共産同赤軍派考

 (最新見直し2009.6.15日)

 第二次ブントは、1969年の「4.28縄闘争」の総括をめぐって、前段階武装蜂起を唱える最過激派と、それを時期尚早として反対する主流派が深刻な組織内対立を起こす。

 7.6日、第二次ブントが、第7回大会、第8回大会、1968.10・21防衛庁闘争、1969.4.28闘争以来の党内対立を調整する為、7・6中央委員会開催を召集した。塩見孝也率いる赤軍派フラクション150〜200名が、東京医科歯科大学で総決起集会を行った。政治局らは明大和泉校舎、中大グループは中大駿河台校舎に武装終結した。その後、赤軍派はブント中央委員会会議が開かれる予定だった明大和泉校舎へ行き、党中央の仏派と赤軍派が対峙し、赤軍派が「ファシズム到来前の前段階武装蜂起=臨時革命政府樹立を目指すべきだ。指導力をなくした仏派に代わって中央を担う用意がある。今の指導部では70年安保を戦えないから、党の革命を断行する」ことを宣言し、武闘が開始された。赤軍派が制圧し、ブント議長・仏(さらぎ)徳二氏を拉致監禁、暴行に及んだ。機動隊が包囲し始め、赤軍派が撤退し始めた時に機動隊が乱入し、仏議長が逮捕された。

 赤軍派の指導者・塩見と田宮が拠点としていた医科歯科大に引き上げたところへ叛旗派系中大全共闘が襲撃し、激闘の後、塩見、田宮、望月、物江等が捕捉され、中大学館に連れ込まれ度重なるリンチを受けた。2週間後の脱出過程で望月が転落死するという事件を発生させた。

 塩見はこの間、他の同志と共に赤軍派フラックとして、仏氏リンチと氏を逮捕に追いやったことについて厳正に自己批判し、ブントに処分を仰ぐ旨声明した。「軍事の自然発生性に帰しないは7・6事件以来の戒律であった」とある。この事件が「ブント大分派闘争」の始まりとなり、赤軍派が分離独立していくことになる。

 1969.8.28日、塩見派30名が共産主義者同盟・赤軍派(議長・塩見孝也)の結成を宣言して分派する。9月に発せられた赤軍派の結成宣言は次のように述べている。

 「ブルジョアジー諸君! 君達にベトナムの仲間を好き勝手に殺す権利があるのなら、我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある。君達にブラック・パンサーの同志を殺害しゲットーを戦車で押しつぶす権利があるのなら、我々にも、ニクソン、佐藤、キッシンジャー、ドゴールを殺し、ペンタゴン、防衛庁、警察庁、君達の家々を爆弾で爆破する権利がある。君達に、沖縄の同志を銃剣で突き刺す権利があるのなら、我々にも君達を銃剣で突き刺す権利がある」。

 赤軍派の指導者であった塩見孝也氏は、当時様々な思想潮流が同居する第二次ブントの中で全国区の人気を誇っていた。 組織内で「日本のレーニン」と呼ばれ、その理論は「一向一揆論」と名づけられて高い評価を受けていた(塩見氏のペンネームは「一向健」)。

 9.4日、赤軍派の政治集会が開かれ、300名程度を動員、自衛武装から攻撃的武装への開始を宣言(「世界革命戦争宣言」)した。武器奪取、街頭遊撃線戦の開始を開始する「大阪=東京戦争」を指針させ、前段階武装蜂起を宣言した。


 翌9.5日、日々谷野外音楽堂で開かれ全国全共闘連合結成大会(議長・山本義隆、副議長・秋田明大)に公然と登場し、烏合の社学同を蹴散らした。

 赤軍派は、1969.11月の佐藤(栄作)首相訪米阻止闘争に照準を合わせて武装蜂起の準備に入る。その内容は、日本刀や猟銃で武装した50〜100人の部隊が、ダンプカーに分乗して首相官邸に突入、占拠するというものであった。当然、首都東京の主要拠点では、他の過激派(中核派やML派)が鉄パイプや火炎瓶を用いた従来型の武装闘争を繰り広げている、というのがその前提だった。

 ところが、11.5日、首相官邸を襲撃するための軍事訓練を行うため大菩薩峠に結集していた主力部隊が公安警察に摘発され、政治局員数人を含む53名が逮捕される。これにより、決起戦闘部隊が壊滅させられた。大菩薩峠に公安警察を導いたのは、赤軍派内のスパイだった。これが、いわゆる「大菩薩峠事件」である。この敗北の中で「国際根拠地論」が出てくる。

 11.12日、大菩薩峠において赤軍派が大打撃を受けた1週間後、塩見議長は赤軍国際部長の小俣昌道(京都大学全共闘議長)を、ひそかに国外の過激派との連携をつくるために羽田から出発させた。当時、アメリカでは、ウエザーマンとかブラック・パンサーといった新左翼系の超過激派が、銃や爆弾を使ってテロ路線を突っ走っていた。このようなアメリカの超過激派と国際的な連携を保ち、「あすの地球をまわす世界赤軍」を構築しようというのが塩見議長の夢であった。

