42893 戦後天皇制の位置付けについて、「国民主権」について

 (最新見直し2005.10.6日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 明治憲法は、第4条で、「天皇は国の元首にして統治権を総攬し、この憲法の条規に依り之を行う」とあった。戦後憲法は、第1条で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」、第三条で、「天皇の国事行為に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」。第4条で、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と規定した。

 つまり、「象徴天皇制」なる新統治概念を生み出したことになる。が、その研究の精度は如何なのであろうか。れんだいこは、これを1・象徴天皇制の由来、2・象徴天皇制の統治概念、3・象徴天皇制の制度的運用の実態、という三点から考察せねばならないと考える。この識別に基づいてそれぞれの論を構築し、その上で一体的に理解せねば解明されない、と考える。既成のものはれんだいこを満足させない。そこで覚束ないながらも、以下れんだいこが検証する。

 2004.8.30日 れんだいこ拝


【1・象徴天皇制の由来考】
 戦後憲法の「象徴天皇制」の由来が分からなかったが、「回想−山本玄峰」所収の楢橋渡・氏「老師と新憲法秘話」に貴重な経緯が明かされていた。それによれば何と、「象徴天皇制」のアイデアは山本玄峰の指摘からもたらされたものであると云う。楢橋渡・氏は、新憲法制定過程の黒子であり、その当人により明かされた秘話であるからしてこの情報の確度は高いと云うべきだろう。「戦後憲法押付論」が喧しいが、戦後憲法の真面目の一つ「象徴天皇制」が日本の禅僧の考案に拠るとしたら、「戦後憲法押付論」そのものの見直しが必至であろう。

 2004.8.28日 れんだいこ拝

象徴天皇制の由来考 れんだいこ 2004/08/28
 れんだいこは、気まぐれで「政界の黒幕史論」を立ち上げた。四元義隆(よつもと・よしたか)氏の訃報に接してやおら思い立ったのであるが、ついでに田中清玄も見直せば良いや、という程度のことであった。

 その田中清玄を獄中転向させた玄峰老師についてネット検索で概略を記していたら、先輩(名前を記しても良いが勝手に書いているので単に先輩としておく)から、玄峰老師のことなら「回想−山本玄峰」が必読本で手元にあるよとのことだったので、これをお借りし読み上げた。

 同書は、序文を無文・氏が、中身を13名の弟子達が、結語を編者の玉置弁吉・氏、あとがきを編集部が記すという構成で編集されている春秋社発行、1970.8.15日初版である。

 その著書の中に楢橋渡・氏の「老師と新憲法秘話」が所収されており、田中清玄の「玄峰老師言行録」もさることながら、れんだいこは楢橋渡・氏の書き上げに滅法興味を覚えた。

 概要は、戦後天皇制の位置付けについて、「国民主権」について( daitoasenso/sengodemocracy_tennosei.htm)の前半に記した。

 エッセンスは、戦後天皇制の由来は、玄峰老師の考案に始まり、マッカーサー元帥の昭和天皇への親近の情がそれを良しとしたことにより採用された、というものである。他にも指摘したいことが有るが、煩雑になるので控える。流布されているのならともかく、れんだいこも含め初耳の方もおられることだと思い敢えて記しておく。

 2004.8.28日 れんだいこ拝

【楢橋渡・氏「老師と新憲法秘話」考】
 「回想−山本玄峰」所収の楢橋渡・氏「老師と新憲法秘話」は、戦後憲法における「象徴天皇制」の発案過程を次のように述べている。
 「新憲法制定のときにも、こんな話がある。私が憲法改正委員会のまとめ役をしていて、その時の主管大臣が、松本蒸治博士であった。その時、憲法草案は、甲案、乙案の二案が出来上がっておって、甲案はどっちかというと保守的なもの、乙案は進歩的なものであった。どちらも日本人が作ったものだから、日本の憲法である。その草案が大体において出来上がったからマッカーサー司令部の方へ提出したら、拒否せられた。その前に、丁度正月だったか、マッカーサーの方から私に、ガヴァメント・セクション−民政局のホイットニー局長、ケージス大佐、ハッセー中佐ら-が、天皇の問題で秘密裏に一遍話したいというて来た。それで、東京でそんな会合をしては目立つから、大磯の*浪閣で話をしようということになった。明治の元勲伊藤博文の別荘で、人の目に付かないように夜間、話しをしようというので、あそこの庭で火を焚きながら話し合った」。
 「アメリカ側の要求としては、天皇を何とか除(の)けるという憲法でいかんのか、と云う。それは、日本人は天皇を神様だと思っているので、『天皇陛下万歳』と云って、平気で死んでいく。天皇の御陵威(みいつ)を世界に普(あまね)く光らさなければならんというので、八紘一宇といって侵略する。それら全部の原因は天皇にあるので、天皇を除けて本当の人民主権の民主主義にしないと、日本が平和国家として、世界から受け入れられる態勢はできない。天皇を除けるということは、ミズリー艦上で無条件降伏したときも、日本の国体を尊重するということを条件として全部武器を捨てているのであって、もし日本の天皇を抹殺して共和主義にでもするようなことをやったら、日本国民の間に、たちまち問題が起こってくる。だから天皇を除ける訳にはいかん。と云うと、ハッセー中佐が、自分はどうして、そういうことを言うかというと、今極東委員会で、ソビエトを中心とする非常な強硬ブロックから、天皇を除けたものにしようという示唆的なものがあると聞いている。そういう空気が非常に強いとすると、マッカーサーの方として困る。何故かというと、マッカーサー司令部は極東委員会の監督を受けているから」。
 「もし、そういうことをやるとすれば、日本国民が反乱を起こすか、マッカーサーに反抗する。反抗すれば、それを口実として、軍政を誤ったということで、ソビエトは北海道に進駐してくる。だから、天皇の問題も、そう簡単にいかん。と言うと、向こうも、そうだろう、しかし、どう天皇を処理するのか、と言うのだ」。
 「その時、私の頭に浮かんだのは、山本玄峰老師に教えを受けようということだった。そこで、私にも案があるから、四、五日回答を待ってくれといって、三島の竜沢寺へ連絡を取ったら、長岡の旅館に行っているということだった。それで、すぐ自動車で長岡まで行ったところ、旅館の炬燵の上に一升徳利を置いて、老師はしゃがんでいたが、私が部屋に入る瞬間に、『天皇の問題で来たな』と云った。そして、『わしは、天皇が下手に政治や政権に興味を持ったら、内部の抗争が絶えないと思う。何故かというと、天皇の詔勅を受けているんだからというて、天皇の権力を担ぎ廻って、派閥の抗争を始めるだろう。だから、天皇が一切の政治から超然として、空に輝く太陽の如くしておられ、今度は、その天皇の大御心を受けて、身を慎み、真善美の政治を実現するということになれば、天皇が居られても、もっと立派な民主主義国が出現するのではないか。天皇は空に輝く象徴みたいなものだい』と、云われた」。
 「私は、それで非常に感動してしまって、この案に限るということで、すぐ引き返して、司令部の連中に会った。そして、『天皇は民族の象徴、主権は在民で、天皇は一切政治に関係しない。天皇は民族全体を象徴しているから、政治を担当する者は、その気持ちを受けているという形態がいい』と、云ったところ、総司令部から出してきた新憲法に、『天皇は民族の象徴にして』、という名句が出来上がったと思っている」。
 「向こうでは、そんないい知恵は、どこから出てきたというから、日本の哲人が言ったと話したことがある。私が、憲法調査会で、一体、どうして突然、今の憲法が出来たかということの証言を求められたことがある。なぜかというと、憲法会議の全部の責任者であったし、十三通の極東委員会に出す書類も私が署名しているからである。その時に証言して、その話をした」。
 「元々司令部に、日本から甲案、乙案を出したときに、そんなものでは駄目だ、国際情勢は、そんな暢気なものではない、と云う。だから、ソビエトを中心とする勢力が、天皇を抹殺する憲法を、あと三週間で押し付けてくるということが、分かったから、それを乗り越すためには、どうしても思い切った憲法を作らなければならん。特に第一条、第九条−そういうことだから、日本の提出した憲法改正案を蹴っ飛ばして、向こうから、今の案を持ってきた。総理大臣も、松本蒸治憲法大臣も、それから閣僚も、そんな憲法は引き受けられないと云っていたら、アメリカの方から、私へ呼び出しが来た」。
 「お前ら、年寄り連中で、ブツブツ云っていては駄目だ。実は、こういう憲法をマッカーサーの方から押し付けられたとなったら、必ず内乱が起こって、ソビエトが北海道に進駐してくる。そうすれば、致命的な問題になるから、これらの国に日本が攻撃されないような、肩透かしを食わすようなものを憲法に謳うよりほかない。それには、天皇が主権を持たないということ。もう一つは、軍国主義ではなく、侵略戦争はやらない。この二つを旗印として、ソビエトなどの、マッカーサーの軍事管理政策に、一大亀裂を生じさせようとする謀略を防ぐ以外に無い」。
 「ことにマッカーサーが天皇を擁護しなければならんという気持ちを起こしている。それは天皇が、初めてマッカーサーに会われた時、天皇はマッカーサーのところへ、つかつかとやってきて、今度の戦争で、A級、B級、C級、と戦犯を裁判しておるが、東条以下、これらの者には罪が無い。戦争は全部、自分の責任だから、自分を極東軍事裁判にかけ、絞首刑にすることによって、全ての戦犯を解放して貰いたい、ということを云われた。それで、マッカーサーは感極まった」。
 「日本へ来て、ともかく政治家も軍人も、自分達が民主主義者であると宣言しているが、自分が戦争の責任者であるので、自分を処罰しろ、ということを云われたのは、天皇一人だ。なるほど、この天皇は助けなければならんという気持ちを抱くに至った。同時に、天皇は自分達が考えておったものとまるで違う。調べてみれば、臣僚は天皇を欺(だ)ましておったけれども、天皇自身は全て責任を負うて行こうという。この天皇を助けなければいかんというので、マッカーサーは感極まって、天皇を抱いて頬擦りしたという」。
 「もう一つは、天皇は風呂敷包みの中から書類を出して、これは自分の私有財産だ、これを出すから日本の食料不足を助けて貰いたいと言った。マッカーサーは、その時に、天皇を本当に助けなければならんという気持ちになった。−だから、この憲法は、天皇というものの存在を認めてあって、しかも世界が一番非難する、天皇が親政をやっておったということは、主権在民であり、そうすれば、日本の国民にも満足してもらえるし、国際的には天皇主権ではないから、天皇を処罰する必要は無いというので、天皇を除けた。ぜひ、そうしてくれということであった」。
 「そこで、法制局長官などを缶詰にして、全部総仕上げして、突如として、あの草案を発表した。だから、奇しくも日本の天皇制が、歴史というか、憲法その他から抹殺されなかったということは、マッカーサーの聡明さにもよる。けれども、そういう一つの大きな直観的な働きかけらよって、天皇を救った、といっては語弊があるが、やはり、山本玄峰老師の示唆が大きな意味を持っている。玄峰法師という方は、そういう一つの歴史的なことをやっているのである」。
 「終戦の時の総理だった鈴木貫太郎さんにも、老師は、『大関は大関らしい負け方をしろ、忍び難きを忍べ』と云われた。それが終戦の詔勅のお言葉になったのだそうである。そうとすれば、終戦と憲法、日本の国体の危機のときに、あの老師は不思議な存在で、今日の日本のある陰の力になっている。つまり、大道を践んではずさずというところがある。だから、天地を貫いた一つの法則を見破っていた偉大な人だと思っている」。

 原文は口語調で話があちこち飛んでいるので、れんだいこが編集し直すと次のようになる。長文なるが、内容の重要性に鑑み致し方ない。
 戦後憲法の制定過程は、戦後憲法の制定過程について(一)経過及び戦後憲法の制定過程について(一)GHQ案の検証の項に記した。ここで取り扱うのは、「象徴天皇制」の誕生秘話である。「回想−山本玄峰」所収の楢橋渡・氏「老師と新憲法秘話」は次のように証言している。「」内は楢橋渡・氏の原文である。

 当時、楢橋渡・氏は、主管大臣・松本蒸治博士の憲法改正委員会のまとめ役をしていた。憲法改正委員会は、中間報告的に甲案、乙案の二案の憲法草案を上程した。「甲案はどっちかというと保守的なもの、乙案は進歩的なものであった。どちらも日本人が作ったものだから、日本の憲法である」。これをGHQへ提出したところ、GHQの眼から見れば、甲案も乙案も似たりよったりの旧式なものに過ぎず、「そんなものでは駄目だ、国際情勢は、そんな暢気なものではない」と拒否された。

 GHQには新憲法制定を急ぐ格別の事情があった。GHQをも規制する極東委員会で、ソビエトを中心とする強硬ブロックが天皇制廃止を明記した憲法草案をあと三週間で押し付けてくるということが分かっていた。GHQは、ソビエトブロック案を排除する為に、どうしてもそれまでに押し付けでない形で日本政府との共同という体裁をとりつつ新憲法を策定しておかねばならなかった。

 新憲法制定の必要と必然性について次のように語られている。
 「お前ら、年寄り連中で、ブツブツ云っていては駄目だ。実は、こういう憲法をマッカーサーの方から押し付けられたとなったら、必ず内乱が起こって、ソビエトが北海道に進駐してくる。そうすれば、致命的な問題になるから、これらの国に日本が攻撃されないような、肩透かしを食わすようなものを憲法に謳うよりほかない。それには、天皇が主権を持たないということ。もう一つは、軍国主義ではなく、侵略戦争はやらない。この二つを旗印として、ソビエトなどの、マッカーサーの軍事管理政策に、一大亀裂を生じさせようとする謀略を防ぐ以外に無い」。

 こうして、GHQは、ソビエトブロック案の鼻を明かすような「どうしても思い切った憲法を作らなければならん」という思いで、夜に日を継いで原案を作成し始めた。こうして大至急で纏められたGHQ案が日本政府に提出されてきた。GHQ案は天皇制を廃止していた。「日本の提出した憲法改正案を蹴っ飛ばして、向こうから、今の案を持ってきた。総理大臣も、松本蒸治憲法大臣も、それから閣僚も、そんな憲法は引き受けられない」と拒否した。

 この膠着状態がどのように打開されたのか、楢橋渡・氏は次のように語っている。
 概要「アメリカの方から、私へ呼び出しが来た。丁度正月だったか、マッカーサーの方から私に、ガヴァメント・セクション−民政局のホイットニー局長、ケージス大佐、ハッセー中佐ら-が、天皇の問題で秘密裏に一遍話したいと云うて来た。それで、東京でそんな会合をしては目立つから、大磯の*浪閣で話をしようということになった。明治の元勲伊藤博文の別荘で、人の目に付かないように夜間、話しをしようというので、あそこの庭で火を焚きながら話し合った」。

 この場で日米双方は忌憚の無い意見交換をした。アメリカ側は次のように主張した。
 「天皇を何とか除(の)けるという憲法でいかんのか。日本人は天皇を神様だと思っているので、『天皇陛下万歳』と云って、平気で死んでいく。天皇の御陵威(みいつ)を世界に普(あまね)く光らさなければならんというので、八紘一宇といって侵略する。それら全部の原因は天皇にあるので、天皇を除けて本当の人民主権の民主主義にしないと、日本が平和国家として、世界から受け入れられる態勢はできない」。

 日本側は次のように反論した。
 「日本がミズリー艦上で無条件降伏したときも、日本の国体を尊重するということを条件として全部武器を捨てているのであって、天皇制を廃止し共和制にでもしようなら、日本国民が承知しない。だから天皇を除ける訳にはいかん」。

 ハッセー中佐が、次のように新憲法制定事情を明らかにした。
 「自分はどうして、そういうことを言うかというと、今極東委員会で、ソビエトを中心とする非常な強硬ブロックから、天皇を除けたものにしようという示唆的なものがあると聞いている。そういう空気が非常に強いとすると、マッカーサーの方として困る。何故かというと、マッカーサー司令部は極東委員会の監督を受けているから」。

 日本側は次のように述べた。
 「もし天皇制を廃止すれば、日本国民が反乱を起こすか、マッカーサーに反抗する。反抗すれば、それを口実として、軍政を誤ったということで、ソビエトは北海道に進駐してくる。そういうことを考えると、天皇制廃止はそう簡単にいかん」。

 アメリカ側は次のように詰問し始めた。
 「あなた方のおっしゃることは分かる。ならば、あなた方は天皇制を具体的にどう処理しようと云うのか」。

 この時、楢橋渡・氏の脳裏に山本玄峰老師が浮かんだ。次のように記している。
 「その時、私の頭に浮かんだのは、山本玄峰老師に教えを受けようということだった。そこで、私にも案があるから、四、五日回答を待ってくれ」。

 こういう遣り取りを経て、「ならばそうしよう」ということになり、次回持越しとなった。

 楢橋渡・氏は、急遽、三島の竜沢寺へ連絡を取った。玄峰老師はあいにく長岡の旅館に行っていた。ならばと自動車を飛ばし訪ねていったところ、老師は旅館の炬燵の上に一升徳利を置いてしゃがんでいた。楢橋渡・氏部屋に入るなり、老師は、「天皇の問題で来たな」と云った。この直観力こそ老師ならではのものであろう。

 老師は次のように述べた。
 「わしは、天皇が下手に政治や政権に興味を持ったら、内部の抗争が絶えないと思う。何故かというと、天皇の詔勅を受けているんだからというて、天皇の権力を担ぎ廻って、派閥の抗争を始めるだろう。だから、天皇が一切の政治から超然として、空に輝く太陽の如くしておられ、今度は、その天皇の大御心を受けて、身を慎み、真善美の政治を実現するということになれば、天皇が居られても、もっと立派な民主主義国が出現するのではないか。天皇は空に輝く象徴みたいなものだい」。

 楢橋渡・氏は、感動した。今の今までこのような考案をした者がいなかった。楢橋渡・氏は、この案を持ってすぐ引き返しGHQへ駆け込んだ。そして、次のように伝えた。
 「天皇は民族の象徴、主権は在民で、天皇は一切政治に関係しない。天皇は民族全体を象徴しているから、政治を担当する者は、その気持ちを受けているという形態がいい」。

 この時の遣り取りが生きてと思われるが、GHQ案は現行憲法規定にある如く「天皇は民族の象徴にして」との象徴天皇制規定に切り替わった。楢橋渡・氏は、概要「玄峰老師の考案に始まり象徴天皇制という名句が出来上がったと思っている」と記している。こうした経緯を経て最終的に確定したGHQ案を、「法制局長官などを缶詰にして、全部総仕上げして、突如として、あの草案を発表した」。

 後日談のことと思われるが、アメリカ側は、楢橋渡・氏に象徴天皇制の由来について質している。楢橋渡・氏は、次のように記している。
 「向こうでは、そんないい知恵は、どこから出てきたというから、日本の哲人が言ったと話したことがある。私が、憲法調査会で、一体、どうして突然、今の憲法が出来たかということの証言を求められたことがある。なぜかというと、憲法会議の全部の責任者であったし、十三通の極東委員会に出す書類も私が署名しているからである。その時に証言して、その話をした」。

 以上が、象徴天皇制の由来であるが、玄峰老師の考案であったとはいえ、楢橋渡・氏は、GHQの側にそれを受け入れる心情があった故のことであるとして、マッカーサーの天皇びいきについて次のように述べている。
 
 「ことにマッカーサーが天皇を擁護しなければならんという気持ちを起こしている。それは天皇が、初めてマッカーサーに会われた時、天皇はマッカーサーのところへ、つかつかとやってきて、今度の戦争で、A級、B級、C級、と戦犯を裁判しておるが、東条以下、これらの者には罪が無い。戦争は全部、自分の責任だから、自分を極東軍事裁判にかけ、絞首刑にすることによって、全ての戦犯を解放して貰いたい、ということを云われた。それで、マッカーサーは感極まった」。
 「日本へ来て、ともかく政治家も軍人も、自分達が民主主義者であると宣言しているが、自分が戦争の責任者であるので、自分を処罰しろ、ということを云われたのは、天皇一人だ。なるほど、この天皇は助けなければならんという気持ちを抱くに至った。同時に、天皇は自分達が考えておったものとまるで違う。調べてみれば、臣僚は天皇を欺(だ)ましておったけれども、天皇自身は全て責任を負うて行こうという。この天皇を助けなければいかんというので、マッカーサーは感極まって、天皇を抱いて頬擦りしたという」。
 「もう一つは、天皇は風呂敷包みの中から書類を出して、これは自分の私有財産だ、これを出すから日本の食料不足を助けて貰いたいと言った。マッカーサーは、その時に、天皇を本当に助けなければならんという気持ちになった。−だから、この憲法は、天皇というものの存在を認めてあって、しかも世界が一番非難する、天皇が親政をやっておったということは、主権在民であり、そうすれば、日本の国民にも満足してもらえるし、国際的には天皇主権ではないから、天皇を処罰する必要は無いというので、天皇を除けた。ぜひ、そうしてくれということであった」。

