第10期その5 2020年代の学生運動

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日

 これより前は、「」に記す。



(この時期の政治動向) 

 2000年代、日本政治は急速に腐臭を放ち始める。特に、2001年に登場した小泉政権は中曽根以来の「戦後総決算、大国責任論」路線を振りかざし始め、それはとりもなおさず日本の国家的富の外資への譲り渡しに過ぎないものでしかないが、これをマスコミが提灯することで5年有余にわたる長期政権を維持させた。その後、安部、福田、麻生と首相代えるが、日本の国家的溶解化は止まらない。歴史の摩訶不思議で、この頃より自由党と民主党が合同し政権交代論をぶちあげ、歩一歩実現に向かい始める。これに日共が「唯一の野党」路線で水を差しつつ今日まで経緯している。

 2009年8月、第45回衆議院選が行われ、民主党が歴史的な大勝利を収め、悲願の政権交代を果たす。

 この時代の日本左派運動は、もはや完全に死に体に陥り政局絡みの運動は何一つ組織し得ない。学生運動で僅かに法政大学で中核派系の主導による紛争が持続的に続けられている。こういう関心を以て、以下検証する。


 2012.5.24、「ついにとどめを刺される「全学連」 東大の自治会が引き起こす社会運動史上の大事件とは」。

 現在5つある「全学連(全日本学生自治会総連合)」の中で最大の規模を持つとされるのが「民青系全学連」である。民青の正式名称は日本民主青年同盟。「日本共産党の導きを受ける」青年政治組織である。その民青が執行部で主導権をとるため民青系と呼ばれる。その民青系全学連が近く解散する可能性が高くなってきた。引導を渡すのは「東京大学教養学部自治会」(通称「東C自治会」)。代々民青が執行部を掌握し、全学連を主導する役割を果たしてきた大学自治会である。それが今年4月、東C自治会執行部が全学連脱退を決議し、6月の代議員会で承認されれば全学連を脱退する。東C自治会の脱退は民青系全学連にとどめを刺し解散に追い込むと見られている。民青系全学連が解散すると見られる根拠の第1は、「全寮連(全日本学生寮自治会連合)」解散と同様のパターンを踏襲しているからだ。2006年3月、全寮連が解散した。全寮連は大学の寮自治会の連合体で民青系全学連と兄弟関係にあった組織である。解散理由は加盟寮の減少と役員不足で何の活動もできなくなったからである。解散の1年ほど前に出されていた全寮連の文書によると、加盟寮は13自治寮。機関紙「みどりの旗」が廃刊になり、その後復活した機関紙「Green Eye"s」の発行部数は400部だった。全学連の機関紙「祖学(祖国と学問のために)」も一度廃刊になり、コピー機で印刷する形で復活した。刷り部数は1000部以下、そのうち定期購読部数は150部以下で、賛助会員と呼ばれる全学連OBや共産党関係者の読者もいることから学生の購読数はさらに少なくなる。

 週刊『前進』04頁(2879号03面03)(2017/09/25) 「反革命カクマルが大崩壊 植田議長脱落し指導部分裂 エセ「全学連大会」も開けず」。
 今や体をなさないカクマル「全学連」

 新自由主義反革命カクマルが、いま最後的な崩壊を開始している。学生戦線、労働戦線、中央指導機関のすべてが分裂し、議長・植田琢磨が失脚・脱落した。国鉄決戦がカクマルに強制した歴史的事態だ。
 まず学生戦線である。2015年にも戦争国会の真っ最中の7月と9月に予定されていたカクマル全学連大会と中央委員会が開催できない事態に陥ったが、今年の共謀罪阻止闘争の直後、例年7月に開催していた全学連大会が再び開催できなくなった。今回はかろうじて「7月期の政治階級情勢の大激動のために9月に延期した」と弁解して開催したが、この弁解をしたのが中央学生組織委員会(SOB)にとってかわった「マル学同革マル派」であった。カクマル学生戦線は、長らくSOBが指導し、階級闘争とはまったく無縁のところで行われてきた労学反戦デモもまた、SOBが指導論文を提起してきた。ところが09年を境にSOBから指導権が奪われ、今年に入ってからは年頭論文以降一度もSOB論文が出ない事態となっていた。起きている事態はSOBの崩壊である。実際、大会開催後の初の決定的闘争であった「9・18さようなら原発全国集会」に学生部隊が登場できないという惨状にたたき込まれたのだ。

 表面化した労働者組織委員会の分裂

 しかしこれは、ほんの一部にすぎない。労働戦線においては、労働戦線を指導する中央労働者組織委員会(WOB)の分裂が、この間表面化している。15年の戦争法制定後、日本共産党が自衛戦争推進、天皇制の率先擁護など全面的転向を開始した。「日共批判」を表看板とするカクマルはこれに完全に沈黙・容認し、全面賛同した。そして16年年頭のWOB論文をめぐり、WOBの分裂が表面化したのである。それでもこの時は「中央労働者組織委員会」名で「執筆過程での組織的論議が不十分なまま本論文を発表してしまったことを、すべての同志の前に自己批判する」ととりつくろった。ところが今年のWOB論文に対しては、「16年12月の政治集会の基調報告と時代認識が違う」として、労働者による組織的な批判運動が開始されたのである。これは、WOBと政治組織局が分裂していることを意味する。批判したカクマル労働者たちには、WOB論文はあたかも、①「革命情勢」、②「労働者は立ち上がる」こと、③「黒田思想ではなくマルクス・レーニン・トロツキーの思想」を強調している、というように見えたのだ。確かにカクマルからすれば、とんでもない「偏向」に見えて当然だ。

 さらにカクマルは5月以降、一転して祖国防衛主義に反対した「レーニン的精神」なるものを強調し始め、8月の反戦集会ではよりによって「『帝国主義戦争を内乱へ』と訴えたレーニンの革命家魂に学ぶべきである」とまで言い出した。カクマル全史においてレーニン主義を否定こそすれ、それを掲げたことなど一度としてない。カクマルは原点的に黒田寛一の「レーニン『国家と革命』への疑問」から出発した組織であり、「帝国主義戦争を内乱へ」の文言は中核派批判の時以外に口に出したためしがない。これは全面的な黒田の否定であり錯乱だ。

 動労総連合建設へ今こそ総決起を!

