「戦後学生運動2、60年安保闘争以降64年まで概略」 |
(最新見直し2006.5.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
本サイトは、「戦後学生運動1、60年安保闘争まで概略」の続編である。補足の「1964.4.17スト考」と「全共闘運動雑感」と「民主連合政府樹立運動について」は「戦後学生運動3、余話」に振り替えた。 (適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した) 2006.5.18日 れんだいこ拝 |
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さしもの安保闘争が終わり、新たな動きが始まる事になった。日共系民青同は逸早く体制を建て直すが、宮顕指導への反発から構造改革派が分離する。革共同全国委は押せ押せに入り、第1次ブントに対し理論闘争を仕掛け飲み込もうとする。60年安保闘争をもっとも精力的に闘い抜いた第1次ブントは総括を廻って大分裂に向かっていく事になる。これを検証する。(詳細は「戦後学生運動史第6期その1」(gakuseiundo/history/history6_1.htm)に記す)
藤原氏の観点は、徳球−伊藤律系党中央の共産党なら、このように評価したであろうという見本を披瀝している。しかし、こういう声を掻き消され、宮顕系党中央の影響を受けた川上徹氏の次のような総括を聞かされることになる。
いろんな総括の仕方があるということだろうが、「道遠しの感がある」。
こうして「マルクス・レーニン主義の原則に基づいて階級的青年同盟を建設する」という方向を明らかにし、闘う民青同へとスタンスを明確にしつつ新しい出発の基礎を築いた。ここにはブントら青年運動の急進主義的運動の影響を受けて、穏和路線ながらも闘う主体への転換を企図していた様がうかがえて興味深い。
この経過を見れば、党中央と民青同中央間には一定の反発があったということになる。結果的には、宮顕の引き続きの露骨な介入により、民青同は元の木阿弥の穏和化路線へ再度誘導されていくことになる。宮顕系党中央は、この後の6.29日から開かれた党の「第11中総」で、訴え「愛国と正義の旗の下に団結し、前進しよう」を採択している。
この文章の中に前述のいきさつを嗅ぎ取ることが出来るだろうか。本当にこのような観点から「民青同第6回大会」が勝ち取られたのだろうか。私は史実の偽造と受け取る。それと、この時点で「科学的社会主義」とかの表現を本当に使っていたのだろうか。実際には「マルクス・レーニン主義を学び」と書かれていたのではないのか。 |
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この頃、日共内外から構造改革派が誕生する。この動きを見ておく。ここに至るまで、党内では宮顕が起草した「党章草案」をめぐって春日(庄)グループが激しく反対していた。これを構造改革派という。 |
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7.4−7日、全学連第16回大会は三派に分かれて開催されることになった。この第16回大会こそ、全学連統一の最後のチャンスであった。運動論・革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われるが、既に修復不可能であったようである。 |
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7.29日、ブント第5回大会が開催された。この大会は大混乱を極めた。「60年安保闘争」が事実上終息し、安保闘争の挫折が明らかになったことを受けて、「ブント−社学同−全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれることになった。論争は、この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、その闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展していくこととなった。ブント書記長・島氏は燃え尽きており、既に指導力を持たなかった。
9月、ブント・革共同系全学連主流派25中委は、「安保闘争は政治的にも敗北であった」総括にとって替えられた。革共同のイニシアチブが進行しつつあったことが判る。 |
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10.15日、社会党の青年運動組織の結成がなされた。社会主義青年同盟(社青同)の誕生である。遅まきながら社会党は、党の民青同育成方針にならってこのポスト安保直後の時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、誕生させたということになる。 |
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安保闘争で岸内閣が打倒された。7.15日、第二次岸内閣が総辞職し、7.19日、第一次池田内閣が成立した。池田内閣は、9.5日、「所得倍増政策」発表、12.8日、第二次池田内閣を成立させ、12.27日、閣議で国民所得倍増計画を決定し、いわゆる高度経済成長時代へ舵を切った。 |
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1月、ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化している。アメリカではケネディー大統領が就任している。国際情勢のこの変化も見過ごせないが、ここでは省く事にする。 |
