請″発表。


 11.10日、関西三府県学連主催・佐藤訪米阻止全関西学生総決起集会〔中之島公園〕に二千名参加、市内デモの後、大阪中郵前で羽田現地部隊の激励集会。


 11.10日、広島大・九大・長崎大等全国の大学で佐藤訪米阻止集会・デモ展開。


 11.10-12日、第五回全国青年スポーツ祭典〔京都〕に民青同系七百名参加、最終日、佐藤訪米に抗議デモ。


 11.11日、明大学生会館、宿泊禁止に抗議し深夜映画会・自治弾圧抗議集会。沖縄大、全学協議会結成(教授会、一・二部学生自治会、事務職労組で構成×13日自主管理による授業再開)。


 11.11日、全学連(民青同系)主催・佐藤首相訪米反対決起集会〔芝公園〕に七百名参加(12日羽田空港フィンガーに代表三百名が佐藤訪米に抗議)。


 11.11日、全学連(三派系)佐藤訪米阻止総決起集会〔中大〕、深夜東大教養学部へ移動、三千名泊り込み、革マル派千名早大に泊り込み。


【由比忠之進が首相官邸前で抗議の焼身自殺】
 11.11日、エスペランチストの由比忠之進が政府のベトナム侵略加担に抗議して首相官邸前で抗議の焼身自殺を図り、数時間後、病院で死亡した。遺稿は次の通り。
 私が生まれたのは明治27年10月2日、……日露戦争の頃は小学校、その後中学校で忠君愛国の思想を吹き込まれて文字通り愛国者として生長しました。…… 私は東京高等工業学校を出て、二、三職業を変えたのち南満洲の新興紡績会社に勤め日本の膨脹を謳歌したものでした。大東亜戦争に入るやその緒戦の戦果にすっかり酔わされて有頂点になって大陸での生活が日本の侵略によるものとの反省を全く怠っていました。愈々敗戦と同時に不安のどん底に落され、困難な一年半を大連で過ごしましたが、やっと日本の中国侵略の罪悪に気づきました。……敗戦時の略奪暴行をつぶさに経験した私は、ベトナムに於けるアメリカの止めどないエスカレーション、無差別の爆撃、原爆にも劣らぬ残酷極まる新兵器の使用、何の罪もない子供におよぶその犠牲、ベトナム民衆の此の苦しみが一日も早く解消されることを心から望んでおりますので、此の一文を差しあげる次第です。……

【第二次羽田闘争。全学連3000名空港付近で機動隊と激突】

 11.12日、佐藤首相、訪米に出発(15日、日米共同声明発表(沖縄返還の時期明示せず、小笠原は一年以内に返還)、20日帰国)。

 佐藤訪米実力阻止闘争(第二次羽田闘争)。社学同.社青同解放派は前夜中大に終結し、中核派も合流し東大に籠城した。10・8第一次羽田闘争で分裂した三派全学連は、11・12第二次羽田闘争を分裂含みの合流で闘った。

 この時、三派全学連3名が先頭に角材による「武装部隊」をすえて羽田空港近くの大鳥居、羽田産業道路付近で機動隊と衝突した。羽田付近に到着した反中核派連合は、丸太をかかえた「決死隊」を先頭に、機動隊の阻止線を突破、激突をくりかえし、空港付近で機動隊と激しく衝突。羽田付近の住民たちは、機動隊に追い立てられて路地に逃げ込む学生たちをかくまい、負傷した学生たちを手当している。「あんたたちは一銭の得にもならないのによく闘っている」と感謝されたという仲間もいた。正義と信じて自らをかえりみず闘う学生たちに、住民たちは好意的だった。学生運動史上最高の333名を越す大量検挙となった。羽田での逮捕を免れた中核派学生約100名は、その足で成田へ向かった。
(第二次羽田闘争で*は全学連副委員長N、書記長T(Tはなんとか復活していた)とともに全学連部隊の総指揮をとった。この時、初めて「ジュラルミンの盾」と「投石よけ防護ネット」が登場した)