 こうした過程の真っ最中の今年1月、議長・植田の自宅など2カ所を警察が捜索し植田を保護しようとする事態が起きた。権力はこの「弾圧」の後、「植田琢磨の本名が新田寛だと判明した」と大々的に発表した。これに対してカクマルは「笑止千万の妄言」という声明を超異例にも直後に発表し、2月の春闘集会では「植田=新田」を否定せずに「新田は住民登録もちゃんとしている労働者だ」と党内で必死に弁解した。しかし後に権力は、〝植田アジトに「俺はもう(カクマル議長を)やめたい」との言葉がつづられた植田の文章があった〟とマスコミに流した(「週刊ポスト」6月30日付号)。

 カクマルは14年6月から『革マル派 50年の軌跡/全5巻』なるものを刊行してきた。そのうち「50年史」にあたる1〜3巻の刊行後、16年11月になって第4巻をあらためて「第二の50年史」というべきものとして発刊した。そもそもこの「50年史」は12年のカクマル第28回大会の決定によって準備されていたものであり、「植田体制」の確認と一体であった。このことが物語るのは、学生戦線、労働戦線、中央指導部という全組織的分裂の中で、20年にわたって最高指導部であった議長・植田が失脚し、組織から脱落したということだ。

 カルト集団と化したカクマルにとっては、そもそも「時代認識と路線」など「どうでもいいこと」なのであるが、最低限の「左翼」としての体裁をとらないと組織としては成立しない。かつては、どのような路線的混乱もカルト教祖・黒田の「鶴の一声」で収拾され、黒田亡き後は自ら「扇の要」と称した植田によってかろうじてまとまってきていた。いまその一切のタガがはずれ、組織的総崩壊に突入したということである。

 改憲を明示な目的として強行された国鉄分割・民営化攻撃、新自由主義攻撃の先兵となったカクマル。その頭目・松崎明に切り捨てられた残りカスである中央派カクマルが、いま最後的な破産をとげている。これは、第3の分割・民営化の先兵となることを宣言し、常磐線全線開通という被曝労働強制=帰還強制の先兵となっているJR総連カクマルの破産とまったく一体の事態である。今こそ動労総連合建設を推進して11月労働者集会の成功をかちとり、韓国革命と一体となって、朝鮮侵略戦争を始まる前に止めよう!

【2020(令和2)年の動き】 「戦後史2020年当時」

【佐野茂樹(佐伯武) 逝去】
 1.21日、死去(享年81 歳)。第一次ブンドの時期には全学連副委員長。第二次ブンド(1966 年第6回 大会で再建)の時期には、68 年の第7回大会で議長、第8回大会で副議長、69 年 4・28「中央権力闘争」を軍事委員会委員長として指導。ブンド崩壊後は、「緑の地球ネ ットワーク」(GEN)代表として環境運動に取り組む。 「佐野茂樹さんを偲ぶ会(東京)」その他参照。
 1938年、生まれ
 1956年、京都大学入学
 1957年、京都府学連委員長
 1958年、全学連第11 回大会副委員長
 1959年、共産同京都大学細胞結成
 1965年、共産同統一委員会結成大会中央委員(佐伯武・在関西)
 1965年、「日本階級闘争の前衛部隊=共産主義者同盟を先頭に前進を開始せよ!」 (『先駆』31 号)
 1966年、共産同再建第6回大会中央委員 「政治情勢の特質と我々の運動目標」(『烽火』No.1)
 1967年、「プロレタリア独裁の党建設にむけて」(『烽火』No.2) 「70 年安保と沖縄問題」(『烽火』No.5)
 1968年、共産同第7回大会議長 共産同第8回大会副議長(軍事委員長) 「革命党建設の諸任務」(『烽火』No.5) 「世界党建設の諸任務」(『烽火』No.8)
 1970年、 「蜂起に関する覚書」(『序章』2号)
 1971年、「佐藤政府を倒せ!武装闘争と大衆路線を結合・発展させよ!』 「帝国主義を包囲せよ!獄中論文選」
 1972年、「日本共産主義運動前史から本史へ」(『序章』8号) 「団結-批判-団結」(『査証』No.3)
 1976年、「朝鮮民族自決―統一と日本共産主義運動の原則的任務(上)」
 1992年、「緑の地球ネットワーク」(GEN)代表(会報『緑の地球』)
 1993年、 「国境を超える緑の風」シンポジウム 。
 2020.1.21日、死去(享年 81 歳)。

