60年安保闘争前後余話、樺美智子死因考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.11.18日

 これより前は、「第5期その2、新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 59年から60年に初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。しかし事実は、新安保条約は、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背する不当なものであった。1960年、安保改定の年を迎えた。日米安保条約の改定を許すのか許さないのかを廻って政局がいよいよ流動化し始める。


【60年安保闘争前後余話】
 2010年8月記、元毎日新聞記者・加藤順一(1938年生まれ) 「頬白き若者たちの戦い もう一つの60年安保」。
 ◆騒然としたキャンパス

 振り返ってみれば人生は偶然の積み重ねのようなものだ。「安保闘争」という日本の政治と社会を揺さぶった現象を、60年安保では学生として、また70年安保では新聞記者として最前列の「かぶりつき」で見てきた。今の草食系若者には想像もできない「学生運動」と、それに恐れもなく勇敢に参加してきた若者たち。「暴力」と「権力」の具体的な「姿」を体験した。ある時、忽然として後ろに居るはずの大衆が消え去り、「7社共同宣言」というマスメディアの裏切りを突き付けられて、多くの若者達に「心」の痛みだけを残す結果で終わった。 

 1958年に早稲田大学に入学した。キャンパスはもはや騒然としていた。全学連は分裂して第1次ブント(共産主義者同盟)がこの年に結成され、全学連の主導権はブントが握り学内でデモを繰り返していた。「スト決行、国会へ!」という看板がところかまわずに立てかけてあり、ブントと共産党系の民青系学生があちこちで衝突していた。「何かを選ばなければならない」という焦りが若者達にあった。緊張した学内の空気は「ノンポリ」も含めて、多くの学生たちが肌で感じていた60年安保闘争へ熱っぽい序章だった。
 
 ある日、授業が終わった時に小柄な学生が教壇に飛び出し「君たちは今の大学をどう思っているのか。もはや高校生ではない。ブントの思うままにして良いのか。雄弁会は闘う」と演説をし始めた。「何を闘うのか」-言っていることはさっぱり分からなかったが、教室に飛び込んできたこの学生は、結局、民青系の学生にこづきまわされ「右翼は出て行け」と怒鳴られていた。しかし彼は少しも引きさがらない。

  私たちの英語のクラスは民青が牛耳っていた。大学内で暴れまわるブントには、その勇敢さに好感がもてた。これまでに見たこともない勇敢さだった。その騒ぎの渦に巻き込まれたが、結局その学生をかばって、文字通り暴力で民青系の学生達に教室から叩き出された。私はそれでも「闘う」と言う彼と、そのバックにある雄弁会に興味を持った。

 追い出されるその学生と一緒に近くの喫茶店で話した。尾崎士郎の「人生劇場」の舞台となった雄弁会に興味を示して、結局二人で雄弁会の部室に行った。雄弁会は安保闘争にはほとんど動きを見せていなかった。と言うよりも「大衆行動」に参加せずに一つ先に行った政治活動をしていた。直接政党に参加している「おませ」な学生たちの不思議な集団だった。主流は自民党青年部で、社会党員、民社党員などがたむろしていた。
         
 ◆「君、共産主義は嫌いか」

 薄汚れたジャケットを羽織ったいかにも左翼と見える髯の濃い学生が「君、共産主義をどう思うのか」という実に大雑把な質問をしてきた。つい昨日まで高校生だった私は「資本論」などは読んでいないし、マルクスもレーニンはるかかなたの存在だった。「共産党は嫌いです」と言うと「よろしい」と、その日のうちに入会を許された。後から考えると2年先輩には後に総理となる森喜朗氏がいて雄弁会の幹事長を狙っていた。同期生には小渕恵三氏(後に総理)、1年上には玉沢徳一郎氏(後に防衛庁長官)がいた。私の入会を許可した左翼男は「建設者同盟」を名乗りはしたが同盟員は3、4人しかいなかった。「建設者同盟」は戦前に浅沼稲次郎氏らが結成した革新団体だった。大学では有名な「軍研事件」で、大学にいた配属将校の訓示に「勲章から血が流れているぞ」と野次り最後まで軍人と闘ったグループの名残だった。

  まもなく新人の歓迎会があった。「東洋会」というOB会が我々を迎えてくれた。昨日まで生白い政治論争を半ば楽しんでいた我々の前に、松村謙三氏が悠然と現れ、浅沼稲次郎氏、高津正道氏、戸叶武氏、堤康二郎氏などが並んだ。海部俊樹氏などはまだ新人議員で隅の方にいて目立たなかった。 「これは大変なところに来た」という思いがした。もはや安保闘争で「岸を倒せ」などと叫びながら学内を騒ぎまわる学生がうるさく感じていたころでもあった。松村謙三氏は高齢ではあったが「自由にやれ。自由を失ってはならない」と訥々と語った。

 ◆「沖縄」こそ安保の原点

 私にとって60年安保闘争は「沖縄奪還闘争」にダブってくる。当時、革新勢力は「沖縄」にはほとんど目を向けてはいなかった。もちろん沖縄は米軍の占領下で「琉球列島米国民政府」があり、その権力は米軍の「高等弁務官」が押さえていた。雄弁会はこの沖縄に目を向けた。ともかくも沖縄に行こうという機運がたちまちまきおこり、当時沖縄で起こっていた「島ぐるみ闘争」をこの目で見たい衝動が皆にあった。

 ベトナム戦争の初期の段階で米軍は沖縄でそのための基地を拡大していた。本土と隔絶された政治状況の中で島民は「日の丸」を掲げて米兵の銃剣の、前に立っていた。58年春。我々は「雄弁会遊説」と称して、沖縄にわたった。国内は安保闘争のヤマ場を迎えていたが、「新安保条約」は究極のところ極東の軍事バランスを沖縄を中心に保ち、冷戦構造の中で日米の強固な同盟を維持しようとしていたのだった。

 今から振り返れば「新安条約」の核心はやはり沖縄の米軍だったのだ。安保闘争の原点は沖縄だという流れがいつの間にか、我々の中に出来ていた。沖縄では「日の丸」を掲げた基地拡張阻止運動が展開されていて、社会党の高津正道氏はこの動きに賛同して「沖縄で本当の愛国心を見てこい」と言い、現地でそれを見た私たちは、基地反対運動の先頭に立った「日の丸」に心を動かされていた。沖縄への渡航は米軍の許可が必要だった。特殊なパスポートを米軍から受けて、鹿児島から船で渡った。鹿児島の宿舎で南日本新聞のインタビューを受けた。当然のことながら「返還を求める」と熱っぽく語った。それが翌日の新聞に掲載された。