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この期の特徴は、三派(社学同・マル学同・民青同)に分裂した全学連内の分裂の動きが止められず、全学連執行部と反執行部が非和解的に対立し始めたことに認められる。ブント−社学同指導部の多くがマル学同に移動したことから、全学連執行部はマル学同が掌握することになった。これに対し、民青同は全自連を通じて自前の全学連創出に向かう事になった。他方、ブント−社学同残留組と革共同関西派と新たに生まれた社青同派と構造改革派が新潮流を形成していくことになった。年末には社学同残留組と社青同派と構造改革派による三派連合が結成された。こうして「全学連三国志」の世界へと突き進んでいくことになる。(詳細は「戦後学生運動史第6期その2」(gakuseiundo/history/history6_2.htm)に記す)
これに対し、黒羽らは、むしろ共産党の指導の誤りこそトロツキストを生みだした根源であると云う立場をとり、次のように批判した。
つまり、「60年安保闘争」における党中央の指針に疑義を表明し、ブント全学連急進主義派の戦闘的闘いを好意的に評価し対立したということである。これを党から見れば、左派系トロツキスト学生追いだしの後今また構造改革派学生からの反乱を受けることとなり、いそがしいことであった。いずれも指導部の造反であったことが注目される。この後党と民青同は、構造改革派に握られた全自連の指導権回復に乗り出していくことになる。
ただし、マル学同下の全学連の動きは、1・ポスト安保で闘争疲れしていたこと、2・池田内閣の高度経済成長路線が支持され始めだしたこと、3.ブント全学連的華やかさがなかったせいによってか、諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しか出来ぬまま低迷していくことになった。その中にあって、6.6日、3000名が政暴法粉砕の決起大会に結集。6.15日、「6.15日一周年記念総決起集会」に3000名結集。
革通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成するなど、こうしてブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。この時期までのブントを「第一次ブント」と呼ぶ。 |
【論評、ブントと革共同の間の深淵】 |
ここで、ブントの解体の要因について考察しておきたいことがある。元々ブントと革共同の間には、深遠なる融和しがたい相違があったものと思われるが、史実は雪崩をうつかの如く革共同への移行がなされた。これは、結成間もなく「60年安保闘争」に突入していかざるをえなかったという党派形成期間の短さによるブントの理論的未熟さにあったものと思われる。「60年安保闘争」の渦中でそれを島−生田指導部にねだるのは酷かもしれないとも思う。 |
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全自連は、3.16−19日、「4全代」を開き、新学期闘争の体制を固めた。5月頃政治的暴力行為防止法案(政防法)が国会に上程された。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。5.21日全自連は「非常事態宣言」を発し、5.31日、統一行動を設定し、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。マル学同全学連も既述したように取り組んではいるが、昔日の面影を無くしていた。その他潮流はこの期間中も分派抗争の最中にあったようである。
前年の日本共産党第8回党大会前後の経過で、「反党分子」として除名され集団離党することとなった春日(庄)ら離党組は、10.7−9日、社会主義革新運動(社革)の創立総会を開いた。議長春日(庄)・事務局長内藤。それより前の9月その青年学生組織として青年学生運動革新会議(青学革新会議)を結成した(10.6日ともある)。全自連グループのうち早大・教育大・神戸大・立命館大・法政大・東大などで呼応した。第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心としていた。 |
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これより62年から64年までの動きについては逐一見ていかず、流れの基本方向を追ってみることにする。却ってその方が判りやすいと思うから。原水禁運動、中ソ論争問題等について重要な問題が呈示されていると思うが長くなるので割愛し学生運動内の動きを追っていくことにする。(詳細は「戦後学生運動史第6期その3」(gakuseiundo/history/history6_3.htm)に記す) |
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この年、「中ソ論争」が公然化し、社会主義運動圏に衝撃が走っている。2月、「唐牛問題」が発生している。これを解析しておく。(これにつき、「唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後)考」(gakuseiundo/history/history6_3_hosolu_karojimondaico.htm)で詳述する)
唐牛自身次のように述べている。
つまり、田中清玄のカンパは事実と認めたうえで、金に忙しい当時にあっては止むを得なかったと弁明している事になる。れんだいこは、なぜ堂々と「ヒモの付かない金なら誰からでも貰う」と居直らなかったのかと思う。ここに拘る理由は、日本左派運動の衛生的なまでの潔癖病癖を疑惑したいためである。