 以上を受けて、楢橋渡・氏は、「そこで、だから、奇しくも日本の天皇制が、歴史というか、憲法その他から抹殺されなかったということは、マッカーサーの聡明さにもよる」と述べている。

 楢橋渡・氏は、かくマッカーサーを讃え、再び玄峰老師の功績について次のように述べている。
 「けれども、そういう一つの大きな直観的な働きかけによって、天皇を救った、といっては語弊があるが、やはり、山本玄峰老師の示唆が大きな意味を持っている。玄峰法師という方は、そういう一つの歴史的なことをやっているのである」。
 「終戦の時の総理だった鈴木貫太郎さんにも、老師は、『大関は大関らしい負け方をしろ、忍び難きを忍べ』と云われた。それが終戦の詔勅のお言葉になったのだそうである。そうとすれば、終戦と憲法、日本の国体の危機のときに、あの老師は不思議な存在で、今日の日本のある陰の力になっている。つまり、大道を践んではずさずというところがある。だから、天地を貫いた一つの法則を見破っていた偉大な人だと思っている」。

 2006.10.5日再編集 れんだいこ拝

【加藤教授が新資料発見する考】

 一橋大学教授・加藤哲郎(かとう・てつろう)氏が、ワシントンの米国国立公文書館で、2001年に解禁されたOSS史料の中から、象徴天皇制の制定経緯に関する新資料を発掘した。2004.12月号月刊誌「世界」に論文が掲載された。それによると、次のようになる。(倉田佳典氏の2004.11.7日付け.「天皇を『平和の象徴』に 米国機密文書で判明 (共同通信全文)」参照)

 1942.6.3日、米国が太平洋戦争開戦からわずか半年後のこの日、陸軍省心理戦争課の大佐が「日本計画(最終草稿)」と題する文書を起草した。抜粋3P、本文32Pで、連合軍の軍事戦略を助けるための、日本に対するプロパガンダ戦略を提言した内容となっていいる。直接の起草者は陸軍省だが、国務省や陸海軍、英国情報機関などに回覧して仕上げるための最終草稿とされ、作成に当たってはOSSの前身であるCOI(情報調整官)スタッフの助力を得たことが明記されている。

 抜粋では、「日本の軍事作戦を妨害し日本軍の士気をくじく」など4つの政策目標を設定。それらを達成する11の個別的な宣伝目的の中に次のように記されている。
 「日本の天皇を、慎重に名前を挙げずに平和のシンボルとして利用すること」。

 本文では、「特別に慎重に扱うべき提案」として次のように記されている。
 「天皇ヒロヒトは、ヒロヒトという名前で取り上げるべきではない。天皇という肩書で言及されると、彼は平和と立憲主義の不幸な友人として描写されることになる。天皇は西洋の国旗のような名誉あるシンボルであり、政治的軍事的行動の正当化に利用され得る。天皇シンボルを軍当局への批判の正当化に用いることは可能であり、和平への復帰の状況を強めることに用いることができるだろう。もし、そうなれば、天皇の神性や無謬(むびゅう)性についての懐疑を広める効果をある程度持つことになり、日本の政治的安定に打撃を与える。いくつかのプロパガンダの目的に結び付けて天皇を利用することは、非常に有効だとみなされるだろう」。

 以上のような「情報工作の一環として昭和天皇を平和のシンボル(象徴)として利用する」計画を記した文書「日本計画(最終草稿)」が存在することが、CIA(中央情報局)の前身の情報機関であるOSS(戦略情報局)の機密文書群の中から明らかとなった。専門家によると、米国の公文書が天皇を「象徴」と初めて表現したのは、これまで確認された中では同年12月の「日本の国民統合の象徴」と表現した米国務省の覚書が、公文書に登場する最初とされてきた。今回の発掘史料がそれを上回り、最も早い時期に当たることになる。マッカーサー将軍がこの計画を知っていたことを示す1942.8.5日付け文書も併せて見つかり、戦後日本の象徴天皇制の起源を解明する上で極めて重要な手掛かりとなった。

 今回の公文書に盛り込んだ際の発案者を特定する作業が今後、研究の焦点の一つとなるが、「日本計画」の天皇観について、史料発見者の加藤哲郎教授は次のように述べている。
 「ジョセフ・グルー元駐日大使ら国務省の親日派が抱いたような、日本への畏敬(いけい)と愛着を含んだものではなく、象徴的側面の利用価値の強調が目立つ」。

 ちなみに、米国の情報機関は1941.7月に発足するCOIが翌年OSSに改組、戦後CIAに連なる流れがある。OSSの「頭脳」といえるのが全米の優秀な学者を結集した調査分析部(R&A)。その極東課日本班長となる日本政治の専門家チャールズ・ファーズが「日本計画」立案に重要な役割を果たしたのではないかと加藤教授は推定している。「米国の日本占領政策」の著作がある神戸大の五百旗頭真(いおきべ・まこと)教授は「ファーズか、エドウィン・ライシャワー元駐日大使の影響を受けている可能性が高い」と話す。今後は、史料に裏付けられた実証作業が必要となる。

 中村政則(なかむら・まさのり)・神奈川大教授(日本近現代史)は次のようにコメントしている。
 「象徴天皇制の研究は主に米国務省を対象に進められてきた。今回、後の政策に似た「天皇を平和の象徴として利用すること」を太平洋戦争の早い時期に米国が打ち出していたことを突き止めた功績は大きく、史料価値は高い。真珠湾攻撃で日本に対する米国世論の怒りが沸騰していた時期に、OSSがクールで的確な分析をしていた点が印象的だ。イラク戦争で失点を続けた後身のCIAとは雲泥の差だ。だが、象徴天皇制に至る道は数段階の紆余(うよ)曲折した過程があり、今回の文書が戦後の天皇制存続に直結するものとまでは言い切れないだろう」。

 ところで、昭和天皇に関する次のような指摘が為されている。興味深いので転載しておく。酒井直樹氏は、2003.9ー10月号「文学」(岩波書店)に寄稿した「占領と国民主義」という短い論説の中で興味深い事実を次のように指摘している。(木村愛二氏の2004.11.7日付「既知情報:詳しい研究書もあるが探す時間がない。電網検索情報」参照)
 日本占領のための合州国政府の計画はすでに真珠湾攻撃の翌年から練られていた。戦争中の日本の東アジア支配の構想を横領するかのように、当時少壮の東アジア学者エドウィン・ライシャワーは戦争省への提言のなかで天皇制を基軸にして日本占領を構想している。「慎重に計画された戦略にしたがって、我々は思想闘争に勝利する必要がある。その第一歩とは、当然のことながら、日本国内の協力的な集団を我々の側に引き入れることである。この集団が仮に、日本国民の少数部分を代表するものであるならば、それはある意味で傀儡政権ということになるだろう。日本はこれまで傀儡政権を戦略として幅広く利用してきたが、利用した傀儡が十分に機能しなかったために大きな成功をおさめることはなかった。しかし、我々の目的にとっては、最良の傀儡を日本自身が産み出しているのだ。我々の側に喜んで協力させることができるだけでなく、中国における傀儡がつねに欠いていた、膨大な重みをもった権威をかれ自身備えもつ、そのような傀儡が産み出されてきたのである。私が言わんとするのは、勿論、日本の天皇のことである」(「ライシャワーのメモランダム」)

 傀儡として利用するためには、天皇裕仁に戦争責任を帰してはならない、と1942年の段階でライシャワーは主張していた。日本占領中合州国は、日本の人民から「日本人の自覚」の基となる国民的伝統や国民文化の感覚を奪おうとはせず、天皇は国民的統合の象徴として「日本人全てが一体である」という情緒を支える制度的な保証として温存された。ということは合州国の日本占領の構想では、日本人の国民主義は何よりも占領のための道具の役割を果たしていた。ライシャワーの構想が直ちに合州国の占領政策に結実したわけではないが、その後の歴史はそれが基本的に彼の構想と矛盾することなく展開したことを教えてくれる。

(私論.私見) 加藤教授の新資料発見考

 こうなると、象徴天皇制は、OSS指令としてもたらされたことになる。楢橋渡・氏の「老師と新憲法秘話証言」と絡んでくるが、奇しくも一致したということになるのだろうか。もっとも、山本玄峰老師は日本民族の生き延びる叡智として考案し、OSSは日本民族懐柔策として昭和天皇の政治的利用策として発案したというように思惑が違うことになる。いずれにせよ興味深い。

 2006.10.5日 れんだいこ拝



【2・象徴天皇制の統治概念考】
 この稿は、従来さほど為されているように思えない「戦後憲法の象徴天皇制の法哲学的考察」をテーマとする。象徴天皇制に胚胎する国民主権主義と天皇制との整合的理解を求めて主権概念を明確化せねばならない。

 戦後憲法において天皇は象徴制として位置付けられた。それは主権の中身において、権限が君主制から主権在民制への転換を反映しており、移行の過渡期における妥協的折衷的制度として設けられたものであった。通常このように概括できると思われるが、君主制、主権在民制、あるいは元首とは何か、民主主義とは何か等々を厳密に定義しようとすると途端に事がややこしくなる。妥協的折衷的制度としての「象徴制」故に、あたかも新質としての「象徴制」を無視した元首制論と何ら変らない解釈さえ成り立つ。そうとならば、明治憲法における天皇の地位と戦後憲法における天皇の地位のどこが変化したのか、その問いかけが無意味になるであろう。

 学者の知識は変化の様を見ようとせず、何とかして概念的に固定化した枠の中に入れずんば落ち着かないようである。確かに、曖昧模糊とした「象徴制」ではあるが、その中に何を見ようとするのか、元首の地位変動を見ることこそが肝心かなめな事として問われているのでは無かろうか。このように問うのが、「戦後天皇制の位置付け論」であるべきであろう。その上で、「象徴制」の粗さを見直し、どう書き付けていくべきなのか問い直すというのが順序足るべきではなかろうか。れんだいこは、「戦後天皇制の位置付け論」に関し上述のような構図を持ちたい。この構図を如何に歪め、スコラーに議論が為されていったのか、以下検証していくことにする。

 さしあたり、次の論文を掲げる。ここに掲げる意味は余程有益故である。
「尾高・宮沢論争」は、当代一の碩学が戦後憲法の主権在民規定を法哲学的に論じたところに意味がある。「戦後民主主義」の内実規定において豊かなものがあるように思われるが、れんだいこは論争の中身を咀嚼しきれない。何度も読み返してみて、そのうちれんだいこの観点かられんだいこの言葉で分かり易く問題を再呈示してみたい。

 久保教授のホームページ「天皇は日本の元首」か? は、戦後憲法における象徴天皇制となった天皇及び皇室の国事行為の具体的な分析を通じて、象徴制の中身を検証しようとしている労作であるように思える。これについても、れんだいこの観点かられんだいこの言葉で分かり易く問題を再呈示してみたい。

 2003.2.13日 れんだいこ 

【戦後憲法における象徴天皇制規定の法哲学的考察その一、「尾高・宮沢論争」】 
 「戦後憲法における象徴天皇制規定の法哲学的考」について、村岡到・氏の『<ノモス>を追求する意義――尾高・宮沢論争』に学ぶ(「カオスとロゴス」第20号、2001.10月掲載) が有意義な論考をしているのでこれを学ぶ。原文はサイト元を見ればよいので、ここでは関連箇所の抜書き及びれんだいこ流理解で解析する。

 (解析しようと思ったが、なかなかうまくできない。当分保留する)

 村岡氏は次のように述べている。
 概要「そもそも『民主主義』とは何なのか? 戦後の『民主主義』をどのように理解するのか、『民主主義』とどのようにかかわるのが正しいのか。未だに解かれていない」。

 かく認識を示した上で、戦後直後の共に東京大学法学部教授の尾高朝雄と宮沢俊義とのあいだで交わされた1946年から始まる「尾高・宮沢論争」に注目している。「その問題提起は半世紀を経た今日なお学ぶに値いする深い内実を備えていたことに注意を喚起したい」。「尾高・宮沢論争」とは、古代ギリシャの政治的観念「ノモス」を廻って争われたが、「ノモスの語は忘れられても、そこで問題となっていたことが受容され共通認識として拡がりを得ればそれでよい」と云う。

 村岡氏は、「尾高・宮沢論争」の意義にも注目し、次のように述べている。
 概要「左翼のなかでは尾高は反動と非難され、この論争では宮沢に完敗したと評価されている。が、この論争を通して、尾高が民主主義を定着・発展させるための『国民の不断の努力』(憲法第12条)をきわめて重視・強調するようになったばかりか、社会主義を主張するまでに『飛躍』しており、その意義は高い。その意味で、尾高のノモス論を再検証してみたい」。
 上記の観点から、尾高の戦後憲法論の解析に向かう。最初に考察したのは、戦後憲法論である。「新憲法が一方において革新的な国民主権主義を採りながら、他方において伝統的な天皇制を存置した」象徴天皇制問題が絡むが、これを産み出した戦後憲法の特質をどう見なすべきか。

 尾高氏は、貴族院での「東京大学教授宮沢俊義議員および東京大学総長南原繁議員の質問演説」を取り上げ、概要「国体に関する有益な論議であった」と見立てた上で、両見解を次のように纏める。まず、宮沢説を次のように評価する。
 概要「宮沢氏は、新憲法創出過程を好意的に是認しており、その説は、今回の国家の根本機構の変革は、明治憲法第73条による憲法の改正ではなく、超憲法的な変革であり、学問的な意味では一種の『革命』であるということができる、と要約される。それは、理路整然、客観的な法理をもって事態を分析し、新憲法成立の持つ意味をば解明したものとして、永く記憶せらるべきものであろう」。

 れんだいこが補足すれば、宮沢教授のこの説は、「8月革命説」として知られる。宮沢説は、この憲法が天皇主権の明治憲法の改正から内在的に導き出されたのではなく、外部からのポツダム宣言の受諾に基づき、天皇主権の明治憲法とは全く異質の国民主権を突然持ち出したから、実質的に革命的なものである、としていることになる。

 他方、南原氏の論旨を次のように要約する。
 概要「新憲法創出過程を『押し付け』であるとして危惧しており、その説は、国民の真の自主的な意志によらないでかかる重大な変革がおこなわれようとしていることに対して深甚の遺憾の意を表明し惻々たる憂国の至情を吐露した。『上から与えられた憲法改正』は他日、10年20年ののちに、国民の間に大きな反動を起こす口実となる可能性がある。人類普遍の民主主義の下に、わが国固有の天皇制を正しく位置づけた新国家体制を基礎づけることが望ましい」。

 尾高氏は、典型的な両論を紹介した上で、次のように述べる。
 概要「日本国憲法は国民主権主義を採用したが、そこで、新憲法をめぐって最も問題となり、最も真剣に論議されたのは、新憲法によるこの国民主権主義の採用が、日本古来の『国体』の変革を意味するかどうかということであった。新憲法をめぐる国体論争を改めて通観して見ると、国体は変革されたという意見のほうが圧倒的に多いが、新憲法をめぐる解釈論上の最大問題の一つは、いかにして国民主権主義と天皇制との調和をはかるかにある。革新的の契機たる国民主権主義と、伝統的の要素たる天皇制とを調和せしめることが論述の目的に他ならない」。
  尾高氏は、「主権概念」の意味を問い直す。宮沢的「君主制から共和制への転換論」に見られる、日本では、最高の政治的権力としての主権は古来天皇に帰属して変わることがなかった、という認識の前提の下での、「国家には主権と呼ばれる最高の政治的権力があって、その権力は君主に帰属するか、国民に淵源するかのいずれかである」という捉え方に対して、「主権という言葉を、さような最高の政治的権力と解してよいかどうかが問題である」と云う。

 尾高氏は、「主権=最高の政治的権力」論は、容易に主権の交代へ繋がることになる。しかし、主権概念とはもっと究極的絶対的なものであり、容易に動かざるものとして措定されるべきものではないのかと問題提起し、「君主主権であってはならず、国民主権でなければならないということを、あたかも公理のように認める人々は、ここのところを胸に手をあてて深く考えて見る必要がある」、「緊急切実な今日の根本問題は、これまで政治上の絶対権のように解されていた主権の概念をば、法の理念の下に正しく改鋳することにこそ求めなければならない」と云う。
 そして、「ノモス」論に入る。国家主権概念には二つの源流がある。一つは、「マイト・イズ・ライト(力こそ正義なり)」の思想であり、もう一つは、「ソクラテス的正義論(法は正義の理念に立脚せねばならない)」という思想である、と云う。そして、ソクラテス的正義論にある至上理念としてのノモスに着目し、「実力としての主権概念が時代錯誤であるならば、新たに確立せられるべきものは『ノモスの主権』の概念でなければならぬ」と云う。

 ならば、ノモスとは何か、と問う。「それでは、法の正しさを決定する法の理念とは、そもそも何であろうか。世にこれほど難しい問題はない。しかしまた、世の中にこれほど昔から一つのはっきりした答えの与えられている問題もない。それは、人間の『平等』である。すべての人間の『平等の福祉』である」。「人間平等の正義について論じた学者や思想家は、もとより数かぎりない。しかし、その中で正義の理念を最も明確に、最も周到に論述して、人類の正義思想に確乎不動の根拠を与えたものは、ギリシャの大哲学者アリストテレスである。アリストテレスは、人間の最高至上の目的はエウダイモニアの実現にあると説いた。エウダイモニアは、人間性の充実であり、完成である」。それは「善福」であり「福祉」(68-69頁)である。

 尾高氏は、アリストテレスの「配分的正義」(71頁)、「ドイツ理想主義哲学の巨星フィヒテ」の「人間らしい生活」、「1776年のアメリカ合衆国の独立宣言」、「1789年のフランス革命の原理」、「孔子の至言」である「寡なきを患えずして、均しからざるを患う」(72頁)を、想起して、「現代の社会化された民主主義は……各人の経済上の立場をできるだけ実質的に平等ならしめようとする方向にむかって進みつつある」と明らかにしている。憲法からの引用とは明示はしていないが、憲法第25条の「健康にして文化的な最低限度の生活」にも触れている(74頁)。

 尾高氏は、「主権は力であるよりも義務であり、主権概念は権力概念であるよりも責任概念でなければならない」と結論する(75頁)。
 以上を受けて、「イデオロギー的な主権の主体が君主にあるか、国民に存するかは、かならずしも根本・窮極の問題ではない」(84頁)と論旨を転換する。そして、「現実を超越する法の理念をば、国家機構の中に何らかの形で『象徴』させるということにも、深い理由があるといい得るであろう」(85頁)と或る伏線を張る。

 「第3章 国民主権の原理」の「1 国民主権主義と君主制」では、「今日の世界に現存する君主国家の多くは、国民主権主義に立脚している」として、両者は「理論の上からいってもかならずしも矛盾しない」(88頁)と説く。「2国民主権主義と国家契約説」では、「ルソーの契約説」を取り上げ、その核心は、「人間自由の理念と一見矛盾するように思われる国家制度は、どうすれば正当な根拠をもつものとして是認され得るか」にあったとする(110頁)。「3法の理念としての国民の総意」では、「個々の国民」と「国民の総意」との関係について、「ルソーの有名な国民の『総意』( volonte generale )と国民の『すべての意志』( volonte de tous )との区別」(121頁)について引例しながら説明する〔岩波文庫では「一般意志」と「全体意志」と訳されている〕。ここは難解であるが、「国民主権主義は『ノモスの主権』を認め」、「『多数決原理』を認める立場でなければならない」と結論されている(128-129頁)。

 「第4章 天皇統治の伝統」では、日本史を簡単に振り返りながら、「天皇の統治とは、現実の政治権力の行使とは次元を異にする」として、「理念としての意味において」(144頁)考えるべきだと主張する。そして、「理念としての天皇の大御心」は「永遠に変わるべからざる法の正しさへの志念であり、『ノモスの主権』の民族的な把握の仕方に他ならなかった」と主張する(151頁)。したがって、新憲法の制定についても、「『国体の変革』であるとして、天地鳴動する問題のように考える必要はない」(152頁)と言う。ところが、同時に「その同じ理念を主体的に把握する方法としては、両者〔天皇の統治と国民主権〕の間に格段の相違がある」とも「日本の政治原理の根本からの変革である」とも確認する。そして、「新憲法における国民主権と天皇制との調和にむかって、建設的な考察をすすめる」と結論する(165−166頁)。

 「第5章 新憲法における国民主権と天皇制」の「1国民の総意による政治」では、「国民主権主義の制度上の運用、ならびに象徴としての天皇の地位を、新憲法そのものについて吟味」する。憲法の第41条、第96条、第81条、第79条、第11条、第13条、第25条、第27条、第28条が説明される。各条が何を規定しているかは省略するが、「言論の自由と結びついた多数決原理こそは、民主主義の生命であり、本質である」(178頁)と確認する。「2象徴としての天皇」では、「国家の全体性」(181頁)とは何を意味するのかと問題を立て、「象徴」(183頁)の必要性を説く。「普通には、有形の『物』が無形の理念の象徴とされるのであるが、その象徴が『人』であってはならないということはない」(183頁)とする。〔この説明はいかにも厳密性を欠く〕