【羽田闘争の評価をめぐる党派論争】

 羽田闘争の評価をめぐって党派論争が生まれ、街頭実力闘争の更なる推進と抑制を廻って対立した。中核派、社学同、ML派は街頭実力闘争を評価し、「組織された暴力とプロレタリア国際主義の前進」(社学同)、「武装することによって7ヶ月の激動を勝利的に展開し、70年安保闘争を切りひらいた」(中核派)などと総括した。一方、革マル派、構改諸派は「街頭実力武装闘争は小ブル急進主義」とし、組織的力量を蓄えていくことの方が重要であると主張した。また、社青同解放派は「いったん持ったゲバ棒を二度と手放そうとしないのは誤りである。問題は街頭のエネルギーを生産点に還流し、労働者と結合していくことが重要」と総括した。


 11.12日、羽田で逮捕を免れた中核派学生約100名がその足で成田へ向かっている。


 11.12日、東北大・神戸大・長崎大等、佐藤訪米に抗議し同盟登校で集会・市内デモ展開。


 11.13日、べ平連が、9.17日に横須賀に寄港した米空母イントレピッドから脱走した4兵士の声明を発表した(20日タス通信、四人はモスクワにいると発表)。


 11.15日、東洋大、川越校舎移転全教授説明会に反対して学部代表者会議、会場前坐り込み(26日団交を要求して理事長室に坐り込んだ学生を機動隊導入し実力排除)。


 11.16日、野党各派、日米共同声明に抗議、沖縄でも七万の県民大会。


 11.17日、勝木文相、羽田事件で該当五十八大学学長と懇談。11.18日、法務省、羽田事件に破防法適用の方針固める。


 11.18日、英国、ポンド切下げ・公定歩合引上げ・軍事支出削減を発表。


 11.22日、警視庁、前進社・戦旗社・現代社を捜査(29日日中友好正統本部・国際貿促協会を捜査)。


 11.22日、全学連(三派系)主催・破防法適用粉砕決起集会〔日比谷野音〕に五百名結集、新橋までデモ。


 11.24日、エンタープライズ寄港阻止神奈川県大集会〔臨海公園〕に三派系百名参加、基地正門へデモ。


 11.25日、佐藤内閣改造(文相・灘尾弘)。


 11.27日、高崎経済大第四回公判に四十名白覆面で地裁に抗議デモ、公判終了後の集会で四名逮捕。


 11.28日、全学連(三派系)・成田空港反対同盟主催・同盟員傷害事件抗議集会〔県庁前〕に百名参加・デモ。


 11.30日、医学連関西ブロック、登録医制国会上程阻止統一行動、二百名参加。


 11.30日、中大自治会執行委、授業料値上げの動きに値上げ実力阻止の闘争宣言を発表。


 11.30日、国大協総会で教育大三輪学長、学内秩序が破壊されれば官憲導入もやむをえないと中間報告。


 12.1日、灘尾文相、国立学長との懇談会で学生指導・大学管理の具体措置示せと要求。


【中核派秋山委員長の檄】

 12.1日、前進紙上での秋山委員長の発言。

 「羽田闘争の衝撃が大きかったのは偶然ではない。支配階級にとっては『革命を現実的なものとして恐怖』し、死に物狂いで反撃に転じさせると共に、闘う側にとっても闘いは単なるおしゃべりや空想の産物であることを止め、勝利か敗北か、生か死かを究極にまで突き詰めることを要求されるのである。そうした意味で、羽田闘争は社共など公認の既成指導部のあらかじめ敗北した運動を乗り越える地平にある」。
 「羽田の闘争が示したものは、スターリン主義の決定的反動性である。日本共産党が果たした犯罪的役割には計り知れない程である」、「羽田闘争の最も重大な核心点の一つを為す官憲の虐殺行為に対しても、権力に手を貸し、闘う学生の死をあざ笑っているのだ。我々は絶対に許すまい」。
、「エセ『共産主義』国の反動的本質を今こそ決定的に打倒しなければならない。学生戦線における民青『全学連』の反動性を全大衆の力で暴露し、羽田を闘い得ず、逆に闘いに襲い掛かる彼らを徹底的に追放しよう」。