 1970.1月はじめ、赤軍派は新しい軍事蜂起をめざし、東京の赤坂東急ホテルで「中央委員会」を開いた。ここに重信房子を含む14人の赤軍派幹部が集まり、田宮が「フェニックス計画」(=よど号事件)と名付けた海外脱出計画を明らかにした。

 1.16日、東京で東京集会開催。元東京都学連書紀長・前田祐一(中央大学)の率いる「長征軍」が北海道、東北、北陸、九州をまわって徴兵してきた若者を集めて、神田駿河台の全電通労働会館ホールで開いた武装決起集会で560名参加。この集会では「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」の方針が提起され、ここで赤軍派は「世界赤軍」の名の下に、海外に救いをもとめる動きを見せ始めた。 2.7日、大阪で1500名を集めて蜂起集会を開いた。

 1969.12月から1970.1月にかけて、国際根拠地論なるものを打ち出す。これは、「労働者国家(北朝鮮やベトナム、キューバなど)」に武装根拠地を建設して世界革命の根拠地にし、後進国における革命戦争と日米の革命戦争を結合して単一の世界革命戦争を展開する、という内容だった。今考えれば戯画であるが、当時のニューマに於いてはそれなりに説得力があった。赤軍派はいくつかの作戦を計画したが、それらの殆どが失敗した。しかし、海外脱出の「フェニックス計画」をあきらめず、赤軍派幹部を含む13名を「ハイジャック班」として決行することになった。

 3月、赤軍派議長の塩見高也と前田祐一の2名が逮捕され、続いて、No.2の高原浩之氏も逮捕される。ここにおいて、赤軍派は、指揮命令系統の中枢と、実力部隊の大半を失い、実質的に壊滅した。

 1970.3月、この国際根拠地論に基づき、田宮高麿(赤軍派軍事委員長)に率いられた部隊が、日航機よど号を乗っ取り、北朝鮮に向かった。が、この国際根拠地論はすぐに挫折する。肝腎の北朝鮮が労働者国家でも革命国家でもなく、金王朝の支配する独裁国家であり、その金王朝下での学習により赤軍派理論の軽挙妄動性が指摘され首肯する事はあっても、国際根拠地論を攻勢的にぶち上げる素地が無かったからである。

 最高指導者が逮捕され、主だった幹部も逮捕や北朝鮮行きで不在になる。そのような絶望的な状況下で、残された部分の一部が1971年、パレスチナに渡った。重信被告や奥平剛士、安田安之、岡本公三などである。彼らは、当地で日本赤軍を結成した(正式に日本赤軍を名乗るのは1974年)。そして、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の庇護を受け、軍事訓練に励む。

 主要幹部が逮捕されるか、北朝鮮やパレスチナに渡ってしまった中、取り残された赤軍派の軍事組織である中央軍の残党が、京浜安保共闘(日本共産党革命左派神奈川県委員会・毛沢東派)の軍事組織である人民革命軍と合体した。これが、いわゆる連合赤軍である。委員長は森恒夫(赤軍派)、副委員長は永田洋子(京浜安保共闘)、書記長は坂口弘(京浜安保共闘)。

 1972.2月、この連合赤軍が「あさま山荘事件」を起こし、警官隊との間で壮絶な銃撃戦を展開した。投降した連合赤軍は、「あさま山荘事件」勃発前に「山岳ベース事件」と呼ばれる同志リンチ致死事件を引き起こしていた事が発覚した。12名が殺害され死体を雪の中に遺棄されていた。

 1972.5.30日、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3名は、イスラエル・ロッド空港の到着ロビーで自動小銃を乱射。イスラエル警察と銃撃戦を展開する。結果、旅行客ら26人が死亡、70数人が重軽傷を負った。奥平、安田の両名は死亡(自決)、岡本は死に損ない捕囚となる。

 3人は、事件を決行するに際し、「パレスチナの大儀のために命をささげ、死んだらオリオンの三ツ星になろう」と誓い合ったという。そして自決する。いかにも日本人的な玉砕テロリズムであった(この3人は、今でもアラブ民衆の間では、英雄以上の特別な存在になっている)。

 パレスチナに根拠地を持った『日本赤軍』は、その後、数々のハイジャック事件を起こし、アラブでその存在を認知される。が、国際的にはテロ組織とみなされるようになった。1990年代以降は、幹部が相次いで逮捕され、また、パレスチナ内部でも左派で、日本赤軍の庇護者だったPFLPが勢力を失い、イスラム原理主義のハマスが勢力を大幅に伸張させるという状況変化があった。重信被告は日本に帰国。2000.11月に公安警察に逮捕される。重信被告は、2001年4月、獄中から日本赤軍の解散宣言を行なった。