 尾高氏はここから、「国民の一体性を象徴するものもまた天皇である」(187頁)と結論する。そして、最後の節となる「3新憲法における国民主権と天皇制の調和」では、「天皇の統治とは過去の日本においても単なる名目にすぎなかったのである」という認識を基礎に、新憲法の天皇制を「天皇制の本質の変革」(196頁)ではないと評価する。「天皇の統治とは『正しい統治の理念』であった」と理解して、「国民主権ということも、つきつめれば、同じ『正しい統治の理念』の表現形態に他ならない。だから、天皇の統治といっても、国民の主権といっても、『ノモスの主権』たる理念の内容においては、何も変わるところはないのである」(197頁)と結論する。と同時に、尾高はすぐにつづけて「ただ、同じノモスの主権をば、天皇の統治としてではなく、国民の主権として宣言することは、国民の政治に対する自力本願・自己責任の態度の表明として、格段の進歩的な意味をもつ」と言葉をつなぐ。そして、「象徴としての天皇の行為は、……国民主権主義の理念と意味に満ち満ちたもっとも重要な国事となる。それが、新憲法における国民主権と天皇制の真の調和である」(201頁)と、尾高は最後の結論を与えて、この論文を結んでいる。

 以上、かなり忠実に尾高の@『国民主権と天皇制』の内容を紹介することになった。いくつもの重要な問題が提起されていたからである。この調子で論述すると冗長になるので、以下の論文についてはごく要点だけにする。
 B その後の応酬

 この@論文に鋭い批判を浴びせたのが、宮沢A「国民主権と天皇制とについてのおぼえがき」である。宮沢の批判の核心は「これまでの日本の政治形態の根本原理は、天皇主権であった。国民主権は、この天皇主権と原理的に両立しない」(282頁)という点にある。宮沢は「主権」概念の多義性を説いたうえで、「このおぼえがきで問題とする主権は、政治のあり方を最終的に決定する意志である」と限定する。「したがって、ここにいう主権の主体は、具体的な人間でなくてはならない」(286頁)。このように限定すれば、「主権はどこにあるか。……この問題に対して、ノモス主権〔論〕は少しも答えるところはない」ということになる。だから「ノモス主権論は、そういう目的――つまり主権の問題に直面することの回避または延期――に利用される可能性がある」(296頁)と批判する。言葉を換えていえば、「天皇制に与えられた致命的ともいうべき傷を包み、できるだけそれに昔ながらの外観を与えようとするホウタイの役割を演じようとするものである」(299頁)。宮沢は、尾高が一貫して「天皇主権」と書かずに「天皇の統治」と表現する不正確さとその意図を批判する(299頁)。宮沢はきっぱりと「新憲法における天皇制についての論議は、従来の天皇統治の原理、すなわち天皇主権の原理はいまや否定されたということの明確な認識から出発しなくてはならない」(307頁)と明確にする。


 宮沢はさらに、「多数決原理」についての尾高の理解についても批判を加えている(311頁以降)。

 宮沢は最後に「〔尾高〕教授の意図は明瞭である。それは、一言でいえば新憲法における天皇制のアポロギア〔弁明〕である」(316頁)と結論する。そのうえで、宮沢は「私は決して現在、天皇制を廃止すべきものと考えているわけではない。反対に、新憲法の定める天皇制には賛意を表しているものである」(317頁)と付言して論を結んでいる。


 A論文への反批判が、尾高B「ノモスの主権について」である。尾高は、「天皇制のアポロギアである」とする宮沢の「言葉は、まさにその通りであ」(203頁)ることを認めた上で、「しかし、私がこの問題を論じた意図は決してそれだけではない。……自分自身の専攻する法哲学の立場から考察」することも意図していたと説明する。「マイト・イズ・ライトという命題」(204頁)を是認してよいかどうかという問題である。

 同じ論旨のくりかえしと、私には思えるので、ここで尾高が「いかに『主権の存する国民の総意』だからといって、10年後に憲法第9条を破棄し、日本は侵略戦争を国是とする国であると規定することができるとは、だれも考えないであろう」と具体的な例をあげていることだけを紹介する。「それが『できない』という理由」は何かが問題なのである。「それが『できない』というのは、もはや事実上の『不可能』ではなくて、規範的に『そうしてはならない』ということを意味しているのである。そこに、……ノモスがある」(216頁)。国会に憲法調査会が設置され、また憲法改正が声高に叫ばれている今日からすると、隔世の感が深いが、問われている根本問題は変わらない。そのことのゆえにも、本稿ではていねいに当時の論争を跡づけてきたのである。

 それはともかく、尾高は「『主権』の力といえども、決してオールマイティーではない」(218頁)ことを強調する。そして、「法は結局マイトの動くままに動かされるか……というソフィスト・ソクラテスの対立いらいの人類の大問題と取り組んでいるのである」(224頁)と再説する。「この大問題の帰趨にくらべれば、『天皇制のアポロギア』のごときは第二次的な問題にすぎない」(225頁)と、一歩後退する。

 尾高は、宮沢が問題にするような意味での「主権」については自分は「終局的な主権否定論である」(226頁)と答えた上で、憲法に明記してある「主権」の意味について、ノモスを実現する「責任が、他のだれでもない日本国民自身の双肩に担われている」(227頁)ことを強調する。「『民主政治における国民の総意は、つまり、多数の意志そのものなのである』とのみ言って、それ以上に、前者の理念性と後者の責任性とに省察を加えようとされない〔宮沢〕教授の態度は、典型的な法実証主義のそれと共通しているように思われる」。そこに、尾高は宮沢との「かなり大きな態度の相違が横たわっている」(246頁)と反批判を結んでいる。


 さらに、B論文に対して、宮沢C「ノモスの主権とソフィスト」が再批判を加えた。宮沢は、「私は、ノモス主権論によって、国民主権と天皇制との原理的な区別を中和しようとしたり、天皇制のアポロギアを試みたりすることを不当としたので、ノモス主権論そのものについては、特に批判するところはなかった」(326頁)と確認した上で、「天皇主権と国民主権との原理的な区別を問題にしている」(329頁)と再説する。「国家主権」や「多数決原理」についても説いている。前記の「第二次的な問題」について、それを問題にしたのが尾高のほうであったことを注意し、それを「いわば脇へおしやり、問題をきわめて無造作にソクラテス・ソフィストの対立いらいの問題にすりかえておられることは、決して科学的な論法とはいえないと思う」(342頁)と切り返している。

 最後に、C論文に対して、尾高は、D「事実としての主権と当為としての主権」を書き、すでにみたように、論争の打ち止めを提案した。尾高は、論争を囲碁にたとえながら振り返って整理し、この論争を通して明らかになったことは何かをいくつかあげている。その一つは「主権という言葉のもつ『事実』としての意味と、『当為』としての意味との区別である」(258頁)。尾高は、「『建前』としての国民主権と、同じく『建前』としての君主主権とは、はっきりと対立したものとして考えられなければならないと〔宮沢が〕言われるのは、あくまでも正しい。言い換えると、もしも私の『ノモス主権論』がこの対立をぼかすような作用をいとなんでいるとすれば、その点で私の理論はまちがっている」(269頁)と認めた。潔さの度合いが高いか否かは別として、明確に、尾高は自説の誤りを承認したと言える。

 尾高は、「多数決原理」の問題と一体である、「国民代表の概念がもつフィクティーフ〔擬制的〕な性格」(265頁)についても、戦前の宮沢論文「国民代表の概念」(『憲法の原理』所収)を想起しながら再説している。また、マッキイヴァアの『政治組織論』を引きながら、民主主義とは何かについて国民による「政治への支持や批判の活動」(278頁)の意義を明確にしながら(後述)、「国民のすべての責任と協力とによって、ノモスの高嶺に登ろうという心構え」(282頁)を強調して、この論争を終結させている。
 E以下については、次節で扱うことにして、次に視点を変えて、この「尾高・宮沢論争」の時代的な背景について明らかにしよう。

 2 時代的背景

 1945年8月10日、大日本帝国の政府は、ポツダム宣言を受諾することを連合国に対して申し入れた。そして、15日に天皇は「玉音放送」で「終戦」を明らかにした。ここに、1931年の柳条溝事件(満州事変)に始まるいわゆる15年戦争は敗北した。軍国主義の支配体制は崩壊し、アメリカ帝国主義を主力とする連合国の占領が開始された。1947年には中止された2・1ゼネストを頂点に労働運動が高揚し、50年には戦後史の局面を転換させた朝鮮戦争が勃発した。

 敗戦は、日本の政治・経済・文化・社会の大変動をもたらした。現人神とされていた天皇は、46年元旦の詔書で自ら「現御神」でないと言明し、「人間」となり、大日本帝国憲法は存続できなくなった。経過は省くが、日本国憲法(以下、憲法と書く)が同年11月3日に公布され、翌47年5月3日に施行された。

 憲法はその第1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と定めた。憲法の前文には「……主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」と鮮明にしている。


 これらの条文が、1889年(明治22年――当時の日本社会にはその意味を理解する質は育っていなかったが、この年はイギリスの名誉革命200年、フランス大革命200年に当たっていた)に制定された大日本帝国憲法(以下、明治憲法と書く)の第1条にある「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」や「天皇は統治権の総覧者」とは、全く異なることは余りにも明白であったが、厳密な意味でいかに異なるかについてはなお不明の余地を残していた。

 そもそも新憲法は、「朕は、日本国民の総意に基づいて、……帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。御名御璽」なる「上諭」と合わせて公布された(「御名」とは天皇の名で、「御璽」とは天皇の印である)。「朕」なる珍妙な主語は完全に死語と化しているし、この文書は忘れられているが、手続きとしては明治憲法の第73条の改正規定に従うという形式を踏んでいた。

 したがって、この憲法の置き換えについて、賛否両論がさまざまな立場からわき上がったのは当然である。なかでも、もっとも主要な問題は、憲法が全く新しく取り入れた「国民主権」と旧来から続く「天皇制」との関係をいかなるものとして理解するかであった。明治憲法では「統治権の総覧者」とされていた天皇が、新憲法では「象徴」とされいくつかの「国事行為」しか行えなくなったのだから、決定的な変化=転換が実現したとは言えるが、天皇そのものが廃位されたわけではないという点では「天皇制」は存続したからである。そこで、起こるべくして起きたのが、「国民主権」と「天皇制」との関係をめぐる論議であり、論争である。

 後で取り上げることになる著作で、杉原泰雄氏は「『国民主権論争』のなかでとりわけ著名であったのは宮沢・尾高論争である」(4頁)と書き、「これに匹敵する著名な論争としては佐々木・和辻論争があげられる」と書いている(15頁)。1943年生まれの私には、当時の雰囲気が実感的に分かるはずもないが、後の論争は、哲学者の和辻哲郎と立憲主義に立つ法学者の佐々木惣一京都大学教授が交わしたもので、佐々木の論文は雑誌『世界文化』に、和辻の論文は岩波書店の『世界』創刊号に掲載されたり、地方の新聞でも取り上げられた。他方、「尾高・宮沢論争」は、明治憲法制定の前年、明治21年(1888年)に創刊された『国家学会雑誌』というアカデミーの専門誌で展開されたもので、単行本になったとはいえ一般にはどれほどの拡がりをもっていたのか、私には判断できない。法学者にとってという限定を加えれば、杉原氏の言うとおりであろう。

 外形的なことはさておいて、当事者の宮沢が『国民主権と天皇制』の「はしがき」で説明している。「……それ〔新憲法制定〕によって天皇制の性格が本質的に変わったこと――ほかの言葉でいえば、いわゆる『国体』の変革が行われたこと――を真正面から承認することを好まず、というよりはむしろ、承認するに忍びず、国民主権の確立がかならずしもそれまでの天皇制に対して本質的な変化をもたらしていないと思う、というよりはむしろ思いたいという気持が当然のことであるが、当時の国民の一部になかなか強かった。そして、それに応じて、そういう気持を多かれ少なかれ満足させる効用をもついくつかの著作があらわれた。その代表的なものとしては、哲学者の作品としては和辻哲郎博士の『国民統合の象徴』を、また法学者の作品としては尾高朝雄博士の『国民主権と天皇制』をあげることができようかとおもう」(427-428頁。傍点原文)。

 ここで、当時の社会の状況に少しでも理解を深めるために、ある哲学者の回想を引いておこう。「終戦後の2、3年、ジャーナリズムの上で『哲学時代』というのがあった。敗戦によって今までの価値体系とその権威がくずれさり、そして朝から晩まで空腹をかかえて先の見透しもつかぬといった一般的状況の中で、人々はすべてを『哲学的』に解決しようとした」4)。「哲学時代」に焦点が当てられており、場違いの感もなきにしもあらずであるが、この回想の筆者が誰かを知れば、私たちの視野を拡げることができるであろう。

 回想の主は、「主体性論争」の主役である、在野の哲学者梅本克己である。「哲学時代」が強調されているのは「主体性論争」5)の背景を見るという視角ゆえであるが、実は、梅本が最初に問題提起した「人間的自由の限界」が雑誌『展望』に発表されたのは1947年2月であり、内容的にもこの標題にも明示されているように、「尾高・宮沢論争」と交叉していた(はずなのである)。この二つの論争を関連させて論じた文献を読んだことはないが、梅本が後年に強調した「政治からの哲学の自立」は、尾高が求めた課題と通底している。


 3 尾高と宮沢との関係

 この節の最後に、尾高と宮沢との個人的な関係についても少し触れておこう。尾高と宮沢とは、この論争を交わした時期にはともに東京大学法学部の教授であった。生年はともに奇しくも明治憲法が制定された1899年(尾高は1月、宮沢は3月)だから、50歳前後の円熟しつつある年齢である。宮沢は、東京帝国大学法学部を1923年に卒業し、同大学助手を経て34年に教授となる、美濃部達吉教授――戦前1935年に「天皇機関説事件」によって軍部から弾圧された、リベラル派の重鎮――の高弟であった。尾高は、東京帝国大学法学部卒業のあと、京都帝国大学法学部と大学院を卒業し、1924年に創設された朝鮮の京城帝国大学教授を経て、初期の主著『国家構造論』をもって東京帝国大学で法学博士の学位を取得し(そのさいの審査にあたった一人が宮沢であった)、1944年に東京帝国大学の教授になった。両人は東大法学部の俊才として敗戦後にめざましくその言動が脚光を浴びた。憲法学の宮沢は『世界文化』誌上で「八月革命」説を主張し(前記のA)、法哲学の尾高は『法の窮極に在るもの』(1947年)を世に問うた。


 尾高が1956年に歯の治療でのペニシリン禍で亡くなった時、葬儀委員長を務めたのは宮沢であり、両人は公私にわたって親交深いものがあった。宮沢は、前記の同名の『国民主権と天皇制』を、尾高の一周忌に上梓したさいに、そのはしがきで「あの楽しかった論争をなつかしく思い出しながら、このつたない本を、つつしんでその霊前にそなえる」6)と記した。没後に編集・刊行された尾高『法律の社会的構造』の「あとがき」で宮沢は「彼は、人の親切や好意に対して人一倍敏感であった。この本を開けて見るときの彼の心から嬉しそうな顔を頭の中に描くことは、われわれ残された友人にとって、せめてもの喜びである」と書いている(379頁)。

 また後年、宮沢の死(1976年)にさいして、尾高の息女久留都茂子さん(東京大学法学部に在学し宮沢にも学んだ)は、宮沢が尾高家を訪ねたときの情景を温かく回想している7)。久留さんによれば、きびしく論争したのに、互いにさわやかであったということである。尾高はクラシック音楽を好む世話すきの清廉な人物だと評されている。後年、プロ野球コミッショナー委員長も務めた宮沢は宝生流の謡もたしなむ多芸の人であったという。世代が大きく異なるだけではなく、私とは別世界の消息でもあり、資料もないが、このような両人の学者としての生き様のなかで、「尾高・宮沢論争」が産出されたことを知るのは無駄ではないであろう。
 第2節 「尾高・宮沢論争」についての従来の評価

 1 通説的評価では尾高説の「敗北」

 この論争はどのように評価されたのか。1988年に「ノモス主権論争・私見」を書いてこの論争に再び脚光を当てた菅野喜八郎氏が、この論文の冒頭で杉原泰雄氏の評価を典型的なものとして引いている。杉原氏は「宮沢教授の徹底的な勝利であった」とか「尾高説は……論理的に自滅に近い状態に陥っていた」とまで尾高を酷評していた。菅野氏の引用はこの程度なので、少し補足すると、杉原氏がこの論争を自著『国民主権の研究』の冒頭に据えたのは、実は宮沢の「国民主権」論が憲法学の通説になっていることを批判するためであり、杉原氏は両者の見解を簡単に整理はしているが、「この論争の全過程を……評価することは筆者の当面の課題ではない」と断っている(9頁)。ともかく、「尾高敗北・宮沢勝利」という評価が一般的であったことが分かればよい。尾高の愛弟子たちによっても語調こそ違うが同じように評されていた。

 その一人でもある松尾敬一が「戦後の尾高法哲学」で収集しているので、紹介しておこう。井上茂氏は、「尾高教授にとっての問題は、国民主権と天皇統治の原理的調和をはかることにあった。しかし、『原理的』といいながら、教授の立論や論旨の展開はつねに『天皇制のアポロギヤ』たる実践的動機にあまりにも直接にそくして行われた。むしろ『原理的』には宮沢理論を承認しつつ、実践的意図と情緒的評価にもとづく『調和』を企図するものであった」(196頁)と評価した。

 小林直樹氏は、「日本のアンシャン・レジイムの価値体系の残像が鮮やかに投影されて」おり、「人間平等の福祉と天皇制と〔の『調和』〕は……理論的には到底みとめがたい」(同)と書いた。

 松尾は、鵜飼信成氏、石田雄氏の評言も引いている。松尾自身は、宮沢の批判に基本的に同意しながらも、尾高@論文に書かれていた、松山鏡という物語を例にした「可憐な態度ではあるが、非科学的な態度である」という文章を、尾高の天皇制認識あるいは批判の言として読み込みながら尾高にいわば同情的ともとれる余地を残しながら、この論争の紹介を結んでいる(197頁)。

 確かに、「天皇制のアポロギア」という尾高の当初の主張について言えば、尾高の「完敗」と評価しても失当ではない。宮沢の批判は“一本技あり!”の胸のすくような鋭さをもって尾高の弱点を突いている8)。もし、この論争が「天皇制」の理解あるいは位置づけだけをテーマにしたのであれば、このような評価だけで十分である。だが、「尾高・宮沢論争」はすでに前節で明らかにしたように、それだけを問題にしていたわけではない。

 2 通説を批判する菅野氏の見解

 次に菅野氏の見解を紹介する。菅野氏は前記の論文で、「この論争は宮沢教授の一方的な勝利に終わったというのが、大方の見方のようである」と確認したうえで、「しかし、私にはそうは思えない」(345頁)と起点を設定する。菅野氏は詳細に論争を追跡しているが、独自に主張しているのは、宮沢が尾高没後に書いたF「憲法の正当性ということ」で「憲法の正邪曲直を判定する基準になる『名』は、決してないわけではない」(宮沢:408頁、菅野:388頁)と書き、この「名」の内容を「国民一人一人に対して『自由』と『人間に値いする生存』を保障すること」(宮沢:412頁、菅野:388頁)と書いたことをクローズアップして、それが尾高が強調していた「ノモス」とその内実である、アリストテレスの「エウダイモニア(真の幸福)の自己完成の機会」を与えること、と「何処にその内容の違いがあるというのか」(388頁)と糾す。つまり、「敗北」したかに思われている尾高がもっとも強調した<ノモスの追求>という一点において、後年の宮沢も同一の見解を表しているがゆえに、この点では尾高の主張にはそれだけの普遍性あるいは正しさが秘められていたと明らかにした。まことにもっともな指摘である。


 もっとも、宮沢はすでにA論文で「『王』がノモス、あるいは正義を破ることができないことは、いわば自明のことである」(297頁)と書いていたし、C論文では「私は、ノモス主権論によって、国民主権と天皇制との原理的な区別を中和しようとしたり、天皇制のアポロギアを試みたりすることを不当としたので、ノモス主権論そのものについては、特に批判するところはなかった」(326頁)と確認し(この二つは菅野氏も引用している。356頁、359頁)、「私も、天皇であれ、国民であれ、主権のありかとされるものは、つねに『政治の矩』を守り、『ノモス』にしたがわなくてはならないと固く信じている」(327頁)と書いていた。したがって、この点では宮沢が以前の見解を変更したというわけではない。すでに、尾高がD論文で、宮沢A論文の趣旨要約のなかで「だれが主権の担い手になろうとも、その主権を用いるにあたって、正しいノモスの理念にしたがうように努力しなければならないというのは、きわめて自明な政治の格率である」(250頁)というのが宮沢の見解であると確認済みだったのである。