  船が沖縄に近づいたころ大学本部から大浜信泉総長の名前で長い電報が入った。大浜総長は沖縄出身で我々の沖縄遊説を陰で応援してくれていた。電報は「諸君の言動に米軍が注目している。沖縄稲門会の先輩の指導に従え」と言う緊張したものだった。那覇港に着くと稲門会の先輩達が校旗と日の丸を持って迎えに来てくれていた。翌日、先輩に連れられて米軍の高等弁務官に挨拶に行った。星条旗が翻る白いビルが印象的であった。そのまま米兵に連れられて行ったのが那覇市内から少し外れた将校クラブだった。盛大な歓迎を米軍に受け、彼らのスケジュールを渡されてしまった。嘉手納基地、コザ(現在の沖縄市)などを見学し極めて親切なもてなしだったが、嘉手納基地内では「MP」に囲まれカメラからフイルムを抜き取られた。

 ◆「民族派学生」と言われて

 この沖縄遊説は先輩たちの募金で賄った。それと同時に外務省の外郭団体である「南方同胞援護会」からは幾ばくかの金が渡された。金には困らなかった。どちらかと言えば60年安保闘争の中で「安保賛成」ではないが、全学連という「大衆運動」にすべてを任せてしまう運動には批判的であった。雄弁会は伝統的には既存の政治団体には属さない者たちの集まりだったが、キャンパスの緊迫化に押されそれぞれ既成政党に繋がりを持とうとしていた。共産党系だけはいなかったような記憶がある。思想的な評価はともかく、国会突入をめざすブントの学生には「彼らは勇敢だ」」「本当の戦いはブントを見習え」とまで言う者もいた。我々の行く先は全学連のデモではなく、国会の議員会館か、それぞれの支持する政党本部だった。国会を取り巻くデモ隊を国会の中から見ていた。渾然とした雄弁会の動きは結局学内では右派と見なされていた。そうした学生の集まりに、不思議に金が集まった。先をたどって行けば「内閣機密費」が流れ込んでいたのかもしれないが今となっても誰も口をつぐんでいる。何時の時代でも歴史が動く時には何処からともなく資金が集まるものらしい。後に全学連の唐牛健太郎委員長に、右翼の田中清玄氏から金が流れていたと暴露されたがそうした金は命がけの戦いを挑む若者たちに流れ込んでいた。

 沖縄から帰ってくるとそうした世に言う「民族派」的学生にさまざまなところから支援の手が伸びてきた。「健青会」の運動に加わる者もいた。「健青会」は、後に北方領土返還運動に力を発揮する安保推進派の団体だった。指導者は元中野学校出身の末次一郎氏だった。末次氏は戦後日本が片づけなければならない問題に、沖縄と北方領土があるという考えだった。活動資金はやはり内閣機密費だったのではないかと思われる。

 そこから入る資金で我々は新宿御苑の近くに一戸建ての二階家を借りた。「学生自治研究会」と名乗って、密かに民青、ブントの行動を探る活動をし始めた。沖縄の日の丸を掲げた反基地運動を目の前で見てきた我々は、沖縄の復帰後の姿を想像し、琉球大学内に「東京沖縄学生協議会」を結成、全学連の反主流派・民青の浸透を防ぐ運動を始めた。

  我々の活動は決して「安保賛成」の右翼的なものではなかったが、誤解も受けた。例えば「安保体制維持」を主張する学生も当然いた。彼らは、幾つかの大学の体育会系学生を動員して討論も行った。いずれも「健青会」に繋がる「学生自治研究会」がリードする集会だったことが我々をますます「右派」学生集団と決めつけることになってしまった。

 沖縄を取り返すには東アジアに強固な安全保障体制を構築しなければならないという我々のようなグループは「反安保闘争」のなかでは安保賛成派の「民族派」と決めつけられて無視されていった。「日本の真の独立と日米同盟の強化」が「新安保反対闘争」と矛盾するものではないことを常に言い続けてが、そのたびに、あの勇敢なブントにまさに暴力的に叩き出された。民青は我々が教室に入ることを許さなかった。それも「暴力的」にだった。

 ブントを中心にした安保闘争の激しさは「議論」さえ封じ込める激しさだった。後に「日学同」と言う右派行動的なグループも出現し、特に早大では民青と衝突した。早大2号館封鎖騒動では、バリケードを作って学生を入れない民青を排除するために我々は決死隊を組織、戸塚公園に角材を持って30名ほどが集結したこともあった。緊張で身体が震えたことを覚えている。結局、途中の文学部前で民青派と大乱闘を繰り広げ粉砕された。この「日学同」の流れが後に三島由紀夫の「楯の会」の主流になって行った。

 もう一つの流れは「亜細亜友の会」という一見政治色のない「友好団体」のようなグループが近かずいてきた。指導者は大山量士氏。実はこの大山氏は仮名で本名は佐々木武雄と言い、終戦の8月15日に横浜の警備隊を率いて首相官邸を襲撃した予備役大尉だった。玉音放送を阻止するのが目的で、学生隊を指導して、官邸に機関銃を撃ち込み、鈴木首相私邸を襲撃炎上させた過激派だった。その佐々木大尉がなぜ大山と名を変えて60年安保に登場したのかは不思議だったが、彼はベトナム、タイ、カンボジア、ラオス、フィリピン、韓国などの留学生を集めて自動車数台で日本一周をする活動をしていた。何を目指していたのかは判然とはしなかったが、その周囲には右派学生が集まり、かつての「八紘一宇」ではないが「新しいアジア」を唱え、その意味では日米安保の推進派だった。少しでも安保推進派を膨らませようと、その団体に協力して何人かの学生がアジア留学生とともに北海道を一周した。

 誤解を恐れずに言うならば華々しい大衆動員とは別に「もう一つの安保闘争があった」ことも忘れては困ると言いたい。札幌から仙台、山形のルートでは私とあの小渕恵三氏の二人がポンコツ寸前のフォードを交代で運転して留学生たちを案内した思い出もある。当時の世情は「安保賛成」などと言う者は全く軽蔑され学内では歯牙にもかけられない存在だった。推進派の「提灯行列」も試みたが、マスメディアはまるで「笑い話」のような記事しか書かなかった。
            
