第10期その5 | 2020年代の学生運動 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日 日
これより前は、「」に記す。
(この時期の政治動向)
2000年代、日本政治は急速に腐臭を放ち始める。特に、2001年に登場した小泉政権は中曽根以来の「戦後総決算、大国責任論」路線を振りかざし始め、それはとりもなおさず日本の国家的富の外資への譲り渡しに過ぎないものでしかないが、これをマスコミが提灯することで5年有余にわたる長期政権を維持させた。その後、安部、福田、麻生と首相代えるが、日本の国家的溶解化は止まらない。歴史の摩訶不思議で、この頃より自由党と民主党が合同し政権交代論をぶちあげ、歩一歩実現に向かい始める。これに日共が「唯一の野党」路線で水を差しつつ今日まで経緯している。
2009年8月、第45回衆議院選が行われ、民主党が歴史的な大勝利を収め、悲願の政権交代を果たす。
この時代の日本左派運動は、もはや完全に死に体に陥り政局絡みの運動は何一つ組織し得ない。学生運動で僅かに法政大学で中核派系の主導による紛争が持続的に続けられている。こういう関心を以て、以下検証する。
2012.5.24、「ついにとどめを刺される「全学連」 東大の自治会が引き起こす社会運動史上の大事件とは」。 現在5つある「全学連(全日本学生自治会総連合)」の中で最大の規模を持つとされるのが「民青系全学連」である。民青の正式名称は日本民主青年同盟。「日本共産党の導きを受ける」青年政治組織である。その民青が執行部で主導権をとるため民青系と呼ばれる。その民青系全学連が近く解散する可能性が高くなってきた。引導を渡すのは「東京大学教養学部自治会」(通称「東C自治会」)。代々民青が執行部を掌握し、全学連を主導する役割を果たしてきた大学自治会である。それが今年4月、東C自治会執行部が全学連脱退を決議し、6月の代議員会で承認されれば全学連を脱退する。東C自治会の脱退は民青系全学連にとどめを刺し解散に追い込むと見られている。民青系全学連が解散すると見られる根拠の第1は、「全寮連(全日本学生寮自治会連合)」解散と同様のパターンを踏襲しているからだ。2006年3月、全寮連が解散した。全寮連は大学の寮自治会の連合体で民青系全学連と兄弟関係にあった組織である。解散理由は加盟寮の減少と役員不足で何の活動もできなくなったからである。解散の1年ほど前に出されていた全寮連の文書によると、加盟寮は13自治寮。機関紙「みどりの旗」が廃刊になり、その後復活した機関紙「Green Eye"s」の発行部数は400部だった。全学連の機関紙「祖学(祖国と学問のために)」も一度廃刊になり、コピー機で印刷する形で復活した。刷り部数は1000部以下、そのうち定期購読部数は150部以下で、賛助会員と呼ばれる全学連OBや共産党関係者の読者もいることから学生の購読数はさらに少なくなる。 |
週刊『前進』04頁(2879号03面03)(2017/09/25) 「反革命カクマルが大崩壊 植田議長脱落し指導部分裂 エセ「全学連大会」も開けず」。
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【2020(令和2)年の動き】 | 「戦後史2020年当時」 |
【佐野茂樹(佐伯武) 逝去】 | ||
1.21日、死去(享年81 歳)。第一次ブンドの時期には全学連副委員長。第二次ブンド(1966 年第6回 大会で再建)の時期には、68 年の第7回大会で議長、第8回大会で副議長、69 年 4・28「中央権力闘争」を軍事委員会委員長として指導。ブンド崩壊後は、「緑の地球ネ ットワーク」(GEN)代表として環境運動に取り組む。 「佐野茂樹さんを偲ぶ会(東京)」その他参照。 | ||
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重信房子(2020.03.05) 「佐野茂樹さんを偲ぶ」。
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田中正治(2020.03.02) 「佐野さんへの追悼文」。
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高原浩之(2020.03.09) 「佐野さんを偲ぶ そして考えたこと」。
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2020 年4月 11 日、渡邊義明 「佐野茂樹さんを偲ぶ 」。
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佐野茂樹さんに会いたくて 江刺昭子
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【宮崎学(みやざき まなぶ】 |
「ウィキペディア(Wikipedia)宮崎学」。 |