 菅野氏は取り上げていないが、宮沢は1963年に尾高朝雄教授追悼論文集『自由の法理』に寄稿したG「たたかう民主制」で、「ほととぎすの卵とトロヤの馬」という尾高が好んで例示した「民主主義のジレンマ」を冒頭で確認したうえで、この難題を解決する道を、ロオウェンスタインの言葉を引いて「たたかう民主制( militant democracy )のいちばん重要な態度は、民主制における政府および人民の生き残ろうとの精神である」(175頁)と結論している。論文の標題もそこからであろう。この「生き残ろうとの精神」は、尾高が@論文で問題にした「心構えの問題」(後述)に通底するものであろう。

 いうまでもないが、菅野氏も「天皇主権と国民主権とは……全く異なるものであって両者が区別されねばならぬということを、尾高博士は〔D論文で〕はっきり容認され、その限りでは、宮沢教授の批判に屈せられている」(361頁)と評価している。

 また、菅野氏は、尾高が「ノモスに反する実定法の無効を主張できな」(391頁)かったことを弱点だと批判している。これは「悪法も法なり」でよいのかどうかという大問題であるが、「法の効力」や「法の実定性」をどのように捉えるのかという難解な問題と重なってもおり、本稿では取り上げない。しかし、この点とも関連して、前記の「心構えの問題」をめぐって、私たちは菅野氏の尾高解釈のなかに看過できない理解の相違を見いだすことになる。この点は節を改めて明らかにする。
 第3節 「社会主義」主張への<飛躍>

 1 「民主主義」実現のための「心構え」

 菅野氏は、尾高の限界を指摘する文脈のなかで、「ノモスに反する立法の無効の主張にまで到っていない」と書き、「ノモスの遵守は『王』の『心構え』の問題に止まり」と書いている(390頁)。次の頁でも「ノモス主権論が『王』の『心構え』についての教説、余りにも自明な政治的格律に終わらざるを得なかった……」(391頁)と書いている。注ではさらに「為政者の心構えについての説諭に終わらざるを得なかった」(394頁)とも書いている。

 しかし、これは完全な誤解である。注意して読むと分かるのだが、なぜ「王の心構え」と書かないで、「王」の「心構え」と分けて表記してあるのか、同じように「為政者の心構え」は引用の形ではないのか。その理由は、尾高はどこでも「王の心構え」と書いていないからである。だから、ここにはどこからの引用かは明示されていない。もちろん尾高は「為政者の心構え」とも書いたことはない。尾高は@論文で「ノモスの主権とは、むしろ、何が法であるかを決定する力をもった人々の心構えの問題でなければならない」(64頁)〔A〕と書いたのである。この文章を菅野氏も引用している(366頁)が、そのさい、どういうわけか「力をもった人々の」を脱落させて「ノモスの主権とは、……何が法であるかを決定する心構えの問題でなければならない」と書き、「心構えの問題」に傍点を付していた。確かに、〔A〕に直続して「権力を有する者が……」と書いてあるから、尾高のこの文脈では「権力を有する者」「の心構え」と理解すべきであるが、統治形態が「民主主義」に転換した場合には、「何が法であるかを決定する力をもった人々」とは、「王」や「為政者」ではなく「国民」と考えるべきであろう。

 尾高のこの〔A〕については、宮沢がA論文で引用して批判を加えていた。引用にさいして、宮沢は「心構え(!)の問題」と!マークまで挿入して傍点をふり、「これでは、ノモスの主権ということは、単なる立法者の心かまえの問題になってしまいそうである」(298頁)と解釈し、「ノモス主権論には、……『主体性』が全く欠けている」と批判した。この批判に答えて、尾高は「現実の社会生活をいとなんでいる人々の実践的な『心構え』のいかん」が問題なのだと答え、「国民自身のもっとも強烈な『主体性の自覚』でなくてなんであろうか」(239頁)と強調した。

 菅野氏は「『王』の『心構え』についての教説、〔=〕余りにも自明な政治的格律」と処理するが、それでは逆に宮沢――宮沢は「王の」とは書かずに「立法者の」と書いていた――の立場に近くなってしまうのではないか。そうではなくて、“国民の心構え”の問題をうまず強調するところにこそ尾高の特質・強調点があると理解すべきなのである。「心構え」は学術語というよりは日常語であるが、だからといってその意味が軽いわけではない。そのことは、尾高D論文の結びの文章を読めば明白である。そこには「……国民のすべての責任と協力とによってノモスの高嶺に登ろうという心構えを示している……」(282頁)と書いてある。54年版の『国民主権と天皇制』の「序言」でも「実際の政治にたずさわる政党人にとって、その心構えがとくに必要である」(2頁)と記していた。

 尾高はB論文の結論部分で、すでに引用したように宮沢をつぎのように批判した。「『民主政治における国民の総意は、つまり、多数の意志そのものなのである』とのみ言って、それ以上に、前者の理念性と後者の責任性とに省察を加えようとされない〔宮沢〕教授の態度は、典型的な法実証主義のそれと共通しているように思われる」(246頁)。

 同じように、D論文では、「……現実に、国民による国民のための政治になるように努力しなければならないと言えば、そこに、民主主義における政治の矩が発見され、ノモスの理念が追求されることになるであろう」(266頁)と書いている。そして、「マッキイヴァアは、民主主義とは、決して多数とか民衆とかの支配を意味するものではないと言った。……マッキイヴァアのいうとおり『国民のいとなむこの活動〔政治への支持や批判の活動〕をはなれては、民主主義を他の政治形態から識別する標準〔指標〕はあり得ない』のである」(278頁)と明らかにする。

 尾高は、憲法第12条の「国民の不断の努力」をB論文でも(229頁)、D論文でも(281頁)引用して強調している。つまり、尾高は、天皇主権と国民主権との相違を静態的に没活動的に、あるいは没当為的に比較して示すことよりも、「民主主義」を<「不断の努力」によってその理念を実現する活動>として把握し、この努力を促すことこそが重要だと強調したのである。この姿勢は、1946年1月に創設された民科(民主主義科学者協会)に参加したことにも、1948年に刊行された文部省の高校生向けの教科書『民主主義』の執筆協力としても発揮された9)。

 『法の窮極に在るもの』の「第6章 国内法の窮極に在るもの」で「普遍的な正しい政治の矩を天皇の大御心という特殊な形で把握してきた」(271頁)と主張していた尾高が、この論争の最後には「天皇制のアポロギア」を捨てて――この限りで宮沢の批判に「敗北」した――「国民主権」の当為・理念を事実として実現するために国民は「不断の努力」を発揮しなければならないと強調する――この点では宮沢と異なる――までに<転換>したのである。松尾は、「戦後の尾高法哲学」で「立憲君主主義者」から「民主主義の使徒」への「変身である」(199頁)と評価している。

 先に、杉原氏が、「宮沢・尾高論争」と合わせて「佐々木・和辻論争」にも触れていたと紹介したが、『国民統合の象徴』で「天皇制」を擁護・正統化した和辻は、日本史の領域からの「天皇統治の伝統」を繰り返し説くだけであって、この著作には「民主主義」は一言も出てこない。ただわずかに、「国民全体への奉仕という心構えは、民主政治下においては一層必要である」(354頁)と書かれているだけである。ここにも「心構え」が出てくるのは偶然であろうが、「国民全体への奉仕」と限定されている点でも尾高の<ノモス>をめざす“国民の心構え”とは異なる。尾高を和辻と同質の「天皇制」擁護論者と評価することはできないのである(杉原氏がそうしているというのではないが)。

 尾高はこの論争をD論文で、自分が先番で宮沢と打つ「ざる碁」にたとえて説明したが、三段跳びにたとえると、この尾高の<転換>はホップにすぎなかった。そのことは、次の著作が明らかにすることになる。
2 『自由論』における「社会主義」の主張

 尾高は1952年に『自由論』を著した。久留さんによれば、「戦災後のバラック」(居宅)でJ・S・ミルの同名の著作を念頭におきながら書いていたということである。「はしがき」には、オーストリア留学中の恩師ハンス・ケルゼンがナチスに追われてアメリカに退避した運命を回想し、この年2月に起きた「東大〔ポポロ〕事件」の渦中で執筆したと記してある。古来からの法哲学史上の難問に正面から向き合って格闘したこの名著の「第3章 政治の自由」で、尾高は「資本主義から社会主義への転換」を提示した。

 尾高が説く「社会主義」は、「公式論的に一挙に断行せられるもの――尾高は「プロレタリア革命」を想定――ではなく、一進一退の漸進過程を辿らざるを得ない」。尾高はイギリスの「フェビアン協会」(145頁)を推奨している(この名称は、正面衝突を避けて勝利したローマ時代の名将ファビウスに由来するという)。内容的には「勤労大衆の生存権」や「協同組合」を重視している。「市民社会の生活原理たる民主主義の放棄にではなくて、民主主義を政治生活から経済生活へと深めていくこと」(144頁)が必要だと明らかにしている。「第4章 経済の自由」では「利潤分配制」10)を提唱し(154頁)、第6章では「合理的な世界計画経済」の「立案・実施」(280頁)を説いている。この著作のもう一つの重要な特徴は「天皇」が一言も登場しないことである。少し前の尾高は「国民主権と天皇制との調和」を図ろうとしていたのであり、この変化は重大な転換と評価すべきである。


 尾高を「反動」と頑なにレッテルはりしている者にとっては信じられない思いであろうが、尾高は明白に「社会主義」を主張したのである。ただその「社会主義」は当時の左翼の常識の枠をはみ出していた。それは、今の言葉では「ソ連型社会主義」――尾高にとっては「共産主義」――とは異なる道であった。ここに尾高の特色がある。

 尾高自身によって50年に「打ちかけのままにしておく」とされた「尾高・宮沢論争」を主題にしている本稿で、その後に書かれた著作にまで範囲を拡げるのは妥当なのかといぶかる読者もいるであろうが、先に菅野氏は7年後の宮沢論文にまで対象を拡大していた。「自由論」と「尾高・宮沢論争」とは内的につながっている。「尾高・宮沢論争」の核心には<平等>や<正義>の問題が据えられており、<自由>の問題はこれらの難問と一体であることは言うまでもないからである。

 『自由論』について、松尾は「戦後の尾高法哲学」で「共産主義をめぐる発言が慎重になっ」(227頁)たと指摘している。それも事実であるが、「社会主義」を明確に主張することになったことこそがその「慎重」さを生み出したのであり、後者にまったく触れないで前者だけ指摘するのはまったく不十分である。また、碧海純一氏は「イギリス経験論への接近」(同)を指摘している。「経験の重視」は、この碧海を紹介している松尾が注意しているように、フッサールの現象学をとおして尾高は早くから身につけていたと見たほうがよい。イギリスに着目するのなら、「フェビアン協会」に言及すべきであろうが、碧海氏の関心は「イギリス社会主義」には向かわない。 

 「ノモス主権論争」においては、すでに確認したように、初発の段階では「国民主権と天皇制」が主題とされていたのであり、とても「社会主義」と交点を結ぶものではなかった。両者とも一言も「社会主義」には触れていない。にもかかわらず、なぜ突然に「社会主義」なのか。尾高におけるその内的必然性については節を改めて明らかにするが、このいわば<飛躍>をつなぐものを尾高は1950年に執筆していた。『法思想史序説』がそれである。D論文の直前にである。この著作の「第2章 法思想の類型」の「4社会主義の法思想」で、尾高は「法思想の類型」の一つとして「社会主義」を記述した。

 尾高は、「資本主義の高度化によって大きな行きつまりに逢着した近代の市民社会の中にあって、その行きつまりを打開しようとする試みは、大まかにいって三つの方向に分岐した」(143頁)と稿を起こす。「三つの方向」が何かについては、冒頭部分での表現と結論での表現には違いがあるが、「20世紀の社会思想は……独裁主義と、共産主義と、社会化された民主主義の、三つの針路にむかって分岐してきたということができよう」(155頁)と結論している。

 ここにいう「独裁主義」とはナチスのことであり、「共産主義」とはソ連邦と「プロレタリア革命」のことである。三つ目の「社会化された民主主義」は、この章にも出てくる「経済的民主主義」(154頁)の言葉にも明らかなように、「民主主義」を経済の領域にも拡げることを意味しているのだから「経済化された民主主義」のほうが適切であるし、同じく「社会主義」にも言及しているのだから「社会主義」と表現したほうが分かりやすい。だが、尾高にとっては、この言葉は実はすでに@論文でも使っていたのであり、本稿でも引用済みである。名称よりは内実が重要とも言えるから、その実質的内容を探ると、尾高はこの「第三の方向」について、「経済生活の民主化」「勤労大衆の生存権の擁護」「経済的配分の公正」をその基軸にあげている。一言でいえば「経済生活の社会化であり、広い意味での社会主義への転換」(150頁)である。

 尾高は、アントン・メンガーの『労働全収益権史論』によって、「生存権」や「労働権」の重要性に注意を喚起し、それらが日本国憲法にも世界人権宣言にも明記されていると確認している。尾高は、「生産の面で果たして資本主義ほどの能率を上げ得るかどうかについては未知数のところが少なくない」と注意しながら、「社会主義が配分の面で資本主義よりもはるかに公正であることはもとよりあきらかであ」(153頁)る、とまで対比している。また、「社会主義」への転換過程については、「民主主義の定石たる多数決原理によって資本主義の機構から社会主義の配分秩序への転換を行おうとすれば、その過程は法の破砕を避けつつ、法を合法的に変革するという動きとなってあらわれるであろう」(152頁)と明らかにする。注では、「アントン・メンガーは、この意味でマルクス主義に反対し、法を通じての社会主義実現の可能性を力説した」(157頁)と書いている。なお、この章では「イギリス社会主義」についてはまったく触れていなかった。


 この著作については、松尾が「戦後の尾高法哲学」で書名をあげているが、「唯物史観批判」の部分だけしか紹介していない(213頁)。『法理論と社会の変遷』では「法思想史記述の試み」において「トップレベルにある」(9頁)と評していたが、内容にはまったく触れていない。松尾はソ連邦を好意的に理解する立場から「社会主義法理論」を構築しようとしていたから、ソ連邦の「共産主義」を厳しく批判する尾高の「社会主義」を評価することにブレーキがかかったのであろう。

 恐らく、この『法思想史序説』をステップにして、尾高は『自由論』でさらに明確に<社会主義>へとジャンプしたのであろう。短絡的に言えば「天皇主義者」――正確には松尾が言うように「立憲君主主義者」――が<社会主義者>へと翻身したのである。まことに不幸なことに、尾高のこの<飛躍>についてはほとんどだれもが目を止めていない。尾高の弟子のなかにもこの点を評価する者がいない。松尾さえこの点には触れないし、尾高朝雄教授追悼論文集『自由の法理』に寄稿している18人も黙して語らない。逆にそのことは、尾高がいかに遠くまで自己の思想を徹底させ精進したのかを示している。ソ連邦の「社会主義」を否定したうえで、<社会主義>を構想することも、それを偏見なく理解することもかくも困難な道だったとも言える。私がようやく尾高とその法思想の存在に気づき学び始めたのも近年にすぎない。ソ連邦崩壊後に<社会主義再生への反省>を自らの課題として意識し探究する過程においてであった。ハンガリー事件が起きる5ヶ月前に57歳の若さでこの世を去った尾高の早すぎる死が惜しまれる。
 第4節 なぜ、尾高は<飛躍>できたのか

 最後に、私たちが明らかにしなければならない問題は、なぜ、尾高が<社会主義>を主張するまでに<飛躍>できたのかである。人間の軌跡やその成長の奥にあるものを知るには、本人に尋ねるのが一番よいのであろうが、すでに鬼籍にある人の声はどんなに切望しても聞くことはできない。周辺の人びとから事情をうかがうことも助けにはなるのであろうが、それもかなわない。残された文字のなかから探るほかにないが、それとてそのごく一部しか読むことができない。したがって、以下の推測は不十分であることを免れないであろうが、それでも人間の思想的飛躍がどのようにして可能となるのか、学ぶことが少なくないはずである。

 尾高の生涯を跡づけることはできないが、次の経緯だけは知る必要がある。日本が朝鮮を植民地支配していた時代に、尾高は京城帝国大学在任の1928年から30年までウィーンに留学し、ナチス登場直前のウィーンの自由な学問の雰囲気に身を浸して研究した(ウィーンで幼少期を過ごした久留さんは「古き佳き時代」と評している)。その時の恩師フッサールは迫害のなかで逝去し、恩師ハンス・ケルゼンは祖国を追われた。戦中には東京大空襲で家を全焼する苦難に直面し、敗戦の年の5月に陸軍中尉として内地召集され甲府連隊で陸軍の実態――竹槍訓練など――を体験した。これらの体験が、尾高の<飛躍>を促した生活上の基礎ではないだろうか。

 1 科学の目をもった「愛国者」


 戦中の尾高はどのような姿勢で戦争に対したのであろうか。松尾が「戦中の尾高法哲学」で明らかにしている。尾高の弟邦雄(社会学者)の回想によると「昭和12年〔1937年〕に日華事変〔日中戦争〕がはじまってからは、兄は非常な愛国者になった」(704頁)ということである。「天皇中心は、日本国体の根本義の第一である」と、「当時の公式的見解」を尾高は書いていた。松尾が評しているように「大日本帝国を認証、つまり正当づけてい」(712頁)たのである。だが、同時に、松尾が入念に明らかにしているように、「全体主義思潮」に対する尾高の理論的姿勢は単純な愛国者のそれではなかった。松尾は、尾高が小野清一郎の著作への書評で、「国家的・民族的普遍と世界的・人類的普遍との媒介はいかにして可能ならしめ得るのであろうか」(705頁)と問うた点を注意している。「世界的・人類的普遍」がカギである。

 また、「ナチス学者に対する嫌悪」、「そのナチス嫌いは徹底したものであった」(700頁)。尾高は「ナチスの民族至上主義には全く無縁であった」(710頁)。尾高は「民族」ではなく、「国家」に傾倒していた。しかも「国際主義」を色濃くともなっていた。そこに尾高の特色がある。

 尾高の学問的姿勢についても、松尾が親身に明らかにしている。「1944年10月、戦局はすでに決定的な段階を迎えていた。今にして思えば、当時の日本の姿は狂気のそれであった。この月、神風特別攻撃隊の出撃が公表された。その同じ月に尾高は〔東京帝国〕大学新聞に『現代法理学に於ける懐疑と信仰』と題す」(735頁)る論説を書いた。松尾はこの論説の最終節全文を引用しているが、その結語はこうである。「わが国の現代法学はいかに戦局が逼迫しようとも、いかに学の法灯がゆらごうとも、懐疑の故に低迷せず、信仰の故に焦慮せず、毅然たる科学的精神を以てこの〔学問の〕理想にむかってたじろがぬ前進を続けるべきである」。松尾は言葉をつなぐ。「ここに、ひとは時代の狂気に酔わぬ人の姿を見る。理論と実践を峻別しようとする態度、経験をどこまでも重んじようとする立場は、戦雲あわただしい1944年秋のこの文章にも曇りなく輝いている」(737頁)。<毅然たる科学的精神>、ここに尾高の終生一貫する強靱な姿勢があったのではないであろうか。

 この尾高の姿勢は、1937年8月に執筆して翌年、佐々木惣一還暦記念論文集に発表された論文にも垣間見ることができる(敗戦後にその佐々木は前記のように和辻哲郎と論争した)。この年の7月に廬溝橋事件が起き、「議会は、当時の軍国主義と対峙せざるをえなかった。そのときに〔尾高は〕議会の効用を説いたのである」(709頁)。

 断るまでもなく、尾高は反戦主義者ではないし、ここにごく一端を紹介した事実が侵略戦争へと飲み込まれていった日本の知識人や民衆の責任、したがって尾高も引き受けるべき責任を軽減するほどのものと言うことはできないであろう。しかし同時に、まったく無視してよいとは言えない。このような立場を堅持していたがゆえに、尾高は敗戦直後に著した『法の窮極に在るもの』の「はしがき」で、「この数年間、著者が最も力を注いできたのは、法と政治の関係の問題であった」と書き出し、「法も法学も政治の傀儡に堕してしまう」ことを避け、「法および法学の確固たる自主性を基礎づける道はあるまいか。――それが昼夜を問わず著者の脳裡から離れない主題であった」と明確にすることができたのである。