 ◆「何か起こるぞ」と情報

 あの6月15日。雄弁会の旗を持ち出そうとするブント系の学生を部室に閉じ込め、数人と「偵察」に出かけた。13日に官邸突入の行動があり、何が起きても不思議ではない雰囲気が国会周辺には満ちていた。「今日は何かあるぞ」と言う情報が、実は民青ルートで流れてきていた。我々は覚悟を決めて国会に出かけた。

  永田町から参議院入り口に向かう坂道で「維新行動隊」と言う右翼の一団を見つけた。周辺は学生、市民、労働組合のデモであふれとても全体を把握することはできない状況だった。午後5時ごろ、その「維新行動隊」が角材を振り回して市民のデモに殴りかかっていった。同時に大型トラックが猛スピードで突っ込んできたのだが、警察官は国会の内側にいて何もせずたたずんでいた状況だった。

  右派と言われた私たちは結局何もできずに混乱の中でただ走り回っていただけだった。その「維新行動隊」は指導者は中野区に根拠を置く「護国塾」の一団で、その中には東洋大学生約50人がふくまれていたと後で聞いたが、我々は全く知らない行動だった。その騒ぎとほぼ同じころ右翼突入のあった参議院の反対側で「新しい事態が起きている」と言う情報を聞いた。

 衆議院南通用門からブントが突入するという情報だった。今考えるとブントの学生は実に勇敢だった。手拭いで覆面をした数人が太いロープを持ってきた。門はすでに壊され、警察の車両が数台バリケード代わりに並べてあったが、そのロープを実に手際よく使って「ヨイショ、ヨイショ」とトラックを引きだしてしまった。警察はただ黙って隊列を作っているだけだった。

 南通用門

  小雨が降ってきた記憶がある。突破された南通用門を入ると右側に警察の装甲車が一台藤棚の下で止まっていた。細いのぞき窓から中を覗くと何か動くものが見えた。警察官らしかった。「引きずり出せ」と言う叫びが起きていたが、我々は「警官には恨みはないはずだ」とそうした学生とつかみ合いをした。藤棚の上に登り見渡すと国会正面入り口広場は突入した学生であふれていた。左側の一角にヘルメットをかぶった警官が今にもデモ隊に突進してくるような態勢で構えていた。一瞬静寂があたりを支配した。危険を感じて藤棚をおり、道路を挟んだ反対側の地下鉄入口に向かった瞬間、警官隊がデモ隊に襲いかかった。警棒を振りまわす激しさで学生たちは一瞬のうちに国会内から叩き出された。この時の1回目の衝突で東大女子学生・樺美智子さんが死亡したのだろうと思う。警棒が人の頭を打ちすえる音が「バチ、バチ」と聞こえ、何度も路上にたたきつけられた。

  逃げるほかなかった。どちらに逃げても警官が警棒をかざして突進してきた。正門に戻り内幸町へ警視庁の脇を通り走った。気がついた時には有楽町の日劇の前に居た。何処も警官であふれていた。我々「右派」呼ばれていた学生の「安保闘争」もこの日で終わった。 ブントの崩壊で学内は急速に静かになった。池田内閣の登場、所得倍増政策と高度成長のうねりの中で学生達の運動は力を失っていた。その契機はやはり「七社共同宣言」に象徴されるマスメディアの変節だった。大衆と権力の間にクサビを撃ち込んだのもマスメディアであった。「メディア」の内側に入ろうと決心したのもこのころだったと思う。

 ◆沈静化したキャンパス

  我々の最後の運動は来日したロバート・ケネディ米司法長官に「沖縄返還」の直訴をすることだった。早大で講演するチャンスをとらえて詰問するつもりだった。大隈講堂にロバート・ケネディが現れると我々は素早く壇上に上がり英文の「返還要求」文書を読み上げた。騒然とした中でロバート・ケネディは「あの島では我が国の多くの若者も血を流した」と言って取り合わなかった。会場は混乱の極に達した。左派系の学生たちも壇上に上がった。学生同士の乱闘も起きた。其の時に突然「都の西北」を歌う一団が現れた。会場は「都の西北」であふれ、騒ぎは収まってしまった。衰退をしてきた学生運動の象徴のような出来事だった。

  そのころ私はすでに毎日新聞入社が決まっていた。卒業して配属先は長野県の松本支局だった。静かな町で政治からは全く離れたニュースを追いかけていた。あまりにも平穏な生活に、つい先ごろまでの「安保闘争」が夢のようだった。キューバ危機の時に「戦争が起きる」と支局で騒ぎ支局長から一喝を食らったことしか覚えていない。やがて、東京に帰り、一番いやだった警察担当、それも選りによって「警備・公安」担当になって、しばらくして再び「70年安保闘争」の渦に巻き込まれたのは何かの因縁だったのか。

 第2次ブントが生まれ、学生運動は四分五裂。第2次ブントからは「赤軍派」が誕生。70年安保は火炎瓶から爆弾へ。新宿騒乱、安田講堂事件、よど号事件、大菩薩事件、そのどの事件にも取材にかかわった。最後があさま山荘事件だった。その間に沖縄は返還されて核兵器が撤去されたと報道されていた。60年安保闘争の時嘉手納基地で見た「メースB」中距離弾道弾(核装備)は何処に行ったのか。密約はあったに違いない。安保闘争を最前列の「かじりつき」で見ていた記者生活は、私の中に何を残したのか。いささか感じることが多いこのごろである。ただ今でも思い出すのは、60年安保闘争で国会突入を叫び、顔色一つ変えず、警棒を構えた警官の集団の中に無言で飛び込んで行った若者達の姿である。その勇気を長い記者生活で持ち続けたかどうか。顔白むばかりである。

【樺美智子死因考】
 2020.2.25日付けブログ、女性史研究者・江刺昭子№1「樺美智子はなぜ死んだのか 安倍首相が見ない条約の影」。
 1960年1月16日朝、都心から羽田空港に通ずるメインストリートではなく、裏道を猛スピードで駆けぬける車列があった。車に乗っていたのは、岸信介首相を首席とする日米新安保条約調印の全権団だった。そのまま滑走路に乗り入れ、午前8時、アメリカに旅立つ。同日夜出発の予定を急きょ繰り上げての慌ただしい旅立ちであった。「これをおくるフィンガーの見送りは約五十人の報道関係者のほか約百人の関係者だけ、日の丸もただ一本が雨にぬれてポツンと立っていた」(『読売新聞』1月16日夕刊)。記事中の「フィンガー」とは、送迎用のフィンガーデッキのことである。

