8章 | 5期その2 | 1959 | 新左翼系全学連の発展 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1959(昭和34)年の学生運動史論を概略する。これを「5期その2、新左翼系全学連の発展」と命名する。「詳論」、「概論」、「物語り」に別途記す。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。 |
【この時期の全体としての政治運動】 |
【キューバ革命】 |
1959(昭和34).1.1日、キューバ革命が勝利した。フィデロ・カストロ達が2年余りの武力闘争の末、新米派バティスタ政権を打倒、革命政府を樹立した。これが、戦後から続く社会主義革命の最後となる。 |
【三井三池炭鉱闘争始まる】 |
1月、日本最大の炭鉱であった福岡の三井三池炭鉱の三井鉱山当局が、労働組合に対し、6千名に及ぶ希望退職をもとめた第一次合理化案を発表し、戦後最大で最後の労働争議がおこった。数年前から「エネルギー革命」により、中小の炭鉱が閉鎖され始めていた。 |
【「安保条約改定阻止国民会議」結成】 | |
3.28日、総評、社会党、中立労連、全日農、原水協、平和委、基地連、日中国交回復、日中友好、青年学生共闘会議など13団体が中央幹事団体となり、先の「警職法改悪反対国民会議」(以下、「国民会議」と略称する)を受け継いで「安保条約改定阻止国民会議」を結成した。全労、新産別は参加せず、共産党はオブザーバーとしての参加が認められ、幹事団体会議における発言を獲得した。同時に「安保改定阻止青年学生共闘会議」が結成され、社会党青年部、総評青対部、全日農青年部、民青、全学連(ブンド指導の)によって構成され、この青学共闘会議が安保国民会議に加盟した。以降、「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになる。
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【日共系の理論雑誌「現代の理論」創刊】 |
4月、日共系の理論雑誌 「現代の理論」が大月書店から創刊されている。草案反対を表面的には主張せず、党内外のマルクス主義や非マルクス主義的進歩思想との交流によって、マルクス主義の創造的発展を図ることを編集方針にしていた。 第1号は59.4月に、佐藤昇「社会主義権力の矛盾」を巻頭論文に据え、日高六郎「マルクス主義者への二、三の提案」、不破哲三「日本の憲法と革命」、田口富久治「ネオ・ファシズム」、今井則義「国家独占資本主義論における二つの潮流」で仕上げた。第2号は、「現代帝国主義」を表題として、杉田正夫、上田耕一郎、富塚文太郎、遠藤湘吉、井汲卓一、古在由重、増島宏が執筆し、代久二がトリアッティの「アントニオ・グラムシ」を訳出した。第3号は「現代のインテリゲンチャ論」を表題として編集を進めつつあった。 |
【不破が「マルクス主義と現代イデオロギー」論文でトロツキズム批判】 | |
5月頃、不破哲三は、前衛6月号紙上で「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表し、「現代トロツキズム」批判を繰り広げている。「山口一理論文」、「姫岡怜治論文」を槍玉に挙げ、総論的な批判を加えている。
今日これを読み直すとき、とても正視できない無内容な饒舌であることが判明する。まさに、当時の急進主義者の動きに水を浴びせ砂をかけることのみが目的であったことが分かる。次のように結んで本音を露にしている。 |
【宮顕派と春日(庄)派の対立表面化】 |
6.29日、日共「第6中総」が開かれ、第7回党大会以後の中央委員会の中で、最も激しい論戦が交わされた。先に行われた4月の地方選挙、5月の参議院選挙の総括と安保をめぐる当面の闘争方針が課題となった。参議院選挙の総括に関して、党中央主流派は是認し、春日中央統制監査委員会議長をはじめ中央少数派は失敗とみなして対立した。 |
【理論雑誌「現代の理論」の廃刊させられる】 | |
「6中総決議」で、理論雑誌「現代の理論」の廃刊を決定した。党中央主流は次のように論断して規律違反として摘発するところとなった。
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【労学5千名の国会構内乱入事件発生】 |
11. 27日、第8次統一行動。31都府県の全国700の共闘組織に結集する350万の大衆が立ち上がり、合化労連.炭労の24時間ストを中心に全国で数百万の大衆が行動に立ち上がった。東京には8万名が結集した。「警官隊が出動、国会に近づく各道路にバリケードがき築かれたが、労組員・学生達はこれを突破して進み、国会正門から首相官邸にいたる道路を埋め尽くした。こうして、労学5千名による「国会乱入事件」が発生した。これについては、学生運動の稿に記す。 |
【最高裁が、「高度な政治判断案件の司法判断回避見解」打ち出す】 | |
12.16日、最高裁が、「在日米軍の存在が憲法違反かどうか」を問うた砂川事件に関連しての伊達判決の破棄を言い渡した。アメリカの軍事基地に反対し、その闘争に参加する者を犯罪者とみなすという政治的裁判であった。砂川事件は、「一体、条約と憲法ではどちらが優先されるのか」という論争の格好のテーマとなっていたが、既に「違憲である」とする伊達判決が出されていたのに対し、最高裁は次のような「高度な政治判断であり司法判決には馴染まない」法理論で処理した。以降、これが定式化される。
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【総評と日共が、岸首相の安保条約調印阻止闘争の阻止で共闘】 |
12.25日、岸首相の日米安保条約の調印訪米に対しどう対応すべきか、安保国民会議全国代表者会議が開催され、地評代表のいくつかは「調印阻止闘争なしに安保闘争はありえない。ゼネストを基礎に羽田実力阻止」を主張したが、総評と日共が強硬に反対した。結局、12.26日、「羽田動員中止」方針が幹事会で決められた。この時、太田総評議長は、「宮顕だけには話がついている」と語っている。 |
【この時期の学生運動の流れ】 |
【全学連が意見書「日本共産党の危機と学生運動」を発表】 | |
1959(昭和34).1.1日、全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」(責任者 香山健一)が発表されている。香山健一全学連委員長が責任者として作成されたが、全学連中央の統一見解としては採択されなかった。次のように主張していた。
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【全学連内のブントと革共同の対立】 |
2月、岸内閣は安保改定に公然と乗り出した。この時革共同派が執行部を握った全学連は、「合理化粉砕の春闘を如何に闘うべきか、これこそまさに革命の当面の中心課題である」とし、「労働運動理論」を長々と述べる理論活動に傾斜しつつあった。ブント派はこれを思弁主義として退け、安保闘争を一直線の政治課題として捉える運動を指針させていった。 |
【全学連第14回大会でブントが主導権を奪い返す】 | |
