場面1 第一次ブント運動の総括

 (最新見直し2007.7.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2005.11月、れんだいこは、「この萎えた時代」を思うにつき、60年安保闘争を領導した第一次ブントに思いを馳せている。日本左派運動をこの連中が指導し続けていたら、どんなに明るく力強いものになっていただろうか、今頃は革命旗が永田町辺りに翻っていたかも知れない、そう思う。残念なことに史実はそうはならなかった。

 60年安保闘争は、紛れも無く戦後最大の政変であった。しかも一朝一夕に突発したのではなく、凡そ二年有余の準備期間を有して次第に発酵していった。であるが故に、ギリギリの情況が生まれ、各党派も日頃の衣装はどこへやら本音の思惑を曝け出しながら互いにぶつかっていった。ここに60年安保闘争を考察する意義がある。

 その意義はブント運動の総括に止まらない広さと奥行きを持っている。だがしかし、そのように捉えられることが少ない。通りいっぺんの言葉遊びに惑わされる時代の波が何度も押し寄せ、60年安保闘争の意義を風化させてしまった。遅まきながら、れんだいこは異議を申し上げようと思う。

 2005.11.2日再編集 れんだいこ拝


【ご挨拶】
ト書き  時は2002.6.15日、れんだいこはかねての打ち合わせにより島氏と一宿する。この地を仮に沖縄とする。一風呂浴びて、食卓を囲む。なぜだかこの時同伴者多数になる。
れんだいこ  (少々恐縮しつつ)島さん、はじめまして。長年の夢が叶いました。今日はゆっくり語らいさせて下さい。 
 ・・・・・どうぞ、ゆっくりしませう。膝を崩してくださいよ。
れんだいこ  はい、それではお言葉に甘えさせていただきます。(あぐらになりながら、島氏にビールを注ぐ)どうぞどうぞ
 れんだいこさんだったっけ、短くれんさんと云わせて貰おうかな。さぁれんさんもどうぞ。
ト書き  一座の者みんな酒を注ぎ交わす。再来生田(この時点で既に物故者であるが、生田氏をどうしても登場させたいので「再来生田」と記す)の音頭で乾杯。一同喉に流し込む。

【ブント運動を振り返っての感慨】
れんだいこ  それでは喉を潤したところで早速インタビューに入らせて頂きます。もっともれんだいこはインタビュァにしてはよくしゃべる癖がありますのでご容赦を。田原(総一朗)顔負けの突っ込みも激しく入ります。なんとならば、当り障りの無いこと尋ねても面白うないし、島さんもそういう風なの望んでいないと思われます。そういう訳で、ご堪忍のほどをね。以上あらかじめ述べておきます。

 さて、ブント運動は戦後学生運動のエポックを為しておりますが、島さん今日から振り返ってみてどんな感慨でせうか。
 そうさなぁ。不思議なことに後悔している者はいないのではないか。そりゃぁ、各自その後の人生に影を落としたことは事実だ。這い上がりよじ登った者も、その重圧を引きずった者もいろいろだろうが、それぞれ皆少なくともあの日あの時あるいは一連のシーンを懐かしむ者は居ても、悔いる者はいない。そう思っている。不思議に妖気に明るいんだわさ。
れんだいこ  それがブント運動の良さだったのでせうね。御一同さん、そういうことで宜しいのでせうか。
再来生田  今日から見て思うことは有るが、カラッと明るかったのば事実だな。それは何よりトップリーダー島さんのキャラクターに負っていたのではないかな。
ト書き  座の一同首肯。
れんだいこ  ところで、ブント運動の最高指導者を島さんとすることは異存ないところですが、当時のブント運動はそういう最高指導者により組織されていたのではなく、そこが島さんらしいところですよね、最高指導部はトロイカ体制で運営されていたのではないでせうか。この点、島さんはどういう風に認識されていたのでせうか。
 うーーん、責任は感じていたが、合議制を重視していた。ブントが日共から分離する際の一つの基準として各員の自律的結社化というのがあったからね。俗に云われている(統制的に捻じ曲げられた)民主集中制的組織論に拘束されない左派運動を目指すというのがブント運動の始発にあった。そういう意味では、指導者の専横的采配は俺も含めて無かったのでは無いかな。
れんだいこ  なるほど。但し、島さんのキャラクターとしてそういう組織論の方が好みでも有ったということでもあるんでせうね。
ト書き  座の一同の中から思わず笑いを漏らす者も出る。
れんだいこ  でも、ここは大事なところですよね。ちなみにれんだいこは、ブント運動を総称して、後にも先にも無い日本左派運動におけるルネサンスを脚本演出したと思っております。加えて、指導者としての島さんの急進主義者ながら繊細にしてノーブルな影響を受けているように思います。目茶素晴らしいですね。まっこの辺りで感動してたらきりが無いので先を急ぎます。