 全学連による実力行使を避けての出発だったが、『毎日新聞』の「余録」はこう評した。「もとより無用な混乱は避けるにこしたことはない。だがそれを顧慮するあまり、コソコソ逃げ出すように出かけては、第一相手のアメリカは何ととるだろう。これが国民から全権を託された人たちとは、とても認めてもらえまい」。「もし政府に大多数の国民から支持されているとの自信があるなら、もっと堂々たる態度をとるべきだろう。ほかのときとは違うのである。逃げ回っていればすむという場合ではない」。

 こうしてコソコソと渡米した全権団によって19日、ホワイトハウスで新安保条約の調印式が行われた。それから60年、岸の孫にあたる安倍晋三首相はことし1月19日、署名60年記念式典のあいさつで「日米安保条約は不滅の柱」と胸を張ったが、課題は多い。改定と同時に定められた日米地位協定は、基地の町に重い負担を強いる。沖縄はとりわけひどい。過去も現在も、基地があることで起きる事件・事故や騒音被害、土壌汚染などに苦しめられている。まもなく羽田空港の国際便が増便されるが、首都圏の大部分の制空権はいまだに米軍にあり、日本の民間機は自由に飛ぶことができない。

 この理不尽な条約を結ぶことに対し、調印前年の59年、非武装中立を唱える社会党と多くの労働組合を束ねる総評を軸にした安保条約改定阻止国民会議(国民会議)が結成され、反対運動をリードした。冒頭に書いた岸の渡米に、国民会議は当初、羽田での行動を計画したが、直前になって回避、日比谷での集会にトーンダウンした。なぜか。わずか2カ月足らず前の59年11月26日、傘下団体の一つである全国学生自治連合会(全学連)と労働者が、国会に突入し6時間にわたって構内を占拠した。前代未聞、「革命前夜」とも形容された事態だった。国民会議の指導部は、羽田で再び混乱することを恐れたとされる。

 全学連はこの方針に不服だった。岸の全権団の出発時間が繰り上がったのをキャッチして15日夜、警戒線を突破した。約700人が空港ビルのロビーを占拠、バリケードを築いて決起集会を開く。スクラムを組み、革命歌「インターナショナル」を高唱した。退去させるために実力行使を始めた警官隊と激しいもみ合いの末、唐牛(かろうじ)健太郎委員長ら80人近くが検挙され、残りが空港外に放り出された。混乱が収束したのは16日未明。その後、冒頭に書いたように、岸の全権団がこっそりと出発した。これで「ゼンガクレン」は海外にも知られるようになり、ジグザグデモは「スネークダンス」と翻訳された。

 羽田で検挙された中に、女子学生が2人いた。東大文学部の学友会副委員長、樺(かんば)美智子と女子美術大の学友会委員長、下土井(しもどい)よし子で、ともに3年生。2人とも不起訴処分になり、17日後に釈放された。このあとメディアが2人に取材攻勢をかけ、下土井は新聞や週刊誌で「全学連ナデシコ」とアイドル扱いされた。メディアは「警視庁のご飯をペロリ」などと書いたが、なぜ安保に反対するのかという彼女の主張には耳を貸そうともしない。

 樺美智子は取材をきっぱりと断り続ける。だが、中央大教授である父の俊雄が「全学連に娘を奪われて―羽田空港事件で東大生の娘を検挙された父親の手記」を『文芸春秋』60年3月号に発表したことから有名になる。俊雄の手記は「国会乱入事件後における全学連指導者の狂人じみた英雄気取の言動が国民のあいそづかしをどれだけ増したことか」と全学連の国会突入と羽田闘争を非難する。よもや自分の娘が参加していようとは夢にも思わなかったと明かし、娘が「馬鹿げた事件」に巻きこまれたのは「なんといっても大学の友人仲間のうちに原因があったとしか考えられない……単純な考えで正義感にかられると、情熱的な行動をする性質が娘にはあったらしい」と推測した。このことが5カ月後の娘の死につながっていった可能性がある。

 のちに俊雄は、あの文章は娘をよく知らず、取り乱したための誤解であったと書くが、娘は激しく反発した。友達に誘われたからではなく、単純な正義感だけからでもない。彼女は明確な政治的意志をもって、学友たちをオルグして羽田に向っている。仲がよかったという母親にも告げず、旅行に行くと見せかけて家を出ている。

 60年5月19日に自民党が衆院で安保条約の批准を強行採決すると、学生、労働者、市民ら何十万人もの人が連日、十重二十重に国会を取り巻き、条約に反対した。その闘争のさなか、樺美智子は国会構内で命を落とす。勉強好きの真面目な学生で、研究者を目指していたという。彼女はなぜ命の危険をも冒すほど、情熱を傾けて闘争にのめり込んでいったのだろうか。

    ×   ×   ×

 激しい反対運動にもかかわらず、安保条約は60年6月19日、参院の議決なしで自然成立する。それと引きかえのように岸内閣は退陣し、熱気にあふれた運動の波も引いていった。あの運動は何を残し、何を残さなかったのか。新たな取材資料も合わせ、樺美智子の生と死を重ね合わせて、それを探りたい。(6回続き、敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

 2020.2.26日付けブログ、女性史研究者・江刺昭子№2「樺美智子とは何者だったのか」。
 安倍晋三の祖父、岸信介が首相に就任したのは1957年2月。3年後には民意を踏みにじって米国と強引に新安保条約を結ぶことになる。これに反対する闘争の中で、伝説的人物として語られる樺(かんば)美智子が、東大に入学するのは57年4月。その月のうちに「原水爆実験反対」のデモに参加している。岸内閣が退陣に追い込まれたのは3年半後の60年7月であり、樺美智子が22年の生涯を閉じるのは60年6月だった。現実には決して交わることのなかった2人だが、登場と退場の符節は一致する。痛み分けとするには、断たれた彼女の未来があまりにも惜しい。