 後年、政治的立場は異なると思われる沼田稲次郎は「マルクス主義法学」を総括する論文で、「法と法学が政治に従属せしめられることに対する学者的警戒心が尾高のファシズム時代からの学問的良心でもあったのであり、それ自体、貴重なことである」11)と評価している。ついでながら、すでに触れたように、『法の窮極に在るもの』が刊行された年の初めに「人間的自由の限界」を発表して、「主体性論争」の火蓋を切った梅本克己が鋭く提起した問題の一つは「政治からの哲学の自立」であった。
 2 <ノモス>を追求する意義

 尾高が<社会主義>を主張するように飛躍した根本にあるものは、彼が徹底して<ノモス>を追求したことにある、と考えられる。尾高は、<ノモス=法の理念>の内実は<人間の平等な福祉>の実現にこそあると明らかにした。それは、アリストテレスの「エウダイモニア」=「人間性の充実であり、完成」であり、フィヒテの「人間らしい生活」の実現でもある。<法の理念>の内実を<人間の平等な福祉>と確定することは、平凡な結論のようにも思えるが、そうではない。あるいは、真理は平凡であるとも言える。

 <平等>とは何かも、アリストテレスの「配分的正義」いらいの難問であるが、戦後日本の支配的な政党の名称が「自由民主党」であることによく表現されているように、「自由」や「民主」に比べると、<平等>がスローガンにされることはきわめて少ない。残念ながら日本には「平等党」はかつて存在していない(イギリスでは17世紀に「レベラーズ」が活動していたし、1920年代には労働党のR・トーニーが『平等論』を著した)。本稿で重視した尾高の主著の一つも『自由論』と命名されていた。尾高の追悼論文集の標題も『自由の法理』とされている。このような思想的風土のなかでは、<平等>を基軸に打ち立てることはきわめて困難かつ大きな意義がある。そして、尾高が内容的にもっとも強調したのは<平等>だったと言える。この点にこそ、尾高の「ノモス主権論」の特色と核心がある。

 尾高の理論にはもう一つの特色がある。それは、理論や理念をどのようなものとして理解するかにかかわる。尾高は『法の窮極に在るもの』で、「法の窮極に在る理念」について「現実の目標であり、現実に対する価値の尺度となるであろう」と捉え、「法の理念が実定法の価値尺度として意味をもつとき、その理念は、すでに実定法をばその価値尺度にかなうように動かしていこうとする意欲によって裏付けられているはずでなければならない。実定法に対するかような意欲的・主体的な働きかけを伴わない法の理念は、いかに崇美の空に高く輝いていようとも、現実の人間生活から見て、ほとんど意味をもたないと言わなければならない」(10-11頁)と明らかにしていた。これが、尾高の盤石のごとき終生不動の姿勢であった。「理念が現実の中に宿るというのは、理念が、現実を動かそうとする人間の努力の中にその姿を現すということである」(12頁)。この「法の理念と現実とを媒介するものは、正に政治なのである」(15頁)。

 このように、ノモスを追求するとは、ノモスの内実が何かを理論的に追求するだけではなく、そこで掴んだノモスの内実を現実に活かす実践へと移す主体的努力をも意味していたのである。この尾高の、あるいは尾高の理論の主体的・実践的性格こそが、尾高をして<社会主義者>へと飛躍させた思想的資質であったと言うことができるのではないであろうか。
3 「社会化された民主主義」――<社会主義>への接近

 尾高が『自由論』で<社会主義>を明確に主張するようになったステップとして、『法思想史序説』をあげておいたが、そこには<社会主義>に直結する或る言葉が書かれていた。「社会化された民主主義」が、それである。前節で引用しておいたが、尾高はこの「社会化された民主主義」について、「経済生活の民主化」「勤労大衆の生存権の擁護」「経済的配分の公正」をその基軸にあげ、一言でいえば「経済生活の社会化であり、広い意味での社会主義への転換」であると明らかにしていた。内容を説明したのは『法思想史序説』においてであったが、すでに触れたようにこの言葉は@論文でも使っていた。

 そして、@論文の直後に刊行された『法の窮極に在るもの』では、意外にも、「社会主義」について親和的な叙述がいくつかある。尾高は、「唯物史観」12)や「共産主義」が主張する「プロレタリアートの暴力革命」を厳しく排撃しながらも、同時に「唯物史観」の肯定面を評価し(195頁)、「社会正義は、『乏しきを憂えず、均しからざるを憂う』ることをもって根本とする」としながら、つづけて『各人がその能力に応じて寄与し、各人がその必要に応じて享有する』というマルクスの理想も、理想そのものとしては根本の精神をこれと異にするものではない」(248頁)と冷静に評価していた。

 さらにつづけて尾高は、フィヒテの『封鎖商業国家論』をあげて、「人間の人間らしい生活」のためには、「人間はいかなる勤労の生活の中においても、仰いで青空を眺め得る余裕をもたなければならない。ここにいう青空とは、精神の蒼空であり、文化の教養である」(249頁)と明らかにしていた(尾高はこのフィヒテの理想がよほど気に入ったらしく、@論文でも(76頁)、『自由論』のなかでも(206頁)引用している)。それだけではない。尾高は「国際政治と世界経済」の節では、「国家の計画経済が運営されるべきである」と書き(316頁)、「国際正義の永遠の理念に接近していく道は、……世界全体を統合するもっとも大規模な包括的計画経済に求められるべきであろう」とまで提言していたのである(319頁)。

 なお、「社会主義」への尾高の志向性は、戦前の『国家構造論』において、「共同社会団体」と「利益社会団体」を超える「第三の基本形態」を「協成社会団体」として模索していた(414頁以下)ことに胚胎していたとみることができる13)。

 ソ連邦の「共産主義」を厳しく排撃しながら、同時に「計画経済」を主張するのは、一見奇異の感に囚われるであろうが、尾高の場合にはその「計画経済」はソ連邦の現実にではなく、フィヒテの『封鎖商業国家論』に依拠し、その「封鎖」性――別言すれば「一国性」――の限界を突破した当為=あるべきものであった。尾高は、「国際法」に強い関心を傾け、50年代にユネスコの活動に積極的に参加した(家の事情によって学者の道を歩んだが、尾高はもともとは外交官を志望していたことが、これらの活動の動機として作用したと言えるかもしれない)。


 尾高がアントン・メンガーにも学んでいる点にも注意を喚起しておきたい。尾高は『法思想史序説』では、A・メンガーの『労働全収益権史論』を典拠にして「生存権」14)や「労働権」に言及している(153頁)。なお、先に文部省の教科書について触れたが、尾高に依頼を発した文部大臣は森戸辰男であり、『労働全収益権史論』を1920年に翻訳したのが彼であった。尾高は訳本をあげていないが、森戸の影響があったと推察することは許されるであろう。いずれにしても、尾高は自身がその空気を吸ったウィーンで活躍していた先人の教説を活かすことをとおして<社会主義>に接近していったのである。

 ここまで明らかにすると、もう一つの謎解きも容易に納得されるであろう。実は<社会化>はオーストリア社会主義理論15)のキー概念だった。「計画経済」の語が1920年代半ばに定着する以前――マルクスもレーニンも一度も使っていなかった――には、「生産手段の社会化」とか「工業の社会化」とか「農業の社会化」というように、<社会化>こそが<社会主義>を表示する標語だった16)。このことは、当時、ドイツとオーストリアに創設された「社会化委員会」の名称を知り、オーストリア社会民主党の党首でもあったオットー・バウアーが1919年に著した『社会主義への道――社会化の実践』17)――1946年に翻訳されていた!――を一読すればすぐに理解できる。尾高がこの小冊子に言及した形跡はないようであるが、<社会化>という言葉を、尾高がオーストリアのさまざまな文献をとおしていわば空気のように吸収していたと推測することはできるであろう。

 くりかえし約言すれば、<ノモス>の徹底した追求とウィーンの思想的影響のなかで、尾高は<社会主義者>へと鷹が天空に舞うように<飛躍>したのである。

 結  び

 以上、私たちは敗戦後に展開された「尾高・宮沢論争」を取り上げ、そこで何が問題とされ、何が明らかになったのかについて整理してきた。本稿で明らかにしたことを要約して再確認しておきたい。

 第1に明らかにしたことは、<ノモス>を追求することの大切さと重要性である。<すべての人間の平等の福祉>を内実とする<ノモス>=<法の理念>を主体的に追求することこそが、今日における人間解放の道なのである。「社会あるところに法あり」と言われているような意味で、法と法律を尊重する姿勢を貫くことを重視するために、このように表現すべきなのである。

 第2に明らかにしたことは、この論争を通して、尾高朝雄が<社会主義者>へと飛躍したことである。この点はこれまで尾高の愛弟子たちによってさえ見落とされ、あるいは無視されていた。

 第3に明らかにしたことは、この尾高が理解する<社会主義>は、<社会化>と<則法性>を核心とするオーストリアの社会主義理論と深く結びついていることである。

 第4に明らかにしたことは、第2点と第3点とが、今日まで半世紀にもわたって無視されていたことの意味である。「マルクス・レーニン主義」こそが正統派であるとする牢固たる知的風土のなかでは、尾高の思想的な飛躍もその内実である<漸進的な社会主義論>も理解することはできなかった。ソ連邦の崩壊を<社会主義再生の契機>として反省的に捉える努力のなかでこそ、そのことは可能となったのである。尾高がそのもっとも深い理解者だとされている、グスタフ・ラートブルフは『社会主義の文化理論』の1949年版の「あとがき」において、「社会主義は或る特定の世界観に結びつくものではない」(132頁)と明らかにしたが、イデオロギー的な曇りのない目で、<社会主義>を探究することこそが切実に求められている。

 最後に、なお残された課題について、今後の探究のために列記しておく。

 第1は、「国民主権と天皇制との関係」について、日本史=日本社会の特質を把握するという視点から解明する課題である。当初の尾高のように、「天皇制のアポロギア」を出発点にすることが錯誤であることは明白であるが、逆に「天皇制の廃止」を要求するだけでも不十分である。「象徴天皇制」として存続したのはなぜなのか、その歴史的根拠を十分に解明しなければならない。そうでなければ、「天皇制の廃止」を実現することはできない。

 「国民主権」――<主権在民>の表現のほうがよい――と「天皇主権」とは原理としてまったく相容れない対極にあることは、宮沢の主張によって明確であるが、そのことに踏まえたうえで、なぜ、「天皇制」が残ってしまったのかを問題にする必要がある。「八月革命」説に立つ宮沢は、新憲法の制定が明治憲法第73条の改正条項によって実現したことについて、そのような「形式をとった」18)ものと処理しているが、そういう「形式」が必要とされ、それを通して人びとが納得したという日本社会のあり方にこそ注意しなければならない。和辻が強調した<文化としての>天皇制という面と<民主政>における天皇制という面が、尾高の場合には未分化であったが、そのことも問題としなければならない。

 第2は、「民主主義」――<民主政>と表現したほうがよい――の運営上の原理をなす<多数決原理>について明確にする課題である。この問題については、本稿では取り上げることはできなかったが、<選挙制度>の問題と併せて現状の制度レベルにおいても解明しなければならない。

 第3は、<民主政>が本質的に秘めている<擬制性>をどのように理解するかという課題である。課題の所在を正確に提示することさえ困難であるが、私には、ルソーの有名な「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている」という『社会契約論』の一句をどのように理解するかという問題と重なっているように思える。尾高はこの言葉には「かぎりない呪詛」や「無限の抗議がこもっているように見える」が、そのような理解は「皮相的」な「誤解である」19)と理解する。ルソーはすぐにつづけて「どうしてこの変化が生じたのか? わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるのか?〔尾高訳では「どうすればそれを是認できるか」〕 わたしはこの問題は解きうると信じる」(15頁)と書いていたからである。ルソーは、「市民の全体意志」(すべての意志)と「一般意志」(総意)との区別を導入して「社会契約」の意味を明らかにしようとした(47頁)。この枠組みを越えることが求められているのではないであろうか。

 第4は、<法とは何か>という根本問題である。本稿では保留した「悪法も法である」という問題、別言すれば、「法の効力」と「法の実定性」の問題もその一つである。「悪法も法である」は、松尾によれば「19世紀後半にいたるまでフランスに勢威をふるった注釈学派」20)が生み出した言葉であるということだが、「法を破る」ことはどのような場合に、どのような問題について許されるのかは、尾高が『法の窮極に在るもの』で中心的に提起した大問題である。この問題はまた、<抵抗権>の問題とも重なっている。宮沢が確認しているように「抵抗権の問題は、法哲学の根本問題に関連する問題である」21)。


 1952年の『自由論』執筆の後は、本格的な著作を著してはいないが、56年に急逝した尾高の遺稿「現代の法思想」は「序論」と「第1章 自然法の理論」が未定稿のまま『法律の社会的構造』に収録された。なによりも<法哲学者>であった尾高は、<社会主義>を主張するだけではなく、人類の法思想の歩み――「自然法の理論と法実証主義」との論争史――をより包括的に再把握することを通して、<ノモス>を探究しようとしたのではないであろうか。

 このように、私たちの前には、なお大きな難題がいくつも横たわっている。時代のめまぐるしい変化のなかで、ともすれば「新しい流行」だけに目を奪われる傾向も変わらずにバブルのように再生産されているが、<近代>が抱え込んだ問題――政治的な平等の原理(法の前での万人の平等)は明らかにしたが、経済的な不平等は温存した――がなお解決されていないがゆえに、この難題の解決を志向することを最奥の根拠として生み出された<社会主義思想>は破産したのではなく、内実ゆたかに語られるべきなのである。半世紀前に展開された「尾高・宮沢論争」――そこでの尾高朝雄の歩みは、このことを、私たちに教えているのではないであろうか。

 明治時代後期の前世紀末に生をうけ戦中をくぐり抜けて真摯に思想に生きたこの孤高の法哲学者の軌跡に、私たちは一筋の光を発見できる。彼が仰ぎ見る(フィヒテの)蒼穹は、労働に疲れ、生活に追われる私たちが心を癒す青空と同じであり、彼が選択した未来が<社会主義>であったことは偶然ではないのである。

 <参考文献>
尾高朝雄『国民主権と天皇制』青林書院、1954年。
 『法の窮極に在るもの』有斐閣、1947年。
 『法思想史序説』弘文堂、1950年。
 『自由論』勁草書房、1952年。
 『法律の社会的構造』有斐閣、1957年。
 『国家構造論』岩波書店、1936年。
宮沢俊義『憲法U』有斐閣、1959年。
 『憲法の原理』岩波書店、1967年。
 『法律学における学説』有斐閣、1968年。
尾高朝雄教授追悼論文集『自由の法理』有斐閣、1963年。
杉原泰雄『国民主権の研究』岩波書店、1972年。
菅野喜八郎『続・国権の限界問題』木鐸社、1988年。
松尾敬一『法理論と社会の変遷』有斐閣、1963年。
 「戦中の尾高法哲学」『神戸法学雑誌』1965年3月。
 「尾高法哲学の形成」『神戸法学雑誌』1965年6月。
 「戦後の尾高法哲学」『神戸法学雑誌』1965年9月。
和辻哲郎『国民統合の象徴』全集第14巻、岩波書店、1962年。
グスタフ・ラートブルフ『社会主義の文化理論』1922年、みすず書房、1953年。
ルソー『社会契約論』1762年、岩波書店、1954年。
野中俊彦など『憲法T』第3版、有斐閣、2001年。

<注>
は省略。本誌を購入して読んでください。

 <付> 私が尾高朝雄に初めて出会ったのは、1999年末に『法の窮極に在るもの』を手にしたときであった。私は直ちに個人紙「稲妻」にその紹介を一筆し(「法哲学は何を教えてくれるか――尾高法哲学を学ぶために」第328号=200年4月)、ご遺族の久留都茂子さんに手紙を送った。旬日もしない内に分厚い一冊の著作とともに心のこもった返信をいただいた。戦前の主著『国家構造論』が手元に2冊残っていたということで寄贈いただいた。その後も、本稿で取り上げた文献のいくつかを貸与されたり、つたない小論を励ましていただいた。尾高さんについての貴重なエピソードも聞かせていただいた。このご好意がなければ、松尾敬一の文献に触れることもなかったであろうし、尾高さんの孤高の思想を探究することもできなかった。記して深く感謝する。ありがとうございました。



【戦後憲法における象徴天皇制規定の法哲学的考察その二、「久保教授の論考」】 
 「戦後憲法における象徴天皇制規定の法哲学的考」について、久保教授のホームページ.「天皇は日本の:元首か?(1)」「天皇は日本の:元首か?(2)」「天皇は元首かの反論と再反論」論考も為になる。これを学ぶ。長文のためれんだいこが解析し、要約しながら私論も述べる。

山上賢一編著「憲法講義」(中央経済社 平成12年)他参照。

【第一章 天皇(CHAPTER I. THE EMPEROR)】
第一条
Article1
【天皇の地位・国民主権】
 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
 The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.
 (れんだいこ翻訳)
 天皇は、
国家及び国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の意志より導かれている
第二条
Article2
【皇位の継承】
 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

. The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.

第三条
Article3
【天皇の国事行為と内閣の責任】 
 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

 The advice and approval of the Cabinet shall be required for all acts of the Emperor in matters of state, and the Cabinet shall be responsible therefor.

第四条
Article4
【天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任】
1 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

 The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in the Constitution and he shall not have powers related to government.

2 天皇は、法律(国事行為の臨時代行に関する法律)の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
 The Emperor may delegate the performance of his acts in matters of state as may be provided by law.
第五条
Article5
【摂政】
 皇室典範の定めるところにより、摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。

 この場合には、前条第一項の規定を準用する。
 When, in accordance with the Imperial House Law, a Regency is established, the Regent shall perform his acts in matters of state in the Emperor's name.

 In this case, paragraph one of the preceding article will be applicable.

第六条
Article6
【天皇の任命権】
1 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。

 The Emperor shall appoint the Prime Minister as designated by Diet.

2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
 The Emperor shall appoint the Chief Judge of the Supreme Court as designated by the Cabinet.
第七条
Article7
【天皇の国事行為】
 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
 The Emperor, with the advice and approval of the Cabinet, shall perform the following acts in matters of state on behalf of the people:
 
 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
 Promulgation of amendments of the constitution, laws, cabinet orders and treaties.
 国会を召集すること。
 Convocation of the Diet.
 衆議院を解散すること。
 Dissolution of the House of Representatives.
 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
 Proclamation of general election of members of the Diet.
 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
Attestation of the appointment and dismissal of Ministers of State and other officials as provided for by law, and of full powers and credentials of Ambassadors and Ministers.
 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
 Attestation of general and special amnesty, commutation of punishments, reprieve, and restoration of rights.
 栄典を授与すること。
 Awarding of honors.
 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
  Attestation of instruments of ratification and other diplomatic documents as provided for by law.
 外国の大使及び公使を接受すること。
 Receiving foreign ambassadors and ministers.
 儀式を行ふこと。
 Performance of ceremonial functions.
第八条
Article8
【皇室の財産授受の制限】 
 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。
 No property can be given to, or received by, the Imperial House, nor can any gifts be made therefrom, without the authorization of the Diet.