 12.2日、政府はこの日の閣議で、アメリカ第七機動艦隊の旗艦原子力空母エンタープライズの日本寄港を了承した。エンタープライズは加圧水式原子炉8基を推進力とし、戦闘機など70~100機を搭載する巨大原子力空母であった。政府は反対行動の激化を考慮し、当初予定していた横須賀を避け、佐世保を寄港地に決定した。以降、佐世保での「米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争」が始まる。寄港阻止闘争は佐世保寄港の1968年1月17日を焦点に、「暴力学生」と喧伝されていた全学連各派を中心とし、反戦青年委員会、労組、市民団体など広範な規模で展開されることになった。


 12.2日、大阪市大、自民党大阪市議員団による偏向教育調査委設置に緊急抗議集会、三百名参加。


 12.4日、中大昼間部自治会中心に三百名、教学審議会に対し団交要求、流会(5日当局、学費値上げの主旨を全学放送)。12.7日、中大緊急連合自治委総会、全学評準備委発足、学費値上げ反対の全学的意志統一を確認。


 12.4日、全学連(三派系)、エンプラ寄港阻止決起大会〔清水谷公園〕に四百名結集、集会前、中核派と社青同解放派衝突、米大使館デモ。


 12.4日、佐藤首相、国会所信表明で〝自らの国を守る気概″を強調。


 12.5-8日、米国で反戦と兵役拒否週間″のデモ、ニューヨーク等で警官隊と衝突、五百八十名逮捕。


 12.5日、青医連・医学連全国統一行動、医師法改正案国会上程阻止で診療拒否闘争展開。


 12.7日、関西学院大当局、学費五割値上げ決定(8~14日各学部学生大会、スト権確立)。


 12.11日、四一・四二・四三青医連、厚生省に要望書を提出、拒否さる。


 12.11日、エスベラント学会主催・由比忠之進氏追悼集会〔社会文化会館〕に全学連(三派系)代表参加。


 12.12日、自民党学生問題懇談会、大阪市大の〝偏向教育″調査を支持。


 12.12日、都議会、小笠原の都への帰属と軍事施設反対を可決。


 12.13日、横浜国大学芸学部、保土ガ谷移転をめぐり団交要求でスト突入、本部封鎖。


 12.14-17日、第三回全国学生集会(民青同系)〔東京・大宮〕。


 12.15日、東洋大二部文学部・社会学部、授業放棄(19~21日一部文学部スト)。


 12.16日、関西学院大法学部、学費値上げ反対で無期限スト突入、バリ封鎖(19日社会・商・文学部スト突入、バリ封鎖)。


 12.16-18日、全学連(革マル系)第四十八回中央委〔早大〕、羽田闘争を総括、エンプラ闘争方針を決定。


【中核派全学連誕生】

 12.17日、中核派が、秋山委員長、青木情宣部長(広島大)、金山克己中執委員らを迎えて単独で全学連主流派大会を開く。全学連(三派系)主流派全国大会〔法政大・板橋区民会館〕 に中核派千名参加、エンプラ寄港阻止佐世保現地闘争を〝第三の羽田〟として闘うことを決議、現地派遣団の組織化・越冬体制を決定。

 大会に先立ち、秋山委員長が次のように述べている。

 「去る10.17日、山崎君の虐殺に激しい憤りをこめて抗議デモに参加し、その時逮捕されて以来久しく活動を抑止されていたが、ここに、保釈後はじめての挨拶を送りたい。まず最初に私自身をはじめ、幾百の闘う学生が不当にも逮捕、起訴されるという未曾有の大弾圧の中で、なおかつ闘いを継続、発展させてくれた学友諸君の闘いには心からの経緯と連帯の意思を表明したい。同時に、全学連の闘いとその犠牲者の救援のために力強い支援を寄せられた全ての人々にも限りない感謝をし、私自身もひるまず再び全学連の先頭に立つとういうことでそれに必ず応えたいと思う」(「前進」1967.12.11日号)。

【社青同解放派が反帝学評を結成】

 12.17-19日、社青同解放派が、全国反帝学生評議会(反帝学評)を結成し、早大で大会を開催した。48大学代表の400名が参加し、反戦・反ファッショ・反合理化闘争推進等を決議(議長・三井一征)した。