 樺美智子は1937年11月、東京で生まれた。父俊雄は大学教員、母光子も日本女子大卒という知的な家庭だった。豊かで自由な環境でのびやかに育てられ、兄が2人いるが、両親は女の子だからと差別はせず、娘に期待を寄せている。戦時中に疎開して8年余、静岡県の沼津で暮らした。富士山を目の前に仰ぐ風光明媚な地だが、漁村は貧しい。まともに食事をとれない「欠食児童」が少なくない戦後、樺家のハイカラな暮らしぶりと、彼女が飛び抜けて優秀だったことが語り草になっている。感受性の強い彼女が、貧富の差に気づき、恵まれてあることの後ろめたさを感じたのは、この時期だったと思われる。

 父が神戸大の教授になったことから、中学1年で兵庫県芦屋市に転居し、県立神戸高校に進む。勉強やスポーツに励み、読書欲も旺盛だった。宮本百合子を愛読し、主人公の感じ方が自分と似ていると、友人に打ち明けている。「時間が足りない」が口癖。中学2年の終業式の日、母親に「今年は私は1時間も無駄にしなかった」と晴れ晴れとした表情で話したという。まっすぐな性格だった。おかしいと思ったら、相手が教師であっても臆せず主張する。男子が多い神戸高校で、早くも性差別に疑問を持つ。自治会の役員になぜ女子が立候補しないのか、体育祭の練習はいつも男子優先で女子が待たされるのはなぜなのか。そんな問題提起をして、全校アンケートまでした。京大総長の滝川幸辰が高校に講演に来て、女子は良妻賢母がいいと話したときは、気色ばんで滝川に抗議しようとして友人に止められている。

 炭鉱不況で鉱夫の家族が困窮しているのを知ると、救援カンパを集めて送った。恵まれない人への関心から社会主義思想に傾斜していく。時代は政治の季節であり、学生だけでなく労働者も市民も、街頭デモやストライキで政府や資本家への抗議の意志表示をした。特に米軍基地の拡張や米英の核実験には各地で抗議運動が燃え上がった。東大に入学した直後にクラスの自治委員に立候補し、デモにもしばしば参加している。一方で学業も手を抜かず、歴史学研究会でサークル活動もしながら、社会科学系の本を多読した。

 岸信介のほうは首相就任後まもなく、自衛のための核兵器保有は憲法解釈上、禁じられていないという趣旨の答弁で物議をかもす。政権発足から4カ月後には米国を訪問し、安保条約改定に関わる協議を開始。反対勢力を抑え込む意図で警察官職務執行法(警職法)改正案を国会に提出したが、激しい反対運動が起こって法案は流れる。

 安保反対運動をリードしたのは、社会党や総評を中心とする安保条約改定阻止国民会議(国民会議)だった。しかし、その傘下団体である全日本学生自治会総連合(全学連)の主導権を握ったのは、共産党を離党した学生らによって58年11月に結成された前衛党・共産主義者同盟(ブント)である。樺美智子も早い時期からブントに加盟し、書記局を支えている。 

 ブントは日本帝国主義打倒を掲げた。安保条約を葬ることを目標とし、より先鋭な運動方針を打ち出す。これに対して共産党系の学生らは、全学連の反主流派として、ゆるやかなデモ行進から流れ解散で抗議の意志を示した。

 樺は3年の秋に文学部学友会の副委員長になり、学友たちに主流派の方針を説得する。59年11月27日の国会突入と、翌年1月16日の羽田ロビー闘争に参加したのも当然のことだった。羽田闘争で検挙され、17日間の勾留を経て帰ってきた美智子は、父が文芸春秋に書いた「全学連に娘を奪われて」という文章に肩身の狭い思いをしながら、かえって強い意志で運動にのめり込んでいく。

 60年4月26日、全学連は首相官邸に突入する。唐牛(かろうじ)健太郎委員長ら幹部は装甲車を乗り越えて警察官の群れに飛び込み、逮捕された。樺も装甲車を乗り越えたという人がいるが、真偽は不明だ。その日の夕方、九州に転勤する次兄を見送るため、東京駅に現われた彼女は泥だらけだった。5日後のメーデー。心配する母は街頭に出て、デモの隊列の中に娘を発見する。隊列は「アンポ」「ハンタイ」を連呼している。「東大文学部自治会の旗の長いすそが娘の黒い髪の上を何度もなぜて、私がみつめている姿をその度にかくした。私は動く気力もなくたたずんで、心に残るその影を追ったのだった」(樺俊雄・樺光子著『死と悲しみをこえて』)。娘の闘う姿を見るのは、これが最後になる。闘う娘と見守る母の姿が浮かんできて、読むたびに目頭が熱くなる。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

 2020.2.27日付けブログ、女性史研究者・江刺昭子№3「逃げずに闘い続けた樺美智子」。
 昨年、香港で逃亡犯条例の改正案に反対して市民の激しい抗議デモが起こり、持続的な運動になった。その最前線に若者たちがいた。それに比べて「日本の若者は政治に関心が薄い」と嘆く声も上がった。特定秘密保護法が制定されても、自衛隊が海外に派遣されても、若者の多くはスマホに目を落したままのように見える。60年前、日米安保条約に反対して立ち上がった若者たちとどこが違うのか。

 60年安保闘争のときの学生たちを当時のメディアは、こぞって「はねあがり」「赤いカミナリ族」などと批判した。カミナリ族は集団でバイクなどを駆る若者たち。今で言う「暴走族」で、そこに共産主義を意味する「赤」という形容詞を付している。しかし、体を張って行動した学生たちや、それに続いた民衆の姿に、革命の未来を見た人もいた。それをあながち幻想と呼べないほど運動が盛り上がっていったのは、1960年5月20日以降である。反対運動は国民運動ともいうべき様相を呈した。デモ隊は雪だるま式にふくれあがった。この年、早大に入学したばかりの一般学生のわたしが、手作りの旗を持って、サークルの仲間たちとはじめて街頭デモに参加したのも、5月20日だった。

 画期をもたらしたのは何か。

 5月19日深夜から20日未明にかけて、衆議院で新安保条約、新行政協定(地位協定)、関連法案の3案が強行採決されたのだ。警官隊500人を入れ、秘書も使って、反対する野党議員をゴボウ抜きにした。国権の最高機関が暴力で支配された。もちろん討論は行われていない。与党が民主主義を踏みにじり、議会政治を崩壊させたことで、安保闘争の風景は一変する。政府攻撃の世論は日に日に高まり、衆議院の解散と岸信介内閣の退陣を求める戦後最大の大衆運動に発展した。社会党と総評を中心とする安保改定阻止国民会議(国民会議)は、連日デモを組織し、今まで動かなかった市民団体、女性団体、学術団体、全国の大学の教授団も相次いで声明を出し、組織に属していない主婦や商店主も街頭に出た。30歳の画家、小林トミが一人ではじめた「声なき声の会」の旗のもとに、たちまち300人もの行列ができた。文学者や芸術家、芸能人やプロ野球選手も岸内閣を責める発言をしている。