 重信房子(2020.03.05) 「佐野茂樹さんを偲ぶ」。
私にとっては佐野さんは先輩であり、私を革命の道に誘った人として、哀悼と惜別の想いで 御冥福を祈っています。佐野さんは、明大二部社学同・現代思想研究会(現思研)にとっては、 誰よりもブントを体現されている方でした。温和で礼儀をわきまえた気さくな先輩としと、私たちは尊敬していました。67年の10・8羽田闘争の日、学館に戻って、「すごい時代に入った」などと皆で話し合った日のことを思い出します。佐野さんが「でも牛乳瓶があんなに美しいとは思わなかったなあ」と言ったので、そのあまりに詩的なイメージにびっくりしました。確かに、衝突の攻防で石や牛乳瓶が飛び交い、放水と太陽の虹の中に牛乳瓶はきらきら輝いていたのです。以来、私たちは、真面目な先輩のその言葉尻を冷やかしたりしたものです。佐野さんは、67 年から 68 年、あの国際反戦集会を含めて、ブントを代表し基調報告を行っていました。その一方で、現思研に訪ねてきて『尐年サンデー』『尐年マガジン』『ガロ』を借りてい く、気さくで身近な先輩でした。その佐野さんから、私は、69 年の4・28 沖縄闘争のための軍事委員会書記局を手伝ってほし いと頼まれたことがあります。軍事委員会の非公然準備は、大学を離れて市民社会内部に準備するとのことでした。これが、初めて私が大学を離れた党活動に関わったきっかけとなりました。新橋の小さなビルに「劇団青天井」の名で借りた事務所で、4・28 闘争準備が始まりました。当時、私は、銀座のバーでアルバイトをしていたので、昼は「劇団青天井」の仕事、夜はバーへ出て遅く学館に戻るという活動を続けました。 4・28 闘争はこれまでの闘いを超える戦術をとるとのことで、関西から「試作品」をもって話し合いに来る人も居ました。又、ある時には、「試作品」を前に、元ブント議長の松本礼二さん、現議長の仏徳二さんと前議長の佐野さんの3人で、激しく論争し合っていました。闘いの質を武装へと転換すべきだと主張する佐野さんに対し、松本礼二さんが時期早尚を主張して断固として反対し、一歩も引かず、仏さんも同調して、結局、これまでの戦術をとることになりました。それが、霞が関占拠を訴えつつ、裏をかいて銀座・新橋へとカルチェラタン方式を基本とする戦術でした。この4・28 闘争は、前日から官憲の捜索や破防法適用など、激しい弾圧の中で闘われ、各党派のリーダーたちへの逮捕攻撃が続きました。この4・28 闘争の総括を巡って、「敗北」と総括した関西ブント中心に、後に赤軍派フラクが形成されていきます。私自身は、高原さんに誘われてフラクに協力するようになりましたが、このフラクのリーダーは佐野さんだろうと当初は思っていました。 「7・6事件」が起き、私も一歩踏み出して活動するようになったころ、佐野さんが逮捕されました。10 月位でしょうか、佐野さんからの電報で、「至急面会乞う」というので、小菅の拘置所に面会に行きました。佐野さんは、「4・28 闘争の件で君にも迷惑がかかる。申し訳ない。自分の責任で、君は何の罪もない。もし逮捕されたら、私の指示で自分は知らないと答えてほしい。」と謝罪され、その律義さに驚きました。「心配はいりません」と答えました。 11 月になって、私も「4・28 闘争」の「凶器準備幇助罪」で逮捕されました。以降、会う機会もないまま 69 年から今年になって、佐野さんの逝去を知りました。ふりかえってみると、私を革命の道へと導いたのは、佐野さんのあの4・28 闘争の軍事委員 会への参加の誘いだったと思います。ロマンと情熱にあふれた人柄は、きっと一世代下の赤軍派とはなじまなかったのでしょう。でも、ブントが一番輝いていた時代を、60年安保を継承して築 いたリーダーとして、佐野さんはブントの歴史に深く刻まれています。もう一度会って、私の経験を語りたい先輩を失いました。この彼岸、哀悼を捧げるつもりです。
 田中正治(2020.03.02) 「佐野さんへの追悼文」。
「60年代中期に関西ブンド関西地方委員会のリーダー佐野茂樹は、70年に武装蜂起とソヴィエト運動を構想し、関西地方委員会に提案している」と榎原均氏は「追想にあらず-建軍の 時代-」の中であなたのことを回想しています。佐野さん、あなたは僕の記憶の中では、信念と原理に生きた革命家でした。佐野さんの死を聞いたとき、それは革命家の死の姿なのだと感じました。 死を前にして、富や名誉は何の意味もありません。この世での他者への愛と信頼と連帯こそが、唯一あの世への旅立ちに勇気を与えてくれたものだと信じます。私たちの世代に残された時間はもはや多くはありませんが、信念と原理に生きたあなたを思 い活動を続けます」。
 高原浩之(2020.03.09) 「佐野さんを偲ぶ そして考えたこと」。
「佐野さんは、1968 年2月の第7回大会が選任したブンドの議長=最高指導者でした。私も一緒に上京し、尐し後に学対部長になりました。しかし、ブンドの指導部を担うことができず、12 月の第8回大会で、佐野さんも私も辞任しました。それでも、佐野さんは軍事委員長、私は共闘関係担当として、一緒に 69年4・28「中央権力闘争」を準備しました。一緒に活動したのはここまででした。この後、私は赤軍派に走った。佐野さんを思い出していると、考えはやはりブンド第7回大会に行き着きます。ブンド第7回大会 「過渡期世界論」を打ち出し、70 年闘争の指導で大きな役割を果たしました。しかし、マル戦派に対する「内ゲバ」「リンチ」は大きな誤りでした。その後の大衆闘争の高揚の中で、逆にこの大きな誤りを肯定してしまった。関西ブンド、とりわけ上京グループは自己批判し謝罪しなくてはならない。その一人として私は謝罪したい。他人の「痛み」は分からない。「痛み」は自分が受けて初めて分かる。後悔しても遅いが、連合赤軍事件の要因は、7・6事件に、そのまた要因はこの第7回大会にあった。連合赤軍事件や「対革マル戦争」は、日本の人民闘争と革命運動に壊滅的な損害となった。国際共産主義運動には、スターリン以来、「粛清」が常に存在した。この悪い体質は必ず清算さ れなくてはならない。「内ゲバ」「リンチ」には生身の人間関係がある。清算のためには、被害者に対する加害者の具体的な謝罪が絶対に必要であると思う。 「過渡期世界論」 「帝国主義から社会主義への過渡期」と「三ブロック階級闘争の結合」という規定、そして、ベ トナム民族解放闘争および中国社会主義革命(文化大革命)と結合する国際主義、この理論は当時のベトナム反戦闘争において、強力な指導となった。半世紀後の今日でもブンド系に大き な評価もあります。 しかし、観念論が濃厚にあった。赤軍派の主観主義、それは、小ブルジョア急進主義の特徴であるが、「過渡期世界論」に大きな要因があったと総括せざるをえません。革命の根拠を、ほぼ全て、歴史認識=「帝国主義から社会主義への過渡期」に求めた。政治的上部構造を経済的土台から切り離し、資本主義の帝国主義段階の継続を見なかった。日本の社会主義革命を、日本資本主義の矛盾からではなく、ほぼ全て、国際主義=「三ブロック階級闘争の結合」から展望した。それを赤軍派は極限化し、武装蜂起・革命戦争の根拠を「世界武装プロレタリアート」に求め、「国際根拠地建設」に走った。20世紀は資本主義の世界化に終わった。資本主義の帝国主義段階が継続し、グローバリ ズムの現実がある。ソ連だけでなく、中国やベトナムで社会主義革命と民族解放闘争が挫折し変質し、官僚制国家資本主義化した現実がある。この現実に合わせて、「帝国主義から社会主義への過渡期」と「三ブロック階級闘争の結合」という規定を見直さなくてはならない。日本の社会主義革命は、日本資本主義の矛盾を基に内在的に展望しなくてはならない。20 5 ~21 世紀という長いスパーンで現状分析する現代帝国主義論が必要だと思う。こういう経験の 総括を遺すことは、闘争と運動のために何か役立つと思う」。
