れんだいこ |
4.26日、第15次安保阻止全国統一行動で、ブントは三度目の急進主義運動を展開します。 |
S |
この時、全学連主流派.反主流派ともデモの動員合戦を競った。全学連主流派は、この時「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」と問題を提起し、「闘わない国民会議を乗り越えよ」、「朝鮮学生に続け」とアジった。 |
再来生田 |
その前夜の4.25日、新宿の寿司屋で夜明けまで島、藤原慶久らが共に過ごしています。藤原慶久が次のように証言しています。
「島さんの話には、誰が反対しようとどんな反対があろうと自分の方針を貫くという強烈な意思がみなぎっていて、この闘争にかけた島さんの執念を感じた。ここでやらなかったら安保闘争は終わるという危機感があった。その場にいたみんなも同じ考えであり、島さんを中心にして、みんなの気持ちが一つにまとまった。自分達の力で明日の闘争を成功させよう、後のことは島さんに任せるという雰囲気だった。島さんに対する信頼が全員の中にあった。みんな格別気負うことも無く淡々とした気持ちで語り明かして島さんと別れた」。 |
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島 |
うんうん。 |
S |
4.26日、第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行なわれた。この時国民会議は700名の警備隊を繰り出して、デモ隊から赤旗.旗ざお.プラッカードなどを取り上げ、整然秩序たった請願デモを行った。日共の自主規制による整然デモであった。 |
れんだいこ |
4.27日のアカハタは、「国民会議の方針に従った統一行動には一指も触れることが出来なかった」と自画自賛していますね。 |
再来生田 |
注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の「行動の分裂」がこの時より始まった事になる。 |
れんだいこ |
他方、ブントはあざ笑うようにこの日も果敢に闘争を貫徹します。
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再来生田 |
全国82大学、20数校の全学スト.授業放棄で25万名参加、都内ではチャベルセンター前に全学連7000名が結集しました。東大教養学部3000名の学生が参加していた。
59.11.27と60.1.16で一敗地にまみれた警備側はこの日、国会正門前に装甲車を並べて進路をさえぎっていた。やがて警官隊と国会正門前で激しく衝突した。この隊列に加わっていた民青同系都自連活動家はこうした唐牛委員長らの跳ね上がり阻止の為に立ち塞がった。
唐牛、陶山(前社学同委員長)らが先陣を切って踏み越えていった。全学連委員長唐牛は、自ら警官隊の装甲車を乗り越えて、「障害物を乗り越えて、国会正面前へ前進せよ」とアジり、国会正門前に座り込みを貫徹した。
この闘争で唐牛委員長、篠原浩一郎社学同書記長、篠原、糖谷ら17名が逮捕され(この結果、唐牛.篠原は11月まで拘留される事になった)、100名の学生が重軽傷を負った。 |
S |
京都でも、京大が「昭和25年のレッド.パージ反対闘争以来、10年ぶり」に時計台前集会に約1500名を結集し、府学連主催の円山音楽堂での集会には3500名の集会を開いている。 |
れんだいこ |
この日は韓国でも決起しており、、李承晩政権が打倒されています。 |
S |
4.26日、この時、期軌を一にして韓国でも李承晩政権打倒の闘争が最高潮に達し、首都ソウルでは学生、教授団を先頭に50万人の大デモが、警官隊の発砲を省みず大統領邸に押し寄せた。その為に翌4.27日李承晩は国会に辞表を提出し、独裁政権に終止符が打たれた。 |
れんだいこ |
日共は、全学連の4.26闘争を「規律違反」として青年学生共闘会議から除名するよう圧力をかけ、民青同系都自連をその代行にさせようと画策し始めています。 |
島 |
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れんだいこ |
この頃の共産党の指導について、安東氏が貴重な証言を残しています。
「私たちは、情けない役割を押し付けられることがしばしばであった。例えば、国会周辺のデモ行進の中で私たちのスクラムは機動隊でも右翼でもなく、トロツキストに向けて組まされるという場面もあった。そのいつの時であったか、私は国会図書館の傍で彼らの『襲撃』に備えたデモの隊列の中にあった。坂を上がってきた彼らの先頭に立っていた顔見知りの小島弘(明大出身の全学連中執)に目と鼻の先まで接近され、散々にからかわれた恥ずかしさは忘れられない」。 |
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再来生田 |
安東と云えば武井と並ぶかっての国際派全学連の指導者であるが、哀れな末路でしかなかった。 |
れんだいこ |
安東氏がもう一つ貴重な証言を残しています。
「トロツキストに対する弁護拒否の問題で袴田とやり合うということがあった。弁護拒否とは、『トロツキストの弁護を党員弁護士は拒否せよ』という中央の決定である。あまりといえばあまりなこの決定に対して私は抗議し、都委員会の二回で袴田と大声を出し合った」。 |
「プロレタリア・ヒューマニズムとはそんなケチなものなのか、戦前の悲惨な弾圧の中で生まれた救援活動の原則とは何であったのか、驚くべき冒涜である、発言を取り消して貰いたい。袴田は沈黙せざるを得なかった。この異常とも云えるトロツキスト攻撃が6.15の樺美智子の死に対する非人道的扱いにつながったのである」。 |
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