1960年1月16日朝、都心から羽田空港に通ずるメインストリートではなく、裏道を猛スピードで駆けぬける車列があった。車に乗っていたのは、岸信介首相を首席とする日米新安保条約調印の全権団だった。そのまま滑走路に乗り入れ、午前8時、アメリカに旅立つ。同日夜出発の予定を急きょ繰り上げての慌ただしい旅立ちであった。「これをおくるフィンガーの見送りは約五十人の報道関係者のほか約百人の関係者だけ、日の丸もただ一本が雨にぬれてポツンと立っていた」(『読売新聞』1月16日夕刊)。記事中の「フィンガー」とは、送迎用のフィンガーデッキのことである。
全学連による実力行使を避けての出発だったが、『毎日新聞』の「余録」はこう評した。「もとより無用な混乱は避けるにこしたことはない。だがそれを顧慮するあまり、コソコソ逃げ出すように出かけては、第一相手のアメリカは何ととるだろう。これが国民から全権を託された人たちとは、とても認めてもらえまい」。「もし政府に大多数の国民から支持されているとの自信があるなら、もっと堂々たる態度をとるべきだろう。ほかのときとは違うのである。逃げ回っていればすむという場合ではない」。
こうしてコソコソと渡米した全権団によって19日、ホワイトハウスで新安保条約の調印式が行われた。それから60年、岸の孫にあたる安倍晋三首相はことし1月19日、署名60年記念式典のあいさつで「日米安保条約は不滅の柱」と胸を張ったが、課題は多い。改定と同時に定められた日米地位協定は、基地の町に重い負担を強いる。沖縄はとりわけひどい。過去も現在も、基地があることで起きる事件・事故や騒音被害、土壌汚染などに苦しめられている。まもなく羽田空港の国際便が増便されるが、首都圏の大部分の制空権はいまだに米軍にあり、日本の民間機は自由に飛ぶことができない。
この理不尽な条約を結ぶことに対し、調印前年の59年、非武装中立を唱える社会党と多くの労働組合を束ねる総評を軸にした安保条約改定阻止国民会議(国民会議)が結成され、反対運動をリードした。冒頭に書いた岸の渡米に、国民会議は当初、羽田での行動を計画したが、直前になって回避、日比谷での集会にトーンダウンした。なぜか。わずか2カ月足らず前の59年11月26日、傘下団体の一つである全国学生自治連合会(全学連)と労働者が、国会に突入し6時間にわたって構内を占拠した。前代未聞、「革命前夜」とも形容された事態だった。国民会議の指導部は、羽田で再び混乱することを恐れたとされる。
全学連はこの方針に不服だった。岸の全権団の出発時間が繰り上がったのをキャッチして15日夜、警戒線を突破した。約700人が空港ビルのロビーを占拠、バリケードを築いて決起集会を開く。スクラムを組み、革命歌「インターナショナル」を高唱した。退去させるために実力行使を始めた警官隊と激しいもみ合いの末、唐牛(かろうじ)健太郎委員長ら80人近くが検挙され、残りが空港外に放り出された。混乱が収束したのは16日未明。その後、冒頭に書いたように、岸の全権団がこっそりと出発した。これで「ゼンガクレン」は海外にも知られるようになり、ジグザグデモは「スネークダンス」と翻訳された。
羽田で検挙された中に、女子学生が2人いた。東大文学部の学友会副委員長、樺(かんば)美智子と女子美術大の学友会委員長、下土井(しもどい)よし子で、ともに3年生。2人とも不起訴処分になり、17日後に釈放された。このあとメディアが2人に取材攻勢をかけ、下土井は新聞や週刊誌で「全学連ナデシコ」とアイドル扱いされた。メディアは「警視庁のご飯をペロリ」などと書いたが、なぜ安保に反対するのかという彼女の主張には耳を貸そうともしない。
樺美智子は取材をきっぱりと断り続ける。だが、中央大教授である父の俊雄が「全学連に娘を奪われて―羽田空港事件で東大生の娘を検挙された父親の手記」を『文芸春秋』60年3月号に発表したことから有名になる。俊雄の手記は「国会乱入事件後における全学連指導者の狂人じみた英雄気取の言動が国民のあいそづかしをどれだけ増したことか」と全学連の国会突入と羽田闘争を非難する。よもや自分の娘が参加していようとは夢にも思わなかったと明かし、娘が「馬鹿げた事件」に巻きこまれたのは「なんといっても大学の友人仲間のうちに原因があったとしか考えられない……単純な考えで正義感にかられると、情熱的な行動をする性質が娘にはあったらしい」と推測した。このことが5カ月後の娘の死につながっていった可能性がある。
のちに俊雄は、あの文章は娘をよく知らず、取り乱したための誤解であったと書くが、娘は激しく反発した。友達に誘われたからではなく、単純な正義感だけからでもない。彼女は明確な政治的意志をもって、学友たちをオルグして羽田に向っている。仲がよかったという母親にも告げず、旅行に行くと見せかけて家を出ている。
60年5月19日に自民党が衆院で安保条約の批准を強行採決すると、学生、労働者、市民ら何十万人もの人が連日、十重二十重に国会を取り巻き、条約に反対した。その闘争のさなか、樺美智子は国会構内で命を落とす。勉強好きの真面目な学生で、研究者を目指していたという。彼女はなぜ命の危険をも冒すほど、情熱を傾けて闘争にのめり込んでいったのだろうか。
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激しい反対運動にもかかわらず、安保条約は60年6月19日、参院の議決なしで自然成立する。それと引きかえのように岸内閣は退陣し、熱気にあふれた運動の波も引いていった。あの運動は何を残し、何を残さなかったのか。新たな取材資料も合わせ、樺美智子の生と死を重ね合わせて、それを探りたい。(6回続き、敬称略、女性史研究者=江刺昭子)
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