こう反論すべきところ、宮顕を「戦前唯一無比の非転向最高指導者」と勝手に懸想して聖像視する理論レベルでしかなかったから、切り返せなかった。理論の貧困が実践の貧困に繋がる格好例であろう。 2008.1.10日 れんだいこ拝 |
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4.1−2日、革共同全国委に分裂が発生し、中核派と革マル派が誕生することになった。これを「革共同の第三次分裂」と云う。(これにつき、「革共同の第三次分裂考」(gakuseiundo/history/history6_3_hosolu_kakukyodosanjiibunretu.htm)で詳述する) |
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7.2日夜、中核派と革マル派が激しく抗争し、事情は分からないが早大校内に於いて大乱闘事件を引き起こしている。党派間ゲバルトはこれを嚆矢とするのではなかろうか。
私は、この主張における「自治会の民主的運営を徹底的に保障すること」を支持する。ただし、この項目が「学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である」と結びつけられることには同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、その意味ではこの文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられていることになる。そういうセクト的対応ではなくて、「組織の民主的運営と執行部権限」理論の解明は今なお重大な課題として突きつけられていると思われる。この部分の解明がなしえたら左翼運動は一気に華開いていくことが出来るかもしれないとも思う。 革共同全国委が革マル派と中核派へ分裂した結果、マル学同から追い出された形になった中核派が三派連合に合流していくことになる。この流れで、民青同に続いて三番手の全学連が誕生する事になる。 9.7−8日、この過程であくまで全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、社学同再建派・社青同・中核派の新三派連合が誕生することになる。こうして、学生運動内部にはマル学同と民青同と新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派系・「日本の声−民学同」派系・革共同関西派系等々という様々な支流が立ち現れることになった。この間旧ブント系の対立は治まらず合同−再分裂と目まぐるしく推移しつつ二度と求心力を持てなかった。この間の主要な動きについて見ておくことにする。 だが、この新三派連合結成後まもなくブントの内部対立が生じた。特に平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マルクス主義戦線派=マル戦派と独立社学同)とそうした観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂して、ブントの勢力は急速に衰えていった。 10.17−18日、全自代開催。正式参加自治会150,オブザーバー自治会35,その他個人オブザーバー35名が参加した。全学連再建のための基準提案が決議された。1、過去のいきさつに関わらず、2、無条件で、3、全ての学生自治会が参加でき、4、全学連規約に従って、再建大会を開催しよう。提案は、賛成128・反対14・保留4で可決された。 この時反対派の様子が明らかにされていないが、構造改革派とこの頃誕生していた志賀グループの「日本の声−民学同」派の影響下の学生グループであったようである。彼らは、民青同系全学連を新たに創る方向に向かうのではなく、諸潮流との統一を主張し、急進主義者む(トロツキスト)を含めた統一を模索するべきであり、その根回しのないままの全学連再建は時期尚早であるという全学連再建時期尚早論を主張したようである。川上徹著「学生運動」では、「それは惨めな失敗に終わった」とある。 こ 10.19日、平民学連の呼びかけが出され、学生の中でそれが討論されてくるに及んでこの日、新三派連合も革マル派も構造改革派も含めて連合して、「原潜阻止全国学生連絡会議」を結成した。この流れで全学連再建が議題に取り上げられたが、革マル派は一切の全学連再建は認めないという立場に固執し、新三派は自分たちだけでも即時全学連再建を主張した。構造改革派は、この時も諸潮流の統一を主張したようであるが、さんざん野次られた挙げ句暴力的に発言を阻止された。 11月、第9回党大会が開催され、民主連合政府構想発表された。この大会で党は、民青同系学生運動に対し次のような指針を与えている。
これが、次のように確認されている。
11.22日、ケネディー暗殺される。 12.10−11日、民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうして、革マル派全学連に続いて二つの全学連が出現することとなった。71大学129自治会から代議員276名、評議員182名。この全学連は順調に発展し、66年7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集した。68.2月には国際学連の代表権を革マル派全学連から奪い取ることになる。 川上徹・氏の「学生運動」は、この流れを次のように自画自賛している。
12.18−19日、ブント・中核派らが中心になって都学連再建準備大会開催。革マル派は途中退場し、構造改革派は代表を送らなかった。12.20−21日、「全自代」が開かれたが、革マル派は参加せず、構造改革派と中核派が対立して散会した。中核派が全学連即時再建を強く主張したことが原因であったようである。 |
(私論.私見)