 日本国憲法は、前文に続く冒頭の第一章に「天皇」の地位を定め、第1条から8条まで費やしている。ちなみに天皇の英訳は「 THE EMPEROR」である。第1 条が「天皇規定の総則」に当たり、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定している。これを「象徴天皇制規定」と見なす。第1 条の意義は、これにより@・天皇制が敗戦後においてもその存続が認められた。A・且つ象徴天皇制という形態で生き延びることになった、ことを意味する。

 しかし、「象徴天皇制」なる規定は初聞であり、少なくとも日本史上例の無い初誕生的天皇制形態であるからして、象徴天皇制の意味を正確に確認せねばならない。ところが、制定経過から見ても由来が曖昧なままに突如持ち込まれた観のある規定であるからしてこれを紐解くとなると案外とややこしく理解も混乱している。つまり、「国家形態上、法的にどのように天皇が位置づけられるのかまったく定かでない」。

 「象徴天皇制」を理解する為には、次の諸点を吟味せねばならない、@・「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とある「象徴」の意味とは何ぞや。A・これにより天皇の元首的地位は如何なる修正を受けたのか。B・「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とは国民主権論を述べたものか否や。C・天皇の諸活動、行為はどのような意味において捉えられるべきか。少なくとも、上記四点において「象徴天皇制」の意味及び意義を明確にしておかねばならない。ところが、案外と詮索されていない。

 @・「象徴」の意味とは何ぞや。

 「象徴」という用語は英語symbolの訳であるが法律用語ではない。諸外国における同様の規定は、@・1931年のイギリスのウエストミンスター条例前文「国王はイギリス連邦所属国の自由な結合の象徴である」に見られる。但し、1953年のイギリスの「王室称号法」では、「イギリス連邦の元首(head)」と言い替えられている。A・立憲君主制下のスペインにおいては、1978年の憲法第56条で「(国王は元首にして)国の統一と永久不変の象徴である」と定められている。

 A・天皇の元首的地位は如何なる修正を受けたのか。

 戦後憲法は何と元首に関する規定が無い。というか、明治憲法において規定されていた天皇元首規定が象徴天皇制に転換された訳であるから、天皇が元首的地位から象徴的地位へ移行したということであり、天皇が元首で無くなったことは明らかである。但し、ならば誰が元首的地位に就くのかの規定が曖昧で、内閣元首論、首相元首論、翻って天皇準元首論などが生まれており却って混乱を招いている。

 補足すれば、政府解釈は、天皇を「君主」とみ[ 参院・内閣委( 昭45・3 ・12)]、「元首(sovereign) 」としている[ 参院・内閣委( 昭63・10・13)]。一般国民も政府同様の認識をしているようである。」

B・「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とは国民主権論を述べたものか否や。
 
 この規定よって、「統治権の総覧者」たる天皇の地位が象徴たる地位に移動し 明治憲法時代の「天皇主権」から「国民主権」に変化したとされている。この規定は 1989年のフランス人権宣言第3条「一切の主権の淵源は、本来国民に存する。いかなる団体も、いかなる個人も 国民に由来しない権力を行使することはできない」を参考にしたものと一般にいわれている。ただ主権の存する国民の中に天皇が含まれるかどうかについては、制憲当時から学会では意見が分かれてる。しかし政府解釈は一貫して「主権の存する国民のなかに天皇も含まれる」としている[ 参院・内閣委( 昭38・3 ・29)]。

 さらに今日「国民主権」は、民主主義の基本原則であり「人類普遍の原則」である。また君主制に対立するものであると解される傾向にある。しかし必ずしもそういえないのではないか。第一イギリスでは主権は国民になく「国王を含む議会」にある。これでは民主主義の母国といわれるイギリスが民主主義でなくなってしまう。一方国民主権を標榜する国家が必ずしも民主主義国でなく 独裁国または全体主義国である現実をみると、決して人類普遍の原則とはいいがたい。つまり国民主権と民主主義とは殆ど関連性がない。実際ノルウェー ベルギーおよびルクセンブルクでは 憲法上「国民主権」が明記されているにもかかわらず「君主国」である。1975年に王政復古したスペインでも.憲法第1 条に『国家の主権はスペイン国民にあり』と規定されているが 第56条に『国王は、国家の元首であり 国の統一と永久不変の象徴であって』と規定されている。

そもそも『主権』概念はきわめて多義で曖昧なものであり その意味内容は時代により 遭遇する環境によって変化してきた。したがってあまり良いことばといえない。要するに 「国民主権の政治目標が国民の利害を最も優先的に考慮するものであり、それに基づいて政治の善悪の区別がおこなわれることである」とするなら 君主国 共和国を問わず民主主義国家なら当然である。


国民の総意

 天皇の地位は『日本国民の総意に基く』とある。つまり「天皇の地位の法的根拠が民意にある」ということである。そこでもし天皇の象徴たる地位が日本国民の多数決によって否定されることにでもなれば 天皇はその地位を失う、という学説も現れる。しかしそもそも「総意」とは 実はルソーのいうヴォロンテ・ジェネラールのような合理的理念的意思であろう。つまり天皇が日本国の象徴であることは 日本国民の総意を基礎に確立していることすなわちあくまで天皇の地位の基礎づけを示しているだけで 国民の多数決でその地位が否定されるという意味ではないと思われる。

 実際 制憲時もそれ以降も「国民の総意」が確かめられたことは一度もない。その手続きがとられたことさえない。結局「国民の総意」とはあくまで実証の伴わない観念である。したがって「国民」とはなにも現時点の国民を指すだけではなく 歴史上の国民をも含み「総体としての日本国民」を意味するのではないだろうか。

 C・天皇の諸活動、行為はどのような意味において捉えられるべきか。

 天皇の権能論ということになるが、学説はこれを「消極的・受動的機能」で捉える方向と「積極的機能」を見る両説がある。いわゆる「皇室外交」、「国内行幸」、被災地慰問などをどう見るのかということにつながる。


 

「象徴天皇制の由来過程」

 まず天皇が象徴とされた根拠でもあるが 憲法制定過程上「元首」の明記が意識的に避けられたらしいことである。1946.2.3日、連合軍総司令官マッカーサーが憲法を起草するにあたり 部下のホィットニーに指針を示した「マッカーサーの三原則( マッカーサー・ノート)」には当初“Emperor is at the head of the State ”( 天皇は国家元首の地位にある) と明記されていた。ところがこの原則を受け 連合軍総司令部が作成 2月13日に日本政府に手渡した「マッカーサー草案」には「皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ」と改められていた。

 その事情について かつて内閣調査会が海外調査を行ったが その渡米調査団報告にはつぎのごとく述べられている。「本条の起草者たるケージス ハッシー ローウェル ピークなどによれば マッカーサー元帥のノートの第一項目は天皇についてその第一段階で 『アット・ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステート』とし また第三段で その任務と権限は憲法に基づいて行使され 憲法の定めるところにより 人民の基本的意志に対して責任を負うとしているのであるから、この二つの点を考え合わせ この両方の趣旨に適合するようにより正確に天皇の位置を書きあらわすためシンボルという語を用い天皇の地位についての考え方の衝突を避けようとしたとのことである。

 ・・・特に元首という語を避けたのは、ヘッドという文字を用いるとやはり従来の明治憲法の解釈に戻るおそれがあるということを考慮した結果であるようである。すなわち『象徴』という文字を用いたことはヨーロッパ的な『ヘッド・オブ・ザ・ステート』ということを特に否認する意味ではないのであり、ただ 日本で元首という語をそのまま用いると明治憲法のような解釈がまた出てきはしないか、そしてそれでは民主主義的な考え方がこわされてしまうことをおそれたのである」。

つまりマッカーサーは決して天皇が「元首」たることを否認したわけではなかった。元首の一特性にすぎない機能『象徴』という語を使用することで,元首としての天皇を従来よりはるかに無力たらしめようと意図したにすぎない。

 また天皇に関する規定が明治憲法同様 第1章に位置づけられていること 英文憲法の第1章のタイトルが“THE EMPEROR ”(これは「君臨すれども統治せず」という今日のヨーロッパ型皇帝の意味であろう)とつけられていること,さらに現行憲法において天皇が身分上国民かはっきり区別されていることを考え併せ,天皇が現行憲法上紛れもなく君主であり 元首以外の何者でもないことが裏付けられる。

さらに現実に天皇がわが国内外において元首として遇せられていることをみても 現行憲法下の天皇が「君主」であり「元首」であるとみるのはごく自然である。実際、外国人の目から見て,猫の目のように変わる内閣総理大臣を形式的とはいえ任命する世襲・終身の憲法上の安定した機関すなわち天皇が存するかぎり,それを元首扱いするのは当然であるといえよう。


皇位の世襲
 憲法第2 条には『皇位は、世襲制のものであって 国会の議決した
皇室典範の定めるところにより これを継承する』とある。またその
皇位継承順位は ・皇長子 ・皇長孫 ・その他の皇長子の子孫 ・皇次子
およびその子孫 ・その他の皇子孫 ・皇長弟およびその子孫 ・皇伯
叔父およびその子孫(皇室典範第2 条)となっている。
もし国民の多数決によって天皇の地位が否定されうるという解釈が認め
られるとするならば この継承規定と明らかに矛盾する。これらの学説
はこの「世襲」規定が「総意」規定の主旨に反し 民主主義憲法に
適さない あくまで現行憲法上の特例であるという。皇位継承について
も『皇統に属する男系の男子』( 皇室典範第1 条) に限られるとする
規定は,現行憲法の平等主義に反するいう。ところが一方には そもそも
皇室員は国民の平等(14 条第1 項)の例外であり 男女平等の原則は
適用されない
したがって憲法違反ではないとする学説もある。

 ただこうした規定はわが国にのみ存するものではない。今日の
立憲君主国の憲法には多々見い出しうる。ヨーロッパの代表的民主主義
国家・福祉国家といわれるベルギーの現行憲法第60条の『国王の憲法上
の権能は レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド
・サクス・コブール殿下の直系 実系かつ嫡系の子孫が長子継承の順序
により 男系に従って これを世襲し 女子および女系の子孫は 永久に
継承の権利を有しない。』という規定は その好例である。

2.特別な存在としての天皇
 現行憲法における象徴規定は 総意 世襲規定とともに 天皇を「特別
な存在」として君主および元首たらしめている。また次のような点に
おいても天皇を一般国民(もちろん首相 内閣構成員 国会議員なども
含まれる)から区別し、まったく異なる地位たらしめている。
 天皇には「姓」がない。古来 皇位は一系で受け継がれていることから
姓を必要としないというのが最大の理由である。
 天皇 皇后 太皇太后 皇太后には「陛下」という敬称が与えられ
皇太子以下その他の皇族の敬称は「殿下」である( 皇室典範第22条) 。
 天皇の誕生日は国民の休日とされる( 国民の祝日に関する法律第22条) 。
 天皇および皇族の身分に関する事項は 皇統譜に登録(皇室典範第26条)
され 戸籍法の適用はない。もちろん天皇には住民票はなく住民登録も
ない。

 天皇 皇太子および皇太孫の成年は18才である( 皇室典範第22条) 。
『摂政』という異例をなるべく回避する配慮によるものである。
 天皇は「旅券( パスポート) 」を有しない。「元首はパスポートを
必要としない」という国際儀礼による。皇族は、そのつど「外交旅券」
を取得し 外国旅行される。
ちなみに皇太子の官職欄は「CROWN PRINCE OF JAPAN 」であり
 他の皇族は「MEMBER 0F THE IMPERIAL FAMIRY 」である。
 天皇に対する不敬罪は廃止されたが 名誉毀損については内閣総理大臣
が告訴権を有する( 刑法第232 条) 。
 皇室の財産授受については国会の議決を必要とする( 憲法第8 条)
 皇族が逝去された場合 墓地埋葬法の墓地に関する規定は適用されない。
但し皇室典範には皇族の陵墓に関する特別規定がある。

 天皇の法的責任
 立憲君主国では憲法上 君主は国政上はもちろん刑事上の責任も問わ
れないというのが原則である。こうした規定は「君主無問責の原則」と
呼ばれ、明治憲法では第3条に『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』と
明記されていた。例えば国民主権を憲法に規定しているベルギー憲法
では第63条に『国王はこれを侵すことができない。国王の大臣が責任
を負う』と定められている。スェーデン憲法第3 条にも『国王の身体は
神聖である。国王は その行為について訴追を受けることはない』と
ある。またデンマーク憲法第13条にも『国王は、自己の行為に対して
責任を負わない。その人格は神聖である』と明記されている。

 現行憲法にこのような規定はない。そのかわり第3 条に『天皇の国事
に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし 内閣が
その責任を負う』とある。この主旨から実質的政治決定を行なった
内閣が責任を負うため 天皇は政治責任を負う必要がないとされている。
さらに天皇が憲法上「象徴」という特別な地位を与えられていること
また天皇が未成年または『精神若しくは身体の不治の重患又は重大な
事故により 国事に関する行為をみずからすることができないときは
皇室会議の議により,摂政を置く』という皇室典範第16条の摂政規定や
『摂政はその在任中訴追されない』( 皇室典範第21条) という規定に
より 天皇は国政上のみならず刑事上においても責任を問われないとされ
ている。また民事上においても天皇を被告とする訴状は却下されると
いう判例がある( 最判平成2 ・11・20民集43・10・1160)

3.基本的人権の制限
 「天皇は一般国民と同様の権利義務の主体である」とする政府解釈
[ 参院・内閣委( 昭38・3 ・29)]に立てば 当然天皇も『個人として
尊重され』なければならない(憲法第13条) 。また『思想及び良心の
自由』( 憲法第19条) 『信教の自由』( 憲法第20条)『学問の自由』
( 憲法第23条) および『財産権』( 憲法第24条) も保障されねばなら
ない。

しかしその象徴規定 世襲規定 国政に対する権能の否定規定により
天皇は権利義務上多くの制約を負うことになる。一般国民ならば当然
保障されるところの基本的人権も著しく制限される。
まず『象徴』という立場上 天皇の行為は公的 私的の区別が極めて
つけにくい。その行為はほとんど公的であり、私人としての行為は
一般国民に比べ極端に制約される参院・内閣委( 昭50・3 ・14)]こと
となる。
まず「参政権」( 憲法第15条) はない。当然「選挙権・被選挙権」も
認められていない[ 参院・内閣委( 昭55・3 ・27)]。
 また天皇は政治的に中立たるべきであるとされ 特定の政党などに
加入する「集会結社の自由」( 憲法第21条) もない。事実 天皇は
永続的地位を保障されていることにより 私利を計る地位にないため
党派的に行動しがちな内閣総理大臣よりも遙かに公平無私であるという。

 「職業選択の自由」( 憲法第22条2 項) もない。『皇統に属する男系
の男子』( 皇室典範第1 条) 皇長子は『精神若しくは身体の不治の重患
があり 又は重大な事』( 皇室典範第3条) がない限り 生まれながらに
天皇とならねばならない宿命を負わされている。また一般市民が
「職務」を離れ余暇を楽しむように天皇が「天皇たること」を離れた
行為は 現実的に困難である。つまり天皇の地位は単なる「職業」とは
言いがたい要素を多分に有している。

 憲法第22条の「居住移転の自由」はおそらくない。例えば東京の真ん
中が住みにくいという理由で、勝手な転居は許されないであろう。
もし居住移転が行われるとすると「京」の移動ということなり、多大な
政治的社会的影響をもたらすことになりかねない。「外国移住の自由」
や「国籍離脱の自由」は現実には考えられない。
政治に影響を及ぼすような『表現の自由』( 憲法第21条) は当然制限を
受ける。たとえ政治に関わるものでなくとも天皇の発言は社会的影響力
が大きすぎ したがって全くの自由とはゆかない。
また天皇および皇族の『婚姻は両性の合意のみ』( 憲法第21条) で
成立しがたい。皇室典範第10条によって皇室会議の議を経る必要がある。
天皇に「退位の自由」は認められない[ 参院・内閣委( 昭34・2 ・6)]
。史実の示すように 生前の退位は 皇位を政治的 党派的対立に巻き込む
おそれがあるからである。

 皇室財産への制約
皇室の財産は国有財産とされている。また皇室の費用は毎年予算計上し、
国会の議決を経なければならない( 憲法第88条) 。皇室に財産を譲り
渡し、または皇室が財産を譲り受け、もしくは賜与する場合にも国会議決
を必要とする( 憲法第8 条) 。

 なお皇室費には宮内庁が経理する公金としての「宮廷費」 天皇・
皇后・皇太子などが私的に使う「内廷費」 その他の皇族が私的に使う
「皇族費」がある( 皇経第〜6 条) 。皇族費 内廷費は非課税とされ
( 所得税法第9 条1 項12号) 旧御料や皇族の財産なども日本国憲法
第88条前段に基づく皇室用国有財産として非課税である。ただ貯金や
有価証券の利子所得 配当所得に対する課税は一般国民同様であり
源泉徴収によって納められ 地方税も申告によって支払われる。
 遺産相続についても 今回,天皇の積極的意志により現行憲法下
はじめて財産公表が行わた。三種の神器 宮中三殿など6百件は
「皇位とともに伝わるべき由緒有る物」として相続税法上非課税扱い
にされたが 美術品や皇室に伝えられてきた御物類3千件は国に寄贈
された。結局 遺産総額約18億7 千万円が課税対象となり 約4 億3 千
万円の相続税が支払われた。

 これらは「天皇も主権者に含まれる」という政府解釈によって
憲法第14条の「法の下の平等」に反しないとされている。しかし
これほど天皇の基本的人権が制約され,「国民としての当然の権利」
がほとんど行使しえないにもかかわらず 納税「義務」だけは一般国民
同様 天皇も果たさねばならないことについて問題がまったく残
らないわけでない。天皇が「象徴」の地位にあり,「特別な地位」に
ある点を考慮するなら,課税面についても今後更に検討を要するよう
に思われる。


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【「天皇は日本の:元首か?(1)」(久保教授のホームページ)】
 第一章・天皇、T.象徴性の意味

1.憲法上の地位

 日本国憲法第1 章は天皇に関する規定である。その第1 条には『天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く』と規定されている。

 象徴としての地位

 「象徴」とは,英語symbolの訳であり,一般に抽象的,無形物を感覚的にわかりやすく説明するところの具体的有形物である。例えばハトによって平和を,日の丸によって日本国を説明するように,天皇によって日本国と日本国民統合を説明しているわけである。

 そもそも「象徴」ということばは,本来文学的,芸術的あるいは宗教的表現であり,法律上適切なことばとは言いがたい。つまりこの規定は,天皇が「日本国と日本国民統合という感覚でとらえきれないものを具体的に説明する存在すなわち体現者」であるといっているにすぎず,国家形態上、法的にどのように天皇が位置づけられるのかまったく定かでない。

 この「象徴」ということばは,イギリスのウエストミンスター条例前文の『国王はイギリス連邦所属国の自由な結合の象徴である。(1931)を参考にしたものといわれている。しかしこの「象徴」はその後「王室称号法」(1953 ) において『イギリス連邦の元首(head)』と言い変えられている。もちろんこの期間(1931年か1953年まで),イギリス国王が単なる象徴でなく元首として扱われていたことに相違ない。

 ところでスペインは現在 立憲君主制国家であり,元首は国王であるが,憲法(1978年)『国の統一と永久不変の象徴である』( 第56条) と定められていることも留意しておきたい。また憲法学者の中には、憲法第1条の『日本国民の統合』とは天皇にあくまで「消極的・受動的機能」のみを認めているのであり,統合し,代表するという「積極的機能」まで与えていない,とするものもいる。しかし周知のごとく、実際には今日,天皇は相当「積極的機能」を果たしている。いわゆる「皇室外交」といわれるもの、また「国内行幸」などがそれであり,政治・行政上かなり重要な役割を果たしている。たとえば平成3年の島原雲仙の被災地慰問や東南アジア歴訪などは、天皇の「積極的ご意志」によるところ少なくなかったという。

 元首としての地位

 今日,元首は国家形態上はもちろん国際関係上においても不可欠の存在である。ところが現行憲法において元首はまったく明示されていない。この点,明治憲法では明示されていた。また権能上、天皇が元首であることもはっきりしていた。ところが現行憲法では天皇は行政の首長でなく,『象徴』になり 極めて権能が局限されたため,天皇が元首かどうかについて学説は分かれている。イェリネクなど古典的分類に忠実な学者は当初,内閣が元首であるとか,首相が元首であるとか主張していた。しかし今日では天皇を「一種の君主」とか「準君主」とする見方が主流となっている。

また国家形態についても「独特な君主制」という表現が用いられている。一方有権解釈すなわち政府解釈は天皇を「君主」とみ[ 参院・内閣委( 昭45・3 ・12)],「元首(sovereign) 」としている[ 参院・内閣委( 昭63・10・13)]。一般国民も政府同様の認識をしているようである。学会はともすると「一種の」とか「準」とか「独特の」というような曖昧な表現を使いがちであるが これでは実際の市民生活や外交上には通用しない。元首が天皇であることは、次のいくつかの理由において明白である。

 まず天皇が象徴とされた根拠でもあるが 憲法制定過程上「元首」の明記が意識的に避けられたらしいことである。周知のように1946年2 月3 日 連合軍総司令官マッカーサーが憲法を起草するにあたり 部下のホィットニーに指針を示した「マッカーサーの三原則( マッカーサー・ノート)」には当初“Emperor is at the head of the State ”( 天皇は国家元首の地位にある) と明記されていた。ところがこの原則を受け 連合軍総司令部が作成 2月13日に日本政府に手渡した「マッカーサー草案」には「皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ」と改められていた。その事情について かつて内閣調査会が海外調査を行ったが その渡米調査団報告にはつぎのごとく述べられている。

 「本条の起草者たるケージス ハッシー ローウェル ピークなどによれば マッカーサー元帥のノートの第一項目は天皇についてその第一段階で 『アット・ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステート』とし また第三段で その任務と権限は憲法に基づいて行使され 憲法の定めるところにより 人民の基本的意志に対して責任を負うとしているのであるから、この二つの点を考え合わせ この両方の趣旨に適合するように より正確に天皇の位置を書きあらわすため シンボルという語を用い 天皇の地位についての考え方の衝突を避けようとしたとのことである。・・・特に元首という語を避けたのは、ヘッドという文字を用いるとやはり従来の明治憲法の解釈に戻るおそれがあるということを考慮した結果であるようである。すなわち『象徴』という文字を用いたことはヨーロッパ的な『ヘッド・オブ・ザ・ステート』ということを特に否認する意味ではないのであり ただ 日本で元首という語をそのまま用いると明治憲法のような解釈がまた出てきはしないか、そしてそれでは民主主義的な考え方がこわされてしまうことをおそれたのである・」