 2020 年4月 11 日、渡邊義明 「佐野茂樹さんを偲ぶ 」。
 ①佐野茂樹さんは再建された共産主義者同盟の 1968 年3月の第7回大会で全国委員会議長 になりました、小生はその時共産主義者同盟京大細胞の Cap でした。 その後、小生は1968年7月関西学生対策部長、1968年9月大阪单地区委員会Cap・関西地 方委員会反戦フラクション Cap、1969 年3月共産主義同盟関西地方委員会青年対策部長・関 西地方委員会副議長となりました。 佐野茂樹さんが共産主義者同盟全国委員会副議長・軍事委員長として指導した 1969 年 4.28 沖縄闘争には関西の青年労働者 100 人を引率し、棒と石で武装させました(労働者の初 の街頭実力闘争)。 共産青年同盟関西地方委員会の 1969.4.28 闘争の総括・方針が書けないでいたところ、 1969 年赤軍派フラクションから「1969 年秋前段階蜂起=首相官邸占拠・臨時革命政府樹立」 が提案されました。 銃で武装しての首相官邸占拠には賛成でしたが、臨時革命政府樹立=日本革命になるとは 思いませんでした(学生は成熟しているが、労働者はごく一部しか同盟・革命的左翼に組織さ れていない・労働者はマッセンストライキができない←1969.04.28 逮捕の青年労働者の多くが 自供した)。 小生は、赤軍派提案への対案を書けませんでした。行き詰まって、1969 年6月1日脱盟届を 関西地方委員会に出し京大熊野寮に戻ります(脱盟届「首都圏に行き労働者になって再出発 する」)。 1969 年7.6に、赤軍派による仏徳二議長リンチが起きます。 1969 年 12 月小生は文学部共闘会議から相談を受け、文学部・京大全共闘解散大会を主催 し封鎖解除後の授業粉砕闘争を終了させます。 1970 年1月に活動を再開し、6月京大全学ストライキを組織しながら、首都圏の労働運動に 入る上京団候補を募ります(京大労研―後の労働運動研究会・三里塚闘争を支援する労働者 の会―結成)。 佐野さんと小生(故藤本敏夫さんも)は、共産主義者同盟の分派闘争・赤軍派への対応が似 ていると思います、分派に加わらず個人になりました。 1970 年か 1971 年か分かりませんが、佐野さんは京大労研から除名・独立した京大レーニン 研・京大 C 戦線の顧問となります。
 ②小生は、1972 年3月上京して労働運動に入り、また全国の反差別・反公害住民運動を担っ て今に至ります。
 ③1968 年3月の第7回大会で水沢史郎書記長の発言を遮り、引き摺り下ろす役を演じた(旧主 流派・マルクス主義戦線派を同盟から排除する目的で)ことを自己批判します。 日本共産党・革マルと異なり内ゲバをしないとの評判だった関西ブントの内ゲバの発端を担っ たのです。旧マルクス主義戦線派の方に詫びねばなりません。
 佐野茂樹さんに会いたくて 江刺昭子
 元ブントの活動家が、60年安保闘争で命を落した樺美智子の思い出に触れるとき、話題になるのは、彼女が好きだったのは誰だろうということだ。あの人、この人と噂があるなかで、決定的ともいえる答えを提供したのは島成郎『ブント私史』。出発したばかりのブントの書記局に常駐して雑務を担当していた樺さんがある日、「島さんは大人だから相談したいのですが、私、想いを寄せる人がいるのです」と話しかけ、「それはSさんです」と打ち明けたという。島博子さんは、それは佐野茂樹さんだと証言する。佐野さんと樺さんは神戸高校の同級生で(1953年入学)、ともに自治会役員を務めてリー ダーシップを発揮し、思想信条を同じくする同志だった。56年、佐野さんは現役で京大に入学し、まもなく共産党に入党。樺さんは東京に引っ越し、1年浪人して東大に入り、57年末に入党する。翌年、佐野さんは全学連副委員長に就任し東京に常駐。58年末には2人とも共産党を離党してブントに加盟している。樺光子編『人知れず微笑まん 樺美智子遺稿集』と『友へ 樺美智子の手紙』には、樺さんが 神戸高校時代の女友だちに「階級闘争に没頭している人にはめったに会えない」とこぼす手紙 などがあり、この間の2人の消息がわかる。新開純也さんも2人がつきあっていたと、佐野さん から聞いている。樺さんの評伝を書くために関係者の取材を始めた2005年、わたしは佐野さんに取材依頼の手紙を出した。樺さんの手紙も所蔵しているというので見せてほしいとお願いした。会う約束をしたが、直前に断りの手紙がきた。評伝をほぼ書き上げた09年、翌10年と三度 取材を申し込んだが、やはり約束の前日に速達が来てキャンセルされた。心残りだったが、2 人の交流に触れぬまま、10年に『樺美智子 聖尐女伝説』(文藝春秋)を出版した。 わたしはまた、数年前から、連合赤軍事件で亡くなった遠山美枝子さんについて書くつもりで、高原浩之さんや関係者に話を聞かせてもらっている。そのなかで第二次ブント議長の佐野さんが明治大学にオルグに入り、遠山さんや重信房子さんに会っていることを知った。女性の活動家として、そのひたむきさ、誠実さが共通する2人が佐野さんを通じてつながった。なんという偶然だろう。佐野さんに会いたい思いが募り、京都の片岡卓三さんにお願いし、昨年12月、寝屋川市のお宅を訪問した。片岡さんと山崎一郎さんが同席して2時間余、話題はあちこちに飛んだ。佐野さんはベッドに腰かけての応対だったが、精悍なおもざしは残っており、ま もなく亡くなられるとはとても思えなかった。今は、わたしの願いをかなえてくださったことに感謝 あるのみ。60年安保から60年が経ち、樺美智子の名も知らない人がほとんどになったが、彼女がどん な社会を望み、どんな闘いをして死んだのか、その実像を伝えたいと思い、今年2月25日か ら3月1日までネットニュースに連載した(「47ニュース・江刺昭子」で検索すると読めます)。 旧著『樺美智子 聖尐女伝説』は、『樺美智子、安保闘争に斃れた東大生』とタイトルを変更し、 6月に河出文庫として出版予定。遠山さんについても、昨年出版した『時代を拓いた女たち か ながわの112人』(神奈川新聞社)にわずか2ページだが紹介した。いずれ、まとまった形にし たいと思っている(2020.3.30記)」。