生い立ち、家系 1945年10月25日、京都府京都市伏見区深草福稲高松町生まれ。京都・伏見の暴力団寺村組の初代組長を父に、大阪・釜ヶ崎の博徒の娘を母に持った、4人きょうだいの末子である。宮崎本人が、著書『近代の奈落』(2002年、解放出版社・解放同盟の機関誌『部落解放』に当時連載された)で、父が「京都府綴喜郡井手町の被差別部落の出身で、スリの頭目だった」という父の知人の証言を紹介。以来、自らを部落民と規定している。 学生時代 枚方の新設私学高校の啓光学園に入学し、卒業。早稲田を受験するも失敗、浪人。 その後、京都における共産党の中心的存在である谷口善太郎の元を訪れ、18歳で共産党に入党。宮崎は当時を振り返り「左翼はヤクザの猥雑で気ままな「侠」が純化された世界なんだと勝手に思い込んでいた。要するに、マルクス主義とヤクザをごちゃまぜにして両方もろともにやってやれと呑気に考えていた」、「共産党とヤクザでは暴力も非合法もまるで質が違う。そうであっても、法に守られず暴力にさらされる状況下での行動の倫理、人間の事に処する処し方は共通しているのではないか、と思っていた。というよりも、ヤクザの侠をはたせないで何が左翼だ、それで革命ができるはずがない」、「革命理論としてのマルクス主義、行動倫理としての侠、こいつを両方もっていればこわいものはない。ドンといってやろやないか!というわけである」と述べている。 1965年、早稲田大学第二法学部入学。学生運動にあけくれる。 1966年、大規模な無期限ストライキに発展した、学費値上げ反対・学生会館の管理運営権の獲得を掲げた早大闘争参加、また共産党系の秘密ゲバルト組織・あかつき行動隊の隊長に就任し、東大闘争で全共闘と対立した。 1969年、早稲田大学卒業式ボイコットを企画・実行し、それがマスコミに大きく報じられ、共産党中央の逆鱗に触れ除名。「もう多数派形成ゲームに乗るのはよそう。生涯一少数派でいいじゃないか。もう群れるのはよそう。どこまでいけるかわからないが、とにかく一人で行こう」、「抽象的な観念に寄りかかって生きるのはよそう。どろどろした具体的な人間関係の中で肉感的に生きて行こう」、「市井の、まつろわぬ一無頼として『太く短く』生きたっていいじゃないか。大きなものによりかかって生きるぐらいなら、そのほうがすっきりしていい」などと漠然と考えていた」と述べている。 ジャーナリストとして 1970年、週刊誌/週刊現代の株式関連を担当するフリー記者(いわゆるトップ屋)となる。 |
人物・思想 『突破者』は、グリコ・森永事件の「キツネ目の男」に酷似した最重要参考人Mという売出しであるが、基本には、異物が排除され、清潔な管理が実現されようとしている、「スーパーフラットな社会」に対する対抗があるとする。宮崎はその「清潔な管理」的発想を「デオドラントな思想」とも呼ぶ。そして、その「スーパーフラットな社会」の中で、どのように「個から出発したネットワークという新たなかたちでの兄弟意識のありかを実証」するか、を問うている。それは以後の著作の一貫した通奏低音であり、『近代の奈落』(2002 解放出版社2005、 幻冬舎アウトロー文庫)、『法と掟と』(洋泉社2005)、『近代ヤクザ肯定論ー山口組の90年』(2007、筑摩書房)に特に現れている。部落民の運動を扱った『近代の奈落』において宮崎は、「クリーンな支配、クリーンな運動のほうがいかがわしい。生活の幅を知っている支配、猥雑な運動、のほうがまっとうである」と述べている。なお、宮崎によれば、『近代ヤクザ肯定論ー山口組の90年』は、「『近代の奈落』とまったく連続している」。また、幇的ネットワークにも注目する。文庫版『近代の奈落』の解説は姜尚中と宮台真司で、『法と掟と』は柄谷行人が書評する。橋下徹の血脈が話題になった際、月刊『WILL』(2012年1月号)に、宮崎学、「橋下徹前大阪府知事の出自を暴く異常」と題して、一文を寄せた。宮崎によれば「たしかに、不祥事があれば叩けばよい。しかし、出自と不祥事は全く別の問題である。それは、出自に関する問題は、相手に抗弁権が一切ないからである」という。学生時代からの友人に、朝倉喬司、大谷昭宏、呉智英がいる。また西原理恵子の作品にも登場する。 |
著書
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共編著
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2022.5.28日、1970年代を中心に世界中でさまざまなテロ事件を起こした過激派グループ「日本赤軍」の重信房子・元最高幹部(76)が、懲役20年の刑を終えて出所した。収容されていた施設の近くの公園で報道陣の取材に応じ、「多くの人たちにご迷惑をおかけしたことをおわびします」と謝罪の言葉を述べた。「再出発にあたって」と心境をつづった文書を報道関係者に配布。 重信元幹部は日本赤軍の解散を宣言しているが、現在もメンバー7人が国際指名手配されており、警察当局が今後の動向を注視している。重信元幹部はこの日午前8時前、弁護士らに付き添われ、東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)の正門から車の後部座席に乗って出所。黒の帽子を深くかぶったマスク姿で車から降りると、多くの支援者や報道陣に取り囲まれ、近くでは街宣車が抗議活動するなど一時騒然となった。その後、公園に場所を移して取材に応じ、「50年前の戦いで、人質をとるなど、見ず知らずの無辜(むこ)の人たちに被害を与えたことがあった。おわびします。今後は病気の治療に専念します」などと話した。