 12.14-17日、第三回全国学生集会(民青同系)〔東京・大宮〕。


 12.22日、東大文学部当局、一〇・四団交を暴力事件として一名を無期停学処分。


 12.23日、中大、教学審議会〔丸の内ホテル〕阻止に二百名結集、ホテル内突入で四名逮捕。


 12.26日、カンボジア、米の侵犯に抵抗、友好国の義勇兵要請を声明。


 12.26日、灘尾文相、国防意識の養成を強調発言


 12.30日、北ベトナム外相、北爆・戦争行為を無条件にやめれば米と話合うと言明。


(私論.私観) この頃の学生運動各派の特徴
 この当時の学生運動の流れは、大雑把に見て「五流派」と「その他系」に識別できることになる。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々であり、これらが混在することになる。ここで「当時の五流派その他系」の特徴付けをしておこうと思う。識別指標は様々な観点から可能である。

 第一に、「日本共産党の指導下に有りや無しや」を指標とすれば、指導下にあるのが民青同のみであり、日本共産党の党本部のある「代々木」を指標としてこれを「代々木系」と言い、これに反発するセクトを「反代々木系」と識別することができる。主にブントがこの意識を強く持つ。革共同系は、左翼運動の歪曲として「日本共産党」の打倒を標榜するところから「日共」と呼び捨てにすることとなる。ただし、この分け方も「日共」の打倒を観点とする立場と、「代々木」を正確には「宮本執行部の指導下の日共」と理解し、「日本共産党」の正当性系譜を争う構造改革派系諸派、毛派系諸派、民学同系とは趣が異なる。社青同解放派は社会党出身であるからまたニュアンスが異なるという風な違いがある。「代々木系」の民青同及び「元代々木系」の構造改革系派、民学同派は概ね非暴力革命的議会主義的な穏和主義路線を、それら以外の「反代々木系」 は概ね暴力革命的街頭闘争的な急進主義路線を目指したという特徴がある。 これによって「反代々木系急進主義派」は過激派とも呼ばれることになる。

 第二に、「トロツキズムの影響の有りや無しや」を指標とすれば、「代々木系」、「元代々木系」、毛派系諸派らのトロツキズムの影響を受けないセクトを「既成左翼」と云い、その影響を受けた革共同系及びブント系を「新左翼」と言いなし識別することも可能である。ただし、この分け方による場合、お互いを 「新・旧」とはみなさないので、既成左翼側が新左翼を評価する場合これをトロツキストと罵り、新左翼側が既成左翼を評価する場合スターリニストと雑言する関係になる。なお、毛派系はトロツキズムに替わるものが毛沢東思想であり少々ややこしくなる。毛イズムはスターリニスト的な系譜で暴力革命的急進主義路線を志向しており、既成左翼の側からは暴力革命路線でもって十把一からげでトロツキスト的に映り、新左翼側からはスターリニストには変わりがないということになる。社青同系の場合もこの範疇で括りにく い。「スターリニズム」、「トロツキズム」的なイデオロギーの濃いものを持たず、運動論的に見て穏和化路線を追求したのが社青同協会派であり、急進主義路線を選択したのが社青同解放派と識別することができる。その他ベ平連系はそもそも左翼運動理論に依拠しない市民運動を標榜したところから運動を起こしており、市民的抗議運動として運動展開していった風があるのでこれも括れない。

 第三に、「ご本家意識の強い純血式運動路線に拘りを持つや否や」を指標とした場合には、運動の盛り上がりよりもセクト的な党派意識を優先する方が民青同・革マル派であり、その他諸セクトは闘争の盛り上げを第一義として競り合い運動を重視していったという違いがある。つまり民青同・革マル派は党派的に排他的非統一運動型であるということに共通項が認められ、これらを除いた他の諸セクトは課題別の共闘組織を組み易い統一運動可能型の党派であったという識別も可能である。この点で、民青同・革マル派の表面的な対立にもかかわらず両者には共通性が認識されるべきとも思われる。左翼運動の右派潮流の清掃に民青同が、左派潮流の清掃に革マル派が精出ししている経過があるように思われる。なお、この仕訳とは別途のさほどセクト的な党派意識も持たず統一運動型ともなじまなかった突出型の毛派系・ブント赤軍系・ アナーキスト系らも存在した。実に左翼運動もまたややこしい。