宮崎学(みやざき まなぶ】
 「ウィキペディア(Wikipedia)宮崎学」。
 生い立ち、家系
 1945年10月25日、京都府京都市伏見区深草福稲高松町生まれ京都・伏見の暴力団寺村組の初代組長を父に、大阪・釜ヶ崎の博徒の娘を母に持った、4人きょうだいの末子である宮崎本人が、著書『近代の奈落』(2002年、解放出版社・解放同盟の機関誌『部落解放』に当時連載された)で、父が「京都府綴喜郡井手町の被差別部落の出身で、スリの頭目だった」という父の知人の証言を紹介。以来、自らを部落民と規定している。

 学生時代
 枚方の新設私学高校の啓光学園に入学し、卒業。早稲田を受験するも失敗、浪人。 その後、京都における共産党の中心的存在である谷口善太郎の元を訪れ、18歳で共産党に入党。宮崎は当時を振り返り「左翼はヤクザの猥雑で気ままな「侠」が純化された世界なんだと勝手に思い込んでいた。要するに、マルクス主義とヤクザをごちゃまぜにして両方もろともにやってやれと呑気に考えていた」、「共産党とヤクザでは暴力も非合法もまるで質が違う。そうであっても、法に守られず暴力にさらされる状況下での行動の倫理、人間の事に処する処し方は共通しているのではないか、と思っていた。というよりも、ヤクザの侠をはたせないで何が左翼だ、それで革命ができるはずがない」、「革命理論としてのマルクス主義、行動倫理としての侠、こいつを両方もっていればこわいものはない。ドンといってやろやないか!というわけである」と述べている
 1965年、早稲田大学第二法学部入学。学生運動にあけくれる。
 1966年、大規模な無期限ストライキに発展した、学費値上げ反対・学生会館の管理運営権の獲得を掲げた早大闘争参加、また共産党系の秘密ゲバルト組織・あかつき行動隊の隊長に就任し、東大闘争で全共闘と対立した。
 1969年、早稲田大学卒業式ボイコットを企画・実行し、それがマスコミに大きく報じられ、共産党中央の逆鱗に触れ除名。「もう多数派形成ゲームに乗るのはよそう。生涯一少数派でいいじゃないか。もう群れるのはよそう。どこまでいけるかわからないが、とにかく一人で行こう」、「抽象的な観念に寄りかかって生きるのはよそう。どろどろした具体的な人間関係の中で肉感的に生きて行こう」、「市井の、まつろわぬ一無頼として『太く短く』生きたっていいじゃないか。大きなものによりかかって生きるぐらいなら、そのほうがすっきりしていい」などと漠然と考えていた」と述べている

 ジャーナリストとして

 1970年、週刊誌/週刊現代の株式関連を担当するフリー記者(いわゆるトップ屋)となる。
 1975年、京都府内の家業の解体業「寺村建産」を継承して経営したが、ゼネコンへの企業恐喝容疑により指名手配され、1980年7月25日、京都府警に出頭・逮捕される。当時宮崎の学生時代からの知人大谷昭宏の手により、読売新聞紙上で同時進行形式で『企業恐喝を追う』というルポルタージュを連載、最初出頭・逮捕にあわせて7月25日夕刊に「逃亡中の容疑者の独占インタビュー」が掲載された。同年8月9日には処分保留のまま釈放されたが、逮捕の件により金融機関の信用を失い、取引を停止されて1980年10月25日に倒産、25億円もの負債を抱えた
 1982年東京に戻り、「愚連隊の元祖・神様」と言われた万年東一の厄介になった]
 1984年、グリコ・森永事件起きた際には「キツネ目の男」と酷似していたことなどから最重要参考人として事情聴取を受けたものの、キツネ目の男が目撃された1984年6月28日には都内の音楽大学の労組会議に出席していたアリバイがあったために逮捕を免れる
 1987年バブルの際には、地上げを稼ぎの種とする。多額のキャッシュを不動産屋に手渡す際の模様を、若松孝二に密かに撮影してもらったこともある

 作家として
 1996年10月、南風社より、自らの経歴を記した『突破者』を発表し、小版元からの出版で、広告宣伝をしなかったが、1997年夏時点で15万部を出版する。以来「元アウトローの作家(文化人)」ではなく「作家の看板をあげたアウトロー」の「生活者」と称する。2005年には英語版『TOPPAMONO』も翻訳出版された。 「突破」(とっぱ)とは、関西で無茶者、突っ張り者のことである。宮崎自身は「社会的なしがらみからいかに自由であるか、ということかもしれないんだけど、結果的にはしがらみの中で生きていかざるを得ない。だとすれば、しがらみの質の問題になる」、「いわゆる近代民主主義的なしがらみじゃなく、動物としての人間としてのしがらみのなかにいる、ということ」、「「動物たれ」というのが、突破者のひとつの原則になる」と述べている
 1999年、通信傍受法(盗聴法)に反対し、大々的な批判を展開(「'99年全記録」、「国怪フォックス通信」など。またおなじく批判を展開しロビー活動を行っていた宮台真司とも対談を行っている
 成立後の12月8日、2001年までの時限政党として、通信傍受法廃止を目的に政治団体「電脳突破党」を結党し、自ら総裁となった。ネットで党遊を募集し、2000年の第42回総選挙では自由連合の栗本慎一郎など通信傍受法反対派候補を支援した。
 2001年の第19回参院選では、新党・自由と希望の公認を受け比例代表区より出馬。結果は落選し、同年8月15日に予定通り突破党を解党した。
 選挙前後、公安調査庁の協力者だったという批判もあった。宮崎は『叛乱者グラフティ』(2002)の末尾に収められた「付論 キツネ目は「スパイ」か?」において反論を行っている。なお、公安調査庁の協力者としての宮崎を担当していたのは、野田敬生であったと野田本人が明らかにしている。野田は問題となった流出文書の作成時期(ちなみに宮崎が作家デビューする前である)は公安調査官であり、文書流出があった2001年には公安調査庁を辞めてジャーナリストとなっていた。
 2004年1月、部落解放同盟の出版部門である解放出版社から刊行された『「同和利権の真相」の深層』に寄稿。この本の中で、「寺園敦史という男とは、私もぶつかったことがあります。(中略)私が『突破者』(幻冬舎文庫)を出した直後に、「京にうごめくなんやら」(『京に蠢く懲りない面々』)ゆうことで書かれた。俺はなんもうごめいておらんよ、ゆうことで、公開論争をやろうと申し入れたんやけど、逃げまわりよった」と虚偽事実を申し立ててジャーナリスト寺園敦史を中傷したとして、寺園から解放出版社と共に名誉毀損で大阪地裁へ提訴された。寺園の要求は以下の3点である。宮崎と解放出版社は、寺園に1100万円の損害賠償金を支払うこと。解放出版社は、『「同和利権の真相」の深層』の販売を中止すること。宮崎と解放出版社は、寺園への謝罪広告を掲載すること。寺園の主張は、わたしは2003年に『同和利権の真相3』を書くまで、宮崎氏について批判的な記事を書いたことがないどころか、かれに言及する記事すら1本も書いたことがないのである。書いたことがないのだから、宮崎氏から抗議を受けたり、公開論争などというものを申し込まれたりするわけがない。というものであった。なお、宮崎が挙げた『京都に蠢く懲りない面々―淫靡な実力者たち』(講談社プラスアルファ文庫)は一ノ宮美成湯浅俊彦グループK21の共著であり、寺園は同書に全く関与していない。
 2005年5月19日、大阪地裁の塚本伊平裁判長は宮崎の上記の記述を虚偽と認定し、宮崎と解放出版社に110万円の損害賠償を命じた一方、販売差し止めと謝罪広告の掲載については退けた。
 2005年12月22日、大阪高裁の控訴審でも宮崎の記述が虚偽と認められたが、やはり販売差し止めと謝罪広告の掲載については退けられた上、賠償額は80万円に減額された。これに対して被告側は上告せず、2006年1月、宮崎と解放出版社の敗訴が確定した。
 2005年12月の門真市議会議員戸田久和逮捕の時には、同胞であるという理由で強く議員を擁護した。
 2006年9月に経済学者植草一秀が痴漢容疑で逮捕された際にも擁護声明を出した。
 2006年より、佐藤優魚住昭らとメディア勉強会「フォーラム神保町」を運営。佐藤優とは『国家の崩壊』を共著で出版。佐藤が直接経験したソビエト連邦の崩壊について聞き出している。2007年12月10日、『警察の闇 愛知県警の罪』を出版する。当時 愛知県長久手町で起きた篭城発砲事件現場での裏事情や警察の不祥事や裏金、また全国詐欺事件ブームにのり逮捕された日本メンテナンスというリフォーム会社の逮捕にまつわる警察の失態など克明に書かれている。この本は、田原総一朗魚住昭佐藤優らが絶賛している。
 2009年7月3日、林幹雄国家公安委員長が代表を務める「自民党千葉県第10選挙区支部」や藤井孝男自民党参議院議員の資金管理団体「藤井孝男後援会」に西松建設がダミーの政治団体「新政治問題研究会」名義で献金したことについて、「民主党の小沢一郎前代表側への献金事件と同じ構図で起訴されるべきだ」として、国沢幹雄元社長を政治資金規正法違反容疑で東京地検に告発した。同月14日、同3日に告発した国沢元社長が起訴猶予になったことを受け、検察審査会に審査を申し立てた
 2010年1月18日、フォーラム神保町と現代深層研究会主催の緊急シンポジウム「『新撰組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」に、青木理魚住昭大谷昭宏岡田基志木村三浩郷原信郎佐藤優鈴木宗男田原総一朗平野貞夫らとともに参加した
 2010年4月1日、2009年12月に福岡県警の要請で同県内のコンビニが暴力団を専門的に扱う月刊誌とコミック誌の販売を中止したことにつき、事実上の規制となり著作出版活動の委縮を招き表現の自由、出版の自由を侵害するとして、県に対し慰謝料など550万円の支払いを求め、福岡地裁に提訴。なお、撤去要請の対象となっている図書の中に、宮崎学の著書を原作とした漫画が含まれている。しかし、2012年6月13日の福岡地裁では「自主的な措置を取ることを求めるものにすぎず撤去の強制とはいえない」として請求を棄却。宮崎側は控訴する方針。
 2022年3月30日、老衰のため、群馬県の高齢者施設で死去。76歳没