 No133  「週刊読売臨時増刊号」各党派インタビュー  赤軍派編」情報を転載しておく。赤軍派の建党論がよく分かる貴重情報である。

 1969.11.13日日号の「週刊読売」臨時増刊号。各党派代表者へのインタビュー記事が掲載されており、大菩薩峠の軍事訓練で逮捕される直前の赤軍派の野勝輝氏(京都大学医学部)が次のように語っている。(前回のブログで、赤軍派の故田中義三氏が痛烈に批判しているU氏とは彼のことか?、とある)

 <赤軍派とはどういう組織なのか>

 マスコミは、われわれが社学同を割って出たとか、社学同統一派ないし関東派に対して社学同赤軍派と呼んでいるがこうした区別のしかたがまるでデタラメであることを、まず指摘しておきたい。正しくは「共産主義者同盟(ブント)赤軍派」と呼ぶべきである。社学同は事実上消滅しちゃっているのだ。つまり、社学同とは、いわば産業別の組織であって、大学というブルジョア経営体に所属する一産業的レベルの人間を集めたものにすぎず、こんなショボい組織では、革命は導けない。(中略)いまひとつ、赤軍派が全く新しい組織として生まれたものなのかという誤解に対していえば、60年安保闘争の中心となったブント、これがその直後に分裂、いま中核にいっている北小路敏などもその1人だが、黒田寛一にイカれたグループが、どんどん革共同に流れていったなかで、関西ブントというのがずっと残って、60年以降の日本の新左翼運動を統一していったという歴史があり、いまの赤軍派がそういった部分によってになわれているということだ。(中略)

 <帝国主義について、他のセクトの対応のしかた、また赤軍派の路線は>

 (中略)現実の帝国主義の流れへの無自覚が、他党派共通の姿勢である。過去の獲得物に、バリケードに、古い戦闘形態に固執する。これに対して、われわれ赤軍派は、前段階武装蜂起と、世界革命戦争、そして、その勝利という路線を打ち立てた。戦場を大学に限る必要はない。すべてを戦場として、あらゆる戦闘を闘い得る軍の建設だ。これこそが、現代帝国主義に対し、これを打ち破り得る唯一の正しい闘いであり、いま、方針を見失い、分解している全世界のプロレタリア人民を、もう一度統合し、新しく高めていく、そういうものだと考えているが、これが、今秋、決定的なものとして問われているのだ。

 <それが“大阪戦争から東京戦争へ”のアピールか>

 そうだ。世界的には、日米の武装蜂起=シカゴー東京戦争。アメリカでは、左翼が提起する「ブリング・ザ・ウオー・ホーム」(祖国に戦争を)というスローガンね。要するに、アメリカ人民が初めて反戦闘争から革命戦争を宣言するものであり、日本では、われわれが武装して立ち上がる。(中略)

 <今秋の闘争ではどうか>

 むろん、いろいろ考えてはいるが、いまここで、武器を一挙にエスカレートしようとしても、彼我の攻防関係=階級闘争の自然的な発展を越えるようなことは、実際にはできないわけだ。(中略)日本では、ずっと武器イコール悪という俗物的人道主義によって教育されてきたが、それを、われわれはいま打ち破りつつあるといえる。(中略)

 <いま赤軍派の組織、動員力はどのくらいあるのか>

 そういうのはあんまり・・・。意味ないというより、それはいまいわないってことだ。ただ赤軍派が微々たる存在であっても、一党派でも世界党だ。何も日本の運動だけじゃねえと。アメリカの運動にも、ヨーロッパの運動にもかかわり合って、全世界を指導する。そういう存在としてわれわれはある。たとえば、ベトナムの民族解放戦線も、最初の軍隊建設は10人くらいから始まったと思う。ロシア革命のSL戦闘団でも14人の軍隊からスタートしているし、ブラック・パンサーの場合なんかは、たったのふたり。その意味では、革命戦争の発火点として、現代過渡期世界の性格をはっきり見抜け、それを戦い抜けるという主体さえできていれば、それはもう、われわれ、組織がなんぼ小さかろうが、軍事がショボかろうが、あんまり気にしない。(中略)

 <全国全共闘連合との統一戦線などは考えていないのか>

 あれは、分解の対象である。とまれ、わが赤軍は、全世界の分派闘争を普遍的につらぬく質を持っているのだから、ほかのあらゆる党派を根底から分解させ、われわれと同質の問題意識に接近させていくということだ。現段階では、八派連合とまったく敵対するわけでもないが、向こうは分解される対象であり、こちらは彼らを再編する主体という関係である以上、彼らが保守的になれば、どうしても内ゲバ、敵対ということになる(後略)。




(私論.私見)