 つまりマッカーサーは決して天皇が「元首」たることを否認したわけではなかった。元首の一特性にすぎない機能『象徴』という語を使用することで,元首としての天皇を従来よりはるかに無力たらしめようと意図したにすぎない。

 また天皇に関する規定が明治憲法同様 第1章に位置づけられていること 英文憲法の第1章のタイトルが“THE EMPEROR ”(これは「君臨すれども統治せず」という今日のヨーロッパ型皇帝の意味であろう)とつけられていること,さらに現行憲法において天皇が身分上国民かはっきり区別されていることを考え併せ,天皇が現行憲法上紛れもなく君主であり 元首以外の何者でもないことが裏付けられる。

 さらに現実に天皇がわが国内外において元首として遇せられていることをみても 現行憲法下の天皇が「君主」であり「元首」であるとみるのはごく自然である。実際、外国人の目から見て,猫の目のように変わる内閣総理大臣を形式的とはいえ任命する世襲・終身の憲法上の安定した機関すなわち天皇が存するかぎり,それを元首扱いするのは当然であるといえよう。

 天皇と主権

 第1 条後半には『この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』とある。この規定よって『統治権の総覧者』たる天皇の地位が『象徴』たる地位に移動し 明治憲法時代の「天皇主権」から「国民主権」に変化したとされている。この規定は 1989年のフランス人権宣言第3条『一切の主権の淵源は,本来国民に存する。いかなる団体も,いかなる個人も 国民に由来しない権力を行使することはできない』を参考にしたものと一般にいわれている。ただ主権の存する国民の中に天皇が含まれるかどうかについては,制憲当時から学会では意見が分かれてる。しかし政府解釈は一貫して「主権の存する国民のなかに天皇も含まれる」としている[ 参院・内閣委( 昭38・3 ・29)]。

 さらに今日「国民主権」は、民主主義の基本原則であり「人類普遍の原則」である,また君主制に対立するものであると解される傾向にある。しかし必ずしもそういえないのではないか。第一イギリスでは主権は国民になく「国王を含む議会」にある。これでは民主主義の母国といわれるイギリスが民主主義でなくなってしまう。一方国民主権を標榜する国家が必ずしも民主主義国でなく 独裁国または全体主義国である現実をみると、決して人類普遍の原則とはいいがたい。つまり国民主権と民主主義とは殆ど関連性がない。実際ノルウェー ベルギーおよびルクセンブルクでは 憲法上「国民主権」が明記されているにもかかわらず「君主国」である。1975年に王政復古したスペインでも.憲法第1 条に『国家の主権はスペイン国民にあり』と規定されているが 第56条に『国王は、国家の元首であり 国の統一と永久不変の象徴であって』と規定されている。

 そもそも『主権』概念はきわめて多義で曖昧なものであり その意味内容は時代により 遭遇する環境によって変化してきた。したがってあまり良いことばといえない。要するに 「国民主権の政治目標が国民の利害を最も優先的に考慮するものであり、それに基づいて政治の善悪の区別がおこなわれることである」とするなら 君主国 共和国を問わず民主主義国家なら当然である。

 国民の総意

 天皇の地位は『日本国民の総意に基く』とある。つまり「天皇の地位の法的根拠が民意にある」ということである。そこでもし天皇の象徴たる地位が日本国民の多数決によって否定されることにでもなれば 天皇はその地位を失う、という学説も現れる。しかしそもそも「総意」とは 実はルソーのいうヴォロンテ・ジェネラールのような合理的理念的意思であろう。つまり天皇が日本国の象徴であることは 日本国民の総意を基礎に確立していること すなわちあくまで天皇の地位の基礎づけを示しているだけで 国民の多数決でその地位が否定されるという意味ではないと思われる。 
 実際 制憲時もそれ以降も「国民の総意」が確かめられたことは一度もない。その手続きがとられたことさえない。結局「国民の総意」とはあくまで実証の伴わない観念である。したがって「国民」とはなにも現時点の国民を指すだけではなく 歴史上の国民をも含み「総体としての日本国民」を意味するのではないだろうか。

 皇位の世襲

 憲法第2 条には『皇位は、世襲制のものであって 国会の議決した皇室典範の定めるところにより これを継承する』とある。またその皇位継承順位は ・皇長子 ・皇長孫 ・その他の皇長子の子孫 ・皇次子およびその子孫 ・その他の皇子孫 ・皇長弟およびその子孫 ・皇伯叔父およびその子孫(皇室典範第2 条)となっている。

 もし国民の多数決によって天皇の地位が否定されうるという解釈が認められるとするならば この継承規定と明らかに矛盾する。これらの学説はこの「世襲」規定が「総意」規定の主旨に反し 民主主義憲法に適さない あくまで現行憲法上の特例であるという。皇位継承についても『皇統に属する男系の男子』( 皇室典範第1 条) に限られるとする規定は,現行憲法の平等主義に反するいう。ところが一方には そもそも皇室員は国民の平等(14 条第1 項)の例外であり 男女平等の原則は適用されない。したがって憲法違反ではないとする学説もある。

 ただこうした規定はわが国にのみ存するものではない。今日の立憲君主国の憲法には多々見い出しうる。ヨーロッパの代表的民主主義国家・福祉国家といわれるベルギーの現行憲法第60条の『国王の憲法上の権能は レオポルド・ジョルジュ・クレティアン・フレデリック・ド・サクス・コブール殿下の直系 実系かつ嫡系の子孫が長子継承の順序により 男系に従って これを世襲し 女子および女系の子孫は 永久に継承の権利を有しない。』という規定は その好例である。

 2.特別な存在としての天皇

 現行憲法における象徴規定は 総意 世襲規定とともに 天皇を「特別な存在」として君主および元首たらしめている。また次のような点においても天皇を一般国民(もちろん首相 内閣構成員 国会議員なども含まれる)から区別し、まったく異なる地位たらしめている。

 天皇には「姓」がない。古来 皇位は一系で受け継がれていることから姓を必要としないというのが最大の理由である。天皇 皇后 太皇太后 皇太后には「陛下」という敬称が与えられ皇太子以下その他の皇族の敬称は「殿下」である( 皇室典範第22条) 。

 天皇の誕生日は国民の休日とされる( 国民の祝日に関する法律第22条) 。 天皇および皇族の身分に関する事項は 皇統譜に登録(皇室典範第26条) され 戸籍法の適用はない。もちろん天皇には住民票はなく住民登録もない。

 天皇 皇太子および皇太孫の成年は18才である( 皇室典範第22条) 。『摂政』という異例をなるべく回避する配慮によるものである。 天皇は「旅券( パスポート) 」を有しない。「元首はパスポートを必要としない」という国際儀礼による。皇族は、そのつど「外交旅券」を取得し 外国旅行される。

 ちなみに皇太子の官職欄は「CROWN PRINCE OF JAPAN 」であり 他の皇族は「MEMBER 0F THE IMPERIAL FAMIRY 」である。 天皇に対する不敬罪は廃止されたが 名誉毀損については内閣総理大臣が告訴権を有する( 刑法第232 条) 。

 皇室の財産授受については国会の議決を必要とする( 憲法第8 条) 皇族が逝去された場合 墓地埋葬法の墓地に関する規定は適用されない。但し皇室典範には皇族の陵墓に関する特別規定がある。

 天皇の法的責任

 立憲君主国では憲法上 君主は国政上はもちろん刑事上の責任も問われないというのが原則である。こうした規定は「君主無問責の原則」と呼ばれ、明治憲法では第3条に『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』と明記されていた。例えば国民主権を憲法に規定しているベルギー憲法では第63条に『国王はこれを侵すことができない。国王の大臣が責任を負う』と定められている。スェーデン憲法第3 条にも『国王の身体は神聖である。国王は その行為について訴追を受けることはない』とある。またデンマーク憲法第13条にも『国王は、自己の行為に対して責任を負わない。その人格は神聖である』と明記されている。

 現行憲法にこのような規定はない。そのかわり第3 条に『天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし 内閣が その責任を負う』とある。この主旨から実質的政治決定を行なった内閣が責任を負うため 天皇は政治責任を負う必要がないとされている。さらに天皇が憲法上「象徴」という特別な地位を与えられていること また天皇が未成年または『精神若しくは身体の不治の重患又は重大な事故により 国事に関する行為をみずからすることができないときは皇室会議の議により,摂政を置く』という皇室典範第16条の摂政規定や『摂政はその在任中訴追されない』( 皇室典範第21条) という規定により 天皇は国政上のみならず刑事上においても責任を問われないとされている。また民事上においても天皇を被告とする訴状は却下されるという判例がある( 最判平成2 ・11・20民集43・10・1160)

 3.基本的人権の制限

 「天皇は一般国民と同様の権利義務の主体である」とする政府解釈[ 参院・内閣委( 昭38・3 ・29)]に立てば 当然天皇も『個人として
尊重され』なければならない(憲法第13条) 。また『思想及び良心の自由』( 憲法第19条) 『信教の自由』( 憲法第20条)『学問の自由』
( 憲法第23条) および『財産権』( 憲法第24条) も保障されねばならない。

 しかしその象徴規定 世襲規定 国政に対する権能の否定規定により天皇は権利義務上多くの制約を負うことになる。一般国民ならば当然保障されるところの基本的人権も著しく制限される。まず『象徴』という立場上 天皇の行為は公的 私的の区別が極めてつけにくい。その行為はほとんど公的であり、私人としての行為は一般国民に比べ極端に制約される参院・内閣委( 昭50・3 ・14)]こととなる。

 まず「参政権」( 憲法第15条) はない。当然「選挙権・被選挙権」も認められていない[ 参院・内閣委( 昭55・3 ・27)]。また天皇は政治的に中立たるべきであるとされ 特定の政党などに加入する「集会結社の自由」( 憲法第21条) もない。事実 天皇は永続的地位を保障されていることにより 私利を計る地位にないため党派的に行動しがちな内閣総理大臣よりも遙かに公平無私であるという。

 「職業選択の自由」( 憲法第22条2 項) もない。『皇統に属する男系の男子』( 皇室典範第1 条) 皇長子は『精神若しくは身体の不治の重患があり 又は重大な事』( 皇室典範第3条) がない限り 生まれながらに天皇とならねばならない宿命を負わされている。また一般市民が「職務」を離れ余暇を楽しむように天皇が「天皇たること」を離れた行為は 現実的に困難である。つまり天皇の地位は単なる「職業」とは言いがたい要素を多分に有している。

 憲法第22条の「居住移転の自由」はおそらくない。例えば東京の真ん中が住みにくいという理由で、勝手な転居は許されないであろう。
もし居住移転が行われるとすると「京」の移動ということなり、多大な政治的社会的影響をもたらすことになりかねない。「外国移住の自由」や「国籍離脱の自由」は現実には考えられない。

 政治に影響を及ぼすような『表現の自由』( 憲法第21条) は当然制限を受ける。たとえ政治に関わるものでなくとも天皇の発言は社会的影響力が大きすぎ したがって全くの自由とはゆかない。また天皇および皇族の『婚姻は両性の合意のみ』( 憲法第21条) で成立しがたい。皇室典範第10条によって皇室会議の議を経る必要がある。天皇に「退位の自由」は認められない[ 参院・内閣委( 昭34・2 ・6)]。史実の示すように 生前の退位は 皇位を政治的 党派的対立に巻き込むおそれがあるからである。

 皇室財産への制約

 皇室の財産は国有財産とされている。また皇室の費用は毎年予算計上し、国会の議決を経なければならない( 憲法第88条) 。皇室に財産を譲り渡し、または皇室が財産を譲り受け、もしくは賜与する場合にも国会議決を必要とする( 憲法第8 条) 。

 なお皇室費には宮内庁が経理する公金としての「宮廷費」 天皇・皇后・皇太子などが私的に使う「内廷費」 その他の皇族が私的に使う「皇族費」がある( 皇経第〜6 条) 。皇族費 内廷費は非課税とされ( 所得税法第9 条1 項12号) 旧御料や皇族の財産なども日本国憲法第88条前段に基づく皇室用国有財産として非課税である。ただ貯金や有価証券の利子所得 配当所得に対する課税は一般国民同様であり 源泉徴収によって納められ 地方税も申告によって支払われる。

 遺産相続についても 今回,天皇の積極的意志により現行憲法下はじめて財産公表が行わた。三種の神器 宮中三殿など6百件は「皇位とともに伝わるべき由緒有る物」として相続税法上非課税扱いにされたが 美術品や皇室に伝えられてきた御物類3千件は国に寄贈された。結局 遺産総額約18億7 千万円が課税対象となり 約4 億3 千万円の相続税が支払われた。

 これらは「天皇も主権者に含まれる」という政府解釈によって憲法第14条の「法の下の平等」に反しないとされている。しかしこれほど天皇の基本的人権が制約され,「国民としての当然の権利」がほとんど行使しえないにもかかわらず 納税「義務」だけは一般国民同様 天皇も果たさねばならないことについて問題がまったく残らないわけでない。天皇が「象徴」の地位にあり,「特別な地位」にある点を考慮するなら,課税面についても今後更に検討を要するように思われる。

 U.国事行為の内容と実際

  現行憲法第4条には『天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行い,国政に関する権能を有しない』とある。つまり天皇の 行為は、形式的・儀礼的なものに限られるということである。しかしたとえ形式的,儀礼的であれ「正統性」や「権威」の観点から, 実際には天皇の行為に「政治的意味」や「政治的影響力」がまったく見出しえないわけではない。むしろ相当見出しうるといえよう。 そもそも憲法典それ自体が「政治法」といわれ,「政治文書」といわれるように 憲法典に規定されている以上 不可避的に天皇は 「政治的存在」とならざるをえない。さらに現代の政治・社会的要請や国際交流の増大は 天皇の「国事行為」をいよいよ重要なものたらしめてる。かくして 現行憲法下の天皇の「国事行為」は単なる象徴的行為 形式や儀礼としてのみ片付けられない側面をもっている。

1.国事行為とその政治的意味

 憲法第6,7条にはつぎのような国事行為が列挙されている。
 憲法改正・法律・政令および条約の公布(憲法第7 条1 項1 号
 国会の召集( 憲法第7 条2 号)
 衆議院の解散( 憲法第7 条3 号)
 国会議員の総選挙施行の公示( 憲法第7 条4 項)
 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状の認証( 憲法第7 条5 号)
 恩赦 特赦 減刑 刑の執行の免除及び復権の認証( 憲法第7 条6 号)
 栄典の授与( 憲法第7 条7 号)
 批准書及び法律の定めるその他の外交文書の認証( 憲法第7 条8 号)
 外国の大使及び公使の接受( 憲法第7 条9 号)
 儀式の挙行( 憲法第7 条10号)
 国会の指名に基く 内閣総理大臣の任命(憲法6 条1 項)
 内閣の指名に基く 最高裁判所の長たる裁判官の任命( 憲法第6 条2 項)

 これらの12の行為は「助言と承認」という形式において事実上内閣 が意思を決定する。したがって天皇が自発的に「国政」に関与する余地 はないとみられる。しかし国語辞典によれば『国事( 英文には matters of state とある) 』とは 「国家に関する事柄。一国の政治に関する 事項」となっている。「国事に奔走する」という言い方からもわかる 通り『国政( 英文ではpowers related to government) 』と区別するこ とは事実上困難である。そこで一般には憲法第6 7条に列挙された 国事行為の諸規定から帰納し,その性質が説かれている。

 内閣総理大臣や最高裁判所長官の任命は君主の最重要の任務のひとつ であり 特に内閣総理「大臣」の任命は、歴史も示すように 形式的で あれ相当の政治的重要性を有しているといえよう。なぜなら天皇による 任命は 政権の「正統性の証」でもあるからである。わが国は古来 「立憲君主制(天皇不親政)」を伝統としている。かくて政治権力者 がいかに大きな権力を持っていようと 天皇から「おおおみ( 大臣) 」 またはそれ相応の公的証明を受けなければ 国民から政権担当者たる 認知や支持が充分得られなかった。

 例えば天皇の権能が最も微弱で あった幕府時代においてさえ 将軍がその地位に就き 政権を獲得し 維持するためには 勅旨による征夷大将軍の「宣下( せんげ)」を 受けねばならなかった。系図上天皇と繋がらず幕府を開くことのでき なかった豊臣秀吉でさえ関白太政「大臣」の地位を必要とした。

 国会に対する国事行為に『国会の召集』『衆議院の解散』および 『国会議員の総選挙施行の公示』がある。天皇によりそれぞれ詔書が 発せられる。その政治的意味の重大性のゆえにしばしば憲法解釈上 問題となりがちである。国会の召集や衆議院解散の規定は明治憲法にも 見出しうる。特に解散は 議員の身分を任期満了前に失わせるこ とであり 儀式的行為とはいえ現実の生々しい国政に関わる行為である。

 『憲法改正,法律,政令および条約の公布』『国務大臣などの任免 ならびに全権委任状および大使・公使の信任状の認証』『大赦,特赦, 減刑,刑の執行の免除および復権の認証』なども政治的行為でないと 断定しえない。例えば憲法改正 法律 政令および条約の公布は 天皇が それらの成立を国民に告知することであり 法律等の効力発生の要件と いうことができる。たとえ形式的であっても明らかに国政に関わる行為で ある。

 『批准書および法律の定めるその他の外交文書を認証』することも 同様である。批准とは 条約締結権者が条約締結の効力を確定する行為 である。その他の外交文書の認証とは大使 公使の解任状 領事官の 信任状などが正当な手続きによって有効に成立していることを証明する 行為であり 文書に「権威」を与えるものである。その及ぼす政治的効果 は少なくない。

 また大赦,特赦,減刑,刑の執行の免除および復権の認証。これらは 一般に「恩赦」と呼ばれるもので,伝統的に叙位叙勲とともに君主の 慈愛,栄誉,権威の表象とされ,明治憲法下でも「天皇大権」として 扱われた。皇室または国家の慶弔に際して実施されるところの君主の 特権的任務である。現行憲法下においては内閣の助言と承認が必要と なったが,認証は内閣決定を「権威化」する伝統的、歴史的意義を有 している。実際,「恩赦法」に基づき伝統や先例が維持,尊重されて いる。

 『栄典の授与』『外国の大使・公使の接受』『儀式の施行』なども ,それが政治や権威と関わり、単なる栄誉・儀礼的行為として片付け られない。例えば栄典の授与は「国民の権利義務」に関わる事柄でも ある。実際,政令によって紫綬褒章,黄綬褒章を追加した時,違憲論 が惹起した。また外国の大使・公使の接受も大使・公使の信任状の 認証と対になっている。正本は天皇に奉呈され,副本は内閣に提出さ れる。これは天皇が元首として扱われていることを意味し 特に対外 関係において重要な政治的効果,意義を有するといわざるをえない。

 また儀式を行うことが規定されているが この「儀式」とは 天皇が 主体となって行う国家的儀式のみを指し、他の機関の行うものに天皇 が出席するものは含まれないとするのが一般的解釈である。現行憲法 下では毎年の「新年祝賀の儀」「憲法施行記念式典」など 年によって 違いはあるが年間に行われる国事行為やそれに関連する儀式は1千件 を超えるという。また閣議決定によって国事行為にされた特別な儀式 には、最近には「大葬の礼」「即位の礼」「大嘗祭」などがある。 特に大葬の礼や即位の礼では史上最大の「元首外交」が展開された。

  さらに現行憲法第3条には『天皇の国事に関するすべての行為には、 内閣の助言と承認を必要とし,内閣が,その責任を負う』とあり, 第73条には『法律及び政令には,すべて主任の国務大臣が署名し, 内閣総理大臣が連署することを必要とする』とある。明治憲法にも 『国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス,凡テ法律勅令其ノ他国 務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス』と定められ,天皇は国務に おける大臣の「輔弼と副署」を必要とした。この明治憲法の「輔弼」 と現行憲法の「助言」は,意味や目的において全く異なるとする学説 もあるが,両者とも英語ではadviceであり,実際の行為においても 大差ない。いずれの内閣も実質的な決定を行ない,一切の責任をと るという点において相違ない。

2.「公的行為」とその政治的意味

 天皇の行為にも明らかに私的であると思われる行為がある。例えば 避暑、海洋生物採集・研究,私的な小旅行,音楽,またテニス,スキー など各種スポーツがそれである。しかし国事行為として憲法上明記 されてはいないが,その他の公的性格を有する行為がある。 例えば,外国元首との親書親電交換、外国公式訪問、外国の国家儀式 への参列、国会開会式への出席とおことばの朗読,国民体育大会開会式 ,日本学士院賞授賞式,日本芸術院賞授賞式,日本戦没者追悼式, また植樹祭や日本において開催されるオリンピック大会や万国博覧会等 への出席,おことばの朗読、園遊会や正月の一般参賀、国内巡幸、謁見 、内奏、歌会始,講書始。