 人物・思想

 『突破者』は、グリコ・森永事件の「キツネ目の男」に酷似した最重要参考人Mという売出しであるが、基本には、異物が排除され、清潔な管理が実現されようとしている、「スーパーフラットな社会」に対する対抗があるとする。宮崎はその「清潔な管理」的発想を「デオドラントな思想」とも呼ぶ。そして、その「スーパーフラットな社会」の中で、どのように「個から出発したネットワークという新たなかたちでの兄弟意識のありかを実証」するか、を問うている。それは以後の著作の一貫した通奏低音であり、『近代の奈落』(2002 解放出版社2005、 幻冬舎アウトロー文庫)、『法と掟と』(洋泉社2005)、『近代ヤクザ肯定論ー山口組の90年』(2007、筑摩書房)に特に現れている。部落民の運動を扱った『近代の奈落』において宮崎は、「クリーンな支配、クリーンな運動のほうがいかがわしい。生活の幅を知っている支配、猥雑な運動、のほうがまっとうである」と述べている。なお、宮崎によれば、『近代ヤクザ肯定論ー山口組の90年』は、「『近代の奈落』とまったく連続している」。また、幇的ネットワークにも注目する。文庫版『近代の奈落』の解説は姜尚中宮台真司で、『法と掟と』は柄谷行人が書評する。橋下徹の血脈が話題になった際、月刊『WILL』(2012年1月号)に、宮崎学、「橋下徹前大阪府知事の出自を暴く異常」と題して、一文を寄せた。宮崎によれば「たしかに、不祥事があれば叩けばよい。しかし、出自と不祥事は全く別の問題である。それは、出自に関する問題は、相手に抗弁権が一切ないからである」という。学生時代からの友人に、朝倉喬司大谷昭宏呉智英がいる。また西原理恵子の作品にも登場する。