【ブント運動のルーツを探る】
れんだいこ  これ聞きたかったのですが、生田さんと島さんの関係はどのようになっていたのですか。してお二人の信頼のほどは如何だったのですか。惜しまれることに、その後生田さんは渡米先で亡くなられておりますが。
 妙にウマが合ったというのが実際だな。系譜から見ると、私どもは国際派に属する。しかし、生田は所感派です。これを分析すると、生田らは六全協後の日共に戻る場所を失っていた。我々もまた代々木党運動との決別方向を模索しつつあった。互いに話せば、新しい前衛を創らねばならないという点で意気投合した。そういうことになるのかも知れない。
れんだいこ  人と人との出会いの奇しき縁、互いに引き合うメカニズムの考察はマルクス主義の理論の中から抜け落ちているところでせうね。
ト書き  座の一同てんでばらばらに何やら語り始める。
れんだいこ  済みません、少し確認させてください。私が生田さんのことを敢えて持ち出すのは、「ブント運動は国際派と所感派の急進主義者の共闘によって成立していた」という観点を確認したいからです。俗に、ブントは国際派系列から生み出されたと単純化されておりますので、異議を挟んでいる訳です。この点よろしいでせうか。
 ブントを国際派、所感派の系流で識別し、国際派に限定するのはナンセンスでせうね。我々は当時の状況に対して認識を共有できる者を欲したのであって、50年分裂時の国際派、所感派の別で囲ったことはありません。

【ブントの組織構成について】
れんだいこ  ということで宜しいですね。所感派ファンのれんだいことしてはホッとしました。話を戻して。ブントの指導部を俯瞰するとどういう構成になっていたのでせうね。
再来生田  実は、ブントには指導部は存在していたが、官僚制度は無かったんだな。それは日が浅いから生まれなかったというより、組織論として拒否されていたと理解するほうが正確ではなかろうか。
 そうだな。一人一人の兵(つわもの)が結集するというところに意義を見出していたのは事実だな。俺は最高責任者として位置していたが、理論、実践、組織部においてそれぞれの有能者が仕切っていたわな。だから、指導部というのも簡単には表現できないな
れんだいこ  自覚されていたかどうかは別にして、それは民主主義的な機関運営主義の見本のような話ですね。「権限分掌と組織性の統合」という課題に対する無自覚は、左派運動の宿アのようなもので、ブント運動がこれを巧みに調御し得ていたとするなら、これは奇跡だとさえ思われますね。
ト書き  座の一同の中から「お前うまいこというなぁ」という相槌がでる。
れんだいこ  もっとも、機関運営主義的にはそういう「権限分掌と統合化」が按配よく出来ていたとはいうものの、組織実態的にはブントと社学同、全学連の指導部が互いに重なっており、そういう面では大人になれていなかった、という面はあるみたいですね。これは日が浅かったゆえ致し方なかったと思っておりますけれども。ブント結成後一年足らずの頃ですしね。それと、いきなり苛烈な情勢に飛び込んでいったという情況の厳しさが、まわりくどい機関決定なぞ意味を無くさせていたということでせうから。
ト書き  座の一同の中から「ほおっぉ」というため息がでる。