 樺(かんば)美智子はその春、東大4年に進み、文学部学友会の副委員長の任期が終わる。これからは卒論に集中すると周りにも宣言し、力を入れはじめた矢先、皮肉にも反対運動が日ごとに盛り上がっていった。樺が所属する共産主義者同盟(ブント)は全学連主流派を指導し、国民会議の請願デモを「お焼香デモ」と批判した。穏健なデモを揶揄した言い方である。主流派は5月26日に国会に、6月3日には首相官邸への突入を試み、多くの検挙者を出す。そんな過激な闘争から足を洗って、公務員試験や司法試験、就職活動、大学院進学の準備に向かう学友もいたが、樺は逃げなかった。睡眠時間を削って卒論の準備を進めながらも、デモに出かけた。

 亡くなるまでの1カ月、さまざまな顔を友人たちに目撃されている。ゼミのレポート作成のため、先輩に熱心に質問する後ろ姿を写真に撮られている。渋谷の横断歩道ですれ違った学友もいる。樺は母親と腕を組み「温和で、嬉々とした」笑顔だったという。デモに行く地下鉄でマルクス・エンゲレスの共著『ドイツ・イデオロギー』を膝に広げて居眠りをしていても、いざ現場に立つと勇敢な闘士になった。首相官邸突入をひるんだら、彼女に腕をむんずと掴まれスクラムを組まれたと、回想する男子学生もいる。どんな場面でも、いい加減にとか、適当に、ということができない人だった。

 6月10日、羽田でハガチー事件が起きた。アイゼンハワー米大統領の来日が予定されていて、その下見のために秘書のハガチーが羽田に着く。しかし、ハガチーを乗せた車はデモ隊に取り囲まれ、ヘリコプターで脱出する騒ぎになった。取り囲んだのは全学連の主流派ではなく、共産党系の反主流派と労働者の集団だった。それが主流派のブントの焦りをよぶ。これでは全学連の主導権を反主流派に奪われてしまう。これまで中心を担ってきた指導者たちの多くが逮捕され、不在の中で、慌てて「6月15日国会突入」という方針をうちだした。国会構内では「鬼の4機」と呼ばれた屈強の第4機動隊が重装備で待ち構えていた。一方、デモ隊はと言えば、のちの全共闘運動のときと違い、ボール紙で作ったプラカードや布の旗だけ。足元はズックや下駄履きもいる。女子はスカート姿がほとんどだった。武器はみんなと固く組んだスクラムだけ。正面からぶつかれば、誰かが死ぬかもしれない。指導部には「死者が出るのではないか」と、不幸な予感を持つ者もいた。そして、その予感は的中してしまう。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

 2020.2.28日付けブログ、女性史研究者・江刺昭子№4「樺美智子「運命の日」」。
 日米新安保条約は、1960年5月20日に衆院で強行採決された。これにより、参院の採決なしでも1カ月後の6月19日には自然成立することになった。そのタイムリミットの4日前、6月15日が、樺(かんば)美智子にとって運命の日となった。反対運動を主導した安保改定阻止国民会議(国民会議)はこの6月15日をヤマ場とし、全国に統一行動を呼びかけた。国民会議の中心となった総評傘下の組合を中心に、全国で実に580万人が抗議行動に参加した。今では考えられない規模だが、軍事同盟に対する拒否感情はそれほど強かった。戦争の記憶が色濃く、平和への希求は切実だったのだ。その日、東京のデモ隊は、国会、首相官邸、アメリカ大使館などを目標とした。統一行動の模様を伝える朝日新聞夕刊1面の見出しは「六・一五統一行動/大した混乱なし」。至って穏やかなスタートだった。夕刊締め切りの午後の早い時間までは。

 全学連主流派のデモは午後4時ごろから始まった。全学連委員長代理の北小路敏(さとし)、都学連副委員長の西部邁(すすむ)らが乗った宣伝カーが先導し、東大、明大の順で各大学が続き、最後尾の早大とつながったまま国会を2周。先頭集団に樺もいた。同じころ、国民会議が主催する請願デモも続々と国会周辺に集っていた。そのなかの新劇人グループや市民のデモ隊に、右翼の「維新行動隊」がカシの棒で殴りかかった。女性の多い新劇人と市民約70人が負傷したのに、警察官が傍観していたと学生たちに伝わり、怒りの引き金を引いた。全学連デモ隊の中の「工作隊」が国会の南通用門の扉を外した。守備側がバリケードにしていたトラックを、学生たちが引っ張りだす。構内には約1千人の武装警察官と100人を超える私服警官がいたが、一瞬うしろに引いた。誘われるように入り込んだ学生たちを警察が包囲した。指揮者の「かかれ!」の合図で、警棒を振りかざして「やっつけろ」とかかってくる。前の方にいた学生は、警棒で頭、顔、肩を乱打され、腹を突かれた。逃げ出す者を追い、うずくまっている者を叩いて、後方の私服警官に検束させた。社会党の議員や報道関係者が制止しても、警官隊の暴行はやまなかった。混乱のなかで樺は斃(たお)れた。これが第1次の激突である。

 女子学生が死んだと門外の学生たちに伝わり、再び学生が構内に入る。9時ごろ構内で黙祷した。その後、また学生と警官隊がぶつかり、多くの負傷者が出た。警察側は門の外の学生たちにも催涙ガス弾を撃ち込み、逃げるのを追って警棒を打ちおろした。学生を心配して国会周辺に集まっていた教員や大学職員にも襲いかかり、教授陣からもけが人が出た。16日午前2時ごろまで続いた激突で、学生の検挙者182人、負傷者は589人で、うち43人が重傷を負う。救急車が48台も出動した。樺は救急車で飯田橋の警察病院に運ばれた。文学部学友会委員長の金田晋(かなた・すすむ)と同期生の北原敦(あつし)が呼ばれて遺体と対面し、樺美智子と確認。金田はそのままパトカーに乗せられて西荻窪の樺家に行くが、留守だった。