 あるいは又日本国憲法を主幹とする「戦後民主主義を護持しようとする意識が有りや否や」の観点を指標とする区分もできる。概要穏和化路線に向かう党派はこれを肯定し、急進主義路線を志向する党派はこれの欺瞞性を指摘するという傾向にある。ただし、70年代半ば以降のことではあるが、超過激派と言われる日本赤軍の一部グループは、護憲傾向と民族的愛国心を運動の前提になるものとして再評価しつつある点が異色ということになる。

 私には、これらの違いは理論の正当性の是非もさることながら、運動を担う者たちの今日的に生物分子学で明らかにされつつある或る種の気質の差が介在しているようにさえ思われる。理論をどう構築しようとも、理論そのものは善し悪しを語らない。理論の正しさを主張するのはあくまで「人」であって、「人」はその人の気質性向によって好みの理論を採用する。理論の当否は、理論自身が生み出す力によって規定されるとはいえ、現象的にはそれを信奉する人の量と質によって実践的に検証される、という関係にあるのではなかろうか。であるが故に、本来理論の創造性には自由な空気と非暴力的相互批判の通行が担保されねばならない、と考える。これは私の経験からも言えるが、 セクト(一般に組織)には似合いの者が結集し縁無き衆生は近寄らず、近寄ったとしても離れるということが法則であり、事実あの頃私は一目で相手が何系の者であるかが分かったが、この体験からそういう気質論に拘るようになった。これは政治のみならず宗教であれ、業種・会社であれ、趣味であれ、有効な根底の認識となって今も信奉している。

【武装蜂起準備委員会(AIPC)創設】
 「ウィキペディア第四インターナショナル日本支部 (ボルシェビキ・レーニン主義派)」その他参照。

 1967年、日本の新左翼党派の一つとして、で第四インターナショナル日本支部から分裂した武装蜂起準備委員会(AIPC)が創設された。当初のごく短期間、第四インターナショナル日本支部・ボルシェビキ・レーニン主義派(BL派)を名乗ったこともあったが、武装蜂起準備委員会(AIPC)として党組織が確立された。これ以降はBL派の名を一切名乗っていない。理論的な指導者は太田竜だが太田は実際活動にはほとんど従事していない。トロッキズムを基盤に「ベトナム革命勝利」、「反革命日共・民青打倒」を掲げた。

 拠点校は法政大学や立命館大学など。法政大学では第一法学部自治会、二部教養部自治会などを拠点に法政大学全共闘の最大会派として60年代末からの法政大学学生運動を主導した。街頭闘争では赤軍派と分裂する前の中央大学、明治大学を拠点とする社学同(ブント)全学連(藤本敏夫委員長・加藤登紀子の夫)と同一行動をとることが多かったため法政大学中核派などはブントの別動隊と見る向きもあった。全国全共闘にも参加している。太田竜は70年代初頭から朝鮮人被爆者問題やアイヌ解放運動などへ傾斜し民族主義的傾向が強まったため組織とは自然に離れていった。東大安田講堂攻防戦で多くの逮捕者を出したこともあり組織自体も弱体化し70年代初頭からは逮捕者の救対活動が主となり自然消滅の道をたどる。党組織として「武装蜂起準備委員会(AIPC)」、学生組織として「プロレタリア軍団全国学生評議会(プロレタリア軍団)」、高校生組織として「高校生暴力革命戦線(「暴革」)」があった。ヘルメットの色は黒で、白い字で大きく「プロ軍」または「AIPC」(Armed Insurrection Preparation Committeeの略であり、武装蜂起準備委員会のこと)と書いていた。彼らは「黒ヘル」と呼ばれていた。
 朴大統領夫人狙撃の文世光は「高校生暴力革命戦線」関西フラクションのリーダーであり、戦闘的であるとともに泰然自若とした性格・言動から組織内の人望は高かった。「暴革」時代の彼を知る人の中にはメディア等で伝えられている狙撃に至る経緯、死刑執行前の彼の言動が真実かどうか疑う者が多い。なお70年代初期にBL派が太田竜の処刑命令を出したとの記述は全くの嘘である。そもそも1967年以降はBL派そのものが存在していないし太田竜の組織内での影響力(飾りにはしているが実体的には組織内での影響力は皆無であった。)からして武装蜂起準備委員会がそのような命令を出す理由そのものがない。

 これより後は、「第8期その1、全共闘運動の盛り上がり期に記す。





(私論.私見)