 著書

  • 『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた五〇年』南風社 1997 のち幻冬舎アウトロー文庫,新潮文庫
  • 『バトルトーク突破者』同時代社 1997 「喧嘩の極意」幻冬舎アウトロー文庫
  • 『突破者それから』徳間書店 1998 「地上げ屋 突破者それから」幻冬舎アウトロー文庫
  • 『突破者烈伝』筑摩書房 1998 のち幻冬舎アウトロー文庫
  • 『不逞者』角川春樹事務所 1998 のち幻冬舎アウトロー文庫
  • 『「幇」という生き方-「中国人マフィア」日本人首領の記』徳間書店、1999年 「アジア無頼 「幇」という生き方」文庫
  • 『カネに死ぬな掟に生きろ』徳間書店, 1999 のち文庫
  • 『血族 アジア・マフィアの義と絆』幻冬舎 1999 のちアウトロー文庫
  • 『地獄への道はアホな正義で埋まっとる』太田出版 1999
  • 『突破者の母 グレートマザー』青林工藝舎 1999 のち徳間文庫
  • 『突破者の条件』1999 幻冬舎アウトロー文庫
  • 『神に祈らず 大杉栄はなぜ殺されたのか』飛鳥新社 2000
  • 『突破者流・勝ち残りの鉄則』ダイヤモンド社 2000
  • 『涙を忘れた日本人のために』小学館 2000 「突破者入門」角川文庫
  • 『「反・市民」講座 資本主義を生き抜く行動学 対談集』リトル・モア 2000
  • 『海賊』毎日新聞社 アジア・ノワール 2001
  • 『小倉の極道謀略裁判』太田出版 2001
  • 『突破論 トラブルを逆手にとれ』光文社カッパ・ブックス 2001
  • 『近代の奈落』解放出版社 2002 ISBN 4-7592-4113-2 のち幻冬舎アウトロー文庫
  • 『鉄 極道・高山登久太郎の軌跡 突破者異聞』徳間書店, 2002
  • 『こんな国は捨てよう』ウェイツ 2002
  • 『「正義」を叫ぶ者こそ疑え』ダイヤモンド社 2002
  • 『地下経済 この国を動かしている本当のカネの流れ』青春出版社 プレイブックスインテリジェンス 2002
  • 『ハンパな人生論より極道に学べ』青春出版社 2002
  • 『叛乱者グラフィティ』朝日新聞社 2002
  • 『マリコtake off! アジアを駆け抜けた"戦場のヌードダンサー"マリコの半生』明月堂 2002
  • 『宮崎学の兵法』サンマーク出版 2002
  • 『突破者流「殺し」のカルテ 動機と時代背景から読み解く殺人者の心の暗部』日本文芸社 2003
  • 『民主主義の原価』講談社 2003
  • 『警察官の犯罪白書』幻冬舎 2004
  • 『愚者から愚民へ』スパイス, 2005
  • 『法と掟と 頼りにできるのは、「俺」と「俺たち」だけだ!』洋泉社 2005 のち角川文庫
  • 万年東一』角川書店, 2005 のち文庫
  • 『耐震強度偽装問題ワルの本丸を暴く!』ぶんか社 2006
  • 『突破流・実践ヤクザ式対話術』白夜書房 2006
  • 『六代目山口組司忍組長と小泉純一郎首相にケンカを学ぶ』太田出版 2006
  • 『右翼の言い分』アスコム, 2007
  • 『近代ヤクザ肯定論 山口組の90年』筑摩書房 2007 のち文庫
  • 『警察の闇愛知県警の罪』アスコム, 2007
  • 『その男、保釈金三億円也。』田中森一監修 扶桑社 2008
  • 『ヤクザと日本 近代の無頼』2008 ちくま新書
  • 『上場企業が警察に抹殺された日』扶桑社 2009
  • 『談合文化論 何がこの国の「社会」を支えるのか』祥伝社 2009
  • 『続・突破者』同時代社, 2010
  • 『白狼伝』毎日新聞社 2010
  • 『暴力団追放を疑え』ちくま文庫 2011
  • 『「自己啓発病」社会』祥伝社新書 2012 のち文庫
  • 『ヤクザに弁当売ったら犯罪か?』ちくま新書, 2012
  • 『橋下維新の挑戦とアンシャン・レジーム』にんげん出版モナド新書, 2013
  • 『異物排除社会ニッポン』双葉新書, 2014
  • 『ヤクザとテロリスト工藤會試論 難民化する「暴力団」、暴力装置化する国家』イースト・プレス 2015
  • 『山口組と日本 結成103年の通史から近代を読む』祥伝社新書, 2018.8
 共編著
  • 『土壇場の経済学』青木雄二共著 南風社 1998 のち幻冬舎アウトロー文庫
  • 『突破者の本音 残滓の思想』鈴木邦男共著 青谷舎 1999 のち徳間文庫
  • 『敗者復活! リストラ社員の大逆襲』設楽清嗣共著 幻冬舎、1999 のち朝日文庫
  • 『17歳のバタフライナイフ 突破者犯罪を語る』別役実共著 三一書房労働組合 2000
  • 『生きる力』梁石日共著 柏書房 2000
  • 『オウム解体 宮崎学VS上祐史浩[39]雷韻出版 2000
  • 『グリコ・森永事件 最重要参考人M』大谷昭宏共著 幻冬舎 2000 のちアウトロー文庫
  • 『ぼくたちが石原都知事を買えない四つの理由。』姜尚中共著 朝日新聞社 2000
  • 中坊公平的正義とは』佐高信共編著 思想社 2001
  • 『任侠事始め』溝下秀男共著 太田出版 2001
  • 『警察はここまで腐蝕していたのか 警察トップの使用者責任とやくざ組織幹部の使用者責任を論じる』編著 洋泉社 2004
  • 『獄楽記』上高謙一共著 太田出版, 2004
  • 『殺人率 日本人は殺人ができない! 世界最低殺人率の謎』大谷昭宏共著 太田出版 2004
  • 『「同和利権の真相」の深層』呉智英角岡伸彦斎藤貴男秋山良森達也和田献一共著 解放出版社編 解放出版社 2004
  • 『安倍晋三の敬愛する祖父岸信介』近代の深層研究会共著 同時代社 2006
  • 『国家の崩壊』佐藤優対談 にんげん出版 2006 のち角川文庫
  • 『日本と戦う』鈴木宗男,西部邁共著 講談社 2006
  • 『必要悪 バブル、官僚、裏社会を生きる』田中森一共著 扶桑社 2007
  • 『大恐慌を生き残るアウトロー経済入門』門倉貴史共著 2008 扶桑社新書
  • 『法か、掟か』大谷昭宏共著 ゴマブックス ゴマ文庫 2008
  • 松崎明秘録』松崎明対談 同時代社 2008
  • 『「暴力団壊滅」論 ヤクザ排除社会の行方』猪野健治共編 筑摩書房 2010
  • 『ラスト・ファミリー 激論田岡由伎×宮崎学』角川書店 2010
  • 『日本共産党vs. 部落解放同盟』筆坂秀世共著 にんげん出版 2010
  • 『世界を語る言葉を求めて 3.11以後を生きる思想』辻井喬共著 毎日新聞社 2011
  • 『日本人のための新「幸福論」』田原総一朗,佐藤優共著 三笠書房 2012
  • 『あえて暴力団排除に反対する』辻井喬,西部邁,下村忠利共著 同時代社 シリーズおかしいぞ!暴力団対策 2012
  • 『メルトダウンする憲法・進行する排除社会 暴排条例と暴対法改訂の「いま」』編著 田原総一朗ほか 同時代社 シリーズおかしいぞ!暴力団対策 2012
  • 『「殺しあう」世界の読み方』佐藤優共著 アスコム 2015
  • 『戦争と革命と暴力 平和なき時代の世界地図』佐藤優共著 祥伝社 2015
  • 『「暴走する」世界の正体 最強論客が読み解く戦争・暴力・革命』佐藤優共著. SB新書, 2017.11
  • 『ヤクザと東京五輪2020 巨大利権と暴力の抗争』竹垣悟共著. 徳間書店, 2018.12

 2022.5.28日、1970年代を中心に世界中でさまざまなテロ事件を起こした過激派グループ「日本赤軍」の重信房子・元最高幹部(76)が、懲役20年の刑を終えて出所した。収容されていた施設の近くの公園で報道陣の取材に応じ、「多くの人たちにご迷惑をおかけしたことをおわびします」と謝罪の言葉を述べた。「再出発にあたって」と心境をつづった文書を報道関係者に配布。

 重信元幹部は日本赤軍の解散を宣言しているが、現在もメンバー7人が国際指名手配されており、警察当局が今後の動向を注視している。重信元幹部はこの日午前8時前、弁護士らに付き添われ、東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)の正門から車の後部座席に乗って出所。黒の帽子を深くかぶったマスク姿で車から降りると、多くの支援者や報道陣に取り囲まれ、近くでは街宣車が抗議活動するなど一時騒然となった。その後、公園に場所を移して取材に応じ、「50年前の戦いで、人質をとるなど、見ず知らずの無辜(むこ)の人たちに被害を与えたことがあった。おわびします。今後は病気の治療に専念します」などと話した。
 「21年以上の獄中生活も、振り返ると、とても短かったようにすら感じられます」。