 時間を少し巻き戻して、この日の樺の行動をたどろう。いつものように半徹夜で勉強をした樺は、朝になってクリーム色のカーディガンにチェック柄のスカートで家を出た。午前中は近世史のゼミでレポーターを務め、昼食後、スラックスに着替えて地下鉄で国会正門前に行き、抗議集会に参加する。雑誌『マドモアゼル』(小学館)の記者がデモに伴走しながら、写真を撮らせてくれと頼むが、「わたくし、こまるんです」と断っている。マドモアゼルの記者は樺に、この行動によって国会を解散に追い込み、安保改定を阻止できると信じているのかと問いかける。樺はこう応じた。―「はい、信じています。わたくしはわたくしの信念にしたがって行動しているんです」。一瞬、あなたの声は強くはりつめて、その語尾は、泣くかのようにふるえていた― 南通用門前の学生たちに警官隊が放水し、彼女はビニールの水玉模様の風呂敷で頬かぶりした。その姿がお茶目で周囲の者が笑った。同期の榎本暢子と卒論の進行具合を話し合ったのが最後になった。死亡推定時刻は15日午後7時10分から13分ごろ。

 父の俊雄は、学者・研究者グループによる「民主主義を守る会」の抗議デモに初めて参加し、騒がしい南門前に行き、死者がわが娘とは知らずに黙祷している。現場を離れ食事に立ち寄った店のラジオで娘の名を聞き、深夜、東京・飯田橋の警察病院に駆けつける。母の光子も娘を心配してひとりで国会周辺に行くが様子がつかめず、池袋の実家に帰り着いた。遺体と対面を果したのは夜明け近く。遺体の顔はきれいで、ほほえんでいるようだったという。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

 【注】検挙者数などは『現代教養全集 別巻 一九六〇年・日本政治の焦点』(1960年9月、筑摩書房)による。

 2020.2.29日付けブログ、女性史研究者・江刺昭子№5「樺美智子、死因の謎 捏造証言で印象操作か」。
 樺美智子の死因については、圧死説と扼死説があり、60年を経た今も謎のままである。圧死であれば、国会構内でのデモ隊と警官隊の衝突の中で、デモの隊列が崩れ、下敷きになったことになる。首を絞められた扼死であれば、加害者は故意の殺人罪に問われよう。

 死後約3時間半後、6月15日午後10時42分から検視した監察医の渡辺富雄は「圧死の疑い」とした。ただし、父親に渡す死亡届の用紙には死因を「不詳」と書いている。当時の週刊誌への寄稿で、父親に「圧死の疑い」とするのは「忍びがたく」と説明したが、医師が死因を虚偽記入する理由としては、説得力がない。司法解剖は翌16日。遺体は慶応大法医学教室に運ばれ、中館久平と中山浄が執刀した。その前半だけ、東大医学部教授上野正吉も同席した。中館の鑑定書は、扼殺されたとも、そうでないともいえるというあいまいな表現だった。傷害致死の疑いで捜査していた東京地検は、上野に再鑑定を依頼する。再鑑定の結論は、警察官との接触はなく、デモ隊の人なだれの下敷きになった窒息死、つまり圧死だった。これに対し、解剖に立ち会った社会党の参院議員で医師の坂本昭の見解は扼死。現場の写真や証言を集め、樺のいたデモの先頭近くでは「人なだれはなかった」と断定する。さらに、膵臓と頸部に出血があったことから、警棒で腹部を強く突かれて気を失い、首に手をかけられて窒息死したと結論付けた。坂本は参院法務委員会で法務省を追及、死体検案書と中館・上野の鑑定書の公開を求めるが、法務省は拒否した。

 近年まで扼死を主張し続けた人もいる。医師で詩人の御庄博実(みしょうひろみ、本名・丸屋博)は、執刀した中館のプロトコール(口述筆記)を伝染病研究所(現・東大医科研)の草野信男に届け、草野の所見をまとめた。「扼死の可能性が強い」という内容だった(「樺美智子さんの死、五十年目の真実―医師として目撃したこと」(『現代詩手帖』2010年7月号など)。御庄は2015年に亡くなっている。

 わたしは関係資料を調べ、国会構内に入った樺の学友たちに会い、坂本の遺族や御庄にも取材した。その結果、扼死の心証を得たが、決定的な証拠がない。真相を明らかにするため、死体検案書と2つの鑑定書の公開が望まれる。扼死か圧死か。決定的な証拠がないのに、圧死と思っている人が少なくない。ネット上の百科事典『ウィキペディア』の「安保闘争」の項も、圧死と断定して記述する。これには当時の新聞報道も影響しているのではないか。樺が死亡した翌朝、6月16日の朝日と毎日がそろって、樺の隣でスクラムを組んでいたという明治大学生の証言を載せた。警官隊とぶつかり、うしろから押してくる学生集団に圧迫されて人なだれが起きた。樺は学生のドロ靴に踏まれて死んだというリアルな証言である。週刊誌などもこの学生の話を載せた。しかし、住所氏名まで出ているこの学生は実在しないことが判明している。ねつ造された証言である可能性が高い。誰がどのような意図で証言したのか。

 父親の俊雄は、60年1月の羽田ロビー闘争で娘が検挙されたときは、彼女が学生運動に深入りしていることを知らずに『全学連に娘を奪われて』(『文藝春秋』3月号)を書き、全学連を批判したが、このころには娘の行動に理解を示し、新聞報道に厳しい目を向けている。『中央公論』60年8月号には「体験的新聞批判」を寄稿し、娘の死を伝える6月16日の朝日新聞朝刊を例に検証した。11版社会面の見出し「学生デモに放水」が、12版では「デモ隊警察の車に放火」にかわる。11版の「まるで野戦病院」は学生の負傷者の惨状を報じるが、12版でこの記事が消え、13版では「暴力は断固排す」という政府声明が加わる。早版と遅版の違いは、第一線の取材記者のなまなましい現地報道が、上級幹部の意図に反するからだと分析している。幹部の意図の浸透を示すように、各新聞の論調が政府の主張と軌を一にして暴力追放を強調するようになり、6月17日朝刊では東京に拠点を置く主要7紙が「七社共同宣言」を掲載。「理由のいかんを問わず、暴力を排し、議会主義を守れ」と呼びかけた。