【ブント運動の史的意義について】
れんだいこ  ところで、そうしたブント運動ですが、今日から見てどのように評価されあるいは限界が指摘されるべきでせうか。
 ・・・・・
れんだいこ  まずれんだいこから述べてみますと、マルクス主義が信奉されていた時代にあっての最良の急進主義運動ではなかったかと捉えております。特に、六全協以降の宮顕−野坂系日共運動の変調さを全身で指摘し、あらゆる角度からスターリニズム的で無い党運動を目指し実践していった、その功績は不朽だと思います。

 もっとも、今日のようにマルクス主義そのものが相対化されしかも次第に穏和主義へ傾きつつある地平から見れば、ようやったけれども少しも共鳴しないという現象を引き起こしているかも知れません。ここら辺りにブント運動がますます埋没させられている要因があるかと思われます。そういう意味での評価の難しさがあるように思われますね。


 しかし、かような総括は少しもれんだいこ的ではありませんので、加えて次のような所見を提起しておきたいと思います。ブント運動の真髄は、マルクス主義の本来のエートス再生へ向けての旺盛な理論活動から出発したことに意義があるのではないでせうか。次に、たまさかその中途段階で60年安保闘争へ遭遇したことから党組織上げての実践活動に雪崩れ込んでいくことになりましたが、その実践水準において史上例の無い金字塔を打ち立てたことに意義があるのではないでせうか。

 残念ながら60年安保闘争後解体の憂き目にあってしまいました。が、この両方の意義において輝きを失うものではありません。惜しむらくは、ブント自身がこの功績に確信を持ち続ける事が出来ず、市井のあれこれの理論ないしは活動に目移りしてしまったことにあるのではなかろうか。

 だとするならば、何を継承すべきで何を排撃すべきであったのか、もう一度検証し直すことは意義あることではないでせうか。豊かな多くのメッセージが島―生田らの第一次ブント運動にはあったのではなかろうか。抽象的な物言いになりましたがかく考えております。
座の一同  異議ナァッシィ。
れんだいこ  第一次ブント運動論についてもう少し述べておきます。今日からみて、第一次ブントが領導した60年安保闘争は、人民大衆的闘争により時の反動内閣を打倒した稀有な例であり、金字塔を打ち立てているのは異存ないところです。問題は、その第一次ブントが保持していた正の面と負の面がその後どう系譜されていったのかにあります。

 れんだいこが見るところ、その後の第一次ブントは、日共批判による新左翼運動という正の面では継承に成功した。しかし、反動内閣批判のその反動として過剰に国際主義へ傾斜していったという負の面をも増幅することにより、この方面の理論の改造失敗により自壊していったのではないでせうか。

 過剰国際主義への傾斜は、その定向深化により赤軍派の国際革命根拠地造り運動に帰着した訳ですが、ここを総括するのが本来のところ、今に至っても何の総括が為されておりません。赤軍派批判は、かの同志粛清に於ける批判に集中しており、国際革命根拠地造り運動の虚妄批判にまで至っておりません。

 恐らく、これは、マルクス・エンゲルスの協働になる「共産主義者の宣言」の読み誤りに起因しているように思います。れんだいこは、この宿アが今日まで続いているとみなしております。第一次ブントは、惜しいことに「国内主義と国際主義の同時的運動論」の創出までは至らなかった為に、この致命的部分が狙い撃ちされ、その後の分裂に誘われたように思います。

 そういう負を抱えた第一次ブント運動ではありましたが、「後にも先にも無い、人民大衆的闘争牽引により時の反動内閣を打倒した」功績が損なわれるものではありません。

 さて、以上前置きして、第一次ブント運動論を語り合いたいと思います。
ト書き  座の一同が一斉に酒を酌み交わす。

 この続きは「寄り来る革命夢想家達考」に記す。





(私論.私見)