記事の後半では、記者宛ての年賀状につづった元最高幹部の胸中を掲載しています。 |
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2023(令和5).1.11日、一水会顧問で著述家の鈴木邦男氏が逝去(享年79歳)。 |
2023.2.15日夜から16日午前、千葉県成田市の成田空港用地内で反対派の男性が耕作する土地の明け渡しを巡り、反対派団体が建てたやぐらや看板などを撤去する強制執行が行われた。空港用地内での強制執行は2017年以来。千葉県警は16日、機動隊員に対する公務執行妨害容疑で、反対派の男ら3人を現行犯逮捕した。県警によると、男3人はいずれも氏名不詳で、1人は「弁解はありません」と話し、残り2人は黙秘しているという。 |
生きている三里塚闘争 52年ぶりの強制収用 横山茂彦
2023年2月18日 付け「デジタル鹿砦社通信」より再録
成田(三里塚・芝山)空港用地の強制収用。成田市天神峰で、機動隊による闘争拠点破壊(強制収用)が行なわれた。支援活動家3人が逮捕され、市東孝雄さんの畑に設置されていた櫓(やぐら)が撤去された。
反対運動にかかる設置物への強制収用は6年ぶり。反対同盟農民の田畑にかかる土地収用は、大木(小泉)よねさん宅(71年9月)いらいじつに52年ぶり。今回は看板と櫓の撤去だったが、いずれは畑そのもの、市東さんの自宅が強制収用の対象となる可能性が高い。土地そのものが借地であるとはいえ、営農している農家の土地を奪う。裁判における成田空港会社の主張は農地法を論拠にしている。が、農地法自体が農民の土地保護を目的とした立法趣旨であることから、空港会社側の不法行為が指摘されている。
三里塚空港(成田空港)は高度成長期に計画され、1978年5月に滑走路一本で「開港」した。その後、90年代に政府と反対派の「話し合い」が行なわれ、強制的な土地収用や強硬手段は採らない、と円卓会議で「和解」した経緯がある。その意味では、法的にも道義的にも成田空港は違約したというべきであろう。そもそも土地明け渡しの訴訟(裁判による強制手段)を訴えたこと自体、約束違反ということになる。和解に至るまえに、大地共有化運動(反対同盟農民の土地を、支援者で分割名義にして共有する)をめぐって、三里塚芝山連合空港反対同盟は分裂している(83年3月)。この事情は当時、革マル派との党派戦争を行なっていた中核派が、大地共有化運動に参加できない(住所を公開することになる)ことで、猛烈に反対した経緯がある。この分裂をめぐって、中核派が第4インターの活動家を襲撃する(のちに足の切断を余儀なくされた人もいる)ことで、反対運動に大きな禍根を残した。中核派から分裂した関西派(革共同再建協議会)は、この件を自己批判している。しかるに、分裂した反対同盟熱田派(現柳川代表派)が結んだ「空港建設に強制的な手段は用いない」という和解協議を論拠に、強制収用の違法性を批判することになったのだ。現在、移転に応じた近隣農家(元反対同盟)もふくめて、空港の騒音訴訟という条件闘争、用地内の反対同盟(旧北原派)、木の根ペンション(プール)、三里塚物産など、様々な立場から反対運動が継続されている。その意味では、日本住民運動の管制高地といわれた三里塚闘争は、まだ北総台地で生きているのだ。
▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。
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2023.5.11日、警視庁と千葉、神奈川両県警の合同捜査本部が、2月の成田空港用地明け渡しを巡る強制執行の際、警察官を引き倒そうとしたなどとして公務執行妨害などの疑いで中核派幹部ら6名を逮捕した。 同庁公安部によると、逮捕されたのは、幹部の石田真弓(36)(東京都江戸川区松江)、同派活動家の仁田水晴輝(24)(埼玉県狭山市入間川)両容疑者ら。合同捜査本部は同日、中核派の拠点「前進社」(江戸川区)など8カ所を家宅捜索した。石田容疑者の逮捕容疑は2月16日未明、千葉県成田市天神峰で、強制執行の警備に当たっていた千葉県警の機動隊員を引き倒そうとした疑い。仁田水容疑者は、別の隊員が持っていた警備に関する書類を盗んだ疑い。中核派は、広島市で19日から開催される先進7カ国首脳会議(G7サミット)に向け、機関紙で「サミット粉砕」と主張しており、警察当局が警戒を強めている。 |
2023.5.29日、警視庁が、機関紙で「サミット粉砕」などと主張していた中核派の5.18G7広島サミットに反対デモの際、過激派「中核派」の中核派全学連幹部の男が警備にあたっていた警察官を蹴ったとして広島県警に公務執行妨害で逮捕された事件を受け、都内にある中核派の活動拠点「前進社」を家宅捜索した。 |
(私論.私見)