6.5-8日、約1千名が参加し全学連第14回大会が開かれた。この大会は、ブント、民青同、革共同の三つどもえの激しい争いとなり、ブントが先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の過半数を獲得し、主導権を再び奪い返して決着した。 唐牛健太郎(北大)が委員長として選出され、書記長・清水丈夫、加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦(東大)、奥田正一(早大)が新執行部となった。中執委員数内訳は、ブント17、革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。 こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で60年安保闘争に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。 なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として、星宮煥生氏が「戦後史の証言ブント」で次のように証言している。
この星宮提言により、島氏が北海道まで説得に行ったと云われている。 |
【ブントの感性考】 | |
6月頃、ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と云われる論文を機関紙「共産主義3号」に発表している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。 この当時のブントは約1800名で、学生が8割を占めていたと云われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。この時の島氏の心境が「戦後史の証言ブント」の中で次のように語られている。
これについて筆者はかく思う。以上のような島氏の発想には、かなりアナーキー且つカオス的情緒があることが知れる。この「アナーキー且つカオス的情緒」は存外大事なものなのではなかろうか。この対極にあるのはロゴス的整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)ということになろうが、この両者は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらを二者択一するかせざるをえないことになり、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。 |
【「黒寛・大川スパイ事件」】 | |
この頃、革共同の代表的指導者・黒寛に纏わる重大背信事件「黒寛・大川スパイ事件」が発生している。黒寛の及ぼした学生運動への影響の大きさに鑑み、これを採り上げておく。「黒寛・大川スパイ事件」とは、時期は特定し無いが58年から59年頃のことと思われるが、流布されている話は次のようなものである。
これについて筆者はかく思う。非常に矮小化された話にされているがオカシイ。見てきた通りこの時点に於ける黒寛は、革共同第1次分裂で太田龍派を一掃後の最高指導者である。その指導者の公安との繫がりが見えているので有り由々しきことであろう。漏洩されているのは「民青情報の公安売り」であるが、果たして民青情報だけであったのだろうか。この事件は黒寛の正体が露見した事件であり、筆者は、左派運動内に回状が送付されるべきであったと考える。が、当時の革共同は仲間内で処理している。果たして適正対応だったであろうか、不審は消えない。これについての詳論は「黒寛・大川スパイ事件」に記す。 |
【革共同第二次分裂】 |
8.26日、革共同内に第二次分裂が発生している。革共同創立メンバーの一人西京司氏率いる関西派が、「黒寛・大川スパイ事件」を取引材料にしながら中央書記局を制し、革共同の主導権を獲得するべく画策したというのが真相であろう。西派はこの頃「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとしていた。この過程で黒寛の影響下にある探求派が対立し、関西派が政治局員・黒寛を解任した。黒寛は、本多延嘉氏らと共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り関西派と分離する。これがいわゆる「革共同第二次分裂」である。日本トロツキズム運動史上は、革共同全国委創設顛末は第三次分裂となる。これについての詳論は「革共同の第二次分裂考」に記す。 |
【「全学連の国会乱入事件」】 |
11.27日、安保改定阻止国民会議の第8次統一行動の国会デモで、全学連を主体とする労学5千名による「国会乱入事件」が発生している。全学連は、都教組などの労働者と共に、正門前を固める警官隊の警備を突き破って初めて国会構内に突入し、抗議集会を続行した。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。社共、総評幹部は、宣伝カーから解散を呼び掛けるが約三万余の群衆は動かない。約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。 政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。清水書記長、糠谷、加藤副委員長らに逮捕状が出された。日共は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。以降連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。 |
【民青同の「全学連の国会乱入事件」批判】 | |
この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同の指導者・川上徹・氏は著書「学生運動」の中で次のように批判している。
これについて筆者はかく思う。しかしこれは、おかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する「為にする批判」であるということと。一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交叉して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜く姿勢はフェアではない。 後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。60年安保闘争後ブントは解体の憂き目に遭う。これにより、ブント的国会乱入運動が二度と組織されることが無くなった。川上氏は、ならばどう闘いを組織し、どこに向かえば良かったか示さねばなるまい。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。 実際、上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ70年安保闘争を闘うことになったが、この時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は彼自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。してみれば、「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となると思う。 |