 記事の後半では、記者宛ての年賀状につづった元最高幹部の胸中を掲載しています。
 新しく社会に参加するにあたって、まず私の逮捕によって被害を受け、御迷惑をおかけした方々に謝罪致します。私や、日本赤軍の闘いの中で政治・軍事的に直接関係の無い方々に、心ならずも被害や御迷惑をおかけしたこと、ここに改めて謝罪します。自分たちを第一としている闘い方に無自覚でもあり無辜(むこ)の方々にまで、被害を強いたことがありました。かつてのあり方を反省し、かつ、日本をより良く変えたいという願いと共に謝罪の思いを、私自身の今日の再出発に据えていく所存です。

 半世紀以上も前になりますが、世界も日本も高揚の中で、反戦平和を訴える時代がありました。ベトナム反戦の闘い、チェ・ゲバラの訴えに心動かされ、また大学の学費値上げ反対闘争に私は進んで参加しました。そして、闘いの攻防の中でのいきづまりを武装闘争によって活路を求めようとした赤軍派に私も加わりました。赤軍派は、闘い、失敗を重ね、弾圧の中で、うまく闘うことが出来ませんでした。「武装闘争路線」が間違っていたからです。でも当時はそう考えませんでした。出所を前にして、厄介なポリープが発見され、出所後の専門医による治療が必要になってしまいました。社会に戻り、市民の一人として、過去の教訓を胸に微力ながら何か貢献したいという思いはありますが、能力的にも肉体的にも私に出来ることは、ありません。まずもって、治療とリハビリに専念する中で、世界・日本の現実を学び「新しい生活様式」を身につけたいと思っています。そして、求められれば、時代の証言者の一人として、反省や総括などを伝えることを自らの役割として応えていくつもりです。


 2023(令和5).1.11日、一水会顧問で著述家の鈴木邦男氏が逝去(享年79歳)。

 2023.2.15日夜から16日午前、千葉県成田市の成田空港用地内で反対派の男性が耕作する土地の明け渡しを巡り、反対派団体が建てたやぐらや看板などを撤去する強制執行が行われた。空港用地内での強制執行は2017年以来。千葉県警は16日、機動隊員に対する公務執行妨害容疑で、反対派の男ら3人を現行犯逮捕した。県警によると、男3人はいずれも氏名不詳で、1人は「弁解はありません」と話し、残り2人は黙秘しているという。

 生きている三里塚闘争 52年ぶりの強制収用    横山茂彦
 2023年2月18日 付け「デジタル鹿砦社通信」より再録
 成田(三里塚・芝山)空港用地の強制収用。成田市天神峰で、機動隊による闘争拠点破壊(強制収用)が行なわれた。支援活動家3人が逮捕され、市東孝雄さんの畑に設置されていた櫓(やぐら)が撤去された。
 反対運動にかかる設置物への強制収用は6年ぶり。反対同盟農民の田畑にかかる土地収用は、大木(小泉)よねさん宅(71年9月)いらいじつに52年ぶり。今回は看板と櫓の撤去だったが、いずれは畑そのもの、市東さんの自宅が強制収用の対象となる可能性が高い。土地そのものが借地であるとはいえ、営農している農家の土地を奪う。裁判における成田空港会社の主張は農地法を論拠にしている。が、農地法自体が農民の土地保護を目的とした立法趣旨であることから、空港会社側の不法行為が指摘されている。  三里塚空港(成田空港)は高度成長期に計画され、1978年5月に滑走路一本で「開港」した。その後、90年代に政府と反対派の「話し合い」が行なわれ、強制的な土地収用や強硬手段は採らない、と円卓会議で「和解」した経緯がある。その意味では、法的にも道義的にも成田空港は違約したというべきであろう。そもそも土地明け渡しの訴訟(裁判による強制手段)を訴えたこと自体、約束違反ということになる。和解に至るまえに、大地共有化運動(反対同盟農民の土地を、支援者で分割名義にして共有する)をめぐって、三里塚芝山連合空港反対同盟は分裂している(83年3月)。この事情は当時、革マル派との党派戦争を行なっていた中核派が、大地共有化運動に参加できない(住所を公開することになる)ことで、猛烈に反対した経緯がある。この分裂をめぐって、中核派が第4インターの活動家を襲撃する(のちに足の切断を余儀なくされた人もいる)ことで、反対運動に大きな禍根を残した。中核派から分裂した関西派(革共同再建協議会)は、この件を自己批判している。しかるに、分裂した反対同盟熱田派(現柳川代表派)が結んだ「空港建設に強制的な手段は用いない」という和解協議を論拠に、強制収用の違法性を批判することになったのだ。現在、移転に応じた近隣農家(元反対同盟)もふくめて、空港の騒音訴訟という条件闘争、用地内の反対同盟(旧北原派)、木の根ペンション(プール)、三里塚物産など、様々な立場から反対運動が継続されている。その意味では、日本住民運動の管制高地といわれた三里塚闘争は、まだ北総台地で生きているのだ。
▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

 2023.5.11日、警視庁と千葉、神奈川両県警の合同捜査本部が、2月の成田空港用地明け渡しを巡る強制執行の際、警察官を引き倒そうとしたなどとして公務執行妨害などの疑いで中核派幹部ら6名を逮捕した。

 同庁公安部によると、逮捕されたのは、幹部の石田真弓(36)(東京都江戸川区松江)、同派活動家の仁田水晴輝(24)(埼玉県狭山市入間川)両容疑者ら。合同捜査本部は同日、中核派の拠点「前進社」(江戸川区)など8カ所を家宅捜索した。石田容疑者の逮捕容疑は2月16日未明、千葉県成田市天神峰で、強制執行の警備に当たっていた千葉県警の機動隊員を引き倒そうとした疑い。仁田水容疑者は、別の隊員が持っていた警備に関する書類を盗んだ疑い。中核派は、広島市で19日から開催される先進7カ国首脳会議(G7サミット)に向け、機関紙で「サミット粉砕」と主張しており、警察当局が警戒を強めている。

 2023.5.29日、警視庁が、機関紙で「サミット粉砕」などと主張していた中核派の5.18G7広島サミットに反対デモの際、過激派「中核派」の中核派全学連幹部の男が警備にあたっていた警察官を蹴ったとして広島県警に公務執行妨害で逮捕された事件を受け、都内にある中核派の活動拠点「前進社」を家宅捜索した。




(私論.私見)