 政府およびほとんどの学者は、これらの行為を 「国事行為に準ずるもの」もしくは「公的行為」として認めている。 国民もおおむね容認しているようである。学説の中にはこれらの公的 行為を現行憲法上の国事行為からの逸脱とみるものもある。しかし その学説とて公的行為一切を憲法違反としていない。しかしゆきすぎた 天皇の政治利用は 史実も示す通り大きな弊害を生みやすい,公的行為 は慎重に扱われねばならない事項でもあろう。 「外国元首との親書親電交換」は,憲法第7条と密接に関連しており 多分に儀礼的なものである。各国の建国記念日や国王・女王の誕生日 などの祝電,または大災害や大事故などの見舞い電報を「元首宛」に 送っている。一方天皇誕生日には社会主義国,民主主義国を問わず 祝電が寄せられている。親書親電交換は元首対元首としての交際として ,天皇の必要不可欠な任務であるといえよう。特に相手国が君主国の 場合は言うまでもない。

 「外国への公式訪問」は極めて政治的意味がある。天皇の「スーパー ・セールスマン」ぶりについては周知のことであるが,天皇の外国訪問 は「百人の大使に匹敵する」といわれる程,政治効果をもっている。 昭和天皇の昭和46年のヨーロッパ訪問,昭和50年のアメリカ訪問は, 友好親善において大きな政治的役割を演じた。もちろん天皇は訪問国 において元首として遇され、元首に対する礼砲数「21発」で歓迎され た。各国の新聞は天皇を“Emperor of Japan”として報道した。 ちなみに目下中国や韓国訪問がなかなか実現しえないのは 天皇の 外国訪問が政治に密接に関連している何よりの証拠といえよう。  「外国の国家儀式への参列」は,昭和28年にイギリス王室から エリザベス女王の戴冠式に招待を受け,当時の皇太子が「天皇の名代」 として出席したのが戦後最初のケースである。これが国事行為の 「儀式を行う」に該当するかどうかをめぐって問題になったが,天皇 が主体となって行う儀式ではないという政府見解により,これは国 事行為とならなかった。しかしもちろん皇太子は単なる私的行為と してでなく,日本国を事実上「代表」して参列したことに相違ない。

 昭和天皇の大葬の礼に際し,163 ヵ国,27国際機関が来日した。 参列者は「元首級」「首相級」「閣僚級」に分けられ,元首級参列者 は史上最高の55人にも達した。 しかし実際には「天皇主催の晩餐会」のように天皇が主体となり海外 の賓客接待が行われるものもある。またその席上読みあげられる 「おことば」は 事実上政府がその原稿をつくるのであるが,極めて 強い政治的影響力をもっている。例えば昭和59年9月,全斗煥韓国 大統領が来日した際,天皇主催のもとに行われた晩餐会席上,天皇の 「おことば」に戦争の謝罪が含まれるかどうかについて,韓国を はじめ世界各国の耳目が集中したことは,まだ記憶に新しい。 かくて昭和天皇が迎えた外国賓客中,元首,皇族だけでも延べ2百か国 に達した。天皇が国際交流に果たす役割は大きい。

 「国会開会式に出席」し,「おことば」を述べることについては, 国事行為の「国会の召集」と密接に関連していることから,違憲説は あまり出ていない。また「おことば」を違憲とする学説の中にも 「現在の国民の憲法意識に反するよう」であるということで, 「憲法の習律」として例外的に認めようというものもある。 この開会式では天皇ははっきり「君主」として遇されている。その 象徴的な事例が昭和60年にあった。 国会開会式に際し,福永衆議院議長は病気あがりで天皇を無事に 「玉座」にお迎えできないという理由で辞任した。 真相は,背景に与党内の派閥争いがあった。また今日「全国植樹祭や 国体などの各種行事」が頻繁に催され,天皇や皇族が出席されること が多い。これは,政府や他の公共団体が天皇の臨席によってその行事 に「権威づけ」をはかっているものと思われる。これらは天皇を 「日本国」および「日本国民統合」の体現者として「積極的に」活用 する好例である。これらは天皇の単なる私的行為とはいいがたい。

 毎年,春,秋に開かれる「園遊会」は各省庁からの推薦による各界 功労者約2千名を赤坂御苑に招待,その労をねぎらうものである。 それによって招待者が光栄を浴するわけである。「栄典の授与」と ともに、功績に対する報奨,また今後への奨励として国家的に重要な 行事であるかもしれない。 「正月の一般参賀」は日本の伝統および文化の体現者であり, 「象徴的君主」だからこそ行いうる行事であり,内閣総理大臣を はじめ一般国民には到底真似のできない行事である。これらも 「祖国へのアイデンティティー」を醸成する意味において無視しえない 「国政」上の行事でなかろうか。

 特筆すべきは「天皇の国内巡幸」である。このもつ政治的意味は 大きい。例えば伊豆大島大噴火後昭和62年6 月,昭和天皇自らの希望 により行われた行幸は,事実上の噴火終息宣言,安全宣言の心理的 効果を国民にもたらし,被災地住民の歓迎を受けたようである。 平成3年春の雲仙普賢岳の噴火でも天皇はいち早く現地を見舞われた。 関係大臣は遅れをとり被災民をはじめ国民の叱責を浴びた。 「謁見」は外国貴顕などが元首または君主としての天皇と面会すること であり,外国貴人は意外にもこれを切望するという。したがって その政治的効果には無視しえないものがある。

 「内奏」は,天皇の国事行為の助言と承認を行う内閣の閣僚が, 国事行為について天皇に口頭で説明することである。天皇が認証や栄典 の授与などの国事行為を行うにあたり,叙勲者について閣僚が説明する ことも一例である。また閣僚が国事行為に関連して参内した際, 所管事項一般について天皇に説明することもある。その他「拝謁」と 称して例えば海外出張の前後に首相や閣僚が、国会終了後には衆参両議院 議長が,選挙終了後には自治大臣が、年末には都知事や警視総監が, 年始には自衛隊関係者が,重大事件が起こった場合には所轄大臣が, 天皇に報告を行なっている

 新年行事の「歌会始」は,平安時代から宮中に続く,国民ともっと も結びつきのある行事である。その年のお題は前年の歌会始当日に 発表され,詠進歌は一般の応募作の中から決められる。 「講書始」は,学術奨励のために行われ,毎年一月上旬,天皇皇后両 陛下をはじめ各皇族方が人文,社会,自然科学などの専門分野の学者, 研究者のご進講をお聴きになる。

3.天皇の公務量

 国事行為とその関連儀式が年間1千件を越えることは先に述べた通り であるが この他に催される儀式,行事,ご会食,茶会,拝謁なども 年間約2百回に及ぶという。 これらの行為は今日の政治・社会的事情や外交的必要上不可避的に 生じ,増加しつつある。ちなみに昭和61年を例( 国事行為と公的行為) にとると 決済書1253件,国賓5 件 公賓3 件,外国王室の歓迎4 件 非公式に来日した首相・外相との会見9 件 大使の捧呈式28件 離任大使 のお別れ20件 在日大使との昼食8 件 進講49回 内閣の親任式1 回 お出かけも国会開会式2 回 春と秋の園遊会 植樹祭 秋季国体 戦没者 追悼式・・・・と天皇の公務は今日,相当激務であるといえよう。

また天皇が『日本国の象徴』であることは 天皇が「日本国の歴史 伝統,文化を体現する者」であることを意味する。例えば大葬の礼 ・即位の礼・大嘗祭の一連の儀式において明らかなように 天皇と神道 との関連は緊密であり 皇室には「神事を先にし 他事を後にす」 ( 禁秘御抄) という祭事尊重の伝統がある。 つまり祭主たることが天皇の第一義とされ,これは今も変わってい ない。

 制憲国会の代表演説において共産党の野坂参三議長が「天皇は 国民の間に半宗教・・・半分宗教的な役割を演じてきた」と述べた ことがあったが このことばはあながち外れていない。かくて皇室祭事 は宮中三殿( 天祖天照大神を奉祀し神鏡を神体とする賢所・神武天皇 以来の歴代天皇 追尊天皇 歴代皇后 皇妃 皇親を祀る皇霊殿・天神地祇 八百万神を祭神とする神殿) のすべてもしくはそのいずれかにおいて 行われ 祭事は歴代天皇の式年祭などを含めると年間50数回に及ぶと いう。もっとも現行憲法に政教分離原則が定められて( 憲法第20, 89 条) 以来 皇室祭事は建前上天皇の私事とされている。 久保憲一


210−2.天皇は元首かの反論と再反論
<Re: 国際戦略コラムno.203>
 まず最初に、私は憲法学の専門ではなく、また、君主の比較文化を専門に研究した者ではないことをあらかじめ断っておく。 くしくも先日の本コラムに数学的論証思考の重要性が出ていたこともあり、著者が本論文に引用した事例を用いて論文の批評と言う形 で当コラムに投稿させていただく。
 東京都 門田 ------------

 本論文は全ての国家に元首がいると言うことを前提にしており、元首がいない国の日本という論理の可能性が閉ざされた状態で議論が進め られている。 日本に国家元首はいるのかという問いに対して、著者は天皇が諸外国における国家元首と相当の役割をしていることは証明しているが、 だからといって天皇=国家元首という式を解いてはいない。 天皇は我が国独自の歴史と伝統の文化の中から生まれてきた存在であって、キングでもカイザーでもない、天皇である。欧州文明諸国の 「君主」とそれに連なる枠の中にあてはめ、その中で天皇の地位と存在理由を解釈しようとするのは、はたして妥当な手段であろうか。 天皇が日本の文化と歴史と伝統の「体現者」であるならば、本文が末尾に言及した神道と神事こそが天皇を天皇たらしめるものであって 、政教分離した天皇など、はたして天皇といえるのか。政教分離せねば違憲である。しかし、違憲であれば「君主」とは言えなくなる。 この部分の説明が「皇室祭事は建前上天皇の私事とされている」とだけで片づけられている。 また、著者は天皇の行為に対する大日本帝国憲法下の表現と現憲法下の表現の違いについて事例を上げた際、例えば「輔弼」と現行憲法の 「助言」を「実際の行為においても大差ない」と論じているが、ここでは、あえて別の言葉を用いている現実の背景が考慮されていな いばかりか、英語にすれば同一の単語になるなどというのはあまりにも乱暴な理屈ではあるまいか。どの国の言葉にもその単語だけでは 表現できない「言葉」としての意味があるのである。 天皇が日本において欧州諸国の「君主」に相当する役割を負っていたのは明治以前からであることは本論文に掲げられている事例で説明 できる。また、井伊直弼が朝廷に知らせず米国との通商条約に調印した際に「違勅」ではないかと問われたことからも(『江戸の大名 人物 列伝』竜門冬二 監修 東京書籍)、著者の主張を後押しすることが出来よう。しかし、明確にその地位が元首であると規定していた大日本帝国 憲法の後継憲法である日本国憲法においてその地位が明確に規定されなければ、その地位は「元首のようなもの」「元首のような事をする立場」 にしかならず、著者が本文に掲げた多くの事例から、日本という国が国際慣習上、元首としての役割を託している人物が天皇であると解が 導かれはしまいか。 「実際の市民生活や外交上には通用しない」と学会の議論の曖昧さを指摘していながらも、著者自身の結論づけが曖昧の螺旋の中にあると しか思えない。 本文に掲げられた数々の事例から、いかに天皇が各国の国家元首のように行動しており、また天皇制がそれに寄与しているかということ は理解できよう。しかしこれだけでは天皇イコール元首という等式を求めてはおらず、何故天皇が「元首」なのか最後まで説明されていない のが残念である。 ================================ (久保教授からの反論) <Re: 国際戦略コラムno.203> >まず最初に、私は憲法学の専門ではなく、また、君主の比較文化を専門に研究した者ではないことをあらかじめ断っておく。 > >くしくも先日の本コラムに数学的論証思考の重要性が出ていたこともあり、著者が本>論文に引用した事例を用いて論文の批評と言う >形で当コラムに投稿させていただく。
 東京都 門田 >------------

> >本論文は全ての国家に元首がいると言うことを前提にしており、元首がいない国の日本という論理の可能性が閉ざされた状態で議論が進められている。 ○元首とは国家最高位の対外関係における代表者である。国家の「顔」となる人物である。総理大臣ではない、外務大臣でもない。ちなみに 彼らはあくまで君主の「臣(おみ)」にすぎない。もちろん大使でもない。かれらを任命するのは、他でもない君主の「天皇」である。 天皇は外交文書も「認証」されている。 現行憲法上、天皇が元首だとは明記されていない。しかし、現実には天皇が「元首」機能を果たしている。憲法第一条の国事行為を果たす ことで、天皇は事実上、明治憲法同様、国事を「総攬」されている。 現在でも所轄大臣等は外国訪問する前後、また国家的な行事に際しては普通、天皇陛下にご挨拶・報告に宮中参内する「しきたり」である。  

 小渕元総理の葬儀には、たとえ諸外国の首相機能を果たす大統領は訪れたとしても、決して君主制国の国家元首は訪れていない。外交上 の「格」の相違である。

>日本に国家元首はいるのかという問いに対して、著者は天皇が諸外国における国家元首と相当の役割をしていることは証明しているが、だからといって天皇=国家元首という式を解いてはいない。

 ○あなたは成文憲法至上主義ですね。君主国の代表的な国・イギリスは「慣習法」の国である。結論から言えば、日本は「成文法」と「慣習法」併用の国です。 事実、例えば、昭和天皇の大嘗祭や大喪の礼は「慣習法」に則り、現行憲法から導かれていない。また「人命は地球よりも重し」といい超憲法典的処置をとる国です。 このことについては改めて別稿で書きましょう?

>天皇は我が国独自の歴史と伝統の文化の中から生まれてきた存在であって、キングでもカイザーでもない、天皇である。欧州文明諸国の「君主」とそれに連なる枠の中にあてはめ、その中で天皇の地位>と存在理由を解釈しようとするのは、はたして妥当な手段であろうか。

 ○それは、ある意味で実に正しい。ヨーロッパの諸君主は国民と民族的に一致しない場合が多い。たとえばイギリスのエリザベス女王の直接のルーツはハノーバー家出身のドイツ人である。日本のように 天皇と国民は同一民族で「君臣一如」ではない。ヨーロッパ君主国の場合、君主と国民はあくまで「支配者対被支配者」という関係である。また君主制の最長不倒を誇っているのは日本で ある。外国君主の歴史とは比較にならない歴史をもっています。一度、西洋の「ものさし」で見るのではなく、日本の天皇制を君主制をものさし(基準)にして、諸外国の君主制を測ってみることをおすす めします。

>天皇が日本の文化と歴史と伝統の「体現者」であるならば、本文が末尾に言及した神道と神事こそが天皇を天皇たらしめるものであって、政教分離した天皇など、はたして天皇といえるのか。政教分離 >せねば違憲である。しかし、違憲であれば「君主」とは言えなくなる。この部分の説明が「皇室祭事は建前上天皇の私事とされている」とだけで片づけられている。

 ○それも、ある意味で実に正しい。政教分離した天皇など、はたして天皇といえるのかと言われれば、たしかに「本来の」天皇ではない。 成文憲法上または「建前上」は「政教分離」しなければならない。しかし事実上はまったく「政教分離」していない。それは諸外国も似たようなものである。あくまで、現行憲法の「建前上」のごまかし にすぎない。アメリカ大統領も、イギリス国王も聖職者の前で、バイブルに手を置き、就任の宣誓を行う。イギリスやアメリカは日本以上に政教分離していない。稿を改めてまた。 しかし「違憲であれば「君主」とは言えなくなる」という貴方の仰る意味はわからない。 >また、著者は天皇の行為に対する大日本帝国憲法下の表現と現憲法下の表現の違いについて事例を上げた際、例えば「輔弼」と現行憲法の「助言」を「実際の行為においても大差ない」と論じているが、ここでは、あえて別の言葉を用いている現実の背景が考慮されていないばかりか、英語にすれば同一の単語になるなどというのはあまり >にも乱暴な理屈ではあるまいか。どの国の言葉にもその単語だけでは表現できない「言葉」としての意味があるのである。

 ○たしかに英語原文の「助言(advice)」は、目上の者が目下の者に「アドバイスする」ことである。「輔弼(advice)」と言えば 「アドバイスしてさしあげる」ことである。どちらもadviceである。へんなところに拘られますね。
 >天皇が日本において欧州諸国の「君主」に相当する役割を負っていたのは明治以前からであることは本論文に掲げられている事例で説明 できる。また、井伊直弼が朝廷に知らせず米国との通商条約に調印した>際に「違勅」ではないかと問われたことからも(『江戸の大名人物列伝』>竜門冬二 監修 東京書籍)、著者の主張を後押しすることが出来よう。 しかし、明確にその地位が元首であると規定していた大日本帝国憲法の>後継憲法である日本国憲法においてその地位が明確に規定されなければ、その地位は「元首のようなもの」「元首のような事をする立場」にしかならず、著者が本文に掲げた多くの事例から、日本という国が、国際慣習上、元首としての役割を託している人物が天皇であると解が>導かれはしまいか。

 ○そうです。「国際慣習上」、天皇は元首として扱われているのです。 現実に、諸外国を訪問した時の天皇と総理大臣の処遇の差を見比べられ たらよい。日本のマスコミは天皇の外国訪問を極力報じたがらないが、 礼砲の数を見ればよい。歓迎する人々の数を見比べればよい。総理大臣 とは全く比べものにならない。また「天皇の外国訪問は百人の大使に 匹敵する」と言われている。 宇野総理や海部総理のことは外国では誰も知らなかったが、天皇陛下に ついては誰もが知っていた。 日本の長い歴史の中で、欧米列強のアジア侵略に抗し、ごくごく一時期 、大日本帝国憲法(わたしはこの憲法を「鹿鳴館憲法」と呼んでいます が)上、天皇が「元首」と明記されたにすぎない。「実際の市民生活や外交上には通用しない」と学会の議論の曖昧さを >指摘していながらも、著者自身の結論づけが曖昧の螺旋の中にあると >しか思えない。

  ○これは論文ではない。あくまで教科書である。共著の「教科書」と いう性質上、仕方がない。  むしろ「現行憲法の不完全」「矛盾」をよく理解していただきたい。 現行憲法は五十年以上も経過しているのに、また国際化がこれほど進ん でいるのに、憲法第一条をはじめとして、一条一句も訂正しないで放っ たらかしにしている政治家、憲法学者、マスコミの方がおかしい。  いわゆる現行憲法(わたしはこの憲法を「始末書憲法」と呼んでいま すが)を、「不磨の大典」化し、後生大事にしている「護憲論者」は、 現行憲法の「軽視論者」であると、私は見ています。 ちなみに、私の「論文」でははっきり「天皇は元首である」と「主張」 、「明記」している。 >本文に掲げられた数々の事例から、いかに天皇が各国の国家元首のよう >に行動しており、また天皇制がそれに寄与しているかということは理解 >できよう。しかしこれだけでは天皇イコール元首という等式を求めて >はおらず、何故天皇が「元首」なのか最後まで説明されていないのが >残念である。

 ○同上である。 あなたはあくまで「成文化」「明記」されていないと気の済まない 「現代風?」の方なのですね。または憲法典を「契約書」としてしか 見ることのできない「アメリカ風」かもしれませんね。決してあなたは ヨーロッパ風でも、ましてや「日本風」でもありません。

  ○ついでです。 「Constitution」と「Constitutional law」とは違うのですよ。 我が国では区別なく、両方とも「憲法」と訳されていますがね。それ ではまた

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久保憲一 電子メール アドレス : mizunoya@mx3.mesh.ne.jp 久保関連URL 水廼舎の日本学 (詳細は、JOG Town 掲示板で)  http://www.simcommunity.com/sc/jog/mizuya 日本世論の会三重県支部 http://www.ztv.ne.jp/mizuya/yoron-index.htm 水屋神社 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mizunoya/ 国際戦略コラム(久保教授コーナ) http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index.htm 長尾誠夫のHOTPAGE   -三重県の教育問題- http://homepage1.nifty.com/1010/index.htm 九九九のホームページ http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20000326.html http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20000328.html
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【3・象徴天皇制の制度的運用の実態】
 戦後憲法は、「象徴天皇制」を生み出したが、昭和天皇のその後の政治関与を窺うと、奥の院に潜っただけで実は「内奏、奏上形式」でそれなりに関与していた形跡が認められる。首相及び閣僚からの答申は内奏と云われ、衆参両院議長のそれは奏上と云われる。

 しかしながら、逆から見れば、戦前並みの露骨な容喙は出来ていないとも云える。してみれば公平に見て、「象徴天皇制」は、「天皇の政局関与に対するブレーキ役」ぐらいは果たしていることになるのではなかろうか。

 問題は、「象徴天皇制」の意味をもっと深く内実化させる為にも、天皇の国事行為規定を大幅に減らす方向に向うべきだろう。その方向に向わずに天皇の政治関与を強化しようとするのは反動化であろう。れんだいこはそう思う。

 2005.10.6日 れんだいこ拝





(私論.私見)