 中央公論で俊雄は、この宣言文の「その依ってきたる所以は別として」を挙げ、混乱の根本の原因である政府・与党の非民主的な行動(国会に警官隊を導入した強行採決など)を不問に付していると指摘した。また「暴力ということについていうならば、単にデモ隊の暴力だけをとり上げるべきではない」。武装警官が「非武装の国民大衆のデモ隊にむかって行使した暴力」こそ糾弾されるべきだと述べている。説得力のある議論を展開した。同年9月刊行の『最後の微笑』では、官の責任について次のように述べる。「娘の死という事実について、自分にその責任があると申し出られた人が一人も現われないのはおかしいという気持ちです。虐殺にしろ、事故死にしろ、ああいう公けの事件で、公けの場所で死んだのでありますから、その公けの立場にある誰かが、娘の死について哀悼の意志を表明してもいいのではないでしょうか」。「娘のとった行動が法の秩序を破るものであったとしても、娘が死んだという事件はまた別の事実であります。かりにその死が事故死であったとしても、そこに出動していた多数の警官にはその死を阻止する義務があったのではないでしょうか」。

 父の視点は、直接の関係者・関係当局の責任だけでなくもっと深い所まで届く。「それらの関係当局をこえた岸内閣の政治的意向が表れていると思われてなりません」。俊雄は最晩年まで一貫して、娘は警官に扼殺されたと主張している。(敬称略、肩書は当時、女性史研究者=江刺昭子)

 江刺昭子  女性史研究者

 えさし・あきこ。広島市出身、早大卒。原爆作家・大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。著書に「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」「樺美智子 聖少女伝説」など多数。

【樺美智子レクイエム】
 6.15 運命の日 ニュースカメラマンとして決死の撮影(青木 徹郎)2010年8月
 「60年安保」といえば、当時国会周辺では、連日「安保反対」デモが行われ警察機動隊とデモ隊との衝突が繰り返されていた。テレビ局に入社しニュースカメラマンになり2年目を迎えていたが、その頃は、デモ取材に明け暮れていた気がする。そうした中で、6月15日夜デモ隊が国会構内に突入した際、機動隊との激突による混乱の渦中に、亡くなった東大生の樺美智子さんのことが思い出される。岸政権が、「新安保条約」の国会の承認議決を強行した5月19日前後から連日、安保反対デモが労組や学生が中心に全国各地で展開されていた。

  この日を境に、安保反対闘争が、野党陣営のみならず、自民党の反主流も加わった“岸内閣打倒”“民主主義擁護”の大衆運動に変質していった。ある時から銀座通りで、両手をつなぎ道路一杯に広がって歩く、いわゆる“フランス・デモ”が展開されるようになった。歩行中の人達が、飛び入りでデモ行進に参加する者も多かった。日本の民主主義も地に着いてきたような気がした。

  そして「運命の日」6月15日を迎えた。この日は統一行動日とあって全国でおよそ600万人がデモに参加した。当日の取材体制は、報道の記者やカメラマンが総動員された。社会党はじめ労組員や全学連、文化人それに一般の人たちが、何箇所かに分かれて集会を開いた。

 デモ隊を撮影する筆者

 当日夕方から雨模様となり、日中は比較的穏やかな請願デモが続いていたが、参議院通用門付近で、右翼が木刀などでデモ隊に襲いかかり多数のけが人が出た。 衆議院の南通用門付近では、各社のテレビ中継車や取材チームが集結していた。全学連主流派約8000人が、降りしきる雨の中を激しい渦巻きデモを展開し、警備の機動隊と激突を繰り返した。眼前に繰り広げられる光景にこれまでにない緊張と興奮を覚えた。学生達は、南通用門の扉を破壊して国会構内に乱入し、およそ5000人が中庭を占拠した。 

 その後、機動隊は一部の学生達を押し返したが、午後7時過ぎ、ずぶ濡れになった学生達4000人が、「安保反対」「警察は出てゆけ」などと叫びながら再突入を図り、押し返そうとする機動隊と大混乱となり、学生達も機動隊双方とも興奮状態になっていた。こちらも機動隊とデモ隊とがもみ合う脇で、巻き込まれないよう“決死”の撮影であった。

 その時警備のすきをぬって突入した十数人の学生たちが“将棋倒し”となり地べたに倒れた。立ち遅れた女子学生ら数人の上に、学生たちが折り重なるように倒れるのをレンズ越しに見ることができた。その瞬間、取材中の数人のカメラマンが「誰か下敷きになっているぞ」と叫んだが、デモ隊のシュプレヒコールと怒声に打ち消され気付く者はいなかった。

  南通用門付近では、相変わらず機動隊と学生たちとの激しい攻防は繰り返されていた。 雨もやみ夜明けになると、機動隊が指揮官の「全員検挙」の号令で実力行使に入った。怪我を負ったり、飢えと疲労で抵抗する気力も失せた学生達は、警官に警棒で殴られたり、首を捕まれてあっというまに国会外へ排除され、次々と護送車に押し込まれた。国会周辺は、怪我人や逮捕者を運ぶ救急車や警察車両のサイレンで騒然としていた。

 その時、無線機が呼んでいるのに気付いた。本社のデスクから「南通用門付近で重症を負い逮捕された女学生が亡くなったらしい。至急水道橋の警察病院へ行ってくれ」とのことで警察病院へと急行した。車中でデスクに「9時頃オートバイで送った原稿に、白っぽい着衣の女子学生が写っている。該当者かもしれない」と一報は入れておいたが、特ダネ映像があったのか確認するいとまもなかった。



  警察病院には明け方まで負傷者が次々と運び込まれ、まるで戦争映画で見る野戦病院のようだった。このデモで樺美智子さんが亡くなり、およそ600人の学生たちが重軽傷を負った。 翌日、大学教授陣による「警察暴力への抗議」の追悼デモ、18日には、樺美智子さんの追悼集会が全国で行われ、およそ30万人がデモに参加して彼女の死を悼んだ。樺さんが亡くなって間もなく、西田佐知子が歌う「アカシアの雨が止むとき」が、彼女に捧げるレクエイムだったのか、口ずさむ人が多くなった。こうして、多くの死傷者を出した安保反対闘争は、野党や文化人らによる“民主主義擁護運動”と自民党反岸勢力による攻勢が複合して“岸内閣打倒運動”へと大きく盛り上がった。それでも岸首相は、「声なき声もある」と強弁していたが、6月19日の「新安保条約」の自然承認を待って退陣した。(元TBS記者・1937年生まれ 2010年8月記)




(私論.私見)